315d0724.jpg おはようございます!
 朝の風がヒンヤリトして氣持ちよい。

 わたしたちの身近なテーマは、年金、イラク自衛隊派遣、靖国参拝、北朝鮮拉致、少子化、税制などで、郵政の問題は最優先事項ではない。しかしながら、小泉内閣が提出した「郵政民営化法案」の是非と「郵政民営化」の是非は別途論議をする必要がある。なぜなら、「郵政民営化法案」と「郵政民営化」は別のテーマなのだから。

 大切な問題がある。自民党がマニュフェストで示した「2007年度をめどに消費税を含む税の抜本改革を実施する」ことである。このまま自公政権が継続されるなら、2007年度に消費税率の再引上げが実施されるに違いない。それも、国政選挙を経ずに。2007年度の消費税率引上げとなると、その決定は2006年末になる。しかし、次の参議院選挙は2007年である。したがって、わたしたちは9月11日の選挙で、「2007年の消費税増税」を認めない意思表示をし、消費税増税が決定される環境形成を回避する必要がある。よって、今回の選挙に「郵政民営化法案」の賛否を問う国民投票的な意味を持たせてはいけない。これから2009年までの4年間の政権を選択する選挙なのだということを意識しよう。

 さて、今日はコメントを下さる智友Y・杉野さんがお好きな
 ウィットとユーモアのお話をお楽しみいただきましょう☆

 吉田茂さんは独特のユーモア、ダジャレ、ウイットに富んだ話が
 沢山残されている。ユーモアやジョークは、
 交渉事には潤滑油の役目を果たすことがある。

 先の大戦後、フィリピンの賠償使節団が来日したときは、こう言った。

吉田: ご来日を待ちかねておりました。
    賠償の支払いは、その原因をつくった側にある、とお考えでしょうね。
相手: その通りです。
    今度の訪日も、日本軍により大きな被害を受けましたので、
    賠償金の問題で伺ったのです。今の言葉を聞いて安心しました。
吉田: わが国は神代の昔から、
    貴国のフィリッピン海域から毎年台風をよこされ、
    甚大な被害を被っております。
    今被害を計算させておりますので、でき上がり次第、
    お送りさせていただきます。
相手: 一本取られた。(と笑った)

 その後の交渉は順調に進んだという。この話は海外にも伝わり、サンフランシスコ講和会議に出席していたオーストラリアの首脳からも「食うか食われるかの外交交渉のときにそんなユーモアが出るとは、たいした政治家だ」と話題になったという。

 また終戦直後のまだ国民が焼け野原で飢えと闘っているころ、吉田さんはマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えた。結局6分の1以下の70万トンしか輸入できなかったが、餓死者は出なかった。マッカーサーが抗議をしてきた。

M氏: ミスター・ヨシダ、私は70万トンしか渡さなかったが、
    餓死者は出なっかったではないか。日本の統計はいい加減で困る。
吉田: 当然でしょう。若し日本の統計が正確だったら、
    むちゃな戦争などいたしません。
    また統計どおりだったら、日本の勝ち戦だったはずです。

 マッカーサーは腹を抱えて笑い出したという。

 吉田さんのジョークで特に知られたものは、1960年の日米修好通商100年祭に日本代表として訪米し、外国人記者に質問されたときの問答である。彼は82歳であった。元気な様子を褒められると、こう言った。「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬がありますか?という質問には、

 「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した。

 こんなこともあった。
 外交上の会見の場で謝罪しなくても良いのに突然

   "I am sorry" と言った。その場にいた一同は、なんだろう?

 と驚いていた。次の瞬間、吉田さんは一言、

 「私は、総理です」と言った。

 緊張したその場は、一瞬で和んだという。

 街頭演説の件も良く知られている。冬で寒かったため、オーバーを着たまま街頭演説を始めると、「オーバーを脱げ!失礼だぞ!」と激しい野次が飛んだ。吉田さんは少しも慌てず、オーバーのエリをつかんで引っ張りながら、こう言った。

 「これが、ほんとの街頭(外套)演説です」

 会場の聴衆は大爆笑。野次は黙ってしまった。

 人情話もある。戦時中は親英米派として、和平工作した容疑で憲兵に逮捕されたこともあった。吉田邸の書生が憲兵隊のスパイだった。その書生が戦後現れて、「上官の命令とはいえ申し訳ないことをしました」と詫びると、「忠実に任務を遂行したのだから、別に謝る必要はない」と激励し、就職の世話までしている。

 大東亜戦争が始まると、グルー合衆国大使夫妻は、憲兵の厳重な監視下におかれ、大使館内で窮屈な抑留生活を送っていた。日本人は誰も知らん顔であったという。ところが、吉田さんだけが、クリスマス、正月、グルー夫人の誕生日などには、肉や香料、石鹸、花束などをたくさん贈った。
 クレーギー英国大使に対しても同様であった。吉田さんは「仇敵に対しても塩を送るのが、武士道である」との信条の元に実行したようだが、終戦後、こうしたことが、連合国占領軍との意思疎通を円滑にしたことは明らかである。

 彼が総理を退いて、8年の間に、彼の評価は「アメリカ一辺倒の売国奴」から「日本再建の恩人」に変化していた。『大磯随想』という本を出版し、その出版記念が行われた。

「私の想い出を本にするから、原稿を書けというバカが来た。
そんな本を買うバカがあるかと言ったら、何万人もバカが買って読んだらしい。
今度は出版記念会をやるというバカが現れた。
会費まで出して来るバカがあるかといったら、
今日はこんなに大勢のバカが集まった」

 満場のお客さんたちから、あたたかな拍手が鳴り響いた。

 1965年に英国のエリザべス女王夫妻が吉田を訪問した。
 女王は富士山が見られないのを残念がった。
 吉田さんはにこやかに笑い答えた。

 「富士は自分より美しい人に眺められると、はにかんで顔を隠すのです」
 
 吉田さんから見習うべきところは他にもある。
 選挙区への利益誘導を一切しなかったことである。
 それに関しての彼の口癖がある。

 「投票したのは高知県民でも、私は国会議員です。
  国のことを考え、県内の問題は、知事や県会議員の仕事です」

 ある時、県会議員がやってきて、
 「総理、地元には鉄道がありません。ツルの一声でぜひ実現を…」
 吉田さんは顔色を変えて、
 「汽車ですか、時代遅れですね。
       ツルの一声で、土佐の鉄道はやめにしましょう」
 と答え、退室した。後に、
 「今の発言で私の票は5,000は減りましたね」と側近に語った。

 16年の代議士生活で選挙区からの陳情は一切受け付けなかった。

 ウィットとエスプリに満ちた会話をし、
 世界情勢、宇宙、科学、音楽、絵画、映画、文学、雑学、スポーツなど
 森羅万象にわたって面白く分かりやすく語る人物になりましょう☆

 さあ、このお話で終わりにしましょう☆

 合衆国第16代大統領リンカーン Abraham Lincoln (1809-65) 。
 大統領に就任した後、支援者の一人が「彼を使ってくれ」と
 一人の男を紹介してきた。
 すぐにその男に会ったが、採用することはしなかった。
 「あの男は駄目だ」と言った。支援者が「どうしてだ?」と尋ねた。
 リンカーン曰く、「顔が悪い」。
 支援者「顔は本人の責任じゃないだろう」と言う。
 ここで、あの有名な言葉をリンカーンは言った。

 「男は40歳にもなれば、自分の顔に責任を持たねばならぬ」(原文不明)

 人の顔は確かにその人の生活や人生を物語る。
 「目は心の窓」「顔は生活の鏡」と言う。
 わたしたちの生活環境や態度が顔つきを形成しているに違いない。
 例えば、不摂生・不規則の生活を続けていると、
 自然それは顔に映し出されていく。
 さらに、顔にはわたしたちの精神状態が反映される。
 「明るい顔」「暗い顔」と言っても顔が光を放つのではない。
 わたしたち自身の氣持ちの明暗が顔つきとなって現れている。
 リンカーンの言葉はこれらのことを経験的に語っている。

 顔のいい政治家といえば、筆頭は田中角栄元首相である。
 実に、有能な政治家で国際メジャーを相手によく日本の国益を確保した
 立派な人物である。彼にも多くの名言がある。ひとつ紹介しよう。

 「山に登って道に迷ったら二つの方法がある。
  一つは川に沿って下る。これは行政。
  もう一歩登って霧が晴れるのを待つ、これが政治だよ」

 おもしろいことに、リンカーンも同様のことを語っている。
 
  I'm a slow walker, but I never walk back.
 
 「私の歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない」

 明るく和やかな顔を他人に見せることは、
 立派な施しだと仏教にはあるそうだ。
 和顔施といって、何も持っていなくてもできる無財の七施のひとつだという。
 良い顔しましょう♪

 感謝
■ 吉田茂 1878〜1967(明治11‐昭和42) ■

 先の大戦後の占領体制下における日本の保守政治を代表する政治家。
土佐自由党の士竹内綱(たけのうちつな)の五男として東京に生まれる。
幼時に貿易商吉田健三の養子となる。
 自由民権の志士であり自由党の幹部であった竹内綱が実父であったこと、イギリスと関係の深い貿易商である吉田健三が養父であったこと、宮廷を背景とする政界の黒幕である牧野伸顕が岳父であったこと、これらの生活環境が吉田茂さんに儒教的・英米派的・実業的政治感覚を植えつけたと言われている。
 さらに、漢学の素養、国士風の思想、ブルジョア趣味とが混じり合って、独特の個性が生み出された。

 いろいろな性格の政治家がいるが、好き嫌いが激しく、嫌いな人間とは口をきかなかった代表格は河野一郎さんであった。河野洋平さんの父である。この河野一郎邸が放火されて全焼した時、「悪いことをして金をためた罰ですよ。私のように、親の財産を使い果たしたものは、頼んでも火をつけてくれませんよ」と語った。事実、吉田さんは父親が遺した50万円、現在の貨幣価値で数10億円を一代で使い果たした。

 89歳で昇天するまで政治的に影響力を持った吉田さんは、東京帝国大学を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから遅咲きだ。そして、75歳で第5次内閣を組織した。結果、政治的にも長命であった。
 昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日。昭和の20年代は吉田ワンマンの時代であった。台風が来ると、「吉田が悪いからだ」と言われたくらいである(笑)。在任期間一位は2798日の佐藤栄作、3位は1806日の中曽根康弘である。
 彼が総計約7年間の首相任期中に任命した大臣の数は79人。彼らは後に「吉田学校の生徒」と呼ばれた。
 合衆国にとっては最も便利な人物でもあった。 (以上)