2019年08月12日

ウィーン・モダン展 その5

そしてエゴン・シーレ。
なぜかフルネームで呼ばれることが多い画家。

28歳で夭折したエゴン・シーレは1890年生まれで1918年に没。ちなみに彼の師匠的立場だったクリムトは1862年生まれで28歳年上。亡くなったのは同じく1918年。

独自の画風を確立したということではクリムトと双璧。そしてどちらもエロスをテーマに多くの作品を描いた。しかし師匠と弟子で方向性はまったく違う。クリムトがエクスタシーを感じさせる美しさがあるのに対して、エゴン・シーレはひたすら陰キャで閉鎖感のある画風。そしてどこか攻撃的というかトゲトゲしい。

それと関係あるのかどうか、彼の性格はサイコパスというか中二病というかやっかいなタイプ。また女性に対してはまったくのゲス野郎。4歳年下の妹とデキていたし、同棲して内助の功があった恋人を捨てて金持ちの娘と結婚した。しかも恋人には結婚後も定期的に付き合おうと提案。おまけに嫁の姉とも肉体関係が続いた(>_<)


なお、この展覧会では「当たり障りのない」作品が多かったと思う。もっとエゴン・シーレの毒に当たって暗〜い気分になりたかったのに。



「自画像」 1911年
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この展覧会で唯一の「The エゴン・シーレ」的な作品。陰キャ全開で重苦しい。なぜか彼は指を長く直線的に描くことが多い。



師匠はクリムトだったが心酔していたのはゴッホだったようで、次の2つはその影響ありあり。ゴッホのひまわりもどこか暗い影があるが、エゴン・シーレのそれは生命力を否定するレベル。

「ひまわり」 1909-10年
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「ノイレングバッハの画家の部屋」 1911年
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単なる肖像画ではなく目に見えない何かを「強調した」描き方。こういうのを表現主義というらしい。目に見えるものだけを描いた印象主義との対立概念。エゴン・シーレは表現主義の代表的画家。もっとも1画家=1画風ではないので、彼もいろいろな絵を描いている。

ところで目に見えない何が強調されているのかわからないのだけれど(^^ゞ、アルトゥール・レスラーはカッコイイね。

「美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像」 1910年
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「イーダ・レスラーの肖像」 1912年
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「オットー・ヴァーグナーの肖像」 1910年
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痛々しく陰鬱なエロティシズムがエゴン・シーレの醍醐味だと思っているので、そういう油絵作品がなかったのが残念。素描でその匂いを少しは感じられるものを2点紹介しておく。

「男性裸像」 1912年
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「模様のある布をまとい背を向けた裸体」 1911年
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エゴン・シーレ濃度の高い作品はなかったけれど、それでもダークな気分になってきたかな。口直しに、彼はポストカード用にこんなファッショナブルな絵も描いている。

「女の肖像 ウィーン工房ポストカードNo.289」 1910年
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最初のエントリーに書いたように、この展覧会は絵画展というより19世紀末を中心としたウィーン文化展。展示数は約400点で一般の展覧会の2倍。とても見応えがあった。ウィーン・ミュージアムが2023年まで閉鎖中にオーストリア系の展覧会が増えるといいな。


おしまい





wassho at 12:31|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月11日

ウィーン・モダン展 その4

先月のクリムト展で、クリムト以外のウィーン画家の絵をいろいろ楽しめた。
今回はハンス・マカルトをよく知ることができたのが最大の収穫。
それ以外で一番目だっていたのはこれかな。


「黄色いドレスの女性(画家の妻)」 マクシミリアン・クルツヴァイル 1899年
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ポーズが斬新というかナゾというか。無表情な顔が印象的で、この絵の前に立つとなんとなく叱られているような気分にもなってくる(^^ゞ それにしてもウエストが細いね。ただし、いい絵なんだけれど実物は肌の色がやたら白くて、とても厚化粧に見えて少し違和感があった。おそらく絵の具も厚く塗られている。

それでもこの絵はインパクトがあって目に焼き付く。それはおそらく黄色いドレスの色が強烈だからーーーと思い、夏休みの自由研究ということでドレスを地味な色にしてみた。
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意外とインパクトは変わらないね。
女性の表情やポーズに存在感があるということか。

ところで画像ソフトをいじっていると、普通に絵を眺めているだけでは見過ごすようなことに気づく。それはスカートの形。生地をソファに広げているけれど、この生地の分量が多すぎない? この広がりはおそらく絵としての創作で、この分量でスカートのデザインは成り立たないと思うけれど。誰か自由研究で裁縫してみて。



そのほかの画家アレコレ。
印象派系統の画風で、どことなく優しい感じがするのが、
この頃のウイーン絵画の特徴かな。


「コーヒー工場にて」 1900年 カール・モル
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「朝食をとる母と子」 1903年 カール・モル
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「画家の子供たち(レシとハンス) 1902年 フランツ・フォン・マッチュ
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「ゾフィーエンザールの特別席」 1903年 ヨーゼフ・エンゲルハルト
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ーーー続く




wassho at 09:21|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月09日

ウィーン・モダン展 その3

さてクリムト。

彼のことは先月の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」でたくさん書いたので、今回はあっさりと。まあ私の好みのクリムト作品がなかったせいもある。

なおヌードを中心に素描が50点近く展示されていた。いつも思うのだけれど素描を熱心に眺めている人って、よほど絵心があるのかなあ。ごく普通レベルの美術好きの私には、素描を見ても大して楽しくなくチラ見するだけなんだけれど。


次の2つは1883年〜84年の制作だから、まだクリムトが駆け出しの頃。
これらは『アレゴリーとエンブレム』という図案集(書籍)のために描かれたもの。

「寓話 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75a」 1883年
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「牧歌 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75)」 1884年
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1888年はクリムトが27歳前後。
後のクリムトからは想像できないオーソドックスな画風である。

「旧ブルク劇場の観客席」 1888年
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開演前の雰囲気がよく表現されていて、一目見ただけでクリムトの力量が伝わってくる。こういう作品でハンス・マカルトの後継者ともくされたのだろうか。

ところで、これは取り壊される劇場の記録としてウィーン市議会から依頼されたもの。だから主役は劇場なのだけれど、クリムトは観客を肖像画レベルに緻密に描き込んでいる。ほとんどが実在したウィーンの名士の面々で、その数100人以上。中には後にクリムトのパトロンになった人もいたらしいから、営業チャンスとばかりとして精を出したのかも(^^ゞ

一部を拡大して。
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こちらも図案集のための原画。
先の図案集の画風と較べてみると、あれから10年経ってクリムトがオリジナリティを確立したことがわかる。だんだんと世紀末の雰囲気が濃くなってイイ感じ。

「愛 『アレゴリー:新連作』のための原画No.46」 1895年
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「彫刻 『アレゴリー:新連作』のための原画No.58」 1896年
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「悲劇 『アレゴリー:新連作』のための原画No.66」 1897年
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「パラス・アテナ」 1898年
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クリムトは、1897年に保守派のウィーン造形芸術家協会と袂を分かってウィーン分離派を結成。翌1898年に分離派会館が開設。これは分離派会館で開かれた最初の展覧会に出展された作品。彼が1番尖っていた時期かな。

パラス・アテナはギリシャ神話の女神で、知恵、芸術、工芸などを司る。戦争とは関係ないのに、なぜかゼウスの頭頂部から武装して鎧をまとって出現したとされている。

この絵では槍?をもって戦闘意欲が満々。保守的な画壇との対決姿勢を示しているのだろう。でも黄金を多用したからギリシャ神話じゃなくインカ帝国の女神に見える(^^ゞ

ちなみに一般的なパラス・アテナの描き方はこんな感じ



「エミーリエ・フレーゲの肖像」 1902年
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クリムトの代表作のひとつとされ、この展覧会の目玉作品でもある。
でもなぜか私にはあまり響かず。クリムトに期待しているきらびやかさがないからかなあ。

なお、この作品のみ写真撮影が認められていた。
SNSによる拡散〜集客効果は無視できず、美術館は試行錯誤中なのだろう。
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ーーー続く





wassho at 08:53|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月07日

ウィーン・モダン展 その2

まずはモダニズムも世紀末も関係ないクラシックな作品からスタートする。展覧会で最初に出迎えてくれるのは、18世紀中頃に描かれたマリア・テレジアの肖像画。サイズも縦2メーター以上ありその威厳に圧倒される。


「マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)」 1744年 マルティン・ファン・メイテンス
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マリア・テレジアは650年続いた名門ハプスブルグ家の当主であり、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあったまさにヨーロッパの女帝。その生涯もドラマチックで、もしヨーロッパに大河ドラマがあれば何度も取り上げられているはずの人物。

参考までに緑色に塗られているのが1574年当時のハプスブルグ家の領土。この頃が最盛期。なおマリア・テレジアは1717年-1780年。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは彼女の娘。
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ちなみに信長(1534年-1582年)は宣教師を通じてヨーロッパの情勢を得ていたといわれる。ハプスブルグ家のことも知っていたのかな。ひょっとしたらこんな地図に触発されて、日本統一の後はアジアへの野望をたぎらせていたりして。

もっともかつてはヨーロッパの半分を支配したハプスブルグ家=オーストリアであるが、今はあまり存在感のある国とはいえない。第1次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)と世界史で習ったが、どうもイメージがわかない。それに現在はG7はもちろんG20のメンバーでさえない。将来、日本がそうならないことを願おう(^^ゞ


あまり馴染みがないので、ついでに調べたオーストリアあれこれ。

  G20のメンバーでさえないと上から目線で書いたが、1人当たりGDPは5万6000ドルで
  世界第10位。3万9000ドルで24位の日本(/o\)より1.4倍も豊かである。

  永世中立国ってスイスだけだと思っていたらオーストリアもだった。ただしEUに
  加盟しているので形骸化しているらしいが。ほかにラオスやトルクメニスタンなどが
  永世中立国。

  同じくチロル地方はスイスをイメージするが、実はオーストリアとイタリアに
  またがる地域。

  人口は約900万人で、面積は北海道とほぼ同じ。

  ウィンナーソーセージはウィーン風のソーセージのこと。日本では農水省の規格で
  ソーセージの直径を基準にウィンナー(20mm未満)、フランクフルト(20-36mm)、
  ボローニャ(36mm以上)とヨーロッパの都市名をつけけて区分している。
  でもオーストリア、ドイツ、イタリアではそんな呼び方はしないから、これって
  けっこう恥ずかしいネーミング。

  コーヒーにホイップクリームを浮かべたウィンナーコーヒーもウィーンにはない。
  似たような飲み物はあるが名前が違う。何にでもウィンナー(ウィーン風という意味)と
  つけるのは、とりあえず京風とつければありがたみが増すのと同じ感覚なのかも
  しれない。

  アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリア人!

  オーストリアとオーストラリアを間違えるのは英語圏の人も同じらしい(^^ゞ


ところでオーストリアの首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェンが活躍した音楽の都である。ウィーンの画家はクリムトとエゴン・シーレしかとっさには思い浮かばないが、作曲家なら適当に名前を挙げればかなりの確率で正解になる。

それでビックリしたのがこの絵。
まさか音楽室に飾ってあったシューベルトの肖像画の本物に出会えるとは。

「作曲家フランツ・シューベルト」 1875年頃 ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー
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こんな絵もあった。私も夜会に参加したい!

「ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)」 
 1897年 ユーリウス・シュミット
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さて今回の展覧会で印象的だったのはクリムト展でも取り上げたハンス・マカルトの作品。

「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画ーー菓子製造組合」 
 1879年 ハンス・マカルト
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これは皇帝夫妻の銀婚式祝賀パレードの演出を任されたマカルトが、こういうパレードにすると示したもの。言ってみれば企画書、絵コンテだけれど、それがこのレベルなのが凄い。東京オリンピックの開会式演出もマカルトに担当して欲しいね(^^ゞ

しかも任命されたのが1879年1月でパレード実施が4月27日である。この作品は菓子製造組合向けのデザイン画だが、そのわずかな期間に、他のグループ向けにも合計35枚を仕上げたというから、その仕事の早さにもビックリする。

ブログでは小さく細長くしか表示されないから、一部を拡大して。
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少し遠目からは、すごく写実的で細密に見える。その場合、塗り絵的に描き込まれているのが普通。しかし拡大部分を見ればわかるように「タッチがある」というか「絵になっている」というか(うまく表現できないが)、そこにマカルトの技量とセンスを感じてシビれた。


マカルトの画風は私のツボにはまったみたい。次の3枚の肖像画は並べて展示されていたが、その場を立ち去りがたい気分になった。

「ドーラ・フルニエ=ガビロン」 1879-80年頃 
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「メッサリナの役に扮する女優シャーロッ ト・ヴォルター」 1875年
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「ハンナ・クリンコッシュ」 1884年以前
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そして、これはマカルトのアトリエを描いた作品。

「グスハウス通りのハンス・マカルトのアトリエ」 1885年 ルドルフ・フォン・アルト
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マカルトのアトリエはサロンやパーティー会場でもあり、また入場料を払えば見学できる観光名所でもあったらしい。そんなことをしていたオープンな画家は他にもいるのかな。この作品はマカルトの死後、アトリエを閉鎖する際にウィーン市の依頼によって記録として制作されたもの。それだけでマカルトの地位がわかるというもの。右下には上で紹介した「ハンナ・クリンコッシュ」が置かれている。


ハンス・マカルト(1840-1884)は「画家の王」と呼ばれていたらしい。ルーベンス(1577-1640)以降、最高の名声と富を得たともいわれている。その割に知らなかったなあ。クリムト(1862-1918)が影響を受けたとか、クリムトはマカルトの後継者という文脈ではよく見かけるけれど。

そこで美術関係者の皆さんに切なるお願い。
ウィーン・ミュージアムが休館中に是非とも大マカルト展の開催を!


ーーー続く




wassho at 22:04|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月06日

ウィーン・モダン展

訪れたのは8月1日。
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。

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いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?


先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。

さて展覧会の正式なタイトルは

  日本・オーストリア外交樹立150周年記念
  ウィーン・モダン
  クリムト、シーレ 世紀末への道

と、やたら長い。またキャッチコピーが

  ウィーン世紀末の全貌を
  まだ、あなたは知らない。

と意味ありげである。

ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
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この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。

絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったけれど、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ(^^ゞ
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もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。

絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。



ーーー続く


wassho at 19:53|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年08月05日

ベンジャミンの矯正と剪定

2017年の7月に三つ叉になっていたベンジャミンの幹を1本切った。樹形を整えるというより、葉が上部で広がりすぎて、冬になって部屋に入れるときにスペースを取り過ぎるというのがその理由。

でもまだ幅広いし葉が多すぎる。
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幹をもう一本切るのはリスクが高そうな気がする。
それに途中から曲がってブサイクだ。

ベンジャミンは柔らかい木なので、2〜3本の幹をねじって1本に仕立てたものをよく見る。
みき


しかし、25年以上は経っているこの老木では無理。
それで2本の幹をロープで引っ張って間隔を狭くしてみた。これで上部の広がりを抑えるという作戦。それほど無理な力は加えていないが、だいたい半分くらいの間隔になった。
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それから葉っぱをチョキチョキ剪定。
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ちょっと切りすぎたかな。
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本当はこういう風に丸くカットしたかったのだけれど。
丸く

伸びたものを切るのではなく、形を整える剪定をしたのは初めて。
まあ、そのうち上手にカットできるようにになるでしょう。


剪定したのは約1ヶ月前の7月7日。
今のところ葉が枯れたりなどの影響は見られない。
多分問題ないだろう。




wassho at 07:50|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年08月04日

六本木で蝉

数日前、六本木の新国立美術館へ
ウィーン・モダン展を見に行った時のこと。

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美術館の敷地で蝉の抜け殻を見つけた。

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セミの抜け殻を見るなんて超絶に久しぶり。
しかも、それが六本木だなんて。
決して住みやすい環境じゃないのに昆虫はたくましいね。


ところで蝉といえば

   閑かさや
   岩にしみ入る
   蝉の声

という松尾芭蕉の俳句を思い出す。
侘び・寂びの極致のような作品である。
古来より蝉の鳴き声は日本人の心を揺さぶってきた。

でも蝉は「セックスしたい」とアピールしているだけなんだよな(^^ゞ





wassho at 08:28|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年08月02日

ポンピング効果

長梅雨の後、この1週間くらいで急に真夏らしくなってきた。本日の東京は最高気温35.1度を記録。37度や38度といった予想気温が連発されていた昨年に較べればまだマシだが、暑いことに変わりはない。


暑くなるといつも「立ち止まると汗が噴き出す」という現象に悩まされている。例えば駅まで歩いているときはそれほど汗をかかないのに、駅のフォームで立ち止まった途端に汗が噴き出してくる。運良く電車が来たときにフォームに着き、すぐ電車に乗ってその冷房が寒いと思うくらい効いていても同じように汗が吹き出す。

   身体を動かしているときのほうが暑いはずなのにナゼ?

ひょっとして異常体質かもと思っていた。まあ汗をかかないより、汗をかいたほうが健康なのだと自分を納得させていたけれど。


でも先日、この現象は科学的に説明できることを知った。

  服と身体の間には空気の層がある。
  これが体温で温められる(→暑い)
  身体を動かしていると暖められた空気が服の隙間から逃げる(→涼しい)
  身体の動きが止まると空気が逃げない(→暑い)

という理屈。
この身体の動きによって空気が押し出されることをポンピング効果という。

とりあえずは納得。異常体質じゃなくてよかった。冬はじっとしていると寒いとか、普通に歩いている程度でそんなに空気が循環するかといった疑問はあるけれど。


それで昨日、実験してみた。駅のフォームで両手で服をつまんでパタパタと。かなり激しくやったから挙動不審な人物と思われたかも(^^ゞ

     結果はビミョー

パタパタ効果で若干の涼しさはあったものの、汗の吹き出しは変わらず。これなら片手で扇子を使い、片手にハンカチを持って汗を拭ったほうがいいというのが結論。ザンネン


暑中見舞い代わりにUnsplashで拾ってきた涼しげなカクテルの写真でも。

Unsplash カクテル




wassho at 23:38|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年08月01日

全然と御前会議

言葉は生き物なので時代によってニュアンスや使い方が変わってくる。

例を挙げればきりがないが、例えば「むかつく」。かつては強い怒りを表す単語だったが、いつのまにか随分と軽いニュアンスでも使われるようになった。

使い方で変化したものに「全然」がある。以前は「全然ダメ」「全然違う」というように否定の強調として使われていたのに、今では「全然大丈夫」と肯定でも使われる。はやり言葉、若者言葉の段階を過ぎてアナウンサーでも言うようになったから、今日的用法として定着したと考えていいだろう。


ーーーという認識だったが、昨日に見たテレビ番組で新たな発見。

それは昭和天皇と戦争の関わりをテーマにした内容だった。1941年9月、太平洋戦争開戦の3ヶ月程前に、外交交渉継続か開戦かについての方針を決める御前会議(天皇臨席の会議)が開かれる。通常、御前会議で天皇は発言しないらしいが、この時は天皇から陸軍・海軍の責任者に質問が投げかけられた。

番組での彼らの発言を細かく覚えていないが、ここでそれは重要でない。とにかくまず海軍の責任者が「〜〜ということであります」と答えた。そして驚いたのは、次の陸軍責任者の発言が「海軍の考えと全然同じであります」という表現だったこと。

全然同じ? 全然と肯定系の組み合わせじゃないか。しかし陸軍高官が天皇に対しての発言である。言葉遣いを間違ったとは考えづらい。つまりこれは正しい日本語ということになる。


調べたところ「全然+肯定系」は明治時代には普通に使われていたらしい。夏目漱石の「それから」にも出てくるという指摘もあった。しかし、なぜか戦後になって「全然+否定系」しか使われなくなり、それが最近まで続いていたということ。

ふ〜ん
言葉は生き物ではあるけれど、まさか先祖返りすることもあるとはね。





wassho at 06:40|PermalinkComments(0) ノンジャンル 

2019年07月28日

ユリは7月中旬に終了

6月16日にピンクが初開花し、続いて21日に黄色も咲いた。
植えた球根はピンク、黄色、白の3色。
そして白いユリが咲いたのが7月7日。
3色でカラフルに咲いて欲しかったのだが期待はかなわず。


ベランダの手すりにもたれかかって咲く白ユリ。
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今年の梅雨は長くて、つい先日まで日照時間の短い日々が続いた。写真的にも光量不足でイマイチさえない。おかげでこんな写真は撮れたけれど。
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花びらに毛が生えているような状態はピンクや黄色では見られなかった特徴。
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これは光線の加減ではなく、ひとつだけ花粉の色が違うのが咲いた。
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現在はすべて咲き終わってベランダにはグリーンだけが残っている。
今までの経緯をポイントで記録しておくと、

  9つ植えた球根のうち8つが発芽。
  ただし、そのうちの1つは成長が途中で止まりツボミをつけず。
  発芽しなかった&成長が止まったのはピンクのユリ。
  だから3色3球づつ植えたけれど、ピンクが育ったのは1株だけ。

  ピンクと黄色は商品パッケージとはまったく違う薄い色の花が咲いた。
  思った以上に背丈が伸びて、支柱を用意すべきだったかも。
  日光を求めてベランダの外側に向いて咲く傾向があるので、
  室内からはあまり見栄えがしない。
  ベランダに出ると濃厚な香りが楽しめる。

といったところかな。

1株1花のチューリップと違って、1つの株に次々と花が咲くのはよかった。でも色によって開花時期が違うし、咲いたのは合計7株だからボリューム的に物足りなかったかな。もっともユリというと、バイクツーリングで訪れたこういう風景を思い浮かべてしまう私のイメージギャップもあるけれど。
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来シーズンも植えるかどうかは未定。植えるなら今回の特大球じゃなくて、普通サイズにして色数を増やすと思う。ただチューリップと一緒にやるとなるとベランダのスペース的にもう限界なのが悩みどころ。



wassho at 11:25|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年07月23日

チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その5

5月5日にチューリップをプランターから抜く作業をした時に、
実はまだ青々としている株がいくつかあった。

もちろんそれは抜かずにキープ。
チューリップとは思えないニラみたいな葉である。おそらく原種系チューリップのサーモンジェムかと思われる。
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ベランダのスペースを広げたかったのでプランターは積み上げ状態で。
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原種系(野生のチューリップに近い品種)を植えたのは今年が初めてだったので、どう育っていくのだろうかと楽しみにしていた。

ところが5月10日からまさかの入院(>_<) 正確にいうと5月11日には退院して、5月15日から5月29日まで別の病院で再入院。

5月18日に一時帰宅した時は、付き添ってくれたSG君に頼んで水やりをしてもらった。でもそこから29日までの12日間は放置状態。


29日に帰宅してベランダに出てみるとご覧の状態。
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もっとも水不足で枯れたというより、普通に寿命が来てツボミもつけずに枯れたという気もする。5月5日の時点で株自体が小さく、ここから本当に花が咲くのかな?という気もしていた。



当時はまだお腹にチューブを挿入していた状態。チューリップのことなど構っておられず、とりあえず記録として写真を撮っただけだった。しかしこのブログを書くために先ほど写真を整理していてビックリ。

アブラムシが付いていた(>_<)
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5月5日の撤収作業の時にアブラムシは徹底的にチェックした。別の2つの株で数枚の葉に発生していただけだった。そしてこの原種系を除いて、すべてのチューリップをプランターから取り除いた。

ということは2枚目の写真にあるように、6株だけになったスカスカのプランターのチューリップを目指してアブラムシがまたやってきたのだろうか。あるいは株を抜くときに地面に落ちたアブラムシが移動したのか。ナゾ

写真でアブラムシが確認できたのは、完全に枯れているプランターの株だけである。そして他のプランターではまだ葉に緑の部分が残っている。ひょっとしてアブラムシに養分を吸い取られて枯れた?

いずれにしても侮れないアブラムシ。



さて昨シーズンの開花率58%に嫌気がさして、

   184球から128球に球根を減らす(スペースに余裕を持たせた方がいいかなと思って)
   違う花も育てようとユリに挑戦してみた

というのが今シーズン。しかし結果は開花率48%とまたもや大幅ダウン(/o\) 球根を減らして開花率も下がったので花数的には目も当てられない。アブラムシも3年連続で発生するし、チューリップ・モチベーションは限りなく右肩下がり。

さて来シーズンはどうしようかな。



おしまい

wassho at 20:18|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2019年07月22日

チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その4

それでは総集編名物の朽ちてゆくチューリップ。チューリップのブログはあまたあれど、こんな写真を毎年たくさん載せているのは唯一の存在だと自負している(何の自慢?)

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他の花の終わりの頃に、弱々しいツボミを出すのが毎年いる。
こいつらはいつもツボミのまま枯れていく。
3DSCF2390

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こんな姿になぜか心惹かれるものがある。
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いい形に枯れているのは一瞬で、しばらくすると醜くなってしまう。
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あまり早すぎてもツマラナイ。
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そんな違いがわかって、
さらに雄しべ雌しべも愛おしく思えたら、あなたもめでたくヘンタイ仲間(^^ゞ
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実にくだらない写真ではあるが、
こんな小さいものにピントを合わせるのはけっこう難しいんだゼ。
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たまに周りの花びらの色が被ってカラフルになる。
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最後に少しキレイめなのも。
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ーーー続く



wassho at 19:40|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2019年07月21日

チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その3

今シーズンの新兵器。
ペットボトルにアルミ箔をかぶせたもの。
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目的はアブラムシ対策。ネットのどこかでアブラムシは眩しさに弱いので、日光を反射するアルミ箔が効果的という記事を読んだ。対象となっていたのはチューリップではなく、畑に直接アルミ箔を敷き詰めるような内容だったけれど。

ベランダには賞味期限がとっくに切れたミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。飲み忘れたものを、震災で断水した時に手を洗ったりトイレを流したりするのに役立つかと思って。それを使ってアブラムシ対策器を作ることを思いつく。


ちなみにベランダには7〜8年置いてあるペットボトルもある。目で見たかぎり水が濁ったりの変質はない。いざとなれば飲めるんじゃないかと思うくらい。またペットボトルに巻かれているラベルはボロボロになって風で散りほとんど残っていないが、ペットボトル容器そのものは今も新品と同じ強度を保っている。プラスチックゴミによる海洋汚染がよく報じられているが、さもありなんである。


さてアブラムシ。
ガーデニング歴30年にして初めて目にしたのは2017年。この時は8つのプランターで育てているチューリップの2/3くらいにアブラムシが付くという大発生。翌年つまり昨年は1本の茎だけ。もっともこれはノーマークだった2017年と違い、常に警戒していたので早期に発見して駆除したから1本だけだったともいえる。

ただしどちらの年もチューリップの盛りが過ぎて枯れ始めようかという時期に発生している。だから実害はほとんどない。(チューリップに発生するアブラムシはそういうものなのか、ウチのベランダだけの現象なのかは調べていない)

だからアブラムシ対策といっても、ほとんど好奇心で始めたようなものだけれど、
ちょっと作りすぎたかな(^^ゞ
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それで効果はというと5月5日、枯れたチューリップをプランターから抜く作業をしているときにアブラムシを発見。数は少ないが、これも毎週観察していて早期発見したからだと思う。
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結論としてアルミ箔ペットボトルに効果はなかったかな(^^ゞ


ーーー続く




wassho at 20:45|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2019年07月20日

チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編 その2

前回の書いたように、今シーズンは一度も賑やかにはならなかったので集合的写真はないけれど、どんな色や形のチューリップが咲いたのかの紹介。


この赤チューリップは八重咲きの「フラッシュポイント」という品種。紫は普通品種セットに入っていた紫か、ちょっと高級な品種セットに入っていた「パープルプリシス」という品種か見分けがつかず。今シーズンに植えた球根についてはこちらで。
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黄色も普通品種セットと高級品種セットの「ストロングゴールド」の区別が難しい。普通品種はこんなに背が高くならないから、これが「ストロングゴールド」かと思う。ストロングと名前がついている割に茎が長いのですぐ倒れてしまう。
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背が高いと他のチューリップとバランスが悪い。
でも写真的にはおもしろいかな。
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背の低い黄色チューリップ。先ほどの仮説が正しければこちらが普通品種。
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黄色と白のツーショット。白チューリップが普通品種なことは間違いないから、やはり背の低い黄色が普通品種かな。
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フリンジ咲き(花びらにギザギザがある)のファンシーフリルス。
これはすぐ色が薄くなってしまう。
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普通品種の赤チューリップ。
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太陽に透かされたチューリップを見るのが好き。
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カメラを買い換えてから白い被写体にもピントが合うようになってうれしい。この白チューリップはマウントタコマという八重咲きの品種。
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ダイナスティという品種。
思っていたより(国華園のホームページの写真より)色が薄い。
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こちらは太陽に透かされていたのと同じ普通品種のピンクチューリップ。
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球根を買ったときのブログで調べてみると、次の3品種がまったく咲いていないと判明。

   普通品種の紫か、同じく紫のパープルプリシスのどちらか
   ルーブルオレンジ
   サーモンジェム

許さん!
キチンと水やりしていたのに。
でも懲らしめる方法がない(^^ゞ


ーーー続く




wassho at 17:05|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2019年07月19日

チューリップ2019(怒りと悲しみの)総集編

今シーズンのチューリップ日記は、3月22日に黄色チューリップが初開花したことが「最後」になった。開花そのものが少なく、しかも開花時期がバラバラだったため、一度も賑やかな状態になることなく終わった。だからブログを書く気も起きず。

例年なら6月になって葉も茎も枯れ果ててから、チューリップをプランターから抜く作業をする。それは球根を来シーズンに使えるように太らせているのではなく、キレイに咲いて楽しませてくれたチューリップを最期まで見届けてあげようという気持ちから。単にグズグズしているという噂もあるが(^^ゞ

しかし今シーズンのチューリップにそんな気持ちは起こらず、ユリも植えてベランダが手狭だったので5月5日に撤収作業。


恒例の雌しべでの開花本数チェック。
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ひと山で10本なので今年の開花は62本。
植えた球根は128球だから開花率は48%(/o\)

過去の開花率を並べてみると

   2014年 80%
   2015年 25%
   2016年 57%
   2017年 79%
   2018年 58%
   2019年 48%

悲惨だった2015年に次いで低い結果である。

しかも例年なら1つのプランターに8球・7球・8球の3列で23球を植えるところを、今シーズンは8球・8球の16球にした。8プランターの総数で184球から128球に減らしたことになる。だから仮に62本を184球で割れば34%ということになる。感覚的にもそれくらいの咲きっぷりだったかな。まあとにかく今シーズンのチューリップはショボかった。


約1週間おきの定点観測。

         3月24日
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         3月30日
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         4月6日
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         4月13日
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         4月21日
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         4月27日
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         5月5日
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今シーズンでもっとも数多く咲いていたのは4月13日前後だったということになる。

過去の1番咲いていた時期の写真で較べても、やはり今シーズンは悲惨だった2015年とドッコイドッコイだったことがわかる。
スライド1

スライド2

スライド3


別のアングルで見てみると一目瞭然。

         2016年
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         2017年
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         2018年
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         そして今シーズン
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私の落胆ぶりを想像して哀れんでちょうだいな(/o\)


ーーー続く



wassho at 19:52|PermalinkComments(0)   *チューリップ 

2019年07月18日

クリムト展 ウィーンと日本 1900 その5

クリムトというと女性を描いた絵のイメージが強いが、作品の1/4は風景画とのこと。ただし風景画を描いたのは次の1898年の作品が最初。


「雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)」 1898年
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「アッター湖畔のカンマー城 III」 1909〜1910年
10-2-92-1909



「丘の見える庭の風景」 1916年頃
10-3-93-1916

あえてカテゴリー分けするとしたら印象派に近い作風かな。クリムトの風景画といわれても、あまりピンとこなかったというのが正直なところ。ところで「雨後」以降の風景画はすべて正方形のキャンバスに描かれているそうだ。彼は21世紀のインスタ時代を先取りしていた?(^^ゞ


1900年から1910年くらいがクリムトに1番脂がのっていた時期だと思う。世紀末的な表現、あるいは金箔を使った女性画もその頃に描かれた。この展覧会で、そういうザ・クリムト的な作品は

   「ユディト 1」 1901年
   「ベートーヴェン・フリーズ」 1902年
   「女の三世代」 1905年

の3点しかなかったのが残念なところ。「ベートーヴェン・フリーズ」が規格外の超大作だから満腹感はあったものの、メインディッシュの品揃えとしてはもの足らない。

ところでこの展覧会は年代別の展示ではなく、けっこう複雑なテーマ設定で細かく作品を分類している。

   クリムトとその家族
   修業時代と劇場装飾
   私生活
   ウィーンと日本 1900
   ウィーン分離派
   風景画
   肖像画
   生命の円環

ブログでは一部の作品しか紹介しないので年代順に並べてみたが、ひょっとしたらこの構成はメインディッシュが少ないことをカモフラージュする苦肉の策だったのかもしれない。だとしたらよくできている。


晩年の作品をいくつか。
何か実験的な画風のようにも思える。

「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 1913〜14年
11-2-103-1913



「赤子(ゆりかご)」 1917年
11-3-61-1917



「白い服の女」 1917〜1918年 ※未完成作品
11-4-104-1917


クリムトの知名度はかなりのものだと思うが、意外にも日本での展覧会は過去に3回だけらしい。しかも東京で開かれたのは1981年だから約40年ぶりということになる。貴重な体験だったと思うし、クリムトのいろいろな面を知ることができてよかった。

ところで展覧会サブタイトルの「ウィーンと日本 1900」の「1900」は19世紀の終わり=世紀末が1900年だからなんだろうが、わかりにくい表現である。そして「ウィーンと日本」については、別に2つの国の作品を対比していたわけではないので(参考出品的にいくつか日本のものがあっただけ)、展覧会の内容をまったく表していない。まとめていえば「ウィーンと日本 1900」はまったくもっておかしなタイトルである。展覧会の構成をアーダコーダと考えるうちに、タイトルまで煮詰まったのかな?



おしまい







wassho at 08:49|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年07月16日

クリムト展 ウィーンと日本 1900 その4

ウィーン分離派は1902年4月に、後にベートーヴェン展と呼ばれることになる第14回の展覧会を開く。5万8000人の入場者を記録し、ウィーン分離派の展覧会史上で最大の成功を収めた。

この展覧会の特徴はまず総合芸術を志向したということ。もっともカバーした分野は絵画、彫像、装飾品、家具ということで、今日の感覚だとそれほど「総合」じゃない。もう一つの特徴はテーマの統一。出展する芸術家には展覧会のテーマに沿った作品の制作を依頼した。個々の作品の展示ではなく、展覧会そのものをひとつのアートにする試み。

そのテーマに選ばれたのが作曲家のベートーヴェン。そしてクリムトが描いたのはベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフにした巨大な壁画。日本じゃ年末によく聴くその第4楽章の独唱・合唱はシラーの詩がベースとなっている。ということは音楽と文学も総合芸術としてカバーしたかったのかもしれない。


クリムトの壁画はベートーヴェン・フリーズというタイトル。お願いベートーヴェンのプリーズじゃなくてフリーズ。スペルはfriezeで初めて見る単語。調べてみると建築用語で、こういう古典的な建築の浮き彫り部分のこと。
フリーズ

また転じて室内では天井近くの壁の装飾もフリーズという。クリムトのフリーズはこちらの意味だろう。和訳は帯状装飾、装飾帯など。

ベートーヴェン展の終了後に壁画は取り壊されるはずだったがコレクターに買い取られることになる。壁画といっても展覧会用の間仕切りの壁だったため分解できたみたい。現在は修復されて再びセセッション館に展示されている。今回の展覧会にやってきたのは1984年に制作された原寸大の複製。サイズは縦が2メートルで全長は34メートル。


ベートーヴェン・フリーズの全体像。部屋の3面を壁画が取り囲んでいるが、正面以外は空白部分が多いので、全体を俯瞰すると間延びして迫力に欠ける印象は否めない。
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        写真は https://www.cinra.net/report/201904-klimt から引用。



壁画は左、正面、右の順にストーリー立てられている。
左壁は「幸福への憧れ」というサブタイトル。
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正面は「敵対する勢力」。
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正面左側と、さらにその一部をアップで。
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右壁は「歓喜の歌」。空飛ぶ天女?が続いた後に合唱シーン。
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メインの部分をアップで。
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超簡単にストーリーを書いておくと

  左壁:弱いものに助けを求められ騎士が立ち上がる。

  正面:ゴリラみたいなのはギリシャ神話に出てくる悪の化身テュフォン。
     右側に伸びる翼や蛇の胴体のようなもののもテュフォンの身体である。
     テュフォンの周りにいるのはあれこれ誘惑してくるダークサイドの女神たち。

  テュフォンをどう打ち破ったのかが省略されているのだがーーー

  右壁:ハッピーエンドの歓喜シーン。

弱いものを人類と置き換えると、いわゆる「救済」のようなことがテーマなんだと思う。ただ右壁で裸になって女性と抱き合っているのが左壁の騎士らしいので、弱いものはどこへ行ったという気もするが。


絵としては楽しめた。空白部分に物足りなさはあっても、なんたって全長は34メートルもある。テュフォンや歓喜のシーンの前に立てば大画面で絵が迫ってくる。もう少しエロく描いて欲しかった気はするけれど(^^ゞ

ただ、これがベートーヴェンの第九をモチーフにしたといわれると、何とも感想を述べづらい。少なくとも私の耳にはもっと別の音楽が聞こえてくる。

「ユディト 1」もそうだがクリムトにとってモチーフは、創作のスイッチを入れてくれるきっかけに過ぎず、いったんスイッチが入った後は自分の感性を発露することが大事で、モチーフのことは別にどうでもいい存在なのかもしれない。あるいは、あるモチーフに対して人と同じようには絶対に描かないぞという気持ちがあったのか。

それはよくわからないけれど、とりあえずクリムトのヘンチクリンな画風が大好きな私は、三方を彼の絵に取り囲まれて満足な気持ちだった。


ちなみに当時の評判はというと

      コケた(/o\)

ただコケたどころじゃなくオオゴケの大炎上。クリムトの世紀末的表現が不道徳なものにうつったようだ。(男女の性器や精子と卵子も描かれているらしいのだが、それがどこなのかよくわからず) それにベートーヴェンはドイツ人だが、ウィーンで活躍していたのでオーストリアの国民的英雄でもある。それをこんな風に茶化しやがってと反発されたのかもしれない。


ちなみにこちらが好評だったメイン展示であるマックス・クリンガーのベートーヴェン像。当時の市民はこういうものを望んでいたのだ。クリムトが描いた方向性も嫌われたが、抽象化という表現方法もまだ理解されなかったのだと思う。
マックス・クリンガー


ベートーヴェン・フリーズでクリムトは世間から非難されただけではなく、ウイーン分離派内部からも批判する声が上がり、数年後にクリムトとその一派が脱退して分裂という事態を招く。

でもこれがきっかけで画壇を率いるなんて活動から身を引き、「女」や「エロス」といったテーマにのめり込んでいくことになった。本人は不本意だったかもしれないが、それが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や「接吻」といった名作につながったのだとしたら、まさに塞翁が馬である。


ーーー続く




wassho at 20:59|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年07月15日

クリムト展 ウィーンと日本 1900 その3

この頃のヨーロッパではフランスの印象派やアールヌーボー、イギリスではラファエル前派などの新しいムーブメントが起きていた時期。でもオーストリアではウィーン造形芸術家協会という保守的な団体が牛耳っていて、そういうものを認めていなかった。

1897年4月にクリムトを中心とした若手芸術家が反旗を翻しウィーン分離派を結成する。正式名称はオーストリア造形芸術家協会で、ウィーンより大きな名前をつけているところが面白い。当時のクリムトは34歳。ウィーン分離派の初代会長を務めた。

まあ若手が反発するというのはよくある話。でもオーストリアでちょっと事情が違うのは、ウィーン造形芸術家協会がキュンストラーハウスという自前の展示場を持っていたこと。ウィーンで絵の展覧会を開く場所などいくらでもあると思うが、どうもこれが問題だったみたい。つまりウィーン造形芸術家協会から脱退したウィーン分離派は、同時に展覧会会場から閉め出されることになる。

しかしこの問題は1898年にウィーン分離派が、富豪でオーストリア近代産業の父とも称されるカール・ウィトゲンシュタインという人物の援助を得て、セセッション館(分離派会館)を建設することであっさり解決する。たまたまトントン拍子で話が進んだのか、事前に根回しをしてからウィーン分離派を立ち上げたのかは興味あるところ。ただウィーン分離派の第1回展覧会には皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れているから、他の新興アートムーブメントと違って最初からかなりの力を持った団体だったことは確かかと思う。


キュンストラーハウス。日本語ではクンストラーハウスとも。またウィーン造形芸術家協会のことをキュンストラーハウスと言い換えることが多い。政治のことを永田町と呼ぶのと同じ。代名詞的存在になるくらいこの建物に存在感があったということ。
キュンストラーハウス


セセッション館。屋上にあるのは「月桂樹のドーム」だが市民からは「金のキャベツ」と呼ばれているらしい。東京では浅草に「金のウ〇コ」が屋根に乗ったビルがあるけど(^^ゞ
セセッション館




「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」 1899年

ウィーン分離派は1898年から1905年の7年間に23回の展覧会を開催している。建設が間に合わなかった初回を除いて場所はもちろんセセッション館。この作品は第4回に出展された。絵の上部に書かれている文字はドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」からの引用で

    おのれの振る舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか?
    わかってくれる人は一握りでいい。
    大勢に好かれるようではだめだ。
    ほんの少数の人にだけ喜びを与えよ。
    多くの人の意に叶うものは劣悪である。

というようなことが書かれている。ウィーン分離派を立ち上げたクリムトの心意気が現れているに違いない。ついでに言うと、このブログもそんなつもりで書いている(^^ゞ
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しかし、そんな力強いメッセージを込めているのにヌードだし、顔の周りにはお花が散りばめてあるところが愛すべきクリムトかな。 足下に描かれているのはヘビ?ウナギ? しかし考えてみれば、こんなヌードの女性にああいうことを言われるからこそ、問い詰められたような気分になるのかもしれない。

ちなみに彼女が手に持っているのは、私には小型のスポットライトにしか見えなかったのだけれど、もちろんそんなものはこの時代に存在しない。調べてみると手鏡だった。ということは自分の顔を見ながら問い詰められるわけで、それを知るとこの絵に凄味のようなものも感じてくる。

※パソコンで細長い絵は小さく表示されてしまうので、クリックして拡大することをおすすめする。



「ユディト 1」 1901年

ユディトというのは旧約聖書に登場する女性。敵の将軍を誘惑し泥酔させ、その首を切り落としたいうユダヤ人にとっての英雄。その伝説はいろんな画家がテーマにしている。そういうシーンだから絵もショッキングなものにならざるを得ないが、クリムトのユディトはひたすら官能的。ちょっと歳食っているけど(^^ゞ ネットや雑誌でチラッとこの絵を見ただけなら、右下にある生首に気がつかない人も多いんじゃないかな。また部分的にしか描かれていないから、ユディトのことを知らなければ生首に見えないかもしれない。
7-2-63-1901

敵の将軍を誘惑してから殺害したのだから、こんなエロい表情をしてもおかしくないが(描かれているのが首を取った後というのは別として)ユディトをこのように仕上げるというのは、例えば富士山というタイトルで、あの山の形ではなく登山道だけを描くようなものである。変わり者と創造性は紙一重ということなんだろう。

この絵には金箔が使われている。日本の琳派の影響を受けたともされているが、首回りの立体感がなくなることなどお構いなしにベタッと貼り付けているのも独創的。金箔を使ったクリムトの作品は「黄金様式」とか「黄金時代」などと呼ばれる。「ユディト 1」はその最初の作品となる。残念なのはこの展覧会では日本で過去最多となる25点のクリムトの油彩画を揃えたのにもかかわらず、黄金様式はこの「ユディト 1」だけだったこと。もう何点かは見たかったな。



「人生は戦いなり(黄金の騎士)」 1903年

正確に言うとこれも黄金様式の作品。でも使われているには下辺の部分だけだし、女性が描かれていないし(^^ゞ 馬上で硬直したようになっている騎士はクリムト自身で、保守勢力とのイザコザにたち向かう姿という解釈もある。しかしなんとなく元気がなさそうに思えるのは馬の描き方のせいかな。尻尾のあたりも何かヘン。
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「女の三世代」 1905年

タイトル通り子供と母親と婆さんの三世代の女性が描かれた作品。ロダンの彫刻「老いた娼婦」にインスパイアされたといわれている。手前の母娘と老婆の対比がなんとなく残酷。
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言いたいことは一目でわかるから、絵の細かな表現であれこれ論じるのはヤボというもの。それでこのヘビーなテーマにもかかわらず、甘美なクリムトワールドが演出されているところがお見事。そしてしばらく眺めていると、醜く描かれた老婆の身体も美しく見えてくるから不思議。そういうところがクリムトマジック。

参考までにこれがロダンの「老いた娼婦」。
ロダン



「女ともだち 1(姉妹たち)」 1907年

こういう縦長のキャンバス、女性が振り返っているポーズだと、日本人はつい「浮世絵の影響」なんて言いがち(^^ゞ
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「家族」 1907年

これも死と向き合った作品といわれている。黒い毛布?が画面のほとんどを占めているのが異様に感じられるが、よほど解説されないと絵からそういうことを読み解くのは難しい。
8-4-120-1909




箸休めに同時期の他の画家の作品を。
前回も書いたようにオーストリアの絵にはなじみが薄く、クリムトとエゴン・シーレくらいしか知らなかったけれど、意外と私好みの絵が多くてうれしい。

「ミラ・バウアー」 マックス・クルツヴァイル 1907年
9-1-94-1907



「エルザ・ガラフレ」 オットー・フリードリヒ 1908年
9-2-95-1908



「ガブリエル・ガリア」 オットー・フリードリヒ 1910年頃
9-3-96-1910



ーーー続く



wassho at 14:47|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年07月13日

クリムト展 ウィーンと日本 1900 その2

展覧会の構成は少々複雑だったので、このブログではできるだけクリムトの作品を年代順に追ってみることにした。


「男性裸体像」 1883年
1-12-1883

いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思ったが、考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。

ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなった?



クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。


「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
2-18-1885


「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
3-19-1884



今まで模写というのは画家が修業のためにするものと思っていたが、仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいというのがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。

イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。

ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって(^^ゞ

「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
              クリムトが模写したのは1884年
4-31-1884

ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な。



当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまりないけれど、なかなかイイ感じ。

「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
5-1-45-1884



「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
5-2-46-1902



「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
5-3-47-1902

「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。

この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。

次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ ちなみに描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。

「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
6-1-55-1891


こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。

「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
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クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているが、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却されたが、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。

展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。

「医学のための習作」 1897〜98年
7-0-105-1897

現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。

「医学」 1899〜1907年
Fakultatsbild_Medizin

「法学」 1899〜1907年
1920px-Fakultatsbild_Jurisprudenz

「哲学」 1899〜1907年
Philosophy-final-state-1907

            (この写真は展覧会の展示作品ではない)



ーーー続く

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2019年07月07日

クリムト展 ウィーンと日本 1900

先日に見てきたクリムトの展覧会。

上野公園のさくら通りでアジサイを眺めて、ついでに上野公園には桜が53品種もあることを知ってビックリした後に東京都美術館。窓に大きなポスターのある定番の撮影ポイント。
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敷地内に入ると20分待ちの表示。
平日の午後3時前なのに。クリムトは人気あるんだ。
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この美術館の入り口には大きな金属球があって(最初の写真にも写っている)、初めて来た人は必ず写真を撮るくらいの人気アートになっている。しかしもう撮り飽きたので、今回はすぐそばにあるこちらを。
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金属球は井上武吉の「my sky hole 85-2 光と影」で、こちらは堀内正和の「三本の直方体 B」という作品らしい。1分ほど観察してみたが、人気者の金属球に対して直方体は写真撮影はおろか目をやる人もいない Ω\ζ゜)チーン

ちなみに私はこういうインスタレーション(大型の置物アート)の良さがわからないというか、今までビビッとくるものに出会ったことがないというか、正直にいうとクダランと毛嫌いしている。そこそこの日本庭園にある庭石より優れたインスタレーションがあるならぜひ見に行きたいとは思っているのだが。


美術館の中に入るとチケット売り場はそれほど混雑しておらず。セブンイレブンで事前に購入していたけれど、あれは操作に結構時間がかかるので、ここで買った方がよかったかも。
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「ラファエル前派の軌跡」の展覧会で書き忘れた話を。
あの時もセブンイレブンでチケットを買っていた。しかし受付で「このチケットでは入場できないのでチケット売り場で当館発行のものと交換してください」と言われた。つまりチケットを持っていてもチケット売り場で並ばなくてはならず、まったく事前に買った意味がない。あの展覧会では企画内容にさんざんケチをつけたが、そういうところもおかしいゾ三菱一号美術館。


とりあえず行列に並ぶ。
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行列の途中にトイレがあるからか、ここでいったん行列が分断される。先に進めた人たちは左側に曲がっていく。ただし行列を止めた係員は、ずっとここにいるわけではないので、この行列を右から追い越して素知らぬ顔で左方向に行くことは可能。何人かそういう人もいたように思う。もちろん私は並んだよ。
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左に曲がるとドッと混んでいた。
それでもほぼ案内通り20分弱で会場に入れた。
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さてクリムト。
一番有名なのはこの「接吻」かな。(今回の展示作品じゃない)
no title

どこか退廃的でちょっとエロい作風が私の好みである(^^ゞ そして印象の強い絵だから、なんとなくよく知っているつもりだったけれど、改めて考えてみるとそうでもない。それほど多くの作品を覚えているわけでもない。彼についてはほとんど知識がない。

調べてみると、

  グスタフ・クリムトは1862年生まれのオーストリア人。
  ちなみに明治維新が1868年、第1回の印象派展覧会が1874年ね。

  工芸学校で伝統的な教育を受け、卒業後は劇場装飾の仕事でキャリアを重ね成功する。

  途中いろいろとあったが、1897年に保守的な美術家組合を嫌ってウィーン分離派を
  結成し、その初代会長を務める。

  またいろいろあって1905年にウィーン分離派を脱退。その前後がクリムトというと
  連想する金箔を使った世紀末的な作風の時期。上の「接吻」は1908年の制作。

  1918年、55歳でスペイン風邪をこじらせて亡くなる。


クリムトでよく紹介されるのが50歳くらいの頃の写真。
ハゲ散らかしたウダツの上がらないオッサンにしか見えないが(^^ゞ
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このクリムトが着ている服は彼自身がデザインした作業着で、その下はスッポンポンだったといわれている。まあ、それくらいはヘンタイじゃないとあの官能的な絵は描けないか。

かっこよく撮れている写真も載せておこう。
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ところでクリムトはエミーリエ・フレーゲという女性をパートナーとしていた。出会ったのは20歳代の後半で、亡くなるときも彼女に看取られている。しかし2人の関係はプラトニック。結婚もしていない。そしてクリムトにはたくさんの愛人がおり、産ませた子供がなんと14〜15人もいたらしい。 並のヘンタイじゃなかったクリムト!←尊敬の念


エミーリエとクリムトのツーショット。「接吻」は彼女がモデルで、描かれている男性もクリムト自身だと言われている。絵には髪の毛あるけど?
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ーーー続く

wassho at 22:13|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年07月03日

初めての入院 その14 大腸がん検診を受けることに

前回から2週間たった昨日、退院してから4回目の通院。
課題だった血液検査は無事クリア\(^o^)/

ただしまだ終了とはならず、FZ医師の強い勧めもあって大腸がん検診を受けることになった。大腸がんが今回の症状を引き起こした疑いもなくはないというのと、年齢的に受けておくべきというのが主な理由。

何歳から大腸を検診すべきなのかよく知らないが、そういえば私の友人にも年に1回の定期検診を受けているという人は何名かいる。がんが見つかったら見つかったで困るが、ここは覚悟を決めてというところ。


大腸がん検診というのは肛門から内視鏡を挿入して行う(>_<) それは知っていたのだが、ビックリしたのは検査前に飲む下剤の量。考えてみれば当たり前だがウンチがあったら大腸の様子を見られない。

まず検査前日の寝る前にヒマシ油というものを30ml飲む。なかなか強い下剤らしく寝ている間に数回催す可能性があるとのこと。

そして当日は自宅を出る前の4時間前から2時間前の2時間をかけて、ニフレックスという最強の下剤をなんと2リットルも飲む。これで腸の中のウンチを全部出し切るということ。最後は黄色い液体にならなければいけないらしい。自宅を出る2時間前までに服用を終了するのは下痢ピッピの状態では外出できないから(^^ゞ

私の検査は午前11時からで自宅を出るのは午前10時。ということは午前6時からニフレックスを飲み始める。前の晩にヒマシ油も飲むから、夜から朝までずっと下痢ピッピということになる。耐えられるかな(^^ゞ

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wassho at 19:15|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年07月01日

黄色しか咲かないユリ

6月16日にピンクが初開花し21日には黄色も咲いたユリ。
さて、これからカラフルに楽しめるかと思っていたのだが、
ピンクは2つ咲いただけで、現在は黄色しか咲いていない。
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それも黄色か白かはっきりしない色(/o\)
ちょっと期待外れ。
でもベランダに出るとユリの甘い香りがしていい気分になる。


ユリを育てるのは初めて。それで新しい発見があった。
開花したばかりのユリの雄しべは、こんな形で花粉もほとんどない。
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まるでプラスチック製のように見えて固そう、触ったら指が切れそうにも思えるが、実際は草花的に柔らかい。


2日くらいで見慣れた雄しべの形になり花粉の量も増える。
形的に閉じて増えるのが不思議。
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そして花粉が増えてしばらくたつと、雌しべから蜜のようなものが垂れてくる。受粉のために虫を誘っているのか、あるいは写真のように雄しべがくっつきやすくするためなのだろうか。
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その蜜を指で取ってみるとイメージ通りかなりネバネバしている。
甘い香りが漂っているのだからと舐めてみると、まったく味はしなかった。
何事も試さずにはいられない性格(^^ゞ


ところで最初の写真でわかるようにユリはかなり背が高い。ベランダのフェンスの1m20cmを超える。それで茎が傾いてしまう。ユリが大きなことはわかっていたが、ユリ園で見たユリはまっすぐ立っていたので傾くとは思っていなかった。
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ネットで調べると支柱を添えろと書かれているものもあったが、もはや手遅れ。それにそんなに長い支柱も持っていない。というわけで何本かの茎はベランダから伸ばした紐で引っ張っている。
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しかしフェンスに頭を突っ込んだり、
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もたれかかって楽をしようとするヤツがいたり。
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またユリ園で見ていたのと違って下向きに花が咲くのも想定外。
ユリ栽培初体験なので何かと悪戦苦闘中である。



wassho at 19:11|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年06月27日

上野公園の桜は53品種

昨日はクリムト展を見てきた。
開催されているのは東京都美術館だから上野公園。

前回、花見に来たときはキレイに咲いていたシダレザクラをiPhoneで。
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花の咲いていないシダレザクラをまじまじと見たのは初めて。
シダレザクラと知らなければ桜の木とは思わないかも。

葉の形は同じだから何が違うのだろう。葉の生え方の密度かな。
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まあとにかく今の上野公園は緑が濃くて初夏の風景。
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この道はさくら通り。アジサイがたくさん植えられている。
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しかしほぼ終わりの時期なので、アップに耐えられる花は多くない。
それに萎びていなくてももう元気はないね。
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ガクアジサイのほうが状態のよいものが多かった。
開花時期が微妙に違うのかもしれない。
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丸く咲くのがホンアジサイ。花に見えている部分は実は萼(ガク)で、ガクアジサイは萼(ガク)が額縁(がくぶち)のように並んでいるからガク(額)アジサイ。そのあたりのヤヤコシイことを知りたければ過去のエントリーをどうぞ

このガクアジサイは萎びていて写真はどうかと思ったんだけれど、光の当たり方がキレイだったので撮ってみた。するとセンターの花が見事にピンボケして、花の痛みが目立たずなんとなくイイ感じの雰囲気に。人工知能が搭載されていたか私のiPhone(^^ゞ ぜひクリックで拡大してご確認を。
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さくら通りを進むと動物園の入り口もある公園中央の広場に出る。
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そこにある看板を何気なく見てビックリ!
なんと上野公園には53品種ものサクラがある。
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これほどの品種が集まっているところは滅多にないような気がする。ソメイヨシノ以外は数本だけなのかもしれないが、サクラの時期に上野公園にまた来たときは探してみよう。


クリムト展のことはいずれそのうち。




wassho at 23:49|PermalinkComments(0) お花畑探訪 

2019年06月25日

ラファエル前派の軌跡 その5

「母と子(サクランボ)」 フレデリック・レイトン 1864-65年頃

幸せそうで、かつ美しい作品。この時代は良妻賢母像が求められていて、こういう構図は珍しいそうだ。おそらくは日本画と思われる背後に置かれたツルの屏風にも目がいくが、なぜか彼女たちの着ているものが気になる。部屋着?寝間着?下着? 立ち上がってよく見せて欲しい(^^ゞ
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フレデリック・レイトンはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)の会長を20年近く務め、また画家として最初に貴族に列せられるなど英国美術界の頂点に君臨したといってもいい人物。ラファエル前派の立ち上げメンバー3名は1827〜29年生まれでレイトンは1830年。彼らと違ってロイヤル・アカデミー付属の美術学校には行っていないから先輩後輩の関係じゃない。しかしグループとしてのラファエル前派が解散した後だが、メンバーとは交流があったようだ。

ちなみにフレデリック・レイトンの邸宅は贅を尽くしたもので、レイトンハウスと呼ばれており現在は美術館になっている。ある年代以上の日本人ならレイトンハウスと聞くと別のものを思い出すけれど(^^ゞ ちなみにあのレイトンハウスと、このレイトンハウスはまったく関係ない。



さて「ラファエロ前派周縁」の次は「バーン=ジョーンズ」というコーナー。エドワード・バーン=ジョーンズのこと。

この展覧会では「ラファエル前派第二世代」という分類があって、その代表格のエドワード・バーン=ジョーンズには1コーナーを与えたということらしい。しかし彼は1833年生まれ。ロセッティらと5歳くらいしか違わない。だから活動時期はほとんど変わらないわけで、第二世代というにはまったく無理がある。

展示されている作品数は27点。これは展覧会の冠になっているラスキンの40作品を除けば一番多い。作品を集め出したらエドワード・バーン=ジョーンズのものが多くなってしまい、ラファエル前派第二世代なんて理屈をひねり出したんだろう。

最初から最後まで、この展覧会の構成には納得がいかない。


「金魚の池」 1861-62年

バーン=ジョーンズの絵は独特の癖があるのだけれど、これはバーン=ジョーンズらしくない珍しい作品。誰にでも描けそうというと身も蓋もなくなってしまうが。でもいい味出ていると思う。そして何故かこの時代ではなくて、今の時代に描かれたような雰囲気を感じる。
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「慈悲深き騎士」 1863年

初期の傑作とされている作品。ぜんぜん好みじゃないが、すごく存在感があって長い時間見入ってしまった。画像じゃそのオーラみたいなものが伝わらないのが残念。

左側の人物は、頭に被っているいばらの冠と、足が杭で打ち付けられているからキリストだということはすぐにわかる。でもどうして屋根付き?十字架は?
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実はこれはある伝説のワンシーンを描いたもの。右側で跪いているのは騎士。仇討ちに出かけたのだが慈悲の心で相手を許してしまう。その後に「木彫りのキリスト像」の前で祈りを捧げていると、その慈悲の心を祝福した「木彫りのキリスト像」が身をかがめて彼を抱擁したというもの。

まさか「木彫りのキリスト像」だったとは! そんな奇跡が起こせるなら足の杭も抜いて、もっと近づけばというツッコミはナシということで(^^ゞ



「嘆きの歌」 1865-66年
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「フローラ(春の女神)」 1868-84年
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「赦しの樹」 1881-82年
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女神のフローラと、「赦しの樹」の男性の顔が同じ。画家でも漫画家でも「持ち顔」のバリエーションには限りがあるものだけれど、男と女は別にして欲しいかな。

さて「赦しの樹」のような裸の男女を見ると、ついアダムとイヴかなと思ってしまう。でもこれは別の物語。人物が描かれていると顔を中心に見てしまうもの。ハイ、女性の脚に注目。木の中からメリメリッと出てきている。そんな話はエデンの園になかった。それにリンゴも描かれていない。

この物語は

  トラキアの王女ピュリスがアテネの王デーモポーンという男性と結ばれる。
  色々と事情があってデーモポーンがピュリスを捨てる。
  ピュリスは自殺を図るが、哀れに思った神々によってアーモンドの木に変えられる。
  後悔したデーモポーンがその木を抱きしめると、幹からピュリスが現れた。

というもの。物語だけだと王子にキスされた白雪姫のようなハッピーエンドだが、バーン=ジョーンズの絵では、どうみてもデーモポーンは厭がっているし、ピュリスは恨めしや〜な表情である。

よく調べてみると、この物語はピュリスとデーモポーンのギリシャ神話をベースにバーン=ジョーンズが創作したものらしい。オリジナルではピュリスが蘇ったりしない。

実は彼はマリア・ザンバコという女性と不倫関係になり、そのことで世間から批判され、またマリア・ザンバコとの仲がもつれると、彼女に公衆の面前で運河に飛び込むという自殺未遂を起こされたりと色々とツライ目にあっている(/o\)

そういうことが、芸の肥やしとなって絵に現れているのかな。



いい作品も見られたが、何かと不満の多い展覧会だった。ところでほぼ同じ時代の印象派なら年中といっていいほど、どこかで展覧会が開かれている。それと較べてラファエル前派は2〜3年おきくらいなのが残念。是非とも、次の展覧会は素敵な内容でありますように。


おしまい

wassho at 20:02|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月24日

ラファエル前派の軌跡 その4

「滝」 ジョン・エヴァレット・ミレー 1853年

ラファエル前派は細部まで描き込むのがひとつの特徴。それでミレーはその細密な風景に人物を溶け込ませるのがうまい。そして最高傑作のオフィーリアもそうだが、これだけの絵を仕上げるのにどれだけのーーーと考えると半端なく力作なのに、眺めていてまったく気負いを感じないし、とてもナチュラルに目に入ってくる。本当にうまい絵というのは、そういうものじゃないかと思う。
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ちなみにモデルはラスキンの奥さんのエフィ。後にラスキンと離婚してミレーと結婚している。ラファエル前派の入り乱れた男女関係については書かないつもりだが、つい触れたくなってしまう(^^ゞ



「結婚通知ー捨てられて」 ジョン・エヴァレット・ミレー 1854年

先ほど書いたことの裏返しになるのかもしれないが、人物しか描かれていない肖像画だとちょっと物足りないかな。それにこの絵は婚約破棄された女性の悲しみや屈辱を描いているらしいが、特にそんな感情は伝わってこない。
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「誠実に励めば美しい顔になる」 ウィリアム・ホルマン・ハント 1866年

ロセッティ、ミレーと並んでラファエル前派を立ち上げたメンバーの1人であるハント。でもなんとなく影が薄い。過去のラファエル前派展覧会のブログでも取り上げていない。際だった個性がないからかな。

この作品はタイトルがナゾ。もし今の世の中で、こんなタイトルをつけて作品を発表したら炎上しそう(^^ゞ それはさておき見れば見るほど味わいのあるスルメのような絵。ただし、これが「ラファエロ以前に戻ろう」というコンセプトに合致しているかどうかはよくわからない。でもこれはこれでいいんじゃないか。
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「リュートのひび」 アーサー・ヒューズ 1861-62年

キャンバスの上側が丸くて、草むらを背景に女性が横たわっていて、ましてラファエル前派の展覧会なら、どうしてもオフィーリアを連想してしまう。あれほど凄味のある絵ではないにしても。
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アーサー・ヒューズは初めて聞く名前。調べてみるとラファエル前派のメンバーではない。しかしロセッティらメンバーとの親交はあり、影響を受けていることは他の作品からも明らか。次の「音楽会」もそうだが、どことなく思わせぶりな雰囲気が作風みたい。


「音楽会」 アーサー・ヒューズ 1861-64年
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ラファエロ前派のコーナーには、他にフォード・マドクス・ブラウン、ジョン・ブレット、アルフレッド・ウィリアム・ハント、ジョン・ウィリアム・インチボルトの作品が展示されていた。そして次はラファエロ前派周縁というコーナーになるのだがーーー。

ラファエロ前派とはロセッティらが目指した運動に賛同した画家たちの総称ではなく、固有名詞のグループ名で、そのグループのメンバーがラファエル前派の画家である。それはロセッティ、ミレー、ハントら3人の立ち上げメンバーと、後から加わった次の4名。

   ウィリアム・マイケル・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエルの弟、批評家)
   ジェームズ・コリンソン(画家)
   フレデリック・ジョージ・スティーヴンス(批評家)
   トーマス・ウールナー(彫刻家)

ラファエロ前派の英語名はPre-Raphaelite Brotherhood。Brother-hoodは「兄弟分のちぎり」的なニュアンスでかなり強固な結びつき。逆にいえばメンバーとそうでないものとの区別は明確である。アイドルがみんなAKBじゃないのと同じ。

もちろん彼らの運動は大きな影響を与えたから、ラファエロ前派的なことを目指した画家たちを、今日においてラファエル前派グループとして括ることは不自然じゃない。

しかしである。
わざわざ「ラファエロ前派」と「ラファエロ前派周縁」というコーナーに分けておいて、「ラファエロ前派」のコーナーにメンバーじゃない画家の作品を展示するのはおかしいだろう。

もっとも4名のうち作家は2名だし、4名ともウィキペディアに載っていないほどマイナーな存在。それで作品を集められず、だからといってロセッティ(兄)、ミレー、ハントの3名の作品だけじゃコーナーが持たなかったんだろう。ただでさえロセッティ(兄)の作品が多くてバランスを欠いているのに。

そんな事情は十分わかるけれど、この展覧会はラスキンのコーナーでケチがついているので、ついでに吠えてみたしだい(^^ゞ



さてラファエロ前派周縁の作品はウィリアム・ヘンリー・ハントから。


「ヨーロッパカヤクグリ(イワヒバリ属)の巣」 1840年頃
「果実ースピノサスモモとプラム」 1843年

いわゆるスーパーリアリズムな作品。ラファエロ前派は細部の描写をおろそかにしないから、そういう意味では方向性は同じ。でもなんとなくラファエロ前派な感じはしない。スーパーリアリズムは好きなんだけれど
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それにしてもウィリアム・ヘンリー・ハントは、立ち上げメンバーのウィリアム・ホルマン・ハントと名前が似ていてややこしい。



「初めて彩色を試みる少年ティツィアーノ」 ウィリアム・ダイス 1856-57年

この絵を見てどこかデジャヴ(既視感)な気持ちになる。すっかり忘れていたが、ウィリアム・ダイスの作品は初めて見たラファエル前派の展覧会にあった。「ペグウェル・ベイ、ケント州 1858年10月5日の思い出」という作品。

両者の共通点は細密な描写で、とくに風景はスーパーリアリズムなんだけれど、人物(この作品の場合は彫像も)は同じ細密でも少し描き方が違う。つまり1枚の絵に2種類の細密さが同居していること。これがなんとも不思議な感覚で魅力的。
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「アラン島の風景」 ウィリアム・ダイス 1858-59年

同じ手法だが、特に母親と思われる女性はフィギュアのように思える。それと描いている内容なのか明るい日差しのせいなのか、とてもアッケラカンとした印象になるのが面白い。
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ーーー続く

wassho at 23:51|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月23日

ラファエル前派の軌跡 その3

展覧会は5つのコーナーで構成されていたが、その中でラファエル前派のコーナーだけは写真撮影が認められていた。
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初回のエントリーに書いたように、この展覧会はラ・フォル・ジュルネの公演の合間を縫って見に来たもの。つまり普段の展覧会と違ってデジカメ持参。ラッキーと思って撮ってみたがーーー


絵をまっすぐに撮るのは意外と難しい。カメラに左右の傾きがないように構えるのは当然として、前後の傾きもなくして作品の中央で構えないと、このように台形に歪んでしまう。テクニック的にはたいした話じゃないんだけれど、人がたくさんいる中で撮影ポジションを確保して、そういった確認を素早くすることに慣れていない。いつも適当にシャッターを押しているから(^^ゞ
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それに天井や作品を照らしている照明も映り込むし(>_<) モデルの顔の前にある縦の白い点々がそれ。右の二の腕にも大きめにひとつ映り込んでいる。これは避けようがない。(最後から2枚目の写真の天井に原因となった照影が写っている)
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じゃということで、壁に並んでいる様子を撮ってみたが、別に面白くもなし(/o\)
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というわけで会場風景を何点か撮っただけで撮影終了。
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ところで2枚目の写真は左側の絵がずいぶんと傾いているが、写真ほぼ中央にある壁の線を見てもらえばカメラが傾いていないことがわかる。カメラというのは、こういう風に意外と歪んで写るもの。カメラレンズの光学的特性によるものだけれど、もう21世紀なんだから、見た通りに写るカメラを開発してほしいと常々思っている。


さてスマホが普及した現在は一億総カメラマン時代な状況。だから多くの人がこのコーナーではスマホを取り出していた。当然ながら人の流れは悪くなる。絵が画面にいい感じで収まるように撮影位置を前後したりするから、他人とぶつかることもある。幸い?ラファエル前派はあまり人気がない。だからそれほどの混雑にはならないので大丈夫という判断だったのかもしれないが。


欧米の美術館では一般に撮影がOKなところが多い。それに対して日本ではほとんど認められていない。それに不満だったが、ちょっと認識が変わった。図録(カタログのこと)のようには撮れないし、それに近いものを目指したら撮影的にも、人が途切れるタイミングを待つことも含めてとても時間がかかる。そんな人が増えたら大変だが、スマホで気軽に撮るだけでも混雑が増す。結構デメリットあるかも。

もっとも会場風景は記録というか思い出として残したいし、気に入った作品の前でピースサインやハートマークをしての記念撮影もしてみたいのだけれど(^^ゞ


ーーー続く





wassho at 15:46|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月22日

ラファエル前派の軌跡 その2

ラスキン中心のコーナーの次は、いよいよラファエル前派の展示となる。
前回に書いたようにラファエル前派を始めたのは3名。その名前は

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ   (16)
   ジョン・エヴァレット・ミレー      (5)
   ウィリアム・ホルマン・ハント      (3)

名前の後ろにつけた数字はこの展覧会での作品数。なおミレーは「落ち穂拾い」のミレーとは別人。2人はほぼ同世代の画家。

ロセッティの作品が最も多いが、彼の作品は

   コッテリと濃い
   ジェイン・モリスという女性をモデルにした絵が多い。
   他の女性を描いてもジェイン・モリスになる(^^ゞ

という特徴がある。


「ウェヌス・ウェルティコルディア(魔性のヴィーナス)」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1863-68年頃

この作品はラスキンに酷評されたらしいが、今回の展覧会のポスターにもなったようにいい絵だと思う。彼はどこが気に入らなかったのだろう。ロセッティは他のラファエル前派の画家たちより独自路線志向が強かったから、そういうことも影響しているのかもしれない。
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「シビュラ・パルミフェラ」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1865-70年

これを見るのは2度目。背景に目隠しされたキューピッドやドクロが描かれていたり、色々と読み解かなければいけない絵でもある。絵を眺めただけでそこまで理解することは難しいのだけれど、なんとなく美人を描いただけの絵じゃないことは雰囲気に表れている。
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「クリスマス・キャロル」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1867年
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「夜が明けて―ファウストの宝石を見つけるグレートヒェン」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1868年
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「ラ・ドンナ・デッラ・フィネストラ(窓辺の女性)」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1870年
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「ムネーモシューネー(記憶の女神)」 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1876-81年
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はい、どれも同じ顔ですね。
この中でモデルがわかっているのは

    シビュラ・パルミフェラ → アレクサ・ワイルディング
    ラ・ドンナ・デッラ・フィネストラ(窓辺の女性) → ジェイン・モリス
    ムネーモシューネー(記憶の女神) → ジェイン・モリス

ジェイン・モリスというのはラファエル前派のメンバーであるウィリアム・モリスの奥さんであり、ロセッティの愛人でもあった女性。ラファエル前派というのはグループ内の男女関係が入り乱れていたのも特徴(^^ゞ ワイドショーだったら1ヶ月は放送できるくらいの分量になるので、このブログでそのテーマは省略。

ジェイン・モリスの写真。
撮られたのは1865年だからから26歳頃。
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1865


こちらは1898年の撮影で59歳頃。ずいぶんと印象が変わっている。
若い頃は髪が剛毛に見えるが、単にウェーヴをかけていただけだったのかな。
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ロセッティの描くジェイン・モリスを決して嫌いではない。ラファエル前派に興味を持ったきっかけは、2014年の展覧会のポスターに使われたロセッティの「プロセルピナ」という作品だったのだから。今回で2度目となる「シビュラ・パルミフェラ」だって、また見ることができてうれしかった。
2014年ポスター


しかしブログの画像ではわかりにくいかもしれないが、ロセッティのジェイン・モリスあるいはジェイン・モリス似の女性像はコッテリと濃くヘビーなのである。今回それが9作品も並んでいたので胸やけした(^^ゞ

また胸やけするくらい強烈なので、他の作品の印象が少し薄くなってしまったことも否めない。このコーナーの作品数は36点。その中でロセッティは16点で半数近くを占めている。前回のエントリーで全体の中でラスキンの作品が1/4も占めることに不満を述べたが、ロセッティについても同じことがいえる。どうにもバランスの悪い展覧会である。


ーーー続く



wassho at 23:29|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月21日

黄色のユリも咲いた

6月16日に初開花したユリ。
翌17日には2つ目も開花。
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雄しべの花粉にピントを合わせて(^^ゞ
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そして本日、黄色のユリも開花。
\(^o^)/といきたいところだが、ピンクのユリの間に咲いているし花は下を向いていて、あれこれアングルを工夫したけれどまったくインスタ映えしない(ブログだけれど)。
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ところでピンクのユリの花びらはもう傷み始めている。16日から数えると本日は5日目。思ったより長持ちしない。

それと16日に、咲いたユリは商品写真と違ってまだら模様で、これから色が濃くなるのかなと書いたが、まだら模様のまま痛み始めたからそうではないみたい。まだら模様もキレイだけれど、もうちょっと派手な方がいいかな。


さてチューリップは3月22日に初開花を報告して以降、例年と違ってまったくブログを書いていない。その理由はーーーお察し願いたい(涙)

いずれ総集編は書くけれど。





wassho at 21:44|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年06月20日

ラスキン生誕200年記念 ラファエル前派の軌跡

ポスター

5月のゴールデンウィークにラ・フォル・ジュルネ(クラシックの音楽祭)の公演の合間を縫って見に行った展覧会。他にいろいろブログにすることが多かったのでようやくの投稿。

ラファエル前派については過去に2回の展覧会を見に行き、それを5回のブログにしている。
あれこれ読みたければそちらをどうぞ。

   ラファエル前派その1
   ラファエル前派その2
   ラファエル前派その3

   英国の夢 ラファエル前派展その1
   英国の夢 ラファエル前派展その2

ラファエル前派って何?ラファエロの間違いじゃないかと思ったくらい、最初の展覧会に行くまで、このカテゴリーのことは知らなかった。ごくかいつまんで書くと、

  19世紀中頃のイギリスではルネサンス期、特にラファエロを手本にした
  権威主義的な絵画が主流だった。
    ↓
  それに反発した3名の美術学校の学生が、1848年にラファエロ以前に戻ろうと
  結成したグループがラファエル前派。
        ※ラファエルはイタリア語のラファエロの英語読み
    ↓
  こういう動きは当然として美術界から反感を買う。その彼らを擁護し支援したのが
  ジョン・ラスキンという大物の美術評論家。
    ↓
  ラファエロ前派のグループ自体は1853年には事実上解散したが、その考え方は
  その後も広がりを見せる。ほぼ同じ時代の象徴派と並ぶ影響があったという説もある。

イギリス、若者、反抗という点から、ラファエル前派は何となくビートルズとイメージが重なる。さしずめジョン・ラスキンがビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティン。

それはともかくラファエル前派の絵画を私はたいへん気に入った。どこがどうよかったのかは過去のブログを読んでほしい。だからこの展覧会も楽しみにしていた。



しかし最初に書いておくと、期待値が高かったからかもしれないが、この展覧会はイマイチの感が否めず。これが初めて見るラファエル前派だったら、ラファエル前派は私のお気に入りのカテゴリーになっていなかったかもしれない。

その要因の1つは展覧会のタイトルに「ラスキン生誕200年記念」とあるように、ラスキンに重きを置いたコンセプトや構成にある。

全展示152点のうちラスキンが40作品、つまり1/4を占める。しかも展覧会のほぼ出だしからである。そして、そのほとんどがツマラナイ(/o\)

ラスキンが当時の美術評論家としてかなりの地位と名声を得ていたことは間違いない。しかし画家としては40作品も展示するレベルにはまったく達していない。ジョージ・マーティンだってピアノを弾いたし、ひょっとしたら歌も歌ったかもしれない。でもそれをレコーディングするなんてことはしなかった。三菱1号館美術館にはラスキンの熱烈なファンでもいるのだろうか。


ところでラスキンはラファエロ前派より1世代ほど前のイギリス屈指の風景画家であるターナーとも親しかったことで有名。そういうことから展覧会はターナー作品から始まる。しかしラファエロ前派の画家たちは当然ターナーの絵を見ているはずだが、彼らがターナーから直接的な影響を受けた形跡はない。「ラスキン生誕200年記念」だから仕方ないが、ラファエル前派的にはターナーを一緒に並べる意味はないし雰囲気的にも合っていない。

まあ数年ぶりにターナーの絵を何点か見られたのはよしとするが。

「エーレンブライトシュタイン 破壊される要塞」 ターナー 1819-20年
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「エーレンブライトシュタイン」 ターナー 1832年頃
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「カレの砂浜――引き潮時の餌採り」 ターナー 1830年
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しかたなく(^^ゞラスキンの作品も紹介。

「モンブランの雪―サン・ジェルヴェ・レ・バンで」 ジョン・ラスキン 1849年
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「ストラスブール大聖堂の塔」 ジョン・ラスキン 1842年
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「高脚アーキヴォールト:カ・フォスカリ川岸、ビザンツ帝国期の廃墟−ヴェネツィア」
 ジョン・ラスキン 1849年
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1枚目は観光地でキャンバスを立てているオッサン・オバハンの絵と変わらない。2〜3枚目は描写が細かいので小さな画像だと多少はマシに見える。残りの作品のほとんどはこの3枚以下のレベル。もっともラスキンの立場に立って考えると、彼はよく旅行をしている。この時代にカメラは発明されていたが、持ち運んで風景を撮るレベルの実用性はなかったはず。美術評論家として興味を持った風景の記録用、研究用に描いたものなんじゃないかな。まさか生誕200年の展覧会が外国で開かれるなんて予想だにしていなかったと思うけれど。

ラスキンの絵をさんざん見せられた後に、ようやくラファエル前派の作品になる。
しかし、そこでもいろいろ問題が。


ーーー続く

wassho at 08:28|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月18日

初めての入院 その13

退院してから3回目の通院。

前回は血液検査の結果が思わしくなかった。今回も少し改善した程度で無罪放免とはならず。体調的にはまったくノーマルなんだけれど、どこが悪いのだろう。

とりあえず抗生剤はやめて2週間様子を見ることになった。薬を飲まないのだから、そんなに心配することはないだろうと自分に言い聞かせる(^^ゞ


その抗生剤。抗生物質という名前の方がなじみがあるが、抗生物質を薬にしたものを抗生剤というみたいだ。抗生物質は「微生物が産生し、ほかの微生物の発育を阻害する物質」という定義。だから平たくいうと細菌を壊したり増えるのを抑える薬が抗生剤である。ちなみに世界で最初に開発されたのはペニシリン。名前だけはよく知っていたが、調べてみると肺炎、梅毒、喉頭炎、中耳炎などに効く薬だった。それぞれの病気につながりはなさそうに思えるが。

私が処方されていた抗生剤をネットで調べると、細菌のDNA複製を阻害し、殺菌作用があると書かれていた。適応する疾患は

   肺炎、慢性呼吸器病変の二次感染、急性気管支炎、乳腺炎、肛門周囲膿瘍、
   咽頭・喉頭炎、扁桃炎(扁桃周囲炎、扁桃周囲膿瘍を含む)、腎盂腎炎、
   前立腺炎(急性症、慢性症)、精巣上体炎(副睾丸炎)、尿道炎、感染性腸炎、
   腸チフス、パラチフス、コレラ、涙嚢炎、麦粒腫、瞼板腺炎、外耳炎、中耳炎、
   副鼻腔炎、化膿性唾液腺炎、歯周組織炎、歯冠周囲炎、顎炎、炭疽、ブルセラ症、
   ペスト、野兎病、Q熱、結核、膀胱炎、表在性皮膚感染症、深在性皮膚感染症、
   リンパ管・リンパ節炎、慢性膿皮症、痤瘡(化膿性炎症を伴うもの)、
   外傷・熱傷および手術創等の二次感染、胆管炎、胆のう炎、バルトリン腺炎、
   子宮内感染及び付属器炎、子宮頸管炎

と、これまた幅広い。
どうでもいいけれど「ブルセラ症」なんて名前の病気があるんだ(^^ゞ


この抗生剤の効果はすぐわかる。飲むとウンチがクッチャくなるから。抗生剤は細菌に作用するものの、都合よく悪い細菌だけをやっつけてはくれない。腸内には善玉菌と悪玉菌がいる。FZ医師によるとこの抗生剤は両方の細菌をやっつけてしまうとのこと。善玉菌がいなくなるとウンチがクッチャくなるのだ(^^ゞ

ということは今、私の腸には善玉菌はいないけれど悪玉菌もいない。だから「善玉菌を増やす」とうたっているヨーグルトやサプリメントを摂れば善玉菌だらけになるのかな?


今回の検査で無罪放免にはならなかったが、普通の生活、食事をしていいし、飲み過ぎなければアルコールもOKという許可も出た。まあ仮釈放といったところかな。

というわけで病院から自宅に戻ってきた昼過ぎに祝杯(^^ゞ
まだ先はあるけれど、ここまでの道のりも長かったゼ。
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ーーー続く

wassho at 20:50|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年06月17日

ハマキムシが発生(>_<)

もう決して満開にはならないが、年末年始には赤い花を咲かせて、それなりに楽しませてくれるクリスマス・カクタス。写真は去年のクリスマスの様子

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例年はゴールデンウイーク頃に伸びた葉を剪定する。剪定といっても節状になっている葉の先を適当にちぎり取るだけだが。

しかし今年はゴールデンウイーク中にやりそびれ、そして5月10日からまさかの入院。28日に退院したものの、お腹にチューブが挿されたままの状態で。というわけで1ヶ月以上遅れた昨日に剪定をすることに。

ベランダに出てクリスマス・カクタスを見ると、

    ナンジャ!! この黒いツブツブは!!!

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アップで。
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地面にも黒いツブツブがいっぱい。
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明らかに虫、すなわち害虫の糞である。
私のガーデニング生活はクリスマス・カクタスから始まったようなものだが、
こんな経験はしたことがない。

剪定は中止してネットで調べる。
どうやらハマキムシという害虫のようである。葉にくるまって隠れるのが葉巻虫の名前の由来らしいが、クリスマス・カクタスのような分厚い葉まで襲うとは。



この時点で虫のようなものは見当たらなかった。
とりあえず葉についた糞を古い歯ブラシでこすり落とす。

よく見ると被害甚大(/o\)
ハマキムシに食われてクリスマス・カクタスの葉がとても細くなってしまっている。
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左側があまり食われていない葉。
中央と右側は食われて細くなった葉。
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それにしてもすごい糞の量である。いつからいたのだと過去の写真を調べて見る。
すると、これは5月29日に撮った写真。異常なしのように思えるが、
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画像を拡大してみるとハマキムシがいた!
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ということは、少なくとも5月29日から約2週間半も食われぱなしだったことになる。
許してくれクリスマス・カクタスm(_ _)m


歯ブラシで糞を落としているときに念入りに観察したがハマキムシはいなかった。もう食い飽きてどこかへ行ったかと思ったが、土の表面のゴミを取り除こうと土を触っていると、土の中からハマキムシが出現。こいつらは危険を感じると土の中に隠れるらしい。
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ハマキムシは意外と速いスピードで移動する。
もちろん地面に落として踏みつけた。
その写真も撮ってあるが、グロいので掲載は自主規制(^^ゞ

出てきたハマキムシは2匹。プランターに割り箸を突っ込んで徹底的に捜索した。ほかの植物も確認したが、どうやら大丈夫そう。


糞を落とし剪定も済ませたクリスマス・カクタス。葉先だけでなく食われた葉も根元近くからチギったので、かなりスカスカな状態。最初の写真と較べるとあまり違いがないように見えるが、5月29日の写真と見較べてほしい。逆にいえば、5月29日から葉を食われて、徐々にスカスカになった変化に気がつかなかったことを後悔。かなり心配だが、夏になれば葉がたくさん伸びてくるはず。しかし、またハマキムシがやってこないか今年は要注意観察が必要かも。
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それにしても小さなベランダでハマキムシ2匹で大騒ぎである。無農薬で栽培している農家ってたいへんだろうなと、あらぬ思いをいだいたハマキムシ初体験(^^ゞ



wassho at 23:58|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年06月16日

ユリが咲いた!

人生で初の入院をするなど、
令和になってからズッコケ感が否めないけれど、
本日めでたくユリが初開花\(^o^)/

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初発芽したのは3月17日なので、それから3ヶ月での開花となる。
半分咲きかけているのがあと1つ。昨日はどちらもこの状態だった。
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ツボミはたくさんあるので、これからが楽しみ。
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これは2週間ほど前の5月29日の写真。
ベランダのフェンスは1m20cmあるからユリというのは背が高い。
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ところで購入した球根はこの3色。
今は白とピンクのまだら模様だが、これからきれいなピンクになるのかな?
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何色でもいいから、たくさん咲いて楽しませておくれ。




wassho at 17:11|PermalinkComments(0)   *チューリップ以外 

2019年06月11日

初めての入院 その12

本日は退院してから2回目の通院日だった。

病院に着くとまず採血、そしてCT撮影。

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CTはレントゲンの一種だけれど、コンピューター断層撮影(computed tomography)の名の通り身体を断層=輪切りにして撮影できる。

一般のレントゲンはX線照射装置→身体→画像センサー(昔ならフィルム)の順に並んで撮る。デジカメに置き換えるなら太陽光線→被写体→画像センサー。つまり撮影は一方向からのみ。

一方でCTはX線照射装置と画像センサーが対になって円周上にあり、身体を円の中に置いて、対になったX線照射装置と画像センサーが円周上をグルグル回って360度全方向から撮影する。またベッドがスライドして身体の広い範囲を撮影する。それで得られた画像データをコンピューターで合成して、広範囲の輪切り画像を得られるという仕組み。

説明がよくわからない? 
じゃ習うより慣れろというから、病気になってCTの検査を受けてみて(^^ゞ


その2つを終えてから診察室に入る。もう体感的にはまったく異常はないので「よかったですね、すっかりよくなりました」という言葉を期待していたのだがーーー

CT撮影はお腹の中にまき散らした膿の状態を確認するためのもの。FZ医師によれば当初の5%位になっているとのことでひと安心。輪切り画像を見ながら説明してもらったが「これが内蔵です、これが膿です」と表示されるわけではなく、また内蔵も膿も同じグレーの影みたいなもので、その微妙な形を読み取って判断している。ほとんど職人技。

ところで今回の入院は、最初に診察を受けたMG病院のUZ医師が盲腸ではないと判断し、その後に上がってきたCTの詳細レポートなるものに「盲腸の疑いあり」と記載されていたことで対応が遅れた。医療関係の友人にそのことを尋ねると「CT画像を読み取るのが得意な先生と、そうじゃない先生がいる」とのこと。そうじゃない先生は専門の技師かなんかにレポートを依頼するらしい。なんとなく内科医より、手術で身体の中を直接見ている外科医の方が信頼できそうな気がする。


それはさておき問題は血液検査の結果。ある項目が入院時より悪化しているらしい。原因はいろいろ考えられるのだが、悪いケースの想定は、説明を聞くのもブログに書くのもビビる内容(>_<) だから書かないでおく。

それで今回は、前回の通院までで投与を終了していた抗生剤をまた飲むことになった。5%残っている膿が影響しているという判断なのだろうか。そのあたりはあまり詳しく尋ねなかった。



ーーーというわけで不本意ながら、まだ続く。
とりあえずは元気なんだけどなあ。





wassho at 18:26|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年06月10日

お粥についての誤解

先日、入院していた時のこと。
最初の1週間は食事がなく点滴での栄養補給のみ。これは腸を安静にする=働かせないための措置。

病院食が始まったのは8日目から。最初は中粥食という五分粥とおかずの組み合わせ。五分粥とはお粥(かゆ)と重湯(おもゆ)が半々程度のお粥。

<これが五分粥の病院食 米粒はほとんど重湯に隠れている>
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やがて中粥食から軟菜食というメニューに変更になった。おかずも1皿増えたが、いちばんの違いは五分粥が全粥に変わったこと。全粥とは重湯のスープがない普通のお粥である。

<これが全粥の病院食 米粒が見えている>
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それでそのお粥。入院中にも書いたが味がなくて、五分粥はスープみたいなものだからなんとか我慢できたが、全粥はとても食べにくかった。それで病院内の売店で振り掛けを買って使っていた。
振り掛け

しかし、お粥とは水の量を多くして柔らかく炊いた米であって、基本的にはご飯と同じもののはず。ご飯は味付けなしでも不満はないのに、お粥だとなぜまったくおいしくないのか不思議だった。


さて退院して2週間近くたつが、現在もお粥を食べている。たまにパンの時もあるし、おかずだけの場合もあるけれど、主食は基本的にお粥である。退院するときに医師から食事についての注意は特になかった。でもまあ消化に良いものというのは常識だろう〜ということで選んだお粥だったが、なぜかいまだに続いている。体が欲しているのか、あるいは気持ち的にビビっているのかはわからない。とにかく今のところ普通のご飯を食べる気にはならないでいる。


もちろんお粥はレトルトである。
写真はスーパーの棚。写真には入っていないが、もう2〜3種類ある。
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病院での経験を踏まえて具入りの味付きのお粥を買っていた。でも、もうそれぞれ何回も食べたし、そういえば病院で買った振り掛けも残っていることを思い出し、写真の右から二番目の、特別栽培の魚沼産コシヒカリ100%だという「魚沼白がゆ」を先日買ってみた。これは具が何も入っていない、味付けのないプレーンなお粥である。

     食べた。
     美味しかった!

つまりお粥というのはご飯と同じ程度おいしいものであって、病院のお粥に味がなくてマズいと感じたのは、味がなかったからではなくて単に病院のお粥のレベルが低かっただけということがわかった。普段はお粥なんて食べないので、そのことに気づかなかったというか、そう判断をする情報を持っていなかった。


やはり何事も経験は大事。
そしてお粥の名誉回復のためにこんなブログを書いた(^^ゞ





wassho at 08:56|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年06月08日

奇想の系譜展 その4

鈴木其一 (すずき きいつ 1796-1858)

琳派(りんぱ)については以前に書いたから解説は省略する。琳派最後のスーパースターである酒井抱一(さかい ほういつ)の弟子が鈴木其一である。

その琳派の歴史は安土桃山後期に遡り江戸後期まで続く。そのトリを飾ったといってもいい鈴木其一がどうして奇想などという傍流のレッテルを貼られるのか。

最初のエントリーに書いたように、この展覧会は辻惟雄が1970年に出版した「奇想の系譜」という書物をベースにしている。ただしそこで取り上げられているのは6名の絵師で鈴木其一は含まれていない。この展覧会を監修したのは辻惟雄の門下生といってもいい山下裕二という美術史家・評論家。そして最近の彼はかなり鈴木其一「推し」である。それには伊藤若冲の大成功によって、この業界は第2の若冲発掘に躍起という背景がある。そこで本来は「奇想の系譜」とは関係ない鈴木其一を監修者権限で展覧会にブッ込んできたのではないか。まあ美術の世界だっていろいろと「大人の事情」はあるだろう(^^ゞ ちなみに展覧会に出展されているのは8名で、本に載っていないもう1人は白隠彗鶴である。

そんな邪推が当たっているかどうかは別として、琳派好きとしては鈴木其一を見ることができてよかった。ただし作品数が少なかったのが残念。


「百鳥百獣図 ひゃくちょう・ひゃくじゅう・ず」 1843年

琳派らしさは横に置いて、ちょっと「若冲入っている」ような作品。また伊藤若冲、長沢芦雪に続いて鈴木其一も象を描いている。なぜか3人とも白い象。元ネタが白く描いていたのかな。そして象の後ろにはラクダまで。象より大きいのは本物を見たことがなく、正確な情報もなかったからだろう。数多くの鳥や動物が描かれていて、また想像上のものもあって楽しく見飽きない作品。
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「四季花鳥図屏風」 1854年

同じ金箔ベースでもグイグイ押してくる狩野派は、やはり武家屋敷や寺社に置かれるのがふさわしい。しかし琳派の金箔はもっと肩の力が抜けていて、現代のリビングルームでもマッチするモダンさがあると思う。相当に広くて他のインテリアも絵に負けないリビングという条件はつくけれど(^^ゞ

右隻の水の中から伸びているのはアヤメの類で、他の花の種類は具体的にわからないけれど、おそらく開花時期の違いは無視した花のラインナップ。花好きとしてはそこに違和感を感じざるを得ないが、まあ賑やかでいいか。

なお作品は六曲一双の屏風だが、左隻はその左半分の画像しか見つからなかったので画像のサイズが揃っていない。
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「貝図」 

後ろにある植物は梅の実だと思う。白と黒の縞があるのはたぶん赤貝。だとしたら貝殻表面の凹凸が描かれていないから、一見すると写実的に見えるが実はそうでもないことになる。中途半端な絵ともいえるが、何ともいえない雰囲気と落ち着きを感じるのは鈴木其一の力量なのだろう。
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歌川国芳 (うたがわ・くによし 1797-1861)

歌川国芳の自由奔放な発想も奇想と呼ぶのにふさわしい。現在、歌川国芳は多くのファンがいて、また江戸時代にも人気絵師だったのに、奇想の系譜が出版された1970年当時は「その他大勢」の扱いだったということに驚く。


「一ッ家 ひとつや」 1855年

この絵は初めて見たし、歌川国芳にこんな作品があるとはまったく知らなかった。縦2.28m横3.72mの巨大なサイズと描かれている内容で迫力満点である。何を表現しているかというと

  浅草に老婆と娘が住んでいた。最初は男と思ったが、よく見れば垂れ乳である(^^ゞ
  老婆は旅人を泊めては殺し金品を奪っていた
  娘はそれに反対だった
  ある日、童子に化身した観音菩薩が宿泊する
  いつものように殺害しようとする老婆、それを止めようとする娘

というシーン。この先はどうなったのか調べてもわからなかった。また観音菩薩はなぜあまり金品を持っていない童子に化けたのかも疑問。しかしこの絵の前に立つと、そんなことは気にならずに、ひたすらその迫力に押されっぱなしになる。

ちなみにこの絵は吉原遊廓の主人がパトロンとなり浅草寺に奉納された(吉原は浅草の近くにある)。しかしこの絵で、信者あるいは参拝客に何を訴えたかったんだろう?
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ここから先はいつもの歌川国芳ワールドの浮世絵。
ビジュアルとタイトルだけで楽しめるので解説はナシ。

「相馬の古内裏 そうまのふるだいり」1845年頃
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「宮本武蔵の鯨退治」 1847年
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「鬼若丸の鯉退治」 1845年頃
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「龍宮玉取姫之図」 1853年頃
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そして歌川国芳といえば人体で描かれた顔もはずせない。

「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」 1847年頃
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奇想という言葉を奇想天外、奇抜という解釈で捉えると、方向性は違うけれどまさに奇想と思えるのは曽我蕭白と歌川国芳。また「山中常盤物語絵巻」に感じられる岩佐又兵衛の狂気を含めてもいい。狩野山雪と鈴木其一は、この展覧会にあった絵を見る限り正統派に近い絵師に思えた。長沢芦雪はユニークだけれど奇想というほどではない。白隠慧鶴は他の絵師とはジャンルが違うといえるし、その画風もちょっと変わっている止まり。ただし布教の手段として絵を用いるという行動は奇想と呼べるかもしれない。

引っかかるのは伊藤若冲。現在の視点で彼の絵を見れば堂々たる日本画としか思えない。一部にお茶目な作品もあるが、それをもって奇想とはいえない。しかしバッハやモーツァルトの時代にワーグナーやマーラーの音楽を演奏すれば、同じクラシックではなく別のジャンルの音楽に感じたかもしれない。あまりに違うので拒否反応もあっただろう。そう考えると伊藤若冲は奇想だったという想像も働く。わかりにくい例えでゴメンm(_ _)m

別に奇想という言葉にこだわっている、あるいは否定しているわけじゃない。ちょっと面白いキーワードあるいはカテゴリー分類だったので引き込まれただけ。そういう意味では右脳だけでなく左脳にも刺激を受けた展覧会だった。それにバラエティに富んだ作品を見られていい企画だったと思う。西洋の絵画と較べて古い日本画はどうしてもワンパターンな印象が拭えない。それを覆すような展覧会を今後も期待する。


おしまい




wassho at 16:43|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月06日

奇想の系譜展 その3

狩野山雪 (1590〜1651年)

狩野と名前がついているのでもちろん狩野派の絵師である。狩野派といえば室町時代から江戸時代までの400年間にわたり、日本画の中心であった本流中の本流。つまり奇想とは真逆の存在。しかし狩野山雪が奇想の画家として取り上げられているということは、狩野派の中にも跳ね上がりの絵師がいたのか?

ーーーという期待をしたが、作品を見る限りごくオーソドックスで「狩野派 正統日本画展」という展覧会に展示されていたとしても違和感のないものが並ぶ。どうしてこれが奇想なのか。見る目のある人なら狩野派としては斬新なところがあるのだろうか。私の感性と教養では何もわからず。


「梅花遊禽図襖 ばいか・ゆうきん・ず・ふすま」 1631年

不自然に曲がった梅の幹がアバンギャルドな表現といえなくもないが、全体的には威風堂々とした正統派。
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「龍虎図屏風」

龍と虎はよくある組み合わせ。どちらも強さの象徴。それにしてはこの屏風絵は変わっている。まったく覇気がない。龍は悩んでいるあるいは困ったような顔つき。虎は龍を見上げてはいるが睨んではいないし、前脚を揃えて従順なポーズ。それが面白いとか、そのような表現に何か美術史的な価値があるとは思わないが、珍しい作品であることは確か。
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「武家相撲絵巻」

全12巻の絵巻。日によって場面を入れ替えての展示。もう記憶が曖昧で貼り付けた画像が私が見たものかどうかの自信はないが、どれも似たような絵なので差し支えないかと。

描かれているのは平安や鎌倉の時代の相撲らしい。相撲を取っていない人の服装から1〜2枚目が平安時代で、3枚目が鎌倉時代かな。逆にいえば、その程度しか違いがない。
それにしても2枚目は投げ飛ばしすぎやろ(^^ゞ
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白隠彗鶴 (はくいん・えかく 1685〜1768)

臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。禅宗には「言葉に頼るな」という教えがあるらしく、それで絵を仏教の教えを伝える手段として用いたとされている。そういう点ではこの展覧会の他の絵師とは絵に対するスタンスが異なる。


「達磨図」 1727年頃 静岡・永明寺蔵
「達磨図」 1768年頃 大分・万寿寺蔵

いつ何で知ったのかは忘れたが、この2つの達磨図を最初に見たときのインパクトは強烈だった。永明寺の達磨図を見たのは中学か高校の頃だったような気がする。ダルマといえば縁起物の置物だと思っていたのに、それが人間で僧侶で、こんな険しい顔をしているることにビックリした。万寿寺のほうは大人になってからだと思うが、まるでポップアートのような作風が印象的だった。これらが同一人物の作品だと知ったというか認識したのはずっと後になってから。それを2つ一緒に眺められる日が来るとは。

ちなみに達磨はインド人の僧侶で禅宗の開祖。白隠彗鶴は禅宗である臨済宗の僧侶だから、開祖である達磨の絵を多く描いたというわけ。白隠彗鶴の絵は現存するだけで1万点以上あるとされ、そのうち達磨図は200点ほどらしい。
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「蛤蜊観音図 はまぐり・かんのん・ず」
「布袋図 ほてい・ず」
「鍾馗鬼味噌図 しょうき・おにみそ・ず」

どれもユーモラスな作風。この絵を見せながら楽しく説法をしたのかも知れない。それぞれに書かれている文章をまったく読めないのが残念。

蛤蜊観音図は中国の皇帝がハマグリを食べようとしたら、中から観音様が現れたという言い伝えがベース。
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ボッティチェリのこの絵と結びつけるのは、もちろん無理がある(^^ゞ
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布袋図の文章が書かれている紙はメビウスの輪のように捻れているとのことだが、解説されないと気がつかないかな。
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鍾馗(しょうき)とは中国の道教の神様。彼がすり鉢に入れた鬼をすりつぶして味噌にしている様子らしい。それがどういうメッセージなのかはよくわからないが、少なくともそんなんに恐ろしいシーンには見えない。
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全般的には漫画に近い画風の白隠彗鶴。面白おかしい感じこそすれ奇想という印象は受けない。なぜか奇想というカテゴリー分けに文句ばかり言っている。


ーーー続く


wassho at 23:08|PermalinkComments(0) 美術展 

2019年06月05日

奇想の系譜展 その2

曽我蕭白 (そが しょうはく 1730-1781)

曽我蕭白の絵を見たのは過去に数回しかない。それでも一目見たら忘れられないインパクトがあるので、回数の割には強く記憶に残っている絵師である。

奇想というのがこの展覧会のテーマなら、8名の中で最もその言葉が当てはまるのは曽我蕭白だろう。別の言葉でいえば不気味な絵を描く。どうしてこんな絵を?と思ってしまうが、美術部でもそういう連中は必ずいるし、またホラー映画が大好きな人もいる。その彼ら彼女らが不気味な人間かというとそんなことはないから、一定の割合で特に深い理由はなく、そういうことを好む(ごく普通の)人間がいるものなのだ。だから曽我蕭白は一般受けしなくてもニッチなマーケットでのニーズは高かったと思う。


「群仙図屏風」 1764年頃

墨絵を背景に人物はカラーで描いた作品。六曲一双の屏風で上の画像が右隻で下が左隻。
なお画像はすべてクリックすると大きくなる。

左隻に描かれている女性を除くと、他は子供も含めて醜く気味が悪い。そして描かれている大人は仙人というのだから訳がわからなくなる。ある意味、軽くクラっとする快感を楽しめる作品。
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「雪山童子図 せっせん・どうじ・ず」 1764年頃

この絵に不気味さはない。それでも描かれた当時は充分にアバンギャルドだったはず。

子供が鬼と遊んでいるように思えるが、実は子供は修行中の釈迦。そして鬼は帝釈天が姿を変えて現れたもの。鬼はある仏教の教えを釈迦に伝える。そしてもっと教えてもいいけれど、お腹が空いているから教えた後はお前を私に食わせろという。この作品は釈迦が残りの教えを聞いた後、鬼に食べられるために木から飛び降りるところが描かれている。つまり釈迦の修行への熱意を表現した宗教画。もちろん釈迦が飛び降りた瞬間に鬼は帝釈天に戻るから食われはしない。

  そんなストーリーはよほど仏教に詳しくないとワカランワ(^^ゞ

しかし絵は変わっているけれど、こういうテーマを選んで描くのだから、曽我蕭白がイカれたサイコ野郎じゃないことは確かだ。
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「美人図」 1764年頃

美人画も曽我蕭白が描くとこうなる。彼女が手にしているのは噛みちぎってボロボロになった手紙である。着物も着崩れているし表情もどこか虚ろ。つまりこれは江戸時代のメンヘラ女子!
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長沢芦雪 (ながさわ ろせつ 1754-1799)

長沢芦雪は円山応挙の弟子である。
奇想という印象はなくオーソドックスが画風に思えるのだが。


「龍図襖」 1786年頃
「郡猿図襖」 1795年
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「白象黒牛図屏風」 1795年頃

奇想とは思わないが、画面いっぱいに描かれた象と牛がユニーク。またそれぞれカラスや犬が小さく一緒に描かれているのも特徴。明らかに見る人を意識していると思う。表現を変えればウケ狙い。なお伊藤若冲も同じ頃に象を描いているから、流行りのテーマだったのかな。
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「なめくじ図」 

さらにユニークなのがこの作品。大きさは約30センチ四方。ということは掛け軸に入れて床の間に飾る絵。そこにナメクジ、しかもほとんどが這った痕。シャレで描いたのだろうか。長沢芦雪は憎めないね(^^ゞ
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「方広寺大仏殿炎上図」 1798年

大仏といえば奈良か鎌倉だが、かつては京都に東大寺より大きな大仏があった。建てたのは豊臣秀吉で完成したのが1595年。しかし翌年の地震で倒壊。1598年に秀吉が亡くなると、1599年に息子の秀頼が再建を開始。しかし1602年に大仏に銅を流し込む際に火災が発生。この作品はそれを描いたもの。

その後また再建を図り1614年にはほぼ完成するが、同時に製作した鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていることに家康がイチャモンをつけ、それが大坂冬の陣へつながっていく。教科書ではその鐘のことしか習わなかったかな。いずれにせよ豊臣家にとっては踏んだり蹴ったりの方広寺である。

絵はとてもシンプル。スケール感は全くないから、方広寺という大寺院が炎上しているのか、その辺の建物が火事になっているのかは見ただけではわからない。でも方広寺の火災のことを知識として知っていると、迫力のある絵に感じられるから不思議。それと左下の文章(署名?)の一部が炎と同じ朱色で書くセンスが気に入った。
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「山姥図 やまんば・ず」 1797年頃

かつて1990年代に渋谷にもたくさん生息していたヤマンバ(^^ゞ 改めて調べてみると「山奥に住む老女の妖怪」らしい。ドキッとするような顔つきで描かれている山姥だけれど、曽我蕭白を見た後ではそれほど驚かない。

ところでこの山姥は山姥界でも有名な山姥なのである。彼女に手を取られているのは「♪マサカリかついだ金太郎」の金太郎。クマと相撲を取って勝ったあの金太郎である。金太郎の誕生にはいろんな説があって、人間の女性が人間の子供をシングルマザーとして産んだ、山姥が雷神の子供を産んだ、あるいは相手は龍だったとか。おとぎ話のフィクションンなのにバリエーションがあるのが面白い。
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岩佐又兵衛(いわさ またべえ 1578-1650)

「奇想の系譜」の著者である辻惟雄(つじ・のぶお)は岩佐又兵衛に触発されて本を書き始めたらしい。私は今まで知らなかった絵師。

しかし経歴を調べると戦国武将の荒木村重(あらき むらしげ)の息子だというから驚いた。荒木村重というのは織田信長の有力武将であったが、なぜか(理由ははっきりしない)謀反を起こし、信長に女性を含む家族や一族郎党1000名近くを皆殺しにされている。わからないことが多いだけに、歴史的には何かと気になる人物。本人が生き延びたことは知っていたものの、当時2歳だった息子がいて、それが絵師になっていたとは初耳。

岩佐又兵衛は絵巻物で有名らしい。この展覧会でも3作品が出展されている。絵巻とは横長の巻物に絵と文章でストーリーを綴ったもの。なぜか私はいつも巻絵といってしまう。


「山中常盤物語絵巻 やまなか・ときわ・ものがたりえまき」

源義経がまだ15歳で牛若丸だった頃、平家討伐のために奥州(東北地方)へ出向く。母親の常盤御前は彼の後を追うが、途中の宿で盗賊に襲われ惨殺される。後日に母を殺されたことを知った牛若丸が、その盗賊に復讐するという物語。全12巻、総延長150mという大作。なお山中というのは襲われた宿が山の中にあったから。

展覧会では第4巻と5巻の入れ替え展示。私が見たのは第5巻だけれど、適当な画像を見つけられなかったので他の巻も含めて貼っておく。そして、これがとんでもないスプラッター(殺害・血しぶき)絵巻なのである。


第3巻 牛若丸の元へ向かう常盤御前。
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第4巻 宿に押し入る盗賊。
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第4巻 常盤御前が襲われる。
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第5巻 宿の主人に看取られながら常盤御前は絶命。
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第9巻 牛若丸が盗賊に復讐を果たす。
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今ならR指定かな。これでもかと残酷なシーンが続く。注目すべきは常盤御前を殺害する盗賊も、盗賊に復讐する牛若丸も「嬉々として」人を殺していること。この物語自体はフィクションだから「嬉々とさせて」いるのは岩佐又兵衛の演出である。そこには奇想というよりは狂気を感じる。

それで思い出すのは岩佐又兵衛が荒木村重の息子だということ。彼の母親は荒木村重の謀反の失敗によって首をはねられている。そのことが影響しているのか。しかし、それは岩佐又兵衛が2歳の出来事だから記憶はないだろうし、また彼は事前に乳人に連れられて逃亡しているので現場を目撃したわけでもない。

じゃこの狂気はどこから来ているのか。それはあれこれ想像するしかないし、本人が書いた解説でも出てこなければ永遠にわからないだろう。ひとつだけ言えるのは、こういうスプラッターものには熱烈なファンがつくということである。



「官女観菊図  かんじょ・かんぎく・ず」
「伊勢物語 鳥の子図」

凄惨なスプラッターを描く一方で、岩佐又兵衛はまったく180度正反対の、まるで平安時代のような穏やかな作品も残している。ふたつめに言えるのは、ゲージュツ家の心理を理解するのは不可能(^^ゞ
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「柿本人麻呂図・紀貫之図 かきのもと・の・ひとまろ・ず・き・の・つらゆき・ず」

柿本人麻は飛鳥時代、紀貫之は平安時代の歌人。どちらも偉人というべき存在だが、それをユーモラスに、そしてやや中国風に描いている。そういう型にはまらない自由な発想は好きである。
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「妖怪退治図屏風」

江戸時代の正統派的な屏風絵。右隻に描かれているのが妖怪なのが奇想といえるが「山中常盤物語絵巻」をみた後ではとっても健全な作品に見える。
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最初に山中常盤物語絵巻を見たときは岩佐又兵衛をあまり好きになれなかった。しかしすべてを見終わると彼の画風の幅広さ、つまりは自由自在に表現できる才能に引き込まれていた。ところで岩佐又兵衛は「浮世絵の祖」ともいわれているのだが、この展覧会で浮世絵を連想させるような作品はなかった。それがどんなものかは是非見てみたい。


ーーー続く

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2019年06月04日

初めての入院 その11

退院して6日経った本日、診察のために通院。

採血の後、レントゲン室でFZ医師の診察を受ける。膿を抜いた後の空洞は無くなっていたので、お腹に挿していた管を抜けることに。

いつものように「麻酔たっぷりでお願いします」というと(^^ゞ 抜くときは麻酔はしないという返事でビビる。いつ抜くのだろうと身構えていると「はい、抜けました」と言われて拍子抜け。痛みどころかまったく何も感じなかった。

管を見せてもらうと5センチくらいしかない。もっと長いものが挿さっているいる感覚だったのに。何度か管の位置を調整したから(短くしたとは言われていないが)最初はもっと長かったのかもしれない。

何はともあれ身体からチューブが伸びているサイボーグ生活から卒業。


来週にまたCT検査をして直腸付近に溜まっていた膿がどうなっているかを確認する。抗生剤で退治できていればいいのだが。もしそうでなければ虫垂付近に管を挿して膿を抜くのとはレベルの違う手術というか施術が必要となる。チョー不安

しかし処方されている抗生剤は明日でなくなるが、それ以降は飲む必要はないとのことなので、FZ医師の見立ては楽観的なのかもしれない。いずれにしても1週間後が運命の分かれ道。


診察が終わって支払いの手続きをしている時、このブログを読んでくれたS女史から見舞いのメールが届く。ずいぶんご無沙汰しているが忘れられていなくてよかった(^^ゞ

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TO病院から駅まではモネにでも描かせたいような遊歩道になっている。
病人としてはけっこう救われた気分になる。

ーーー続く



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2019年06月02日

奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド

訪れたのは上野公園に桜を見に行った3月28日。それから都内各地での花見やラ・フォル・ジュルネなどのことを書き、また先日まで2週間ほど入院していたのでブログにするまで2ヶ月以上も過ぎてしまった。

まずは記憶をロールバックするために上野公園の写真。
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そして公園内にある東京都立美術館。
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奇想ーーー奇想天外とはいうから意味はわかるが、奇想単独ではあまり聞きなれない言葉である。改めて辞書で調べると「普通には思いつかない、変わった考え。奇抜な着想」とある。系譜とは「つながり」のこと。家系図のようなものをイメージするとわかりやすい。

展覧会のタイトルとなっている「奇想の系譜」は1970年(昭和45年)に刊行された書物のタイトルでもある。著者は美術史家で現在は東大名誉教授でもある辻惟雄(つじ・のぶお)。世間にはほとんど無名だった岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳ら6名の江戸時代の画家をこの本で取り上げている。当時の日本史の教科書に彼ら6名の名前はなく、また美術史の分野でさえ「その他大勢」の扱いだったらしい。

しかし今や伊藤若冲は、展覧会を開けば日本で最も観客を集めるスーパースターだし、他の5名もかなり名前を知られた存在になっている。まさに先見の明。もっとも「奇想の系譜」が発売された当初は3000部しか売れず廃刊になっているから、この本がきっかけで一気に6名の画家の再評価が進んだわけではない。それでも1988年、2004年に再出版され、現在は18刷を数えるロングセラーとなっている。私もいつかそんな仕事を成し遂げたいものだ。

なお展覧会は上記の6名に白隠慧鶴と鈴木其一の2名を加えた構成となっている。それぞれキャッチコピーがついていて、なかなかカッコいい。琳派の画家である鈴木其一を奇想のカテゴリーに入れるのは?という気がしなくもないが。

   幻想の博物誌     伊藤若冲
   醒めたグロテスク   曽我蕭白
   京のエンターテイナー 長沢芦雪
   執念のドラマ     岩佐又兵衛
   狩野派きっての知性派 狩野山雪
   奇想の起爆剤     白隠慧鶴
   江戸琳派の鬼才    鈴木其一
   幕末浮世絵七変化   歌川国芳



伊藤若冲 (いとう じゃくちゅう 1716-1800)

入館までに5時間待ちの行列という伝説を作った2016年の展覧会。私が訪れた日はまだ70分待ちだったのだが、それでもそんなに並べるかと展覧会を見なかったことを今だに後悔している。それ以来、首都圏である程度の規模で若冲作品を見られる最初の展覧会だと思う。

しかし一番見たかった「旭日鳳凰図」の展示が3月10日までだったのが残念(/o\)


「紫陽花双鶏図 あじさい・そうけい・ず」 1755年頃
「白梅錦鶏図 はくばい・きんけい・ず」  1775年頃

どちらも若冲らしい細密で鮮やかで色数の多い描写。お見事という以外に言葉が思い浮かばない。今回は若冲をよく見るために美術用の単眼鏡を用意した。それで細部までしっかり見ることができたのだが、だからといってさらに楽しめたかというとそうでもなかった。筆使いの分析をするのでもなければ、普通に見えるがままに鑑賞するのが一番かと。
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「梔子雄鶏図 くちなし・ゆうけい・ず」 1745年頃

若冲が30歳代の最も初期の作品といわれている。だから先ほど書いた「細密で鮮やかで色数の多い」という画風ではまだない。言っちゃ悪いが並みレベルの作品。白で描かれた羽根の部分はとても省略されていて「透明ニワトリ」みたいである。
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「虎図」 1755年

江戸時代の画家に生きている虎を見る機会はなかったはず。だからどんな巨匠であってもリアリティのない漫画のような絵になってしまうのは仕方ないところ。この絵を見れば若冲も例外ではないことがわかる。無理して描かなくてもいい気がするが画家魂が疼くのかな。
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「蝦蟇河豚相撲図 がま・ふぐ・すもう・ず」

なんともユーモラスな作品。若冲にこういう作品はどれくらいあるんだろう。
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「象と鯨図屏風」 1797年

これも漫画のような象だが、若冲は14歳の頃に天皇に見せるため京都(若冲は京都の画家)に連れてこられた象を見たらしい。でも流石に80歳を超えての作品なので、象の記憶は曖昧なイメージでしかなかったのかもしれない。鯨はおそらく見たことがなかっただろう。それにしても、あるいはだからこそか、現在のポップアートとしても通用する作風とその出来栄えには感心する。

象のユニークな描き方に惹かれて、この作品を見ることを楽しみにしていた。しかし写真でも汚れがわかると思うが、実物は屏風の折れ曲がるところの紙がささくれだって、かなり痛んでいる印象だった。いずれキレイに修復されるといいのだが。

作品は六曲一双の屏風。6面で構成された屏風が2つでワンセットという意味。上の写真が右側に配置される右隻、下が左隻である。
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伊藤若冲は14作品の展示。墨絵の花や鶏の作品もあった。しかし「細密で鮮やかで色数の多い」のが若冲という思い込みが強いせいか、それらを見てもあまり楽しめなかったのも事実。それでも若冲ワールドの片鱗に触れられて幸せな時間だった。


ーーー続く




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2019年05月30日

初めての入院 その10

昨日にめでたく退院。
数えてみるとMG病院で2日、TO病院で15日と合計17日間の入院生活。
長かったような短かったような。
入院中は検査の時以外はボーッとして過ごすしかない変化や刺激のない生活。
そうすると時間の感覚が麻痺してくる。だから17日間もという実感はまったくない。


友人たちからは色々と励ましのLINEやメールをもらった。感謝の気持ち以外ない。看護師をナンパしてくるというリクエストは果たせなかったが(^^ゞ またブログを読んでコメントを寄せてくれた人もいた。見ず知らずの人に心配してもらえるなんて思ってもみなかったこと。ありがとうございました。


昨日は帰宅してから、ほとんど何もしなかった。
本日午前中のミッションはシャワーを浴びること。入院中も3日に1回くらいの頻度で看護師さんがシャンプーしてくれたり、また暖かいウェットペーパータオルで体を拭いてくれたので、それほど不潔な状態にはなっていない。でもやはりサッパリしたいもの。

ただし問題は前回のエントリーで書いたように、お腹には管が挿さったまま。管が出ている周りは防水性のあるシートで覆われている。シャワーを浴びるには、その防水性をさらに高める必要がある。


手順としては、まず指やガーゼをカットするハサミを消毒用のアルコール綿で拭き拭き。

次に管はコネクターを介してビニールチューブに接続され体液入れの容器とつながっているのだが、その接続を切り離す。そして、それぞれの接続面を消毒。

お腹から伸びている管を、オリジナルの防水シートの上に這わせて絆創膏で留める。

そしてオリジナルの防水シートを覆うようにガーゼを被せる。さらにその上から新たな防水シートを貼るのだが、オリジナルのシートの上に直接新しいシートを貼ると、それを剥がすときにオリジナルのシートも一緒に剥がれる可能性があるから。

ガーゼを絆創膏で留める。

そしてガーゼを覆うように新しい防水シートを貼る。防水シートは幅の広いセロテープのようなもの。ただしとても薄くて柔らか人工皮膚みたい。粘着力は絆創膏より少し強い程度なのだが、密着力が強いので結果的にかなりの粘着力となる。


手順としてはその程度なのだが、立ったまま下を見ながらのの作業だし、ガーゼも防水シートも複数枚使うのでなかなか思うように配置できない。結局15分以上はかかった。そしてシャワーは立って浴びるつもりだったが、シャンプーなどを取るために屈んだりすると防水シートが剥がれそうになったり。だからかなり気を使ってのシャワータイム。結局サッパリしたのか疲れたのかよくわからず(^^ゞ

シャワーが終わったら全てを剥がして元の状態に戻す。オリジナルの防水シートに少し湿り気を感じたが、これくらいなら大丈夫だろう。
まあ何かあれば、また救急車に乗ってやるぜ(^^ゞ

シャワー


シャワー作業資材の1回分は病院から貰ってきた。それで午後は駅前のドラッグストアまで次回以降の資材の買い出し。

しかし、そういう感覚は全くなかったのだが、TO病院で15日間もほぼ寝たきりの生活を続けていたせいで、思った以上にに体力が落ちていた。歩くスピードも普段の2/3くらいだし、熱もないのに時々ふらつく(>_<) もし今、暴走老人の車が突っ込んできたり、頭のおかしな奴が包丁を振りかざしてきても避ける自信はない。ちょっとショック。

ドラッグストアで売っていた防水シートは小さなサイズのものしかなかったので、結局それだけはアマゾンに発注。よく考えれば一式揃わないとシャワーは浴びれないのだから、全部アマゾンでもよかったか。


しばらくは自宅で療養生活。


ーーー続く

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2019年05月28日

初めての入院 その9

本日はお腹に挿した管の3回目の調整。

入れた時と同じくレントゲンを撮りながらの状況確認。前回は問題がなければ抜くといわれたが「まだスペースが残っている」とのことで持ち越しとなった。膿が溜まっていた部分へ管を挿して吸い取ったから、もう膿はほとんど残っていない。しかし膿があったスペースが潰れていなかったという意味。そのスペースが残っていると何が不都合なのかの説明も受けた。でも詳しい内容は忘れてしまった。

今回も同じくスペースが残っているとの診断。このペースだと、管が受けるようになるまであと2週間くらい必要みたい。


全体的には経過は順調。腹膜内にまき散らされた膿の量は虫垂付近を100とすると直腸周りが65。現在、虫垂付近はほぼなくなり、直腸周りも抗生剤が効いて半減ということらしい。つまりトータルで165→33だから20%にまで減少したということ。また総合的には8割くらいは治ったという診断だった。

というわけで先ほど、明日に退院できることが決定\(^o^)/\(^o^)/


しかし問題はお腹に挿したままの管。管(実際にはどんなものか見ていない)の先にはビニールチューブがつながれ、自然排出された体液が流れるようになっている。当初はA4サイズより一回り小さなビニール製の袋が用いられ、点滴のスタンドの一番下にくくりつけられていた。

そして前回の調整の時にビニール製の袋から、握り拳くらいの容器に変わった。それを首からぶら下げたポシェットのようなものに入れている。

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このスタイルをあと2週間ほど続けなければならないのだ。外出時にはどうしたらいいのか今から悩んでいる。

また管がとれるまでお風呂には入れない。管が肌に露出しているところをラップでグルグル巻きにすればシャワーは浴びられるらしい。明日、看護師がそのやり方を説明してくれることになっている。


本日でTO病院に入院して丸2週間。
とりあえずひと安心。


ーーー続く






wassho at 18:07|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年05月27日

初めての入院 その8

高熱と蕁麻疹で止められていた食事が、5月24日(金)の昼から再開された。また25日(土)の昼より中粥食から軟菜食というメニューに変更になった。違いは五分粥が全粥に変わったこと。全粥とは重湯のスープがない普通のお粥である。
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お粥というものを普段ほとんど食べない。鍋の締めの雑炊かホテルの朝食バイキングの中華粥くらい。それらは味付きのお粥。しかし病院のお粥は味付けなしでとても食べづらい。考えてみればご飯と同じ事なのだけど、なぜかお粥で味がないとまったくおいしくないから不思議。

ところで、このメニューでは、お粥の上にあるお皿は親子丼の具のようなものが入っている。それをお粥と混ぜるとおいしく食べられた。
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それで閃いたのが振り掛け。病院内のセブンイレブンで売っていた。
これでお粥の味気なさに困ることはなくなった。
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中粥食は朝食も五分粥だったが、軟菜食ではパンが出てくる。
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配膳時刻は朝食が午前8時、昼食が正午、夕食が午後6時である。運動量はほとんどゼロなので、朝食の4時間後に昼食というのはけっこうキツイ。



病棟のあちこちの窓から見える風景。
方角によって変化に富んでいる。
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ーーー続く





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2019年05月26日

初めての入院 その7

HCU(準集中治療室)で一晩を過ごし、次の日には一般病棟に移った。TO病院に入院して2日目となる5月16日(木)から本日に至るまで、特にドラマティックなことは起きていない。

前日、お腹に管を通して膿を吸い出した後は、お腹の張りが少し減ったが、1日経って元に戻ったみたいだ。しかし入院時の腹痛と張りは、このあと1週間ほどで消滅した。

食事は当面禁止で点滴での栄養補給。ただし水やお茶、アクエリアスなどは飲んでいい。ジュースやカルピスはダメだといわれた。
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考えてみるとまともに食事をしたのは5月10日(金)の昼が最後。MG病院から退院していた10日から15日の期間も、後半の2日ほどにヨーグルトやウイダーインゼリーを食べた程度。しかしまったく空腹感は感じないし食欲もゼロ。腸が自ら安静を求めて食欲をコントロールしているのだろうか。


5月18日(土)にFZ医師に頼み込んで3時間の外出許可を得る。目的は帰宅して、あれこれ必要なものを持ってくること。なんたって財布とiPhoneしか持っていない。

もっともそれだけでも入院生活を送ることは可能。病院内にセブンイレブンがあって、下着、タオル、歯磨きセットなど必要なものはすべて揃う。パジャマは1日300円でレンタルしているがセブンイレブンで買うこともできる。またiPhoneの充電器&ケーブルも手に入った。

それでも帰りたかったのはパソコンやタブレットを持ち込みたかったから。また2週間も入院するのだから家の中の生ゴミも出しておきたかった。


友人のSG君にクルマで迎えに来てもらい帰宅。
帰宅して最初にしたのは 〜―γ( ̄ο ̄)oΟ◯パフーッ…
胃なら影響ありそうだけれど腸だから大丈夫でしょうというナゾの理屈(^^ゞ

病院に持ってきたものはノートパソコン、タブレット、iPhoneとタブレットを同時に充電できるUSB充電器、それと充分な長さのケーブル。情報機器以外ではかなりの数の下着パンツ、Tシャツを2枚ほど。ハンドタオル数本とバスタオル1枚。レンタルパジャマは継続することに決めていた。上着は浴衣に近い和風な構造で、下は普通のパジャマと同じズボン式。毎日交換されるし、この病院風のパジャマを着ていると入院ムードになるところが気に入っている(^^ゞ

頭を洗い、シンクに残っていた洗い物をし、ベランダの草花に水をやり、最後にゴミ出しをして病院に戻る。SG君にはとても世話になった。やはりイザという時に頼りになるのは遠くの身内より近くの友人である。



入院8日目の5月22日(水)の昼から食事が出るようになった。中粥食という五分粥とおかずの組み合わせ。五分粥はお粥と重湯が半々程度のお粥。まったく味がついていないので食べづらい。他のおかずはまあまあおいしかった。
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しかし夕方になって40度近い発熱と、胸のあたりに蕁麻疹(じんましん)が出た。痒みは感じない。蕁麻疹=アレルギー=食事が原因と連想するが理由はよくわからない。今まで食べ物でアレルギーが出たことはないし、昼ご飯に出されたもので、初めて食べたものはもちろんない。


翌日も高熱。ただしずっと熱が出ているのではなく、ジェットコースターのように上下する。体温39.9度なんてビックリするが、そんなに辛くもなかった。
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大学病院のいいところはいろんな診療科が揃っていること。蕁麻疹が体中に広がり、かなり赤みを帯びてきたので皮膚科に回された。診察は症状を目視しただけで、とくに細かな説明もなかったが、アレルギー止めの薬を処方された。


ーーー続く






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2019年05月25日

初めての入院 その6

病名や症状については具体的に書かないつもりだったが、気がつけば何も隠していない文章になっている(^^ゞ まあ別にいいか。だいたいこのブログは、いつかやってくるかもしれない「過去の記憶が薄れる日」に備えて書いているようなものだから具体的でないと。


お腹の中に管(くだ)を通して膿を吸い出す手術はレントゲン室で行われる。少しずつ管を通し、その位置をレントゲン撮影して確かめるため。なお管の太さはボールペンの芯くらいらしい。

「では始めます」とFZ医師。次の言葉が「痛み止め入ります」。痛み止め? 麻酔じゃないの? かなりビビッたけれど、管を入れても痛くなかったから言葉の問題なんだろう。

しかし痛くなかったのは最初だけ。管を内部に進めるにつれて今まで体験したことにない、拷問レベルの激痛が走る。「中のほうは痛み止めが効きにくい場合もある」とFZ医師。激痛は10回くらい。あと2〜3回あったら泣いてたかも(^^ゞ

最後にゴリッとしたような感覚があった。それを伝えると「今、いい感じに固定されました」との答え。

何かが吸い出されている感覚はなかったし、吸い出されたものも見なかったが、私の膿は思っていた以上にきれいな膿だったとのこと。とにかくこれで第1ステップ終了。管は今もお腹の中にあって、そこから延長されたチューブによって小さなビニール袋とつながり、残りの膿が自然排出されている。それほどの量はでない。今日までの10日間で300cc位かな。また今までに2回、管の位置の微調整を行った。


ところでレントゲン室での作業になるのでFZ医師を始め、その他のスタッフは鉛入りのベストを着用している。FZ医師は35歳くらいだし、他のスタッフはもっと若いので、それが何となくサッカーのビブスのように見えて、医者ではなくサッカー選手に囲まれているような気分だった。



車椅子に乗せられ看護師に押されて向かったのはHCU。集中治療室という言葉は聞いたことがあると思うが、あれはICU=Intensive Care Unit。Intensiveが集中という意味ね。対してHCUはHigh Care Unit。いってみれば集中治療室と一般病棟の間にある準集中治療室みたいな存在。

とりあえずHCUで最低一泊して様子を見るらしい。何か大げさな気がしたが、一般病棟に空きがなかったからHCUに押し込まれたのかもしれない。


HCUはICUと同じく手術室のあるフロアに設けられている。一般病棟は病室とナースステーションが別れているが、HCUは大きなナースステーションの中にベッドが置かれているようなレイアウトである。だから看護師たちの会話もうるさいし、ずっと呻き声を上げている患者などもいて、あまり居心地のいい場所ではない。またトイレも必ずナースコールをして付き添ってもらわなければいけない。まあ重病人扱いなんだから当然か。

この5月15日(水)夜の時点では、管を入れて膿を排出したのでお腹の張りが少し減った程度で、基本的には症状の改善はほとんどない。何となく先行き不安な再入院1日目のスタート。
 

ーーー続く

入院




wassho at 17:47|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年05月24日

初めての入院 その5

TO病院に着く。ロービーに何でも案内係みたいな人がいたので事情を伝える。担当窓口を教えられ、そこでMG病院からの紹介状とCTなどのデーターの入ったDVDなどを渡す。そして診察券と診察票が作成された。診察票にはバーコードが印刷されていて、それを受け付け機にスキャンさせると受付完了で、後は呼び出しを待つことになる。あまり大病院のシステムに慣れていないけれど迷うことはなかった。ただとても広い病院なので、最初の総合受付から外科の受付まで歩く距離が長くて辛かった。

45分くらいで診察室に入れたかな。担当となるのはFZ医師。35歳くらいか。私と話をしながらMG病院のCTデータをパソコン画面で見る、つまりあまり顔を合わさないで話す形になるので少し感じ悪く思えた。

腸炎ですか盲腸ですかと尋ねてみる。盲腸ですとの答え。先ほどMG病院で採血した値もかなり悪いと言われる。

そしてとりあえずの結論として言われたことは、

   今からこの病院でCTその他を再検査する。
   そして、もし盲腸の手術が必要だと確定しても、病院のベッドはほとんど埋まっ
   ているので、空きが出るまで目黒病院に入院して薬で抑えるか、あるいは他の
   手術できる病院に転院してもらうかもしれない。

エッ、たらい回し?
しかしゴネてどうなるものでもなし、何となく考えるのも疲れてきたので素直に検査を受けることに。そして、この時点で私はもちろんFZ医師も事の深刻さを認識していなかった。

採血、レントゲン、CT等また同じような検査を繰り返して、再び診察を待つ。
呼ばれる。
診察室に入る。
前回と明らかに空気が違う。FZ医師の顔つきがキリッとしている。


盲腸(の病気)というのは、大腸の一番最初である盲腸の下にある虫垂という突起が、何らかの原因で化膿して炎症を起こすもの。放っておくと虫垂が破れたり穴が空いたりして中にある膿を内臓の中にまき散らしてしまう。その場合は腹膜炎を発症して命に関わる場合もある。

   再検査で判明したのは私がそういう状態だということ(>_<)(>_<)(>_<)

ということは5月11日(土)の検査から、この日の5月15日(水)までの5日間のどこかで虫垂の炎症が限度を超えたことになる。

虫垂が破れたりすることは知っていたけれど、それは内臓に穴が空くわけだから、強烈な痛みを伴うものだと思っていた。実際そうらしい。しかし痛みとしては5月10日に救急車を呼んだ時がピークで、それ以来少しずつではあるが減少している。いつの時点でそうなったのかがまったくわからない。それが最大のナゾ


でもとにかく腹膜内に膿が出てしまっている最悪の事態である。
FZ医師によると膿は何箇所かに散らばっているが、もっとも量が多いのが虫垂付近で、次が直腸周り。そして虫垂付近の膿は今から管を挿入して吸い出す。直腸周りは場所的にその手法は難しいので2週間入院して抗生剤を投与し無害化を図るというのが基本方針。

エッ?2週間の入院。財布とiPhoneしか持っていないのに。着替え等を取りに帰りたいというと、入院や手術の手続き等を済ませて午後5時までに始めなければならないから無理と明確に却下された。この時点で午後3時半くらいだったかな。

ということで観念。
先ほど病院のベッドはほとんど埋まっているなどと断られかけていたのに、
めでたく最優先で即日入院の重篤患者と認められたというわけ(^^ゞ


ーーー続く

盲腸




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2019年05月23日

初めての入院 その4

退院の時に受けた注意事項は

  脱水症状にならないよう水やアクエリアスをよく飲むこと。コーヒーはもちろん
  お茶も利尿作用があるのでNG。

  1日〜2日は何も食べないこと。これは腸を安静にするためらしい。
  その後は食欲に応じてヨーグルトやゼリーなど消化のよいものから。

  整腸剤(ビオフェルミンだった)は1週間分を出されたが、調子がよくなったら
  飲む必要はないとのこと。

というわけで1週間ほど養生していれば治るんだと、その時点では思っていた。断続的な痛みには襲われていたが、気持ちはずいぶんと楽になった。


ところが5月11日(土)に退院して次の月曜日の5月13日に、MG病院のUZ医師から電話がかかってきた。土曜日に撮ったCTの「詳細レポート」が今朝上がってきて、それによると盲腸の疑いありと記されている。盲腸だった場合、MG病院では手術が出来ないので、大学病院等を紹介することになる。ついては今から来てくれないかーーーという内容だった。

  土曜日に盲腸の可能性はナイいうたやないけ
  詳細レポートが上がってきたって、自分でCT画像見とらんのか
  盲腸の手術も出来ない手術室って何のタメにあるねん

などといった感情はおくびにも出さず(^^ゞ、本日今から行くのは少しツライので明日ではどうかと答えた。UZ医師はあちこちの病院で勤務している掛け持ち医のようで、次の勤務日は水曜日の5月15日だった。ではその時にということになった。

    今から考えると、これが最大の判断ミス


15日の水曜にUZ医師の元を訪れる。CTの詳細レポートを見せながら説明してくれたが医学的なことはよくわからず。とにかく、もしこれが盲腸だった場合、既に危険な状態だから即刻に手術が必要ということで違う病院に転院というスキームだった。そうでなかった場合はMG病院に戻されるというようなことも言っていた。

入院した時の右下腹部の痛みは消えていたし、またこの日は腹部全体の痛みもあまりなかった。だから、その可能性は低いのではと尋ねると、そうかもしれないが悪い方も考えておくのが医者の仕事とのこと。またこの日も採血をしたが、退院した11日よりも数値は悪くなっていたらしい。

そして紹介状を書いてくれたのがTO病院。

じゃ明日にでもというと、診察の段取りを頼んでおいたので、今からすぐ行って欲しいと言われる。財布とiPhoneしか持っていないし、即刻入院なんてことになったら困るな。でもそれはないかなと思いつつタクシーでTO病院に向かった。


ーーー続く

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wassho at 21:28|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年05月21日

初めての入院 その3

5月10日(金)の続き

救急車で担ぎ込まれたからといって特別な処置をされることもなく、まずはあれこれ検査である。採血、検尿、CT、レントゲン、超音波エコーなど。担当してくれたのはいかにもアルバイトの当直医風情の先生で頼りないことこの上なし(/o\) 病名を尋ねたが、よくわからないとの答え。

点滴をされ、それに痛み止めも入っていたのか少し楽になってきた。
すると当直医の口から信じられない言葉が。

  「帰りますか?」

無理をすれば帰れたけれど、どうせ次の日も診察にこないといけないから入院の手続きを取った。


5月11日(土)

朝になって担当医となるUZ医師が病室にやってきた。あといくつか検査をするみたいだ。痛みはかなり引いている。

行ったのは胸部のレントゲンと造影剤を入れてのCT。


ところで昨夜「帰りますか?」といわれたくらいだから、この日には帰れると思い看護師に尋ねると「いったん入院の手続きをしたら1週間くらいはーーー」との答え。一体どうなってる、この病院の入退院基準。

昼過ぎに再びUZ医師がやって来て「腸炎ですね」と告げられた。右下腹部が痛かったので「盲腸の可能性は?」と尋ねると、それはないとのこと。

腸炎は整腸剤などは使うが、基本的に自己免疫で治すしかないらしい。だから病院にいても特にすることはないので退院してもいいという許可も出た。


本来なら1泊2日の入院体験記になるところだったが、
しかしそうはならなかったのである(>_<)


ーーー続く






wassho at 16:12|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年05月20日

初めての入院 その2

5月10日(金)の続き

119番に電話したのは初めて。最初に「火事ですか?救急ですか?」とオペレーターに尋ねられる。救急と答え、症状を説明し病院に搬送して欲しい旨を伝える。最近は救急車をタクシー代わりに使う輩が増え、そのため電話での確認事項がキビシイと聞いたことがある。しかし今回はそういうことはなく、救急車を向かわせるので保険証や薬手帳などを準備しておくようにいわれて通話は終わった。救急車がいつ到着するかの言及はなし。iPhoneに記録された通話時間は58秒。

5分後に救急隊員から電話がかかってきた。070から始まる番号が表示されていた。以前はPHSの番号だったが、今は携帯電話でも使われている。救急隊員からだと確信して電話に出たが、迷惑電話対策で電話帳に載せている番号以外は通話できない設定の人はどうするのだろう。

通話内容は氏名、住所、症状の確認。先ほど119番で話したことを繰り返した。ダブルチェックのため?あるいは情報が伝わっていない? どちらかは不明だが、身体的に切羽詰まっているので少しイラつく。

救急隊員にはもうすぐ到着するといわれた。遠くでサイレンが鳴っているのが窓から聞こえた。iPhoneに記録された通話時間は1分。

チャイムが鳴ってオートロックを解除。彼らが上がってくるまでに自宅玄関を出て廊下で待っていた。痛みは119番をした時より少し収まっている。

担架は要らないと思っていたのだが、彼らがエレベーターで運んできたのは車椅子の構造を持つ大きな椅子だった。それに坐らされ、すぐ下に降りるのかと思えば、脈拍や血圧を測り始めた。いわゆるバイタルのチェックというやつか?目にライトを当てて瞳孔の反応も調べられた。なお救急隊員は運転手も含め3名体勢だった。

それが済んでエレベータで1階に降りるとマンションの出入り口に担架が横たわっていた。断るのも面倒なので、それに寝かされ救急車の中に入る。まっすぐ仰向けに寝ると腹部に伸びのテンションがかかって痛かった。それを伝えると、少し身体を斜めにされ、また毛布をどう折りたたんだのか見えなかったが、それを膝にあたりに挟んでくれた。すると痛みはぴたりと消えた。さすがプロフェッショナルと感心。


しかし、そこからが少し不思議。車内で再びバイタルチェックのようなことを繰り返し、またどのように痛いのかについての問答が始まった。触診もされた。

これは想像だが、患者を病院に運ぶ前に、あるいは患者の受け入れを病院に要請する前に、救急隊員は基本的な情報を整理する義務があるのかもしれない。とにかく救急車に乗り込んでから出発するまで10分近くかかったように思う。


救急隊員に掛かり付けの病院はあるかと尋ねられた。そこでちょっと躊躇する。

前回のエントリーで書いたように昨年末に似たような腹痛(ただし症状はもっと軽い)があり、自宅近くのMG病院で診察を受けている。しかしたくさん検査をしたにもかかわらず、しっかりした診察が出来たとは言えなかった。大丈夫かあの病院? だからあまり乗り気ではなかったが手始めに「MG病院は救急病院?」と尋ねると「そうです」という答え。というわけで仕方なくというか成り行きでMG病院に決まった(^^ゞ

病院まで向かう途中「万が一の場合の連絡先」を尋ねられた。エッ!そんなに悪いのか!と心配になって、救急隊員に尋ねると「形式的なものです」との答え。誰にしようか考えているうちに病院に到着。救急隊員は病院スタッフに引き継ぎ事項の報告。また私を救急車の担架から診察室のベッドに移すなど慌ただしかった。だから結局、万が一の連絡先は答えずじまい。


ーーー続く

急患




wassho at 16:58|PermalinkComments(0) 生活、日常 

2019年05月19日

初めての入院

なんと信じられないことに、
元気で健康なだけが取り柄のこの私が現在入院中である。

命に関わるようなことはないはずだが、
診察後に即刻入院を命じられたのだから、
それなりに一大事である(>_<)

病名や症状についての詳細はブログに書かない。
病気の話ではなく、あくまで入院体験記。



5月9日(木)

午後9時か10時頃に突然「キュッと」お腹が痛くなった。トイレに行くと下痢だった。そんなふうにお腹を下すことは特別のことではないので(私がよくお腹を下すという意味ではない)あまり気にすることもなかった。


5月10日(金)

朝から何となくお腹が痛いというか調子が悪い。下痢も続いている。仕事を早めに切り上げ、午後2時頃から安静にするというか昼寝した。

午後5時頃に目がさめた。症状が悪化しているという自覚がある。熱も少しあるみたいだ。ただし自宅に体温計はないので自己感覚。


ところで私は滅多に病院に行かない。30歳以降で病院に行ったのは5〜6回程度。どこか具合が悪くなった時の私の判断基準は「これが1週間続いたら病院に行こう」である。幸いにも今まで健康で、上記の5〜6回の例外を除けば、1週間もあれば自然治癒する程度の病気にしかかからなかった。


しかし昼寝から目覚めた時の判断は「今日はもう病院の診察時間は終わってしまったから、このまま安静にして、明日になったら病院に行こう」というものだった。つまりかなりの緊急事態であることを自覚していた。

それには理由がある。先ほどの5〜6回の例外の1回が昨年末であり、当時と似たような腹痛だったからである。その時は「これが1週間続いたら〜」の判断基準を2回くらい延長して、でもいっこうに治る気配がないので諦めて病院に行った。検尿、採血、レントゲン、CTと一通りの検査をした。でも医者には原因や病名がよくわからないとのことだった。それでしばらく様子を見るという判断先送りになり、痛み止め、整腸剤、お腹の張りを押さえるという対処療法のクスリが数日分処方された。

ただし、そのクスリを半分も飲まないうちに症状は治まった。もう1週間さらに病院に行くのを遅らせればとよかったと思ったくらい。

その治ったと考えていたものが、実は再潜伏みたいな状態でパワーを蓄積しており、そして今まさ暴れ出しているのではないのかと、この時は考えたのである。それが出来るだけ早く病院に行こうとした根拠。もちろん再潜伏なんて医学的あるいは論理的な判断とは言えない。要は不安になったということ(^^ゞ


午後6時半頃から痛みはだんだんと激しくなり、いわゆる刺すような痛みに変わった。ずっと痛いのではなく断続的な波状攻撃。痛いとか、ウ〜ンといった声を漏らすことはないものの、だんだんと痛みに耐えるのが難しくなってきた。

そのうち腹部全体を圧迫するような痛みも始まった。こちらは痛いというより苦しいと表現した方が正確か。強烈なのが来ると息まで止まりそうだった。既にまっすぐ立つのも難しい状況になっていた。


観念して午後7時過ぎに救急車を呼んだ。

救急車


ーーー続く









wassho at 18:26|PermalinkComments(2) 生活、日常 

2019年05月14日

ラ・フォル・ジュルネTOKYO2019 ディーヴァ・オペラ

5月3日に聴いた公演は弦楽四重奏、ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲、ピアノ曲、バイオリン協奏曲の5つ。バランスとしては悪くないし今年はそれだけにするつもりだった。しかしどうしても声楽関連を聴きたくなり、5月3日のチケットを予約したしばらく後にプログラムを眺めているとモーツァルトのオペラがあったので急遽チケットを手配。公演日は5月5日。


いつもは銀座駅から東京国際フォーラムへ向かうが、気分転換に二重橋前駅から。距離的にはどちらもそう変わらない。

ちょっと寄り道して行幸通りへ。
皇居に夕日が落ちかけている。時刻は午後6時過ぎ。
DSCF3171


反転して東京駅方面。
DSCF3175


近づいての撮影。
35ミリ換算15ミリになる広角ズームだと巨大な東京駅もだいたい収まる。
DSCF3186


上の写真は横:縦比が3:2。ちょっと道路部分が気になったので16:9にトリミングしてみた。ワイド感が強調されてるかな?
DSCF3186のコピー


東京駅の横にあるJPタワー。元は東京中央郵便局。外観の一部に郵便局舎が残されている。ビルのデザインはクラシックな方が断然に好き。
DSCF3192


ここを渡って数分歩くと東京国際フォーラムに着く。
ガラス棟の両端は鋭角なので見る角度によってはカミソリのよう。
DSCF3193

DSCF3196


毎年撮影しているAホール前の光る廊下。
DSCF3197


一番賑やかな時間帯かな。
DSCF3204


とりあえず駆けつけ1杯。
DSCF3202



会場はB7ホール。
DSCF3208

DSCF3213


最後尾17列の位置から。
DSCF3217


座席は8列目を確保。
DSCF3221


横方向の風景。
DSCF3223



【公演番号326】
 モーツァルト:オペラ 後宮からの誘拐

 ディーヴァ・オペラ


オペラといってもほとんど舞台セットのないステージでピアノ伴奏だけで行われるオペラである。こういう簡易バーションのオペラを室内オペラというらしい。フルスケールのオペラは言ってみれば劇場オペラか。

ディーヴァ・オペラはイギリスの室内オペラ専門の劇団。
今回のメンバーをコピペしておくと

  ベルモンテ(スペインの貴族):アシュリー・カトリング
  オスミン(太守の監督官):マシュー・ハーグリーヴズ
  ペドリッロ(ベルモンテの召使):リチャード・ダウリング
  太守セリム:デイヴィッド・ステファンソン
  コンスタンツェ(ベルモンテの婚約者):ガブリエラ・キャシディ
  ブロンデ(コンスタンツェの召使、英国人):バーバラ・コール・ウォルトン
  音楽監督・ピアノ:ブライアン・エヴァンス
  総監督:アンヌ・マラビーニ・ヤング

このディーヴァ・オペラによるモーツァルトのオペラは、今年のラ・フォル・ジュルネの目玉公演のようで3日間連続での上演。ちなみに上演時間は2時間で途中で15分間の休憩時間が設けられている。

とはいっても、あまり高い期待はしていなかった。なんたって簡略版だから。声楽が聴ければいいや程度の気持ち。

出演しているのは男性4名、女性2名である。最初の25分くらいは男性しか出てこない。私はソプラノが好きなのでちょっと退屈する。そしてコンスタンツェ役のガブリエラ・キャシディ登場。この歌手は別格に素晴らしかった。ところどころ歌うのが難しいパートもあったが、それも完璧にこなしていたように思う。彼女がいることによって全体のクォリティもランクアップしたように感じられた。そこからどんどん引き込まれていった。


舞台セットはごくわずかだが衣装は本格的。それが安ぽっさを感じさせない理由。衣装を眺めているだけでもけっこう楽しめる。なお一番右にいるのがガブリエラ・キャシディ。
衣装

ピアノ伴奏は音楽監督のブライアン・エヴァンスが務める。ほぼ2時間引きっぱなしで大変だと思うが、この演奏もとても良かった。単に演奏が上手いというだけでなく、ステージの進行というかノリとシンクロした弾き方だったと思う。

びっくりしたのは途中で照明が暗転していくつかの舞台セットを入れ替えた時。その搬入搬出は男性歌手たちがやっていた。そうやってコストカットしているのだろうが、ラ・フォル・ジュルネには山ほどスタッフがいるのだから手伝ってあげればいいのに。

まあとにかく楽しかった。終わってみれば「簡易バージョン」という印象や我慢はまったくなし。もちろんそれは「後宮からの誘拐」がもともと小規模な設定なせいもあるけれど、室内オペラへの認識を新たにした。ラ・フォル・ジュルネに2日足を運んだ甲斐があったというもの。大満足な公演だった。


今年もクラシック音楽に浸れたラ・フォル・ジュルネ。毎年書いて実現していない「今年こそはラ・フォル・ジュルネ以外も生演奏を聴きに行こう」とまた書いておく(^^ゞ


おしまい






wassho at 23:05|PermalinkComments(0) イベント、旅行 | 音楽、オーディオ