冷戦時代から民主改革直後にかけて、旧東欧共産圏の多くの政治家、指導者と会見した。ハンガリー社会主義労働者党(共産党)のミクローシュ・ネーメト首相を皮切りに、民主改革直後の現職大統領、首相、外相など100人余りの政治家と会見した。今回は、強烈な印象、コメントを残した3人の会見相手を紹介する。

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▲F1の元王者ニキ・ラウダ氏の晩年2016年(ウィキぺディアから)

 最近の話から始める。オーストリアのスポーツ界は大きな英雄を失った。F1レーサーで3度王者となり、その後は航空会社を経営する実業家となるなど、多方面にその足跡を残したニキ・ラウダ氏(70)が20日、亡くなった。1976年のドイツグランプリのレース中に事故でレースカーが燃え、命は助かったものの大やけどをし、頭と顔面を負傷した。一時は生命の危機もあったが、回復するとすぐにレースに戻り、計3度チャンピオンになった。その強烈な意思力と精神的タフさに世界は驚いた。

 F1で王者となった後、ラウダ氏の関心は空に向かった。ラウダ氏が「ラウダ航空」を経営していた時代、当方はウィーン郊外シュヴェヒャートのラウダ航空事務所で会見した。ラウダ氏は、「機械が完全であったならば、事故を犯すのは人間のミスによるものだけだ」という趣旨の話をしてくれた。同氏からメカに対する強い信頼感と熱情すら感じた。ちなみに、F1時代の同氏の操縦は“コンピューター”と呼ばれるほど、ミスの少ないものだった。

 ラウダ航空が1991年5月26日、タイ上空で墜落し乗員乗客223人全員が死亡する事故が発生した。ラウダ氏は後日、「墜落現場を視察した時に見た風景を忘れることができない」と述べている。なお、ラウダ氏の家族によれば、同氏は自身に迫ってきた死に対して「恐れをまったく感じていなかった」という。

 2人目は“ナチ・ハンター”と呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール氏(1908〜2005年)との出会いだ。ドナウ水路近くにあったヴィーゼンタール氏の事務所で会見した。彼の事務所には2人の警察官が常駐していた。当方は彼に、「戦争が終わり、多くの時間が経過したが、なぜ今なおナチス幹部を追跡するのか」を聞いた。ヴィーゼンタール氏は、「死者が許すと言っていない時、生きている人間が犯罪者に許すといえるのか。許すことができるのは死者だけだ」と答えた。その死生観に驚いた。キリスト教は愛と許しを強調する。ユダヤ人は過去を忘れない。民族のために尽くしてくれた人間に感謝する一方、民族を迫害した人間を忘れない。いい悪いは別として、過去のことを水に流すことに慣れている日本人とは全く異なったメンタリティーで、新鮮なショックを受けた。

 ヴィーゼンタール氏には“怖い存在”というイメージがあったが、同氏は会見前、「自分は世界から多くの名誉博士号をもらったが、自分よりも多くの名誉博士号をもらっている人物がいる。あのヴィクトール・フランクル博士だ」と笑いながら語り、壁にかかっている名誉博士号を一つ一つ説明してくれた。その時、ヴィーゼンタール氏はユーモアのある人懐こい人物だな、という印象を受けたものだ。

 最後は旧ソ連最後の大統領ゴルバチョフ氏のペレストロイカ〈建て直し、改革)路線の推進者だったアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコブレフ氏(1923〜2005年)だ。彼とはウィーンのホテル内で会見した。彼のスケジュールは一杯で、会見時間は制限されていた。仲介してくれたウィーンの会議主催者に「質問は5問だけです」と断り、会見を始めた。ヤコブレフ氏は簡潔に答えてくれた。当方が質問の数を忘れていた時、彼は「君、それで5番目の質問だよ」と言った。ペレストロイカの思想的指導者は当方の質問の数を数えながら答えていたのだ。

 大統領や首相と会見する時、事前に会見の持ち時間を聞く。そして会見時間が少ない時は質問の優先順位を代えたりする。会見時間が超過する恐れがあった時は、「あと2問です」と断って相手側の理解を求める。

 ロシア人は欧州に属するが、その思考パターンは違う。国連でロシア人記者の会話を聞いていると、「彼らは通常の欧州記者とは違う感覚だな」ということを頻繁に感じてきた。

 事務所でコラム書きに没頭していると、昔の会見相手との出会いが思い出されることがある。同時に、日本から来た一介のジャーナリストに過ぎない当方に貴重な時間を割いて多くのことを語ってくれた会見相手に感謝の思いが湧いてくるのだ。

 蛇足だが、大統領や首相と会見する時、会見相手へのプレゼントとしてウィーンの日本商品店で梅酒を買って持って行ったものだ。一度、スロベニアの大統領と会見した時、当方の梅酒のお返しとしてスロベニア産のワインをプレゼントされたことがある。会見相手からお返しをもらったのはあの時が初めてだった。