元カトリック神父だったマーティン・ダイニンガ―氏が先日、60歳の還暦を迎えることなく、若くして亡くなった。彼とは数回、インタビューしたことがあったので、個人的に少し知っていた。謙虚で、常に穏やかな笑顔で人と接していた。神父を辞めた後も、同氏には典型的なカトリック神父の雰囲気があった。

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▲朝の光が雲の間から降り注ぐ瞬間(2018年7月27日、ウィーンで撮影)

 オーストリアのカトリック教会ウィーン大教区の神父であったダイニンガー氏は1985年、ベルギー出身のクリスティーネさんと結婚し、子供も出来、幸せな家庭を築いていたと聞いていたが、その後は詳細なことを知らない。

 当方が当時、ダイニンガ―氏に関心があったのは、なぜ神父を辞めて結婚の道を選んだのかだ。カトリック教会では聖職者は独身を義務付けられており、結婚は考えられなかったからだ。そこで「結婚で神観に変化があったか」を先ず聞いた。

 同氏は、「神父時代、神が結婚を願われているとは考えてもいなかった。しかし、われわれが立派な男性と女性となり、調和した家庭を築くことを神が願われていることを知った。私は妻との関係を通じて、神に再び出会った。私は昔、良心を通じて神を感じてきたが、今は妻を通じて神を感じている。その感覚は良心を通じて感じるより以上に激しく、強いものだ。それは驚きであった。私はもはや1人で神の前に出て行くのではなく、妻と共に神の前に出て行く。結婚という絆で、神は私により近い存在となった」と述べた。ダイニンガ―氏の「妻を通じて神を知る」という表現はとても新鮮だった。

 カトリック教会の聖職者独身制については、「聖職者の存在形式を独身制で拘束することは間違いだ。各個人は本来その良心の声に従って生き方を決定すべきであり、神父や修道女が良心に耳を傾けて、自身を解放することを願っている。カトリック教会の伝統やシステムを超えて神に出会うべきだ。すなわち、理想的なパートナーを見つけることで神と出会うことだ」と語った。

 その上で、「結婚が素晴らしくなるのは、真の愛で双方が結ばれた場合だ。結婚は単に2人が結ばれるだけではなく、2家庭が結ばれる機会でもあり、人間的繋がりが拡大する時でもある。結婚は明確な未来に対する認識のもとで行われなければならない。神を中心とした結婚だ。現代社会では、さまざまな理由から結婚する。私は結婚することで神と妻に対して大きな責任を背負うことになる」と説明した。結婚し、家庭をもってからは、彼は会社勤めをしていた。

 ダイニンガ―氏は最後は静かに息を引き取ったという。それを聞いて、当方はホッとした。彼は結婚して子供を持ち、そして人生を生き抜いた。最後は家族に見守られ平和に「眠るように」に亡くなったというのだ(「結婚した元神父の証言」2006年12月8日参考)。

 ダイニンガ―氏はイエスの生涯について研究していた。イエスは本来、結婚して家庭を持つことを願ったが、様々な障害から、それがかなわず、十字架の道に行かざるを得なくなったという。彼は聖書や様々な外典などからイエスの生涯を再構築していた。

 ダイニンガー氏は、「イエスが祭司長ザカリアとマリアとの間に生まれた庶子だったことは当時のユダヤ社会では良く知られていた。その推測を裏付けるのは、イエスが正式には婚姻できなかったという事実だ。ユダヤ社会では、『私生児は正式には婚姻できない』という律法があったからだ。しかし、イエスが妻帯していた可能性は排除できない」と語っていた(「イエスが結婚できなかった理由」2012年10月4日参考)。

 もちろん、彼がカトリック神父を辞める時、強い反対があっただろう。彼はその時代のことを余り語りたがらなかった。彼は自身の確信を他の同僚の聖職者たちと分かちあいたと願っていたが、容易ではなかった。砂漠で叫ぶ1人の預言者のように、彼は結婚の道を選んで歩んできたわけだ。奥さんは、「彼は決して人を恨んだり、自己卑下などせず、有るがままに全てを受け入れていくようになった。神父時代の友人が彼の病院を訪ね、一緒に祈ってくれたことを喜んでいた」という。

 神を見失って以来、人は様々な道を通じて神との再会を求めてきた。絶対にこの道しかない、というのはないだろう。ダイニンガ―氏は結婚し、奥さんを通して神が身近に感じられるようになった。アダムとエバを創造した神にとって、それは本来、最もオーソドックスな道だろう。彼はその道を歩み切った。ひょっとしたら、彼はイエスが願いながら実現できなかった婚姻の道をイエスに代わって歩んでいく人生に大きな使命を感じていたのかもしれない。