whomeohのblog長崎ぶらぶら平和日記

2018年06月

沖縄慰霊の日の23日、米軍基地の70%が集中する沖縄の現状を考える講演会が京都府立大であり、公共政策学部教授の川瀬光義さんが「地域からみた日本の安全保障政策」の題で講演しました。川瀬さんは、米軍の占領によって土地を強制的に接収されて基地が作られた歴史を説明した後、「米軍機の墜落事故や米兵による殺人事件が頻発しているのに、政府が有効な対策を何ら取ろうとしていない。日米安保が大切と言うのなら、その負担は沖縄県民だけでなく全国民が平等に担うべきだ」と訴えました。

 「嘉手納や普天間、横田、厚木など米軍基地周辺の住民が起こした航空機騒音訴訟では計316億円の賠償金が確定してる。日米地位協定によれば4分の3は米国が負担することになっているのに、全て日本政府が支払っている。思いやり予算という名目で、日本政府は基地で働く人の人件費や水道光熱費など地位協定24条に決められた以上の負担をしている。その額は2,000億円に上る」

 「冷戦終結後、ドイツなどでは米軍基地を大幅に減らしているが、日本ではほとんど見直されていない。東アジア・太平洋地域に米兵69,400人が配置されているが、そのうちの44,500

人は在日米軍だ。つまり、在日米軍は、日本を守るためというよりも東アジア・太平洋地域の安全を守るために配置されていると考えるべきだ。日米の防衛の取り決めのガイドラインには、日本で有事が発生した場合はもっぱら自衛隊が対処する、米軍は『自衛隊の作戦を支援し補完する』としか書いてない。安倍首相が言うように『アメリカの若者が日本のために血を流す』とは明示されていない。政府は、日本は基地を提供し、アメリカは防衛の任に当たる、と説明しているが、日米安保の現状は日本の基地提供義務だけが明確な片務条約となっている」

◎私から

昔、約半世紀前の学生時代、ベトナム戦争で日本が揺れている頃、日米安保はアメリカが一方的に日本を守る片務条約だと教わった。それが冷戦で日本もカネを出す双務条約に変わり、今や日本がアメリカを守る片務条約へと変質していることがこの京都便りでもよくわかる

◎京都便り 沖縄基地

 17日に京都市の円山公園野外音楽堂で「基地のない平和な沖縄・日本・東アジアを!617京都集会」がありました。参加した500人を前に、沖縄出身の参院議員、伊波洋一さんが辺野古新基地建設の現状について1時間話しました。集会の後、京都の目抜き通りを市役所までデモ行進しました。観光客を意識して「No more base,we want peace」「Hand in hand for Okinawa」など英語のシュプレヒコールが取り入れられていました。

 「政府は817日に建設予定地の海への土砂投入を始める、と宣言しています。ジュゴンやサンゴのすむ自然豊かな海域を、海草藻場の調査・保護など何らの環境対策も講じずに埋め立てるというのです。この1年の間に、オスプレイやCH53Eの墜落炎上、不時着、小学校や保育園などへの軍用機からの部品落下など の事件事故が頻発しているにも関わらず、新基地建設は強行されています。本格埋め立てを前に、沖縄県は知事の埋め立て承認の撤回と工事中止命令を出して徹底的に抵抗することにしています。土砂投入が始まると、現状回復するのが難しくなります。沖縄でも、現地の坐り込み闘争を中心にして反対を貫きます。どうか本土の皆さんも関心を持って土砂投入反対の思いを共有していただければと思います。817日に注目してください」


 前川喜平講演会

https://www.youtube.com/watch?v=Mjv3HrLtvJY




前川喜平講演会を言論ながさき代表の南輝久さんが録音を文章に起こしてくれた。

上記のユーチューブで聞いてもよいし、以下の文章でじっくり読んでもよい。
どちらでもいいから、聞くか読んでほしい。


 前川喜平氏講演会「いま教育を思う~加計学園問題と授業への不当介入」

             (201861914時~長崎市民会館文化ホール) 講演録

                          主催:言論の自由と知る権利を守る長崎市民の会

 

               腐敗と暴走を止め

                   個の尊厳の復活を

  

 とんでもない大嘘つき

 

 今、安倍政権は本当に「腐敗と暴走」という言葉が当てはまる状況になっている。安倍さんがずっと嘘をついてきたことは明らかだ。加計学園問題でも森友学園問題でも。ここまで来ると、「安倍晋三は嘘つきだ」(会場拍手)と言っても、名誉棄損には当たらないと思う。これはもう、明らかな事実。もはや、「大嘘つききだ」でもいい。「とんでもでもない大嘘つき」でもいい。訴えてくれるならどうぞ、絶対勝つ自信がある。

 この自信は愛媛県の文書がくれた。裁判なら本当の意味の動かぬ証拠、事実認定のための一級の証拠だ。(その文書には)2015年2月25日に安倍総理と加計理事長が面談した、と書いてあった。その際に加計理事長が新しい獣医学部の構想を説明、そこで安倍総理が「新しい獣医大学の考えいいね」とコメントした。(この文書に符合する)前後の記録もつながっている。両者の面談の計画があり、面談の結果柳瀬総理秘書官との面談も行われた。さらに、理事長が総理に渡した資料も存在し、最近それが文科省にあった。その資料を基に獣医学部の在り方について有識者にアンケートしたことまで分かっている。だから、「理事長と首相が会ったというのは嘘だった」と言うのは嘘だ。「事務局長がふと自分の思いで言った」なんてあり得ない。これはちょっと前までは「小学生でも分かる嘘」と言ってきたが、今や「幼稚園児でも分かる嘘」と言うべきだ。

 あろうことか、安倍さんは国会答弁で私の名前を出す。「あの前川さんも私から直接指示を受けたとは言っていない」と。私はしかし、総理補佐官に呼ばれて、「総理は自分の口から言えないから、私が代わって言うんだ。獣医学部新設を進めてくれ」と言われた。だから、私は明らかに総理のご意向なんだと理解していた。間接的に指示を受けたと思っている。自分が指示していないことの証拠として私の名前を出すのは、本当にやめてほしい。加計学園と京都産業大学の両方とも獣医学部をつくる計画を持っていた。内閣府の中で加計学園が生き残り、京都産業大学が排除されることになったが、その時の経緯について、この間の(国会の)集中審議の際に、私の名前を出された。「あの前川さんも京都産業大学の計画は熟度が十分でなかったという理由で加計学園しか残ってなかったとおっしゃっている」と言われた。しかし、私はそんな判断をした覚えは一度もない。そもそも、あの時点で京都産業大学がどういう計画を持っているか私は知らなかったのだから。(むしろ)本当の意味で比較すれば京都産業大学の方が優れた計画だと判断した可能性は十分ある。いずれにしても、そういう嘘はつかないでほしい。

 

 行政プロセスゆがめる

 

 加計学園問題の経緯を話すと、非常にゆがめられた行政プロセスを経て、獣医学部新設が認められた。獣医学部は、そもそも新設を認めないというルールが敷かれていた。なぜかと言えば、獣医師は十分足りているから養成する必要はない、と。獣医学部を6年間かけて卒業するためには、私立の場合1500万円から2000万円かかる。獣医学部ができれば、そこに毎年何億円という私学助成が国民の税金からつぎ込まれる。しかし、卒業しても獣医師の仕事がないということになり兼ねないのだから、全く無駄な投資になる。それよりは別の必要とされる分野の勉強をして貢献した方がいい。獣医学部はこれ以上要らないというのは、農水省がそういう判断をしているわけで、だから文科省としてはこれ以上獣医学部をつくらないという大本ののルールがあった。

 それに対して、加計学園に限り認めるという穴を開けたのは、規制緩和ではなく特権付与。その全体の行政のプロセスは三つの言葉でまとめられると思う。「不公正」「不公平」「不透明」だ。

 まず、何が「不公正」か、きちんとした審査をしていない。国家戦略特区という枠組みは制度がいいとか悪いとかあるけど、いいと認めたうえで考えても、国際競争力を強化する、あるいは国際的な経済拠点を形成するという目的のためなら例外的に認めるものなのだが、今治の加計学園の獣医学部がこれに合っているのかきちんと審査していない。では、どういう審査をすればよかったのか。獣医学部の新設に関しては、20156月に閣議決定した細かい条件がある。その条件はまず、これまでの獣医師養成にない新しい構想が具体化していること。そして、全く新しい分野での獣医師の人材需要が明らかなこと、さらに、既存の獣医学部ではそういう獣医師を養成できないこと、最後に、全体の獣医師の需給バランスを崩さないこと。こうした条件について、例えば既存の大学ではできないか既存の16大学に聞いたかというと、聞いていない。閣議決定の条件を満たしているかどうか、審査していないのだ。

 次に、「不公平」ということ。京都産業大学の計画は確かに後から具体的に出してきたが、詳細で具体的だった。京都大学のiPS細胞研究所と連携してその研究の成果を獣医学に応用するとなると、国際競争力のある、国際拠点になったかもしれない。これはかなり優れたプランだったと私も思う。これに対して、内閣府は「後付け」の条件を提示することで、京都産業大学を排除してしまった。その条件の一つが「広域的に獣医学部が存在しない地域に限って新設を認める」ということ。京都産業大は同じ近畿地方の大阪府立大に獣医師養成コースがあった。しかし、加計学園獣医学部の計画は広島県と今治市で一つの国家戦略特区だから、同じように四国・中国で見ると、鳥取大学と山口大学にも獣医学部がある。

 もう一つが、「平成302018)年度開設でなければならない」という条件を付けたこと。それを公にしたのが、平成292017)年1月だから。これでは、「どの大学でも手を挙げて」と言われても、手を挙げられるところは(加計学園を除いて)なかったはずだ。京都産業大学はあきらめた。しかし、この2017年1月20日に加計学園が特区認定された時点で、総理は加計学園の計画を初めて知ったと言う。条件の最後のとどめは、告示の中で「1校に限り認める」としたこと。これらの条件は、京都産業大学にとって全く不公平だ。

 「不透明」というのは、初めから「加計ありき」で「加計隠し」だったこと。加計学園の計画を表に出さない、そして、そのためには総理も加計学園の計画を知ったのは最後の最後、2017120日だと言わざるを得ない。私が在任中に分かっていたのは、「加計隠し」ということ、そして「総理の意向」だということだった。しかし、最近の愛媛県の文書で「加計ありき」は20152月以前からあったことが分かってきた。中でも2015225日に加計理事長と安倍総理が15分間にわたって面談した。これは動かない証拠だと思う。それを「面談はなかった、会ってない」と総理は国会でも述べたし、加計理事長も今日記者会見されたそうだ。おそらく否定したんだろうが。そして、加計学園の事務局長は「あれは嘘でした」と嘘をつく。

 

 逮捕状執行まで止める

 

 総理の嘘は本当に露わになってきた。そろそろ、「乳児でも分かる(嘘)」と言わねばならない。森友問題でも、財務省理財局や近畿財務局を中心に文書の改ざん、破棄が繰り返し行われている。あるものを隠す。今でも、あるものを隠していることがたくさんあると思う。こうやって、官僚組織が国民を裏切り続けている、暴走しまくっている状況がある。これは財務省だけの問題ではなく、財務省にそこまでさせてしまったのは誰か、これを突き止めなくてはいけない。官僚組織は自らそんな不正はしない。役人はもともと臆病な存在だから、法に触れるようなこと、正義に触れるようなことはできるだけするまいとする。遅れず、休まず、働かずというか、ほとんどの役人が望んでいるのは、大過なく定年を迎えることだ。政治の力が働いていなければ、絶対こんなことは起きない。財務省だけの問題ではなく、官邸を中心とした政治の問題だ。

 加計学園問題は、内閣府を中心とした役人の不正行為。森友学園問題は財務省と国交省を舞台にした問題。もっと怖いと思うのは、伊藤詩織さんの事件だ。ある「ジャーナリスト」に性的暴行を加えられたという問題。伊藤さんは名前も顔も出して告発したわけだが、告発された人物は刑事訴追を受けていない。この「ジャーナリスト」は安倍夫妻と非常に近い存在で、「総理」という本を書いている。所轄の高輪署が逮捕令状を取ったにもかかわらず、令状の執行を警視庁の刑事部長が止めた。起訴もされていない。検察審査会も「不起訴相当」の結論を出した。私から見ても、これは非常に恐ろしい話で、政治の支配が警察にも検察にも及んでいるのではないかと思わざるを得ない。むき出しの国家権力を持ち、武器も持っている人たちが政治の力に支配されていたら、これは本当にもう危ない国になっていってしまうと私は思っている。

 

 産業革命遺産ゴリ押し

 

 安倍政権の腐敗、縁故主義の表れの一つとして、長崎に関する話がある。これは、長崎の造船所や端島、これがユネスコの世界文化遺産に登録されたが、登録に至る経緯は極めて不透明だ。あるいは、ゆがんだものがあった。世界遺産への推薦は、文化庁、文化審議会の中で専門家によって議論審議するのが確立されたルール。その中で公正中立な審査をして、最も熟度の高いものを順番に1年に1件ユネスコに推薦していく。その文化審議会が2015年度の推薦案件として考えていたのは、長崎のキリシタン遺跡と教会群だった。しかし、同じ年に別の案件を日本政府が推薦しようという動きがあったた。これが「明治日本の産業革命遺産」で、八幡製鉄所や三池炭鉱、松下村塾なども入っている。これは、文化庁の本来の審査手続きをすっ飛ばして、内閣官房に別の審査組織をつくって審査した。そこで審査したのは、この案件だけ。(その結果)内閣官房で決めたものと、文化庁の本来の手続きで決めたものがぶつかった。そして、 菅さんが「政治決着」と言って推薦した。この「明治日本の産業革命遺産」を一生懸命進めていたのは加藤康子さんといって、安倍晋三さんの幼馴染だと言われている。加藤厚生労働大臣の義姉だ。加計さんより20年以上前からの付き合い。

 ただ、これはかなり無理をして世界遺産登録をしたわけで、いろいろなひずみが出てきている。端島は毎日毎日崩れ続けている。保全措置を講じなければならないのだが、保全措置はいまだに確立されていない。さらに問題なのは、韓国政府との間で約束があるわけだ。「明治日本の産業革命遺産」は幕末から日露戦争まで日本がアジアの諸民族に先駆けて輝かしい近代化を成し遂げた、その跡を示すものだとの説明になっている。しかし、遺産の場所は太平洋戦争中に徴用工、朝鮮半島からの強制労働で連れて来られた方々が働いた所、また、亡くなった所だ。この問題について、遺産登録の際に日本政府は韓国政府に約束していた。負の遺産の性格も持つということを、インフォーメンションセンターを造って訪問者に分かるように説明する、と。しかし、それはまだできていない。こういう問題を含んでいる、十分練れていないものをゴリ押しして進めてきた。

 

 人事権で全省庁を指揮

 

 こういう縁故主義はあちこちに見られる。「安倍一強」政権の腐敗の表れだ。「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という格言がある。それが実際に今、起こっている。なぜ、そうなるのか。安倍さんの官邸は行政府全体を支配している。これは事実だ。本来、各省大臣は独立した権限を持っており、その人たちが合議制の議論をつくっているのが内閣。総理大臣といえども、各大臣に直接指示命令はできない。ところが、今は各大臣が総理の部下と化し、独立性を失っている。これには複合的な要因があると思うが、一つは、与党自民党の中で総裁の力が強いこと。党公認という人事権があり、大臣の任命権も総理大臣にあるわけだ。安倍さんに嫌われたら大臣にはなれないし、そもそも、国会議員にさえなれない。

 安倍さんに嫌われては国会議員にもなれなかった例を挙げると、20161023日に福岡6区補選があった。蔵内・自民党福岡県連会長の息子さんと亡くなられた鳩山邦夫さんの息子さんが争ったが、麻生(財務大臣)対官邸の代理戦争みたいだった。県連会長は日本獣医師会長を務め、獣医師会は当時、加計学園獣医学部の新設に猛反対していた。自民党は蔵内さんに公認を与えず、鳩山さんにも与えなかった。勝った方に与えるということで。選挙の結果蔵内さんが大敗したことで、多くの政治家は獣医師会の政治力はここまでと判断し、獣医師会の意向を無視しても構わないという踏ん切りのきっかけになった。福岡6区の有権者が今治の獣医学部を決めた、と言えるかもしれない。こうして、(安倍さんの)党内での支配力が非常に強まっている。

 もう一つは役人に対する支配力、これは人事だ。各省の人事の決定権は各大臣にあるのだが、審議官以上の人事は官邸の人事検討会議と内閣人事局の承認がないと通らない。実質的な任命権は官邸のものになっている。だから、中央省庁の役人が官邸の顔色をうかがうようになっている。私の場合、顔色をあまりうかがわなかったけど、「面従腹背」していることも知られていなかった。めでたく文科次官になった。

 私は文科次官の前の審議官の時、2015918日、安保法制の法案が参議院で通ってしまう夜だが、反対デモに行った。集団的自衛権の行使は憲法違反だと思っていたから。親しい友人とか部下には自分の判断を伝えていた。一市民、一国民として、自分の表現の自由を行使する機会がないとおかしい、国家公務員といえども表現する自由がある、と。仕事が終わった後、雨の中、夜陰に紛れて行った。「憲法守れ」「安倍は辞めろ」。シールズの「集団的自衛権は要らない」(会場拍手)というラップのリズムに乗せて、一緒に叫んだ。あのラップのリズムはいい。フランコ独裁と戦ったスペイン戦争の時の共和国側の「ノーパッサラン(奴らを通すな)」も、彼らは使っていた。「民主主義って何だ、これだ」。このデモ参加がばれていたら、事務次官には絶対なれなかった。 

 

 あるべき独立性を奪う

 

 各省の司司の独立性が失われてしまって、官邸が決めて、各省はそれを実施する機関になっている。官邸が外交も財政も文部科学も決めて動かしている。教育改革も、文科省にも中央教育審議会という立派な審議機関があるのだが、官邸の教育再生会議とか教育再生実行会議とかの下請けの審議機関になり下がってしまっている。実施方策を検討するだけの。

 司司の独立性の後退は、内閣法制局にまで及んでいる。内閣法制局というのは、内閣の中でももともと半分独立姓を持っていた。その長官は代々必ず生え抜きがなることになっていた。ところが、安倍さんは外から元外交官を長官に据えた。極めて異例なことだ。(それまで)法制局の見解はずっと安定性があって、めったなことでは変えたりはしない。ところが、20147月に「集団的自衛権は認められる」との見解にコロッと変えた。(安倍総理は)集団的自衛権を認めるために、法制局長官を変えたわけだ。本来独立性を持っている機関の独立性を失わせてしまう。これは、NHK会長の人事も、日銀総裁の人事もそうだ。そして、アベノミクスなど自分の思う通りの政策をしてくれる人を据える。そうやって行政府そのものを絶対的に支配していく。人事権を100%どころか150%活用しているわけだ。

 立法府も与党が支配している。自民党の派閥は単なる選挙の互助組織や資金配分組織ではなく、ある程度政策集団の性格も持っていた。中には護憲派もいたが、もう声を出さなくなってしまった。もっと怖いのは司法だ。最高裁の裁判官は内閣が任命するから、同じ内閣が長く続けば続くほど、同じ内閣に任命された最高裁判事が増えていく。今の最高裁の判事の中には加計孝太郎さんの大学のお友達が入っている。こうやって、行政権、立法権、司法権にまで安倍一強の政治権力が及んでいる。これは非常に危険な状況だ。

 

 □21世紀型のファシズム

 

 もっと怖いのは、この安倍一強の権力が本来国家権力の外になければならないものにまで及んでいる。一つは教育、一つはメディア。メディアについて言えば、去年の5月、加計学園問題について発言を始めた頃、NHKや他のメディアから「この文書は文科省で見たことがあるか」と聞かれたから、答えた。そこから始めた。私はヒーローでもアイドルでもない。私が勇気ある告発をしたというのは嘘だから。あまり私を英雄だと思わないで。全然そういうことはないから。ただ、中でも怖いと思ったのは、官邸の権力とある新聞が結託して私を攻撃すると。こうやって人格攻撃をして人物の発言を葬り去る。こういうことを実はほかでもやっているんじゃないの? メディアと政治権力との結託、これは非常に怖い。もし憲法改正が発議されれば、この政権は広告会社、DTというところを通してメディアを支配する。メディアによって国民の考えを動かしてしまう。これは新しい形の21世紀型ファシズムと言っていいと思う。

 

 学習権には二つの性格

 

 もう一つ心配なのは、教育への支配が及んできているということだ。今進行している事態というのは、個人ではなく国家を重視する教育、個人を国家に従属させる教育。こういう方向でどんどん進んでいる。もともと教育というのは、その大本には学習する人間、学ぶ人間がいる。教育より前に学習権がある。一人ひとりの個人が自ら学ぶ権利を持っている。この学習権を満たすために、教育を受ける権利が社会権として存在している。だから、教育はもともと個人の尊厳に端を発していて、一人ひとりの個人が自ら学びたいことを学ぶ。これが大本にあるはずだ。この学習権は複合的な人権で、まずは自由権。学ぶ内容を国から強制されないで、自分で学びたいことを学ぶ権利だ。今度は国に対して一定の行為を求める権利がある。学習する場をちゃんとつくれと。そこで、国がお金を使って学習の場をつくる。これは社会権としての学習権だ。

  私が学習権のもう一つ大事な性質だと思うのが、参政権としての学習権。知る権利は非常に大事な権利で、国民が主権者たる国民として政府をきちんと監視するためには、知らなければ監視しようがないから、国民主権を実現するためには知る権利が保障されなければならない。憲法にはそれがはっきり書いてないから、もし憲法改正するのであれば「知る権利」をきちんと書き入れるべきだ。知ることとと同時に、学ぶということが政治に国民が参画するうえで不可欠だと思う。政府が何をやっているか、仮にそれが正確に分かったとしてもその意味が分からなければ、コントロールできない。例えば共謀罪法とか特定秘密法とか、あるいは安保法制だとか、国が行った立法はどういう意味を持つのか、あるいはどういう帰結になる危険性を持っているのか、これは学ばなければ分からない。だから、学ぶことは参政権つまり、国民が政府をコントロールするために不可欠なものだと思う。

 

 改憲目指し教基法改正

 

  この我々が持っている憲法が好きじゃないと言う人たちが今たくさんいて、安倍晋三さんを筆頭として。憲法改正へ向かう動きが非常に強くなってきている。2006年に教育基本法の改正が行われたが、これはある意味、憲法改正への露払い、前段階という意味を持つ。

 教育基本法と憲法とは不可分の関係があった。1947年につくられた教育基本法は前文ではっきりと日本国憲法との関係をうたっていた。「我らは先に日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力に待つべきものである」と。日本国憲法が指し示す平和とか人権とかあらゆる理想というものは、教育の力で実現しなければいけない、そういう使命感がみなぎっている文章だ。そこで、憲法改正をするためには、まず教育基本法の改正から始めないといけないと考えた人たちがいた。

 この憲法改正、教育基本法改正というのは、戦後明らかにそれを目指した政治家がいるわけで、岸信介、中曽根康弘、森喜朗、、安倍晋三、こういう人たちだ。岸さんの時に、道徳教育が復活した。戦前の教育勅語に基づく修身科は戦後廃止された。もちろん、教育勅語は1948年に衆議院で排除宣言、参議院で無効失効確認がなされている。この修身科を復活させたいという人たちが実は生き残っていた。生き残ったどころか、権力を持っていた。岸内閣の1958(昭和33)年から、週1回「道徳の時間」というのが始まった。ただ、その時はまだ教科ではなかった。評価をしない、教科書を使わないということだった。

 中曽根さんは憲法改正の前段階として教育基本法の改正が必要だ、日本国憲法は日本民族の血の通っていない憲法だ、憲法は日本民族の教典でなければならない、と。私は憲法はもともと普遍的なもので、民族の血なんか通ってなくていいと思っているが。そのためには民族意識を高めるための教育改革をしければならない、と。 そのための審議機関として、臨時教育審議会を設けた。10980年代だ。しかし、臨教審は国家を重視する方向へ行かずに、個人を重視する方向の答申を出してしまった。中曽根さんにしてみると、全くあてが外れたわけだ。その気持ちを受け継いだのが森さんで、文部大臣を務め、総理大臣になった時に、教育改革国民会議に報告を出してもらった。この報告は全体主義的、国家主義的な方向性が非常に色濃く出ている。その中に教育基本法改正、道徳の教科化、さらには奉仕活動の義務化の提言があった。ただ、森さんは自身では改正できなかった。小泉純一郎さんは教育改革にはあまり関心がなかった。施政方針演説で長岡藩の「米百俵」の話をしたから教育予算が増えるんだろうと思っていたら、あれは要するに、食わずに我慢しろ、というだけの話だった。教育改革にあまり熱心ではなかったお蔭で、教育基本法改正にも熱心ではなかった。ただその間にも、中曽根さんや森さんたちは尻をたたいていた。早く教育基本法改正に着手しろ、教育改革国民会議から提言が出ているのだから早くやれやれと。それで、その間に中央教育審議会でも教育基本法改正の検討をし、さらに、与党間での協議も行われ、ついに教育基本法の改正が行われた。これは第1次安倍政権の下で。

 

 政治による教育の支配

 

 どういう改正だったのか。先ほどの日本国憲法との明確な関係性が断ち切られているし、ひとことで言うと、政治による教育の支配を強化する、もう一つは、教育の内容について全体主義的、国家主義的な方向性が強く打ち出された、ということだ。つまり、本来の憲法や教育基本法が持っていた個人の尊厳を大事にすることと、人類普遍の原理を大事にすること、この二つのルールが非常にないがしろにされている。個人の尊厳が否定されて全体主義的な方向へ、人類普遍という考え方ではなくて民族や国家というものが強調される。それは「教育の目標」という条文が新たに付け加えられて、その中に全体主義的、国家主義的な内容が含まれている。道徳心を培うとか、公共の精神に基づいて社会に貢献する態度を養うとか、文化や伝統を育んだ郷土や国家を愛する態度を養うとか。それから、学習規律ということを強調している。学校では子どもたちは学習規律を重んじろと。これはブラック校則につながるような話。茶髪を黒に染めろとか。子どもたちを全体の中に型にはめてしまうような考え方だ。

 もう一つは政治によって教育の内容を決めていくという方向性だ。1957年のオリジナルの教育基本法の中の第10条に、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と書いてある。どういう意味かと言うと、そこに政治権力が介在しない、政治権力が教育を決めるんじゃない、教育に携わる者が直接責任を負っているんだ、と。その第2項で、教育行政はその自覚のもとに教育の条件整備に努めろと、書いてある。教育行政が教育に入り込んでいってはいけない、と。これは非常に大事な条文だが、大きく書き換えられている。2006年の教育基本法第16条では「国民全体に対し直接に責任を負って」と言う言葉が全部削除された。その代わりに、「法律の定める行為により行われるべき」という言葉が入った。そうすると、法律の根拠があればいくらでも政治的に介入できる。非常に危険なことだ。この政治による教育への介入は、、(講演会のタイトルにある)「授業への不当介入」が一つの表れだ。教育に政治が介入していいんだというおごりが、政治家の中に共有されている。

 

 自民党文科部会の介入

 

 私が社会人講師として中学校へうかがった授業があって、これは今年の2月に名古屋の八王子中学校という所でやった。公開授業で、全校生徒を体育館に集めていただいて、その後ろに保護者とか地域の人とか地域でない人とか、生徒が300人ぐらいで大人が200人ぐらいいた。その中には自民党の県議会議員さんもいた。その時にやった授業は、普通の、「私は幼い頃東京に転校した時に不登校になったんですよ」とか、「元々は引っ込み事案で内気で可愛い少年だったんです」とかね。「でも、引っ込み思案で内気な少年がこうやって皆さんの前でしゃべるようになっているので、人間は自分の性格を自分で変えられるんだ」と。あとは夜間中学の話をして、「夜間中学というのは、教室の中に大きなやかんがあるんです」(会場爆笑)と。こう言ったら、皆さん笑ってくださるが中学生は笑わなかったので、これはまずいなと、今時やかんなんか置いている家はない、だから大人の言うことを鵜呑みにするな、信じちゃいけない、と。自分で考えることが大切だと言いたかったのだ。そういうことを言って、別に加計学園問題をやっているんではない。

 ところが、とにかく前川という人間を呼んだのがけしからんと言って。授業の様子は翌日の中日新聞に載って、それは、前川前文科次官を社会人講師に招きキャリア教育をした、という好意的な対応だった。それを愛知県選出の衆議院議員である池田佳隆という人が、前川を呼んだのはけしからん、何か裏があるんだろう。尻尾をつかんでやろうと思ったんだろう。池田さんは自民党の文部科学部会の部会長代理、この人が赤池誠章さんという人(参議院議員)に相談した。赤池さんは部会長、つまり二人は自民党の文科部会のツートップだ。この赤池さんから文科省の官房長に「どうなっているんだ。調べろ」と話があったらしくて、そこから質問状になった。それにしても、15項目にわたる極めて詳細な質問状が送られてきた。そのうち14項目は学校で答えろという話。

 こういう個々の学校、個々の授業に対して文科省が直接質問状を送りつけるなんて、やってはいけないことだ。そもそも自由権としての学習権があって、学習の場は国家権力から守られていなければならない。政治の介入を許してはいけない。ごく一部の政治家の言うままに文科省が動いてしまって、えげつない質問状を送り付けたわけで、私は一見してこれは文科省が自らやったことではないと思った。役人がそんなみっともないことを自主判断ではしない。わざわざしたということは、財務省と同じ構図があって、政治の力が働いているから、本来であればするはずのないことをしてしまっている。ただ、その時思ったのは、官邸ではないだろうなと。だって、逆効果だ。文科大臣も副大臣もかなり真っ当な人で、そんな指示をするとは思えない。そうすると文科部会かなと思っていたら、その通りだった。「イケイケ(池池)コンビ」が不当に介入したわけだ。ただその時に、文科省の職員が「それはいけません」と断らなければいけなかった。意気地がなかったな、テクニックが乏しかったなと思う。何とかのらりくらりと言い抜けるのが役人のテクニック。「分かりました。検討します」と言って、3カ月間検討するとか。

 

 確定した東京高裁判決

 

 こういう不当な政治の支配については、裁判所の確定した判決がある。2011年に東京高裁が出した七生養護学校事件判決。東京都立七生養護学校、これは知的障害のある子どもたちのための学校、ここで非常に優れた性教育の実践をしていたが、この性教育がけしからん、過激だ、不道徳だと言って、都議会議員が騒いで学校に乗り込んできた。性教育をしていた教職員を罵倒して教材を奪っていったという事件。その時に都教委の指導主事が一緒に行って、止めるどころかいわば加担していた。これに対して教職員と保護者が提起した訴訟。「心と体の学習裁判」と原告側は呼んでいる。これは、教職員、保護者側が勝っている。東京高裁で勝訴し、それに対して最高裁が上告を棄却したので、高裁判決が確定判決になっている。この判決は、都議会議員の行為は教育基本法の言うところの「不当な支配」に当たる、とした。この「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は、改正された教育基本法にも残っているものだ。都教委の指導主事に対しては、不当な支配から教育現場を守る「保護義務」を怠ったとして、損害賠償を命じた。

 それを名古屋の中学校の話に置き換えると、文科省の局長や課長といった職員が不当な圧力に屈して質問状を出してしまった、これは保護義務違反と言ってもおかしくないと思う。ただ、心強かったのは名古屋市教委や八王子中学校の校長さんの対応が非常にうまかった。文科省の質問状に真っ向から反対するまではないが、必要最小限には答えている。切り抜けた。立派だった。校長さんの記者会見での言葉が非常によかった。「主体性のある子どもたちを育てるためには、教師も主体性を持たなければならない」。全くその通りだ。

 

 戦前回帰の道徳教科化

 

 安倍内閣の教育政策は、憲法改正もそうだが、戦前回帰的な側面を非常に強く持っている。その中でも、道徳教育だ。戦後なくなった修身課程を復活したいという動きは戦後ずっと残っていて、

それを最初に政策として打ち出したのは岸内閣の松永東文部大臣の時に、1958年から「特設道徳」といって週1回の道徳の時間が始まった。しかし、まだ教科ではないので、教科書は使わないし、子どもたちに対する評価もなかった。

 しかし、今年の4月から、道徳が特別の教科という位置づけになり、検定教科書を使わなければいけないという教科書使用義務が課された。これを道徳の教科化と言っている。私も文科省にいたから、この動きに加担していたのは事実だ。心ならずもやっていた。本当に申し訳ないという気持ちだ。それだけに、問題は指摘できる。この道徳の教科書をご覧いただくと分かるが、自分を殺せ、全体のために自己犠牲や自己抑制が非常に大事だと、こればかり強調されている。それから、決まりを守れ、自分たちでルールをつくっていくんではなくて、決まりは最初からあるんだ、それを進んで守ることが大事だ、と。個人としての独立性ではなく、家族とか国家とかに対する帰属意識を持て、日本人としての自覚を持て、そういうことが何度も出て強調されている。私から見ると、個人の尊厳と、人類・地球といったもっと広い視野がない。個人の尊厳と人類普遍の原理という、日本国憲法の大事な観点が抜けている。そういう意味で「個と地球の欠如」と言っているが、個人を否定するところで、全体主義に向かう。地球全体、世界全体、人類全体という視野がないので、国家主義に陥っていく。国家が最終的な単位というか、国家への忠誠を求めるわけだ。

 

 「友達に国境はな~い」

 

 先ほどの赤池さんは前に文科大臣政務官だった。そのころ、文科省がタイアップした映画で「ちびまるこちゃんのイタリアから来た友達」というのがあって国際理解教育のキャンペーンのために使ったことがある。この映画のキャッチコピーの中に、「友達に国境はな~い」いうのがあった。これを読んで赤池さんが「国際社会は国益と国益のぶつかり合いなんだ。その中で友達に国境はないとは何だ。国境は厳然としてあるんだ」とかみついた。「子どもたちに間違った観点を植え付けるとは何事だ」と。赤池さんの常識からすると、友達に国境がないといけない、という考え。しかし、ユネスコの言っているような理想とは全く逆の方向だ。ユネスコ憲章の冒頭に、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と書いてある。教育や科学や文化という、人間の精神的な活動の分野で国境を越えたつながりがつくられることによって、本当の平和は維持される。政府同士の取り決めや軍事の均衡では、平和は維持されない。本当の平和の基礎になるのは。国境を越えた人の心と心のつながりだということだから。まさに「友達に国境はな~い」こそが本当の平和のとりでになっていくだろう。それがけしからん、という言い方をしてくる人。そういう人たちが考えている道徳、これはもう戦前回帰だ。

 この人たちは教育勅語の復活ももくろんでいる。稲田朋美さんという前の防衛大臣が教育勅語について聞かれて、「道義国家の考えは今でも大事なんだ」とおっしゃるが、本当に日本国憲法と相容れないものだし、これは国体という考え方が示されているわけで、国体というのは、普通に現代用語では国民体育大会、私は昔の国体思想を表す時には昔の字で書くことにしている。国構えに「或」という字を書いて「國」。体は骨の右側に「豊」を書いて「體」。「國體」は何かと言うと、万世一系の天皇が治める国で、忠と孝を通じて国を治めてきた。忠は天皇に対する忠誠心、孝は家の中での家長に対する忠誠心。こういうものが一緒になって、この国は続いている、と。これはもう国が一つの大きな家族なんだ、一大家族国家であるという考え方。だから、「臣民は天皇の赤子」と言われていた。万世一系の天皇がこの国を治めるというのはどこに端を発しているかと言うと、アマテラスオオミカミ(天照大神)だ、と。アマテラスオオミカミがニニギノミコト(邇邇芸命)というお孫さんを日本列島に遣わして、天壌無窮の神勅という神の命令を下しているわけだ。「あなたとあなたの子孫が永久にこの島々を治めなさい」と。そういう神話に基づく国であり、先祖を同じくする一つの大きな家族に当たるんだ、と。つまり、国家は一つの大きな家だ、国家の中でお父さんに当たるのが天皇、臣民は全てその子どもなんだ、と。小さい家は小さい国であって、家族は戸主、家長に従わなければならない、これが戦前の家制度だ。この戦前の家制度と戦前の天皇制の国家制度はいわば相似形だ。大きな国と小さな国、大きな家族と小さな家族ががあって、それを貫く道徳が忠と考、こういう考え方だ。教育勅語に出てくるこういう考え方を復活させようというんだから、とんでもない。個人の尊厳を大切にする日本国憲法とまったく相容れない。

 

 考え議論するのが大事

 

 道徳の教科書は非常に問題。しかし、できちゃっているものは使わなくっち駄目という縛りが学校の先生にはあるんだけど、この教科書を使っても、私はちゃんと考える子どもたちは育てられると思う。その一つの例を申し上げたい。今使われている小学校の教科書の中に「星野君の二塁打」 という話がある。どういう話かと言うと、少年野球の選手、星野君。これが今、チャンスでバッターボックスに立っている。あと1点入れればこの大事な試合に勝てる。ランナーは一塁にいる。そこで監督の指示が送りバント。自己犠牲を象徴しているわけだけども。ところが、星野君は今日はヒットを打てる自信があった。しかも、大好きなコースに絶好球が来た。そこで、自らバットを思い切り振ってしまった。それが二塁打になって1点入って、その試合は勝つ。

 ところが、監督がその後選手たちを集めて言うには、「今日は試合に勝ったけど、納得の行かないことがある。決まりを守らなかった選手がいる。星野君だ。試合に勝つことよりも、決まりを守ることの方が大事なんだ。決まりを守らなかった選手は、次の試合は出場禁止だ」。これは、決まりを守りましょうという話。

 これをそのまま授業で「決まりを守りましょう」とやっていたら、日本中が日大アメフット部になってしまう(会場笑い)。そうならないようにするためには、「中断読み」という読み方がある。途中まで読んでそこで止める。この話であれば、監督は送りバントを指示したけど、本人は打てると思っている、そこに突然絶好球が来た、というところで止める、ストップモーション。そこで生徒諸君に聞く。「皆さんどうですか?」と。必ず意見は分かれる。その中で正解はない。正解があってはおかしいどっちがいいかなと考えて議論をすることが大事だ。文科省も「考えての道徳」を勧めている。この話はその後、使い方がある。皆さんが監督だったらどうするか、星野君を褒めるか、叱るか。褒めるという手もあるし、叱るという手もある。「あそこはバントでなく、ヒットエンドランだったな」と自ら反省する手もある。そんなように、途中で止めて子どもたちに考えさせることもできる。最後まで読んでしまうと、監督が星野君を叱って、次の試合を出場禁止にする罰を与えているわけだけど、その時に、では皆さんがこのチームのキャプテンだったら、どうするか。「星野君、分かったな。監督の言う通り、これからはちゃんとサインに従うんだよ」と言うか。それとも、監督に対して「星野君を何で叱るんですか」と言うか。それとも、チームメートに対して「こんな監督の下では駄目だ」と言うか。

 地方公共団体の場合はリコール制度があるけど、国の場合はない。私は、憲法改正するんだったら、首相のリコール制度を入れた方がいいと思っている(会場拍手)。

ダンディ―さんのメールを見てワイルド ボアさんから返信が来た。

◎以下ワイルド ボアさんからのメール

「万引き家族」なのですが

ダンデイーさんのおっしゃる内容なら

見てみたいと思います。

私の知人(の知人)の話なのですが

本屋の経営者の方とコンビニの経営者の方がいまして

両方とも万引きの横行の為つぶれてしまいました。

利幅が少ないので万引きに遭って

赤字が続いてしまい閉店せざるを

得なくなったそうです。

万引きも年金詐欺もあくまで犯罪です。

貧乏でもそんなことはしないで我慢して

暮らしている人はたくさんいます。

店をつぶされた人にとっては、

たとえ映画の中の話であろうと

日本社会の負の部分を描こうとした。だろうと、

「ふざけるな、こいつら早く捕まえて

刑務所に入れてしまえ。

=たとえそれが問題の根本的な解決にならなくても」

と思うのは当然でしょう。

(「THUNAMI」を東北地方のカラオケで

歌うようなものです。)

映画を見ていないので見当はずれかもしれませんが

映画を見てからその辺がどう描かれているか

感想を述べたいと思います。

 

プロレスが好きなので

4月にブルーノ・サンマルチノが亡くなり

6月にビックバン・ベイダーが亡くなって残念です。

小学生のころミスターアトミックという反則ばかりする

覆面レスラーがいて人気(というより罵声と憎悪の対象)

がありましたが訳すと「原爆野郎」ですよね。

今考えると広島や長崎の人に失礼だと思わなかったのかしら。

             

映画が大好きなダンディーさんから映画「万引き家族」についてメールが来たので載せる。安倍がこの映画が嫌いというので私は絶対に見る。安藤サクラの父親とパートナーの演技も好きだよ。

最近、アクセス数が下降気味なのでどんどん,投稿して、ワイルド ボアさん!

◎先日話題の「万引き家族」を観ました。

貧困、児童虐待、万引き、車上荒らし、親の死体遺棄、年金詐欺など、日本社会の負の部分を散りばめた映画だった。

汚なく狭い一軒家で、血の繋がらない6人の家族は、身を寄せ合って暮らしている。

各々に心に傷を持つ6人だが、みんなこの場所が居心地がいいのだ。

当初拾った少女を帰すよう主張していた母親も、徐々にいとおしくなって行く。ラストの母親役の安藤サクラは圧巻だった。

彼女は間違いなく日本アカデミー賞の、主演女優賞を獲るだろう。

今日本では、実の我が子を虐待する親もいる中、血の繋がらない子を愛する人々もいる。

また裕福であっても、心は飢えている人もいる。

この映画はこの矛盾を深く突いている。しかし「万引き家族」では少女は親元に帰され、その未来には暗澹たるものがありルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」と、どこか似ている。

子供の頃から金の苦労などした事もない安倍や麻生には、こんな映画は不愉快なだけだろう。

実は私自身も正直な所、あまり好みの映画ではなかった。

私は庶民の日常を切り取った映画、その中に夫婦や親子兄弟の愛憎、悲喜こもごもを描いた映画が好き。

是枝作品で言えば「歩いても歩いても」「海街diary」「海よりもまだ青く」など。また山田洋次の「息子」は大好きです。

「万引き家族」では、せめて少女は親元に戻して欲しくなかった。

◎全九州ペア囲碁オープン戦に参加しました 楽しかったが夕食の場所が悪かった?とう意見が多かった
DSC_3541
DSC_3544
(うどん、美味しい)

かなりうっかりしていた、6月2,3日の熊本県の玉名市であった全九州ペア囲碁オープン戦を書くのを忘れていた。
DSC_3570

(ここに多くの小学生の男女の子どもの写真を出すが、これは保護者の承諾、もしくは責任引率者の了解をとっている。中には防犯のために子どもの写真はぼけてという意見もあるが、私はテレビを見ている時も顔を出さないインタビューなんか信用しないので、写真をぼかすぐらいなら載せないことを最初に断わっておく。それでも意見があったらコメント欄に書いてください)
DSC_3580
DSC_3585

この全九州ペア囲碁は50年以上前から熊本の女性囲碁愛好家の発案で始められたと聞いている。だがこの主催者の中心人物が亡くなったことや熊本地震で、昨年から主催団体が日本棋院小倉支部が受け継ぎ、開いている。昨年は福岡県朝倉市の原鶴飲泉で開いたが、開催して数週間後に、九州北部豪雨に見舞われた。また5年程前は阿蘇でしたときは阿蘇豪雨で、梅雨のある時は災害が心配だ。今回の会場は玉名温泉の街中ではなく、山奥にある大きな温泉ホテルだった。今年も私が豪雨でこの会場が被害が受けないか心配しているが、今のところは大丈夫のようだ。
DSC_3602
DSC_3604
DSC_3606
(プロと組み緊張して考えるTさん)

ペア囲碁は一組の男女が対戦して4人が交互に打つ。通常の囲碁の数倍疲れるが、勝った時は2倍以上嬉しい。
DSC_3612




DSC_3613

DSC_3612




今回は長崎と熊本の両県、小倉を中心にした福岡県、それに一部鹿児島県などから約130人が参加した。今回も日本棋院から、テレビでよく見て人気のあるサカナ君の父親としても有名な、勿論、碁で有名な宮沢吾朗九段。また毎年この大会に来ている武宮陽光六段、それに山本賢太郎五段がゲスト棋士として来てくれ、一般の女性愛好者と組んで試合をしてくれた。
DSC_3619
(男性は手を合わせ神様仏様、間違えないで)

長崎からは碁会所の深堀囲碁教室に通う大人と小学生の子どもたち約35人と、島原地区から強豪ばかり7,8人が参加してチームを組んだ。私は毎週、顔を見ている気心の知れたわたしより少し年上の女性と組んだ。私のいうな組もいれば夫婦、小中学生のきょうだい、小学生の強い打ち手同士ら、また女性がかなり多く、それは島原の強豪と組んだ。

DSC_3621

DSC_3623
(えっそこに打つの?)

深堀囲碁教室に通うみんなはチャーターバスで乗り込んだ。途中、熊本・南関で昼食を食べてからホテルへ。受け付けをすんで、対戦カードをみると、実力別に6パートに分れ5回の対戦ということだった。

DSC_3624
(ツーカーの仲の良いコンビ、いつも打っているから息はぴったし)

試合のことを書く前に夕食が印象に残ったのでそこから書く。夕食場は細長く、バイキング方式。私たちだけでなく、韓国人の大グループや日本人の他のグループと一緒の場所で一緒に料理と酒、ドリンク。食事の内容は焼きたてのサーロインステーキもその場で焼き、また一般の人が好むカニやいろんな料理があり,種類も豊富で美味しかった。ただ会場が細長いために、料理が横にずらりと並べられ、料理を取りに行くのが遠すぎた。
DSC_3625
(お父さん、頑張って、夫婦のペア)

また椅子が動かせないほどの満員で、立つのが億劫。年を取ると、何となく料理を取りに行くのが面倒でたまらない。私は清酒の熱燗3本とステーキやポテトサラダ、スパゲティーなどをいただいたが、ぎゅうぎゅう詰めの中で、子供たちのように身が軽くないので、腹一杯は食べきれなかった。やはり夕食は大会場で料理は中央に置いていてくれた方が、取りやすい。玄関は広いのにバイキングの食事場が細長いのはダメだ。帰りに横の部屋をみると空いている部屋がある。それなら料理の数は好くなくていいから、団体別に分かれて食事させてほしい。ホテル側にそうした配慮が足りない。食事時間は皆、同じ時間になるケースが多いと思う。ホテル側も食事場を別にすると面倒くさいとは思うが,それはサービス産業だから仕方ない。しかしやはり、料理だけは一人分が用意されていた方がよい。
DSC_3626


また温泉は単純泉。無色透明だが、ヌルヌルしていて気持ちがよかった。季節的に露天風呂も寒くはなく、夕食前と翌日の朝食前にゆっくり入り、気持ちがよかった。

これからが試合について書く。1日目に2試合、2日目に3試合した。私たちペアは全部長崎県勢と対戦した。結果から書くと2勝3敗で昨年と同じだった。最初に対戦したのは女性が深堀囲碁教室から来た初心者で男性は島原の強い男性。ここは私たちが女性のミスを付き完勝で出先がよかった。ただこの相手の組は、私たちとの対戦をして男性が女性の欠点と癖を見つけ、女性に、例えばあたりは継ぐことと、何でも和からない時は一間飛びなど初歩的な指導を受けて、それから3勝したという。
DSC_3630

DSC_3631
(この4人は全国大会に長崎代表で出場)


2回戦は、女性は小学校3年生で深堀囲碁教室で囲碁を覚えてまだ半年という。中年の女性が入る予定だったが、都合で来れずにピンチヒッター。まだあどけない子はいつもニコニコしていて楽しそうに打つ。しかし横を向いたりして、少しまだ熱中度がもう一つ足りないが、小学生はこれが当たり前か。ところがこの子は要点に打つ。そこで私は白の中央の30石ほどに狙いをつけて取りにいった。私と相手の男性は大石が死んだことを分っていたが、私のペア相手が気づいてくれない。5手ほど無駄な念押しの石を置いて、その間に相手が大きな寄せを打ってくる。私たちペアのリズムがかなり狂ってきた。私の計算ではまだわずかに勝っていて、どうにかコミが出そうな形勢と読んでいたが、ペア相手がさらに死んでいる石に念を押して、私は頭に血が上り、7,8目の当たりに気づかず投了。私がすぐにカーとなる癖がでた。最後まで正確に打てば、まだ勝敗は分らなかったと思う。だが私もペア相手も互いのミスを認めあう中なの、お互いに実力がなかったということで負けを認めた。ペア碁には敗着はないと思うが、私の頭がカーとなり真っ白になっる癖がまた3戦目で出た。
DSC_3632

3戦目は教室で大会の前に何度もペア碁を練習した相手。ここで終盤になって私は大きくリードして、勝ちを確信して大きな寄せを打って、もう少しで、相手が投了と思った。だがここに一番、危険が潜んでいることをこの数年間に何回となく経験してきた。相手の女性が当たりを打ったと思ったのが、4人とも聞づいていなかった両当たり。この見損じを私は大きく後悔。両当たりにしないように打っていればと。それで大きい石の方を継いだ。だがそれからが、私たちペアが崩れた。私もペアも受け間違いをして、私はまた頭が真っ白になってカーとなった。普通ならちゃんと打つところをペア碁の試合で緊張から動揺し間違いを何回もして、終局して3目半の負け。この後、4人で少し検討したが、私たち4人は同じレベルの実力、普通に打ていたら、半目以上、私たちが厚く、負ける碁ではなかったとい結論。もう囲碁は精神力の鍛錬が必要と感じた。
DSC_3656
(惜しくも2位)

4戦目は碁会所の先生と小学生のペアと当たった。先生も序盤、ペアが打ちやすいように打って中盤まで私たちがリードと思って打っていた。ところが大寄せに来て先生が大きなところを順番に打つ。差はなくなり逆転。先生は3人の囲碁の癖をよく知っており、弱点が寄せと分っていて、余裕で打っていたようだ。教室で先生から教えてもらうのは、一人20手の40手までの布石の勉強が主。そのあと、先生の指名する相手と最後まで打つという囲碁をしてきた。それでも私のペアもこの5年間に大きく伸びてはきた。先生は、教室を回りながら、盤面をちらっと見て、どういう囲碁を打っているかをよく見ている。ほとんどの碁は布石でリードしたら同じ実力なら勝つが、実力が違うと寄せで逆転する。結局、5目ほど負けて、寄せの勉強になった一局だった。
DSC_3666
(楽しかったなー、まだ体力はあるぞ。大人は疲れ果てぐったり)


最後の5戦目はまた同じ教室のペアとの対戦で、これは私たちペアの完勝で2勝3敗だった。

終わってた武宮陽光6段と組んだ女性は、「とにかく緊張したが、よく教えてもらい勉強になった」と感想を語っていた。
DSC_3803
(参加賞)


閉会式では、5戦全勝が2組あり、長崎の小学生ペア(多分夏休みに2人とも全国大会に出る)と鹿児島の碁会所一家の祖母と孫のペア。組が異なるので、相手のペアの勝敗でパソコンで計算するが、鹿児島が優勝。長崎のペアは少し不満げだった。3位も長崎のペアが豪華な賞品をもらっていた。
飛び賞の紹介で、私たちは40位、最後に私たちと打ったペアは55位で受賞。私たちペアは美味しい純米酒(協賛が宝酒造で松竹梅)とお菓子をもらって嬉しかった。55位のペアも負けて良かった悔しい弁。
DSC_3809
(とび賞)この酒は美味しかった

最後にあるペアは、男性が女性の手に大呆れ、時には手を合わせ、「ここで正しく行ってほしい」と仏様まいりの様に仏壇の前のように手を合わせる状態。時には「世の中神も仏もいない」とのような顔つきで打っていたが、女性は素知らぬ顔だったのが、私には面白かった。この男性は名前を知っているアマの強豪と思う。

最後は疲れ果て、私はバスの中で寝て帰った。しかしやはり、大会は面白い。しかしペア碁は何回も書くが、面白いが考えるから疲れる。

このページのトップヘ