ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

独大衆紙の「誤報」が提示した問題は

 ドイツのメルケル首相(61)が意識不明に陥ったというニュースが流れた。発信元は独大衆紙ビルド(電子版)だった。メルケル首相は観賞中のオペラ第1幕後の休憩の時、「突然、意識不明」となったというのだ。ギリシャの金融支援問題や殺到する難民対策で昼夜、奮闘する首相だけに疲れがたまり、倒れたのかもしれない。メルケル首相の容態を知りたいので続報を待っていたら、ビルド紙が数時間後、「メルケル首相倒れる―は誤報だった」と修正記事を掲載した。

 メルケル首相は25日、同国南部で開催されたバイロイト音楽祭でオペラ「トリスタンとイゾルデ」(リヒャルト・ワーグナー作曲)を観賞し、休憩時間にレストランで椅子に座ったところ、倒れた。それを大衆紙ビルトが「メルケル氏が意識を失い倒れた」と速報したたために大騒ぎとなった。
 政府報道官は、「首相は意識を失っていない」と述べ、急病説を否定した。ビルト紙は26日未明、「意識を失ったのではなく、椅子が壊れたために首相が倒れただけだ」と訂正記事を掲載して“夏の誤報”劇の幕を閉じた。倒れたのは古かった椅子で首相ではなかったわけだ。

 参考までに書くと、同音楽祭で倒れて救急車で運ばれた政治家はやはりいたのだ。独週刊誌シュピーゲル(電子版)によると、バイエルン州のキリスト教社会同盟(CSU)のゼーホーファー党首がオペラ観賞中に気分が悪くなって会場を出、病院に運ばれていたというのだ。同党首は翌日には退院し、日常の職務を行っている。「オペラ会場が暑く、気分が悪くなっただけだ」という。

 「メルケル首相倒れる」はビルド紙の誤報で終わったが、首相が本当に倒れた場合を考えざるを得なかった。欧州連合(EU)の主役であり、経済大国ドイツを主導するメルケル首相にもしものことがあったら大変だったところだ。英国のキャメロン首相はEUに留まるかどうかで国内を統一しなければならないし、オランド大統領のフランスは国民経済が揺れ出している。EUを指導するだけの経済力もない。

 メルケル首相の後継者はやはりドイツから探さなければならない。現時点ではメルケル首相の後継者レースでは同じく女性のウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエン国防相(56)の名前が挙がっている。医者であり、労働・社会相など閣僚経験も豊富だが、国防相となってからは自動小銃G36の精密度に関する問題が表面化し、その対応で苦労している。もちろん、メルケル首相の後継者は必然的にEUの指導者となるから、EU諸国から支持が得やすい政治家が望ましいことはいうまでもない。

 東西両ドイツの再統一を果たしたコール元首相は旧東独出身のメルケル女史を自身の後継者に育てていった。メルケル首相の場合、与党「キリスト教民主同盟」(CDU)内にこれといったライバルはいない。メルケル首相に健康問題が生じた場合、ドイツは後継者の選出で頭を悩ますことになるだろう。

 メルケル首相は過去、3度の総選挙で勝利し、今年11月で任期10年目を迎える。今月17日に61歳となったばかりだ。健康に問題がない限り、メルケル首相は次期総選挙にも出馬できるだろう。コール氏の戦後最長任期16年間を破ることだって夢ではない。しかし、明日、何が生じるか分からない世の中だ。メルケル首相の後継者問題も考えておかなければならないだろう。独大衆紙ビルドの誤報はその切っ掛けを提供した、という点で意味があったといえるだろう。

 蛇足だが、メルケル首相はレストランの椅子が壊れて倒れたが、ドイツのメディア報道では「首相は2分間、立ち上がれなかった」と報じていた。それを聞いた友人が「2分間はかなり長い。その間、付き添い人やボディ―ガードは何をしていたのか」と首を傾げていた。誤報というものは、考えればボロが出てくるわけだ。

「星月夜」の画家ゴッホ死後125年

 当方はこのコラム欄で「君は“ヴィンセント”を聴いたか」(2014年12月20日)というタイトルの記事を書いた。米国のシンガーソングライター、ドン・マクリーン(Don Mclean)が天才画家ヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の生涯を流れるようなメロデイーで表現した「ヴィンセント」という曲について書いた。誰からも理解されなかったゴッホの悲しさが聴く者の心に伝わってくる。その曲の主人公ヴィンセントは1890年7月29日、37歳の若さで亡くなった。今日(29日)で死後125年だ。ポスト印象派の代表的画家だった。

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▲ゴッホ作「星月夜」

 ここでゴッホの人生やその作品について書くつもりもないし、当方にはその能力はない。ただ、ゴッホの絵が好きなだけだ。当方の寝室の壁にはゴッホの「星月夜」(1889年作)の大ポスターが貼ってある。死の1年前、フランスの精神病院の療養期間に描いた作品だ。原画は現在、ニューヨーク近代美術館に展示されているが、当方はベットに横になりながら、ポスターを観賞するという考えられない贅沢を楽しんでいる。

  「星月夜」(The Starry night)を観ていると、さまざまなイメージが浮いては消えていく。そのイメージは見る度に変る。ある時は「星の王子さま」の主人公のような少年が出てくる。ある時は宇宙のブラックホールが浮かんでくる、といった具合だ。ひょっとしたら、ゴッホは、死後、別の世界に移り動く人々のイメージを描いたのではないか、と思ったりした。

 バチカン放送独語電子版は26日、「ゴッホは近代画家のパイオニアであり、その後の画家に大きな影響を与えた」と報じていた。彼の色彩には日本の浮世絵の影響があると指摘されてもいる。

 彼の絵は生前、ほとんど一枚も売れなかったが、今日、彼の作品はオークションで最も高価で取引されているという。ゴッホの約900の絵画、約1000のスケッチは最後の10年間で集中的に書かれた作品だ。特に、フランス居住時代、精神病院での療養時代の作品だ。

 ゴッホは生前、その作品だけではなく、彼の内面世界も誰からも理解されなかったという。画家の孤独が作品の中にも感じられることがある。牧師の家に生まれたゴッホは若い頃、聖職者になるために勉強しているが挫折した。ゴッホは常に神を探し求め、その孤独を慰めようと葛藤していたのかもしれない。その戦いで倒れる1年前に「星月夜」を描いた。「星月夜」を残してくれたヴィンセントに感謝したい気持ちで一杯だ。

オバマ大統領の“上からの目線”?

 ひょっとしたら、オバマ米大統領はケニアのケニヤッタ大統領を含むアフリカの指導者に向けてアドバイスをする気楽な気持ちから言ったのかもしれない。だから、その善意から出た助言が相手から反発されるとは考えていなかったはずだ。父親の出身国、ケニアを訪問(7月24日〜26日)したオバマ大統領は写真で見る限り、上機嫌だった。

 オバマ大統領は25日、ケニアの首都ナイロビでケニヤッタ大統領と会談後、記者会見に臨んだが、そこで隣国ソマリアのイスラム過激派アッシャバーブへの対策問題のほか、同性愛問題が話題となった。
 同性愛はケニアを含むアフリカ諸国(56カ国)では法的に禁止されている国が多い(昨年末現在36カ国)。一方、同性愛問題ではリベラルなオバマ大統領は少数派の同性愛者への人権擁護を訴え、同性愛者を犯罪人のように扱うアフリカの政治家に再考を促したわけだ。

 外電によると、オバマ大統領は米国内の人種差別問題を例に挙げ、「少数派の人々が他と違うという一点で多くの弾圧を受けている」と指摘し、同性愛者の人権尊重を訴えた。それに対し、ホスト国のケニヤッタ大統領は、「同性愛問題は重要ではない。われわれは米国と共有できないものが存在する」と述べ、同性婚を合憲とした米国の価値観に対し、距離を置く姿勢を示した。

 実際、ケニアを含むアフリカ諸国と米国では同性愛問題では全く対応が異なる。アフリカでは一夫多妻は容認される傾向がある一方、同性愛者に対しては厳しい目が注がれる。換言すれば、同性愛者は人間として認められない、といった雰囲気がある。その背景には、イスラム教やアフリカで積極的な宣教活動をするキリスト教福音派教会の影響があると指摘する声がある。
 米国では先月26日、米連邦最高裁判所が同性婚禁止を違憲とし、同性婚を合憲とする判断を下したばかりだ。その結果、同性婚は全米50州すべてで認められることになった。

 ちなみに、同性愛問題では欧州も米国のトレンドを追っている。国民の85%がカトリック教徒のアイルランドで5月22日、同性婚の合法化を明記する憲法修正案の是非を問う国民投票が実施され、国民の60%以上が同性婚の合法化を支持したばかりだ。ドイツでも現在、同性婚の合法化の議論が進められている。
 欧州で同性婚問題ではっきりと拒否姿勢を打ち出している国はロシアと旧東欧諸国の一部だけだ。ロシアでは同性愛を広げる活動も処罰される。モスクワの同性愛政策に対して欧州諸国から批判の声が上がっているほどだ。

 話をオバマ大統領のケニアでの発言に戻す。アフリカ諸国の発展のためには汚職対策が急務だと訴えたオバマ大統領の発言に対してはアフリカの政治家たちは理解を示したものの、同性愛者への人権擁護発言には、「米国とは価値を共有していない」という表現で完全に無視したわけだ。

 訪問先で米大統領の発言がホスト国の政治家からこれほどはっきりと反発を食らったことは過去、なかったことだ。オバマ大統領は世界の大国指導者として「米国に倣え」と訴えたわけだが、父親の出身国のケニアの大統領から「米国に倣うことは出来ない」と一蹴されてしまったのだ。

 訪問先の習慣、文化、社会情勢を理解することは外遊する政治家にとっては大切だ。オバマ大統領は父親の出身国ということで気が緩んでいたのかもしれない。米国大統領という驕りもあったのかもしれない。今風な言い方をすれば、オバマ大統領は無意識のうちに“上からの目線”で語ったのかもしれない。
 ケニヤッタ大統領から強い反発を受けたオバマ大統領は、アフリカの文化・宗教を学び、その違いを理解することが大切だと感じたかもしれない。それは自身のルーツを知ることにもなるからだ。

惑星「ケプラー452b」とバチカン

 ケプラー452を公転している Kepler-452b(ケプラー452b)の発見ニュースを聞いて久しぶりに心が躍った。なぜならば、この太陽系外惑星は太陽系から約1400光年離れ、大きさや公転周期などが地球に酷似しているというからだ。すなわち、生命存在の可能性(ハビタブルゾーン)のある惑星というのだ。水の存在はまだ確認されていないが、確認できれば文字通り、“第2の地球”といえるわけだ。米連邦宇宙局(NASA)関係者が、「これまで発見された惑星の中で最も地球に似た条件だ。生命体の存在も考えられる」と、興奮気味で報じたのも不思議ではない。
 
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▲ケプラー452bの想像図(NASA提供)

 NASAが今月23日、ケプラー452bの存在を発表する際、同惑星を「地球のいとこ」という表現を使い、地球と同惑星の類似性を強調している。恒星ケプラー452が太陽に似ていることもあって、惑星452bを取り巻く状況はこれまで発見された惑星以上に地球のそれに似ていると想像できるわけだ。

 ところで、ケプラー452b発見のニュースに強い関心を払い、フォローしているのは世界の天文学ファンだけではない。ローマ・カトリック教会総本山、バチカン法王庁の天文学者たちもそうだ。バチカン天文台のホセ・ガブリエル・フネス所長は、「ケプラー452bで生命体が存在可能か確認することが急務だ。可能となれば、神学者はそれについて論じなければならないだろう」と指摘し、ケプラー452b発見の意義を強調している。


 フネス所長は25日、バチカン放送とのインタビューの中で、「今回発見された惑星に生命体の存在が可能か否かが判明するまで多くの時間がかかるだろう。科学者たちはケプラー452bの組成や質量が地球と比べてどうか、大気の状況はどうか、などを調査しなければならない。全てが判明するまで10年はかかるかもしれない」と慎重な姿勢を崩していない。

 キリスト教の世界観によれば、神は人間を含む万物万象を創造した。その中にはケプラー452bも当然含まれていることになる。その惑星に別のアダムとエバが存在していたとすればどうだろうか。聖書66巻には地球外生命体の存在云々について直接言及した個所はない。だから、ケプラー452bで生命体の存在が判明したならば、神学者は新しい挑戦に遭遇することになる。

 神は地球上だけに愛する人間を創造したのではなく、姉妹惑星にも同じように息子、娘たちを創造していたとすれば、地球中心の神観、生命観、摂理観の修正が余儀なくされる。中世のキリスト教会は天動説が否定された時、大きなショックを受けたが、21世紀のキリスト教会はそれ以上の大きな衝撃を受ける可能性が予想されるのだ。


 バチカンは1891年、ローマ法王レオ13世時代(在位1878〜1903年)にローマ郊外のカステル・ガンドルフォにバチカン天文台を開設した。伝統的にイエズス会の天文学者が管理している。バチカンは米国のアリゾナ州にも独自の天文台で観測を行っている。

 フネス所長は、「科学と信仰は互いに相手を否定する対立関係ではない。むしろ、互いに必要としている関係だ」と説明する。ちなみに、同所長は5年前、バチカン日刊紙オッセルバトーレ・ロマーノとのインタビューの中でも、「神の信仰と宇宙人の存在は決して矛盾しない。神の創造や救済を疑わず、人間より発達した存在や世界を信じることは全く正当だ」と主張し、注目された。同所長によると、バチカンが主催した「宇宙と生命」という専門家会議では、宇宙に人間以外の生命体が存在しても不思議ではない、という意見が主流を占めたという。

英国の「戦利品返還要求の退け方」


 「英バーミンガム大学は、イスラム教の聖典コーランの世界最古の断片とみられる古文書が見つかったと発表した。放射線炭素年代測定によると、同古文書は95%以上の確率で西暦568年から645年の間の作成と判定された」という。

 なぜ、このニュースが驚くべきかというと、発見された古文書がイスラム教の創設者ムハンマド(570年頃〜632年)の同時代の人物による可能性が考えられるからだ。ひょっとしたら、「同記述者はムハンマドを個人的に知っていた人物かもしれない」(バーミンガム大のデビット・トーマス教授)というのだ。

 考えてもみてほしい。イエスの言動が明記された新約聖書の多くはイエスが十字架で亡くなってから100年前後、後になってから書かれたものだ。多くは伝聞や言い伝えをまとめたものだ。イエスの教えをまとめ、神学とした聖パウロもイエス死後の人物だ。その意味からバーミンガム大で発見された古文書の年代が事実とすれば、歴史的な発見と評価できるわけだ。ちなみに、バーミンガム大は英国のイスラム教学のメッカだ。

 発見された断片を検証した学者によれば、その内容や形式は今日のコーランとほぼ同じだったという。すなわち、イスラム教の聖典はキリスト教会の聖書とは異なり、時代の変化の影響をあまり受けていないという。

 放射線炭素年代測定といえば、2000年前のイエス・キリストの遺骸を包んでいた布といわれる「聖骸布」の展示会を思い出す読者も多いだろう。同展示会は4月10日から5月23日の間、イタリア北部のトリノ市で開かれたばかりだ。
 通称「トリノの聖骸布」と呼ばれる布は縦4m35cm、横1・1mのリンネルだ。その布の真偽について、多種多様の科学的調査が行われてきた。例えば、1988年に実施された放射性炭素年代測定では、「トリノの聖骸布」の製造時期は1260年から1390年の間という結果が出ている。イエスの遺体を包んだ布ではなく、中世時代の布の可能性があるわけだ。ローマ・カトリック教会側も同布の真偽については何も言っていないが、前法王べネディクト16世(2010年5月)、そしてフランシスコ法王(15年5月)が同展示会を訪れ、布の前で祈りを捧げている。

 年代測定技術は急速に発達し、その測定値の誤差は次第に縮まってきているが、完全な年代測定は依然難しいという。その年代測定の難しさ、誤差を利用し、博物品の歴史的古文書の年代や発祥地を曖昧(ファジ―)に留めるケースがあるという。例えば、世界の各地からの戦利品が展示されている大英博物館だ。展示品の年代や発見状況が克明となれば、その歴史的遺品が見つかった国や関係者から後日、返還要求が出てくる恐れが考えられるからだ。

 最近でも、3年前に盗難された長崎県対馬市の海神神社の仏像「銅造如来立像」が17日、韓国から日本側に返還されたばりだ。また、産経新聞電子版によると、「日露戦争後に日本が遼東半島の旅順から略奪したとする唐代の石碑『鴻臚井碑(こうろせいひ)』の返還要求が中国の民間団体『中国民間対日賠償請求連合会』から出ているという」といった具合だ。


 バーミンガム大で今回発見された古文書はエジプトかサウジアラビアで見つかったものと推測されているが、公表されていない。

 少し蛇足だが、「バチカン法王庁は、トリノの「聖骸布」の製造日や発見地について正確な情報を入手済みだが、返還要求や他宗派との紛争を回避するためあえて曖昧としているのではないか」という疑いが湧いてくる。考えてみてほしい。歴代法王が身元も分からない遺体を包んでいた中世時代の「布」の展示会をわざわざ訪れ、その前に祈りを捧げるだろうか。

ウナギもクーラーもない夏の風景 

 1980年、オーストリアに初めて来た時、友人が「君はマンテルを買ったか」という。マンテル(Mantel、外套)は寒い冬を乗り越えるための必需品だ。半年以上、冬の気候のこの国でマンテルがなければ過ごせない。だから、貧しい人もしっかりしたマンテルは持っている。友人に連れられ、マンテルを買いに行ったことを思い出す。マンテルは重いが、それを着ていれば厳しい冬も過ごせる。

 当時、友人が「君は事務所に扇風機を持っているか」と聞けば、「扇風機などはいらないよ。日本とは気候が全く違うからね」と答えただろう。しかし、その友人が今、同じ質問をしたら、「冬でも雪が降らなくなったのでマンテルはいらなくなったが、扇風機は必需品だね。クーラーがあれば理想だが」と答えるだろう。

 宇宙的規模からいえば、35年は瞬きをするぐらい短い時間の経過に過ぎないだろうが、その35年間でオーストリアの気候は確実に変化した。オーストリアは6月、観測史上最も暑い6月だったという。そして7月、真夏日(気温30度以上)が24日現在で18日間だ。2006年の17日間を破り、これまた観測史上最も暑い7月となった。今月は日数がまだあるから記録更新は続くだろう(天気予報によれば、26日から気温が26、27度前後まで下がるという)。ちなみに、当方は過去、欧州で2度、40度以上を体験した。イタリアのフィレンツェとチェコのプラハでだ。

 ウィーンでは22日、23日も気温は35度を超え、38度まで上がった。ウィーン市当局は22日から公の場所で肉やソーセージを焼きながら食べるバーベキュー(グリル、Grill)を禁止する政令を発令した。森林火災の防止が狙いだ。オーストリア人やドイツ人は暑い日、家族や友人を招き庭でグリルを楽しむ。今回のグリル禁止令は公の場だけだが、暑さが続くようだと家でのグリルパーティも禁止されるかもしれない。

 日本では24日は「土用の丑の日」に当たる。暑さに負けないために栄養満点のウナギの蒲焼を食べ、夏を乗り越えるという。羨ましい情景だ。ウィーンにいれば、ウナギを食べたくても、料理に出してくれるレストランを見つけるのが大変だろう。冷凍のうなぎを焼いて食べさせてくれる日本レストランがあったが、2年前に閉店した。
 日本人がウナギを蒲焼にして暑さを乗り越えるように、オーストリア人はグリルを堪能して暑さを凌いできたが、今年の夏はとうとうその聖域にも火災の危険があるという理由から公の場では禁止された。ウナギを食べることは出来ず、今年はグリルにも市当局から文句が出された。ダブルパンチだ。ウィーンに住む日本人はどうしてこの暑さを凌ぐことができるだろうか。

 話はまた35年前に戻る。夏はせいぜい25度前後で、それ以上暑い夏はなかった。空気も快く乾燥し、ワイシャツの襟は汚れなかったから、不精な当方などは一枚のワイシャツを一週間着たままだった。それでも良かった。
 今は違う。ワイシャツは半日もすれば着換えたほうがいい。とにかく蒸し暑いのだ。地下鉄や気の利いた喫茶店はクーラーが入っているが、クーラー付の店の数はまだ少ない。先述したように、当方が初めてウィーン入りした時など、クーラーなど不必要だったからだ。
 クーラーを設置している家など皆無に等しい。我が家も例外ではない。小型の扇風機が一台あるだけだ。熱い空気をまき散らすだけで、涼しくならない。だから、ラマダン期間のイスラム教徒のように、太陽が沈むのを待つだけだ。
 日中は全ての戸を閉める。暑い空気が部屋に侵入しないようにするためだ。日中でも書かなければならないコラムがある場合、頭や首の周りにら水で濡らしたタオルを巻く。そして30分毎に冷水で顔や腕を洗う。これは効く。しかし、直ぐにタオルは乾燥するので、タオルをまた濡らす。その繰り返しだ。

 23日、取材しなければならない用件があったので、外出したが、乗った市電にクーラーが入っていた。余りにも快いので、降りたくなくなったほどだ。水で濡らしたタオルを頭に置いて記事を書くより、市電の中で風景を楽しみながら仕事をしたほうがいいかもしれない、と思ったほどだ。

 ウィーンに初めて来た時、その気候は北海道の旭川のようで、夏は快いシーズンだった。「自分はいいところに来たものだ」と内心喜んだものだが、35年後、「土用のウナギは味わえないうえ、蒸し暑さは日本以上だ。そのうえ、クーラーの普及率が悪いので、快い気温の下で仕事する贅沢はなかなか味わえない。
 「ベートーベンやモーツァルトがいなくてもいいから、ウナギを食べ、クーラーが完備したところで一服できれば……」と自堕落な思いが湧いてくる夏の日々だ。

欧州政治家と企業の“テヘラン詣で”

 イラン核協議は今月14日、最終文書に合意し、イランの核計画の全容解明に向けてゴー・サインが下されたが、それを受け、国連安全保障理事会は20日、最終合意内容を承認する決議案を採択した。これによって、対イラン制裁の解除に向けた手続きが開始されるが、欧州企業はイランとのビジネス再開に向け急テンポで準備を進めている。

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▲イラン・EU貿易投資会合(2015年7月23日、オーストリア経済会議所内で撮影)

 対イラン制裁の解除は来年に入ってからだが、それまで待てないと言わんばかりに、欧州の企業は凍結されてきたイランとのビジネス再開に向け走り出している。欧州連合(EU)の経済大国ドイツのガブリエル経済・エネルギー相は21日まで3日間、60社余りのドイツ企業代表を連れてテヘランに一番乗りし、ロウハーニー大統領と会談している。ドイツはシーメンス社などテヘランとの商談経験の豊富な大手企業が多く、イランとのビジネスに積極的だ。

 一方、イラン核協議では米国と同様、厳しくイランを批判してきたフランスも来週にはファビウス外相がイラン入りするという。核問題とビジネスは別問題というわけだ。ちなみに、イラン学生通信が22日報じたところによると、中国はイラン南部で2基の原発建設の受注を受けた。制裁解除後を狙ったビジネス攻勢は欧州だけではないわけだ。

 イラン核協議の外交舞台を提供したオーストリアでも23日から2日間、「イラン・EU貿易投資会合」が開催された。主催者はオーストリア経済会議所(Christoph Leitl会頭)だ 。会議にはオーストリアとイラン両国の企業代表のほか、テヘランからMohamad Reza Nematzadeh 工業貿易相らも参加した。

 オーストリアの対イラン輸出総額は2004年、約4億ユーロだったが、昨年は約2億3200万ユーロと過去10年間で半減した。それだけに、対イラン制裁解除を控え、失ったビジネスを取り戻そうというわけで、オーストリア経済会議所が先頭に立って発破をかけている。オーストリア側としては、機械、薬品、食糧品分野でイランの市場進出を目指している。

 なお、イランの核問題を批判してきた非政府団体「爆弾ストップ」(Stop the Bomb)はウィーンの経済会議所前で、「イラン政権とはノー・トレイド」を訴えたデモを行ったが、会議に参加する企業関係者にそのアピールが届いたかは不明だ。
 同グループは報道用声明文で、 「オーストリアとドイツの企業はホロコーストから70年が過ぎた今日、イスラエルを壊滅しようとするイランと貿易を行うため、先頭に立っている」と批判している。

欧州で「規律」派と「連帯」派の主導争い

 ギリシャの金融支援問題は欧州連合(EU)の統合に分裂をもたらすだろう、と一部で懸念されてきたが、この予測が現実味を帯びてきた。ドイツ、スロバキアやバルト3国はギリシャの金融政策とその改革案に対し懐疑心が強い一方で、フランスやイタリアはギリシャの破産を阻止し、ユーロ圏に留まらせるべきだと考え、ギリシャへの金融支援を積極的に支持している、といった具合だ。

 独週刊誌シュピーゲル最新号(7月18日)を参考に、ブリュッセルで開催されたユーロ圏首脳会談の様子を再現してみる。首脳会談はギリシャ政府が提示した改革案に対し、懐疑派と支持派に分かれ、激論を展開。合意が難しいと判断したメルケル首相が会談の延期を提案したが、トゥスクEU大統領が「延期したとしても同じだ」と延期案を拒否。会議は結局、13日早朝、17時間に及ぶ協議の末、ギリシャ議会での改革案の法制化を条件に金融支援を実施することで合意に達した。

 同誌によると、フランス人のパスカル・ラミー元欧州委員会委員(貿易担当)は、「欧州は現在、財政の規律を最優先するドイツと、連帯を重要視するフランス、イタリアとの間で分裂している。ドイツは規律を求め過ぎる一方、フランスやイタリアはユーロ諸国内の連帯を主張するなど、両者は真っ向から対立している」という。フランス政府は自国の金融・財政問題の専門家をアテネに派遣し、財政管理などでアドバイスするなど、アテネをユーロ圏に留めるため必死だという。すなわち、欧州はギリシャの金融支援問題でドイツを中心とした「規律」派と、フランス、イタリア主導の「連帯」派とに分裂しているわけだ。

 ところで、ドイツはナチス・ドイツ軍の蛮行という過去の問題を抱え、これまで政治指導力を発揮することに非常に慎重だった。調停役で満足してきた。例えば、農業問題で英国とフランスが対立した時も、ドイツは両国間の間に入って調停役を演じた。しかし、戦後70年を迎え、ドイツは欧州の政治舞台で主導的な役割を果たす機会が増えてきたのだ。ギリシャの金融危機ではもはや調整役ではなく、主導的役割を演じている。しかし、メルケル首相はユーロ圏首脳会談の前日、オランド仏大統領と会談し、意見を調整するなど、ドイツ主導といったイメージを回避するため苦労している。

 メルケル首相が今、頭を痛めている問題はギリシャの金融支援で懐疑派の筆頭、ショイブレ財務相の存在だ。同財務相はユーロ首脳会談前に、ギリシャを一定期間、ユーロから離脱させる案を立案している。だからというべきか、ギリシャ国民の間ではメルケル首相より、ショイブレ財務相が批判の第1ターゲットとなっているほどだ。

 ショイブレ財務相はシュピーゲル誌とのインタビューの中で、「ギリシャのユーロ追放案に対し、ユーロ圏財務相会議では15カ国が支持し、反対はフランスとイタリア、それにキプロスの3カ国だけだった」と明らかにしている。
 ユーロ圏首脳会談はギリシャへの金融支援で合意したが、アテネが改革を躊躇し、約束を履行しない場合、ショイブレ財務相ら強硬派がギリシャ追い出しを更に強めていく可能性が予想される。

 ショイブレ財務相の強硬姿勢に対し、メルケル首相自身は曖昧な姿勢を貫いてきた。ギリシャの改革案には懐疑的だが、ユーロ圏の分裂は避けたい、というのがメルケル首相の本音だろう。ちなみに、シュピーゲル誌が掲載した世論調査によると、ギリシャへの支援問題では、ショイブレ財務相の政策に満足と答えた国民は64%で、62%のメルケル首相を上回っていた。

 ユーロ首脳会談前、メルケル首相はオランド大統領と会談するだけではなく、ガブリエル副首相ら社会民主党幹部たちと意見を調整し、連立政権内の対ギリシャ政策の調整にも気を配っている。同首相は党内外の「規律」派と「連帯」派の間に挟まれ、ユーロ圏の維持に腐心しているわけだ。

メルケル首相の原則論と少女の涙

 ドイツの公営放送で15日、ロストックで開催されたメルケル首相と市民対話集会「ドイツで良く生きる」(Gut Leben In Deutschland)が放映されたが、その中でパレスチナ出身の難民少女(12)が、「将来大学で勉強したいが、滞在許可が下りず、国外退去されるのではないかと不安を感じながら生きている」と訴えた。それを聞いたメルケル首相が、「あなたの事情は良く分かる。あなたはよくやった」と述べた後、「ドイツには世界から多くの難民が殺到している。彼らを全て受け入れることは出来ない。重要な点は難民審査手続きを迅速化することだ」と、一般論を展開した。

 ここまでは良かったが、それを聞いていた少女が急に泣き出したのだ。それに気付いた首相は直ぐに彼女に近づき、慰めようとした。すると、集会の司会者が、「彼女が良くやったかどうかではなく、問題は大変な状況にあるということです」と少女側の立場を説明すると、メルケル首相は司会者の方に顔を向け、「そんなことはよく分かっている。私は彼女を撫でてあげたいのよ」と答えたのだ。

 この一連のシーンはソーシャル・ネットワークで流され、国民の間で大きな話題を呼び、「メルケル首相は冷酷だ」といった批判の声が上がっているという。特に、首相の「難民審査手続きの加速化」発言は、「審査が長引けば、ドイツに滞在できるのではないかと希望を抱く難民が出てくる。だから、そのような難民が出てこないためにも、難民審査を加速化すべきだ」ということを意味する。この発言は12歳の少女の立場にも当てはまるわけだ。レバノンから逃げてきたパレスチナ人の少女は既に4年間、家族と共に難民審査結果を待っている。少女はドイツ語が話せるようになり、ドイツに住みたいという希望を抱くようになってきたわけだ。メルケル首相の発言は、難民審査を加速化し、難民が間違った希望を抱く前に国外退去させるべきだ、というふうに受け取れるわけだ

 当方は後日、この場面を観た。メルケル首相は少女の涙に、「世界で最も影響力がある女性」に選出された政治家とは思えないほど、戸惑いの表情が浮かべていた。驚いた点は、首相が司会者の説明に強い不快感を露わにし、「私は彼女を撫でてあげたいだけなのよ」と強く答えたことだ。
 ちなみに、メルケル首相の「撫でてあげたい」という言葉は少々不適切な表現だった。「撫でる」(streicheln)は普通、犬の頭を撫でるといった時に使用する、12歳の難民の少女に対して、「撫でてあげたい」といった表現は使わない。少女の涙にメルケル首相がかなり困惑していたのかもしれない。

 「メルケル首相は冷淡だ」とは批判できない。首相は女王ではない。少女の話を聞いて、彼女に同情し、滞在許可を与えることはできない。選出された首相として可能なことは文字通り、「撫でてあげる」ことだけかもしれない。
 メルケル首相は間違いを犯していない。政治の檜舞台では絶対見せない困惑した表情をみせ、ひょっとしたら不適切な言葉を使っただけだ。メルケル首相は冷酷で傲慢な政治家というより、10年余り政権トップに君臨しながらも人間的な素朴なキャラクターを失っていない女性、というべきだろう。

 ウィーン大学の心理学者は、「メルケル首相は日ごろ、世界の平和、紛争解決、難民対策など大きな政治課題に取り組んでいる。その政治家が突然、一人の難民の涙を見た時、動揺したのではないか。メルケル首相の“撫でる”という言葉はそのような心理的状況下で飛び出してきたのだろう」と説明していた。

 独週刊誌シュピーゲル最新号(7月18日号)は、「メルケル、少女を撫でる」というタイトルに、「難民審査の迅速化発言は有権者を慰めるが、少女を慰めることができない」というサブを付けた記事を掲載していた。すなわち、メルケル首相の難民審査手続きの加速化発言は12歳の少女を慰めることはできなかったが、多くのドイツ国民には納得されたというわけだ。

 なお、涙を流した少女に滞在許可が与えられそうだ、というニュースが後日流れてきた。メルケル首相の働きがあったのかは不明だ。

「キエフ大公」とコンサート

 キエフ大公国をキリスト教化したウラジーミル大公(956〜1015年7月15日)が亡くなって今月で1000年目を迎え、ロシアやウクライナではさまざまな記念イベントが挙行されているが、当然のことだが、聖公ウラジーミルはロシアとウクライナの歴史では異なった評価を受けてきた。ちなみに、ロシア語では Wladimir(ウラジーミル)と呼ぶが、ウクライナ語では Wolodymyr(ヴォロディームィル)と発音される。

 簡単に説明する。ウラジーミル大公は兄弟間の戦いから逃れるためにスカンジナビアに一旦逃亡した後、980年、キエフに帰還し、大公に就任。988年、キリスト教を国教化し、キエフ大公国を繁栄させていった。キエフのルーシ(Rus)はロシア、ウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)を網羅した当時の地域名だ。

 ウラジーミル大公は西暦1000年から新たな1000年への移行期に登場し、バルト海から黒海まで全ルーシを支配し、欧州、地中海、ユーラシア地域で大きな影響を残した。ウラジーミル大公は洗礼後は社会、文化インフラを確立し、多くの教会を建設していった。モンゴルが1240年、キエフに侵攻するまで、キエフは文字通りキリスト教の中心拠点であった。ウラジーミル大公は東欧のキリスト文化の土台を築いていった中心人物だ。

 カトリック教会と正教会の両教会はウラジーミル大公を共に聖人に処している(正教徒は聖人を亜使徒と呼ぶ)。ウクライナは2008年、ロシアは2010年、ウラジーミル大公がキエフ大公国をキリスト教化した988年7月28日を祭日としている。ただし、ロシアは同日を「ロシア民族の洗礼の日」と評する一方、ウクライナ側は「ウクライナ国の始めの日」と解釈している。

 ところで、クリミア併合がきっかけでウクライナとロシア間で紛争が生じているが、ウラジーミル大公の記念イベントにも影響が出てきている。例えば、世界的な映画監督、音楽家のセルビア人エミール・クストリッツァ(Emir Kusturica)のロック・グループ「ノー・スモーキング」は7月28日、大公死後1000年を追悼する慈善コンサートをキエフのスポーツ宮殿で開催予定していたが、突然、キャンセルとなった。
 キエフの文化省の説明によると、「コンサートの当日、騒動が予想され、混乱が生じる危険性があるため開催をキャンセルせざるを得なくなった」という。ウクライナ通によれば、クストリッツァ氏がウクライナ紛争で常にロシア側を支援し、クリミア半島の併合を支持する発言をしてきたことから、キエフ側が同氏のコンサート開催を拒否した、というのが真相に近いという。

 ギリシャの金融危機がドラマチックな展開をする中、ウクライナ紛争は忘れられた感があるが、ウクライナ東部では親ロシア系勢力とウクライナ政府軍が戦いを続けている。今年2月のミンスク休戦合意は双方から反故にされている状況だ。
 両国がいがみ合う中、死後1000年を迎えたウラジーミル大公の「洗礼の日」を迎えようとしている。28日が両民族のルーツを確認し、和解する契機となれば幸いだが、現実は紛争をエスカレートさせる雲行きだ。
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