当方は最近、2冊の小説を読んだ。1つは村上春樹著「海辺のカフカ」、もう1つは小川洋子著「博士の愛した数式」だ。いずれも一気に読めた。「海辺のカフカ」では幼少時代の記憶を失う一方、猫と会話できる「ナカタさん」に、「博士の愛した数式」では、交通事故で記憶が80分しか保たなくなった主人公の数学者の言動に、非常に感動を覚えた。「ナカタさん」も「数学者」も社会から取り残された環境下で生きている。物語では、行方不明となった猫を探す「ナカタさん」や、一日中、数式を考え、数学の懸賞金問題の解明に耽る「老数学者」の生き方、その言動に他の登場人物が次第に惹かれていく様子が巧みに描かれている。
 当方はなぜ、「ナカタさん」や「老数学者」の言動に感動したのかを考えてみた。「ナカタさん」も「老数学者」も浮世離れした純粋さをもち、同時代の文化の影響からは程遠いところで生活を営んでいる。
 「ナカタさん」と「老数学者」の生き方を考えていたら、若い時代に読んで感動したトルストイの民話「イワンのばか」、ドストエフスキーの小説「白痴」のムイシュキン公爵、そして遠藤周作の新聞小説「おバカさん」を思い出した。それらはいずれも純粋さとお人好しの人物が織り成す物語だが、彼らに共通している点は、「ナカタさん」や「数学者」と同様、時代の文化に溶け込んでいない“はみ出し者たち”の話なのだ。彼らからは「どうしたらビジネスが成功するか」とか、「会社で出世するか」は聞けないが、心の琴線に触れる言動、生き方に出会えるのだ。
 作家たちは、同時代の文化からほど遠いところで生きている人物を登場させることで、同時代の文化に何かが欠如していると示唆したいのだろうか。喧騒な社会に生きるわれわれの心が揺り動かされるのは、皮肉なことだが、何らかの理由からその社会に溶け込めない人物の生き方に出会った時だとすれば、われわれの文化、社会が心の琴線に触れる内容を包容していない、という結論になるからだ。
 われわれは「ナカタさん」にも「老数学者」にもなれない。時代が提供する文化の中で生きていかなければならない。良く生きていくためには、必然的に社会やその時代の文化と融合していかなければならない。その代価として、「ナカタさん」や「老数学者」がもっていた「純粋さ」を失っていくのだろうか。明確な点は、その代価を「高い」とみるか、「当然」とみるかで、われわれの生き方にも変化が出てくることだろう。