whomeohのblog長崎ぶらぶら平和日記

2014年11月

ドラマの「砂の器」はSAMAPの中居や玉木宏主演のを見た。先日、テレにで玉木宏のを再放送していたので、見てこのブログに書いた。ここをクリックだが、ハンセン病というのには触れなかった(原作者の松本清張の遺族の要望)から何か物足りなかった。

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映画版が長崎ではTOHOシナマズ長崎の午前10時の映画祭でしていたので、さっそく見に行った。100席入る劇場がいつもは10人から20人なのに60人以上入るという盛況。それに映画の終盤には感動して泣きだ人もいた。14日まで公開しているので、ぜひ、多くの人に見てほしい映画だ。

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原作は1961年に完結。その後、松竹が映画化権を取得して橋本忍と山田洋次の脚本も出来上がったが、作中に出てくるハンセン病に関する取扱いや膨大な製作費のために製作が難航し、作品の完成は13年後、1974年で、私が就職した後だったため、仕事で忙しく見る機会を逃していた。

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ハンセン病との関わりを先に書くが、ネットによると、この映画において、ハンセン氏病の元患者である本浦千代吉と息子の秀夫(和賀英良)が放浪するシーンや、ハンセン氏病の父親の存在を隠蔽するために殺人を犯すという場面について、全国ハンセン氏病患者協議会(のち「全国ハンセン病療養所入所者協議会」)は、ハンセン氏病差別を助長する他、映画の上映によって“ハンセン氏病患者は現在でも放浪生活を送らざるをえない惨めな存在”と世間に誤解されるとの懸念から、映画の計画段階で製作中止を要請した。しかし製作側は「映画を上映することで偏見を打破する役割をさせてほしい」と説明し、最終的には話し合いによって「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」という字幕を映画のラストに流すことを条件に、製作が続行された。協議会の要望を受けて、今西がハンセン氏病の患者と面会するシーンは、シナリオの段階では予防服着用とされていたが、ハンセン氏病の実際に関して誤解を招くことから、上映作品では、背広姿へと変更されている、という。

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この映画は大ヒットし共同通信の映画記者の立花珠樹氏は「最も有名な日本映画の1本でいいだろう。あんなに泣いた映画はないという感想をしばしば、聞く。だが、文庫だけでも400万部以上売れている松本清張の原作を読んで泣いた人はたぶんほとんど、いないはずだ。先に映画を観てから原作を読むのがお勧め。どちらも楽しめたうえ、なぜ映画が泣けるかよくわかるはずだ」と言っている。

 

また松本清張の小説は映画やテレビで数多く、映画化され、この頂点をなすのがこの「砂の器」という映画評論家は多い。

 

監督の野村芳太郎は「張込み」(58年)を皮切りに「ゼロの焦点」(61年)「影の車」(70年)「鬼畜」(78年)「わるいやつら」(80年)「疑惑」(82年)「迷走地図」(83)と清張作品を映画化したが、興業面を含めて最も成功したのが「砂の器だ」。

 

この作品が単なる犯人捜しのミステリーではなく、その人物がなぜ犯行に行ったったかということを人間ドラマの中に描いている。被害者の元警察官で雑貨商の三木謙吉(緒方拳)という温厚な育ての親で大恩人を殺さなければならなかったか。本籍詐称やハンセン病患者の子供ということでは殺さない。大恩人が父親がまだ生きており、会いたがっているから、会うように説得するのを拒否し、大物代議士の令嬢と結婚して上流階級を目指そうとしたから殺したんだ、と捜査会議で、今西刑事(丹羽哲郎)が説明する。

 

この捜査会議で今西刑事が犯人の和賀英良(加藤剛)に逮捕状を請求する。この間、45分ぐらいか、和賀英良の新作曲「宿命」のコンサートシーン、ハンセン病のため忌み嫌われ、全国を流浪する和賀らの親子のシーン。芥川也寸志音楽監督のもとで菅野光亮が作曲した「宿命」の旋律が一体になる。松本清張も「これは小説では表現できない」と認めた映画ならではの作品に仕上がっている。

 

やはり「砂の器」はハンセン病をなくして映画化もドラマ化も無理だ。ハンセン病に対する差別がまだあるのなら仕方がないが、もし差別がなくなっているとしたら、松本清張の遺族もハンセン病を取り上げないという条件を取り下げてほしい。

 

 

ドラマのブログでも載せたが当時のハンセン病と映画に対する考察も再度、掲載する。

 

 

松本清張著 『砂の器』とハンセン病

 

荒井裕樹

 

1 松本清張『砂の器』の問題点

 

『砂の器』は昭和35年6月から約1年にわたり読売新聞に連載された松本清張の代表作である。推理小説を要約することほど難しいことはないのだが、大体の筋だけ示しておこう。

 

将来を嘱望されている前衛音楽家和賀英良は、音楽界での成功ばかりでなく、大物政治家の愛娘との婚約も決まり、着実に名声を得つつあった。そんな折、彼の真の身元を知る元巡査、三木謙一が不意に現れる。実は和賀英良の正体はハンセン病者本浦千代吉の息子本浦秀夫であった。彼は戦後の混乱に紛れ身元を偽造し、現在の地位を手に入れたのだった。彼はその地位と名声を守るため三木謙一を殺害する。

 

この作品には「業病」という言葉が頻出する。かつてハンセン病(「癩病(らいびょう)」)は遺伝性のものと考えられ、「業病」や「天刑病」などと呼ばれ、前世の罪の報い、もしくは悪しき血筋による病との迷信があり、それを発病することは少なからぬ罪悪を犯すことと同義とされた。もし一人でも親族に発病者が出ると、その家は共同体の中で一切の関係性を断絶され、時には一家離散に追い込まれたという。そのような患者迫害が最も激しかった時期、それが昭和10年代の無癩県運動期であった。

 

本浦父子が放浪し、父千代吉が三木謙一巡査に保護され療養所に収容された昭和13年という時代はちょうどこの無癩県運動期に該当する。無癩県運動とは〈民族浄化〉を旗印に各府県警察の主導で患者狩りが広く展開された時代である。本浦父子もこの無癩県運動の被害者であったと言えよう。ハンセン病は〈一等国日本〉にとっては〈国恥病〉であり、その存在自体が〈国辱〉とされ、誤った伝染力の認識と相俟(あいま)って、国家を挙げて隔離撲滅が奨められた。ハンセン病は「業病」であり同時に凶悪な伝染病であるという、患者にとって極めて不都合な偏見が幾重にも重なり合っていた。そのような境遇に貶(おとし)められたハンセン病患者を父に持つ本浦秀夫は、戦後の混乱に乗じて自身の身元を偽造し、和賀英良に再生することに成功する。苦労して手に入れた現在の地位を守るために、自身の正体を知る三木謙一を殺害したのだ。しかしそのような嘘で作り上げた彼の栄光はもろくも崩れていく。まるで砂で作った器のように。

 

松本清張は『砂の器』の作品内時間を発表時期と同じ昭和35年前後に設定している。つまり彼はリアルタイムのこととして同作を書いたことになる。しかし昭和35年には、ハンセン病はすでに科学治療法が確立していたばかりか、患者たちは自分たちの権利獲得と境遇改善のための運動を広く展開していた。昭和34年には「癩病」から「ハンセン氏病」への改称の動きも出ている(『全患協運動史』参照)。そんな昭和35年当時に、松本清張がなんらの疑問を抱くことなく「業病」と言い切れるのはなぜなのか? 社会派と称された松本清張でも、ハンセン病問題に関しては見識が乏しかったとしか考えられない。彼が欲したのは作品の山場を作るに相応(ふさわ)しい〈社会的負性〉であった。その〈社会的負性〉に相応しいものとしてハンセン病=「業病」があったのだろう。とにかく、隠すべき〈社会的負性〉の象徴としてのハンセン病という偏見自体が、同作の中で全く疑われていないのは問題であろう。

 

2 映画版『砂の器』の問題点

 

映画版『砂の器』(監督野村芳太郎)は昭和49年に映画化され、同年の『キネマ旬報』の読者投票では一位に選ばれている。脚本を山田洋二と橋本忍が担当していることもあり、幾分ハンセン病問題に配慮した痕跡が窺(うかが)える。

 

原作から映画への最大の変更点は、刑事今西栄太郎による和賀英良の正体暴露の場面である。捜査本部の刑事たちを前にして、三木謙一殺害事件の真相を語る今西は、今まで隠されてきた本浦父子の境遇について言及する。原作ではわずか約6ページにすぎないこの箇所は、映画では約45分弱と全体の大半を占めることになる。「親知らず」の浜を夕陽に照らされながら父子の歩む美しい映像や、秀夫を苛める悪童たちを追い払う千代吉の姿など、悲惨な境遇に陥った親子の愛情を感傷的に描き出し、涙を誘う仕掛けがなされている。そのような感傷的なシーンとクロスして今西刑事の調査報告が差し挟まれ、和賀英良が三木謙一を殺害するに及んだ経緯が詳細に説明される。原作では和賀英良が正体を隠すことは殺人の単なる動機として描かれているのだが、ここではやむを得ない事情に換えられていると言えよう。原作ではすでに死亡したことになっている本浦千代吉が映画版では生存し、和賀英良の写真を差し出す今西刑事に向かって涙ながらに「知らん男だ」と叫ぶ場面は、息子の幸福を願い、親子の関係を自ら否定する父親の悲しい愛情という映画独自の脚色である。しかし、やはりここでも隠すべき〈社会的負性〉としてのハンセン病という偏見は相対化されていない。

 

映画が製作された昭和49年には、すでに他ならぬハンセン病回復者自身によって隔離政策への歴史的再考がなされていた。そのような時代に、無癩県運動によって隔離される本浦父子を感傷的に描くばかりで、ハンセン病=〈社会的負性〉という偏見を相対化する視点がなかったのは残念である。

 

さて、映画は当然のことながら映像を表現の手段とする。そのため不可避的にハンセン病患者を映像化する必要が生じる。『砂の器』はハンセン病患者を、シミのある土気色のメイク、ボロボロの衣裳、ずらしてはめられた軍手(歪んだ手)という形で表現したが、実はこれらの映像表現は、『小島の春』(昭和15年)、『ここに泉あり』(昭和30年)、『愛する』(平成9年)にも共通するハンセン病患者を映像化するための紋切型なのである。そしてこのように表現された患者たちはいずれも重く沈痛な表情をしている。いわば悲しげな表情もメイクの一部となっているのだ。もちろんこのような者もかつてはいただろう。しかし映像化される患者がことごとく同様の紋切型で描かれ、いつも泣いているものだと思われては、描かれる側としてはたまったものではないだろう。

 

 

またもネットから

言うまでもなく『砂の器』は原作が清張だけあって、飽くまでも主役は罪を犯した和賀と彼を追う丹波哲郎と森田健作らが演じる刑事というミステリー。しかし、この映画の魂はこの作品のために菅野光亮によって作曲された『宿命』と題されたピアノと管弦楽のための組曲だ。作中では和賀が生涯の全てを賭けて作曲し、自らラストシーンでピアノ演奏をするのだが、『宿命』という曲それ自体が映画のテーマ曲として各シーンでもBGMとして使用されている。音楽を言葉で表現するのは苦手とするところだが、敢えて言うならば映画音楽というジャンルを超越した見事なほどに心を揺さぶる一曲だ。この曲無くして、『砂の器』は傑作となり得なかっただろうし、かつてあるブロガーが『砂の器』という映画のために『宿命』が作曲されたのではなく、逆にこの『宿命』のために『砂の器』という映画が作られたと書いていたのを読んだことすらある。それほどまでに音楽的に素晴らしく、かつクラシックというジャンルでありながら、どこか懐かしさを感じずにいられない和風の旋律を『宿命』は感じさせるのだ。

 

cap049_2物語が展開し、和賀が恩人を殺害するに至った経緯をようやく把握した警察の会議にて、丹波哲郎は和賀がらい病(ハンセン病)を患った父親と共に流浪の旅を続けていた過去があった事実を語る。しかし、ここで何よりも見事なのは、野村監督が台詞で丹波にその旅がいかに過酷なものであったかを語らせなかった点。丹波には二人の旅がどのようなものであったかは、「想像する」ことしかできないと言うだけに留めている。その代わりに、この警察会議が行われているのと同時期に開始された和賀の『宿命』披露コンサートの模様と、幼い和賀が父と苦楽を共に歩んでいた頃の旅の映像が画面に映し出される。二人の旅するシーンに台詞は一切無い。バックに流れ続ける『宿命』、和賀がコンサートで演奏している曲そのものが台詞以上に、二人の想いを描写しているのだ。冬は凍えそうな雪の吹き荒ぶ海辺を黙々と歩き、桜が咲き誇る春は訪れた村の子供達に苛められる父と子…それは悲しくも美しい。何故ならば、それは切っても切れない親と子の絆をも描いているのだから。かなり延々と続くこの旅の描写を長過ぎると感じる観客は少ないはず。観る者は二人と共に旅を続け、そこで彼らが体験する辛さとわずかな喜びを存分に共有できる、この作品の中で最も感じ入り共感できるシークエンスだからだ。『砂の器』は一種のロードムービーとも言えると思う。刑事達は常に事件解決のために日本各地に旅をし続け、真実に辿り着いた段階では犯人と目星をつけていた和賀に対する意識も変わって行く。そして前述の『宿命』が流れるシークエンスで、観客は今度は和賀と父の旅を疑似体験することで、和賀=殺人者以上の何かしらを彼の中に見出すこととなるからだ。‘宿命づけられた旅’という言葉こそ、この作品の重要なキーワードではないか。

 

10099204816この作品は原作と異なり、和賀と父が故郷を追われた理由を病人への村八分とその後の社会の差別的扱いに置き換えたことで、同情と同時に『宿命』という曲名を一層生かすことに成功もしている。原作では和賀の父がある罪を犯したために故郷を追われる設定となっており、らい病というモチーフは一切登場しない。しかし、病を患うという当人の意志ではどうにも回避できない理由を物語の発端とすることで、『宿命』という曲がより深い意味を持ち、多くの人々の心を打つ作品に仕上がったのだ。そして観る者達も何かしらの‘宿命’を背負って生きているからこそ、殺人事件というほとんどの者には縁のない出来事を扱う映画でありながら、この作品に感動を覚えるのだろう。それらは生まれや生い立ち、或いは単に容姿や能力に関する小さなコンプレックスかもしれない。しかし、人間は誰しもきっと何らかの‘宿命’を和賀親子同様に抱きながら生きているはずだ。ラストで警察会議を終え、まだコンサート中の和賀を逮捕しに刑事達が会場に到着した際に、丹波はすぐに逮捕に踏み切ろうとする他の刑事達を抑え、最後まで演奏だけはさせてやるように指示したのは、彼もまた和賀を追求する中で誰もが逃れられない‘宿命’を持つことを実感したからではないかと思う。丹波の最後の台詞も素晴らしい…「彼(和賀)はもう、音楽の中でしか父親に会えないのだから」。

 

(このような私にとっての映画『砂の器』への思い入れの深さを語って聞かせれば、「おおおおら、ここここんなひとししししらねぇだぁぁぁ!」などと加藤嘉の下手糞な物真似をしやがるアホな旦那なんぞがいることも、私が背負わねばならない‘宿命’なのだろうか…?私の理想の男性はこの映画で殺されちゃう元駐在さんを演じてた緒形拳さんみたいな男性なのにな~溜息。)

 

映画版では、和賀英良は原作どおりの前衛作曲家兼電子音響楽器(現在でいうシンセサイザー)研究家ではなく、天才ピアニスト兼、ロマン派の作風を持つ作曲家に設定変更された。劇中での和賀は、過去に背負った暗くあまりに悲しい運命を音楽で乗り越えるべく、ピアノ協奏曲「宿命」を作曲・初演する。物語のクライマックスとなる、捜査会議(事件の犯人を和賀と断定し、逮捕状を請求する)のシーン、和賀の指揮によるコンサート会場での演奏シーン、和賀の脳裏をよぎる過去の回想シーンにほぼ全曲が使われ、劇的高揚とカタルシスをもたらしている。原作者の松本清張も「小説では絶対に表現できない」とこの構成を高く評価した。

 

原作と違う点がいくつかあり、今西・吉村が利用した列車が時代にあわせて変化しているほか(亀嵩へ向かう際、原作では東京発の夜行列車で1日かけてもたどり着かなかったが、映画版では当時の主流であった新幹線と特急を乗り継いで向かっている)、和賀英良の戸籍偽造までの経緯も異なっている。また、中央線の車窓からばら撒かれた白い物(犯行時に血痕が着いたシャツの切れ端)は原作では今西と吉村の二人で拾い集めたことになっているが、映画版では今西が被害者の生前の経歴を調べる為に出張している間に吉村が一人で発見し、独断で鑑識課へ持って行ったという流れになっている。その他にも、原作ではハンセン(氏)病への言及は簡潔な説明に止められているが(言及箇所は第六章・第十七章中の2箇所)、映画版では主に橋本忍のアイデアにより、相当の時間が同病の父子の姿の描写にあてられている。なお、今西がハンセン(氏)病の療養所を訪問するシーンは原作にはなく、映画版で加えられた場面である。

 

「宿命」は音楽監督の芥川也寸志の協力を得ながら、菅野光亮によって作曲された。なお、サウンドトラックとは別に、クライマックスの部分を中心に二部構成の曲となるように再構成したものが、『ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」』としてリリースされた。

 

 

あらすじ

 

六月二十四日早朝、国鉄蒲田操車場構内に扼殺死体が発見された。被害者の年齢は五十~六十歳だが、その身許が分らず、捜査は難航をきわめた。警視庁の今西栄太郎刑事と、西蒲田署の吉村正刑事らの必死の聞き込みによって、前夜、蒲田駅前のバーで被害者と酒を飲んでいた若い男が重要参考人として浮かび上った。そしてバーのホステスたちの証言で、二人の間に強い東北なまりで交わされていた“カメダ”という言葉に注目された。カメダ……人の姓の連想から東北各県より六十四名の亀田姓が洗い出されたが、その該当者はなかった。しかし、今西は「秋田県・亀田」という土地名を洗い、吉村とともに亀田に飛ぶが、手がかりは発見できなかった。その帰途、二人は列車の中で音楽家の和賀英良に逢った。和賀は公演旅行の帰りらしく、優れた才能を秘めたその風貌が印象的だった。八月四日、西蒲田署の捜査本部は解散、以後は警視庁の継続捜査に移った。その夜、中央線塩山付近で夜行列車から一人の女が白い紙吹雪を窓外に散らしていた。その女、高木理恵子を「紙吹雪の女」と題し旅の紀行文として紹介した新聞記事が、迷宮入りで苛だっていた吉村の触角にふれた。窓外に散らしていたのは、紙なのか? 布切れではなかったか? 早速吉村は、銀座のクラブに理恵子を訪ね、その事を尋ねるが、彼女は席をはずしたまま現われなかった。だが、その店に和賀英良が客として現われた。和賀英良。和賀は音楽界で最も期待されている現代音楽家で、現在「宿命」という大交響楽の創作に取り組んでいる。そしてマスコミでは、前大蔵大臣の令嬢田所佐知子との結婚が噂されている。八月九日。被害者の息子が警視庁に現われた。だが被害者三木謙一の住所は、捜査陣の予測とはまるで方角違いの岡山県江見町で、被害者の知人にも付近の土地にもカメダは存在しない。しかしそれも今西の執念が事態を変えた。彼は調査により島根県の出雲地方に、東北弁との類似が見られ、その地方に「亀嵩」(カメダケ)なる地名を発見したのだ。なまった出雲弁ではこれが「カメダ」に聞こえる。そして三木謙一はかつて、そこで二十年間、巡査生活をしていたのだ……。今西は勇躍、亀嵩へ飛んだ。そして三木と親友だった桐原老人の記憶から何かを聞きだそうとした。一方、吉村は山梨県塩山付近の線路添いを猟犬のように這い廻って、ついに“紙吹雪”を発見した。それは紙切れではなく布切れで、被害者と同じ血液反応があった。その頃、とある粗末なアパートに理恵子と愛人の和賀がいた。妊娠した彼女は、子供を生ませて欲しいと哀願するが、和賀は冷たく拒否するのだった。和賀は今、佐知子との結婚によって、上流社会へ一歩を踏み出す貴重な時期だったのだ。一方、今西は被害者が犯人と会う前の足跡を調査しているうちに、妙に心にひっかかる事があった。それは三木が伊勢の映画館へ二日続けて行っており、その直後に帰宅予定を変更して急に東京へ出かけているのだ。そして、その映画館を訪ねた今西は重大なヒントを得た……。本庁に戻った今西に、亀嵩の桐原老人から三木の在職中の出来事を詳細に綴った報告書が届いていた。その中で特に目を引いたのは、三木があわれな乞食の父子を世話し、親を病院に入れた後、引き取った子をわが子のように養育していた、という事だった。その乞食、本浦千代吉の本籍地・石川県江沼郡大畑村へ、そして一転、和賀英良の本籍地・大阪市浪速区恵比寿町へ、今西は駆けめぐる。今や、彼の頭には、石川県の片田舎を追われ、流浪の旅の末、山陰亀嵩で三木巡査に育てられ、昭和十九年に失踪した本浦秀夫と、大阪の恵比寿町の和賀自転車店の小僧で、戦災死した店主夫婦の戸籍を、戦後の混乱期に創り直し、和賀英良を名乗り成人した、天才音楽家のプロフィルが、鮮やかにダブル・イメージとして焼きついていた。理恵子が路上で流産し、手当てが遅れて死亡した。そして、和賀を尾行していた吉村は理恵子のアパートをつきとめ、彼女こそ“紙吹雪の女”であることを確認した。今や、事件のネガとポジは完全に重なり合った。伊勢参拝を終えた三木謙一は、同地の映画館にあった写真で思いがけず発見した本浦秀夫=和賀英良に逢うべく上京したが、和賀にとって三木は、自分の生いたちと、父との関係を知っている忌わしい人物だったのである。和賀英良に逮捕状が請求された。彼の全人生を叩きつけた大交響曲「宿命」が、日本音楽界の注目の中に、巨大なホールを満員にしての発表の、丁度その日だった。

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製作年 1974

製作国 日本

配給 松竹

上映時間 143

 [19741019()公開]砂の器

上映スケジュール スタッフ

監督 野村芳太郎 

脚本 橋本忍 山田洋次 

原作 松本清張 

企画 川鍋兼男 

製作 橋本忍 佐藤正之 三嶋与四治 

 音楽監督 芥川也寸志 

 作曲・ピアノ演奏 菅野光亮 

指揮 熊谷弘 

演奏・特別出演 東京交響楽団 

 

キャスト

今西栄太郎 丹波哲郎 

吉村正 森田健作 

和賀英良 加藤剛 

本浦千代吉 加藤嘉 

本浦秀夫 春日和秀 

高木理恵子 島田陽子 

田所重喜 佐分利信 

田所佐知子 山口果林 

三木謙一 緒形拳 

三木彰吉 松山政路 

捜査一課長 内藤武敏 

捜査一課係長 稲葉義男 

新聞記者・松崎 穂積隆信 

女給・明子 夏純子 

三森署々長 松本克平 

安本 花澤徳衛 

桐原小十郎 笠智衆 

女中・澄江 春川ますみ 

ひかり座・支配人 渥美清 

山下お妙 菅井きん 

のみ屋・主人 殿山泰司 

若葉荘の小母さん 野村昭子 

巡査 浜村純 

芥川也寸志 

国語研究所所員桑原 信欣三 

岩城署署長 山谷初男 

鑑識課技師 ふじたあさや 

 

長崎県農協が長崎和牛PRのために開いているステーキフェアが10月27日から31日まで、長崎市出島町の長崎農協会館内のAコープレストランであり、31日にようやく朝の時間に余裕ができたので一人で食べに行った。私がこのステーキフェアに参加したのは3回目。ここをクリック/a>
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いつものように1日50食限定。今回も前日までは混んでいたというが、31日は開店の午前11時に来てもぎりぎり間に合った。

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これまでと新米の季節ではなかったが、もうヒノヒカリでも新米が出回っていたので、米が新米のヒノヒカリ。後は長崎のAコープレストランは、諫早店と違って、客が来てからステーキ150グラム(1933円を千円9を焼く。だから諫早店よりも美味しかったが、諫早は皿がステーキ用だったが、農協会館点はステンレスで少し興ざめ。

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だが一口、食べたらトロッとして柔らかく、口全体に美味しさがしみる。やはり人間は食べる時が一番楽しい。新米も炊き立てで、農協だけに美味しく炊き上げている。これで千円とは大満足。

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息子から美味しいコメと九州では有名な熊本県菊池市の七城米のヒノヒカリの産地限定米を5キロもらい、食べた直後だったが、長崎産ヒノヒカリも、このように上手に炊くと美味しい。

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だが長崎では長崎和牛がなかなか手に入らない。スーパーやたった一つしかない浜屋デパートにも長崎和牛の美味しい肉は売っていない。

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焼肉を食べてまだ正午前だったので、Aコープ(スーパー)を運営する農協直販に行き、なぜ長崎市内で手に入らないかを聞いてみた。そうしたら、長崎市ではグラム1000円以上の長崎和牛は売れないから置いている店がわずかだと説明してくれた。

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いくらステーキフェアをして、長崎和牛のPRをしても、売っていなかったら、無駄ではないかと聞いたら「おっしゃる通り」という。

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そして長崎和牛を常時、置いている店を紹介してもらった。それは大浦のカウベル深堀と新大工の玉屋1階の肉のマルシンの2つだけ。運が良かったら、スーパーのデッドキャベツに置いているという。


熊本に住んでいる息子が行くスーパーでは、肉コーナーがかなりのスペースで、いつも熊本和牛が置いてある。私たちが熊本に行ったときは、翌日朝10時に行くと半額で、いつもグラム約1000円のを半額で買う。


長崎ももっと多くの人が和牛を食べて生産者を喜ばせ、もっと美味しい長崎和牛を生産してもらおうではないか。

私が大学時代、歴史を専攻したと何度も書いた。私のゼミの先生はドイツ社会民主主義を専門にしていた。しかし陸軍士官学校を卒業して戦地へ行き、戦後、転向して大学に入りなおして、教授までなった変わり種。その先生は常日頃から「天皇(昭和)は人柄はとても良い。しかし戦争責任はある」と何度も言っていた。陸軍に押されて開戦に踏み切ったというが、統帥権は天皇にあり、天皇がダメだと言えば、戦争は出来なかったし、どうせ無条件降伏する位なら、天皇は早く終戦を早く決意してさえいれば、原爆も東京大空襲もなかったと、私たち学生は理解して、大学を卒業した。

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だからいかに当時の本島長崎市長が昭和天皇の病気が重篤なときとはいえ、長崎市議会の一般質問で共産党議員の質問に答えて、「天皇に戦争責任はある」と答弁したのは正しい歴史認識を持っていると思った。


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だが多くの人の反発を買い、右翼は銃撃というテロに出た。私は本島市長が市長になった時、佐世保にいたが、日本の民主主義はどうなっているんだと思った。

 

私が島原半島の小浜町にいたとき、飲み屋で仲良くなった警察官は、「本島を絶対に収賄か選挙違反で逮捕する」「本島の長男が結婚式の祝いに業者から100万円受け取った。非常識な金額は明白。絶対に立件させる」と息巻いていた。


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警察が右翼の警備を緩やかにしたのは、警察の責任ではなく、本島側からの要望。銃撃されたのは、そんな情報を得ていなかった警察の責任も一部ある。警察の本音は本島に市長を辞めてもらいたかったから。

 

だが、数年後、本島の後を継いだ市長もテロに倒れた。日本は民主主義の国というがそうでもないと思ったものだ。それに今の安倍政権は戦後レジームの脱却を唱え、特定秘密保護法の制定や集団的自衛権の閣議決定で日本を戦争できる国にする準備をしている。

 

こんな時、存在だけでも意義があった本島が死んだのは、平和勢力の衰退に拍車をかけるのではないかと危惧している。

 

しかし私は本島の言っていることに全部、賛成しているわけではない。本島は平和宣言で日本の加害責任について触れ続けた。この功績は大きいが。

 

長崎新聞の評伝(報道部統括部長・森永玲)によると、本人の思想は明確で「日本の侵略・加害は悪」という立場を一歩も譲ろうとはしなかった。市長退任後の論文「広島よおごるなかれ」(97年)で原爆ドームの世界遺産登録を「加害の責任がない」と元長崎市長による被爆地広島への攻撃が世間を仰天させた。未曾有の惨禍をもたらした原爆投下についても「日本人が悪いことをした以上、仕方がなかった」と極論を公言するようになり、被害者の憤激を買った」という。

 

だが、本島市長の死去の扱いについて、民主主義を守ることを社是としているはずの朝日新聞は小さく扱い、朝日には長崎支局に居て論説委員や編集委員になった記者はいないのかとさえ思った。毎日新聞でさえ、元長崎支局長がちゃんといい記事を書いているのに。

 

以下ネットから

 

 

現在の長崎県南松浦郡新上五島町仲知地区(旧・北魚目村)に生まれる。隠れキリシタンの末裔であるためカトリック教徒であり、母が未婚ということもあって、戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵され、見習士官として新兵に大砲の撃ち方を教えていた。終戦時は、所属していた西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊の疎開先である熊本市郊外の山奥にいた。戦後、京都大学工学部に入学。在学中は京都カトリック学生連盟の委員長を務めたこともあった。27歳で卒業。

 

その後、教員生活を経て、長崎県議会議員を520年務め、長崎市長となった。その間、自由民主党長崎県連合会幹事長などを務めた。

 

昭和天皇が重病で余命が長くないと知らされ、国中に自粛ムードが漂っていた1988年(昭和63年)127日、市長3期目の在任中だった本島は、市議会で共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、海外の記事や自分の従軍経験から考えて「戦後43年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います…私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」と答弁。同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです」と重ねて発言した。その直後に、自民党県連などが発言撤回を要求したが、本島は自分の良心を裏切ることはできないとして、これを拒否した。これに対し自民党県連は県連顧問から解任し、多数の右派系人物、組織が市長を非難した。また、多数の街宣右翼が長崎市に押しかけ、80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」を叫んだ。

 

元々は「天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している。」という趣旨の発言であったが、マスコミ各社は「天皇の戦争責任はあると思う」と言う部分だけを強調する形で報道した。

 

1990年(平成2年)118日、警備費用がかかりすぎるとの自民党市議の批判を受けて警察が警備を緩和したときに、右翼団体『正気塾』の田尻和美が本島を背後から銃撃したが、奇跡的に命を取り留めた(長崎市長銃撃事件も参照)。その後、本島は瀕死の重体であったが「犯人を赦す」と述べている。

 

1991年(平成3年)の選挙では共産党は公認候補を出さず、実質的に本島を支持し、そのほかの左派勢力の協力も得て4選したが、1995年(平成7年)の選挙では多選批判などを受け、自民党の推薦を受けた伊藤一長に敗れ、政界から引退した。2007年(平成19年)に伊藤が銃撃によって死亡した際には「2代にわたり市長が銃撃されるのは異常」とコメント(毎日新聞)した。

 

2002年(平成14年)、第1回韓日平和交流功績賞(韓国の被爆者団体と長崎県被爆2世教職員の会が設けた賞)、並びに、ドイツの功労勲章一等功労十字章が贈られた。

 

2002年(平成14年)以降、左翼過激派との接近が顕著になり、中核派の機関紙『週刊三里塚』巻頭の「闘いの言葉」を執筆している。

 

2014年(平成26年)1031日、肺炎のため死去。享年92

 

 

◎毎日新聞のネット

激しい雨の降った今月6日、長崎市の平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑前に元長崎市長の本島等さん(92)の姿があったことを新聞で知った。

 

 第二次世界大戦中に強制連行され、収容先の長崎刑務所浦上支所で原爆のため被爆死した中国人32人の追悼式だった。先の戦争での加害責任を胸に刻み続ける本島さんの執念を見る思いがした。

 

 本島さんは長崎原爆の日の平和祈念式典で読み上げる平和宣言でも自らの信念にこだわり続けた。毎日新聞元長崎支局員の横田信行記者(現在は北海道在勤)の著書「赦(ゆる)し 長崎市長本島等伝」で、平和宣言を取り巻く環境が厳しさを増していることについて本島さんがこう語っている。

 

 「僕も9割は政府を動かせるとは思っていなかった。叫びが年々空虚になる焦りはあった。だが、訴え続けることは正しいし、やらねばならない」

 

 今年の平和宣言の起草委員会は5日に終わったが、安倍晋三政権が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしたのを受け、「戦争ができる国に変わることに対し、警鐘を鳴らすべきだ」という委員の意見が相次いだという。

 

 田上富久市長が8月1日に宣言の骨子を発表するというが、当代の「平和市長」はどんなメッセージを国内外に発信するのか、注目したい。

 

 「でも、長崎の市長が何を言っても、相手は総理大臣なんだから、無理があるよ」。ちまたではそんな声も聞く。

 

 しかし、被爆都市・長崎の市長の発信には他都市とは次元の異なる重みと意味合いがあるはずだ。「赦し」には本島さんのこんな言葉が収められている。

 

 「長崎市は被爆・平和問題で、市長の言動が大きな影響力を持つことを心してほしい」

 

 本島さんがかつての部下である田上市長に向けた言葉だ。<長崎支局長・下薗和仁>

 

 

 

 

長崎市長在任中の1988年に「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し国内外で議論を呼び、右翼団体幹部から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが31日、肺炎のため亡くなった。92歳だった。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は近く密葬を執り行い、後日「お別れ会」を開く予定。

 

【本島さん、反核に尽力も「原爆投下仕方ない」繰り返す 同時期の広島市長は】

 

 1922年、長崎県・五島列島の北魚目村(現・新上五島町)で生まれた。旧制高校在学中に徴兵され、陸軍の西部軍管区教育隊(現・熊本県合志市)で終戦を迎えた。戦後は京大工学部を卒業後、高校教師、衆院議員秘書や県議5期、自民党県連幹事長などを経て、79年4月に長崎市長に初当選し95年まで連続4期務めた。

 

  天皇の戦争責任を巡る発言は3期目の88年12月7日。市議会の答弁で、自身の1年4カ月間の軍隊体験なども踏まえ「天皇の戦争責任はあると私は思います」と述べた。議会後の記者会見でも「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」と語った。

 

  当時は昭和天皇が重病だったこともあり、発言には賛同、批判両方の立場から議論が起きた。撤回の要求に本島さんは「天皇についての自由な発言ができずして、日本の民主主義の発展は期待できない」などと自身の立場を貫いた。90年1月18日、発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され、左胸貫通の重傷を負ったが、命をとりとめた。

 

  5選を目指した市長選(95年)で落選後も、表現の自由や原爆投下などについて発言を続けた。長崎市の平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑の設置・維持や、反核・平和を訴えようと市民団体が平和公園で1月1日に行う「正月座り込み」にも今年1月まで参加するなど、平和への活動に晩年まで取り組んだ。【小畑英介】

 

92歳で31日、亡くなった元長崎市長、本島等(もとしま・ひとし)さん。世界に平和を訴える被爆地の市長が天皇の戦争責任に言及し、テロで重傷を負ったことは衝撃度で現代史に残る。1995年の市長選落選後は論文「広島よ、おごるなかれ」で加害責任を軽視する日本の反核兵器運動に異を唱えた。こうした言動で反戦を訴えた反骨の政治家や論客と記憶されるだろう。

 

   

 隠れキリシタンの末裔(まつえい)で非嫡出子。差別や貧困から脱出するため政界へ。清濁を併せのみ、面倒見は抜群で保守政治家の実力者となった。弱さを認め、愚者を演じた処世術は自分への自信に裏打ちされ、大衆に愛される天賦の才があった。

 

 本島さんの核をなすのは、弱者への共感だった。「平和市長」と呼ばれ、弱者だった被爆者の援護に尽くした。被爆地と被爆者を熟知し、被爆者でなくとも被爆を語れる希有(けう)な存在だった。カトリック信者としての宗教観から銃撃犯さえ許す一方、原爆投下という被害を強調するあまり軽視されてきた加害責任は問い続けた。

 

 戦争責任発言の発端である議会答弁は前段で天皇の戦争責任を指摘したが、後段では責任を不問にした戦後処理を受け入れると明言した。天皇の責任追及を意図したのではなく、戦争で踏みにじられた一兵卒が抱いた実感を吐露し、日本の戦争責任を検証すれば天皇も責任を免れないという客観的な認識を示しただけだった。

 

 本島さんの真骨頂は自らの体験に基づく主張であり、戦争に翻弄(ほんろう)された弱者の目線だった。「戦場へ行かず人殺しせずに済んだが、自由も人権もなかった。正義の戦争はありえない。戦後育ちの政治家や学者が『力は正義』と勇ましい理論を展開するが、痛みがうかがえず『戦争なんて大したことない』と聞こえる。自分たちは戦争に行かないんだ。でも支持が増える野蛮な時代に帰りつつある」

 

 近年は「平和が吹けば飛ぶ存在になった」と心を痛めていた本島さん。出自や宗教での差別、戦争で味わった弱者の痛み。強者になれず理想と妥協に揺れた為政者の痛み。集団的自衛権行使が容認され、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が吹き荒れる今、忘れてはいけない痛みを教えてくれる、かけがえのない先達を失った。【横田信行】

 

31日、92歳で亡くなった元長崎市長、本島等(もとしま・ひとし)さんは銃撃事件に屈することなく1995年の市長退任後も戦後の残された課題について発言を続け、最期まで反核・平和運動に尽力した。本島さんを知る人たちからは悼む声が聞かれた。

 

【訃報】本島等さん92歳=元長崎市長

 

 本島さんの市長時代、被爆者援護などについて何度も意見を交わした長崎原爆被災者協議会の山田拓民・事務局長(83)は「差別について非常に鋭い目を向けていた。懐が深く誰とでも話ができる人だった」と振り返り「もっと話をしたかった。本当に残念」と死を悼んだ。

 

 また、川野浩一・長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長(74)は「教員時代、公衆浴場で教え子の背中を流しながら人生について語っていた。市長になっても庶民性は最後まで変わらなかった。市長をやめた後も座り込みに参加するなど反戦平和のシンボル的存在として運動を支えていた。亡くなったのは運動にとって大きな打撃だ」と語った。

 

 反核や平和を訴える市民団体が毎年1月1日に長崎市の平和公園で開く「正月座り込み」に本島さんと参加していた同市の被爆者、山川剛さん(78)は、昭和天皇の戦争責任発言について「言うよりも撤回しなかったことがまれな出来事で、彼でなければ堅持できなかった」と語り「権力と対極にある人に注ぐ目は温かかった。長崎の顔がまた一つ失われた」と声を落とした。

 

 強制連行され、被爆死した中国人32人を悼む碑が2008年、長崎市の平和公園に設置された。本島さんは、その碑の建立委員会代表を務めた。追悼式には毎年出席し今年7月もつえをつきながら碑に献花した。尖閣諸島などを巡り緊張する中で「日中友好のため、中国人強制連行問題の解決は最優先の課題だ」とあいさつした。

 

 昭和天皇の戦争責任を巡る発言に端を発した銃撃事件から20年となった2010年1月には長崎市での集会で元衆院議員、野中広務氏と対談。本島さんは「戦争を起こしたのは日本人で、その結果が原爆。(戦争被害に遭ったすべての国や人に対し)心から謝罪しないと今後の日本の生きる道はない」と懸念を語っていた。【小畑英介、大場伸也】

 

 ◇同じ時期に広島市長の平岡敬さん「残念でならない」

 

 本島さんと同じ時期に被爆地・広島で市長を務めた平岡敬さん(86)は「残念でならない」と話した。

 

 オランダ・ハーグの国際司法裁判所で核兵器の違法性が審理されていた1994年、平岡さんは核の違法性について態度を明確にしない日本政府を見かね、本島さんと連名で政府に「違法であると表明すべきだ」と要請した。

 

 95年に市長選落選後、日本の加害責任を問い「原爆投下は仕方なかった」と繰り返して物議を醸した本島さん。平岡さんは「米軍の原爆投下を巡る考え方や意見は違ったが、核廃絶への思いは一緒だった」と振り返った。【吉村周平】

 

 

晩年まで平和の尊さ訴える 元長崎市長・本島等さん死去

 

 

 反核の座り込みに参加し、日本の加害責任にもこだわった元長崎市長の本島等さん(92)が31日、亡くなった。ともに活動してきた人たちは、晩年も平和の尊さを訴え続けた姿勢をたたえた。

 

    本島等・元長崎市長が死去 天皇戦争責任答弁・銃撃事件

 

 「ぽっかり穴があいてしまったようだ」。本島さんと縁戚にあたる長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長の川野浩一さん(74)=同県長与町=は話した。「平和問題には常に彼の姿があった。天皇の戦争責任発言を撤回しなかった姿に強い信念が表れていた」と振り返る。

 

 在外被爆者支援連絡会の共同代表で本島さんと親交が深かった平野伸人さん(67)は「急にこんなことになるとは」。3週間ほど前に会った際には日本の戦争責任について話していたという。

 

 来年1月で銃撃から25年になることから、当時身につけていた血染めのシャツや穴が開いたブレザーなどを展示する計画があり、実行委員会をスタートさせた矢先のこと。展示について「ありがたい」と話していたという。

 

 被爆体験の語り部をする人たちも落胆した。森口貢さん(78)=長崎市=は「残念です。平和な世界をめざし、最後までぶれずにやってくれた」。下平作江さん(79)=同=は「被爆の実相を伝えるため、様々な活動でリーダーシップを発揮してくれた。これからは本島さんの分も伝えていかないと」と話した。

 

 本島さんは今年の正月も長崎市で座り込みに参加。被爆者らと核兵器廃絶を訴えた。一方、日本の加害責任にもこだわり、第2次世界大戦で中国から連行され長崎の炭鉱で強制労働をさせられたとして、中国人の元労働者らが国や企業に損害賠償などを求めた訴訟を支援した。

 

 訴訟で原告側代理人を務めた龍田紘一朗弁護士は「未来に目を向けていたから、過去をしっかり総括しないと、との考えだったと思う」と話した。

 

 長崎市の田上富久市長は「退任後も自分の思いに忠実に、生涯を通じて、核兵器廃絶と永遠の平和の実現を強く願い、最後まで行動し続けられた。遺志をついで、核兵器廃絶、世界平和の実現に向けて行動し続けたい」とのコメントを発表した。

 

■僕以上に戦争の恐ろしさを肌で知る人

 

 〈首長として同じように襲撃を受けた柳川喜郎・元岐阜県御嵩町長の話〉 お互いに異端者は消せということで襲われた。言論と思想の自由は根源的自由だ。物言えば唇寒しという風潮が、強まっているいま、彼が亡くなったことは残念だ。僕が襲撃された直後の町民大会に彼は駆けつけてくれた。入院中の僕は会えなかったが、10年ほど前にお礼に長崎に行った。彼は、僕以上に戦争の恐ろしさを肌で知る人だった。僕はいまの風潮に戦争への足音を感じる。それを知る人がまた1人亡くなってしまった。

 

■ともに核廃絶を訴えてきただけに、寂しい

 

 〈同じ被爆地・広島市の市長として親交があった平岡敬(たかし)さんの話〉 1995年に東京の日本外国特派員協会で一緒に講演した際、本島さんが「原爆の使用はユダヤ人大虐殺(ホロコースト)と並ぶ、人類が犯した二十世紀最大の罪だ」と語り、米国人特派員たちが反発したことが忘れられません。自らの考えを丁寧に説明することが不得手だったのかもしれませんが、強い信念のもとでの発言だったと思う。

囲碁は趣味の一つだが、私はへぼでザル碁とは何度も書いた。だがタイトル戦を観戦するのは好きだ。2日制の棋聖、名人、本因坊戦は原則として1局は九州で開催される。今年の棋聖戦や本因坊戦の九州対局を現地で観戦したと、このブログで書いた。

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今年の名人戦も鹿児島や宮崎など長崎市から遠くないところで開催されたら現地に行こうと思っていたが、何故か九州対局はなし。それですべてテレビ(NHKBS)とネット中継で観戦した。

まずNHKに言いたい。NHKはBSを3チャンネル持っている。101と103と臨時的に102。10月30日は将棋の竜王戦と囲碁の名人戦が重なった。それでHNKは4時から5時まで将棋、5時から6時までを囲碁と1時間の放送。重ならないときは4時から6時までだ。

そこでだ。囲碁好き、将棋好きとも2時間中継してもらいたい。3チャンネル持っているから103だけでなく、102を使って中継すべきだ。それが視聴者の希望にかなう方法だ。私は囲碁は午後6時過ぎに佳境に入ることが多いので午後8時まで中継してほしいという意見はすでにこのブログに書いた。

話しは本題。囲碁名人戦はリーグ戦でトップを走っていた山下敬吾九段のまさかの連敗で河野臨九段が挑戦者に。第2局、第3局と勝ち、これは奪取かと思わせた。ところが井山祐太名人はしぶとく、第4、5局と勝ち、第6局へ。

終盤まではテレビ解説、ネット解説とも、白番の河野九段が優勢だったが、井山名人の勝負手に受けを間違って、逆転を許し、黒番3目半で井山名人が4勝2敗で防衛した。

それにしても井山6冠は勝負所を知り、相手のミスを誘うのがうまい。今、25歳で打ち盛り。

現在、王座戦で村川大介、天元戦で高尾伸路と5番勝負中。両方とも第1局を井山が勝ち、防衛によいスタートを切った。しかし昨年名人を奪還してからタイトル戦を全部防衛しているのだからすごい。

これからは日本だけでなlく、世界戦でも活躍をしてほしいというのだ一致した囲碁好きの要望だ。

今年のプロ野球はパリーグのソフトバンクが日本一になり、退任を表明していた秋山幸二監督が有終の美を飾った。

 

だが私は秋山監督の好采配もあるが、30億円とも言われた大型補強の結果で日本一はなるべくしてなったと言いたい。

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ピッチャー陣は中日からFAした中田賢一を獲得、西武から抑えのサファテを日本ハムからはウルフを強奪。阪神の外人枠からはみ出したスタンリッジを獲った。米国帰りの岡島秀樹も獲得。打者では李大浩内野手、鶴岡慎也捕手でいずれも金の力で獲得した。

 

ピッチャーではウルフはけがで脱落したが、中田は先発で、サファテは抑えでよく働いた。また李は4番に固定されたことが大きく、先に補強していた内川聖一、吉村裕基、細川亨らととも主軸を形成して活躍。ピッチャーでは五十嵐亮太がセットアッパーに固定して働いた。この新戦力とすでに補強していた戦力なくしてリーグ優勝も日本一もなかった。

 

もちろん野手では今宮健太遊撃手は堅実な守備で活躍、柳田悠岐と中村晃はバッティングが急成長、ピッチャーでは昨年のドラフト2位の森唯斗が中継ぎで活躍して、九州のダルビッシュといわれた武田翔太もここ一番では好投した。また大隣は病気を克服してカンバックしたことも大きいが。しかし摂津正はまずまずだったが、後の若手の千賀コウ(サンズイに晃)大、森福允彦らは期待外れだった。

 

セリーグのことは良く知らないが、日本シリーズに出た阪神も外国人選手(マートン。ゴメス、メッセンジャー、呉昇恒(リッシンベンが木ヘン))や補強者(福留孝介、西岡剛ら)が中心で、阪神育ちの主力は野手で鳥谷敬ぐらい。この鳥谷もメジャー志望らしい。

 

ソフトバンクや阪神のように外国人や補強した日本人選手が活躍したことが証明され、今年の日本一のソフトバンク、金満球団の巨人や阪神は、FA選手やすでに日本で活躍している外国人選手、メジャーの日本人選手の中島裕之内野手、松坂大輔投手らの獲得競争が過熱するだろう。

 

セリーグのリーグ優勝の巨人(昨年は、ピッチャーでは広島から大竹寛、西武から片岡治大のFA選手らを獲得)などは、ソフトバンクに負けない金の力で選手を獲得して、リーグ優勝、日本一を狙うことが予想される。

 

パリーグでは西武、セリーグでは広島らはFA選手は出てっても、FA選手を大金をはたいて獲得するような球団ではないため、戦力アップは、自前の戦力をアップするしかない。「西武は常に強くなくてはいけない」と言って伊原春樹前西武監督はシリーズ途中で辞めたが、それは金満球団だった昔の堤義明オーナーの時代のこと。

 

これからは金満球団がリーグを制するなど、くそ面白くもない。西武や広島が来季は一泡食わせてほしいものだ

 

 

以下ネットから

 

リーグ優勝を果たしながら、退任した監督は決して珍しくない。最近でも、2003年に阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた星野仙一前楽天監督や、中日の落合博満元監督らが挙がる。 

 

   秋山監督と同様、レギュラーシーズンとポストシーズンの間に辞意が明らかになったのは星野監督。健康上の不安から退任の意向を固めていることが明るみに出た。11年の落合監督は、レギュラーシーズン中の9月に球団が発表。契約は10月末までだったため、CS、日本シリーズは、その都度契約を結ぶ形がとられた。

 

 07年、リーグ連覇を達成した日本ハムのトレイ・ヒルマン元監督の退任表明も、シーズン途中。理由は子供の教育問題だったが、日本シリーズ直前にロイヤルズの監督就任へ向け一時帰国するなど、論議を呼んだ。

 

 退任発表時期や理由はさまざまだが、星野、ヒルマン、落合元監督ともその後の日本シリーズで敗退。ソフトバンクが日本一になれば、秋山監督は「最後の花道」を飾った稀有(けう)な例となる。




ソフトバンクの秋山幸二監督(52)が、本拠ヤフオクドームで宙に舞うのは今月3度目。これが別れの胴上げだ。「ファンの前で優勝できた。最高です。6年間ありがとうございました」

 シーズン終盤は大失速。最後の144試合目でパ・リーグ優勝を決めた。約30億円の大型補強は勝って当然という重圧を生んだ。9月以降、体重は4 キロ落ちて83キロに。「監督になってユニホームのサイズは3度ほど小さくした」と言うが、最近はまたズボンのたるみが目立つようになった。

 クライマックスシリーズを控えた14日、一部報道で今季限りの退任が明らかになった。その日まで、退任の決意を知るのは王貞治会長ら球団幹部だけ。腹心の小川史(ひろし)ヘッドコーチ(54)でさえ知らなかった。「弱さを見せない人。淡々と指揮を執る“秋山監督”を、演じていたんだろう」

 3年前に体調を崩した妻千晶さん(55)を支えながら戦う日々。アマチュアゴルファーとして将来を嘱望された長女真凜(まりん)さん(18)に、 看病などで負担をかけたことも心の重荷だった。ベンチでは能面を貫いたが、リーグ優勝直後に「半端じゃないプレッシャーだった」と本音を明かした。ビール かけを終え、感情を落ち着かせたはずなのに、不意にボロボロと泣き出す姿をチーム関係者は見た。

 シリーズ開幕3日前、福岡市内の焼き肉店で開いた決起集会。監督は「日本シリーズはアピールの場だ」とあいさつした。ふだんは勝負にこだわる監督の意外な言葉に選手は驚き、そして伸び伸びと動き始めた。

 攻撃時は立って指揮を執ってきたが、ベンチに座る時間が長くなった。和らいだ表情で戦況を見つめた。6年間でリーグ制覇3度、日本一2回。エネルギーを燃やし尽くし、重責を降ろした体が、歓喜の輪の中でふわりと浮いた。(伊藤雅哉)





 指揮官のバトンを渡した2009年以来、編成のトップとしてチームを支えてきたソフトバンク・王貞治球団会長(74)。秋山幸二という男を一番近くで見守り続けた6年間を振り返った。

 「凄く、理論的。理論武装ができているし、説得力がある。僕は(コーチに)任せていたけど、配球とかビデオを見たりして、投手に関しても積極的に自分の意見を言っていた印象がある。その点ではチーム内に緊張感があったと思う」

 激情型だった「王監督」とは正反対。どんな腹立たしい展開でさえ、ベンチではポーカーフェースを貫いていた。

 「テレビに映ってもさ、俺なんかと違って感情を出さない。最初のうちは口数も少なかった。最近では随分、しゃべれるようになったんじゃないか。能弁じゃなく、選手とも最初は距離があったと思う。ただ、ひと言の重みというものは、あったんじゃないかな」

 10月14日、秋山監督が辞任を表明した。王会長の繰り返しの説得も「辞任」の信念は変わることはなかった。

 「成績を見ても1回だけか、Bクラスは。凄くいい成績を残しているわけだし、今回のことは唐突だけど、自分で決断して誰からも(文句を)言われることがないくらいの成績だった」

 初めて相まみえたのは1987年の日本シリーズ。王会長は巨人監督、秋山監督は西武の主軸。ただ、印象は地味だったという。

 「最初から三拍子そろった選手だったけど、(同学年の)伊東勤(ロッテ監督)が先に出てきて、清原(和博)もいたし、派手さはなかった。ただ、逆に静かにじっくり取り組めたと思う。それが秋山スタイルを確立させた。大器晩成型だと思うよ」

 驚かされた采配があるという。11年の中日との日本シリーズ第7戦だ。3点リードの9回2死一塁。石橋をこれでもかと叩くように森福に代え、同年、先発に転向していた摂津をつぎ込んだ。守護神・馬原が不調だったとはいえ、一部では「非情」とも言われた。

 「案外、我慢して使うタイプだからね。びっくりしたよ。馬原(現オリックス)ではなく、摂津だった。監督として大事な場面で一番、信頼のできる投手を使うのは当然のこと。選手にはいろんな思いがあるとは思うが、監督は全選手、ファンのことを思いやっているわけだしね。そこで決断するのは大変だったと思う。そういう手段もあるんだというものは示したんじゃないか」

 一度、ユニホームは脱ぐが、52歳。まだまだ、老け込む年齢ではない。68歳まで監督業をやり切った王会長だからこその贈る言葉がある。

 「この6年間、やったこともある。もっと、こうしたかったということもあるだろう。少し、時間をとってね。まだ、先はある。実績は十分なんだからね」



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