「大丈夫だ」ベルガラスはむっつりと言った。「クトル?ミシュラクには独特の臭いがあるからな」
 雨はすでにパラパラと頭上の葉に落ちかかる程度に弱まり、一行が森のはずれに近づく頃にはほとんど上がっていた。ベルガラスの言っていた臭いは、鼻をつくような異臭ではなく、むしろいくつかの穏やかな湿っぽい臭いの混合物だった。水分を含んだ鉄錆の臭いがそのほとんどをしめ、よどんだ水の異臭や、菌糸類のかび臭いにおいがそれに続いていた。それらが入り交じって独特の腐敗臭をかもし出していたのである。一行が森の最後の木にさしかかったところで、ベルガラスが鋭く手綱を引いた。「さあ、着いたぞ」老人は穏やかな声で言った。
 一行の目の前に広がる盆地は、かすかに青白い無気味な光を発していた。まるで地面そのものから発光しているかのようだった。その中央に、破壊のあともあらわな廃墟が横たわっていた。
「あの不思議な光はいったい何だい」ガリオンがこわばった声でたずねた。
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「燐光だ。あの都市一帯に生えているキノコが光っているのさ。クトル?ミシュラクではまったく日がささないから、暗闇に棲む不健全なものたちが繁殖しているのだ。さあ、馬はここに置いていくことにしよう」そう言ってベルガラスは馬からおりた。
「こんなところでいいんですか?」シルクもまた鞍から滑りおりながら言った。「急いで逃げ出すことになるかもしれないのに」
「いいや」ベルガラスは静かに言った。「すべてうまく行けば、連中はわれわれに危害を与えることもなくなる。もしうまく行かなかったとしたら、逃げる心配にはおよばない」
「そういう変更のきかないことには、あまり関わりたくありませんな」
「だとしたらおまえは選択をあやまったのだ」ベルガラスは答えた。「これから行なおうとしていることは、およそ変更のきかないことだからな。いったん出発したら、途中で引き返すことは許されないのだ」
「やっぱり気にくわないな。それで、どうするんですか?」
「ガリオンとわしはもう少し人目を引かない姿に化けることにする。おまえさんは闇の中でだれにも気づかれずに、こそこそ動きまわるのはお得意だろうが、われわれはそうもいかないのでな」
「よりによってこんなトラクの目と鼻の先で魔法をやろうっていうんですか?」シルクは信じられないといった声でたずねた。
「できるだけ音を抑えるようにしよう」ベルガラスが安心させるように言った。「姿かたちを変える魔法は、内にむけて行なわれるものだから、たいした音はたてないのだ」老人はそう言ってガリオンの方をむいた。「今回はごくゆっくり変身するぞ。そうすれば漏れ出る音は拡散され、さらに聞き取りにくくなるからだ、わかったな?」
「たぶん、大丈夫だと思うけれど」
「わしが先に手本を見せよう。よく見るがいい」老人は一行を乗せてきた馬の方を見やった。
「少し離れた方がよさそうだ。馬が狼の姿を見て怖がるからな。こんなところで連中にヒステリックに暴れまわられたのではかなわん」
 一行は樹木にまぎれるようにして、馬から離れた場所に進んだ。
「この辺でよかろう」ベルガラスが言った。「さあ、よく見てるんだぞ」老人は精神を集中していたようだったが、しばらくするとその姿はぼやけ、変わりはじめた。変化は非常にゆっくりと進み、いっとき老人と狼の顔が重なって見えるほどだった。変身にともなう音は、かすかなささやきにしか聞こえなかった。すべてが終わると、そこには銀色の巨大な狼が後ろ脚で座っていた。
「さあ、やってみろ」老人は狼独特の、かすかに表情を動かすだけの言語を使ってガリオンに命じた。
 ガリオンは狼の形を強く思い浮かべながら、一心に精神を集中させた。かれの変化もまたゆっくりと行なわれたので、身体のまわりに毛が生えていくのがわかるほどだった。
 シルクは手と顔に泥を塗りつけて、肌を目立たせないようにしているところだった。小男は二匹の狼にむかって問いかけるような表情をしてみせた。
 ベルガラスはうなずくと、一行の先頭にたってクルト?ミシュラクの朽ち果てた廃墟にむかう、むきだしの大地を下りはじめた。
 かすかな光にかれらの他にも、うろつき、鼻をうごめかせているものの気配が感じられた。犬のような形と臭いを持つものもいれば、かすかに爬虫類の臭いを漂わせているものもいた。いたるところの岩や高台の上に、ローブをまとい頭巾をかぶったグロリムが、目と心とで油断なく侵入者を探し求めていた。
 ガリオンの足の下の大地には生命のしれなかった。この荒れ果てた地には、成長もなければ生命のきざしもないのだ。露岩や浸食された割れ目に巧みに身を隠しながら、あいだに中腰のシルクをはさんだ二匹の狼は、腹を地面にすりつけるようにして、廃墟に近づいていった。一行の速度はガリオンにはじれったくなるほどゆっくりに思えたが、ベルガラスは時間のことなどまったく気にかけていないようすだった。見張りのグロリムのすぐわきを通過するときなど、一度に一歩ずつしか足をつけずに進んだことさえあった。足音を忍ばせ、徐々に廃墟と化した〈夜の都市〉にむかって近づいていくかれらの上に、時間は果てしなくのろのろと進んでいくようだった。
 壊れた壁の近くで、頭巾をかぶった二人のグロリムが、ひそひそ話を交わしていた。ガリオンのぴんと研ぎすまされた耳は、克明に会話をとらえていた。
「猟犬たちが今晩は騒いでいるようだな」一人が言った。
「嵐のせいさ」もう一方が答えた。「連中は天候が崩れると、やけに神経質になる」
「猟犬になったらどんな気分がするもんだろうな」と最初の僧。
「何ならおまえも連中の仲間に加わってみたらどうだ」
「いや、そこまではちょっとな」

「ガリオン! 戻ってらっしゃい!」ポルおばさんの声がうしろから叫んだ。
 だがかれは激しい恐怖のとりこになっていた。木の根ややぶにつまずき、樹木兌換日元にぶつかり、イバラに脚をひっかけながら走りつづけた。むやみやたらに逃げる果てしのない悪夢を見ているようだった。低くはりだした見えない枝に全速力でぶつかって、額に衝撃が走り、目の前に火花がちった。ガリオンはじめじめした地面に倒れ、喘ぎ、すすり泣きながら、意識をしっかり持とうとした。
 そのとき、目に見えない恐ろしい手が身体をつかんだ。言いしれぬ恐怖が脳天をつらぬき、ガリオンは死に物狂いでもがいて短剣をぬこうとした。
「よせ」声が言った。「手を放せよ、ウサギくん」
「ぼくを食べる気か?」ガリオンはかすれ驗窗た声で訊いた。
 声の主は笑った。「立てよ、ウサギ」ガリオンは力強い手で身体が引き起こされるのを感じた。片腕をがっしりつかまれて、かれは森を半分ひきずられていった。
 前方のどこかに明かりが見えた。樹々のあいだで火がまたたいている。そこへ連れていかれようとしているらしかった。頭を働かせ逃げだす手段を考えださなくてはならないとわかっていながら、恐怖と疲労に麻痺した頭は役に立たなかった。
 三台の馬車が焚火を半円形に囲んでいた。ダーニクがいた。ウルフとポルおばさんと一緒にいるのは、あまりの大きさにガリオンが実在の人間のはずがないと思った男だった。男の木の幹のような脚は毛布にくるまれ、皮紐を十字に交差させて結んであった。膝まで届く鎖かたびらを着て、腰をベルトでしめている。ベルトの片側にはおそろしく重そうな剣が、もう片側には柄の短い斧がさがってい浴室用品た。髪の毛は編んでおさげのようにしてあり、こわそうな赤ひげがもじゃもじゃと生えていた。
 明かりの中へはいったとき、ガリオンは自分をつかんでいる男を見ることができた。ガリオンとたいして変わらない背丈の小男で、先の尖った長い鼻が顔のまん中にでんといすわっている。目は小さく、やぶにらみで、まっすぐな黒髪はぎざぎざに刈ってあった。その顔はなんとなくうさんくさく、汚れたつぎだらけのチュニックや、たちの悪そうな短い剣としっくり調和していた。
「そら、われらがウサギくんだ」イタチみたいなその小男は焚火の輪の中にガリオンをひっぱりこんで、高らかに言った。「楽しい追いかけっこまでさせてもらったよ」
 ポルおばさんは大変な剣幕で、「二度とあんなことはするんじゃないの」と厳しくガリオンに言い渡した。
「そうガミガミ怒りなさんな、マダム?ポル」ウルフが言った。「喧嘩をするより逃げるほうがまだましじゃないか。もっと大きくなるまで、足はその子の最良の友だちなんだ」
「ぼくたち追いはぎにつかまったの?」ガリオンはふるえ声でたずねた。
「追いはぎ?」ウルフは笑った。「おまえはとんでもなく豊かな想像力を持っているんだな、ぼうや。この二人はわしらの友だちだ」
「友だち?」ガリオンは半信半疑で訊き返すと、赤ひげの大男とその横のイタチ顔の男を疑わしげに見つめた。「まちがいない?」
 すると大男まで笑いだした。その声が地震のようにあたりをゆるがした。「信じていないらしいぜ」大男は響きわたる声で言った。「きっとあんたの顔が警戒心を持たせたんだ、シルク」
 小さいほうの男はむっとして、大柄な連れを見あげた。
 ウルフは少年をさして言った。「これがガリオンだ。二人ともマダム?ポルはもう知っとるな」かれの声はポルおばさんの名に力をこめたように聞こえた。「そしてこっちがダーニク、われわれに同行する決意をした勇気ある鍛冶職人だ」
「マダム?ポルだって?」これといった理由もなく小男が吹きだした。
「それで通っているのよ」ポルおばさんがぴしゃりと言った。
「では喜んでそう呼ばせてもらうよ、奥方」小男はからかうように一礼して言った。
「ここにいる大きい友だちがバラク」ウルフは紹介をつづけた。「困ったことがあるときそばにいてくれると役に立つ。見てのとおり、バラクはセンダー人ではない。ヴァル?アローン出身のチェレク人だ」

「ほかのことはほとんど考えられないくらいだ。何とか忘れようとしたんだが、無駄だった」クリングはため息をついた。「仲間は決してあの女を受け入れないだろう。おれの地位が今のようなものでなければ問題はないんだが、もし結婚すれば、あれはペロイ族のドマってことになる――ドミの連れ合いで、女たちの中では最高の位だ。ほかの女たちは嫉妬《しっと》ではらわたを煮えくり返らせ、夫に悪口を吹きこむだろう。するとその連中は評議会で反対意見を述べ、おれは子供時代からSCOTT 咖啡機の友だちを大勢殺さなくちゃならなくなる。ミルタイがいるだけで、ペロイ族はばらばらになってしまう」もう一度ため息をついて、「おれは戦いで死ぬべきなのかもしれない。そうすれば愛と義務のはざまで悩まなくてもすむからな」そこまで言って、クリングは鞍の上で姿勢を正した。「女みたいな泣き言はやめよう。ゼモック軍の本隊を壊滅させたあと、おれと仲間は国境地帯に急行する。ゼモック軍にはおまえたちのことを気にする暇などないだろう。そんなことにかまけてなどいられなくなるから。おれたちはやつらの神殿や寺院を破壊する。きっとやつら、狂ったようになるだろう」
「ずいぶん細かく考え抜いてあるんだな」\
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「やるべきことがしっかりわかっているに越したことはない。東に進軍するときは、北東にあるゼモックの街、ヴィレタへ向かう街道を進む。前に言RF射頻った道に入るにはどうすればいいか教えるから、よく聞いてくれ」クリングは目印や距離を挙げながら、どう進めばいいかをスパーホークに説明した。
「だいたいこんなところだ、友スパーホーク。もっと手伝えればいいんだがな。騎馬隊を何千騎かつけてやることもできるが、本当にいいのか」
「申し出はありがたいんだが、それだけの数がいると抵抗を引き起こして、進み方が遅くなる。ラモーカンド国の平原には、ゼモック軍が押し寄せ推拿てくる前にわれわれがアザシュの寺院にたどり着くことをあてにしている友人がたくさんいるんだ」
「よくわかった、友スパーホーク」
 東に二日進んだとき、クリングはスパーホークに、ここで南に折れるようにと言った。「夜明けの二時間前に出発するといい。昼間おまえたちが隊列を離れるところを敵の斥候が目にしたら、興味を抱いて尾《つ》けてくるかもしれない。南のほうはずっと平坦な土地だから、夜中に馬を走らせても大した危険はない。幸運を、わが友。おまえの肩にはとても重い荷が載っている。おれたちもおまえのために祈ろう――ゼモック人を殺すのに忙しくないときには」
 ちぎれ雲の上に月が顔を出し、スパーホークは大天幕を出て新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんだ。ストラゲンも騎士のあとから出てきて、よく通る声で話しかけてきた。「いい晩だな」
「少し寒いがね」スパーホークが答える。
「夏だけの国に住みたいなんて思うやつがどこにいる。明日の朝、出発するところは見送れないだろう。早起きは苦手なんでね」ストラゲンは胴衣《ダブレット》の中に手を突っこみ、前よりも厚い紙の束を取り出した。「これで最後だ。女王に言いつかった仕事もどうやら完了だな」
「よくやってくれたよ、ストラゲン――たぶんな」
「もう少しおれを信用しろよ、スパーホーク。おれはエラナに命じられたとおりにやったんだ」
「一度に全部の手紙を渡してしまえば、こんなところまで来る必要はなかったろうに」
「長旅は別に気にならんさ。あんたのことも、あんたの仲間のことも気に入ってるんだ。その圧倒的に貴族的な態度を真似しようと思うほどじゃないが、気に入ってるのは確かでね」
「おれもおまえのことは気に入ってるよ、ストラゲン。信用する気にはなれんが、気に入ってることは間違いない」
「どうもありがとう、騎士殿」ストラゲンは大仰に一礼して見せた。
「礼には及ばんよ、ミロード」スパーホークは笑みを浮かべた。
「ゼモックに入ったら気をつけろ」ストラゲンは真顔になった。「おれはあの鉄の意志を持つ若い女王が気に入ってる。あんたがばかなことをして、女王が嘆き悲しむのを見たくなどないんでね。それから、タレンの言葉には耳を傾けることだ。まだ子供だし、根っからの泥棒ではあるが、とても勘が鋭くて頭も切れる。おれたち二人がこれまでに会った中で、いちばん知的な人間かもしれんぞ。それにやつは運がいい。負けるんじゃないぞ、スパーホーク。おれはアザシュに頭を下げたりはしたくない」顔をしかめて、「もうじゅうぶんだ。ときどき泣き言を言いたくなることがあってな。中へ戻って、古きよき日々のために一杯やらないか。手紙を読みたいというなら別だが」
「それはあとにしよう。ゼモック国に入って気が滅入るたとき、心を浮き立たせてくれるものが何かないとな」
 翌朝早く集まったとき、雲はふたたび月を隠してしまっていた。スパーホークは全員に道を説明し、クリングに教えられた目印をとくに強調した。それから一行は馬に乗って、野営地をあとにした。
 闇は通り抜けることなどできないのではないかと思うほど濃かった。
「ぐるぐる円を描いて進んでても、絶対わからないぞ」カルテンがやや不機嫌そうな口調で文句を言った。前の晩ペロイたちと遅くまで起きていて、目がまっ赤になっている。スパーホークが起こしたとき、その手は小さく震えていた。
「いいから進むのです、カルテン」とセフレーニア。
「わかってますよ。でも、どっちにです?」
「南東です」
「それは結構ですけど、どっちが南東なんです?」
「あちらです」教母は闇の中で指を差した。
「どうしてわかるんです」

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