ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

オーストリア

急務のダークネット(闇サイト)対策 

 オーストリアのヴォルフガング・ソボトカ内相は20日、「2016年麻薬犯罪報告書」(全64頁)を発表した。麻薬関連認知件数は前年比で10%増加した。同内相は特定の麻薬犯罪の拠点を監視強化し、寛容さを許さない厳格な取締りを継続していく意向を明らかにした。

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▲過去10年間の麻薬関連法違反件数の動向(オーストリア内務省の「2016年麻薬犯罪報告書」から)

 同国では過去10年間で麻薬関連法違反件数は2万4166件から3万6235件と増加。昨年は前年比で3328件増加した。ヘロイン68.9キロ、コカイン86.5キロ、カナビス1083キロ、エクスタシー2万9485錠、アンフェタミン類87.7キロ、メタムフェタミン類4.8キロがそれぞれ押収された。ちなみに、押収された麻薬の闇市場価格は約2600万ユーロと推定されている。

 同国では麻薬関連改正法が昨年6月1日から施行済みだ。公共の場での麻薬取引を刑罰に処するなどの麻薬関連法を強化してきたこともあって、告訴件数は増加した。警察官は公共場所の麻薬取引拠点(Hotspots)で即対応できるようになった。

 ここで急務となってきたのは麻薬取引にインターネットを利用し、ダークネット(Darknet)を通じて不法麻薬の取引、売買する件数が増加してきたことだ。連邦犯罪局は2015年3月、違法薬物などを売買するダークネット(闇サイト)対策作業部(タスクフォース)を設置して対策に乗り出してきた。タスクフォース設立以来、オーストリアで697人が不法麻薬売買で告訴され、133キロの麻薬、7万8000錠のエクスタシーが押収されている。
 ちなみに、インターネットの裏世界と呼ばれる深層Web(Deepweb)やダークネットの世界では仮想通貨ビットコインが決算手段に利用され、不法な麻薬取引などが行われている。

 オーストリア人容疑者は2007年以来、78.2%から61.8%と減少し続けている。逆に、外国人容疑者数は21.8%から38.2%と急増した。国籍別にみると、昨年はナイジェリア人が1344人から1896人、アルジェリア人759人から1282人、アフガニスタン人689人から1103人、モロッコ人530人から850人とそれぞれ増加している。


 オーストリアで最も多く消費され、取引され、製造される不法麻薬はカナビスだ。マリファナは国内で製造される一方、ハシシはほとんど輸入されている。コカインは南米から旅行鞄などに入れてオーストリアのウィーン国際空港に密輸されるケースが多い。最近の傾向としては次々と新規向精神薬が製造され、インターネットを通じて不法売買されていることだ。ヘロインはバルカン経由でアフガニスタンから欧州に密輸されている。

 オーストリアは地理的な事情もあって不法麻薬がバルカンルートを通じて欧州に入る窓口となっている。中東・北アフリカからの難民・移民の増加も麻薬関連の犯罪が増加する原因となってきた。

あのガーファンクルが戻ってきた

 アート・ガーファンクルのコンサートに行ってきた。18日夜のウィ―ンのコンサートハウスでのチケットが2枚手に入ったのだ。会場に19時半ごろ到着した時、まだ空席が目立っていたが、20時になると会場は約1200人のファンで満員となった。

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▲ガーファンクルのコンサートのチケット

 サイモン&ガーファンクルは1960年代、70年代に青春時代を生きた人間にとっては忘れることができない米のフォークロックポップ界の2人組で優しさと哀愁を含んだメロデイーと歌詞は当時の若者たちの心を捉えた。

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▲コンサート最後の場面(2017年7月18日、ウィ―ンのコンサートハウスにて撮)

 ハンガリー系ユダヤ人のポール・サイモンとルーマニア系ユダヤ人のアート・ガーファンクルの歌は世界を感動させ、「明日に架ける橋」や「サウンド・オブ・サイレンス」など名曲が次々と発表された。

 ガーファンクルが「スカボロ・フェア」を歌った時だ。途中、歌えなくなったのか、黙ってしまった。ガーファンクルは「この歌はちょうど50年前の歌なんだ。想い出が一杯詰まっていてね。少々感情的になり過ぎちゃったのかな」と説明していた。

 黄金の声と呼ばれてきたガーファンクルの歌唱力は変わらなかった。75歳の声ではなかった。高い声が会場を包む。ユダヤ教のシナゴークの合唱隊で歌って以来、サイモンと共に路上歌手として欧州を転々とした経歴を有する。ガーファンクルの自叙伝が今秋に発表されるというから、ぜひとも読んでみたい。

 ガーファンクルは超満員の会場でサイモンと共に歌った時代のことを思い出すかのように、コンサートハウスの会場のファンたちを見まわしていた。会場は当方のような年配の男性や女性のファンで一杯だ。好きな曲が飛び出すと、「ワ―」といった歓声と拍手が自然に飛び出す。

 会場での写真撮影やビデオ撮りは禁止されていたので、ガーファンクルの懐かしい姿を読者に紹介できないのは残念だ。黒いシャツに黒いズボン、イスに腰掛け、時には立ち上がって19曲をギター伴奏とピアノ(+キーボード)演奏を背景に歌った。2回ほど声がかすれる部分もあったが、本人が言うように、神が与えた美しい声は健在だった。

 時代は確実に変わった。ガーファンクルもファンも去っていった若き時代を懐かしむように、コンサートを共有した。しみじみとした雰囲気が伝わってくるコンサートは 大歓声のアンコールに応えたあと、 「さよならウィーンの友、さよならウィーン!」といって舞台から去るガーファンクルを会場のファンが立ち上がって歓声と拍手で見送り、夜10時前に幕を閉じた。


 なお、ガーファンクルは今年11月6日の札幌を皮切りに、同月17日まで計7回のコンサートを予定している。日本のファンもガーファンクルに再会できるチャンスがある。 

さようなら“ミスター・ヨーロッパ”

 “ミスター・ヨーロッパ”と呼ばれたアロイス・モック(Alois Mock)元外相が1日、死去した。82歳だった。1987年から1995年の間、アルプスの小国オーストリアの外相を務めた。パーキンソン病の治療のため政界から引退後は公の場に姿を見せることがほとんどなかった。

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▲アロイス・モック元外相

 オーストリア国営放送は同日夜、プログラムを急きょ変更し、モック氏の追悼番組を流した。

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▲オーストリアとハンガリー間の“鉄のカーテン”を切断するホルン・ハンガリー外相(当時、左)とモック・オーストリア外相(当時、右)=1989年6月27日、両国国境で撮影

 モック氏の政治家としての活動では3点、大きな節目があった。

 。隠坑牽暁、クルト・ワルトハイム元国連事務総長を国民党の大統領候補者に擁立した。ワルトハイム氏の戦争犯罪問題も絡んで激しい批判を受けながらも、同氏を大統領(任期1986年7月〜92年7月)に当選させた。

 ■隠坑牽糠6月、モック氏はハンガリーのホルン外相(当時)と共に両国間の“鉄のカーテン”を切断し、旧東独国民の西側亡命を促進させ、ベルリンの壁の崩壊を加速させた。冷戦終焉の功労者の一人だ(ハンガリーの『動乱60周年』と国境」2016年10月20日参考)。

 オーストリアの欧州連合(EU)加盟交渉の最前線で活躍し、1995年1月に加盟を実現。国民からミスター・ヨーロッパという呼称を受けた。

 モック氏は10年間、国民党党首を務め、87年からは外相を務めた。モック氏は外国人記者の当方にとっても忘れることができない政治家だ。外相時代に数回、単独会見に応じてくれた。
 外相時代のモック氏はフラニツキ―首相(当時)を凌ぐほど国民的人気があり、国の顔として東奔西走の日々を送っていた。特に、オーストリアのEU加盟交渉ではモック氏はウィーンとブリュッセル間を頻繁に往復する生活だった。同国のEU加盟が決まった日、モック氏は子供のように喜んでいた。

 社会党(現社会民主党)が政権を主導し続けてきたオーストリアでは、EU加盟には否定的な声が久しく支配的だった。それを克服して同国をEUに加盟させ、今日の経済的発展の基盤を築いたのは、社会党の政権パートナー、国民党党首のアロイス・モック外相(当時)だった。モック外相の存在なくして、果たして同国のEU加盟は実現していたであろうか。中立主義を掲げるスイスと同様、オーストリアはEUの域外に留まっていたかもしれない。

 オーストリア日刊紙プレッセは「モック氏はわが国のEU加盟実現の代償として自分の健康を失った」と述べていた。激務もあって、パーキンソン病は進行したことが明らかになった。


 与党国民党の名誉党首時代、当方は議会内の国民党幹部室でモック氏と会見した時、同氏は返答にかなり時間がかかった。そのうえ、その返答内容は聞き取りにくかった。揺れる体を必死にコントロールしながら絞り出すように語るモック氏の姿は痛々しかった。


 モック氏が外相を辞任する時、ウィーンの外務省内でお別れ記者会見が開かれた。モック外相が最後の記者会見で、「私に付き合ってくれてありがとう」と別れの挨拶をすると、参加した記者たちから大きな拍手が沸き起こった。記者たちが記者会見で政治家に拍手するなど過去になかったことだ。それだけ、記者たちも、夢を持ち、その実現の為に全力疾走した一人の政治家の姿に感動を覚えたからだろう。

 エディト夫人とは1963年に結婚して53年間、二人三脚で歩んできた。子供はいない。夫人が作る甘いケーキが大好物という。夫人はオーストリア日刊紙クリアとのインタビューの中で「私たち2人は常に一つのチームだった」と述べていた。

 バン・デア・ベレン大統領はモック氏の死去を悼み、「彼はわが国のEU加盟の父であり、偉大なヨーロッパ人だった」とその功績を称える一方、病に倒れたモック氏に常に随伴してきたエディト夫人を称賛することも忘れなかった。

 欧州では、英国がEU離脱を決定し、難民問題で加盟国間の結束が緩む一方、ポピュリズムが席巻してきた。EUは21世紀に入り、大きな試練に直面している。そしてオーストリア国民はミスター・ヨーロッパを失った。モック氏の冥福を祈る。

偽装難民の中国人売春婦が増加

 音楽の都ウィ―ンで中国人売春婦が増加してきた。難民を装って欧州入りした後、難民資格の審査期間、売春をして金を稼ぐ。その背後には、中国人女性を甘い言葉で欧州に呼び寄せる人身斡旋業者が暗躍している。オーストリア日刊紙クリアが29日付で大きく報道した。

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▲ウィーンで難民装った中国人売春婦増加を報じる「クリア紙」電子版

 オーストリア内務省によると、3年前までは“セクシーアジアガール”、“アジア・マッサージ・スタジオ”などの看板を掲げて客を呼ぶ中国系売春宿(Bordelle)は2件に過ぎず、そこで働く中国人売春婦は約30人だったが、その数は今日、75件に急増、中国人売春婦の数も約500人に膨れ上がっている。彼女らは30ユーロから50ユーロで売春に応じるので、地元の同業他社の経営を圧迫しているという。ウィーン市の売春市場は中国人女性で占拠されてきたというわけだ。

 中国人女性はオーストリア入りすると、斡旋業者から直ぐに難民申請を強要される。申請後は3カ月間、オーストリア政府から難民手当が支給されるからだ。その支給金は業者に中国から欧州までの旅費として押収される。そして難民資格審査期間、仕事に従事できるから、中国系マッサージスタジオなどで売春婦として働く。

 難民審査は通常、1年から2年かかるため、その間、売春婦として働き続ける。難民資格が却下された場合でもオーストリア側から補助支援を受けることができるケースが少なくない。ちなみに、中国人難民申請の場合、難民資格の認知率は4人に1人だ。

 クリア紙は、「難民申請の法的手続きを利用した手口だ。オーストリア国民の税金が中国人売春婦への手当金として利用されていることになる」と指摘する。その事実が大きく報道されたならば、国民の反発が予想されることもあって、警察側も中国人売春問題については担当官に「報道関係者の質問に答えるな」と、かん口令を敷いているといわれるほどだ。

 オーストリア警察は昨年、中国系売春宿を一斉捜査し、約150人の中国女性を保護したが、彼らは口を閉じるケースがほとんどだ。中国人女性にとって、人身斡旋業者に管理されているとはいえ、手に入る金は本国中国の時より数段多いから、口を割ることはないという。

 クリア紙によると、オーストリア側の要請を受け、6人の捜査官が中国からウィ―ンに派遣された。彼らは2週間、オーストリア側の捜査に協力し、人身斡旋業者の犠牲者11人を解放したという。中国側の説明によれば、「中国では人身売買は最低でも5年の刑罰で、終身刑に処されるケースもある」という。

“鮮度”を失ったポピュリストの「苦悩」

 時間の過ぎ去るのは早い。政治家のキャリアも例外ではない。最近、ビクッとする呟きを聞いた。「彼には新鮮味がなくなってきたね。彼から老いを感じる」というのだ。「誰」のことかというと、オーストリアの極右政党「自由党」のハインツ・クリスティアン・シュトラーヒェ党首だ。彼はまだ47歳だ。野党第1党の党首として選挙戦の度にこれまで台風の目となってきた政治家だ。そのシュトラーヒェ党首に「年を取った」という印象は決して偏見や皮肉からではないだろう。それなりの理由は考えられるからだ。

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▲極右政党「自由党」のシュトラーヒェ党首(2017年5月1日、メーデーの党集会で 「自由党」公式HPから)

 5月に入り、オーストリアの政界では大きな変化があった。与党第2党、中道右派「国民党」の党首に30歳のクルツ外相が就任し、野党第2党「緑の党」の党首を9年間務めたエヴァ・グラヴィシュ二ク党首が個人的理由から党首を辞職し、新しい党首と選挙筆頭候補者の2人組党体制が発表されたばかりだ。

 与党第1党の「社会民主党」党首のケルン首相はファイマン首相の後継者として実業界から政界入りして今年5月17日でやっと1年目を迎えたばかりだ。要するに、オーストリアの主要政党では指導者の交代、世代の交代が急速に行われてきたのだ。
 その中で「自由党」のシュトラーヒェ党首だけが変わらない。変わらない、ということは一見安定しているともいえるが、有権者にとって新鮮味が欠ける、というイメージとなって跳ね返ってくるわけだ。

 シュトラーヒェ党首はフランスの「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首、オランダの「自由党」のヘールト・ウィルダース党首らと共に、欧州の代表的極右政党の指導者だ。
 新聞に掲載された同党首の顔写真をみると、数年前のような鋭さや勢いはなくなった。悪く言えば、初老を迎えた人間のような感じすらする。外観的には、メガネをかける機会が増えた。結婚したこともあってか、顔もふっくらとして前より太った感じだ。あれこれ考えると、極右政党を引っ張る同党首はやはり年をとったのだ。

 シュトラーヒェ党首はヨルク・ハイダーの流れを組む「自由党」に入党して以来、着実に力をつけてきた。一時期、党内で路線対立があったが、2005年4月から12年間、党をまとめてきた。選挙の度に得票率を増やし、オーストリアでは「国民党」を抜いて第2党の勢いを有する政党に発展してきた。10月15日の総選挙では第1党、政権獲得の夢も決して非現実的ではない。

 ちなみに、「自由党」内で後継者問題がまったくなかったわけではない。大統領候補者として決選投票まで進出したノルベルト・ホーファー氏はシュトラーヒェ党首の後継者と受け取られているが、ホーファー氏自身「自分の夢はシュトラーヒェ党首を首相にすることだ」と言明し、後継者の話を完全に否定している。

 ところで、シュトラーヒェ党首から新鮮味が感じられなくなったのは決して外観的なイメージだけではない。外国人排斥、オーストリア・ファーストを標榜し、厳格な難民受け入れ政策を主張して支持を伸ばしてきた「自由党」だが、その主張自身に新鮮さがなくなってきたからだ。その主因は「国民党」党首に就任したばかりのクルツ外相だ。

 シュトラーヒェ党首曰く、「クルツ外相の難民政策はわが党の政策の完全なコピーだ。彼はコピーの天才だ」と嘆く。客観的にいえば、クルツ外相の難民政策は「自由党」よりも厳格だ。だから、「自由党」が難民の受け入れを批判してとしても、クルツ外相を超えた内容にはならない。難民受け入れに不安を感じこれまで「自由党」を支持してきた国民はクルツ外相の「国民党」に票を投じる可能性が高まってきたのだ。シュトラーヒェ党首は心穏やかでいられない。

 中道右派政党の右派化傾向はオーストリアだけではない。オランダでも見られる、同国の総選挙(下院)では、マルク・ ルッテ首相が率いる「自由民主国民党」(VVD)が躍進したが、ルッテ首相は選挙戦でヘールト・ウィルダース党首の極右政党「自由党」の反移民政策を凌ぐ過激な政策を主張し、オランダ社会に統合できない移民は「出ていけ」という主張し、話題を呼んだ(「極右政党が“大躍進”できない理由」2017年5月9日参考)。

 「自由党」はここにきて党独自の経済政策を掲げ、国民にアピールしていこうと腐心している。具体的な政策はまだ公表されていないが、欧州連合(EU)のブリュッセル主導の政策を批判してきた「自由党」としては、代案としてEUとの関係見直し、グロバリゼーションでの国民経済の在り方などについて有権者にアピールできる経済政策を考えているわけだ。

 人は古いものより新しいものに関心をもつ。だから、時間の経過と共に鮮度を失った政治家は国民の支持を失い、姿を消していく。欧州の代表的ポピュリスト、シュトラーヒェ党首は30歳のクルツ国民党党首の登場に焦りを感じる一方、国民は同党首に老いを感じだしてきたのだ。

若き外相の新しい挑戦が始まった

 オーストリアの政界が今月に入って激しく動いている。今月10日、ケルン連立政権のジュニア政党、国民党党首のラインホルト・ミッテルレーナー副首相が突然辞任表明。14日には国民的人気の高いクルツ外相(国民党)が新党首に選出された。そして16日、社会民主党と国民党の2大政党から構成されたケルン連立政権は任期を1年以上残し、今年10月15日に早期総選挙を実施することで合意した。いよいよ選挙戦が始まると考えていた矢先、今月18日、今度は野党の「緑の党」のエヴァ・グラヴィシュ二ク党首が個人的理由から党首を辞職し、その翌日、新しい党首と選挙筆頭候補者の2人組党体制が発表されたばかりだ。今月に入って2政党の党首が辞任し、新しい党首が選ばれたわけだ。

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▲国民党の新党首、クルツ外相(セバスティアン・クルツ氏の公式サイトから)

 オーストリアの政治家に何が起きたのだろうか。ひょっとしたらバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥ったのだろうか。政界の変動の台風の目はやはり国民党の新党首に選ばれたセバスティアン・クルツ外相だろう。同外相が国民党の党首に就任する時、連立政権は解消し、早期選挙が行われると予想されていたからだ(「政治家が突然、やる気を失う時」2017年5月12日参考)。

 社民党党首のクリスティアン・ケルン首相(51)は当初、「政府は山積する課題の解決を最優先すべきだ」と主張し、来年9月まで任期を全うすべきだという姿勢を取ってきたが、クルツ外相が国民党党首に選出されたことを受け、早期総選挙をもはや回避できないと判断、国民党の意向に同意した経緯がある。

 クルツ外相は14日の党幹部会で7項目の条件を提示した。党首に人事権を与え、選挙の党候補者の選出権も党首に委ねるという内容だ。その上で「自分の要求が通らなければ、国民党を離脱し、新しい政治運動を始める」と言明し、党幹部会に最後通牒を突き付けた。国民党は過去、州の国民党幹部が強い権限を有し、連邦の党人事にも大きな影響を行使してきたため、連邦レベルの党改革を実施することが難しかった。

 クルツ外相の脳裏には、左派、右派の既成政党に捉われない新しい政治運動を宣言し、フランス大統領選挙で勝利したフランスのエマニュエル・マクロン大統領(39)の政治運動「前進」(アン・マルシェ)があったことは間違いないだろう。

 独「キリスト教民主同盟」(CDU)の姉妹政党、国民党は選挙の度に投票率を失い、野党の極右政党「自由党」に抜かれて第3党に後退することが多かった。党の抜本的刷新を実行しなければ国民党は小政党に成り下がってしまうと懸念されてきた。それを救う唯一の道は、クルツ外相を党首に担ぎ出し、選挙戦に打って出ることだという点で国民党内は一致したわけだ。

 クルツ外相は3年前、27歳で外相に就任して注目された。当時は「経験のない若者に外相が務まるか」といった冷めた目で見られてきたが、30歳となった今日、ドイツや他の欧州諸国でも高い評価を受けている。はっきりと自分の考えを表明する一方、相手の言動に耳を傾ける政治家としてオーストリアでは圧倒的な人気がある(「27歳の若者が外相に就任する国」2013年12月16日参考)。総選挙が今月、実施されれば、クルツ党首が率いる国民党が第1党に躍り出るという世論調査が既に報じられている。

 同外相は難民問題では極右政党の「自由党」もタジタジとなるほど厳格な政策を表明し、国境線の閉鎖・監視の強化を訴える一方、欧州連合(EU)の結束強化、刷新をアピールしてきた。対トルコ政策でも、エルドアン大統領の強権政策をいち早く批判し、トルコのEU加盟交渉でも「トルコの加盟は目下、あり得ない」と強い姿勢を示してきた。

 国民的人気を背景にクルツ外相は伝統的な中道右派政党(国民党)に就任した。クルツ外相はその若さと行動力で国民党を飛躍させるか、それとも“クルツ人気”は一時的で、政界の刷新までに至らずに終わるか。30歳の外相の新しい挑戦が始まった。

政治家が突然、やる気を失う時

 オーストリア連立政権のラインホルト・ミッテルレーナー副首相が10日、突然辞職表明した。同副首相は社会民主党との連立政権のジュニア政党、中道右派政党「国民党」の党首だ。同党首は同日、14日に党幹部会を開き、そこで全ての役職から正式に降りると述べ、「地位にしがみ付く気持ちはなく、(地位に固守する)喜びも意義も感じない」と語った。

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▲辞任を表明したミッテルレ―ナ―副首相(国民党の公式サイトから)

 同党首の辞職表明は決してサプライズではなかったが、やはり大きな衝撃を国民党や連立政権内に投じた。同党首は、ー厂嬰泙箸力⇔政権で改革案が阻止され、実行できないことへの不満、国民党内の不協和音、9餘鎚送の9日夜のニュース番組が同副首相個人への中傷ニュースを流したことに、「本来中立であるべき国営放送の一方的な中傷報道に激しい怒りが出た」と吐露し、辞職への決意を固めたと明らかにしている。

 そういえば、ミッテルレ―ナ―党首の前任者、シュピンデルエッガー副首相兼財務相も2014年8月、突然、記者会見を開き、「辞職」を表明したことを思いだす。オーストリアでは指導者が突然、白旗を掲げて職務を放棄するケースが少なくない。政治家のバーンアウト現象(燃え尽き症候群)といえるかもしれないが、社民党と国民党という政治信条も異なる2大政党の連立政権が機能できないことを改めて実証しているわけだ。国民党は過去10年間で4人の党首が辞職に追い込まれている。同党では党首交代は一種の伝統といわれるほどだ。

 社民党の政治、経済政策と、独「キリスト教民主同盟」(CDU)の姉妹政党、国民党のそれとの間にはやはり大きな違いがある。一方は労働者の政党を自認し、他方は経済界のロビー政党と受け取られているから、当然かもしれない。

 社民党ファイマン首相の後任にオーストリア連邦鉄道トップマネージャーのケルン現首相が就任して今月17日で丸1年目を迎える。連立政権内でもそろそろ選挙の時を迎えたという声が聞かれる。ケルン首相はここにきてピザ屋の出前役を演じ、国民の家を突然訪問するパフォーマンスを見せたばかりだ。また、ウィーン市内のナッシュマルクト(青空市場)にホイプル市長と一緒に視察するなど、既に選挙モードに入っている。

 一方、国民党では、連立政権の任期2018年秋まで政権を維持すべきだという声と、国民的人気の高いクルツ外相を党首に担ぎ出し、早期総選挙に入るべきだという声で分かれている。ソボトカ内相(国民党)はケルン首相の政策をあからさまに批判するなど、社民党と国民党2大政党の連立政権は対立が表面化している。

 国民党のクルツ外相はまだ30歳と若い上、同外相自身はケルン首相の下で副首相として連立政権を維持する気持ちはまったくないといわれる。すなわち、クルツ外相が国民党の新党首に就任した場合、即解散、総選挙となる可能性が高い。クルツ外相の代わりにシェ―リンガー財務相を暫定党首にし、時期が来ればクルツ外相が登場するといった暫定案も聞かれる。

 同国の複数世論調査ではクルツ外相の人気は高く、国民党が躍進する唯一の道はクルツ外相を新党首に担ぎ出して選挙戦に打って出るシナリオだ。一方、社民党はクルツ外相のもとでの国民党との戦いとなれば、苦戦を強いられる。また、選挙のために躍進してきた野党第1党の極右政党「自由党」にしても、クルツ外相の登場は願わしくない。同外相は自由党以上の厳格な難民政策を表明して、自由党に流れた国民の票を奪っているからだ。

 それにして、ミッテルレ―ナ―副首相の辞職を受け、オーストリアでも2大政党からなる現連立政権の寿命は文字通り切れた。早期総選挙は避けられないだろう。あとはクルツ外相の国民党党首の就任表明を待つのみとなった。

「ヒトラーはわが国の英雄にあらず」

 オーストリアのトーマス・ドロツダ文化相(ThomasDrozda)が先日、「ウィーンの英雄広場を共和国広場とか何か新しい名称に改名すべきではないか」と提案したことを受け、オーストリアで政党やメディアの間で「英雄広場」の改名論争が展開されてきた。

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▲ウィーン市の英雄広場(ウィキぺディアから)

 音楽の都ウィーン市の中心部に「英雄広場」(Heldenplatz)がある。ウィーン入りしたアドルフ・ヒトラーが1938年、有名な凱旋演説をした場所だ。20万人のウィーン市民がヒトラーの凱旋を大歓迎し、その演説に傾聴した歴史的な場所として有名だ。

 なぜ、社会民主党の同文化相が突然、「英雄広場」の改名を提案したのか、その詳細な背景は不明だが、はっきりとしている点は「英雄広場」とアドルフ・ヒトラーがリンクされ、「英雄広場」を聞くたびにオーストリアの歴史の負の側面が浮かび上がることに、文化相としては堪らないのだろう。オーストリアにはハプスブルク王朝時代、中欧を支配した輝かしい歴史があるという自負もあるのだろう。

 「英雄広場」の改名案を支持する知識人は「ヒトラーは明らかにわが国の英雄ではない。英雄広場からヒトラーの亡霊を断つべきだ」と主張する。

 「英雄広場」には2つの騎馬像が立っている。ひとつはナポレオン戦争の英雄カール・フォン・エスターライヒ大公(1771年〜1847年)で1859年に建立された。一方、新宮殿前の国立図書館寄りにある記念像はオスマン・トルコとの戦いで勝利を獲得した英雄オイゲン・フォン・ザヴォイエン公(1663年〜1736年)だ。2人は文字通り、オーストリア国民にとっても英雄だが、ヒトラーはそうではないというわけだ。換言すれば、ヒトラーの悪夢とリンクされる英雄広場を解放しようという試みで、改名はその手段というわけだ。

 一方、改名に反対する歴史家たちは「歴史には明暗がある。喜ばしい時代もそうではない時代も歴史だ。その歴史的名称を現代人の目から判断して歴史を曲げることは良くない」という主張だ。ちなみに、ウィーン市の名称問題はオーストリア連邦政府の管轄問題ではなく、あくまでもウィーン市の問題である。

 ウィーン市の文化評議会は2012年4月、市内1区、議会から大学までのストリートをDr.-Karl-Lueger-Ring(ドクター・カール・ルエガー・リンク)からUniversitaetsring(大学リンク)に改名したことがある。ルエガー(1844年〜1910年)は1897年から1910年までウィーン市長を務めた政治家だが、反ユダヤ主義者としても有名だった。彼は当時、「ウィーン市から全てのユダヤ人が出て行けば幸せだ」と発言した。反ユダヤ主義者の名前を付けた通りの名は誤解を生むということで改名となった経緯がある(「反ユダヤ主義者を街から追放せよ」2012年4月22日参考)。


 最近では、オーストリアのオーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(BraunauamInn)にアドルフ・ヒトラーの生家問題がある。政府が家主から強制収用できる法案が採決されたばかりだ。ヒトラーの生家がネオ・ナチ関係者のメッカとなることを恐れたからだ。戦後70年以上が過ぎたが、オーストリアではヒトラーに関連するものには依然、異常なほど神経を使っているわけだ。

 ウィーンがオスマン・トルコ軍に包囲された時(1683年)、ポーランドや欧州のキリスト教国がウィーン市を救済するために結集し、北上するオスマントルコ軍を押し返した。この史実は「ウィーン市の解放」という見出しで歴史書に記述されている。ソ連赤軍が1945年、ウィーン市からナチス・ドイツ軍を追放した日も同じように「解放の日」と受け取られる傾向がある。厳密にいえば、前者は文字通り「解放」だが、後者は「敗戦」を意味している「『解放』と『敗戦』ではどこが違うか」2015年4月15日参考)。

 過去、フランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月〜96年3月)がイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて正式に認めたことから、同国は「解放史観」から文字通り解放され、事実に直面するようになった。そこまで到達するのに半世紀余りの歳月を要した。中欧の盟主を誇ってきたオーストリアにとっては決して容易なプロセスではなかったはずだ。

 オーストリアの歴史の中にも多数の英雄がいた。同時に、民族の名誉を傷つけた人物も出てきた。オーストリアの歴史だけではない。どの民族も程度の差こそあれ同様だろう。ヒトラーのウィーン凱旋前の1878年に既にあった「英雄広場」の改名は不必要だ。

子供部屋のテロリストたち(続)

 オーストリアのソボトカ内相は23日、「17歳の容疑者はイスラム過激派テロ組織『イスラム国』(IS)を支持し、関係を持っていた」と指摘し、容疑者(Lorenz K)がサラフィストの背景を有していたことを明らかにした(注・前回のコラムでは容疑者の年齢を18歳としましたが、17歳に訂正)。

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▲オーストリア内務省の記者会見風景(2017年1月23日、内務省の公式サイトから)

 一方、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州のノイスで21日、ウィーンのテロ計画事件と関連して21歳の容疑者が拘束された。独週刊誌フォーカスによると、独の特殊部隊(SEK)がノイスの容疑者宅を奇襲し、逮捕した。ウィーンの容疑者Kはノイスで爆弾を製造していたというが、SEKが突入した部屋からは爆弾関連物質は見つからなかったという。17歳の容疑者Kは地下鉄、ウィーン西駅か多くの市民が集まる場所で手製爆弾を使った大量テロを計画していたという。

 ウィーンの容疑者Kの共犯者として12歳のマケドニア系の少年が23日、治安当局の尋問を受けたという。そのニュースを聞いた時、12歳という年齢に驚いた。12歳がどのような役割を果たしていたかは不明だが、Kと頻繁に接触していたという。ちなみに、少年は14歳以下ということで拘束できないため、治安関係者の監視下に置かれている。

 10年前の2007年9月、「子供部屋のテロリストたち」というタイトルのコラムを書いたことを思いだした。テロリストの年齢は当時、20歳だった。彼らは「アフガニスタン駐留の同国軍を撤退させよ」と要求し、「応じない場合、テロの対象とする」という脅迫ビデオを流した容疑だ。オーストリアのテロ対策特殊部隊コブラが容疑者の家に突入した時、彼らは子供部屋で休んでいたことから、オーストリアの大衆紙「エステライヒ」は「テロ対策特別部隊、子供部屋に突入」と報じ た(「子供部屋のテロリストたち」2007年9月15日)。

 ドイツやオーストリアで発生したテロ関連事件の容疑者の年齢はそれ以降、年々、若くなっていく。実例を挙げる。

 .疋ぅ墜酩凜丱ぅ┘襯鷭のビュルツブルクで昨年8月18日午後9時ごろ、アフガニスタン出身の17歳の難民申請者の少年(Riaz Khan Ahmadzai)が電車の中で乗客に斧とナイフで襲い掛かり、5人に重軽傷を負わせるという事件が起きた。犯行後、電車から降りて逃げるところを駆け付けた特殊部隊員に射殺された。目撃者によると、少年は犯行時に「神は偉大なり」(アラー・アクバル)と叫んでいた。少年は1年前に難民としてドイツに来た。保護者はいなかった。

 ▲Ε ーンの職業学校卒のオリバー・N(当時16歳)は2014年、イスラム教過激テロ組織「イスラム国」(IS)に入り、シリアでジハードに参戦したが、負傷して15年3月、ウィーンに帰国したところ、反テロ関連法違反で逮捕された。
 
 オーストリアでは2014年、15歳と16歳の2人のイスラム教徒のギムナジウムの少女が突然、シリアに行き、反体制派活動に関わったという情報が流れ、ウィーンの学校関係者ばかりかオーストリア社会に大きなショックを与えた。
 

 オーストリア内務省のコンラード・コグラー公安事務局長は、「若者たちの過激化傾向は年々、早まってきている」と指摘している。それにしても、12歳のテロリストは余りにも若い。テロリストというイメージと合致しない。イスラム過激派思想、サラフィスト、「神の国」(シャリア)建設といったイスラム系テロリストの常套句が12歳の年齢とは一致しにくいのだ。

 インターネット時代で生まれた子供たちは早い段階でITに接し、複雑な器材をこなすようになっていく。だから、彼らは子供部屋でイスラム過激派のサイトを開け、その影響を受けることは十分考えられる。学校の教室ではないから、教師はいない。親も関与できない空間、子供部屋でイスラム系テロの講義を受けることができるわけだ。

 息子や娘がイスラム過激派に走った家族関係者は、「息子、娘がいつイスラム過激派の影響を受けたのか分からない」と嘆く声をよく聞く。
 治安当局は、イスラム系青年たちの過激化防止のため文部省、社会省と連携を深める一方、過激化問題の相談所を設置し、過激な道に行こうとする子供を抱える家族関係者の相談に応じている。

ウィーンでISのテロ計画発覚か

 世界の耳目がワシントンの連邦議会議事堂で20日開催されたドナルド・トランプ新米大統領の就任式に集まっていた時、音楽の都ウィーンで同日午後6時(現地時間)、速報が流れてきた。18歳のアルバニア出身のオーストリア人が地下鉄で爆発テロを実施する計画をしていた容疑で特殊部隊コブラによって逮捕されたというのだ。内務省コンラード・コグラー公安事務局長は「テロ計画は履行される寸前だった」と述べている。

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▲緊急記者会見を招集したソボトカ内相、2017年1月20日(オーストリア内務省公式サイトから)

 緊急記者会見を招集したソボトカ内相は同日夜、テロ情報が「外国情報機関から」と明らかにする一方、容疑者が単独か共犯者がいるか、イスラム過激派テロ組織「イスラム国」(IS)との関連について、「捜査が進行中だ。そのため詳細な情報は公表できない」と説明する一方、「市民が多数集まる場所は可能な限り、回避するように。特に、持ち主がない鞄が見つかったら気を付けるように」と、国民に警告を発している。

 容疑者はウィーン市10区の自宅アパートで逮捕された。同容疑者が所用していた携帯電話やラップトップは押収され、容疑者のコンタクト状況などを解析中という。コンラッド・コグラー公安局事務局長は、「18歳の容疑者が単独でテロを計画していたはずはない」と判断、その背後にはイスラム過激派勢力の暗躍があるとみている。

 ソボトカ内相は、「オーストリアがイスラム過激派テロの脅威から安全だということはない。今回のテロ計画の発覚はそのことを証明している」と述べ、フランス、ベルギー、そしてドイツで発生したイスラム過激派テロ組織がオーストリアでテロを計画したとしても不思議ではないと述べた。
 ウィーン市内は翌日の21日、国際空港内や鉄道構内への監視が強化され、市民が集まる場所では監視する警察官の姿が通常より多く目撃された。

 ちなみに、オーストリア内務省によると、今年8月31日現在、同国からシリアやイラクで聖戦を繰り広げるISに参戦した国民数は280人で、そのうち、221人は男性、59人は女性だった。女性の数は全体の21%を占めている。
 また、戦闘地のシリアやイラクからオーストリアに帰国した国民は87人で、そのうち13人は女性。オーストリアからISに参戦して死亡が確認された数は44人。全て男性だ。

 オーストリア、特にその首都ウィーン市は世界的な観光地であると共に、国連、石油輸出国機構(OPEC)、欧州安全保障協力機構(OSCE)など30を超える国際組織の本部、ないしは事務局がある国際都市だ。
 そのオーストリアで過去3度、大きなテロ事件が発生した。テロリスト、カルロスが率いるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が1975年12月、ウィーンで開催中のOPEC会合を襲撃、2人を殺害、閣僚たちを人質にした。81年8月にはウィーン市シナゴーグ襲撃事件、そして85年にはウィーン空港で無差別銃乱射事件が起きている。それ以降、首都ウイーンを舞台とした大きなテロ事件は生じていない。

 現地のテロ問題専門家は今回のテロ計画について、「イスラム過激派はトランプ米大統領の就任式に合わせ、ウィーンで地下鉄爆発テロを計画していた可能性が考えられる。ここ数日、数週間は警戒を緩めるべきではない」と警告を発している。
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