ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

日常雑感

盲目の犬を助ける小犬の「話」

 いかに素晴らしい文を書いたとしても、1枚の写真に負けてしまうことがある。メディアの世界でもそうだろう。今回紹介する写真には、「今年最高の感動的な写真」という賞があれば贈りたい、と当方は勝手に考えている。

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▲盲目の犬を世話する小犬マベリック(オーストリア日刊紙クローネン)

 初めて見た瞬間、感動して何も言えなかった。撮影したカメラマンに拍手を送りたい。それだけではない。その被写体の動物の仕草は名俳優だって出来ないだろうと思うほど、素晴らしく自然体なのだ。

 あまりにも素晴らしい写真だったので新聞から切り抜いて部屋の戸に張り付けている。気分が塞ぐ時や嫌なことがあった時、その写真を見て元気を取り戻すためだ。この世界にもこんな素晴らしい存在がいる、というだけで希望が出てくるからだ。申し訳ないが、ここでは「復活したイエス」の話ではなく、「犬」の話だ。

 前口上はこれまでにして、話はその写真の主人公の犬に入る。

 オーストリア日刊紙クローネン日曜版に掲載されていた盲目の犬(11歳、ゴールデンレトリバー、チャーリー)とそれをお世話する小犬(マベリック)の日々の姿を撮ったものだ。舞台は米国のノースカロライナ州だ。

 目が見えないということはやはり苦痛だ。人生の喜びの多くは視覚からくるからだ。美しい山、川、夕日、香りを放つ花など、全ては目を通じてキャッチする。その目が見えないということは考えられないほどの十字架だろう。人間だけではない、犬も同じだ。チャーリーは緑内障で両目の視力を失った。それ以後、元気を失い、生きる力もなくなったように見えたという。当然だろう。その姿を見た飼い主がチャーリーの遊び相手としてベビーのマベリックを連れてきたのだ。

 元気を失いかけていたチャーリーはマベリックが来ると、次第に生きる力を取り戻し、一緒に散歩にも出かけるようになった。マベリックは盲目のチャーリーの紐を口にくわえ、散歩する。彼は眠ると傍で一緒に眠る。そのような姿をカメラマンが撮ったのだ。

 チャーリーが自分より小さなマベリックに連れられている姿を見るたびに,「良かったね」と言いたくなる。一方、マベリックにはただただ頭が下がる。「どうして君はそんなことができるのか」と聞いてみたくなる。

 マベリックは「為に生きる」ことを実践している。自慢もせず、奢ることもない。それこそ為に生きる極地を行く姿だ。オーストラリアの哲学者ピーター・シンガー氏は「他の為に生きる」のは自分の為になるからだ、という`効率的利他主義`を提唱している。為に生きるのは決して英雄的な行為ではなく、自分の為になるからだというわけだ。

 人は為に生きるためには教育と自己規制、そして時には宗教が必要だが、マベリックはいつそれらを学んできたのだろうか。当方は心的外傷後障害(PTSD)に悩んでいたゴールデンレットリバーの雄犬を知っている。ボスニア紛争から拾われてウィーンに運ばれた犬も知っている。人間の世界でもそうだが、犬の世界でも生まれてから現在まで幸せ一杯だったという犬は少ないだろう。何らかの痛み、悲しみ、時には恨み、つらみをもって生きている(「『心的外傷後障害』に悩む犬と猫の話」2018年12月10日参考)。

 その痛みが少しづつ緩和され、本然の姿を取り戻すプロセスを見るほど美しい瞬間はない。ひょっとしたら、マベリックはそのプロセスを肌で感じるから「為に生きる」ための力を得ているのだろうか。

  生きるためにはパワーが必要だ。そのエネルギーは自己発電ではなく、他との関係から得る、という宇宙の原則から考えると、マベリックはきっとチャーリーから「為に生きる力」を得ているはずだ。人間の世界では、それを「愛」と呼び、動物の世界では「本能」と呼んでいるわけだ。

「心的外傷後障害」に悩む犬と猫の話

 幼い時に経験した強烈なショックや心の痛みはその人の生涯を付きまとい、癒されることがない。イラクやアフガニスタン帰りの米軍兵士は帰国後、心的外傷後障害(PTSD)に悩まされる。残念ながら戦場帰りの元米軍兵士による襲撃事件が頻繁に発生している。戦場での強烈な場面や出来事は容易には癒されず、時には暴発する。

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▲ウィ―ンの「動物ハイム」いたボスニアの犬 2008年8月16日、ウィーンで撮影

 ところで、PTSDに悩まされるのは帰国した米軍兵士や幼少時代に聖職者によって性的虐待を受けた人たちだけではない。人間の友である犬も猫も同じようにPTSDに悩まされているのを目撃する。当方が直接見てきた犬と猫のPTSDの状況を少し報告する。

 ゴールデンレットリバーの堂々とした雄犬をお世話したことがある。犬の持ち主が緊急時のため犬を世話できないので当方宅で暫く世話をすることになった。大きな犬で散歩していても通行人が振り返るほど立派な犬だった。犬は基本的には散歩を好む。都会生活で狭い空間にいる犬などは特にそうだ。「彼」も例外ではないかった。そこまでは通常の犬だ。しかし、散歩中に彼が普通の犬ではないことが分かった。子供を恐れるのだ。特に、スケートボードなどの音が近づくと恐れてその場に座り込み、絶対に動かない。歩道を渡っていた時だ。「彼」は突然、歩道の真ん中で座り込み、一歩も動かなくなった。当方は焦った。車が来るし、周囲の人々も何が起きたのかを聞いてくる。仕方がなかったので当方は重い「彼」を担いで歩道を渡り切った。

 「彼」はショック状況だった。「彼」を激励して急いで帰路に向かった。犬は通常、散歩から家に戻る時に抵抗するものだ。帰りたくないからだ。もっと外で遊びたいわけだ。しかし、「彼」はそうではなかった。一刻も早く家に戻りたかったのだ。

 「彼」は子犬時代から一人で家で留守番をすることが多かった。飼い主が時間がないこともあって、「彼」は一日中、一人で家の中にいた。夜遅く帰ってきても、飼い主は疲れて散歩もできない。それでも「彼」は主人が帰ってくると、しっぽが切れるのではないかと心配するほど尾を振った。

 幼少時代の孤独な日々、一度体験したスケートボードなどに興じる子供との体験があって、「彼」は普通の犬でなくなった。幸い、「彼」は2度目の持ち主に愛され、ウィーンからドイツに引っ越していった。そこで数年後、亡くなったと聞く。

 犬だけではない。猫の「彼女」もそうだった。猫の場合、多産のケースが多いので、知り合いからもらうケースがほとんどだが、「彼女」の場合、飼い主はネットで見つけてお金を払って買ってきた。飼い主が頭をなでようとすると「彼女」は爪を出して威嚇する。猫の場合、飼い主に抱っこされることに抵抗がないものだが、「彼女」はそうではなかった。常に警戒し、知らない人が家に来ると、ベットの下に潜り込む。特に、子供が好きではない、というより怖がる。

 飼い主にはなついたが、訪問客に愛想のよくない子猫に飼い主は少々辟易している。「彼女」の場合、多分最初の飼い主に叩かれ、蹴られたりしたのだろう。人に無防備で身を委ねることがない。常に何かに怯え、警戒心を解かないのだ。

 犬の「彼」も猫の「彼女」もイラクやアフガニスタンで戦場を体験し、強烈な体験をしてきたわけではないが、生まれた直後の最初の飼い主との出会い、扱われ方が「彼ら」の生涯、癒されることない痛みとなっているわけだ。

 PTSDの犬猫は決して少なくない。飼い主から愛された犬や猫はその天来の美しさ、愛らしを発揮し、飼い主に美と喜びを返すが、そのような人生を送ることができず、生涯、その痛みを背負って生きている犬や猫がいる。

 ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が愛してきた介助犬サリーはブッシュ氏が先月30日に亡くなり、棺にその遺体が納められた後も別離を惜しんでその場から離れず座り込んでいる写真が世界に配信された。サリーは飼い主のために全力を投入した幸せな日々を振り返っているのだろうか。犬が飼い主に最後まで忠実な姿勢を崩さないシーンは感動を呼ぶ。一方、PTSDに苦しむ犬や猫はそのような感動を体験できず、自身に刻印された過去の痛みを背負っている。不公平だといえば、不公平だが、そんな不満を決して漏らすことなく、「彼ら」は生きている。

「散歩」とピープルウォーカーたち

 散歩も学問だと初めて知った。独週刊誌シュピーゲル(6月9日号)が「散歩」について興味深い記事を書いていた。人間だけが目的がなくても、歩みだす、すなわち、散歩する存在だというのだ。「今からちょっと外に散歩する」と言い残して出かける愛犬や猫は多分、いないだろう。

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▲夜の闇に浮かぶ教会の塔(2018年7月27日、ウィーンで撮影)

 散歩学は独語で Promenadologie(英 Strollology)と呼ばれ、スイスの社会学者 Lucius Burckhardt が1980年代に考え出し、独カッセル大学で学問として広がっていった。散歩学は、人が環境をどのように認識し、人と環境の間の相互作用などを分析する学問という。それだけではない。散歩は「何か大きなことを考える手段」となるという。日常茶飯事の出来事や災いに思考を集中せず、宇宙とは、何のために生きるのかなど、喧騒な日々、忘れてしまった「大きなテーマ」について、歩きながら考えるのが散歩学の醍醐味という。

 確かに、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832年)もデンマークの哲学者セーレン・キュルゲゴール(1813〜55年)も、あの“楽聖”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827年)も毎朝、目が覚めると、朝食前に30分ほど散歩したという。ウィーンの森には「ベートーヴェンの散歩道」と呼ばれる場所があるほどだ。そして「大きなテーマ」について考え、特にはインスピレーションを得たわけだ。ベートーヴェンは散歩時には常に鉛筆と紙を持参していたという。われわれはキュルゲゴールでもベートーヴェンでもないが、それでも「大きなテーマ」について懸命に思考を集中するのもいいだろう。

 欧米社会では愛犬と散歩する時間がない人に代わって犬と散歩する人がいる。もちろん、手数料を払う。ところで、シュピーゲル誌によると、散歩したくても1人ではしたくない人のために一緒に散歩する人々が出てきた。新しいビジネスだ。一緒に散歩する人は People Walker と呼ばれるプロの散歩人だ。話しながら、何か大きなテーマについて語り合う。現代は全てがビジネスとなる時代だ。

 当方も散歩に出かけた。大きなテーマについて考えるためだ。今考えているテーマは、どうして「暗闇」が生まれたかだ。電気を消せば、部屋は暗くなるし、太陽が隠れれば暗くなる、なんて言わないでほしい。聖書の「創世記」によれば、「神は『光あれ』と言われた。すると光があったという。そして神は光とやみとを分けられた」というのだ。

 そこら辺の神の創造プロセスについて、米TV番組「スーパーナチュラル」(Supernatural)のシーズン11は興味深いストーリーを展開させている。神は光を創造するために妹の「暗闇」(ダークネス)を押し込めてしまった。神は大天使ルシファーと連携して妹「暗闇」を閉じ込めることに成功するが、終わりの時には閉じ込められていた暗闇が出てくる。その暗闇(アマラ)は兄に負けないほどパワフルな存在だ。「神」と「悪」の2元論の世界ではなく、“神のファミリー物語”として描かれている点が非常にユニークだ。

 宇宙には暗黒物質が存在する。寿命が切れた星はブラックホールに吸収され、消滅していく。暗黒は決して空想の存在ではなく、宇宙のかなりの部分が暗黒物質で満ちているというのだ。

 散歩しながらここまで考えてから自宅の仕事場に戻ってきた。次の散歩では「光と闇はどのようにして共存できるか」について考えていこうと思っている。

「不安」はどこからやってくるか

 人間はいつ頃から「不安」を感じるようになったのだろうか。出生と共にDNAに刻み込まれていた「不安」が飛び出してきたのだろうか。それとも成長し、社会経験を積み重ねていくプロセスで「不安」が生まれてきたのだろうか。

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▲エドヴァルド・ムンクの「叫び」

 人はスーパーマンを考え出し、それに憧れるのはスーパーマン自身が「不安」から遠い存在だからではないか。困った人を救う一方、自身は無敵だ。たとえ撃たれたとしても死なないし、明日の生活のために眉間に皺を寄せることもない。
 私たちが密かにスーパーマンに憧れるのは、彼の超能力ではなく、彼が「不安」から解放された存在だからではないか。

 もちろん、「不安」にはさまざまなカテゴリーがあるだろう。生活の糧、健康問題、将来の行方など、いろいろな状況は考えられる。仏教の釈尊が指摘した四苦(「生」「老」「病」「死」)は人間の原始的な「不安」の本源かもしれない。

 マイクロソフト創設者・世界的富豪のビル・ゲイツ氏には「不安」はないだろうか。明日の糧は大丈夫だ。自身の健康状況は常に世界最高の医者によって管理してもらっている。何か生じたら即対応できる体制が敷かれている。それではゲイツ氏はスーパーマンのように「不安」がない存在だろうか。想像するだけだが、彼にもやはり「不安」があるはずだ。

 世界最強国の米大統領、トランプ氏に「不安」はないだろうか。明らかに「ある」だろう。70歳を超えた人間が感じる体力の衰えから政治の世界での権力抗争まで、「不安」はひょっとしたら通常の平均的人間より多いかもしれない。トランプ氏の一貫性のない言動や物議を醸すツイター発信は自身の「不安」を隠蔽するための一種のガス抜きかもしれない。

 社会のトップ層から最下層まで人は等しく「不安」を感じながら生きていると考えて間違いないだろう。「不安」を共有しているという点で人間は平等だ。文豪フョードル・ドストエフスキーは「不安は人間への天罰だ」と述べた。

 宗教の世界はこの世の「不安」から解脱を願い、至上の存在に帰依することを求めるが、この世の宗教人も残念ながら「不安」から解放されていない。
 オウム真理教に入った青年は「信仰生活が長くなり、グループ内の問題が見えてきてもそこから脱退することは至難だった」と証言している。「不安」が脱退を阻止し、問題をカムフラージュし、正当化することで生きてきたというのだ。宗教指導者は信者に「不安」を煽ることで組織への忠誠を求める。いずれにしても、赤子の寝姿は平和で安寧のシンボルのように受け取られるが、赤子に「不安」がないと誰が確信もっていえるだろうか。

 経済人、政治家、宗教者、その社会的階層、職務とは関係なく、「不安」は社会に席巻し、人々の言動をコントロールしている。ドイツ語で「不安は最悪のアドバイサー」(Angst ist ein schlechter Ratgeber)という表現があるが、私たちの日々の生活、その活動は「不安」によって誘導され、操作されている面が少なくない。社会はさまざまな「不安」で充満しているから、それがある日、暴発したとしても不思議ではない。

 どのような社会保険、災害保険、生命保険に加入したとしても、「不安」は消えない。「人間の宿命」として「不安」を迎え入れ、諦観するしか選択肢がないのかもしれない。
 もちろん、「不安」という感情は決してマイナスだけではない。一種の自己保存として人間の原始的反応と受け取ることができる。「不安」のない存在は無意味な冒険で命を失う危険性が高い。「不安」があるから、人は知性的に反応し、安全を求め出すわけだ。ワイルド資本主義社会では「不安」も大きなビジネスとなる。

 世界の動きを見ていくと、その原動力が「不安」に基づいているケースが多いのを感じる。難民・移民問題から政治紛争まで、「不安」への対応だ。論理的思考の結果ではなく、愛や利他、連帯から誘発されたものでもない。言動の最大動機は「不安」なのだ。人間は生来、そのような存在か、それとも何かを失ってしまった結果だろうか。

 人は「不安」を動機した言動に自然と反発を感じることがあるが、人を無条件に感動させるのはやはり「愛」や「利他心」に基づいた言動だろう。

人生をやり直しできたら……

 最近、2本の映画を観た。一本は「僕だけがいない街」(原作三部けい)というタイトルの日本のサスペンス・シリーズ、もう1本は2017年公開「アメイジング・ジャーニー、神の小屋より」という映画だ。舞台も登場人物、そのセッティングも違うが、共通点は主人公が過去の失敗、挫折した問題を“その時”に戻り、やり直し、修正し、最後は過去の問題を克服していくという点だ。

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▲アラスカのオーロラ(米空軍関係者が撮影)ウィキぺディアから

 前者は、売れない漫画家・藤沼悟がリバイバルという特殊能力(タイムリープ)で過去に戻り、自分とその周囲で発生した連続殺人事件の犯人を見つけ出すストーリーだ。過去に生じた殺人を回避し、犯人に殺された母親や友だちを救っていく。後者は、主人公マック(サム・ワーシントン主演)はキャンプに3人の子供たちと出かけた時、愛する末娘を悪者に誘拐され、殺されるという悲劇に遭遇し、自己責任を感じてきた。その若き父親マックにある日、神からの招待が届き、山小屋に行き3人の男女(神)と出会う。神とのやり取りを通じて次第に自責に悩む心を癒し、末娘の死後、バラバラとなった家族関係を取り戻していく。原作は世界的にベストセラーとなったウィリアム・ポール・ヤングの小説「神の小屋」だ。

 ここまで書いていくと、米映画「オーロラの彼方へ」(原題 Frequency、2000年)を思い出す読者がいるだろう。人生をやり直し、失った家族や人間関係を回復していくストーリーのパイオニア的作品だ。
 あの米俳優ジェームズ・カヴィーゼルが警察官役で登場している。オーロラが出た日、警察官になった息子が無線機を通じて殉職した消防士の父親と話す場面は感動的だ。ストーリーは父親の殉職と殺害された母親の殺人事件を回避し、最後は父親、母親と再会する。
 同映画は人生の失敗、間違いに対してやり直しができたら、どれだけ幸せか、という人間の密かな 願望を描いた名作だ。

 サクセスフルな人生を歩み、多くの富と名声を得た人でも、「あの時、こうしておけば良かった」「どうしてあのようなことをしたのか」と時に呟くことがあるだろう。生まれて死ぬまで100%計画通りに歩んできた人間などいない。程度の差こそあれ、さまざまな後悔や無念の思いを抱きながら生き続けている(「敗北者の『その後』の生き方」2016年11月20日参考)。

 話は飛ぶ。21世紀の宇宙物理学者たちは、宇宙がビックバン後、急膨張し、今も拡大し続けているというインフレーション理論を提唱している。宇宙誕生当時に放出されたさまざまなマイクロ波が現在、地球に届いているという。
 ところで、宇宙が直線的に膨張、拡大しているのであれば、いつか終わりを迎えると考えざるを得ない。直線運動には始まりがあると共に、終わりを想定せざるを得ないからだ。その点、円形運動は永続性がある。

 漫画家・藤沼悟、マック、そして警察官ジョンは人生をやり直し、失敗や過ちを修正し、本来願ってきた状況に戻っていったように、人間の一生、大きく言えば、人類の歴史は、同じ状況を繰り返しながら、過ちを修正し、本源の世界にたどり着こうとしているプロセスではないか。

 その内容をキリスト教的にいえば、人類始祖のアダム家庭で生じた全ての問題(アダムとエバの原罪問題やカインのアベル殺人など)を清算し、やり直し、アダム家庭が失敗しなかった状況まで元帰りする道ともいえるのではないか。大著「歴史の研究」で知られている英国の歴史学者アーノルド・J・トインビーは、「歴史は何か同じ内容を繰り返しているように見える」と喝破しているほどだ。

 人類の歴史が「アダム家庭」への回帰プロセスと考えれば、現代人が久しく失ったと感じてきた「理想」が蘇り、われわれに希望があることに気が付く。たとえ、タイムリープの特殊能力がなく、過去と無線機で通話できるオーロラが現れず、「神の小屋」への招待状が届かなかったとしても、一日一日、本源の地を目指し感謝しながら歩んでいきたいものだ。

日曜日に働くことは不健康?

 ポーランド議会は先月24日、小売店の日曜日営業を2020年までに段階的に禁止する法案を可決した。同国では民主化後、日曜日の営業も認められてきたが、同国で中道右派「法と正義」政権が発足した後、「日曜日は祝日である」として営業閉店に関する法案が議会に提出され、今回可決されたわけだ。ただし、パン店やガソリンスタンドといった小規模店舗は除外され、オンラインショップも同法から外されている。ちなみに、隣国ドイツやオーストリアでは閉店法(Ladenschlussgesetz)が施行されており、基本的には日曜日の営業は禁止されている。

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▲ウィ―ン市のヴィルヘルミーネンベルクのクリスマス市場風景(2017年11月24日撮影)

 日本のように24時間、1週間7日、小売店の店舗が開いているのが普通の文化圏からみたら、閉店法は理解できないかもしれない。欧州はキリスト教文化圏であり、神が天地創造後、7日目に休まれたという言い伝えに基づき、日曜日は労働を休む日という習慣が定着してきた。その休日に働くとは何事かというわけで、開店法ならず、閉店法と呼ばれる法が施行されてきたわけだ。

 ところで、キリスト教社会の欧州でも世俗化の波はもはや止められない。「神はいない」運動ばかりか、「日曜日廃止運動」まで広がっている。キリスト教会側はそれらの世俗化に必死に抵抗し、カトリック教国では「日曜日を守れ」という運動まで生まれているわけだ。
 例えば、「日曜日に働けば、病気になる危険率が高まる」という警告をカトリック系の「フリーな日曜日のための同盟」がメディアに流し、「定期的に休息することが健康維持には欠かせられない。健康のために日曜日は休むべきだ」といった啓蒙活動を進めているほどだ。

 当方の住むオーストリアでは日曜日にもスーパーや百貨店を開くべきだという声が小売店側だけではなく、消費者の間でも久しく聞かれるが、カトリック教会が必死に応戦し、これまで日曜日閉店は維持されてきた。ただし、世俗化の流れに抗せず後退した教会祝日がある。今月8日のカトリック教会の祝日「無原罪の聖マリア」の日だ。学校も会社も閉まる(「聖母マリアの無原罪の御宿り」は1854年、正式に信仰箇条として宣言された)。

 しかし、同日、多くの小売店は店を開ける。なぜならば、クリスマスを控えて買物客が殺到する時期と重なるから、店を閉めるなんてことはできない。昔は12月8日の教会祝日に店を開くと商工会議所や労組から罰金を科せられたが、今日はそんな心配はいらない。 
 オーストリアの大手小売店では独系ReweグループのMerkurは8日、開店するが、同じグループのBillaは休む。オーストリア系の大手小売店Sparは営業する、といった具合で、大手小売店の間で足並みは揃っていないが、「無原罪の聖マリアの日」の教会祝日は確実に死文化してきた。肝心の教会側ももはや「8日は教会祝日だから全ての店は閉鎖せよ」と叫ぶことはなくなっている。

ウィ―ンで初雪が降った

 11月30日、ウィ―ン市内に雪が降った。今年の冬は厳しいと聞いていた。週末にかけ早朝はマイナス10度という気象予測が流れていたから、雪が降るだろうと密かに期待していた。それに応えるように、初雪は降ってきた。それにしても、冬になると雪が必ず降ってくれる。その四季それぞれの変わらない気象に、驚きと共に、感動を覚える。

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▲ウィーン市内の初雪風景(2017年11月30日、ウィーン市16区で撮影)

 毎年、初雪が降れば一本のコラムを書くことにしている。記録という意味もあるが、雪の美しさを忘れないように、という思いからだ。実際、雪が降る日は哲学的になる。目の前の視界が雪で塞がれると、人の思考は否応なく内に向かう。

 180万人の人口に膨れ上がったウィ―ン市内に初雪が降ったので、市庁舎前広場のクリスマス市場はクリスマスシーズン雰囲気を益々高めているだろう。クリスマス市場で欠かせない飲物プンシュ(ワインやラム酒に砂糖やシナモンを混ぜて暖かくした飲み物)を飲む市民も増える。

 ご存じだろうか。あの天才モーツアルトはプンシュが大好きだった。そしてドイツ人詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759〜1805年)はプンシュを称える詩を書いているほどだ。シラーはひょっとしたらモーツアルトよりプンシュが好きだったのかもしれない。当方は、というとアルコール類を良く消化できない。通常のワインの一口だけでも酔いが回ってしまう。だから、子供用のプンシュは飲めるが、大人用のプンシュはダメだ。最近は、様々な果物のエキス入りやリキュール入りのモダンなプンシュが増えきた。

 当方は今、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の「火星15」を発射させた北朝鮮の金正恩労働党委員長の胸の内を探り、メルケル首相とシュルツ社民党党首の大連立交渉の行方や31歳のセバスチャン・クルツ国民党党首と極右政党「自由党」との新連立政権の発足が近いオーストリアの政界の行方を考えている。また、バチカンでのフランシスコ法王と保守派聖職者のいがみ合いを考えている。

 それらの思考が雪が降る日、何かパーッと消えていくように感じる。頭の中に雪が降り、このまま降り続けると、頭の中は雪で一杯となる。そうなれば、ICBMもドイツやオーストリアの政界もバチカン法王庁の未来も当方の思考の世界から消えていくかもしれない。怖いが、そうあってほしいという思いが出てくる。

 雪は人を哲学的にするが、諦観の思いも深まってくる。11月に誕生日を迎えた当方はやはり1歳年をとってしまったのだ。

時間は誰の味方か

 60代に入ると時間の過ぎ行くのが驚くほど速い、ということをよく聞く。あのアインシュタインが明らかにしたように、重力は空間と光を曲げ、時間を遅らせる。また、「あなたの24時間」と「私の24時間」ではまったく異なっている。早く過ぎ去った1日か、時間が止まったように感じる日か、その時間の濃淡は人それぞれ違い、異なった印象を残していく。

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▲当方の仕事部屋から見えるウィ―ンの朝明け風景(2017年8月、撮影)

 ところで、時間は果たして誰の味方だろうか。嫌なことがあった場合、慌てずに時間が過ぎていくのを待てばいい、と聞いたことがある。それは偽りではなく、多くは事実だろう。当方自身、体の痛みが時間の経過と共にいつの間にか治癒されていった、ということを何度も体験している。時間は痛みを治癒する力を有している。逆にいえば、ある一定の時間が過ぎない限り、癒されないということにもなる。喧嘩別れした2人が再び理解し合うためにはやはり時間が必要だろう。人は落ち着いて考え、再考し、悔い改めたりできる時間を必要とする。

 一方、時間の経過が問題を一層、先鋭化することがある。北朝鮮の核開発問題はその典型的な例だろう。国際社会が看過し、米国が「戦略的忍耐」(オバマ前米大統領)をしていた時、北は核開発を急速に進め、核の小型化にも成功したといわれる。時間は北の核開発問題では平壌の味方をしているわけだ。

 国際社会は制裁を実施し続ければ時間の経過と共に、北は脆弱になり、最終的には崩壊するだろうと漠然と考えてきたが、事実は逆になっている。北は核搭載可能な大陸間弾道ミサイルを開発してきた。北の核問題は政権の交代か、何らかのラジカルなチェンジがない限り、もはや解決できない段階にまで来ている。

 逆に、時間は紛争勢力間に和解を促進するケースもある。最近では、コロンビアの内戦だろう。多くの犠牲と戦い疲れということもあるが、時間は紛争勢力に和解のチャンスを提供している。

 時間はまた、隠されてきた問題を表面化させる。「覆い隠されているもので、現れてこないものはなく、隠されているもので、知られてこないものはない」と新約聖書「ルカによる福音書」12章に記述されているが、不正や腐敗が時間の経過と共に表面化し、暴露されていくケースは日常生活でも見られることだ。
 人は最後まで隠し事を秘めることができない。秘密を墓場まで持っていける人は稀で、隠し事があればそれを告白し、許しを求めようとするものだ。

 時間の効用は別として、時間が物事や人間の精神生活に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。時間は絶対ではなく、相対的だ。何億光年先の宇宙の時間と地球上の時間とは違う。時間の経過も非常に主観的だ。腕時計で標準時間を決めることで、人々は時間の経過に伴う混乱を避けてきたのかもしれない。
 
 ビックバーンで宇宙に質量が生まれ、その空間は急速に膨張していった。宇宙のインフレーション理論だ。私が今見ているものは宇宙創造当初の現象かもしれない。宇宙創造時の質量が私の体の中を突き抜けていったかもしれない。

 時間は1日24時間、1年365日、全ての人に等しく与えられていると考えられてきたが、実際は、1日30時間、1年を500日の周期で生きている人間がいる一方、短い周期で人生を過ごしている人もいるだろう。

 昔、「時間よ、止まれ!」と叫んだ不思議な少年が活躍したが、時間はやはり動いている。それを良しとして生きていく以外に他の選択肢はない。時間のもつ優しい癒しに自身の痛みを委ね、堂々と生き抜いていきたいものだ。

坂本冬美さんの「梅干」が届いた

 日本の代表的女性演歌歌手の坂本冬美さんから、彼女の出身地紀州産の梅干しがウィーンのわが家に届いた。誤解を避けるために少し説明すると、坂本さんから紀州産梅干しをプレゼントされた知人からいただいたのだ。紀州産梅干しの包装紙には「冬美の梅干し」と書いてある。ふるさと自慢、紀州南高梅だ。

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▲ウィ―ンのわが家に届いた「冬美の梅干し」(2017年7月12日、撮影)

 どのような経緯であの坂本冬美さんの梅干しをもらったのかを説明する。梅干しをプレゼントした坂本さんが聞いたら、「どうしてあなたにあげた私の梅干しがウィ―ンまで行ったのかしら?」と首を傾げられるかもしれないし、ひょっとしたら、気分を悪くされるかもしれない。

 梅干しと坂本冬美さんのつながりを聞けば、坂本さんは紀州和歌山出身で歌手になる前、梅干し製造会社で「梅干しの塩加減管理担当」として働いていたとのこと。それが歌のコンクールで優勝して大好きな歌手の道へ、そして演歌歌手坂本冬美さんとなった。今回、舞台公演の初日に、坂本さんは舞台関係者やお芝居の脚本家たちに自分の出身地の紀州梅干しをプレゼントされた。その中に知人の演出家もいたのだ。

 欧州に住んで居ると梅干しが食べたくなるが、美味しい梅干しを見つけるのが容易ではない。ウィ―ン市内にも日本食品店に行けば売られているが、紀州産梅干しではない。塩が強すぎたり、実が硬すぎることが多い。紀州の梅干しを一度でも食べたことがある人なら、その違いは分かるはずだ。果物を食べているようにボリュームがあり、塩加減は抜群だ。温かいご飯の上に一つおいて、食べれば最高だ。年を重ねるほど日本の味は恋しいのだ。

 知人は以前、紀州産梅干しをウィーンに送ってくれたことがあった。それを食べて以来、紀州産梅干しのファンとなった。梅干しが大好きな当方夫婦のことを知る彼は、今回あの坂本さんからの特別紀州梅干しを送ってくれたのだ。その味は一層格別だ。梅干しの数は限られている。大切に味わいながら食べなければならない。

 紀州梅干しに喜々とする当方の話を坂本冬美さんが聞かれれば、びっくりされるかもしれない。個人的には坂本さんを知らないが、彼女の演歌はYouTubeでよく聞く。演歌歌手の坂本さんがプレゼントした梅干しがウィーンに住む当方の口に届いたのだ。希有な出会いだ。ありがとう。坂本冬美さん、そしてウィ―ンまで送ってくれた知人よ、出来れば、来年も宜しく。

ウィ―ンの“タンポポ”は美味しいか

 友人の記者が菜の花について心温まるコラムを書いていた。花の話をテーマにコラムを書ける記者に出会う度に当方は羨ましくなる。犬の話ならば何度も書いてきたが、花の話となると、筆が進まない。厳密にいえば、花の名前すら十分に知らないのだから、当然かもしれない。当方はこれまで4000本余りのコラムを書いてきたが、花のコラムといえば、ウィーン市内のフォルクス庭園のバラ園の話ぐらいだろう(「『星の王子さま』とウィーンのバラ園」2016年3月20日参考)。

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▲ベランダの敷石の間に咲いたタンポポ(2017年3月13日撮影)

 友人記者に刺激されたわけではないが、今回,ウィ―ンのタンポポについてコラムを書いてみた。家人がベランダにタンポポを見つけたのだ。種を撒いてもいないし、招待した覚えもない。いつの間にか咲いていた。この“招かざる花”タンポポは当方に挨拶もなく、ベランダの敷石の隙間に入って定住している。家人曰く「もうすぐ花が咲くわ」という。

 当方は仕事部屋に戻り、早速、タンポポをサーチした。友人の菜の花のコラムを読んだばかりだったので、「タンポポのことを調べて、小さなタンポポの話を書いてみたい」という衝動が湧いてきたのだ。

 タンポポはキク科で、多年生、ユーラシア大陸に主に分布しているという。「タンポポは生命力が強く、アスファルトの裂け目からでも生まれてくる」という個所を読んで、「なるほど、その通りだ。わが家のタンポポはベランダの敷石の間に定着している。生命力はすごい」と納得した。

 わが家では第1外国語はドイツ語だが、ドイツ語でタンポポを何と呼ぶのか息子に聞くと、「ライオンの歯」(Loewen Zahn)と呼ぶという。フランス語でも同じだ。いずれにしても、ドイツ語とフランス語では闖入者のタンポポの呼称が動物の王様、ライオンの歯というのだ。ベランダのタンポポを思い出しながら、「すごい名前だな」と思わず呟いてしまった。歯のような葉が横に広がり、花がライオンの冠のようだからだという。決して名前負けしていない。昔の人は上手く名前をつけたものだ。

 家人はタンポポを見ながら、「よく来たわね」と話しかけている。当方はタンポポを見ながら敷石の狭い間にもかかわらず文句の一つも言わず、咲いているタンポポに小さな感動を覚えた。

 わが家のベランダは幸い、朝の光が入り、雨が降れば、ベランダを濡らす。野生の植物にとっては絶好の場所かもしれない。家人は毎年4月ごろ、花屋さんからベラゴニアを買って窓際に飾る。友人からもらったシソを小さな箱に入れる。料理用という。シソは香りがいい。

 ところで、タンポポも負けていない。その葉や根は薬草に利用されるという。サーチによると、根には利尿、健胃、催乳などの効果がある。根を乾燥して炒ってコーヒーもできる。タンポポ・コーヒーだ。一度飲んでみたい。

 当方には2匹のモルモットがいるが、彼らはタンポポの葉や根が大好物だ。家人は外でタンポポを見つけると、採ってきて彼らにやる。モルモットはタンポポが健康にいいことを分かっている。彼らは当方より植物を良く知っているのだ。

 いずれにしても、当方のタンポポの話は、花を観賞し俳句でも、といった粋なコラムではなく、どうしても実用的なストーリーになってしまう。当方の限界だ。
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