最近、知人や周辺の人の訃報を聞くことが多くなった。厳密にいうと、年を取った当方が「死」に過敏になってきたからかもしれない。人は生まれ、そして死を迎える。そのサークルは今も昔も変わらない。若い時にはなかった「死」への感情移入が生じ、そう感じるのだろう。

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▲ナチ・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタール(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)

 特に、当方よりも若くして亡くなった知人や周辺の人の訃報には心が痛くなる一方、亡くなった彼らに、まだ生きている自分は漠然とだが、「責任」を感じることがある。

 知人の元神父が58歳で亡くなった。最近、ウィーンに住む40代後半の日本人男性が奥さんを追うように、自ら人生を閉じた。人生80年、90年といわれる現代、彼らの「死」はやはり早すぎる。

 人はそれぞれ独自の運命をもって生まれ、人生を歩みだし、最後はその歩みを止める。早い、遅い、といった表現は適切ではないかもしれない。なぜならば、「死」は本来、自分で決定できる領域の問題ではないからだ。

 当方は24年前ごろ、ナチ・ハンターと呼ばれたユダヤ人、サイモン・ヴィーゼンタール氏(1908〜2005年)と知り合った。彼は戦後、ユダヤ人を虐殺したナチス幹部を探しだすことに人生の後半生を投入した。戦争が終わって50年以上経過しているのに、彼は逃亡したナチス幹部を追い続けた。

 当方は「なぜ?」と単刀直入に聞いたことがあった。ヴィーゼンタール氏は、「生きている人間にはナチス犯罪者を許す権限はない。出来るのは彼らに殺された人間だけだ」と答えた。だから、彼らが「もう許す」というまで、ヴィーゼンタール氏は元ナチ幹部を追い続けた。

 ヴィーゼンタール氏は多分、アウシュヴィッツなどユダヤ人強制収容所で亡くなった同胞に対し、自分は生き延びた、といった一種の負い目があったのかもしれない。それが死者に対し「責任」となったのだろう。その「責任」から彼は死ぬまで自由になれなかった(「ユダヤ人が引きずる『良心の痛み』」2018年2月19日参考)。

 地球温暖化問題を警告して、その対策をアピールするスウェーデンの16歳の環境活動家、グレタ・トゥンベリさんは国連の国際会議で「(世界を現在、リードする)あなた方は若者の未来を奪った」「あなた方は地球を破壊した」と厳しく批判し、世界の指導者たちの「責任」を追及した。その口調が厳しかったため、それを聞いた人々も驚いた。16歳の少女から「責任」を追及されたからだ。

 グレタさんの発言に対し、トランプ米大統領やロシアのプーチン大統領は批判的なコメントを発信している。誰でも責任を追及されれば嬉しいものではないが、16歳の少女から地球の破壊の責任を追及されたのだ。平静ではいられない。プーチン氏は、「グレタさんは本来、優しい少女だろう。大人が彼女を利用するのは止めるべきだ」と述べ、グレタさんが一部の大人に操られていると受け取っている。

 グレタさんは地球温暖化対策のために休学して奮闘している。その点、ナチ・ヒトラーに殺された同胞を慰霊するために人生の後半を投入していったヴィーゼンタール氏と同じだろう。ただ、ヴィーゼンタール氏には死者への連帯に裏付けられた責任感があったが、スウェーデン出身の16歳の少女の口調から、貧困と困窮から立ち上がるために汗を流してきた世代への連帯感をほとんど感じないのだ。

 少し付け加えるが、地球温暖化は長い時間をかけて進展してきた現象だ。だから、その問題に対応するためには、過ぎ去った世代、現世代、そして未来の世代が連帯、結束しなければならない。環境保護運動が“世代闘争”に発展する事態を回避しなければならない。グレタさんの国連での演説に感じる不安はその辺にある。

 当方は「人生をやり直しできたら……」(2017年12月30日参考)というテーマでコラムを書いたことがある。やり直しが可能ならば、死者への連帯感、責任感はひょとしたら変わるだろうが、人生はやり直しができない。だから、貴重であり、同じ時代圏に歩んだ後、その舞台から去っていった同胞に言い知れない連帯感と責任を感じるわけだ。時には、もう少し生きていてほしかった、といった痛恨の思いすら出てくるのだ。