ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

少女行方不明事件:「墓は空だった」

 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の傍にあるドイツ人巡礼者用のテウト二コ墓地(Campo Santo Teutonico)で11日、2つの墓が開けられたが、墓の中は空だった。バチカン側の許可を受けて墓を開けた関係者は唖然としたことだろう。最も驚いたのはその墓に中に36年前行方不明となった娘、ェマヌエラ・オルランディ(当時15歳)の遺骨が入っていると信じていた家族関係者と墓の本来の持ち主の家族だろう。

thumb
▲36年前の少女行方不明事件に関連して墓を検証する(バチカンニュースのHPから、2019年7月)

 遺骨ばかりか、棺もなかった。ローマからは法医学者や警察関係者が立ち会っていた。彼らは遺骨から性別、年齢などを測量し、36年前に行方不明となった少女との関係を検証することになっていた。「墓は空だった」というニュースは墓地の外で待機していた多くのジャーナリストたちにも知らされると、同じように驚きの声が漏れたという。

 今回の墓の検証は、オルランディ家の Laura Sgro弁護士に昨年8月、一通の匿名書簡が届き、その中で今回開いた墓の棺の中に「エマヌエラの遺骨が入っている」という情報が記述されていたことがきっかけだ。書簡には2つの墓の写真も入っていた。そのため、同弁護士はバチカンのナンバー2、パロリン国務長官(枢機卿)に墓の再鑑定・検証の認可を要請したという経緯がある。

 通称「オルランディ行方不明事件」は1983年6月22日に遡る。法王庁内で従者として働く家庭の15歳の娘、エマヌエラ・オルランディさんはいつものように音楽学校に行ったが、戻ってこなかった。関係者は行方を探したが、これまで少女の消息、生死すら分からずに36年の歳月が過ぎた。その間に様々な憶測や噂が流れた(「バチカン、少女誘拐事件に関与」2017年9月21日参考)。

「墓が空だった」と分かると、当然だが「バチカン側が事前に移動したのではないか」といった憶測が流れた。バチカンニュースのアンドレア・トル二エッリ編集長は、「考えられない」と一蹴する。今回の2つの墓に少女の骨があるという匿名の書簡は昨年8月、弁護士宛てに送られたというから、墓を開けるまでほぼ1年の時間があったわけだ。すなわち、墓の中の遺骨などを移動させる時間は十分あった。トル二エッリ編集長は、「バチカンが墓を開けることを認めたのは決してバチカン側が事件に関与していたことを告白したからではない。人道的配慮からだ」と弁明している。

 2つの墓は、一つは1836年に亡くなったソフィ・フォン・ホーエンローエ王女と1840年に死去したメクレンブルクのチャロッテ・フリデリケ公爵夫人の墓だ。ホーエンローエ家の墓には縦4m、横3m70cmの広い空洞があったという。地方の貴族出身者の墓だ。

 妹エマヌエラの行方を捜してきた実兄、ピエトロ・オルランディさん(60)は、「故ヨハネ・パウロ2世がわが家を訪ね、エマヌエラはテログループに誘拐された可能性が高いと語ったことがある。今から考えると、初期捜査の方向をテロ関係者に恣意的に集中させるためにそのように語ったのではないかと思う」という。また、「フランシスコ法王もわが家を訪ねて励ましてくれたが、法王が『心配しなくてもいい。エマヌエラは天国だから』と述べた言葉を今でも忘れることができない。まるでエマヌエラが既に亡くなっていることを知っているようにだ」と語り、「バチカンは我々以上に妹の行方を知っていることは間違いない」と強調している。

 エマヌエラの行方不明事件に対してイタリアでは過去、多くの憶測情報が流れた。誘拐説、マフィア関与説などだが、いずれも実証されずにきた。イタリアの著名なジャーナリストはバチカンの文書に基づいてエマヌエラ生存説すら報じた。最近では、昨年10月30日、ローマのバチカン大使館別館の改装作業中、人骨が発見された。その時、イタリアのメディアでは、この人骨が1983年に行方不明となったエマヌエラではないか、といった憶測記事が流れた。法医学の調査結果、人骨は男性で、時代はエマヌエラが生まれる前だったことが判明したばかりだ。

 今後の捜査の焦点は、墓に少女の遺骨があると伝えた匿名者の身元の割り出しだろう。同時に、昨年8月から今月11日までの間で墓の掘り起こしなど何らかの動きがあったかを墓周辺の監視カメラを検証し、不審な車や人の動きをフォローする必要がある。

 墓に行方不明となった少女の遺骨が混ざっていたとすれば、墓から遺骨を出しても棺周辺にDNAなどが残っている可能性がある。証拠隠滅のためには棺全てをどこかに運ぶ必要があるから、墓地周辺で何らかの不自然な動きが必ずあったと考えざるを得ない。

 また、墓の本来の持ち主の家族関係者に「墓が空だった」事情を聞く必要があるだろう。

 少女が行方不明となって36年が経過したことから、捜査は容易ではない。事件関係者の自白などがない限り、解明はこれからも難しいかもしれない。残念ながら、36年前の少女行方不明発生直後の初期の捜査段階で何者かに捜査が操作されてしまったのではないか、という疑いを払しょくできない。

人はなぜ「疑う」のだろうか

 イエスの12弟子の1人、使徒トーマスは復活したイエスが十字架で亡くなった人物かどうかを疑った。「ヨハネによる福音書」20章には「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じません」と述べている。すると、イエスはトーマスに十字架で釘を打たれて穴が残っている手をみせると、トーマスは眼前のイエスが十字架から復活した主であることを信じた。その際、イエスは「見なくても信じる者は幸いなり」という言葉を残した。使徒トーマスの話は新約聖書の中でも有名な個所だ。疑いやすい信者に対し、「あなたは聖トーマスのようだ」と呼んで揶揄う。

Thomas
▲サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のトーマス像(ウィキぺディアから)

 使徒トーマスは疑い深い人間のシンボルのように受け取られているが、フランシスコ法王はそのトーマスを評価している。同法王は2015年4月12日、サン・ピエトロ広場の説教の中で、「トーマスに大きな共感を感じる。彼は復活したイエスが十字架で亡くなられた自分の愛する主なのかを確かめたかった。そのため、復活イエスに手を差し伸べ、十字架の痕跡を確認しようとした。そして復活イエスだと分かると、『私の主よ』と叫び、神を称えている。トーマスはイエスの復活の意味を誰よりも理解していたのだ」と説明し、トーマスの名誉回復をしている。ちなみに、正教会ではトーマスを「フォマ」と呼び、「研究熱心なフォマ」と評価し、復活祭後の日曜日を「フォマの日」としている。

 ところで、「疑い」は決して理由なく湧き出でてくるわけではない。それなりの理由や事情がある。ドイツ人のべネディクト16世は「知性と信仰」をライフテーマとしてきた。機会がある度に、知性と信仰は決して相反するものではなく、知性に基づいて信仰の重要性を強調してきた。ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは「クリストフ・シュレンブフの追悼」の中で、「信仰と懐疑とはお互いに相応ずる。それはお互いに補い合う。疑いのないところに真の信仰はない」と述べている。

 それでは、人はなぜ「疑う」のだろうか。理解できないから疑うのか。それとも「疑う」という機能が脳細胞の中に独立して存在するのだろうか。前者の場合、トーマスのように、イエスのアイデンティティが実証されれば「疑い」は消滅するが、後者の場合、分かったとして「疑い」は払しょくできず、常に付きまとう。

 現代人は後者の「疑い」に陥る人が案外多いのではないか。その場合、説明したとしても「疑い」が解消しないどころか、時にはその「疑い」は肥大化し、対応できなくなるというケースが出てくる。知性や情報は「疑い」の排除に役立たない。議論をしても相手の「疑い」を払うことが難しい、という状況が生まれてくる。

 知性的、論理的に話せば全ての人がそれを信じ、「疑い」が消滅するとすれば、この世界は既に疑いのない天国のような世界になっていなければならないが、現実はむしろ逆だ。インターネットで即情報を共有し、ライフタイムで事例を目撃できる時代が到来したが、人の「疑い」は依然、存在する。「話せば分かる」と叫んでテロリストに殺害された日本の首相がいたが、「話しても分からない人」が少なからず存在するという現実は昔も今も変わらないだろう。

 人間の疑いが代々継承され、現代人の我々の中にも生き続けているとすれば、人間は生来、疑い深い、敵愾心の強い存在ということになる。そこからは悲観的な人間像しか生まれてこない。

 「疑い」という感情の背景には不信感がある。信頼の欠如だ。相手の言葉、約束に対する不信は「疑い」を生み出し、その「疑い」が人間の記憶を管理する脳神経網の海馬に定着すると、「疑い」はもはや消滅できなくなる。「疑う」という思いが少なく、素直で人を信じやすい人はその海馬の機能に問題があるか、神によって祝福された人間だろう。

 人間が生まれて最初に持つ「疑い」は自分に向けられた親の愛に対してではないか。親は自分を常に愛していると感じた胎児、幼児は生涯、その愛の保障を糧に成長する。一方、親は自分を愛していないと感じた幼児はその「疑い」、「不信」が成長するにつれ確信となり、時には攻撃的となって暴発する。

 家庭が崩壊し、親から十分な愛を受けずに成長する人が増えてきたということは、「疑い深い人間」が増えてくることを意味し、同時に、その人間の数が増えていくことで社会、国家は不安定になっていく。「疑い」が愛に対する不信に立脚しているとすれば、知性や論理でその「疑い」を説得できない理由も明らかになる。

 「疑い」を解消できる唯一の手段は、「愛されている」という実感を回復することだろう。「自分は親から愛されている」と実感できる人間は「疑い」という不信を打ち破ることができるのではないか。

 聖書の話に戻るが、アダムとエバには2人の息子、カインとアベルがいた。神は2人に供え物をするように命じた。そして神はアベルの供え物は受け取り、カインの供え物を受け取らなかった。カインはその時、どのように感じただろうか。神は自分を愛していないという疑いであり、不信だ。そしてその思いが高まり、その怒りは神に愛されているアベルに向かう。カインはアベルを殺害することでその疑い、不信、憎悪といった思いを暴発させていった。現代人の多くはカインの宿命を引きずって生きている。彼らは失ってしまった「愛されている」という実感を必死に探しながら彷徨う。

「ポスト・メルケル」の到来早まるか

 “欧州の顔”と呼ばれてきたメルケル独首相(64)の健康状態が懸念されてきた。理由ははっきりしている。

000443506
▲日独首脳会談後の記者会見に臨むメルケル首相(2019年2月4日、内閣広報室提供)

 事の始まりは先月18日、大阪の20カ国・地域首脳会談(G20)前、ウクライナのウォロディミル・ゼレンキー新大統領を迎えてベルリンで歓迎式典が挙行された時、両国国歌演奏中、メルケル首相の体が大きく震えだした。動画を見れば明らかだ。メルケル氏の意思とは無関係に体が激しく揺れだしたのだ。ウクライナ大統領もそれに気づいたという。メルケル氏は記者会見で「水を飲んだので良くなった」と説明、健康不安説を払しょくした。その日のベルリンは30度を超す暑い日だったので、メディアでも「暑さによる脱水症状ではないか」と報じられた。

 そして先月27日、ベルリン大統領府でクリスティン・ランブレヒト法相の就任式があった。式に参席したメルケル氏の体が再び震えだしたのだ。その時、水が運ばれたが断り、震えはまもなく収まった。

 健康不安説が流れたが、メルケル首相は同月28日、29日の両日、大阪市で開催されたG20に参加した。一時期、メルケル氏はG20を欠席するのではないか、という憶測が流れ、ホスト国日本側を心配させたが、メルケル氏は大阪に飛び、予定された全ての行事に参加し、帰国した。

 そして今月10日、3度目の震えが襲ってきた。フィンランドのリンネ首相を迎えてベルリン連邦首相府前での歓迎式典の国歌演奏時に、ウクライナのゼレンキー大統領歓迎式時と同じように震えが始まった。体の震えは第1回目よりも軽く、しばらくすると収まり、式典は終わった。

 メルケル首相はその直後の記者会見で自身の健康問題に対し、「ウクライナ大統領の歓迎式典に生じた発作に対する精神的ショックを完全には克服していないのかもしれない」と笑顔を見せながら、「心配ない。私は大丈夫」と述べ、健康悪化説を払しょくした。ちなみに、ロイター通信は「大丈夫」と語ったメルケル氏の記者会見の内容を速報で流し、メルケル氏重体の警戒解除ニュースを発信している。

 そして11日、デンマークのフレデリクセン首相を迎えた時だ。連邦首相府は歓迎式典の場に2つの椅子を用意した。メルケル首相はその椅子に座り、同じように椅子に座ったフレデリクセン首相と一緒に式典に臨んだ。もちろん、他の関係者はいつものように起立して式典に臨んだ。

 もし体が震えだしたら、メルケル氏としては国民に自身の健康問題を明らかにしなければならなくなり、その内容次第では即辞任を強いられる可能性が出てくる。そこで発作防止のために椅子に座って式典に臨んだのだろう。ということは、体の震えの発作は気象状況とはあまり関係なく、深刻な神経系列の病の可能性も出てくるわけだ。遠距離診断によると、糖尿病患者に起こる低血糖状態や甲状腺の機能亢進などが考えられるという。

 メルケル首相時代は終わりに近づいてきた。今回の健康不安説が出る前からそれは既成事実として受け取られてきた。ドイツ与党「キリスト教民主同盟」(CDU)は昨年12月の党大会でクランプ=カレンバウアー氏を新しい党首に選出し、いつでもメルケル首相を継承できる体制に入っている。

 クランプ=カレンバウアー党首はドイツ政界では“ミニ・メルケル”と呼ばれてきた。実際、昨年3月、サールランド州首相の彼女を党幹事長のポストに抜擢したのはメルケル首相本人だ。

 それに先立ち、メルケル首相は昨年10月、任期満了の2021年秋には首相の座を降り、政界から引退すると表明している。クランプ=カレンバウアー党首が当然、首相職を継承するものと受け取られてきた。同時に、欧州連合(EU)レベルではメルケル首相の愛弟子、フォンデアライエン国防相を次期欧州委員会委員長に任命させるなど、メルケル氏は党の結束とEU内のドイツの地位確保という布石を打ってきている。ポスト・メルケル時代の到来への準備をしてきたわけだ。

 メルケル首相は自身の政治の恩師ヘルムート・コール首相(任期1982〜1998年)に次ぐ長期政権を維持してきた。第4次メルケル政権を終わりまで全うし、16年間の長期政権という記録を樹立して政界から引退する考えだったのかもしれないが、CDU内でも既にメルケル首相の辞任を求める声が飛び出している。メルケル首相にとっての誤算は21年の引退時期が来る前に自身の体の不調が表面化してきたことだろう。

 2015年、欧州に中東・北アフリカから難民が殺到し、ドイツには100万人以上の難民が流入した。その難民殺到でドイツ国内でも多くの社会的軋轢が生じるとともに、欧州入りした難民の中にはイスラム過激派テロリストが潜伏し、彼らは欧州各地でテロを実行したことで、メルケル氏の難民歓迎政策は批判にさらされてきた。メルケル首相は今回の健康不安説がきっかけとなって早期引退を強いられるかもしれない。
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Recent Comments
Archives
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ