ノルウェーの大量殺人者、アンネシュ・ブレイビク容疑者の事件を知り、当方は「悪魔」の存在とその業について改めて考えている。
 「悪魔」なんて馬鹿げている、と笑われるかもしれないが、当方はかなり真剣だ。77人の生命を冷笑しながら殺害した容疑者の背後にその「悪魔」の存在を強く感じるからだ。
 考えてみてほしい。「神の存在」を問うのならば、当然「悪魔の存在」をも考えるべきだろう。神は人間を犯罪に誘惑しないだろうし、少なくとも人間が罪を犯すことを願わない。しかし、「悪魔」は人間に気付かれないようにその力を行使し、人間が罪を犯すのを手助けする。だから、「悪魔」の存在は「神の存在」以上に人間にとって深刻であり、死活的なテーマだ。
 多くの聖職者、神学者は「悪魔の存在」について、「神の存在」ほど真剣に考えていないようにみえる。例えば、旧約聖書研究者ヘルベルト・ハーク教授は、「サタンの存在は証明も否定もされていない。その存在は科学的認識外にある」と述べ、エクソシズムに対しても慎重な姿勢を取っている。
 聖書には「悪魔」について約300回、言及されているが、「悪魔」という言葉を口にすることすら躊躇する聖職者がいること自体、不思議だ。イスラム教の聖典コーランでも「悪魔」をAl Shaytaan、Abblisと呼び、その存在を記述しているのだ。
 バチカン法王庁が1999年、1614年の悪魔払い(エクソシズム)の儀式を修正し、新エクソシズム儀式を公表した時、教会内で大きな動揺が起きた。ちなみに、新儀式では、^絣悗篆翰学の知識を決して除外してはならない、⇔遒殆瓩れた人間が本当に病気ではないかをチェックする、H詭を厳守する、ざ偽荵紛気竜可を得る、などを条件としている(「悪魔(サタン)の存在」2006年10月31日参照)。
 繰り返すが、多くの犯罪や出来事の背後に、「悪魔」が暗躍しているケースが少なくない。ただし、「悪魔」はその存在を巧みに隠すから、「悪魔の存在」を確信する人間は「神の存在」を信じる人よりも当然、少ない。
 極論すれば、「神の存在」を知らなくても人間に直接の被害は少ないが、「悪魔の存在」への無知は致命的な結果をもたらす危険性がある。ただし、日本語で「魔が差す」という表現があるところをみれば、われわれは薄々、「悪魔」の存在を感じているのかもしれない。
 オスロの容疑者は全ての犯行を自身の計画に基づき履行したと豪語しているが、そうだろうか。海賊ヴァイキングの後孫、容疑者の背後に、恨みを抱く多くの悪霊が悪魔の助けを借りて彼の犯行を操作していたのではないか。
 「神」は傲慢な心には働けないが、「悪魔」はそれを巧みに利用して人間を犯行に走らせる。「悪魔の存在」が分れば、多くの事件や謎が別の観点、視点から見えてくるはずだ。
 われわれは「神の存在」を否定する人々を「無神論者」と呼ぶが、「悪魔の存在」を否定する人々は、「悪魔の助っ人たち」というべきかもしれない。