イタリアのフィレンツェ市は「屋根のない博物館」といわれる。街全体が世界遺産に登録されている。市内には歴史的文化遺産が散らばり、ウフィッィ美術館ではレオナルドダヴィンチの絵画、アカデミア美術館にはミケランジェロの「ダビデ像」が見られる。同市を訪れる観光客はタイムリープした気分を味わう。
▲「信者のいないサンピエトロ大聖堂で復活祭の記念礼拝をするフランシスコ教皇(2020年4月12日、バチカンニュースから)
ところで、バチカンの2020年の復活祭は「信者のいない復活祭」となった。2020年の復活祭はバチカンでは、サンピエトロ広場に世界からの信者を迎えて記念礼拝が行われ、ローマ教皇が世界に向かって「ウルビ・エト・オルビ」の祝福を発する慣例の復活祭ではなかった。初めての出来事だ。
その直接の原因は中国湖北省武漢市で発生し、世界で12日現在、約160万人の感染者、約10万人の死者を出す世界的流行(パンデミック)となった新型コロナウイルス(covid-19)の影響だ。新型コロナの感染を防ぐためにバチカン側は「信者のいない復活祭」を挙行することにした。
ただし、新型コロナ危機はあくまでも直接の経緯だが、世界に13億人の信者を有するローマ・カトリック教会には、「信者のいない復活祭」はいつか到来するだろうといった悪夢が付きまとってきた。それが新型コロナ危機でその悪夢の到来が早まっただけだ。
「羊」がいない牧場で働く「羊飼い」が想像できるだろうか。慌てていなくなった羊たちを探しに出かけるか、諦めて、羊飼いという職を断念するかの選択を強いられる。同じように、「信者のいない教会」の場合、教会を閉鎖するか、観光用建物として利用するかの選択を強いられる。後者は既に現実化している。日曜礼拝には限られた信者しか参加せず、日中は多くの観光客がガイドブックとカメラを持ちながら教会を訪れ、祭壇やイエスの十字架像をバックにセルフィー(自撮り)する人で溢れる。その意味で欧州の多くの教会は既に「信者のいない博物館」となっている。
バチカンの高位聖職者の中には、どうして羊たちがいなくなったかを真摯に考える敬虔な羊飼いもいる。彼らは新型コロナ危機ゆえに羊たちがいなくなったと言い訳はしたくないからだ。
話をバチカンの復活祭に戻す。サンピエトロ大聖堂で復活祭の記念礼拝が行われた。フランシスコ教皇と儀典長グイド・マリーニ神父のほか、枢機卿、司教たちの数人の姿だけが見られた。それをバチカン広報関係者がビデオを撮り、世界に配信する。
ちなみに、10日の聖金曜日(受難日)の式典では、イエスの3年間の公生涯が紹介され、赤い聖布が外されると、十字架のイエスが現れた。フランシスコ教皇はその姿を仰ぎ見、イエスの足に触れながら祈っていたのが印象的だった。
イエスは十字架で処刑され後、3日目に復活し、バラバラに散った弟子たちを見つけ出し、福音を宣べ伝えた後、40日目に昇天する。人類の罪を背負い、愛と赦しで贖い十字架で亡くなったイエスの復活を信じるキリスト教は世界に広がっていった。イエスが公的に現れ、歩んだ期間は3年間。その3年間という短い歩みが世界の歴史を大きく変えた。
フランシスコ教皇は12日の復活祭の記念礼拝で悲観主義に陥らないように注意を促す一方、「希望は単なる楽観主義ではない。イエスが死を乗り越え、復活したことに希望があるのだ」と述べていた。
▲新型コロナ危機についてTVで国民に語り掛けるドイツのシュタインマイヤー大統領(2020年4月11日、ドイツ連邦大統領府公式サイトから)
参考までに、ドイツのシュタインマイヤー大統領は11日夜(現地時間)、不安に悩まされている国民に向かって、「新型コロナとの戦争ではない。私たちの人間性が試みられているのだ」と述べ、「連帯こそ私たちが毎日の日々の生活で証していかなければならないことだ。新型コロナ危機が過ぎた後、私たちの社会は全く異なっているだろう。不安や不信が支配する社会ではなく、信頼と配慮と確信のある社会だ」と訴えていた。
新型コロナ危機は「第2次世界大戦後最大の人類の危機」といわれる。新型コロナは私たちに「死」の恐怖をちらつかせながら近づいてくる。誰も「死」を恐れる。デンマークの王子ハムレットは「誰一人、死の世界から戻ってきた者はいない」と嘆いた。
世界のキリスト者たちは33歳のイエスの復活に希望を感じ、「死」を乗り越えたイエスに自身の救いを願う。このキリスト教の「イエスの復活」の話が21世紀の私たちに生きる力と希望を与えるかは分からないが、新型コロナ危機に直面している私たちは、「死」の恐怖を乗り越えることができる希望を必要としている。皮肉なことは、「イエスの復活」を信仰の要としてきたカトリック教会が今年の復活祭を「信者のいない教会」で祝うことになったことだ。新型コロナウイルスは知的で狡猾な存在だ。人間が今最も必要としている「希望」すら奪っていこうとするcovid-19に悪魔性すら感じる。
▲「信者のいないサンピエトロ大聖堂で復活祭の記念礼拝をするフランシスコ教皇(2020年4月12日、バチカンニュースから)
ところで、バチカンの2020年の復活祭は「信者のいない復活祭」となった。2020年の復活祭はバチカンでは、サンピエトロ広場に世界からの信者を迎えて記念礼拝が行われ、ローマ教皇が世界に向かって「ウルビ・エト・オルビ」の祝福を発する慣例の復活祭ではなかった。初めての出来事だ。
その直接の原因は中国湖北省武漢市で発生し、世界で12日現在、約160万人の感染者、約10万人の死者を出す世界的流行(パンデミック)となった新型コロナウイルス(covid-19)の影響だ。新型コロナの感染を防ぐためにバチカン側は「信者のいない復活祭」を挙行することにした。
ただし、新型コロナ危機はあくまでも直接の経緯だが、世界に13億人の信者を有するローマ・カトリック教会には、「信者のいない復活祭」はいつか到来するだろうといった悪夢が付きまとってきた。それが新型コロナ危機でその悪夢の到来が早まっただけだ。
「羊」がいない牧場で働く「羊飼い」が想像できるだろうか。慌てていなくなった羊たちを探しに出かけるか、諦めて、羊飼いという職を断念するかの選択を強いられる。同じように、「信者のいない教会」の場合、教会を閉鎖するか、観光用建物として利用するかの選択を強いられる。後者は既に現実化している。日曜礼拝には限られた信者しか参加せず、日中は多くの観光客がガイドブックとカメラを持ちながら教会を訪れ、祭壇やイエスの十字架像をバックにセルフィー(自撮り)する人で溢れる。その意味で欧州の多くの教会は既に「信者のいない博物館」となっている。
バチカンの高位聖職者の中には、どうして羊たちがいなくなったかを真摯に考える敬虔な羊飼いもいる。彼らは新型コロナ危機ゆえに羊たちがいなくなったと言い訳はしたくないからだ。
話をバチカンの復活祭に戻す。サンピエトロ大聖堂で復活祭の記念礼拝が行われた。フランシスコ教皇と儀典長グイド・マリーニ神父のほか、枢機卿、司教たちの数人の姿だけが見られた。それをバチカン広報関係者がビデオを撮り、世界に配信する。
ちなみに、10日の聖金曜日(受難日)の式典では、イエスの3年間の公生涯が紹介され、赤い聖布が外されると、十字架のイエスが現れた。フランシスコ教皇はその姿を仰ぎ見、イエスの足に触れながら祈っていたのが印象的だった。
イエスは十字架で処刑され後、3日目に復活し、バラバラに散った弟子たちを見つけ出し、福音を宣べ伝えた後、40日目に昇天する。人類の罪を背負い、愛と赦しで贖い十字架で亡くなったイエスの復活を信じるキリスト教は世界に広がっていった。イエスが公的に現れ、歩んだ期間は3年間。その3年間という短い歩みが世界の歴史を大きく変えた。
フランシスコ教皇は12日の復活祭の記念礼拝で悲観主義に陥らないように注意を促す一方、「希望は単なる楽観主義ではない。イエスが死を乗り越え、復活したことに希望があるのだ」と述べていた。
▲新型コロナ危機についてTVで国民に語り掛けるドイツのシュタインマイヤー大統領(2020年4月11日、ドイツ連邦大統領府公式サイトから)
参考までに、ドイツのシュタインマイヤー大統領は11日夜(現地時間)、不安に悩まされている国民に向かって、「新型コロナとの戦争ではない。私たちの人間性が試みられているのだ」と述べ、「連帯こそ私たちが毎日の日々の生活で証していかなければならないことだ。新型コロナ危機が過ぎた後、私たちの社会は全く異なっているだろう。不安や不信が支配する社会ではなく、信頼と配慮と確信のある社会だ」と訴えていた。
新型コロナ危機は「第2次世界大戦後最大の人類の危機」といわれる。新型コロナは私たちに「死」の恐怖をちらつかせながら近づいてくる。誰も「死」を恐れる。デンマークの王子ハムレットは「誰一人、死の世界から戻ってきた者はいない」と嘆いた。
世界のキリスト者たちは33歳のイエスの復活に希望を感じ、「死」を乗り越えたイエスに自身の救いを願う。このキリスト教の「イエスの復活」の話が21世紀の私たちに生きる力と希望を与えるかは分からないが、新型コロナ危機に直面している私たちは、「死」の恐怖を乗り越えることができる希望を必要としている。皮肉なことは、「イエスの復活」を信仰の要としてきたカトリック教会が今年の復活祭を「信者のいない教会」で祝うことになったことだ。新型コロナウイルスは知的で狡猾な存在だ。人間が今最も必要としている「希望」すら奪っていこうとするcovid-19に悪魔性すら感じる。
羊は逃げ出したのではなく目覚めたのだ。
羊と羊飼いは聖書に書いてある説話だが、これはあくまで中東の砂漠地帯ならではのたとえ話であったろう。
現実には、キリストの弟子たちは、権威主義的に人々を"指導・領導する"などという行動は絶対にとらなかったはずだ。
弟子たちは、人々の隣に跪いて、何が苦しいのか、何が心配なのか、何が問題なのかを真剣に聞いて、共に考え、何がしか改善できる可能性のある道を共に探っただろう。
仏教では僧衣を糞掃衣という。寄進は信者ができるだけのもので良い。何もなくても気は心であり、赤子のおしめに使った雑巾のような布であっても、それが精一杯なら謹んで寄進を受ける。
無人の広場で金銀で彩られた盛大な衣をまとった法王が孤独に儀式を執り行うのを見て、何か根本から間違っていたのだと確信した。