cf735e8d.jpg 高校の頃、南方熊楠さんと柳田國男さんの「往復書簡集」(平凡社)を読んで、南方さんに憧れた。24歳の時、渡英したのは彼の影響が大きかった。今でも、南方さんのような人物になりたいと思っている。さて、『南方熊楠 人と思想』飯倉照平編(平凡社)1974年 236-243頁の柳田さんの「南方先生 -その生き方と生まれつき-」と題した一文がふるっている。これは1951年7月の『展望』に掲載されたもの。

(引用開始) 
 南方熊楠先生につきましては、非常にたくさんの話題のある方で、私だけでも一日くらゐ話すことはなんでもないくらゐであります。これを取纏めて一言で申しますと、日本民族の可能性、つまりポシビリティというものをよく実現してをられることであります。
(中略)
… 非常に程度の差をもって、同じ傾向を持った人が昔は日本にずゐぶんあつたと思ひます。素盞鳴をはじめとして、日本には小規模に現れてをるのであります。… 世の中がだんだん変つて参りまして、王者の中におきましても、力よく鼎をあぐという人がなく、民間に散らばつて、まれではあるけれども、非常な拘束を受け、不自由な環境に成長したのであります。
… 日本のこの時世において、どうしてもあゝいふような人を、ことにその力を、学問の方にこれを向けられる時代が来たならば、恐らくわれわれ民族は救われると感ぜざるを得ないのであります。
(中略)
… 例えば神社合祀の問題の時に、大阪の商人が、木のある方をつぶしてそれの払ひ下げを願うと運動してゐた。南方さんは、反対したけれど政府では仲々取締つてはくれない。それで南方さんはあせつて、ずゐ分ひどい手紙を各方面に出したらしいのです。その中には、… 今の政府、役人学者が私の言ふことをきいてくれなければ、世界中の学者に手紙を出して、日本の政府にプロテストさせるといふ様なことが書いてあった。… 
(中略)
…他人の後ばかり追つてゐるのが一世を支配し、外国のものをやつてゐるのが学者だという時代は過ぎた。永遠に南方を出せないような国柄であるならばやめなければなるまい。少なくとも南方が出てゐる。天と地の中に一ぺんしか現れないということはない。… 世の中にはいかなる可能性が含まれてゐるかわからない。ほんたうに適正な、これこそ偉人であるというものを、出来るだけ早めに鑑定の出来るやうな学問を進めてゆかなければならない。偉人を養成するということ、正真正銘の英傑というものを早く発見して曲がりくねる恐れのあるものは曲がりくねらさないようにする。平和な情愛の深い、千人に一つの仕事に向かい得る人を養成する策を講じたい。恐らくは南方先生の生活を振り返って見れば見るほど、皆さんさういうふ気持ちにおなりだらうと思ひます。
(引用終わり)

 南方熊楠さんはロンドン時代に孫文氏と深い交情があった。1901年(明治34)2月に氏はわざわざ和歌山の南方家まで訪ねてきている。家族をまじえて記念撮影をし、和歌山を去る際、愛用のヘルメットを南方さんに残し、また犬養毅氏への紹介状を送ってきた。その紹介状はついに使われることなく南方邸に保存され、へルメットはいま白浜の南方記念館の陳列棚の中に展示されている。彼とはその後もしばらく文通が続き、ハワイで採集した地衣の標本を送ってくれたりしたが、次第に疎遠になり、和歌山での別れが永遠の別離となってしまった。彼の死後、南方さんは

  『 人の交りにも季節あり 』

と記し、親交のあった当時を回想してその寂しさを表すのであった。

 感謝
■ 南方熊楠(みなかた くまぐす) 1867年4月15日〜1941年12月29日 ■

 日本で始めて、自然環境保護運動で熊野の森を守った人物。
100年前に、一個人が国民や住民の協力を得て今日の熊野の森を守ったのは驚異である。結果、100年目にして熊野は世界遺産登録された。

 南方熊楠記念館のHPは次のように紹介し始めている。

 和歌山県が生んだ世界的な博物学者、南方熊楠はアメリカやイギリスなどで14年におよぶ独自の遊学生活を送り、1900年(明治33)に帰国した。
 以後、郷土和歌山県に住み、とくに1904年からは田辺に定住して、亡くなる1941年(昭和16)まで37年間をこの地で過ごした。
 生涯、博物学や民俗学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌『ネイチャ−』や、議論を戦わせた英国の民間伝承雑誌『ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ』に数多くの論文を投稿し、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにも論理と精力的な実践活動で尽力した。
 偉大な在野の学者とあがめられ、また、たいへんな奇人ともみられていた(明治44年2月1日発行、『新公論』千里眼号「当世気骨漢大番附」にも東の前頭、筆頭で掲載された)反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。
 没後60余年になる今日、当時の南方熊楠を知る人々も少なくなり、また最も身近で過ごした愛娘、長女南方文枝さんも2000年6月に熊楠のもとへ旅立った。
 熊楠が残した業績とその履歴は、『南方熊楠全集』や『南方熊楠日記』など数々の資料や、研究者の手による書籍、論文により明らかにされてきたが、現在もその発掘、調査は続けられている。
(南方熊楠記念館http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/index.htmlより引用)

■ 昭和天皇への進講・進献 ■
 進講の6月1日(昭和4年)は朝から小雨が降っていたが、熊楠は、アメリカ時代から大事にしまっていたフロックコートを着用し、県立水産試験場の船に乗り神島に向かった。天皇は綱不知(つなしらず)に上陸、この日のためにつけられた「御幸(みゆき)通り」沿道でお迎えを受け、京都大学臨海実験所にて御前講義ののち、午後2時神島に渡られた。
 熊楠は神島の林中をご案内した後、お召艦、長門(ながと)の艦上で約25分間、標本をお見せしながら、粘菌や海中生物について進講申し上げ、更にキャラメルのボ−ル箱に入れた、粘菌の標本110種などを献上した。
 当時、その場に立会った、野口侍従は
 「かねて、奇人・変人と聞いていたので、御相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂で、礼儀正しく、態度も慇懃(いんぎん)であり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔(けいけん)の念ももっておられた」と追懐した。
 熊楠にとって、この日は生涯で最も晴れがましい日であった。帰宅後、直ちにフロックコート姿で松枝夫人と写真館に行き、自分1人だけのものと、頂戴した菓子を妻松枝に持たせ、2人の記念写真を撮り、また、その菓子を親交のあった縁者や知人に配り、喜びを分かち合った。
 翌年には、行幸記念碑建立にあたり、この島が昭和天皇の仁愛と権威により末永く保護されるように願って

  「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ」

と詠んで、自ら一気に筆をふるった。この碑は、繁茂した樹林を背にして、天皇上陸の地点に建てられている。
 1962年(昭和37)5月、昭和天皇・皇后両陛下、南紀行幸啓の際、白浜の宿舎より、30余年前に訪れた神島を望見され、

  「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

と詠まれた。このお歌の碑は、神島を望む、南方記念館の前に建立されている。
(http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/index.htmlより引用)

■ 財団法人 南方熊楠記念館 ■
  〒649-2211 和歌山県西牟婁郡白浜町3601-1(番所山)
  TEL・FAX 0739-42-2872