ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2014年12月

民主主義が失ってきたもの

 明日は新年を迎える。少し遅くなったが、過ぎ去る2014年を振り返ってみた。

 今年の政治分野での最大の出来事はやはりロシアのウクライナ・クリミア半島併合だろう。ロシア側の一方的な国境線変更に対し、欧米社会は「戦後の国際秩序を破壊する行為」として、ロシアを批判し、対ロシア制裁を実施中だ。

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▲当方宅から見たウィーンの夕焼け(2014年12月、撮影)

 中東・北アフリカ地域では、イスラム教スンニ派過激派勢力「イスラム国」(IS)がカリフ性イスラム国家の建設を宣言し、シリアとイラクの一部を武力で占領する一方、少数宗派の国民を虐殺、欧米の人質の首をはねるシーンをビデオで流し、国際社会を威嚇している。

 2010年に始まった中東・北アフリカの民主化運動(通称・アラブの春)では4年後の今日、「ムスリム同胞団」を中心とした民主化運動はチュニジアを除いて挫折し、エジプトで軍事政権が復帰するなど民主化は大きく後退し、リビアやシリアで内戦状況が続いている。

 一方、欧州では、極右派政党が国民議会選や欧州議会選で大躍進した。その背景には、欧州社会が移住者・難民の殺到で苦慮し、解決策を見いだせないでいるからだ。極右派政党は「わが国がファースト」という外国人排斥政策を標榜し、国民の支持を得ている。

 例えば、独ドレスデン市で毎月曜日、反移住者、反イスラム教のデモが開催されている。主催者は「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( "Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes" (Pegida)だ。12月29日は2万人近い市民が市内をデモ行進したばかりだ(「独の「反イスラム運動」はネオナチ?」2014年12月17日参考)。

 ちなみに、プーチン大統領はフランス、ベルギー、オランダ、オーストリアなどの極右派政党に政府系銀行(FCRB)を通じて資金を提供し、人的交流を重ねている。プーチン大統領の狙いは欧州の極右派政党を通じて、対ロシア制裁を実施するブリュッセルに影響を駆使することだ(「プーチン大統領の“新しい”友達」2014年11月30日参考)。

 プーチン大統領の挑戦を受けた欧州は今日、対ロシア制裁で分裂している。制裁強化を通じてプーチン大統領の強硬路線を変えられると信じるメルケル独首相を筆頭とする制裁支持派と、制裁ではロシアを屈服できず、逆にプーチン大統領の軍事重視政策が暴発する危険が高まるという慎重論で分かれているのだ。
 独週刊誌シュピーゲルによると、欧州連合(EU)の盟主ドイツ内でも、制裁推進派のメルケル首相と慎重派のシュタインマイヤー外相で路線が対立している。シュタインマイヤー外相は「制裁でロシアを屈服できると信じるのは幻想だ」と表明し、欧州がロシアと再び冷戦関係となることを懸念している。

 1989年、冷戦が終焉し、民主主義陣営が共産主義陣営に勝利した。あれから25年目の今年、欧州の民主陣営はロシアに代表される民族主義やISのような反民主勢力の挑戦を受け、苦戦している。プーチン大統領のクリミア半島併合を「冷戦の再来」と評する政治学者がいるほどだ。

 「多数決原理」と」「自由選挙の実施」だけでは民主主義は機能しない。自由選挙で独裁者をも選出できる。問題は、民主主義を支えてきた価値観が喪失してしまったことだ。同性愛者問題、家庭問題から性モラルまで、現在の欧州諸国では明確な価値観を提示できず、困惑しているだけだ。彼らが提示できる唯一の処方箋は「寛容」だが、明確な世界観、人生観を内包しない「寛容」は風に乗って舞う凧のようなものだ。

 ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中でイワンが「神がいなけれは全てが許される」と呟く。イワンがいう「神が死んだ」ような状況は欧米社会では既に現実だ。「多数決原理」と「自由選挙の実施」だけの民主主義は野性的資本主義の餌食となり、人々の魂は癒しを求め、彷徨っている。前ローマ法王べネディクト16世が警告してきた「価値の相対主義」は虚無主義をもたらしてきている。

 方向性を失い、行き詰まった社会では、「こうあるべきだ」「同性愛は間違っている」と自信をもって断言するプーチン大統領が欧米社会の中で一定の支持を得るのはある意味で当然の結果だろう。

 2014年は欧州だけではなく、世界的に民主主義が挑戦を受けてきた、というべきかもしれない。新年を迎える我々は民主主義が失った価値観を再構築し、戦いに臨まなければならないのだ。

日本は韓国に謝罪要求すべきだ

 日韓中3国首脳会談開催の準備が静かに進められているという。外交筋によると、3国外相会談を年明けの早い時期に開き、その後、3国首脳会談を開催する方向で調整されているという。

 韓国メディアを読んでいると、3カ国首脳会談後の次は日韓首脳会談の開催だ、という希望的観測が囁かれだしているという。反日攻勢を続けてきた韓国側が日本との関係修正に乗り出してきたわけだ。隣国関係は緊迫しているより、友好関係にこしたことはない。

 ところで、朴槿恵大統領が就任して1年10カ月間が過ぎるが、その間、日本は韓国から慰安婦問題から竹島問題まで叩けれ続けてきた。韓国側の日本憎しは国際議題まで拡大し、慰安婦像は米国でも建立され、米主要メディアが「日本は性奴隷国」と報道するまでに広がっていった。あれもこれも韓国側の感情的な反日情報工作の結果だった。

 幸い、ここにきて風向きが変わってきた。慰安婦問題の扇動役を演じてきた朝日新聞の誤報が明らかになり、朝日新聞社長が謝罪表明して辞任したのだ。反日報道では朝日報道の記事を多用してきた韓国メディアは困った。「我々の報道も間違いでした」とは口が裂けても言えないから、朝日新聞誤報事件の衝撃が去るまで静観する姿勢だろう。

 韓国経済にも数年前の勢いはもはやない、頼りの中国経済もスローダウンしてきた。このまま日本を叩き続けていると韓国経済にもマイナスだ、ということがようやく理解されだした。そこで韓国大統領は面子を失わないように慎重に軌道修正に乗り出してきたわけだろう。

 ここまでは韓国側の“お家の事情”だが、日本側はソウルの軌道修正を基本的には歓迎すべきだろう。国際関係はいがみあっている時間などない。問題があれば、相互意見を交換して解決すべきだからだ。

 とまれ、一方的な反日攻勢を展開し、世界に告げ口外交をしてきた韓国側に「過去の悪口三昧の外交に対し、一言お詫びがあって然るべきではないか」といった正論が日本の政治家の口から飛び出しても不思議ではない。

 謝罪要求は韓国の専売特許ではない。間違いがあれば謝罪するのは国家関係も人間関係と同様だ。国家の面子云々というのならば、隣国を性奴隷国と罵声を浴びせてきた韓国側も日本国民の辛い思いを一度は考えてみるべきだろう。自分の怒り、恨みだけではなく、相手の心を考えることが関係改善の基本だからだ。

 安倍晋三首相が朴大統領と会談する時、先手を打って韓国側に謝罪を要求したらどうだろうか。そうすれば朴大統領は驚き、椅子から滑り落ちるかもしれない。
 もし朴大統領が「わが国のこれまでの行き過ぎた批判に対し、韓国政府代表として日本側に謝罪したい」と表明すれば、その瞬間、凍結してきた日韓関係は一挙に改善するだろう。そして歴史家が後日、「朴大統領の日本への謝罪は韓国民族の度量を世界に示した画期的な表明だった」と評価するのは間違いない。

 そして朴大統領の謝罪表明を聞いた安倍首相が、「わが国も過去、韓国民族に多くの痛みを与え続けたことを詫びたい」と返答するならば、日韓両国は安倍・朴時代に大きな繁栄の時を迎えるかもしれない。国の進路に責任を担う政治家は拘りや姑息な打算を捨て、国家・民族の未来のために度量を示すべきだ。

中国は「ボコ・ハラム」に似ている

 中国反体制派の海外メディア「大紀元」(12月26日)よると、西安市にある西北大学・現代学院のキャンパスで、クリスマスを祝うことを批判し、「欧米の休日に反対」や「西洋文化をボイコット」などのスローガンが掲げられた。大学側はイブの夜に学生全員を集め、孔子など中国の伝統文化を紹介する映像を鑑賞させたという。この記事を読んで驚いた。

 クリスマス禁止令は欧米のキリスト教文化の影響を阻止し、伝統文化を擁護するという理由からだろうが、その主張は、ナイジェリアで少数宗派の信者たちを迫害するイスラム過激派テロ組織「ボコ・ハラム」を想起させる。「ボコ・ハラム」とは、「西洋の教育は罪」という意味だ。クリスマスは中国文化に悪影響を及ぼすという中国共産党政権の主張となんと酷似していることだろうか。

 世界第2の経済大国に成長した中国とアフリカのイスラム過激派テロ組織を同列に置き、その主張は酷似していると指摘すれば、北京政府から大目玉を食らうかもしれないが、規模と程度の違いはあるが似ている。ただし、中国共産党政権が実施している少数宗派への弾圧は「ボコ・ハラム」のような低次元、原始的ではなく、国家主導の組織的迫害だ。法輪功信者たちから生きたままで臓器を摘出し、チベット仏教徒へは激しい同化政策を実施している。

 「西洋の教育は罪」という主張と、「クリスマスは国民に異教文化の悪影響を与える」という指摘の間に余り距離がないように感じるのだ。違いがあるとすれば、「ボコ・ハラム」はイスラム教への献身を要求する一方、中国共産党政権は共産党政権への回帰を主張せず、孔子の中国伝統的文化への教育を要求している点だろうか。

 主張の一貫性という観点からいえば、「ボコ・ハラム」の方が一貫性がある。「西洋文化は罪」だから、「イスラム教へ回帰せよ」というわけだ。一方、中国共産党政権は本来、「共産主義に戻れ」と叫ぶべきだが、大多数の国民は既に共産主義になんら未練も憧れも有していない。欧米文化の悪影響から国民を守る防波堤として共産主義はもはや役に立たないことを共産党政権自身が熟知している。そこで、「共産主義に帰れ」ではなく、共産化前の偉人を呼び起こし、「孔子に帰れ」と国民に愛国主義を訴えているわけだ。共産党政権が孔子の教えを宣教すること自体、自家撞着もいいところだ。

 幸い、「ボコ・ハラム」の主張とその蛮行はナイジェリアの大多数の国民の支持を得ていない。同じように、中国共産党主導のクリスマス禁止令は国民から反発を受けているだけだ。

 「大紀元」によると、「中国ではクリスマスが大規模な商戦となっている。小売業者らは12月下旬、年間最高の売上を記録している。ほぼすべてのオフィスビルやショッピングセンター、高級住宅でもクリスマスツリーやクリスマスの飾りで盛り上げている。全国各地の店舗で、『ジングルベル』のメロディーが流れている。中国のソーシャルメディアでも、『メリークリスマス』の挨拶は友人の間で飛び交っている」という。

「神は女性だ」は間違っていない

 バチカン法王庁によると、クリスマスの25日、サンピエトロ広場でウクライナの女性が裸の胸に「神は女性だ」と書いて叫び、公共わいせつの疑いで一時、拘束されたという。女性はフランスの女性の権利を訴えているグループ「フェメン」のメンバーだった。同グループは、カトリック教会が中絶を禁止しているとして抗議している。以上、読売新聞電子版から紹介した。

 ところで、ウクライナ女性の主張「神は女性だ」は決して間違っていない。もう少し積極的に表現すれば、正しいのだ。ただし、それは真理の半分を表現しているだけだ。「神は男性だ」と主張する男性が出てくれば、同じように「正しい」と言わざるを得ないからだ。

 旧約聖書の「創世記」には、「神は自分の似姿に人を創造した、すなわち、男と女とに創造した」と記述されている。すなわち、神は男と女の2性を有している、というのだ。だから、ウクライナ女性の「神は女性だ」は立派な答えだが、満点ではないのだ。バチカン関係者が拘束したウクライナ女性に創世記を説明すれば、女性は必ず納得できるはずだ。裸の胸に描いてまで叫ぶことではないのだ。

 問題は「女性の権利尊重」だろう。その観点からみると、「女性の権利」は常に蹂躙されてきた。ウクライナ女性の「神は女性だ」と叫びたくなる心情は分からなくはない。神は男性だけではなく、女性でもあるからだ。

 特に、神を教えるキリスト教会で長い間、女性の権利は蹂躙されてきた。女性に自動車の運転を禁止するサウジアラビアを批判する権利をバチカンは有していない。
 当方はこのコラム欄で「なぜ、教会は女性を軽視するか」2013年3月4日参考)を書いた。そこでカトリック教会の「男尊女卑」の流れは、旧約聖書創世記2章22節の「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り……」から由来していると述べた。
 聖書では「人」は通常「男」を意味し、その「男」(アダム)のあばら骨から女(エバ)を造ったということから、女は男の付属品のように理解されてきた面があるわけだ。

 女性蔑視の思想は中世時代に入ると、「神学大全」の著者のトーマス・フォン・アクィナス(1225〜1274年)に一層明確になる。アクィナスは「女の創造は自然界の失策だ」と言い切っている。現代のフェミニストが聞けば、真っ青になるような暴言だ。女性蔑視は魔女狩りをも生み出し、「女に悪魔が憑いた」ということで多くの女性が殺されていった。

 キリスト教会の女性蔑視思想の背景には、人類の原罪がルーシエルに誘惑されたエバからアダムに伝達された、という失楽園の話があるからだろう。換言すれば、エバが初めに罪を犯し、アダムがそれを継承した。失楽園の話を信じるキリスト教会は「罪は女性から発生した」と主張してきたわけだ。

 「女性の権利」回復運動で歴史的成果はやはり「聖母マリア無原罪説」が教会の教義(ドグマ)となったことだろう。第255代法王のピウス9世(在位1846〜1878年)は1854年、「マリアは胎内の時から原罪から解放されていた」と宣言したのだ。女性が原罪から解放され、神に復帰する道が開かれた瞬間だ。ウーマンリブ史上最大の成果といっても言い過ぎではないだろう。

 繰り返すが、ウクライナ女性の「神は女性だ」は暴論ではなく、神学的根拠のある主張なのだ。

狼を愛する天才ピアニストの世界

 当地では26日は「聖ステファノの日」(Stefanitag)だった。クリスマスが幕を閉じた直後の祝日で、キリスト教会の最初の殉教者聖ステファノを祝う日だ(降誕節の一日)。
 平信者にとって、クリスマス・シーンで溜まったストレスを解消し、平常な日々に戻るための準備の日のような感じもする。幸い、今年は「聖ステファノの日」後の27日、28日は土、日曜日だから、特別な休暇を取らなくても最低4日間は休日を楽しめるわけだ。

 26日は同時に「新聞休刊日」だ。ベットに寝転んで新聞を読むといった贅沢な時を過ごすことはできない。ラップトップのスイッチをいれて見るのも億劫だったので、週刊誌シュピーゲル(12月20日号)の続きをコーヒーを飲みながら読み出したら、面白いインタビュー記事に出立った。天才ピアニストといわれるフランスのエレーヌ・グリモーさん(Helene Grimaud)との4頁に及ぶインタビュー記事だ。グリモーさんが語った内容は音楽の世界には門外漢の当方にも非情に為になった。

 ピアニストは先ず、演奏する曲を完全に弾きこなすため時間を投入する。毎日、数時間を投入する。グリモーさん(45)の説明によると、技術の Automatisierung(自動化)を達成した後、感情移入(Gefuhle)が可能となる自由(Freiheit)が生まれてくるという。
 換言すれば、楽譜など見ず、別の処を見ていても肝心の指は楽譜を完全にフォローする。その境地に達して初めて自身の感情移入が可能な余地が生まれてくるという。曲に対する演奏者の独自の解釈も可能となるわけだ。

 技術の自動化―自由―感情移入という順序だろうか。この一連のプロセスをこなすために演奏者は練習を繰り返す。指が完全に自動的に動きだせるようになれば、如何なる大舞台でも緊張せず、指は自動的に動き、演奏を続けることができる、というわけだ。

 音楽を含め芸術の世界では個性が重要視されるが、必要な技術の自動化なくして自分の個性や感情を導入する自由はないというわけだろう。スポーツの世界でも体が自然に動くまで練習を繰り返す。体が自動的に反応しない限り、大舞台で良い成績を残すことはできない。演奏者が感情移入を先行し、技術がそれに伴わない場合、その演奏は成功しないのと同じだ。

 当方は漠然とだが、演奏者の個性、独自の解釈をより重要視し、退屈な基本技術のマスターは個性を殺すだけだと考えていたが、狼を養育し、ブラームスを愛するグリキーさんの答えは全く逆だった。感情を表現するためにその基本となる技術を完全にマスターしなければならないわけだ。

 著名なピアニストだが動物学を研究する学者の側面をも持つグリモーさんとの会見記事はベットに寝ころびながら読むには余りにも刺激的だった。何事でも基本のマスターが不可欠、ということを改めて教えられた次第だ。

経済発展には「平和」が不可欠だ

 経済の発展を願うならば、国民の士気のほか、科学技術、生産インフラ、投資など様々な要素が絡んでくるが、他国、隣国と紛争や戦争をしている場合、国民経済の発展は望めないものだ。

 25日はクリスマスの日だった。世界から巡礼者、旅行者が毎年、この時期になると聖地エルサレム、イエスの誕生の地ベツレヘムなどに殺到する。イスラエル、パレスチナ側にとって観光業は重要な収入源だ。イスラエル側によると、クリスマス・シーズンには約7万人の旅行者が訪問するという。しかし、今年はその旅行者、巡礼者が減少、観光業は悲鳴をあげているというニュースが飛び込んできた。

 イスラエルの観光局によれば、昨年の観光旅行者数は約354万人で記録を樹立、今年上半期も前年同期比で約18%増と順調な伸びを見せていたが、下半期に入ると急減、最終的には今年は前年比で約1%減となってしまったというのだ。

 今年下半期の旅行者減の主因は誰の目にも明らかだ。今夏に勃発したイスラエルとパレスチナ間のガザ紛争が影響した。イスラエルの3人の青年が拉致され、死体で発見された。イスラム過激派組織ハマス側は関与を否定したが、イスラエル側は「ハマスの仕業」として報復を宣言。その直後、今度は1人のパレスチナ人の青年の死体が見つかった。イスラエル側は「パレスチナ人青年殺害とは関係ない。ハマスの軍事拠点を中心に軍事攻撃をしたが、民間人を衝撃の対象としていない」と弁明した。パレスチナ側は「イスラエル側の報復」と批判。そしていつものように、パレスチナ側とイスラエル側の武装紛争がエスカレートしていったことはまだ記憶に新しい。

  50日間余りのガザ紛争は多くの死傷者を出したが、国民経済にも大きなダメージをもたらした。聖地周辺で激しい紛争が展開し、多数が死傷している時、旅行者は当然、途絶える。聖地周辺の土産店、レストランといった観光業に関わっている人々にとっては大変だ。土産店の店主が「誰も来ないので、商売にならない」と嘆いていたのが印象的だった。

 残念なことだが、紛争はイスラエルとパレスチナ間だけではない。ウクライナ紛争が勃発し、キエフの国民経済ばかりか、ロシアの国民経済、そして対ロシア制裁を実施中の欧州連合(EU)諸国の経済にも程度の差こそあれ経済的ダメージを与えている。中東地域では絶えず、戦闘が続いている。

 2015年の世界経済の見通しは楽観的ではない。紛争が続く限り、経済の本格的な回復は期待できない。経済発展のためには先ず、紛争を停止しなければならない。
 ちなみに、「韓国動乱では日本の国民経済は恩恵を受けた。平和だけが国民経済の発展条件とはならない」という主張が飛び出すかもしれないが、紛争、戦争による経済効果は一時的であり、持続的な国民経済の発展にはやはり“平和”が欠かせない。なぜならば、経済活動は本来、創造的な業であり、創造作業は自由と共に、平和がなければ発揮できないからだ。

なぜ金正恩氏は“滑稽”なのか

 北朝鮮の金正恩第1書記の暗殺計画を描いた米映画「ザ・インタビュー」の上演を、製作会社ソニーの米子会社ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(SPE)が中止すると決定したことに対し、米国内では、テロの脅しに屈し、「言論の自由」「表現の自由」を放棄するものだと強い批判の声が上がった。
 国内の予想外の激しい反発に直面したソニー側は23日、「25日から計画通り上演する」と上演中止を撤回したばかりだ。ソニーによると、米独立系映画館200カ所以上で上演される予定という。

 当方は話題の映画を観ていないので映画評論はできない。映画の話を聞いて、「上演されれば、北側が激怒するだろうな」と考えていたが、その激怒の度合いは予想以上に激しいものだった。

 ソニー側への北側のサイバー攻撃に対し、オバマ大統領は米国民の自由を脅かす行為とみなし、厳しく批判。その直後、北のインターネットの接続が途絶え、北全土が長時間オフラインとなったという。ワシントンは公式には認めていないが、北のサイバー攻撃に対する米側の報復、と受け取られている、といった具合だ。

 それにしても、金正恩氏が父親・金正日総書記から権力を継承して以来、欧米メディアは北関連記事の発信数を増やしている。彼らは北の指導者金正恩氏が滑稽な存在であることを発見したのだ。

 欧米メディアは金総書記時代、北関連記事には余り関心を払わなかった。金総書記が秘密を愛し、公の活動を極力回避してきたから、欧米メディアにとって面白くなかった。それが北に若い指導者が登場して以来、急変したのだ。なぜならば、北の指導者が滑稽だからだ。読者に笑いを提供するテーマが年々少なくなる中で、北指導者の言動は数少ない笑いを誘うテーマと受け取られたのだ。

 当方が住んでいるオーストリアの高級紙プレッセも先日、金正恩氏関連記事をとうとう1面トップで写真付で報道した。記事の内容はトップ・テーマには相応しくなかったが、正恩氏が登場すれば読者に、「彼は今度何をしたのか」といった好奇心を呼び起こす効果が期待できる。そのうえ、「こんな政治家は世界では金正恩氏しかいないだろう」と、思わず笑いがこぼれてしまうこと請け合いだったからだ。

 ソニーが金正恩氏暗殺計画をテーマとした映画を制作したのは滑稽なテーマだからだ。北朝鮮の政情を訴えるというより、金正恩氏の言動に焦点を合わせることで、コメディとなるからだ。映画がクリスマス時期に上演される予定だったことをみてもソニー側の意図は明らかだ。ソニーは映画を観る者に笑いを提供できると確信していたはずだ。

 最後に、「なぜ金正恩氏は滑稽か」を少し説明したい。北の3代世襲国家自体が欧米諸国にとって時代遅れのアナクロニズムの典型だ。21世紀に生きる現代人は先ず、「地球上にまだそのような国家が存在するのか」と驚く、同時に、笑いがこぼれてくるのだ。
 その笑いを一層効果的にしているのは、金正恩氏ら北指導者が真剣にその滑稽な役割を演じているからだ。彼らは決してコメディを演じていると考えていない。真剣だ。だから一層、滑稽なのだ。
 時間があれば、当方のコラム「金王朝の『称賛と美化』の世界」2010年10月14日)を再読して頂きたい。彼らが如何に滑稽かを理解していただけるだろう。

 スイス留学した金正恩氏が内心、「わが国は時代遅れな後進国だ」と考えながら、その国の指導者の役割を演じているならば、これほど滑稽な印象を与えなかっただろう。金正恩氏を含む全ての指導者たちが真剣だから、滑稽なのだ。

 オバマ大統領はソニーへのサイバー攻撃に対し、北への報復を示唆した。オバマ大統領は北の脅威にようやく真剣となってきたが、正恩氏の真剣さには及ばないだろう。
 金正恩氏の真剣さの中に、朝鮮半島ばかりか世界への潜在的な危険が潜んでいるのだ。繰り返すが、世界は、滑稽なことを真剣に取り組む北指導者と対峙していることを忘れてはならない。

同時代の人々への「連帯感」

 どの人もある「時代」に生まれ、そこで活動し、去っていく。同時代の人々が1人、2人と去っていくのを聞くと、一種の寂しさと共に、「自分が生きてきた時代はその幕を閉じようとしている」と痛烈に感じる。

 戦後ドイツ語圏の最大の歌手、作曲家といわれたウド・ユルゲンスさんが21日、スイスで心臓発作で急死した。80歳の誕生日を祝い、コンサートでも元気な姿を見せていたばかりだ。
 その翌日、今度は英ロック歌手ジョー・コッカーさんが米コロラド州で死去したという悲報が届いた。一時期を築いた“巨星逝く”といった感じた。
 日本では俳優の高倉健さんが亡くなったばかりだ。欧州に住む当方は日本で活躍する同時代の歌手や俳優が、いま何をしているのか、健在か、も知らないが、高倉健さんの死去は当方が生きてきた「時代」が確実に終わりに向かっていることを否応なく教えてくれた。

 ユルゲンスさん、コッカ―さん、高倉健さんらは、当方にとって人生の先輩だが、ほぼ同時代に生きた人々だ。個人的面識は全くないが、彼らの死を何もなかったように淡々と見過ごすことはできない。彼らは当方に個人としてではなく、「時代」を想起させるからだ。だから、同時代の人々の死には一種の「連帯感」を感じるのだ。“時代をがんばって走り抜いて来ましたね”といった慰労の声すらかけたくなるのだ。

 「時代」の寵愛を受けてきた人、そうではなかった人、その「時代」の舞台照明が消える時、両者は一緒に消えていく。自分の「時代」の終わりが近いと直感した時、ひょっとしたら抵抗する、涙を流す人がいるかもしれないが、如何なる時代もいつかは終幕を迎える。朝、太陽は昇り、夕方、沈んでいくように。この諦観と認識が多くの人々に救いとなり、時には慰めとなるはずだ。

 先行する一つの「時代」がその幕を閉じない限り、新しい「時代」は思う存分にその力を発揮できない。始めがあったのに、その終わりがないということは、非情なことだ。だから、当方が生きてきた「時代」も同じように去っていく。

 2014年もあと数日を残すのみとなった。来年はどのような年になるだろうか。「時代」はそのテンポを速めるかもしれない。新しい時代が古い時代に急いで荷物を片付けるように迫ってくるかもしれない。

 いずれにしても、「時代」の流れを潔く受け入れ、新しい時代がスムーズに到来し、その使命を果たせるように微力ながら貢献したいものだ。

神は本当に偉大か

 フランスで21日、「神は偉大なり」(アラー・アクバル)と叫びながら、一人の男が車で通行人を次々とはねるという事件が起きた。このニュースを読んで、「神は本当に偉大か」という今回のコラムのテーマを考えた。

 こんなタイトルのコラムを書く当方は不敬な罪びとであり、神が最も嫌う傲慢な人間だ、と思われるかもしれない。だから少し躊躇したが、やはり書き出した。「神は本当に偉大か」の問いかけに対し、当方は素直に「イエス」と首肯できないのだ。

 「神は偉大」だ。多くの科学者は神に出会っている。宇宙や万物世界を研究する科学者は、その緻密で精巧な世界に驚愕し、「このような世界が偶然に誕生したとは到底考えられない」という。

 それではなぜ、「神は偉大」という問いかけに「イエス」と答えないのか、と追及されれば、「神は偉大だが、その偉大さはこれまで発揮されずにきた」と考えざるを得ないからだ。

 考えてほしい。「神は偉大」だ。全知全能の神だ。にもかかわらず神が創造した被造世界にどうして紛争と戦争と殺人が繰り返されるだろうか。全知全能の神ならば、ハリー・ポッターのように、杖の一振りでその紛争や戦争を停止させることもできるはずだ。それができないとすれば、「神は本当に偉大か」といった疑問が湧いてきても不思議ではない。
 実際、神の偉大さを疑い、神から去っていった多くの人々がいた。スウェーデンの代表的作家アウグスト・ストリンドベルクは、「子供の時から神を探してきたが、出会ったのは 悪魔だった」と嘆いている。

 それでは、なぜ「偉大な神」がその全知全能を発揮できないのか、なぜ「偉大な神」はあたかも無能な主人のように、涙する人間を目前にオロオロとするだけで、救いの手を差し伸ばすことができないのか。「神の偉大さ」を阻んでいるのは何か、という深刻な問題が出てくる。

 その答えは、人間始祖アダムとエバを堕落させた天使ルーシェルというより、われわれ人間自身にあるように感じる。われわれが「神の偉大さ」を顕現させないようにしているのではないか。

 旧約聖書の創世記を読むと、「偉大な神」は自身の似姿として人間を創造された。私たちは本来、“第2の神”のような立場であり、「神の偉大さ」を相続した唯一の存在として創られた。釈尊が言ったように、「天上天下唯我独尊」の存在だったのだ。しかし、堕落することでエデンの園から追放され、世界の“ディアスポラ”となってしまった。

 神は堕ちた人間を魔法の杖で救うことができないのだ。なぜならば、神の似姿に創造された人間は「神の偉大さ」を相続しているからだ。すなわち、人間には“自由意思”があり、神はそれに干渉できないからだ。換言すれば、人間は神のロボットではなく、息子、娘として創造されたからだ。そこに人権尊重の本来の起源もある。

 「神は偉大」だが、自身の息子、娘をその全知全能を駆使して救済できない立場に陥っている。川で溺れている自身の子供を眺めるだけで、救えない親は哀れだ。同じように、「偉大な神」の無能な姿こそ、私たちが日頃「神」と呼んできた創造主の事情ではなかったか。

Amazon.com は“現代のサンタクロース”

 クリスマスが間近に迫ったのにこんなことを書き、お祝いの雰囲気に水を差すようで申し訳ないが、やはり重要なことと思うので、書いておく。
 サンタクロースとクリストキンド(Christkind)は同一人物ではない。トナカイが引っ張るソリに乗ったサンタのおじさんは米映画ではおなじみだ。一方、クリストキンドは幼いイエスや天使たちを含めて表現する言葉だ。そして主人公のイエスは、2000年前に誕生され、33歳の若さで十字架上で処刑された。キリスト信者はそのイエスを救い主と信じる。クリスマスは本来、そのイエスの誕生を祝うイベントだ。

 ところが、肝心のイエスの誕生日を祝うクリスマスだが、オーストリアでもクリストキンドよりもサンタクロースがポピュラーとなってきた。米資本主義の消費文化に汚染されてきた欧州社会でもサンタは年々、その影響を拡大し、クリストキンドは隅に追いやられている。

 欧州の伝統的なキリスト教会関係者は、「クリスマスはプレゼントの交換の日ではなく、イエスの降臨を祝う日です」と指摘し、米主導の消費文化のシンボル、サンタクロースに対して反発を感じている。一種の文化闘争の様相すら帯びている。

 ところで、クリスマス・プレゼント買いに疲れた現代人はここにきてオンラインで注文するケースが増えてきた。その意味で、オンラインの通販の最大手 Amazon.com は現代のサンタクロースだ。
 大人たちは、クリストキンドの訪れではなく現代のサンタクロースがプレゼントを運んでくるのを待つ。サンタのおじさんからであろうが、クリストキンドからであろうが関係なく、子供たちはクリスマスツリーの下に置かれたプレゼントをワクワクしながら待っている。
 ちなみに、クリスマスの主人公、イエスは「人は神の言で生きる」と諭し、下着を2枚持っているなら、1枚を他に与えよと諭す。 Amazon.com のジェフ・ベゾス会長が聞いたならば、「私の商売を邪魔しないでくれ」と憤慨するだろう。

 少々説教調となってしまうが、今年も指摘しておきたい。イエスは33歳の若さで十字架上で殺害されるために降臨されたのではないという事実だ。死ぬために降臨されたのなら、十字架で亡くなったイエスを見て嘆く必要もなく、大喝采すれば良かったのだ。ィエスのゲッセマネの祈りも必要なかったはずだ。

 しかし、実際はそうではなかった。イエスの十字架の死を嘆き、多くの信者たちが困惑した。イエスは生きて、メシアとして人類救済の道を開くべきだったが、それが出来なかったからだ。だから、イエスは「私はまた来る」と再臨を約束された。メシアとしての使命を完全に果たしたのなら、繰り返すが、再臨する必要はないのだ。

 クリスマスを現代のサンタクロースから解放し、イエスがなぜ誕生されたかを考える日としたいものだ。もう一度、メリー・クリスマス。
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