ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

なぜ反ユダヤ主義が生まれたか

 20年、50年、そして100年と時間の経過と共に、如何なる歴史的出来事もその記憶は薄れ、それに参加した関係者は一人、二人となくなっていく。記憶を保つために、私たちは、時の節目にはさまざまな追悼イベントを開き、記憶を再生する努力を払ってきた。

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▲ウィーンの国連で開催されたホロコースト追悼集会で祈るユダヤ教のラビ(2015年1月27日、ウィーン国連で撮影)

 昨年は旧ソ連・東欧諸国の民主化のシンボル、“ベルリンの壁”崩壊25年目を迎え、ベルリンなどで様々な記念行事が行われた。そして今月27日、ユダヤ人ら100万人以上が殺害されたアウシュビッツ収容所解放70年目を迎えた。ポーランド南部オシフィエンチムの収容所跡に元収容者たちが集い、ナチス・ドイツ軍の蛮行を改めて想起するとともに、未来の世代に警告を発する追悼式典が開かれた。

 当方が住むウィーンの国連でも1月27日は「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」 (International Holocaust Remembrance Day)であり、追悼行事が開催された。

 アウシュビッツ収容所の100万人を含め、ナチス・ドイツ軍は約600万人のユダヤ人らを殺戮していった。考えられない数字だ。その犠牲者の一人一人には人生があったし、夢があったはずだ。それらが非情にも一方的に葬られていった。その無念さ、憤りは70年が過ぎた今日も関係者の心には残っている。
 解放記念の行事を、招かれた国家首脳たちの演説で終るのではなく、収容所関係者の証言に焦点を合わせたというイベント関係者の言葉もそれを裏付けている。

 当方は昔、イタリア映画で第71回アカデミー賞を受賞した「人生は美しい」(監督・主演 ロベルト・ベニーニ)を観て感動した一人だ。ナチス・ドイツ軍の強制収容所で死を待つユダヤ人たちの姿を描いた映画だ。死ぬまで過酷な強制労働の日々を生きるユダヤ人収容者の中でも、息子のために苦しさを明るさに変えて励ましていく父親の姿を描くことで監督は「人生は本来美しいものだ」という結論を引き出している。

 多分、それは映画の中だけで、実際の収容所生活は絶望的であり、希望などどこにも見られなかったはずだ。だから、今回のように、元収容者の証言に耳を傾けなければならないわけだ。

 私たちはアウシュビッツ収容所解放70年から何を学ばなければならないのか。換言すれば、過去70年間で何を学んできたのだろうか。元収容者関係者は「世界はアウシュビッツから何も学んでいない。その後もボスニア・ヘルツエゴナ紛争など民族戦争が繰り広げられていった」と指摘する。
 
 イスラム過激派テロ事件が生じたフランスではここ数年、多数のユダヤ人家庭がイスラエルに移住している。シナゴークやユダヤ系施設への襲撃が絶えない中、生命の危険を感じて移住していったわけだ。昨年1年間だけでもその数は7000人という。パリの反テロ国民大行進に参加したイスラエルのネタニヤフ首相はフランス居住のユダヤ人にイスラエルへの移住を歓迎すると述べている。ブリュッセルに本部を置く欧州連合(EU)も欧州全土で反ユダヤ主義が拡大してきたと警告を発している。

 ところで、反ユダヤ主義はナチス・ドイツ軍時代から生じたものであるならば、ひょっとすれば、その解明も楽だったかもしれないが、実際は反ユダヤ主義の歴史は中世よりも前まで遡る。ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ベニスの商人」には強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックが登場する。当時、ユダヤ人は他の国民から忌み嫌われる人間のシンボルだった、旧約聖書を読むと、エジプトのパロ王がユダヤ人が自身の懐の中で増え、その影響力を拡大していく状況に強い警戒心を感じる箇所があることから、反ユダヤ主義はイエスの十字架前に既に芽生えていたわけだ。ちなみに、ユダヤ民族の流浪はイエスの死後(西暦135年)から始まっている。

 当方は「ユダヤ民族とその『不愉快な事実』」2014年4月19日参考)のコラムの中で、ユダヤ人イエスを殺害したユダヤ民族が神から見捨てられた後、ロシア革命を主導したレーニンのもとで神を否定する唯物思想の構築に深く関わっていた話を紹介した。興味深い点は、同胞ユダヤ人が収容されていたアウシュビッツ収容所を解放したのは旧ソ連の赤軍だった、という事実だ。

 アウシュビッツ解放70年を迎えた今日、ナチス・ドイツ軍の蛮行への批判や犠牲者への追悼だけではなく、“なぜユダヤ民族は常に迫害されてきたのか”を真剣に考えるべき時だろう。ナチス・ドイツ軍の犠牲となった数多くのユダヤ人を心から追悼するためにも、このテーマをいつまでも封印すべきではない。

「自由からの逃避」か「自由の乱用」か

 仏週刊紙「シャルリー・エブド」本社テロ事件とドイツの反イスラム運動「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes、通称ぺギダ運動)をフォローしていると、自由に対する私たちの異なった対応が見えてくる。一つは「言論の自由」を含む人間の自由への飽くなき希求だ。もう一つは、自由の一部を国家に委ねることで幸せを求める国民の実態が浮かび上がってくる。以下、少し、説明したい。

 人は自由を求める存在だ。取り巻く環境、社会が自由を制限するならば、その障害を突破して自由を獲得しようと腐心する。中世時代からカトリック教会の伝統や慣習に縛られていたフランス国民が起こした革命はその代表的な例だろう。
 神の支配から脱して、人間本来の自由の謳歌を求めたルネッサンス運動は当時のフランスに影響を与えていた啓蒙思想と結びついて1789年、フランス革命を引き起こした。
 その革命で獲得した成果の一つが「言論の自由」を含む「自由」だった。だから、イスラム過激派テロリストの風刺週刊紙本社襲撃事件直後、300万人以上のフランス国民が反テロ国民行進に参加したわけだ。行進に参加した国民は同週刊紙の愛読者だけではなかった。むしろ、言論の「自由」という革命の成果が攻撃されたことに対する憤りが強かったのではないか。

 一方、隣国ドイツでは反イスラム教運動が全土に拡大してきた。それに対し、メルケル首相は機会がある度に警告を発し、「イスラム教はドイツの一部だ」と表明したヴォルフ前大統領の発言を繰り返している。

 同首相には、仏テロ事件を受けてドイツ国内で反イスラム運動が勢いをつけ、混乱が生じるのではないか、といった懸念が強いはずだ。ひょっとしたら、それだけではないかもしれない。ユダヤ民族を大虐殺した負の歴史を抱えるドイツでは、特定の民族・宗派の国民を批判することに強い心理的ブレーキが働くからかもしれない。

 フランスでは国民は「Je suis Charlie」(私はシャルリー)という抗議プラカードを掲げたが、ぺギダ運動に参加する市民は‘Wir sind das Volk’(われわれは国民だ)と叫びながら行進する。「われわれは国民だ」は政治の転換を求める明確なメッセージだ。換言すれば、イスラム系移住者の殺到を止め、“ドイツ国民ファースト”の政治を求めているのだ。それは同時に、「信教の自由」、「移民の自由」への制限を容認するという暗黙の了解も含まれているわけだ。

 人は自由を求める存在だが、同時に、強い指導者のもとで自由の制限を喜んで甘受する。自主的に判断して選択しなければならない「自由」を恐れる人々がいる。ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムはそれを「自由からの逃避」と名付けている。そして、その数は決して少数派ではないのだ。

 ぺギダ運動がドレスデン市という旧東独都市から始まったのも偶然ではない。反イスラム運動に共鳴する市民は共産政権下で自身の自由が制限されることを体験してきた。東西ドイツ再統一後、自由を得たが、生活環境は改善されていないと感じる市民はイスラム系移住者をターゲットにしてデモ行進する。彼らはパリの市民のように無制限な自由を願っていない。

 フランス国民は自由の制限に対して沈黙しない。その結果、仏人気作家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)氏の最新小説『服従』のストーリーが現実味を帯びてくることになる。
 小説の内容は、2022年の大統領選でイスラム系政党から出馬した大統領候補者が対立候補の極右政党「国民戦線」マリーヌ・ル・ペン氏を破って当選するというストーリーだ。フランス革命で出発し、政教分離を表明してきた同国で、将来、イスラム系政党出身の大統領が選出されるという話だ。
 保守系政党が反イスラム教、外国人排斥を訴えるル・ペン党首と連携すればイスラム系大統領候補を破ることは可能だったが、強い指導力と自由の制限を良しとしない国民はそのチャンスを放棄した。著者は、カトリック国フランスで同国初のイスラム系大統領が選出されるという皮肉な結果をシニカルに描いている。 

 自由の問題はフランスやドイツだけではない。「自由」が全てを許すならば、私たちは「自由の乱用」という副産物に直面する。それだけではない。「私の自由」が「他の人の自由」と衝突することを回避できないから、紛争、対立が絶えない。一方、強い指導者のもと、安定した生活を求めるならば自由の制限を甘受せざるを得ない。「自由」への対応では、われわれはこのようにあまり魅力的ではない二者択一を迫られているわけだ

 少々蛇足だが、フランスで反テロ運動が高まっていく中、国民の中には「私はシャルリー」ではなく、「私たちはシャルリー」と書いた紙を掲げる人々が出てきた。これは単数から複数への変化というより、「個人の自由」を追求してきた国民がその自由を守るために社会、国家の関与を求めだしてきた、と解釈できるかもしれない。

人質問題で与・野党は団結すべし

 悲しい映像が流れてきた。イスラム教スンニ派過激テロ組織「イスラム国」(IS)に拘束されていた2人の日本人にうち、湯川遥菜さんと思われる人物の殺害が報じられた。ISの蛮行に心から怒りを感じる。

 日本メディアの反応を追っていたら、産経新聞電子版は「共産党の池内沙織衆院議員が、短文投稿サイトのツイッターに『こんなにも許せないと心の底から思った政権はない』と、安倍晋三首相を批判する投稿をしていたことが25日、分かった」と報じていた。池内議員はISではなく、安倍政権を糾弾していたことに、正直言って驚いた。

 2人の日本人が生命の危機にあり、その解放のために日本政府があらゆるチャンネルを通じて、解決に乗り出している時、共産党議員が政府を批判するという感覚に違和感というより、「心の底から許せない」と感じた。同議員の発言は単に品格がないだけではなく、テロリストを間接的に支援することにもなるのだ。

 安倍首相を批判するのなら、共産党議員は湯川さんが殺害される前にその代案を提示していたのか。議員が代案を提示し、政府が拒否した結果、人質が殺害されたというのならそれなりに首相批判も一貫性があるが、同議員が人質解放の妙案を提示したとは残念ながら聞いていない。

 日本人人質が殺害されたことは日本人国民にとって悲しいことだ。テロリストにこのような蛮行を繰り返させないために、政府だけではなく、国民も一致団結しなければならない時だ。この時期に首相を批判することは戦略的にも最悪だ。

 その点、国家が窮地に瀕した時、米国では、民主党政権であろうと、共和党政権であろうと、大統領を支持し、団結をアピールする。与野党間の政策論争は一時、停止され、大統領を支援し、最善の解決策を共に模索する。日本共産党議員の首相批判はそれとは180度異なる。日本人人質が殺害され、苦慮する安倍政権に対し、「心の底から許されない」と批判したのだ。
 後藤さんの救済のためには、政府と国民は団結すべきであり、与・野党議員はこの危機の時は政策の相違に拘らず、政府を支援すべきだ

 考えてみてほしい。テロリストは日本国内の反応を見ているはずだ。国内で安倍政権批判が高まれば、テロリストの思う壺になる。日本が団結してこそ、テロリストに対して毅然とした立場で交渉し、解決策を模索できるのではないか。それが、第2、第3の人質事件を阻止することにも繋がるはずだ。

 日本共産党は先の総選挙で前回を大きく上回る21議席を獲得した。国と国民への責任は増している。池内議員は「安倍政権の存続こそ、言語道断。本当に悲しく、やりきれない夜。眠れない」と続けたが、イスラム国への批判はなかった(産経新聞電子版)という。
 池内議員は人質事件を政権批判に利用しているだけだ、という声が出てきても不思議ではない。池内議員の発言は、日本の国益に冷淡な共産党の実態を図らずもあらわにしている。
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【短信】   ウィーンにも雪が降った

 ウィーンでは24日夜から25日(現地時間)にかけ雪が降った。当方が朝3時頃目を覚ました時、ベランダに25cmぐらいの本格的な雪が積もっていた。こんなに多くの雪は今冬、初めてだ。朝5時頃になると、外から雪掻きをする人のシャベルの音が聞こえてきた。
 「それにしても、短期間で良く降ったな」と呟きながら、事務所の窓を開け、外の雪景色を堪能した。

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▲ベランダから見た雪景色(2015年1月25日、撮影)

無神論社会の“やり切れなさ”

 「素粒子」などの代表作が日本語にも翻訳されている仏人気作家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)氏の最新小説「服従」の独語訳が出版されたが、同氏はドイツ週刊紙「ツァイㇳ」とのインタビューの中で、「自分の小説と風刺週刊紙『シャルリーエブド』本社襲撃テロ事件との関係は全くない。テロリストは決して悪魔的な存在ではなく、明確な目標を追及する戦闘家だ」と述べる一方、「宗教なき社会は生存力がない。自分は墓地に足を運ぶ度、われわれ社会の無神論主義にやりきれない思いが湧き、耐えられなくなる」と率直に述べている。

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▲新作を発表したフランスの作家ミシェル・ウエルベック氏(ウィキぺディアから)

 同氏の小説は、2件のテロ事件がパリで起きた日の今月7日、発表された。そのため、新作とテロ事件には何らかの関係があるのではないか、といった憶測情報が流れていた。著者は今回、それに対してはっきりと「関係がない」と答えたわけだ。

 小説の内容は、2022年の大統領選でイスラム系政党から出馬した大統領候補者が対立候補の極右政党「国民戦線」マリーヌ・ル・ペン氏を破って当選するというストーリーだ。フランス革命で出発し、政教分離を表明してきた同国で、将来、イスラム系政党出身の大統領が選出されるという話はフランスばかりか欧州でも話題を呼んでいる。単なるプロパガンダ小説ではなく、現実味のある近未来小説というわけだ。

 ここでは、同氏の「墓地に行けば、無神論主義のわれわれの社会に対し、やりきれない思いが襲う」という発言に注目したい。この発言は、神を失う一方、他の神(イスラム教)が拡大する欧州社会で生きている同氏の間接的な信仰告白だろうか。

 他の神を信じる群れはそれがどのようなものであったとしても神を称え、神の国を求める。一方、世俗化社会の欧州では、生き生きした神の波動を感じる機会が少なくなってきた。
 英国から始まった「神はいない」運動が欧州全土に広がる一方、路上でイスラム過激派グループがコーランを無料配布している。そのようなシーンを目撃する度、欧州の知識人には神を失った喪失感が襲ってくるのだろうか。

 当方はこのコラム欄でウィーンの中央墓地の話を書いたが、欧州の墓地は日本のような墓場といった暗い雰囲気はなく、都会に生きる人々にとって神の吐息を感じることができる数少ない場所だ。その意味で、同氏の「墓地で神の吐息」を感じるということは文学的な表現というより、非常に現実感覚に基づく指摘だろう(「中央墓地の華やかさ」2006年8月25日参考)。

 しかし、生きた神を感じることができる場所が人生を終えた人々が眠る墓地にしかなくなったとすれば、淋しいことだ。イスラム教過激派グループが路上でコーランを掲げ、アラーを称えるのを見る度に、西側知識人は“やりきれない思い”が湧いて耐えられなくなるわけだ。「宗教なき社会は生存力がない」という発言は、イスラム過激派テロ事件直後だけに、一層重みを増す。

“本当”のイスラム教はどこに?

 イスラム過激派テロリストの3人が起こした仏週刊紙「シャルリーエブド」本社とユダヤ系商店を襲撃したテロ事件について、同国の穏健なイスラム法学者がジャーナリストの質問に答え、「テロリストは本当のイスラム教信者ではない。イスラム教はテロとは全く無関係だ」と主張し、イスラム教はテロを許してはいないと繰り返す。一方、西側ジャーナリストは「世界でテロ事件を犯しているテロリストは異口同音にコーランを引用し、アラーを称賛している。それをイスラム教ではないという主張は弁解に過ぎない。彼らはイスラム教徒だ」と反論する。

 著名な神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰( Monotheismus) には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の唯一神教を信じる者を容認できない。そこで暴力で打ち負かそうとする」と説明し、実例として「イスラム教過激派テロ」を挙げている。すなわち、イスラム教とテロは決して無関係ではないというのだ(「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日参考)。

 イスラム法学者の「あれはイスラム教ではない」という主張を聞いていて、それではどこに“本当のイスラム教”があるのかといった素朴な疑問を感じた。

 旧ソ連・東欧諸国の共産政権はいずれも崩壊した。共産主義の敗北が明白となった時、極東アジアに住む日本人の共産主義者やそのシンパの中から「旧ソ連、東欧の共産主義は本当の共産主義ではない」と、崩壊した共産主義国を修正主義者と糾弾する一方、「共産主義はまだ実現されていない」と、その希望を未来に託したことを思い出す。イスラム法学者の「テロリストは本当のイスラム教徒ではない」と反論する論理と何と酷似していることか。

 先のイスラム法学者も極東の共産主義者も「どこに“本当”のイスラム教、“本当”の共産主義世界が存在するか」といった疑問には答えていない、前者の場合は「私が信じているイスラム教が本当だ」とはさすがに主張していない。そんなことをいえば、「この法学者は傲慢な学者だ」と一蹴され、それだけで「本当のイスラム教徒」のカテゴリーから逸脱してしまう危険が出てくる。もちろん、スンニ派とシーア派などに分裂しているイスラム教世界では、“本当”のイスラム教探しは正統論争に過ぎないというべきかもしれない。

 “本当”の共産主義国が存在していないように、“本当”のイスラム教も見当たらないのだ。逆にいえば、崩壊した旧ソ連・東欧の共産主義国は少なくとも共産主義思想を標榜した国であり、テロを繰り返すイスラム過激派テロリストも、少なくともアラーを崇拝するイスラム教徒である、といわざるを得ないわけだ。なぜならば、われわれは崩壊した共産主義国と紛争とテロを繰り返すイスラム過激派テロリストしか身近に目撃していないからだ。いつ実現するか分からない「本当」の共産主義国やイスラム教の出現を忍耐強く待つほど空想家ではないからだ。

 現実を無視しては解決策は出てこない。イスラム過激派テロ問題の解決も同じだ。フランスのテロ事件から“イスラム”を削除して過激派テロ事件と見なすことは論理的にも現実的にも詭弁に過ぎない。イスラム過激派テロ問題はやはりイスラム教に戻り、謙虚に解明していく以外にないだろう。“あれは本当ではない”式の論理では、解決はおぼつかないだけではなく、無責任な主張だ。

中国から「日本人は平和ボケ」の声

 普段は中国共産党政権の腐敗や人権蹂躙問題を厳しく追及している海外反体制派メディア「大紀元」は22日、日本人2人がイスラム過激組織「イスラム国」(ISIS)に人質となり、身代金を要求されているが、日本のネットユーザーは日本人2人の殺害予告映像をアニメやイラストに加え、滑稽な加工画像を作成して公開していることについて、「日本人は平和ボケだ」といった軽蔑まじりの嘲笑が飛び出していると報じた。

 「過激派組織イスラム国は、日本人2人の殺害予告映像をインターネット上に公開した。緊迫した状況であるにもかかわらず、この映像を日本のインターネット利用者はアニメやイラストを加え、滑稽な加工画像(コラージュ画像)を作り次々と公開した。あまりにも不謹慎な行為に中国のインターネット利用者は日本の『平和ボケ』を指摘。またISISに関係するとみられる者からは怒りを買い、一部から報復攻撃を示唆するメッセージが発せられ、深刻化を招きかねない事態となっている」

 大紀元は日本ネットユーザーに対して、「平和ボケ」、「不謹慎」、「冷静で無関心」といった中国側のユーザーから批判の声を紹介している。
 中国側のネットユーザーは過去、日本に対して厳しい批判や罵声を浴びせてきた。けっして優等生のユーザーではないが、その彼らが2人の日本人人質に対する日本ネットユーザーの反応を「不謹慎」と感じているわけだ。もちろん、人質事件は生命にかかわる深刻な出来事だ。普段は冗談半分で無責任な批判を繰り返してきた中国ネットユーザーも好ましくない批判のトーンを抑えるなど、それなりの自制を働かしているのかもしれない。

 日本人は戦後、繁栄と平和を享受する一方、安全問題は米国に“おんぶにだっこ”といった環境圏で生きてきた。そして米国即製の平和憲法を自国のアイデンティティと受け取り、生きてきた。そのような中、日本の平和ボケを指摘する声が保守派論客から聞かれだして久しいが、日本と対立している中国のネットユーザーの目にも「日本人は平和ボケだ」と映っているのだ。日本人として真剣に考えなければならない時だ。

 それでは、どうしたら「平和ボケ」から解放され、自国の安全問題に責任をもって対応できる国家となれるだろうか。憲法改正は中心的な課題だが、自主憲法を作成しただけで即、国民が「平和ボケ」から目を覚ますとは思わない。憲法改正作業以上に国民の意識改革のほうが難題だろう。

 安倍晋三首相は16〜21日までエジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治区の4カ国・地域を訪問した。その途上、2人の日本人の人質ニュースが飛び込んできたわけだ。首相は中東の現状を一層、身近に感じられただろう。

 中東地域から数千キロ離れた日本人にとって、中東の現状を身近に感じることは難しいが、日本を取り巻く周辺を振り返れば、日本の安全が危機状況下にあることは理解できるだろう。尖閣諸島問題などで反日攻勢をかける中国、核兵器を有する北朝鮮など、日本の安全を脅かす問題が山積している。中国のネットユーザーから「平和ボケ」と馬鹿にされないためにも、「国の安全」は国民一人一人の死活問題だ、と自覚したいものだ。

批判を呼ぶ法王の「兎のたとえ話」

 ペテロの後継者ローマ法王も時には口を滑らすことがあるものだ、といった印象を持った。

 ローマ法王フランシスコは19日、スリランカ、フィリピン訪問後の帰国途上の機内記者会見で、随伴記者団から避妊問題で質問を受けた時、欧米諸国が開発途上国に避妊促進を求めていることについて、「外部から家族計画について干渉することはできない」と述べ、「思想の植民地化」と呼んで批判する一方、避妊手段を禁止しているカトリック教義を擁護しながらも、「キリスト者はベルトコンベアで大量生産するように、子供を多く産む必要はない。カトリック信者はウサギ(飼いウサギ)のようになる必要はないのだ」と述べ、無責任に子供を産むことに警告を発している。

 多分、南米出身のローマ法王は冗談交じりに答えたのかもしれないが、「うさぎのように……」という発言内容が伝わると、「大家族の信者たちの心情を傷つける」といった批判だけではなく、養兎業者からも苦情が飛び出してきたのだ。

 ドイツ通信(DPA)によると、ドイツの養兎業者中央組合のエルヴィン・レオヴスキー会長は、「全ての業者がウサギにどんどん子供を産まさせているわけではない。それは野生の動物だけだ。養兎の場合、繁殖は規則正しい秩序を持って行われている」と弁明する一方、「法王の馬鹿げた表現はむしろ避妊を認めることになる」と警告を発している。法王は養兎業者については何も言及していないが、業者関係者は、「自分の職業が批判された」と受け取ったのだろうか。

 前ローマ法王べネディクト16世の場合、“口が滑る”といったことはなかったし、そもそも冗談をいうタイプではなかった。要点を明確に語るだけで面白味はなかったが、“口が滑る”といったスキャンダルは8年間余りの在位期間、無かった。
 例外は、法王就任年の2005年9月、訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学の講演で、イスラム教に対し、「ムハンマドがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用したため、世界のイスラム教徒から激しいブーイングを受けたことだ。厳密にいえば、これは口が滑ったのではなく、法王の演説テキストに不都合な引用があっただけだ。学者法王らしいミステークだ。

 それに対し、フランシスコ法王はプロトコールに拘らない、気さくな法王のイメージがある。これが法王の人気の理由かもしれないが、今回のように口が滑るといった事態も生じるわけだ。

 法王のために弁明すると、法王は「うさぎのように……」という発言をする前に、申し訳ないが、と断わっている。だから、純粋に「口が滑った」というわけではない。多分、無責任に産み増やしてはならないと説明するために、不幸にもウサギを例に挙げただけだろう。他意はなかったはずだ。ちなみに、ウサギは一般的に多産のシンボルだ。

 フランシスコ法王は気候の違う遠い国を訪問し、多くのストレスがあっただろう。ローマへの帰途に就いた機内でその疲れが出たのか、それとも気が緩んだのだろう。冗談の一つも言いたくなったか、それとも南米人特有のサービス精神が働いたのかもしれない。

 なお、レオヴスキー会長は法王の発言に対し、「馬鹿げた表現」と批判した。法王に対し、“馬鹿げた”という言葉を使って批判した人物をこれまで余り知らない。同会長は法王の話によほど頭にきたのか、それとも“口が滑って”しまったのだろうか。「口は災いの元」といった昔の賢人の言葉を思い出す。

独仏で「反イスラム主義」への警戒心

 仏風刺週刊紙「シャルリーエブド」本社襲撃テロ事件直後、「言論の自由」が大きなテーマとなり、パリで開かれた反テロ国民行進では、多くの国民が「私もシャルリー」という紙を掲げ、テロリストに10人のジャーナリストを殺された風刺週刊紙への連帯を表明したが、事件から2週間目を迎える今日、欧州では、焦点が「言論の自由」から「過激な反イスラム主義への警戒」へと移ってきている。

 仏風刺週刊紙テロ事件やユダヤ系商店テロ事件を受け、フランスやドイツで反イスラム勢力や極右勢力が勢いをつけるだろうと予想され、警察当局は警戒を強めていた。実際、テロ事件直後の12日、ドレスデンの「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes、通称ぺギダ運動)の慣例月曜日デモ行進には約2万5000人(主催者側発表では約4万人)が集まり、過去最大のデモ行進となった。フランスではテロ事件後、国内の50カ所以上のイスラム系関連施設が何者かに火を付けられたり、襲撃されている、といった具合だ。

 ドイツでは、反イスラム主義を標榜するぺギダ運動に懸念の声が高まっている。ヴルフ前大統領が在職中、「イスラム教もドイツの一部だ」と表明し、国民の結束を呼びかけたが、メルケル首相もここにきて「イスラム教徒はわが国民だ」と強調し、仏のイスラム過激派のテロ事件で国民が反イスラム主義に走らないように警告を発しているほどだ(「ケルン大聖堂の照明を消せ」2015年1月3日参考)。

 そのような時、ドレスデンのぺギダ運動は、19日の慣例デモ集会を中止すると表明したのだ。その理由は「ルッツ・バハマン氏(Lutz Bachmann)らぺギダ指導者に対してイスラム過激派のテロの危険性が出てきたからだ」という。それを受け、ドレスデン警察側は同日予定されていた反ぺギダ集会の開催も中止させた。ちなみに、「デモ行進中止はテロの脅威に屈服することを意味する」として、「結社・集会の自由」への蹂躙だという批判の声が聞かれる。

 独週刊誌シュピーゲル電子版によると、ドレスデンではデモ集会が中止されたが、他の主要都市で同日、ぺギダ支持者と反ぺギダ派のデモが開かれている。例えば、ミュンヘンでは反ぺギダ集会に1万2000人が集まり、歌やダンスをしながら、反イスラム主義に対して反対を呼び掛けた。マクデブルクでは約6000人が反ぺギダ・デモを行ったが、ぺギダ支持派デモは600人と小規模に留まった。首都ベルリン、日本人が多く住むデュッセルドルフ、ニュルンベルク、ヴュルツブルクでも両者のデモ集会が行われたが、参加者数はいずれも1000人から数百人だ。警察当局によると、ぺギダと反ぺギダのデモ集会は先週よりその動員数を減らしているという。

 反イスラム主義の拡大はフランスやドイツだけではない。当方が住むオーストリアでもファイマン首相は先日、メルケル首相に倣い、「イスラム教はわが国の一部だ」と述べ、国民の反イスラム主義への傾斜に警告を発している。同首相の口からはもはや「言論の自由」といった言葉は聞かれなくなった。

 なお、テロ事件が起きた7日、フランスの小説家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)氏が最新作「服従」を発表した。同小説は、2022年の大統領選でイスラム系政党から出馬した大統領候補者が当選するというストーリーだ。フランス革命で出発し、政教分離を表明してきた同国で将来、イスラム系政党出身の大統領が選出されるという話は、欧州最大のイスラム社会を有するフランスでは非現実的といって笑ってはいられない。フランス国民がこの小説の内容をどのように受け取っているのか、とても興味深い。

英首相は「言論の自由」根本主義者?

 ワシントン発時事によると、「キャメロン英首相は18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの風刺画週刊紙シャルリーエブドがイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、『自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する』と述べた」という。これはローマ法王フランシスコが「言論の自由にも制限がある」と語ったことへの反論と受け取られている。

 キャメロン首相は、どのような宗教、その指導者も風刺できる「言論の自由」があるだけではなく、その宗教的感情も害する権利があると主張しているわけだ。英国メディアは王室関係者、政治家まで自由に批判し、時にはきつい風刺記事も書く。それに対し、風刺の対象になった関係者はメディアを訴えることができるし、必要なら法的手段に出ることも可能だ。メディア側と対象となった側の両者にはその内容が問題の場合、対応手段があるわけだ。

 だから、「どうして他者の宗教的感情を害することは許されないのか」という疑問をキャメロン首相は抱えているわけだ。王室や政治家のスキャンダルを書く自由を認めるのならば、どうして他者の宗教的感情を害する「言論の自由」を認めないのか、という問題だ。

 当方はフランシスコ法王の弁護人ではないが、なぜ他者の宗教的感情を害することは「言論の自由」ではないかについて考えてみた。宗教的感情はその信仰を有している人間の非常に主観的な世界だ。その感情を測量で測ることはできないし、法廷で説明することも難しい。「私の宗教的感情はあなたの風刺で何パーセント傷つきました」とは主張できない。穿った見方をすれば、傷ついてはいなくても、そのように装って好ましくない風刺を抑えこむこともできる。本人以外、その被害度を証明できないし、ひょっとしたら、本人もできないだろう。

 当方はこのコラム欄で「改宗した難民へ“信仰テスト”を実施」というタイトルの記事を書いたが、難民が本当にイスラム教からキリスト教へ改宗したかどうかを限りられた時間で判断することは至難の業だ。ほぼ不可能と言ってもいいだろう。ましてや、その宗教的感情となれば、雲をつかむよう内容で理解できにくい。それゆえに、宗教的感情を害する「言論の自由」は自制しようといった、一種の“ジェントルマン協定”が出てくるわけだ。

 もちろん、宗教の教義や聖職者の言動に対し、自由に批判できるし、糾弾も許されている。神学論争は今も昔も認められていることだ。当方はこのコラム欄で何度もローマ・カトリック教会の聖職者の未成年者への性的虐待事件を書いてきたし、聖職者のスキャンダルも報じてきた。それらは事実関係が明確である限り、「言論の自由」が許す範囲と思うからだ。

 キャメロン首相が、他者の宗教的感情を害し、自由に風刺できると考えているとすれば、同首相は「言論の自由」の根本主義者と言わざるを得ない。如何なる自由も制限があるし、越えてはならない領域がある。その一つは、他者の宗教的感情への一方的な攻撃だ。

 宗教的感情だけを特権扱いすべきではない、と反論されるかもしれない。しかし、考えてほしい。何らかの宗教を信じる人は心の中にその祭壇を持っているようなものだ。そして、その信仰的感情を害するという行為は、その人の心の祭壇を土足で踏むような行為に匹敵する。ペンはその人の聖域まで侵入してはならないのだ。

 シャルリーエブド最新号は世界のイスラム教国で怒りと憤慨をもたらしている。既に同紙本社テロ事件よりも多くの死傷者を出しているのだ。だから、宗教的感情を尊重すべきだ、と強調したいのではない。他者の宗教的感情を害した場合、どのような反応が生まれてくるか、加害者側も予想できないからだ。

イスラム過激派が提示した問題

 フランスの風刺週刊紙本社とユダヤ系商店への襲撃テロ事件は欧州全土に大きな影響を与えている。フランスのテロ事件を米国内多発テロ事件に倣って、“欧州の9・11テロ事件”と呼ぶ西側テロ専門家もいるほどだ。

 米国では、9・11テロ事件後、当時のブッシュ政権は対イスラム過激派対策を最優先課題に掲げ、国内外の対策を実施していったように、欧州でもフランス、英国、ドイツを中心に国内に潜伏するイスラム過激派一掃とシリア・イラク内戦帰国者への監視強化などを進めている。

 ここでは、イスラム過激派テロリストが異口同音に聖戦を掲げ、アラーの為に死を恐れないと豪語する点について、少し考えてみた。彼らはアラーの聖戦のために戦死したとしても天国に行き、大きな祝福を受ける、と信じているのだ。

 人間はその行為がまったく無意味と分かれば、行動するエネルギーが湧いてこないものだ。逆に、社会で認知されない行為でもアラーが公認し、死後もアラーの祝福の下で生活できると信じれば、どのような蛮行にもエネルギーが湧いてくる。だから、彼らは死を恐れない。自身の死が報われると信じているからだ。

 一方、21世紀の社会に生きる大多数の現代人は「死」が人生の最終到着地と捉え、なるべくその終着駅に到着するのを遅くするため、健康管理に励み、病気になれば医者に行き、治療する。なぜならば、死が怖いからだ。
 その現代人の眼前に「死を恐れない群れ」が突然、出現したのだ。彼らはアラーのためなら喜んで死ぬという。彼らは死を自身の栄誉と考え、現代人には理解できない蛮行を平気で行う。多くの現代人にとって、彼らの行為は狂気としか思えないのだ。

 イスラム過激派テロリストは重要な問題を私たちに提示している。彼らが信じる「死後の世界」が本当に存在するか、存在するとすれば、その世界はどのようなメカニズムで運営されているか、といった問題だ。

 イスラム過激派テロリストは「死後の世界」を信じる一方、世俗社会に生きる多くの現代人は「肉体生活が全て」と漠然と思っている。両者間の間には大きな溝がある。簡単にいえば、「死を恐れない人」と「恐れる人」の違いだ。だから、イスラム過激派対策ではその相違を正しく認識し、対応する必要があるわけだ。

 どのような理由からでも人を殺害すれば、単にこの世界だけではなく、「死後の世界」でも厳しい刑罰が待っていると分かれば、イスラム過激派テロリストは蛮行ができるだろうか。テロの報いがアラーの祝福ではなく、刑罰となれば、多くのテロリストは躊躇するだろう。

 「死後の世界」の存在云々の問題は決してイスラム過激派だけではなく、全ての人間にとって重要な課題だ。死が終着駅ではなく、新たな人生への再出発点ということが理解できれば、人生観、世界観は当然変わるからだ。
 相対的価値観に陥り、閉塞感に包まれている現代人にとって、大きな希望となるだろう。肉体生活後の「死後の世界」が明らかになれば、人生観、世界観はもとより、政治、社会のメカニズムにも大きな影響を与えるからだ。
 
 もちろん、問題はどのようにして「死後の世界」の存在、そのメカニズムを実証的に説明できるかだ。まだ時間が必要かもしれないが、現代科学はその世界の存在解明にかなり近づきつつある。当方は21世紀は“別の世界”の存在が明らかになる世紀と考えている。
 
 繰り返すが、「死後の世界」の存在云々はオカルト的な問題ではない。イスラム過激派テロリストはネガティブな意味でそのパイオニア的役割を果たしている。われわれは彼らと同様、肉体の死を恐れる必要はないが、「死後の世界」のメカニズムに反する生き方を深刻に恐れなければならない。そのために、私たちは「死後の世界」について真摯に学ばなければならないわけだ。

 ただし、私たちが生来、「死後の世界」にも生きるように創造された存在とすれば、私たちの中にその存在を感知できる能力が必ず隠されているはずだ。換言すれば、私たちは「死後の世界」の存在を薄々知っているのではないか。死を間近にした時、死を恐れると共に、人生を振り返って後悔の念が湧いてくる人々が少なくない。ひょっとしたら、私たちは「死後の世界」のメカニズムも分かっているのかもしれない。
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