イエスは、明日を思い煩うな、明日は明日自身が思い煩うからだ、という。空の鳥すら神は養っていて下さるのだ。そして「人間は空の鳥よりはるかにすぐれた者ではないか」と、私たちに問いかける(「マタイによる福音書」6章)。

 実際の私たちは明日だけではなく、次の瞬間ですら自信がなく、思い煩う。空の鳥よりはるかに進化した存在だと思ってきたが、実際は空の鳥ほど明日への確信がないのはどうしてだろうか。

 釈尊は「一切が苦だ」(苦諦)という。私たちが思い煩うのはまず衣食住だ。そして病だ。煩いを少なくするために、多くの人々は朝早くから仕事に出かけ、日々の糧を得る。健康を維持するため走り出し、屈伸運動に励む。

 時間の経過に伴い人間の煩いが少なくなる保証はない。働いていても近い将来、衣食住の保証を失うばかりか、老年を迎えたとしても、積み重ねてきた年金がいつまで支給されるかは分からなくなってきた。老年の貧困化が予測されている。それに拍車をかけるのは少子化と核家族化で、寂しい老人が増えた。

 確かに、外的な生活環境は便利になってきている。医療も急速に進展して再生医学が間もなく臨床の場を独占する時代が到来する。一方、医療費の高額化が進み、健康保険は老人の長寿を願わなくなってきた。

 昔は神が依然、その光を放っていたから、煩いは神に委ねて、煩いを忘れることはできた。21世紀に入り、既成の世界観、人生観が揺れだし、新しい煩いも生まれてきた。神の存在は久しく抹殺され、価値は相対化し、確かなものは少なくなってきたと感じてきた。

 私たちが生きている21世紀はイエス時代の空の鳥ですら想像できないほど煩いが多くなってきたのだろうか。「明日を思い煩うな、明日は明日自身が煩う」と諭したイエスは、弟子たちに虚言を発したのだろうか。

 視点を変えれば、上記の状況もそのカラーは少し変わってくる。現代人に修道者、修道女を目指せ、と勧める気はないが、物に執着する心を少なくすれば、本来、全ては整えられていることに気が付く。空気も水もあるし、愛も努力すれば見つかる。
 それ以外、何が絶対に必要だろうか。手に入れればいいものは多く、買えば快適なものも少なくない。しかし、絶対に必要か、と問われれば、そうだとは言えなくなる。ひょっとしたら、私たちが思い煩っている内容はほぼ全てがそのようなもので占められているのではないか。

 人間は関係存在だから、家庭を含む人間関係を大切にしなければならない。自身だけの喜びを求めすぎると関係がうまくいかなくなる。逆に、人間関係がうまくいけば、多くの問題は解決できる。

 イエスは2000年前、正しいことを言っていたことに気が付く。「敵を愛し、隣人を愛せよ」は関係存在としての人間のあり方を端的に指摘した内容だ。イエスは包括的な経済論を語っていないが、その教えの神髄は非常に包括的だ。難しい経済理論を振りかざさず、シンプルに語っている。彼の教えは賞味期限がなく、いつまでも新鮮なインパクトを与えるのはそれが正しいからだろう。

 思い煩っている人は空の鳥の生き様を観察するのもいいだろう。彼らは生まれ、死ぬまで懸命に生きている。彼らが有している本能は神の愛の間接的な表現とすれば、私たちにはそれ以上の愛が与えられているはずだ。それは生命保険より確かであり、年金より確実なものではないか。自信を取り戻し、思い煩いを少なくして生きていきたいものだ。