ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2013年09月

ウィーンの「コーヒー文化」の危機

 オーストリアでは10月1日は「コーヒーの日」だ。音楽の都ウィーンはおいしいコーヒーが飲める街として有名だ。ウィ―ン市民が一杯のメランジェを飲みながら談笑するシーンは至る所にみられる。ところで、ウィーンが長い間誇ってきたそのコーヒー文化(Kaffee Kulture)が時代の流れの中で変遷を余儀なくされてきているという。オーストリア日刊紙プレッセの記事(28日付)からウィーンのコーヒー文化の危機を紹介する。

wiencafe
▲ウィーン市の有名な喫茶店Cafe Landtmann( Cafe LandtmannのHPから)

 .Εーンのコーヒー文化が危機に直面しているのはその品質の後退を意味しない。ウィーンでは今もおいしいコーヒーが注文できる。問題はウィーンのコーヒーがCaffe Latte、Cappuccino、Espressoといったイタリア銘柄のコーヒーの進出で陰が薄くなってきたことだ。簡単にいえば、ウィーンの伝統的なコーヒーが国際銘柄のコーヒーに押されてきたのだ。Melange(ミルク・コーヒー)はまだ人気があるが、アインシュペンナー(Einspaenner)やKapuzinerといったウィーンの伝統的コーヒーをカルテ(メニュー)に載せない喫茶店も出てきた。コーヒー・ファンは自宅にコーヒーメーカーをもち、さまざまなコーヒーを独自に作る時代だ。伝統的なコーヒーだけではお客を呼べなくなってきた。「マクドナルドですら完全なイタリア産コーヒーを作る機械を導入している時代だ」というわけだ。

 ▲Εーンのコーヒー店ではコーヒーだけではなく、軽い食事(ソーセージやグラシュ・スープなど)が注文できる。コーヒーだけでは営業が成り立たないからだ。最近では、時代のトレンドに呼応して、菜食主義者用専用やグルテンフリーの食事も注文できる喫茶店が出てきた。
 
 コーヒー・ハウスは待合場所であり、談笑する場所として好まれる。その点は今も昔も同じだ。昔は著名な小説家や芸術家たちがコーヒーを飲みながら談笑する風景がみられた。作曲家シューベルトは「カフェー・ミュージアム」で友人たちと談笑し、時には作曲したばかりの音楽を演奏したものだ。今はそのような風景はもはや期待できない。
 ちなみに、昔の文豪にはコーヒー愛好家が少なくなかった。当方が好きなダブリン出身のオスカー・ワイルドやスウェーデン作家アウグスト・ストリンドベルクもコーヒーが大好きだった。ただし、オノレ・バルザックのようにコーヒーを飲み過ぎて死んでしまった作家もいる。

 ぅΕーンのコーヒー・ハウスでは昔、ビリヤードやチェスを楽しむことができたが、今ではウィーン市内でビリヤードできるコーヒー・ハウスは限られている。

 ゥ魁璽辧璽魯Ε垢任楼貲佞離魁璽辧爾把垢せ間を過ごすことができる。その点、今も変われない。最近では、スマートフォン持参の若者たちのために無線LANなどサービスを提供する店が増えた。ただし、禁煙が義務づけられているので、昔のようにタバコの煙を吹かしながら新聞を読み耽るといったことはできなくなった。

 ΕΕーンでコーヒー・ハウスが危機に直面しだしたのは1950年代、イタリア産のEspressiが入ってきてからだという。その結果、ウィーンの伝統的コーヒー・ハウスは時代遅れの印象を与えた。音楽の都ウィーンには多くの旅行者が殺到することもあって、コーヒー・ハウスの倒産ラッシュといった現象はないが、時代のトレンドに遅れたコーヒー・ハウスは消滅していった。1900年には約600のコーヒー・ハウスがあったが、現在は約140店。そのうち、伝統的なコーヒー・ハウスは70店ぐらいという。

ベルガモの秋

 ベルガモ市では楽しい時間を過ごした。同市は人口約12万人の小都市だ。大都市ミラノから車で1時間の距離にある。ケーブルカーで5分余り登れば、旧市内のチャタ・アルタ(高台)のLa Roccaに到着。そこからチャタ・パッサの新市内が眺望できる。セリエAに所属するプロ・サッカーチーム「アタランタ・ベルガモ」のサッカー場もみえる。

P9241082
▲カルロ家の「イタリア・コーヒー」(2013年9月25日、ベルガモで撮影)

 ベルガモの友人カルロが市内を案内してくれた。高台にある旧市内は中世の趣が至る所に残っている。石段が続き、ヴェッキア広場、コッレオー二礼拝堂、アンジェロ・マイ図書館など由緒ある歴史的な建物がある。ベルガモという呼称は紀元前、ローマ人によって初めて付けられたという。ミラノから日帰りでベルガモを訪ねる旅行者が足早に過ぎていく。

P9251120
▲チャタ・アルタの石段(2013年9月25日、ベルガモで撮影)

 カルロのテキパキとした道案内で短時間に市内の重要な場所を訪れることができた。ヴェッキア広場では有名な喫茶店Caffe Del Tassoでベルガモの典型的な甘菓子、ポレンタ(Polenta)を食べた。いずれにしても、ベルガモでは至る所で何かを食べていた、という思いがするほど、食欲の秋を堪能させてくれた。

 イタリアには美味しい料理が多く、国民も食欲が旺盛と聞いていたが、カルロ家も例外ではなかった。カルロ宅の昼食を紹介すると、エビ入りのコーン・スープ、パスタから始まり、サラダ。魚料理が続き、最後にカルロの娘さんが作った手作りのケーキ、そしてコーヒーがくる。カルロ家の食欲には驚かされた。

 当方がウィーンのコーヒーの話をすると、カルロはコーヒーはイタリアだ、といわんばかりに、「イタリアン・コーヒーを飲め」という。奥さんがつくったイタリア・コーヒーが運ばれてきた。トルコ風コーヒーのようだが、強すぎることもなく、コーヒーの香りが口の中で広がる。

 カルロによると、ベルガモ市周辺はイタリアの中でもカトリック教会の伝統が強い地域という。ベルガモ郊外のソット・イル・モンテの小村にカトリック教会の改革者ヨハネ23世が生まれた。イタリア人はヨハネ23世を「パパ・ジョバン二」と呼び、強い親しみを抱いている(ヨハン23世の生家訪問は紹介済み)。

 ベルガモを訪問した3日間、気候に恵まれた。ベルガモの秋は、喧騒な大都会から訪れてきた人々をゆったりと包み込む包容力がある。

 

 

ベルガモ郊外の教会改革者の「生家」

 イタリアのミラノ市から北東59キロにある小都市ベルガモ市(Bergamo)に住む知人宅を訪問した。ミラノ中央駅から電車で1時間の距離だ。中世の趣を残すバルガモの人口は約12万人(2011年)。標高365メートルの丘の上から新市街を眺める風景は格別だ。

P9261149
▲ヨハネ23世の生家(2013年9月26日、ソット・イル・モンテにて撮影 )

 知人は2日目、ローマ法王ヨハネ23世(在位1958年10月〜63年6月)の生家まで車を飛ばしてくれた。ヨハネ23世はベルガモ市郊外のソット・イル・モンテの小村に生まれた。

 ヨハネ23世は61年12月25日、教会の近代化を決定した第2バチカン公会議開催を決めている。当時、公会議開催には長い準備期間が必要と受け取られていたので、法王の突然の開催決定は驚きをもって受け取られた。ヨハネ23世は後日、「神の声」に従ったと述べている。

 同23世は62年10月11日、「教会の窓を大きく開けよう」という言葉をモットーに、約2800人の枢機卿、司教たちをサン・ピエトロ大聖堂に集め、第2公会議を開始した。同23世の死後、その後継者、パウロ6世(在位63年6月21日〜78年8月6日)が継承し、65年12月8日、第2バチカン公会議は閉会した。 第2バチカン公会議では、ラテン語礼拝の廃止、エキュメニズムの推進など 、教会の近代化を決定している。昨年10月、第2バチカン公会議開催50周年、今年6月はヨハネ23世死去50年目と、それぞれ節目を迎えたばかりだ。

 当方は昔、ポルトガルの聖母マリアの降臨地ファテイマを訪問したことがあるが、ソット・イル・モンテの村もファテイマと同様、多くの巡礼者がヨハネ23世の生家を訪ねてきていた。小村はヨハネ23世一色だ。同23世が洗礼を受けた教会、祈っていた山の上の教会、そして記念館などだ。その中でも訪問者が最も多い場所はなんといってもヨハネ23世の生家だ。

 生家の入り口には「Sotto Il Monte Giovanni XX掘廖淵ぅ織螢語でヨハネ23世はジョバン二23世)と書いてある。中庭に入るとヨハネ23世が信者たちと語らっている記念像がある。ヨハネ23世の出生から第2バチカン公会議までが写真や遺物品などを通じて紹介されている。家系図も紹介されていたが、ヨハネ23世は13人兄弟姉妹の4番目の子供として生まれている。大家族だったわけだ。
 
 近代のローマ法王の中で信者たちから最も愛される法王と呼ばれるヨハネ23世死去50年が経過したが、南米出身のフランシスコ法王の誕生が契機となって再び教会の改革者としてその功績が見直されてきている(「新法王は金正恩氏と似ている」2013年4月4日参考)。

 

「魂は何か」問う車椅子の心理学者

 ゲオルク・フラベルガ―氏(Georg Fraberger)はウィーン市にある欧州最大総合病院AKHの整形外科に勤務する心理学者だ。フラベルガ―氏が自身の経験や生い立ちを書いた著書「肉体なく、魂で」(Ohne Leib. Mit Seele)を発表した。同氏は1973年、ウィーンで腕と脚がなく生まれた。その後、通常の学校を通い、心理学を学び、心理学者として患者のケアを担当している。39歳。4人の子供がいる。

418DUiF
▲フラベルガ—氏の著書「Ohne Leib Mit Seele」

 同氏はオーストリア日刊紙プレッセとのインタビューの中で「肉体、知性の彼方に魂が存在する。肉体や知性は魂を運ぶものだ。人間の核は魂だ」と主張し、魂を科学的に研究してフロイト心理学の世界を凌駕する新しい心理学を目指している。以下、プレッセ紙(9月1日電子版)とのインタビューの一部を紹介する。

 ――魂とは何ですか

 「魂は人間を形作っているもので、肉体や知性の彼方に存在する。肉体と知性は魂の運搬人に過ぎない。私たちは皆、一度は若く、若い限り、魅力的であり、知性も機能する。しかし、それらはいつかは消えていく。しかし、人間の核や存在は変わらない。魂こそ人間の中心だからだ」

 ――魂の要求をどのように認知できますか

 「それを説明するのは簡単ではない。絵描きについて説明する。銀行マネージャーはいう。金を稼ぐために何か仕事すべきだ。しかし、絵描きは『自分は買い手がなくても絵を描かなければならない』と感じていた。絵を描くことが彼の魂の欲求だったのだ。しかし、絵描きが銀行家の意見を受け入れた場合。40歳になって絵描きはバーンアウトになり、彼はなぜ病気となったか分からないだろう」

 ――心の声を聞かなければならないということですか。

 「その通りだ。自分が主張することは何も新しくないが、現代社会では重要な価値観が忘却されている。人々はハウス、自動車、金が必要だと信じている。もちろん、それらが全部あれば素晴らしいが、十分ではない。より価値あるものは物資的な世界の彼方にあるからだ。自分の診断を受けた患者の中には、物質的な全ての物を所有していたが、『自分は価値のない人間だ』と感じていた。実際、その患者は魂の病気だったのだ」


 フラベルガ—氏の本が発表されたほぼ同じ時期、著名な理論物理学者スティ―ヴン・ホーキング博士(71)の「短い伝記」が発表された。博士は「車椅子の物理学者」と呼ばれ、世界的に知られた学者だ。博士の場合、成人後、筋委縮性側索硬化症という難病に罹った。博士は自身の人生について「素晴らしく、成就した人生だった。身体障害者は、自身ができることに集中し、できないことに頭を悩まさないことだ」と述べている。フラベルガ—氏は腕と脚のない身で自身のできること、「魂の研究」に乗り出しているわけだ。

「孔子学院」は中国対外宣伝機関

 オーストリアのペンクラブは中国の「孔子学院」(Konfuzius Insutitute)が主要スポンサーとなっている。そのためというべきか、中国の人権蹂躙問題に対して批判を避け、同国の反体制派活動家や芸術家に対しては冷たい扱いをしてきた。オーストリア高級紙プレッセ20日付に同国の作家ミヒャエル・アモン氏が寄稿している。以下は同氏の寄稿の概要だ。

P9211061
▲ウィーン大学キャンパス内にある「孔子学院」(2013年9月21日、撮影)

 オーストリアのペンクラブは2年前、財政危機で運営ができなくなった。中国の孔子学院がスポンサーとなって以来、破産からは解放されたが、親中派路線がここにきて鮮明化してきた。それに対し、メンバーからペンクラブの精神から逸脱してきたという声が上がってきたという。
 ペンクラブは言論の自由、人権の尊重などをその創設趣旨の中に明記しているが、孔子学院がスポンサーとなって以来、中国の人権問題には沈黙。その親中路線の中心人物はオーストリア・ペンクラブの幹部メンバー、中国学者ヴォルフガング・クービン氏だ。北京で教鞭を持つ同氏に対し、亡命中国人グループからは「中国共産党政権の宣伝工作の欧州の中心人物だ」という声が聞かれる。ちなみに、オーストリアのペンクラブ会長が最近北京を2週間余り訪問したが、その旅費がどこから出ているかは明らかになっていない。

 例えば、政権批判で逮捕され、米国に追放された作家Bei Ling氏はフランクフルト・ブックフェア(2011年)への参加を阻止され、ロンドンのブックフェア(12年)には政権派作家だけが参加を許されたことがあった。それに対し、クービン氏は「Bei Ling氏は自称反体制派に過ぎない」と一蹴している。
 英国の作家サルマン・ラシュディ氏は最近、2010年ノーベル平和賞を受賞した著作家の劉暁波(Liu Xiaobu)氏の処遇を懸念する記事を英紙ガーディアンやタイムズに寄稿したが、クービン氏は「中国では劉暁波氏のことを誰も知らない。中国国民は別の問題を抱えている。すなわち、生存だ」と述べている。
 国際アムネスティ(AI)や国際ペンクラブは劉暁波氏の人権擁護を訴えているが、ク―ビン氏は「中国では著作活動を理由に刑務所に入るということはない」と主張し、AIとの協調を拒否している、といった具合だ。

 中国共産党政権は欧州では動物園へパンダを贈る一方、孔子学院の拡大を主要戦略としている。孔子学院は2004年、海外の大学や教育機関と提携し、中国語や中国文化の普及、中国との友好関係醸成を目的とした公的機関だが、実際は一種の情報機関となっている。

 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)のクリストファー・ヒュース教授は「孔子学院は中国当局の宣伝機関だ」と断言するなど、欧州知識人の間では孔子学院の拡大に懸念の声が高まってきている。カナダ安全情報局は孔子学院の活動に警戒を呼び掛けているほどだ。

スイスの州で「ブルカ」禁止が決定

 スイスで22日、2つの住民投票が行われた。1つはスイス全土で日曜日の営業時間延長の是非、もう一つはスイス南部のティチーノ州でブルカや二カブなど体全体を隠す服の着用禁止の是非を問うものだった。その結果は、日曜日の営業時間延期を問う住民投票は約55・8%が延期を支持。一方、ティチーノ州のブルカ着用禁止では65%の住民が賛成した。

1_0_730950
▲ブルカ着用禁止決定を報じるバチカン放送独語電子版

 住民投票の結果を受け、営業法が改正され、ガソリンスタンドや高速道路沿のレストランは日曜日も通常の営業ができるようになる。それに対し、スイスのカトリック教会司教会議は住民投票の結果を尊重し、反対しない意向を表明しているが、「日曜日は安息日であり、神との対話の時」という立場から、日曜日の勤労には基本的には反対だ。
 欧州のカトリック教国では「日曜日を守れ」といった運動が信者の間で起きている。ちなみに、26カントン(州)のうち、21カントンの国民は営業法の改正を支持。日曜日の営業時間の自由化に反対は、ブリブール州、ヌーシャテル州、ウーリー州、ヴァレー州、そしてジュラ州の5州だけ。

一方、ブルカやニカブ着用禁止を最初に要求したのはテッチーノ州で、スイスで大きな反響を呼んでいる。州国民の約65%が「公共の道路、広場で顔を隠してはならない。また、性別に基づいて他者に顔を隠すように強制してはならない」という内容を支持した。

 国際アムネスティは「人権運動にとって悲しむべき日だ」と主張、スイスのイスラム中央評議会(IZRS)は「スイス国内で拡大するイスラムフォビアの表れだ。スイス国内のイスラム系住民を不快にさせ、公共の場からイスラム的な要素を排斥しようとしている」と指摘している。ただし、ティチーノ州がブルカ着用禁止を州法に明記するためには、連邦議会の承認が必要となるため、「実行に移されるまでまだ紆余曲折がある」と予測されている。

  スイスで2009年11月29日、イスラム寺院のミナレット(塔)建設を禁止すべきかどうかを問う国民投票が実施され、禁止賛成約57%、反対約43%で可決された。連邦政府は「宗教の自由の尊重」という立場から一貫して建設禁止を反対してきただけに、ミナレット建設禁止は大きな衝撃を投じたことはまだ記憶に新しい。
 
 ちなみに、スイスでは北アフリカ・中東諸国の民主化運動「アラブの春」以降、それらの地域から難民申請者が激増し、犯罪が急増してきた。それに呼応して、国民の間で外国人排斥傾向が高まってきた。同国で6月9日に行われた難民法改正を問う国民投票では、現難民法の強化に約78・5%が賛成票を投じている(「外人比率23%の国」の外人嫌い2013年8月14日参考)。

現状維持を選んだドイツ国民

 ドイツで22日、連邦議会(下院)選挙が実施され、大方の予想通り、与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU、CSU)が得票率41・5%で圧勝した一方、メルケル首相の政権パートナー、自由民主党(FDP)が得票率4・8%で議席獲得に必要な得票率5%の壁をクリアできず、同党結成(1948年)以来、初めて連邦議会の議席を失った。同党は前回(2009年)、14・6%の得票率を獲得している。

P9221071
▲選挙の勝利を喜ぶメルケル首相(2013年9月22日、独公営放送から)

 一方、野党第1党の社会民主党(SPD)は25・7%で前回(2009年)より得票率で2・7%増加したが、メルケル与党を脅かすまでには至らなかった。左翼党は得票率を落としたが、8・6%で第3党の地位を占めた。躍進が期待された90年連合・緑の党は選挙戦終盤で有権者の支持を急速に失い、8・4%(前回10・7%)にとどまった。反ユーロ政策を掲げで結成された「ドイツのための選択肢」(AfD)は4・7%で議会進出を逸した。投票率は約71・5%(前回70・8%)だった。

 この結果(暫定)、メルケル首相の3選は確実だが、与党側の過半数議席獲得が実現したとしても、安定政権を樹立するために社民党との大連立政権を復活させる可能性が高まったと受け取られている。メルケル第1次政権(2005〜09年)は社民党と大連立政権だった。

 以上、総選挙結果を紹介したが、「ドイツ国民は変化を避け、現状維持を選択した」という印象を受ける。メルケル首相は選挙戦では常に「欧州の財政危機で多くの国が停滞してきたが、ドイツの国民経済は安定し、失業率は減少してきた」と発言、有権者に安定をアピールし、貧富の格差是正、構造改革などを訴える社民党の声を一蹴してきた。
 国民は不確かな変化より、安定志向が強かったのだろう。コンラート・アデナウアー(1949〜63年連邦首相)は「国民は実験を好まない」と語ったが、ドイツ国民は社民党に実験を求めなかったわけだ。

 ドイツ語圏のメディアは23日、総選挙結果を一面トップで報じ、「Mutti」(お母さん)の勝利」と呼んでメルケル首相の勝利を伝えている。ギリシャ、スペイン、ポルトガルなどの財政危機に対するメルケル首相の政治手腕を評価する論調もあったが、それ以上に「メルケル首相の存在が全てだった」という声が強い。同首相のプレゼンスは他党を圧倒していたことは事実だ。「CDUの選挙戦はメルケルで始まり、メルケルで終わった」(ヴェルト紙)といわれるほどだ。南ドイツ新聞は「 メルケル主義(Merkelismus)」という新語を紹介して、同首相の政治スタイルを分析している。

 興味深い点は、90年連合・緑の党の予想外の後退だ。同党幹部は「わが党は、脱原発を主張し、再生可能なエネルギー、風力、太陽光の利用促進を訴え、エネルギー転換を支援してきたが、有権者からは受け入れられなかった」と嘆いている。
 メルケル政権が脱原発とエネルギー転換を主導したことで、緑の党の独自性が希薄したうえ、党筆頭候補者のユルゲン・トリティン氏の不都合な発言(1981年「児童性愛、ペドフィリアを擁護)が明らかになって有権者の支持を大きく失っていった。

 最後に、FDPの歴史的敗北について、同党の古い幹部は「わが党はリベラルな社会建設で貢献してきたが、ハンス・ディ―トリッヒ・ゲンシャーなどカリスマ性のある政治家がいなくなったこともあって、有権者に正しく評価されなくなった」と述べている。独週刊誌フォーコス電子版によると、同党の失墜原因として、〕権政治、党内の権力争い、政策の欠如、AfDにリベラル票を奪われた、等が挙げられている。同党は、34歳の若手で人気のある政治家クリスツィアン・リントナー氏(同党元幹事長)を新しい党首に選び、党の再生に乗り出すと予想される。

 なお、メルケル首相の3選が確実となったことから、ドイツ主導の欧州連合(EU)の財政危機への対応に大きな変化はないだろう。

中国の対アフリカ中・長期戦略

 「アフリカであんな大きな大使館を見たことがなかったからビックリしたよ」

 知人のドイツ人化学者ヤン・ガヨヴスキ氏が言った。同氏は中部アフリカのルワンダを仕事で頻繁に訪問してきた。その彼が首都キガリで中国大使館を見た時の印象だ。
 「中国はどうしてあんな大きな大使館をルワンダで建築したのか考えたよ。中国はアフリカで資源確保に専心していることは周知の事実だ。ルワンダにはタングステンやスズが少し採掘されるが、同国の経済は農業を中心としたものだ。にもかかわらず、中国は大きな大使館を作り、多数の職員を派遣している。キガリ駐在の西側外交官の話によると、中国人の狙いは隣国コンゴ民主共和国だという。あの国はダイヤモンドなど地下資源が豊富だ。ただし、対ルワンダ国境周辺は政治的に不安定だ。だから中国側はルワンダに拠点を置き、隣国進出を模索しているということだったよ」と説明してくれた。

 アフリカ通の知人は「中国人はとにかく大きな建物が好きだね。ルワンダの中国大使館と比較すれば、米国大使館は小さな借家のようなものだ」という。中国はエチオピアの首都アディスアべバのアフリカ連合(AU)の本部建物を建設して無償で贈呈しているが、その建物も大きい。ちなみに、エチオピア政府は国家の命運をかけて巨大な「グランド・ルネッサンス・ダム」(総工費42億ドル)を建設中だが、そこにも中国が関与している。とにかく、中国は大きな建物、大きなダムといったように、大きなものを好む。アフリカには既に100万人以上の中国人労働者が働いている。

 ルワンダといえば、1994年4月にジュベナール・ハビャリマナが暗殺された事件を発端に、推定80万人が犠牲となった‘ルワンダ大虐殺‘が起きたことを想起する読者も多いだろうが、現在のルワンダの国民経済は回復し、「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどだ。

 ルワンダ通のガヨヴスキ氏によると、「中部アフリカで目下、政治的に安定している国はエチオピアとルワンダだ」という。実際、ルワンダの首都キガリには「考えられないほどの銀行がある。街を歩けば、どの通りにも銀行の看板を見つけることができる。どうしてそんなに多くの銀行があるのかと現地人に聞くと、ルワンダは政治的に安定し、社会インフラも完備されてきたから、世界の金が集まってくるからだという。キガリはアフリカ版フランクフルト市(ドイツの金融都市)のような都市だ」というのだ。もちろん、「マネーロンダリング(不法資金洗浄)に悪用されている疑いは払拭できないがね」と付け加えることを忘れなかった。

 そのような国ルワンダに中国は中央アフリカの拠点を構築し、アフリカの資源獲得に乗り出しているわけだ。中国は共産党政権だから中・長期計画に基づいて経済活動ができる。短期間に成果を期待される資本主義経済国ではできないことができる。その一つは、採算を無視した巨大な建物建設ではないか。巨大で最新施設を備えた建物をAU本部に提供し、アフリカ諸国との関係を深めている。中国の戦略は欧米諸国には絶対に真似のできないものだ。 

上田大使、お疲れ様でした

 在ジュネーブの国連人権理事会日本政府代表の上田英明人権人道担当大使(68)が今月20日、5年間余りの任期を終えて退官された、というニュースが入ってきた。

PA310326
▲日本人権セッションの審査会議(2012年10月31日、ジュネーブの国連で撮影)

 同大使は今年5月、国連拷問禁止委員会のメンバーから「日本の人権状況は中世のようだ」という発言が飛び出した時、「日本の人権は先進的で、中世のようではない」と答えた。すると、会議に参加していた外交官の間から笑い声が挙がった。その時だ。上田大使は「黙れ、シャラップ」と怒りを発したのだ。
 運の悪いことに、その場にいた関係者から日本大使の「シャラップ」発言は世界に発信されてしまった。その結果、上田大使は「シャラップ大使」という汚名を着せられることになったわけだ。

 上田大使の「シャラップ発言」は「品性のない発言」と受け取られ、批判されたが、同じ「シャラップ発言」で男の株を挙げた人物がいる。大使ではない。スペインの国王カルロス1世だ。
 国王は2007年11月、チリで開催された第17回イベロ・アメリカ首脳会議で自国のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ首相の演説を繰り返しさえぎったベネズエラのチャベス大統領(当時)に対して「いいかげんにしろ、黙れ」と発言したのだ。この「黙れ、シャラップ」発言はスペイン国内で「さすがにわれわれの国王だ」と受け取られ国王の人気が急騰、その発言内容をプリントにしたTシャッツがブームとなったほどだ。

 当方の推測だが、上田大使はスペイン国王の「シャラップ発言」の逸話をひょっとしたら知っていたのではないか。だから同じ様に「シャラップ」と発言したが、人気が出るどころか日本のメディアからも批判された。明らかに上田大使の誤算だった。同じ「シャラップ」でも1人は男の株を挙げ、もう1人は批判にさらされたわけだ。
 
 正直にいって、当方も上田大使の言動に驚かされたことがある。ジュネーブの国連人権理事会の「普遍的・定期的審査」(UPR)の日本人権セッションが昨年10月末開催された時だ。当方は記者席で取材していた。

 上田大使が日本政府の「第2回政府報告書」を読み出したが、数分後、「あれ、行を飛ばしたようだ」と笑いながら、飛ばした個所から再読を始めたのだ。UPR会議の加盟国外交官たちから笑い声がもれたが、決して批判するといった性格のものではなかった。しかし、大使がその後も行を飛ばしたのだ。
 大使の度重なるミスに、加盟国外交官から「何だ、しっかりしろ」といった怒りや「真面目にやれ」といった声が聞かれた。当方も「上田大使は集中力に欠けているな」と感じたほどだ(「あれ、行を飛ばしてしまった」2012年11月7日参考)、

 その上田大使が激務を終えて退官された。今となって考えれば、「シャラップ」、「あれ、行を飛ばしてしまった」という発言は、上田大使の大らかな性格の表れではなかったかと思い直している。上田大使、お疲れ様でした。

法王「キャリア志向はがん腫瘍だ」

 ローマ法王フランシスコは19日、新しい司教たちを前に、「質素な生活を送り、説教の中で語るように、自分もそのようにならなければならない」と助言した。過去1年間に司教に任命された高位聖職者のためにバチカンが主催したセミナーの中で法王が語ったものだ。

P8220998
▲ウィーンのアルト・ドナウの風景(2013年8月、撮影)

 南米出身の法王は就任以来、法王宮殿に住まず、ゲスト・ハウスに留まり、豪華絢爛なものを嫌い、質素な生活をしてきた。その生活スタイルを新司教にも求める一方、、説教の中で語るように、自身の生活も規律と自制を求めている。簡単に言えば、言動一致だ。バチカン放送によると、フランシスコ法王は説教の中で何度も「自身の言動を絶えず、検証すように」と語り掛けたという。

 聖職者の未成年者への性的虐待事件はその後も発覚している。枢機卿が未成年者へ性的虐待を犯していたことが判明した一方、ドイツのカトリック教会では贅沢な生活を好む司教の問題がメディアで話題となったばかりだ。フランシスコ法王時代に入っても教会を取り巻く状況は余り変わっていない。

 法王は語る。「質素な生活をし、担当司教区から旅行するのは必要な時以外は控えるべきだ。司教は常に担当教区に留まり、信者たちの生活に関心をもち、いつでも牧会できるように旅行は控えるべきだ」と述べ、教区を留守して世界を飛び回る聖職者を「空港(教区)司教」と呼び、スキャンダルだと批判。そして「教会で人事を受け、キャリアを積んで高位聖職者に挙がろうといった“キャリア志向”はがん腫瘍のようなものだ。司教たちは生涯、教区内で信者へ奉仕しなければならない。信者が喜び、苦しむ時、常に同伴者でなければならない。イエスの福音を語るだけではなく、その通り、自身も生活しなければならない」と語っている。

 前法王べネディクト16世時代の過去8年間では聞かなかった内容だ。ドイツ人法王を弁解するつもりはないが、同16世は、聖職者の未成年者への性的虐待事件、バチカン銀行の腐敗、法王執務室からバチカン内部機密が外部に流出した通称バチリークス事件など、次々と教会の不祥事が表面化して、その対応に追われて、信者たちにゆっくり語り掛ける機会は少なかった。同16世は学者だ。誰にでも理解できる言葉で表現することには不向きだったことは事実だろう。
 その点、フランシスコ法王からは難しい神学的議論は聞かれない。イエスのように質素に、悩み淋しい人々に勇気を与え、彼らの同伴者となるように、と語りかけるだけだが、その言葉は聞く者の心を不思議に打つものがある。

 フランシスコ法王の叫びが実りをもたらすか、砂漠で叫ぶ預言者のように、聞く耳を持つ聖職者、信者たちを見出すことができずに終わるのか。カトリック教会は大きな分岐点に直面している。
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Recent Comments
「最新トラックバック」は提供を終了しました。
Archives
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ