「正義」についての本が売れていると聞いたとき、すかさずイラっとしました。
なんと言っても大学時代に何が「正しいか」について散々悩み、未熟な読解力ながらも哲学書を読み漁り、挙句の果てに卒業論文のテーマにまでして得た結果が「何が正しいかはよくわからないが、とにかくできる限り論理的に考えることは必要だ」ということだったからです。
それなのにいともあっさりと「正義の話をしよう」とカジュアルに薦められても・・・と思うのも無理もないではありませんか。
しかしながら、そのような苦闘の日々のことも過去の思い出となった昨今では、トラウマも忘れてさらりと小説でも読むかのように読み進めるのに苦労はしませんでした。
この本は、その政治哲学についての授業が取り上げられたハーバード大のサンデル教授ブームの火付け役となった話題の書であり、なるほど、過去の西洋哲学の文脈と政治と身近な倫理的相克が絶妙に合わせられ「正義」について興味深く、かつ明快に思考を進められる良書でありました。
サンデル教授は正義について主に3つの種類に分けて語りかけます。ひとつは、「最大多数の最大幸福」を謳った功利主義です。これは、正義が一元化されてそのものさしにあわない価値観を切り捨ててしまうことや、少数派の切り捨てにつながる点などに問題が認められます。これは、一人を犠牲にして多数を救うという割り切り方ができるかどうかという事例が挙げられました。
次に、個人の自由意志に基づく「リベラリズム」が挙げられます。これは、個人主義が尊重される自由な社会という点では合理的ですが、個人個人の正義が矛盾をきたしたり、全体から見て調和がとれているのか、また倫理的観点からみて個人の価値観が真に問題がないのか、妊娠中絶や同性婚などが取り上げられて語られます。
最終的にサンデル教授は3つめの正義である、連帯による公共性の受容と議論を通して、「共通善」を想定しながら生きるべきだとの主張を押し出します。
そして、それが政治と経済に反映されるべきだと力強く訴えます。
政治については、経済的生産性と福祉(人権)についての議論ばかりではなく(日本ではほとんど政争と政治劇でその議論さえままなりませんが)、そこに、たとえそれが宗教や信条であったとしてもいかなる社会となるべきかの主張が入るべきだということです。
ジョン・F・ケネディが暗殺される少し前にGDP中心の考えにひたって「満足することを知らない」アメリカ人を批判したことは驚きです。
1960年代といえば、「沈黙の春」によってやっと環境問題の芽が出始めたばかりのころであり、圧倒的な経済力で世界に君臨するアメリカを、21世紀に人類がつきあたっているサステナビリティの問題を喝破していたということになります。
サンデル教授はそのケネディの訴えかけのような、時には自国民さえ批判する覚悟のある政治理念が必要だと説きます。
また、経済的には市場システムの限界を認識し、何が正しいかを公に論じるべきだとしました。これは明らかに現在のCSR的な観点と軌を一にしています。
サンデル教授はこの書において「正義」を論じる際にはどうやら古典的な議論をおおよそ踏み外さないようにカントやロールズなどにページを割いていますが、個人的にはニーチェやサルトル、キェルケゴールといった実存哲学、また「多元主義」とつながる現代哲学について、さらには西洋以外の哲学(インドなど)からの文脈からの議論も読んでみたかったと思います。(自らの過去の錆びついた思考の積み重ねを呼び覚ますためにも)
サンデル教授は最終的には彼が是とする3番目の正義についても「強制と不寛容」の可能性を否定しておらず、その論理の不完全さを認めています。
しかしながら、長年哲学で滔々と語られてきた「認識」や「存在」の問題をむしかえすよりも、「正義」についていかに捉えなおすか、考え直すかはまさに副題にある「いまを生き延びるための哲学」ではないかと思います。
なぜなら、かつてないほどグローバル化が進み、それに伴う人権、労働、紛争、腐敗、環境問題、資源・エネルギー問題などについて「連帯」して立ち向かわなければ人類の存続が危ぶまれる今、そうした課題を解決するための「共通善」を考え、共有して実行していくことが求められているからです。
その最たる例があらゆる組織の社会的責任をかつてないほどの議論を重ねて集約したISO26000だと思いますが、これをバイブルにするのではなく、このコンセンサスを出発点にしながら、さらに思考と議論を進めていくことがまさに「哲学」なのではないかと思います。
いつの間にかISO26000に結び付けてしまい恐縮ですが、ISO26000に世界のあらゆる問題への解決の道しるべが集約されているのであれば(読んでみて、それはかなり困難なことだと感じましたが)、逆にあらゆる認識をそこに落とし込んで考えることでより具体的に生かしていけるのかもしれません。
個人的には、それほどのものであれば、マニアックな企業担当者が読むのではなく、教育やメディア、政治、果ては文化にまで浸透していくべきであり、それには4,500円の料金は高いし、内容ももっとストンと落ちる翻訳にすべきだと感じている次第です。
最後に、この本で述べられた「共通善」について。
それはすなわち、「私の存在や行動は社会の様々なものと切り離しては考えられない」ことを認識し、それを認識した時に必然的に「もしそうであれば、こうしなくてはならない」と感じさせる何かではないかと思います。この書では少し別の話題で触れられただけでしたが、イギリスの経験論者であるデイビッド・ヒュームは、正義は感情の集合体であるというような事を言っていました。私の考えでは、何かしら絶対的な正義があるのではなく、人々が関係性を知った時に感じる原動力がいわゆる「正義」への道を切り開くのであり、そうであれば、その関係性を認識させる仕組みが非常に重要であると感じています。強烈な体験や感情なくして、頭だけで「ISOまもらなくっちゃ」だけでは、人は動かないでしょう。おそらく、ICTや政治、教育、経済にはそうした観点において大きな役割があるのではないかと、この本を読んで感じました。
なんと言っても大学時代に何が「正しいか」について散々悩み、未熟な読解力ながらも哲学書を読み漁り、挙句の果てに卒業論文のテーマにまでして得た結果が「何が正しいかはよくわからないが、とにかくできる限り論理的に考えることは必要だ」ということだったからです。
それなのにいともあっさりと「正義の話をしよう」とカジュアルに薦められても・・・と思うのも無理もないではありませんか。
しかしながら、そのような苦闘の日々のことも過去の思い出となった昨今では、トラウマも忘れてさらりと小説でも読むかのように読み進めるのに苦労はしませんでした。
この本は、その政治哲学についての授業が取り上げられたハーバード大のサンデル教授ブームの火付け役となった話題の書であり、なるほど、過去の西洋哲学の文脈と政治と身近な倫理的相克が絶妙に合わせられ「正義」について興味深く、かつ明快に思考を進められる良書でありました。
サンデル教授は正義について主に3つの種類に分けて語りかけます。ひとつは、「最大多数の最大幸福」を謳った功利主義です。これは、正義が一元化されてそのものさしにあわない価値観を切り捨ててしまうことや、少数派の切り捨てにつながる点などに問題が認められます。これは、一人を犠牲にして多数を救うという割り切り方ができるかどうかという事例が挙げられました。
次に、個人の自由意志に基づく「リベラリズム」が挙げられます。これは、個人主義が尊重される自由な社会という点では合理的ですが、個人個人の正義が矛盾をきたしたり、全体から見て調和がとれているのか、また倫理的観点からみて個人の価値観が真に問題がないのか、妊娠中絶や同性婚などが取り上げられて語られます。
最終的にサンデル教授は3つめの正義である、連帯による公共性の受容と議論を通して、「共通善」を想定しながら生きるべきだとの主張を押し出します。
そして、それが政治と経済に反映されるべきだと力強く訴えます。
政治については、経済的生産性と福祉(人権)についての議論ばかりではなく(日本ではほとんど政争と政治劇でその議論さえままなりませんが)、そこに、たとえそれが宗教や信条であったとしてもいかなる社会となるべきかの主張が入るべきだということです。
ジョン・F・ケネディが暗殺される少し前にGDP中心の考えにひたって「満足することを知らない」アメリカ人を批判したことは驚きです。
1960年代といえば、「沈黙の春」によってやっと環境問題の芽が出始めたばかりのころであり、圧倒的な経済力で世界に君臨するアメリカを、21世紀に人類がつきあたっているサステナビリティの問題を喝破していたということになります。
サンデル教授はそのケネディの訴えかけのような、時には自国民さえ批判する覚悟のある政治理念が必要だと説きます。
また、経済的には市場システムの限界を認識し、何が正しいかを公に論じるべきだとしました。これは明らかに現在のCSR的な観点と軌を一にしています。
サンデル教授はこの書において「正義」を論じる際にはどうやら古典的な議論をおおよそ踏み外さないようにカントやロールズなどにページを割いていますが、個人的にはニーチェやサルトル、キェルケゴールといった実存哲学、また「多元主義」とつながる現代哲学について、さらには西洋以外の哲学(インドなど)からの文脈からの議論も読んでみたかったと思います。(自らの過去の錆びついた思考の積み重ねを呼び覚ますためにも)
サンデル教授は最終的には彼が是とする3番目の正義についても「強制と不寛容」の可能性を否定しておらず、その論理の不完全さを認めています。
しかしながら、長年哲学で滔々と語られてきた「認識」や「存在」の問題をむしかえすよりも、「正義」についていかに捉えなおすか、考え直すかはまさに副題にある「いまを生き延びるための哲学」ではないかと思います。
なぜなら、かつてないほどグローバル化が進み、それに伴う人権、労働、紛争、腐敗、環境問題、資源・エネルギー問題などについて「連帯」して立ち向かわなければ人類の存続が危ぶまれる今、そうした課題を解決するための「共通善」を考え、共有して実行していくことが求められているからです。
その最たる例があらゆる組織の社会的責任をかつてないほどの議論を重ねて集約したISO26000だと思いますが、これをバイブルにするのではなく、このコンセンサスを出発点にしながら、さらに思考と議論を進めていくことがまさに「哲学」なのではないかと思います。
いつの間にかISO26000に結び付けてしまい恐縮ですが、ISO26000に世界のあらゆる問題への解決の道しるべが集約されているのであれば(読んでみて、それはかなり困難なことだと感じましたが)、逆にあらゆる認識をそこに落とし込んで考えることでより具体的に生かしていけるのかもしれません。
個人的には、それほどのものであれば、マニアックな企業担当者が読むのではなく、教育やメディア、政治、果ては文化にまで浸透していくべきであり、それには4,500円の料金は高いし、内容ももっとストンと落ちる翻訳にすべきだと感じている次第です。
最後に、この本で述べられた「共通善」について。
それはすなわち、「私の存在や行動は社会の様々なものと切り離しては考えられない」ことを認識し、それを認識した時に必然的に「もしそうであれば、こうしなくてはならない」と感じさせる何かではないかと思います。この書では少し別の話題で触れられただけでしたが、イギリスの経験論者であるデイビッド・ヒュームは、正義は感情の集合体であるというような事を言っていました。私の考えでは、何かしら絶対的な正義があるのではなく、人々が関係性を知った時に感じる原動力がいわゆる「正義」への道を切り開くのであり、そうであれば、その関係性を認識させる仕組みが非常に重要であると感じています。強烈な体験や感情なくして、頭だけで「ISOまもらなくっちゃ」だけでは、人は動かないでしょう。おそらく、ICTや政治、教育、経済にはそうした観点において大きな役割があるのではないかと、この本を読んで感じました。
