「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に親しまれていたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。その修道女テレサが亡くなって今年9月5日で10年目を迎えるが、彼女の生前の書簡内容がこのほど明らかになった。
 それによると、修道女テレサは「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白し、「孤独で暗闇の中に生きている」と嘆いている。
 西側メディアは「テレザ、信仰への懐疑」などと、センセーショナルな見出しを付けて報じたばかりだ。ちなみに、彼女は生前、その書簡を燃やしてほしいと願っていたが、どのような経緯からか燃やされず、このように彼女の内面の声が明らかになったわけだ。
 マザー・テレサの告白は、キリスト教の歴史では決して珍しいものではない。むしろ、程度の差こそあれ、神を信じる多くのキリスト者の信仰生活の中で見られる葛藤だ。新約聖書の聖人パウロの告白をご存知だろう。パウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して闘いをいどみ、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ人への手紙7章22節〜24節)と告白している。“パウロの嘆き”と呼ばれる内容だ。
 パウロの場合、自身の神への信仰の弱さを嘆いたわけだが、マザー・テレサの告白の場合、神、イエスを求めても答えを得ることが出来ない、“神の沈黙”への嘆きともいえる内容だ。
 コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、テレサには「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の問い掛けがあったはずだ。それに対し、神、イエスは何も答えてくれない。このような状況下で神、イエスへのかすかな疑いが心の中で疼く。マザー・テレサは生涯、神への信頼と懐疑の間を揺れ動いていたのだろうか。
 神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。その「神の不在」を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。
 マザー・テレサの告白は、「神の不在」に関する背景説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなったこと、等を端的に示している。