August 16, 2008

速見健朗「ケータイ小説的。」を読んだ

 勝手に今年の私的「夏休み課題図書(笑)」に指定して読了。

4562041633ケータイ小説的。
"再ヤンキー化"時代の少女たち

速水健朗
原書房 2008/06/09

浜崎あゆみ、NANA、郊外型ショッピングモール、携帯メール…。彼女たちの物語はどこから生まれたのか? コミュニケーションという地獄を生きる少女たちの文化と生態を、ケータイ小説から読み解く。

 この本を読んでみて判ったことは、「ケータイ小説」というジャンル自体は、別に21世紀に生まれた全く新しい文学の流派でも何でもなくて、割と昔からある少女向け娯楽文学作品の現代的発展版なんだなということ。

 面白かったのは、ここ近年のケータイ小説のヒット作の多くが、「浜崎あゆみ」の歌(歌詞の内容)を深く知らなければ、深い共感を得られない構造になっているという分析。これに似た傾向は、アメリカのジェネレーションX(いまとなっては懐かしい…)系作家の作品にもよく見られたような気がする。特にブレット・イーストン・エリスはヒット曲の歌詞などを伏線にして物語を書いていた印象が強い。例えば、彼の「ルールズ・オブ・アトラクション」では、登場人物の一人の名前がアリソンで、彼女がエルビス・コステロの「アリソン」をはなうたで歌ったりするのだけど、読者がアリソンという曲の歌詞を知っているか知らないかで、その印象は大きく変わったはずだ。そういう流行歌の引用の仕方をするという意味で、ケータイ小説はなんだか「今っぽい」ような気がしたりした。

 また、ここ近年の若者はフィクションでは感情移入できないので「実話」を求めるという話には非常に興味を覚えた。現実にはありえない、正にウソのような話でも、そこに「本当にあった話」と枕詞が付いていれば感動できる反面、作り話と判っていると、どんなに精緻なストーリーでも感情移入できずつまらないということらしい。ちょっと論理が飛躍してしまうけれど、この「実話」を求める傾向の裏返しが、mixiなどで自分の犯罪的な行為を平気で吹聴する人達の正体なのかもしれないなと思う。たぶん、本当にやったことだから、誰かに伝えられずにはいられないのだろう。まさに「リアル」を共有したい訳だ。

 さて、本書の著者は、「ヤンキー」という文化は、社会から認められず批評もされない「被差別文化」だという視点で語っているけれど、ヤンキーな当事者にとってヤンキーであることは、そのまま「生きる」ことであって、「文化」という感覚は皆無なんだろうと思う。

 子供の頃、関西に住んでいて、初めてヤンキーという言葉を認識したのは、怖いお兄さんたちの間で女性もののサンダルを履くのが流行った時だ。そういうのを「ヤンキー」と称するらしいと、誰かから教えられた訳でもなく、なんとなく悟ったことがあった。

 自分は前にも書いたけれど、ネイティブな文化を持たずに子供時代を過ごしたために、こういう地域に根ざしたサブカルチャー的なものに対して、非常に疎く、最後まで判らないものもたくさんあった。

 いわゆる学生服を変形させるという行為も、外部から観察すれば正に「文化」の一つに分類されるのだろうけれど、あれが何であったのかはその渦中で過ごしながら全然理解できなかった。あとから東京へ出てきて、妙な太いズボンのことを「ぼんたん」と称する場合もあることを知って驚いたが、あれを関西の一部(具体的には南河内付近)でどう呼称するのかは最後まで判然としなかった。何度も何度も、自分の耳で聞いていながら、どうしてもそれを言語として認識できなかった。また、相手に何と言っているのかをたずねるという行為自体が相手を軽蔑することになりそうに感じて怖くてできなかった。(実に一度など勇気を出してたずねてみたが、やはり相手が何と言っているのか皆目判らなかった…)

 あの何と発音するのか不明で不気味な形をした学生ズボンは、確かにヤンキーじゃない外部の人間から見れば、ヤンキーという文化の一端だったのだろうけれど、当事者にとってはそれを履くことが当たり前のことであり、それは生きているという行為そのものだったように思える。ほかにも、薄っぺらな鞄の中にはドスしか入ってないという事態にも遭遇したけれど、その本人に気負うものは何もなくて、よくある生活の一部という感じでしかなかった。

 う〜ん、話がなんだか訳の判らない方に流れてしまって収集がつかないな。眠たくなってきたし、ま、夏休みの読書感想文にありがちな脱線ということで(笑)。
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