ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

オーストリア

“鮮度”を失ったポピュリストの「苦悩」

 時間の過ぎ去るのは早い。政治家のキャリアも例外ではない。最近、ビクッとする呟きを聞いた。「彼には新鮮味がなくなってきたね。彼から老いを感じる」というのだ。「誰」のことかというと、オーストリアの極右政党「自由党」のハインツ・クリスティアン・シュトラーヒェ党首だ。彼はまだ47歳だ。野党第1党の党首として選挙戦の度にこれまで台風の目となってきた政治家だ。そのシュトラーヒェ党首に「年を取った」という印象は決して偏見や皮肉からではないだろう。それなりの理由は考えられるからだ。

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▲極右政党「自由党」のシュトラーヒェ党首(2017年5月1日、メーデーの党集会で 「自由党」公式HPから)

 5月に入り、オーストリアの政界では大きな変化があった。与党第2党、中道右派「国民党」の党首に30歳のクルツ外相が就任し、野党第2党「緑の党」の党首を9年間務めたエヴァ・グラヴィシュ二ク党首が個人的理由から党首を辞職し、新しい党首と選挙筆頭候補者の2人組党体制が発表されたばかりだ。

 与党第1党の「社会民主党」党首のケルン首相はファイマン首相の後継者として実業界から政界入りして今年5月17日でやっと1年目を迎えたばかりだ。要するに、オーストリアの主要政党では指導者の交代、世代の交代が急速に行われてきたのだ。
 その中で「自由党」のシュトラーヒェ党首だけが変わらない。変わらない、ということは一見安定しているともいえるが、有権者にとって新鮮味が欠ける、というイメージとなって跳ね返ってくるわけだ。

 シュトラーヒェ党首はフランスの「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首、オランダの「自由党」のヘールト・ウィルダース党首らと共に、欧州の代表的極右政党の指導者だ。
 新聞に掲載された同党首の顔写真をみると、数年前のような鋭さや勢いはなくなった。悪く言えば、初老を迎えた人間のような感じすらする。外観的には、メガネをかける機会が増えた。結婚したこともあってか、顔もふっくらとして前より太った感じだ。あれこれ考えると、極右政党を引っ張る同党首はやはり年をとったのだ。

 シュトラーヒェ党首はヨルク・ハイダーの流れを組む「自由党」に入党して以来、着実に力をつけてきた。一時期、党内で路線対立があったが、2005年4月から12年間、党をまとめてきた。選挙の度に得票率を増やし、オーストリアでは「国民党」を抜いて第2党の勢いを有する政党に発展してきた。10月15日の総選挙では第1党、政権獲得の夢も決して非現実的ではない。

 ちなみに、「自由党」内で後継者問題がまったくなかったわけではない。大統領候補者として決選投票まで進出したノルベルト・ホーファー氏はシュトラーヒェ党首の後継者と受け取られているが、ホーファー氏自身「自分の夢はシュトラーヒェ党首を首相にすることだ」と言明し、後継者の話を完全に否定している。

 ところで、シュトラーヒェ党首から新鮮味が感じられなくなったのは決して外観的なイメージだけではない。外国人排斥、オーストリア・ファーストを標榜し、厳格な難民受け入れ政策を主張して支持を伸ばしてきた「自由党」だが、その主張自身に新鮮さがなくなってきたからだ。その主因は「国民党」党首に就任したばかりのクルツ外相だ。

 シュトラーヒェ党首曰く、「クルツ外相の難民政策はわが党の政策の完全なコピーだ。彼はコピーの天才だ」と嘆く。客観的にいえば、クルツ外相の難民政策は「自由党」よりも厳格だ。だから、「自由党」が難民の受け入れを批判してとしても、クルツ外相を超えた内容にはならない。難民受け入れに不安を感じこれまで「自由党」を支持してきた国民はクルツ外相の「国民党」に票を投じる可能性が高まってきたのだ。シュトラーヒェ党首は心穏やかでいられない。

 中道右派政党の右派化傾向はオーストリアだけではない。オランダでも見られる、同国の総選挙(下院)では、マルク・ ルッテ首相が率いる「自由民主国民党」(VVD)が躍進したが、ルッテ首相は選挙戦でヘールト・ウィルダース党首の極右政党「自由党」の反移民政策を凌ぐ過激な政策を主張し、オランダ社会に統合できない移民は「出ていけ」という主張し、話題を呼んだ(「極右政党が“大躍進”できない理由」2017年5月9日参考)。

 「自由党」はここにきて党独自の経済政策を掲げ、国民にアピールしていこうと腐心している。具体的な政策はまだ公表されていないが、欧州連合(EU)のブリュッセル主導の政策を批判してきた「自由党」としては、代案としてEUとの関係見直し、グロバリゼーションでの国民経済の在り方などについて有権者にアピールできる経済政策を考えているわけだ。

 人は古いものより新しいものに関心をもつ。だから、時間の経過と共に鮮度を失った政治家は国民の支持を失い、姿を消していく。欧州の代表的ポピュリスト、シュトラーヒェ党首は30歳のクルツ国民党党首の登場に焦りを感じる一方、国民は同党首に老いを感じだしてきたのだ。

若き外相の新しい挑戦が始まった

 オーストリアの政界が今月に入って激しく動いている。今月10日、ケルン連立政権のジュニア政党、国民党党首のラインホルト・ミッテルレーナー副首相が突然辞任表明。14日には国民的人気の高いクルツ外相(国民党)が新党首に選出された。そして16日、社会民主党と国民党の2大政党から構成されたケルン連立政権は任期を1年以上残し、今年10月15日に早期総選挙を実施することで合意した。いよいよ選挙戦が始まると考えていた矢先、今月18日、今度は野党の「緑の党」のエヴァ・グラヴィシュ二ク党首が個人的理由から党首を辞職し、その翌日、新しい党首と選挙筆頭候補者の2人組党体制が発表されたばかりだ。今月に入って2政党の党首が辞任し、新しい党首が選ばれたわけだ。

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▲国民党の新党首、クルツ外相(セバスティアン・クルツ氏の公式サイトから)

 オーストリアの政治家に何が起きたのだろうか。ひょっとしたらバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥ったのだろうか。政界の変動の台風の目はやはり国民党の新党首に選ばれたセバスティアン・クルツ外相だろう。同外相が国民党の党首に就任する時、連立政権は解消し、早期選挙が行われると予想されていたからだ(「政治家が突然、やる気を失う時」2017年5月12日参考)。

 社民党党首のクリスティアン・ケルン首相(51)は当初、「政府は山積する課題の解決を最優先すべきだ」と主張し、来年9月まで任期を全うすべきだという姿勢を取ってきたが、クルツ外相が国民党党首に選出されたことを受け、早期総選挙をもはや回避できないと判断、国民党の意向に同意した経緯がある。

 クルツ外相は14日の党幹部会で7項目の条件を提示した。党首に人事権を与え、選挙の党候補者の選出権も党首に委ねるという内容だ。その上で「自分の要求が通らなければ、国民党を離脱し、新しい政治運動を始める」と言明し、党幹部会に最後通牒を突き付けた。国民党は過去、州の国民党幹部が強い権限を有し、連邦の党人事にも大きな影響を行使してきたため、連邦レベルの党改革を実施することが難しかった。

 クルツ外相の脳裏には、左派、右派の既成政党に捉われない新しい政治運動を宣言し、フランス大統領選挙で勝利したフランスのエマニュエル・マクロン大統領(39)の政治運動「前進」(アン・マルシェ)があったことは間違いないだろう。

 独「キリスト教民主同盟」(CDU)の姉妹政党、国民党は選挙の度に投票率を失い、野党の極右政党「自由党」に抜かれて第3党に後退することが多かった。党の抜本的刷新を実行しなければ国民党は小政党に成り下がってしまうと懸念されてきた。それを救う唯一の道は、クルツ外相を党首に担ぎ出し、選挙戦に打って出ることだという点で国民党内は一致したわけだ。

 クルツ外相は3年前、27歳で外相に就任して注目された。当時は「経験のない若者に外相が務まるか」といった冷めた目で見られてきたが、30歳となった今日、ドイツや他の欧州諸国でも高い評価を受けている。はっきりと自分の考えを表明する一方、相手の言動に耳を傾ける政治家としてオーストリアでは圧倒的な人気がある(「27歳の若者が外相に就任する国」2013年12月16日参考)。総選挙が今月、実施されれば、クルツ党首が率いる国民党が第1党に躍り出るという世論調査が既に報じられている。

 同外相は難民問題では極右政党の「自由党」もタジタジとなるほど厳格な政策を表明し、国境線の閉鎖・監視の強化を訴える一方、欧州連合(EU)の結束強化、刷新をアピールしてきた。対トルコ政策でも、エルドアン大統領の強権政策をいち早く批判し、トルコのEU加盟交渉でも「トルコの加盟は目下、あり得ない」と強い姿勢を示してきた。

 国民的人気を背景にクルツ外相は伝統的な中道右派政党(国民党)に就任した。クルツ外相はその若さと行動力で国民党を飛躍させるか、それとも“クルツ人気”は一時的で、政界の刷新までに至らずに終わるか。30歳の外相の新しい挑戦が始まった。

政治家が突然、やる気を失う時

 オーストリア連立政権のラインホルト・ミッテルレーナー副首相が10日、突然辞職表明した。同副首相は社会民主党との連立政権のジュニア政党、中道右派政党「国民党」の党首だ。同党首は同日、14日に党幹部会を開き、そこで全ての役職から正式に降りると述べ、「地位にしがみ付く気持ちはなく、(地位に固守する)喜びも意義も感じない」と語った。

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▲辞任を表明したミッテルレ―ナ―副首相(国民党の公式サイトから)

 同党首の辞職表明は決してサプライズではなかったが、やはり大きな衝撃を国民党や連立政権内に投じた。同党首は、ー厂嬰泙箸力⇔政権で改革案が阻止され、実行できないことへの不満、国民党内の不協和音、9餘鎚送の9日夜のニュース番組が同副首相個人への中傷ニュースを流したことに、「本来中立であるべき国営放送の一方的な中傷報道に激しい怒りが出た」と吐露し、辞職への決意を固めたと明らかにしている。

 そういえば、ミッテルレ―ナ―党首の前任者、シュピンデルエッガー副首相兼財務相も2014年8月、突然、記者会見を開き、「辞職」を表明したことを思いだす。オーストリアでは指導者が突然、白旗を掲げて職務を放棄するケースが少なくない。政治家のバーンアウト現象(燃え尽き症候群)といえるかもしれないが、社民党と国民党という政治信条も異なる2大政党の連立政権が機能できないことを改めて実証しているわけだ。国民党は過去10年間で4人の党首が辞職に追い込まれている。同党では党首交代は一種の伝統といわれるほどだ。

 社民党の政治、経済政策と、独「キリスト教民主同盟」(CDU)の姉妹政党、国民党のそれとの間にはやはり大きな違いがある。一方は労働者の政党を自認し、他方は経済界のロビー政党と受け取られているから、当然かもしれない。

 社民党ファイマン首相の後任にオーストリア連邦鉄道トップマネージャーのケルン現首相が就任して今月17日で丸1年目を迎える。連立政権内でもそろそろ選挙の時を迎えたという声が聞かれる。ケルン首相はここにきてピザ屋の出前役を演じ、国民の家を突然訪問するパフォーマンスを見せたばかりだ。また、ウィーン市内のナッシュマルクト(青空市場)にホイプル市長と一緒に視察するなど、既に選挙モードに入っている。

 一方、国民党では、連立政権の任期2018年秋まで政権を維持すべきだという声と、国民的人気の高いクルツ外相を党首に担ぎ出し、早期総選挙に入るべきだという声で分かれている。ソボトカ内相(国民党)はケルン首相の政策をあからさまに批判するなど、社民党と国民党2大政党の連立政権は対立が表面化している。

 国民党のクルツ外相はまだ30歳と若い上、同外相自身はケルン首相の下で副首相として連立政権を維持する気持ちはまったくないといわれる。すなわち、クルツ外相が国民党の新党首に就任した場合、即解散、総選挙となる可能性が高い。クルツ外相の代わりにシェ―リンガー財務相を暫定党首にし、時期が来ればクルツ外相が登場するといった暫定案も聞かれる。

 同国の複数世論調査ではクルツ外相の人気は高く、国民党が躍進する唯一の道はクルツ外相を新党首に担ぎ出して選挙戦に打って出るシナリオだ。一方、社民党はクルツ外相のもとでの国民党との戦いとなれば、苦戦を強いられる。また、選挙のために躍進してきた野党第1党の極右政党「自由党」にしても、クルツ外相の登場は願わしくない。同外相は自由党以上の厳格な難民政策を表明して、自由党に流れた国民の票を奪っているからだ。

 それにして、ミッテルレ―ナ―副首相の辞職を受け、オーストリアでも2大政党からなる現連立政権の寿命は文字通り切れた。早期総選挙は避けられないだろう。あとはクルツ外相の国民党党首の就任表明を待つのみとなった。

「ヒトラーはわが国の英雄にあらず」

 オーストリアのトーマス・ドロツダ文化相(ThomasDrozda)が先日、「ウィーンの英雄広場を共和国広場とか何か新しい名称に改名すべきではないか」と提案したことを受け、オーストリアで政党やメディアの間で「英雄広場」の改名論争が展開されてきた。

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▲ウィーン市の英雄広場(ウィキぺディアから)

 音楽の都ウィーン市の中心部に「英雄広場」(Heldenplatz)がある。ウィーン入りしたアドルフ・ヒトラーが1938年、有名な凱旋演説をした場所だ。20万人のウィーン市民がヒトラーの凱旋を大歓迎し、その演説に傾聴した歴史的な場所として有名だ。

 なぜ、社会民主党の同文化相が突然、「英雄広場」の改名を提案したのか、その詳細な背景は不明だが、はっきりとしている点は「英雄広場」とアドルフ・ヒトラーがリンクされ、「英雄広場」を聞くたびにオーストリアの歴史の負の側面が浮かび上がることに、文化相としては堪らないのだろう。オーストリアにはハプスブルク王朝時代、中欧を支配した輝かしい歴史があるという自負もあるのだろう。

 「英雄広場」の改名案を支持する知識人は「ヒトラーは明らかにわが国の英雄ではない。英雄広場からヒトラーの亡霊を断つべきだ」と主張する。

 「英雄広場」には2つの騎馬像が立っている。ひとつはナポレオン戦争の英雄カール・フォン・エスターライヒ大公(1771年〜1847年)で1859年に建立された。一方、新宮殿前の国立図書館寄りにある記念像はオスマン・トルコとの戦いで勝利を獲得した英雄オイゲン・フォン・ザヴォイエン公(1663年〜1736年)だ。2人は文字通り、オーストリア国民にとっても英雄だが、ヒトラーはそうではないというわけだ。換言すれば、ヒトラーの悪夢とリンクされる英雄広場を解放しようという試みで、改名はその手段というわけだ。

 一方、改名に反対する歴史家たちは「歴史には明暗がある。喜ばしい時代もそうではない時代も歴史だ。その歴史的名称を現代人の目から判断して歴史を曲げることは良くない」という主張だ。ちなみに、ウィーン市の名称問題はオーストリア連邦政府の管轄問題ではなく、あくまでもウィーン市の問題である。

 ウィーン市の文化評議会は2012年4月、市内1区、議会から大学までのストリートをDr.-Karl-Lueger-Ring(ドクター・カール・ルエガー・リンク)からUniversitaetsring(大学リンク)に改名したことがある。ルエガー(1844年〜1910年)は1897年から1910年までウィーン市長を務めた政治家だが、反ユダヤ主義者としても有名だった。彼は当時、「ウィーン市から全てのユダヤ人が出て行けば幸せだ」と発言した。反ユダヤ主義者の名前を付けた通りの名は誤解を生むということで改名となった経緯がある(「反ユダヤ主義者を街から追放せよ」2012年4月22日参考)。


 最近では、オーストリアのオーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(BraunauamInn)にアドルフ・ヒトラーの生家問題がある。政府が家主から強制収用できる法案が採決されたばかりだ。ヒトラーの生家がネオ・ナチ関係者のメッカとなることを恐れたからだ。戦後70年以上が過ぎたが、オーストリアではヒトラーに関連するものには依然、異常なほど神経を使っているわけだ。

 ウィーンがオスマン・トルコ軍に包囲された時(1683年)、ポーランドや欧州のキリスト教国がウィーン市を救済するために結集し、北上するオスマントルコ軍を押し返した。この史実は「ウィーン市の解放」という見出しで歴史書に記述されている。ソ連赤軍が1945年、ウィーン市からナチス・ドイツ軍を追放した日も同じように「解放の日」と受け取られる傾向がある。厳密にいえば、前者は文字通り「解放」だが、後者は「敗戦」を意味している「『解放』と『敗戦』ではどこが違うか」2015年4月15日参考)。

 過去、フランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月〜96年3月)がイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて正式に認めたことから、同国は「解放史観」から文字通り解放され、事実に直面するようになった。そこまで到達するのに半世紀余りの歳月を要した。中欧の盟主を誇ってきたオーストリアにとっては決して容易なプロセスではなかったはずだ。

 オーストリアの歴史の中にも多数の英雄がいた。同時に、民族の名誉を傷つけた人物も出てきた。オーストリアの歴史だけではない。どの民族も程度の差こそあれ同様だろう。ヒトラーのウィーン凱旋前の1878年に既にあった「英雄広場」の改名は不必要だ。

子供部屋のテロリストたち(続)

 オーストリアのソボトカ内相は23日、「17歳の容疑者はイスラム過激派テロ組織『イスラム国』(IS)を支持し、関係を持っていた」と指摘し、容疑者(Lorenz K)がサラフィストの背景を有していたことを明らかにした(注・前回のコラムでは容疑者の年齢を18歳としましたが、17歳に訂正)。

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▲オーストリア内務省の記者会見風景(2017年1月23日、内務省の公式サイトから)

 一方、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州のノイスで21日、ウィーンのテロ計画事件と関連して21歳の容疑者が拘束された。独週刊誌フォーカスによると、独の特殊部隊(SEK)がノイスの容疑者宅を奇襲し、逮捕した。ウィーンの容疑者Kはノイスで爆弾を製造していたというが、SEKが突入した部屋からは爆弾関連物質は見つからなかったという。17歳の容疑者Kは地下鉄、ウィーン西駅か多くの市民が集まる場所で手製爆弾を使った大量テロを計画していたという。

 ウィーンの容疑者Kの共犯者として12歳のマケドニア系の少年が23日、治安当局の尋問を受けたという。そのニュースを聞いた時、12歳という年齢に驚いた。12歳がどのような役割を果たしていたかは不明だが、Kと頻繁に接触していたという。ちなみに、少年は14歳以下ということで拘束できないため、治安関係者の監視下に置かれている。

 10年前の2007年9月、「子供部屋のテロリストたち」というタイトルのコラムを書いたことを思いだした。テロリストの年齢は当時、20歳だった。彼らは「アフガニスタン駐留の同国軍を撤退させよ」と要求し、「応じない場合、テロの対象とする」という脅迫ビデオを流した容疑だ。オーストリアのテロ対策特殊部隊コブラが容疑者の家に突入した時、彼らは子供部屋で休んでいたことから、オーストリアの大衆紙「エステライヒ」は「テロ対策特別部隊、子供部屋に突入」と報じ た(「子供部屋のテロリストたち」2007年9月15日)。

 ドイツやオーストリアで発生したテロ関連事件の容疑者の年齢はそれ以降、年々、若くなっていく。実例を挙げる。

 .疋ぅ墜酩凜丱ぅ┘襯鷭のビュルツブルクで昨年8月18日午後9時ごろ、アフガニスタン出身の17歳の難民申請者の少年(Riaz Khan Ahmadzai)が電車の中で乗客に斧とナイフで襲い掛かり、5人に重軽傷を負わせるという事件が起きた。犯行後、電車から降りて逃げるところを駆け付けた特殊部隊員に射殺された。目撃者によると、少年は犯行時に「神は偉大なり」(アラー・アクバル)と叫んでいた。少年は1年前に難民としてドイツに来た。保護者はいなかった。

 ▲Ε ーンの職業学校卒のオリバー・N(当時16歳)は2014年、イスラム教過激テロ組織「イスラム国」(IS)に入り、シリアでジハードに参戦したが、負傷して15年3月、ウィーンに帰国したところ、反テロ関連法違反で逮捕された。
 
 オーストリアでは2014年、15歳と16歳の2人のイスラム教徒のギムナジウムの少女が突然、シリアに行き、反体制派活動に関わったという情報が流れ、ウィーンの学校関係者ばかりかオーストリア社会に大きなショックを与えた。
 

 オーストリア内務省のコンラード・コグラー公安事務局長は、「若者たちの過激化傾向は年々、早まってきている」と指摘している。それにしても、12歳のテロリストは余りにも若い。テロリストというイメージと合致しない。イスラム過激派思想、サラフィスト、「神の国」(シャリア)建設といったイスラム系テロリストの常套句が12歳の年齢とは一致しにくいのだ。

 インターネット時代で生まれた子供たちは早い段階でITに接し、複雑な器材をこなすようになっていく。だから、彼らは子供部屋でイスラム過激派のサイトを開け、その影響を受けることは十分考えられる。学校の教室ではないから、教師はいない。親も関与できない空間、子供部屋でイスラム系テロの講義を受けることができるわけだ。

 息子や娘がイスラム過激派に走った家族関係者は、「息子、娘がいつイスラム過激派の影響を受けたのか分からない」と嘆く声をよく聞く。
 治安当局は、イスラム系青年たちの過激化防止のため文部省、社会省と連携を深める一方、過激化問題の相談所を設置し、過激な道に行こうとする子供を抱える家族関係者の相談に応じている。

ウィーンでISのテロ計画発覚か

 世界の耳目がワシントンの連邦議会議事堂で20日開催されたドナルド・トランプ新米大統領の就任式に集まっていた時、音楽の都ウィーンで同日午後6時(現地時間)、速報が流れてきた。18歳のアルバニア出身のオーストリア人が地下鉄で爆発テロを実施する計画をしていた容疑で特殊部隊コブラによって逮捕されたというのだ。内務省コンラード・コグラー公安事務局長は「テロ計画は履行される寸前だった」と述べている。

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▲緊急記者会見を招集したソボトカ内相、2017年1月20日(オーストリア内務省公式サイトから)

 緊急記者会見を招集したソボトカ内相は同日夜、テロ情報が「外国情報機関から」と明らかにする一方、容疑者が単独か共犯者がいるか、イスラム過激派テロ組織「イスラム国」(IS)との関連について、「捜査が進行中だ。そのため詳細な情報は公表できない」と説明する一方、「市民が多数集まる場所は可能な限り、回避するように。特に、持ち主がない鞄が見つかったら気を付けるように」と、国民に警告を発している。

 容疑者はウィーン市10区の自宅アパートで逮捕された。同容疑者が所用していた携帯電話やラップトップは押収され、容疑者のコンタクト状況などを解析中という。コンラッド・コグラー公安局事務局長は、「18歳の容疑者が単独でテロを計画していたはずはない」と判断、その背後にはイスラム過激派勢力の暗躍があるとみている。

 ソボトカ内相は、「オーストリアがイスラム過激派テロの脅威から安全だということはない。今回のテロ計画の発覚はそのことを証明している」と述べ、フランス、ベルギー、そしてドイツで発生したイスラム過激派テロ組織がオーストリアでテロを計画したとしても不思議ではないと述べた。
 ウィーン市内は翌日の21日、国際空港内や鉄道構内への監視が強化され、市民が集まる場所では監視する警察官の姿が通常より多く目撃された。

 ちなみに、オーストリア内務省によると、今年8月31日現在、同国からシリアやイラクで聖戦を繰り広げるISに参戦した国民数は280人で、そのうち、221人は男性、59人は女性だった。女性の数は全体の21%を占めている。
 また、戦闘地のシリアやイラクからオーストリアに帰国した国民は87人で、そのうち13人は女性。オーストリアからISに参戦して死亡が確認された数は44人。全て男性だ。

 オーストリア、特にその首都ウィーン市は世界的な観光地であると共に、国連、石油輸出国機構(OPEC)、欧州安全保障協力機構(OSCE)など30を超える国際組織の本部、ないしは事務局がある国際都市だ。
 そのオーストリアで過去3度、大きなテロ事件が発生した。テロリスト、カルロスが率いるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が1975年12月、ウィーンで開催中のOPEC会合を襲撃、2人を殺害、閣僚たちを人質にした。81年8月にはウィーン市シナゴーグ襲撃事件、そして85年にはウィーン空港で無差別銃乱射事件が起きている。それ以降、首都ウイーンを舞台とした大きなテロ事件は生じていない。

 現地のテロ問題専門家は今回のテロ計画について、「イスラム過激派はトランプ米大統領の就任式に合わせ、ウィーンで地下鉄爆発テロを計画していた可能性が考えられる。ここ数日、数週間は警戒を緩めるべきではない」と警告を発している。

オーストリアの昨年難民申請者減少

 アルプスの小国オーストリアの昨年の難民申請者数は4万2073人で前年(8万8340人)比で52・4%急減した。

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▲難民申請者数の動向(出典・オーストリア通信)

 ヴォルフガング・ソボトカ内相は、「難民申請者数は高レベルだ。難民が記録的に殺到した2015年比では急減したが、2014年比では49・9%増を記録しているからだ。13年比(1万7503人)では140・4%の大幅な増加だ。難民申請者の出身国別では、昨年はアフガニスタン、シリア、イラク、パキスタン、そしてイランからが多い」という。

 昨年の難民申請者4万2073人のうち、正式なな難民申請が認められた数は2万7254人で全体の64・8%に当たる。1万4819人は昨年難民申請の認可を得られず、2017年に延期された。

 1万2987人はダブリン条約に基づき、難民が最初に欧州連合(EU)の域内に入国した国で申請しなければならないケースで、該当国と協議が進行中のケースだ。1832人は様々な理由から申請がまだ認可されなかった。
 ダブリン条約では、「難民が初めて土を踏んだ欧州の条約加盟国が責任をもって難民審査を実施する」となっているが、実際は同条約は加盟国で無視されてきている。具体的には、シェンゲン協定の域外国境線に位置するイタリア、ギリシャ、ハンガリーでは殺到する移民や難民の登録が実施されず、彼らを他の欧州諸国に送り出すケースが多い。


 2015年に難民申請され、昨年申請が認可された件数は8776人だ。1万0677人は昨年、オーストリアから出国した。5797人は自由意志で、4880人は強制的に出国させられた。そのうち、2582人はダブリン条約の加盟国に、2298人はその他の国に強制的に出国させられている。

 ところで、オーストリアで来年秋、連邦議会選が実施されるが、今年年内に早期総選挙が実施される可能性が予想されている。それを受け、ケルン首相の与党「社会民主党」は既に選挙態勢に乗り出してきている一方、政権パートナーの国民党も党内の結束を強めてきている。野党第1党の極右派「自由党」も第1党を目指し、ハインツ・クリスティアン・シュトラーヒェ党首を首相に、という目標を掲げている。ちなみに、複数の世論調査では、自由党が30%以上の支持率で与党社民党と国民党を引き離してトップを走っている。

 総選挙では難民政策が焦点の一つだ。国民党のホープ、セバスチャン・クルツ外相は難民受け入れ政策では強硬派の「自由党」路線に似てきた。トルコのEU加盟問題でも同外相はEU外相の中で唯一、加盟交渉の停止を要求する一方、難民・移民の統合問題でも「公共施設でのイスラム教女性職員(公務員、教師など)のスカーフ着用禁止」案を統合協定に導入したい意向を表明するなど、強硬姿勢を見せてきている。

 隣国ドイツで9月、連邦議会選挙が実施されるが、難民歓迎政策を実施し、国内で批判の声があったメルケル首相が率いる与党「キリスト教民主同盟」(CDU)が第1党をキープし、メルケル首相の4選を果たすかどうかは、オーストリアの連邦議会選に影響を与えることは必至だ。

カザフのアリエフ大使は殺された?

 カザフスタンのラハト・アリエフ元大使(当時52)が昨年2月24日、ウィーンの独房で縊死していたのを発見された事件は大きな衝撃を投げかけたが、元大使の弁護人の依頼を受けて調査していた特別鑑定人は12日、「アリエフ氏は自殺ではなく、殺された可能性がある」とその鑑定結果を発表した。カザフとオーストリア両国の政治家を巻き込んだ「アリエフ元大使事件」はサスペンス小説のようなストーリー展開となってきた。すなわち、自殺は偽装で実際は計画的な殺人事件だったというプロットだ。

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▲カザフ共和国の駐オーストリア大使だったアリエフ氏(ウィキぺディアから)

 先ず、アリエフ元大使事件の概要を紹介する。
 カザフ共和国ではヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が1991年12月、ソ連から独立以来、5選、通算25年余り政権を握っている。その大統領の娘と結婚したアリエフ氏が2002年、駐オーストリア大使に就任したことからこの話は始まる。

 アリエフ氏は一時、カザフに戻り、外務次官を務めていた2007年1月、アリエフ氏所有銀行の2人のマネージャ―が行方不明になる事件が発生した。
 同年2月、アリエフ氏はウィーンに大使として再び帰任。同年5月、カザフ当局はアリエフ氏が2人の銀行マネージャーを拉致した容疑で捜査を開始した。カザフ側はアリエフ氏とその側近を不在裁判で誘拐容疑として有罪判決を下す一方、関係国に同氏の引き渡しを要求(オーストリア側は拒否)。カザフ側の情報では11年5月、アリエフ氏の会社敷地内で2人の銀行マネージャーの死体が発見されたという。
 オーストリア検察局は2014年5月、アリエフ氏の身柄拘束を命令。アリエフ氏は同年12月30日、殺人容疑で収監され、ウィ―ンの刑務所内の独房に送られた。

 ここまでは、ナザルバエフ大統領の政敵・アリエフ氏が大統領の画策の犠牲となったことが推測される。筋は急展開する。15年2月24日、アリエフ氏が独房内で首つり自殺をしていたのが発見されたのだ。アリエフ氏の自殺を記述した司法医学鑑定書が発表され、事件は幕を閉じた。

 それから1年10カ月後、アリエフ弁護側が調査を依頼したドイツ人の著名な司法鑑定人べルンド・ブリンクマン氏(Bernd Brinkmann)は12日、18頁に及ぶ鑑定書を公表し、死体の状況が首つりによる自殺でなく、外部から息を止められた形跡があると証言し、「アリエフ氏は独房で何者かに殺された可能性が濃厚だ」と述べた。同氏によると、アリエフ氏の持ち物や写真が紛失し、死体に見られた傷跡が外部からであり、自殺説はあり得ないというのだ。

 同鑑定内容が報道されると、カザフ側だけでなくオーストリアでも大きな衝撃が生まれている。なぜならば、アリエフ元大使事件の背後にはカザフ関係者ばかりか、オーストリアの与野党の政治家たちも関与していたことが分かっているからだ。

 ブリンクマン氏は、「カザフ側が提出した証拠は信頼性が乏しく、裁判ではアリエフ氏は無罪となる可能性が高かった。その人物が自殺するだろうか」と疑問を呈している。オーストリア側はブリンクマン氏の鑑定書を詳細に検討し、アリエフ氏の殺人の方向で再度調査を始める意向という。

 ところで、独房の囚人を誰が殺せるだろうか。まず考えられるのは、刑務所内関係者が関与したか、他の囚人の犯行の可能性が推測できる。オーストリアのメディア報道によると、アリエフ氏は同刑務所に収監されていた2人の囚人に脅迫されていたという。

 音楽の都ウィーンを舞台にした「カザフ大使殺人事件」は真相解明に向けクライマックスを迎えようとしている。

「ワルトハイム」報道は重要な教材だ

 第4代目国連事務総長(1972年1月〜81年12月)として任期10年間を務めたクルト・ワルトハイム氏が与党国民党の支持を受けてオーストリア大統領に選出されて今月で30年目を迎えた。同氏の政治活動は第2次世界大戦のナチス・ドイツ戦争犯罪容疑を受け、世界のメディアから激しいバッシングを受けるなど、波乱の歩みを余儀なくされた。同氏の大統領就任から30年を過ぎて、オーストリア代表紙プレッセがワルトハイム氏関連特集をするなど、今改めて同氏の歩みに関心が集まっている。

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▲会見後、当方との記念写真に応じたワルトハイム氏(1994年11月15日、ウィーンで)

 ワルトハイム氏の大統領選出馬が報じられると、「世界ユダヤ人協会」ばかりか、欧米主要国が激しく反対し、世界のメディアを巻き込んだ反ワルトハイム陣営が構築されていった。ワルトハイム氏が大統領に選出されると、世界の主要国はオーストリアとの外交接触を拒否し、外国国家元首のウィーン公式訪問は途絶えていった。同氏は大統領時代、“寂しい大統領”と冷笑された。

 同氏への批判のポイントは、同氏が通訳将校として派遣された旧ユーゴスラビア戦線で、ナチス軍の虐殺行為に関与したかどうかだったが、その質問には既に答えが出ている。国際戦争歴史学者たちが調査した結果、「ワルトハイム氏が戦争犯罪に関与したことを実証する情報は見つからなかった」と明らかにしているからだ。ワルトハイム氏自身が後日出版した著書『返答』の中で、「自分は戦争犯罪には全く関与していない。通訳将校としてその義務を果たしたのに過ぎない」と説明したが、反ワルトハイムの中傷・誹謗報道の前には無力だった。

 著名なナチ・ハンターのサイモン・ヴィ―ゼンタール氏も、「ワルトハイム氏がナチスの戦争犯罪に関与した証拠はない」と認めたが、ワルトハイム氏の戦争犯罪容疑報道だけが独り歩きし、激しいメディア攻撃が続いた。

 それでは何故、国際社会はワルトハイム氏の過去問題をあれほど執拗に批判していったのか。その答えは、戦争終了後に公表された「モスクワ宣言」(1950年)にある。そこでは「オーストリアはナチス戦争犯罪の加害者ではなく、犠牲者であった」と記述されている。オーストリア国民は戦後、その記述を盾にナチス戦争犯罪の関与という批判をかわしていった経緯があるからだ。
 数百万人の同胞を失ったユダヤ民族は「オーストリアは明らかに加害者であった」と主張し、戦争責任を回避するオーストリアに強い憤りを感じてきた。そのため、ワルトハイム氏の過去問題が浮上した時、ユダヤ人が牛耳る世界のメディア機関が一斉に反ワルトハイム・キャンペーンを張っていったわけだ。

 ワルトハイム氏は6年間の大統領任期(1986年〜1992年)を終えると再選出馬を断念した。著書『返答』の中で、同氏はナチス戦争犯罪容疑を受け、家族が苦しんできたことを明らかにし、再選を断念した主因が家族への配慮からであることを示唆している。

 当方は1994年11月、大統領退陣した直後のワルトハイム氏と45分間、単独会見したことがあるが、同氏は会見前に「インタビューの前に君の質問内容を教えてほしい」と述べた。同氏は戦争犯罪問題を追及されるのではないかと懸念していたことが分かった。
 当方は当時、国連改革の見通しを10年間国連事務総長を務めた同氏から聞き出したいと考えていたので、その旨を伝えると、同氏は表情を緩め、「それではインタビューを始めて下さい」と答えた。メディアから過去問題を叩かれ続けたワルトハイム氏はメディア関係者との接触には非常に神経質であることを改めて知った。

 オーストリアでは大統領決選投票が行われたばかりだが、「緑の党」前党首のアレキサンダー・バン・デア・ベレン氏に敗北した極右政党「自由党」の大統領選候補者ノルベルト・ホーファー氏は左派リベラル勢力から選挙戦で常に「ネオナチ」と酷評され、メディアから批判を受けてきた。そして「ホーファー氏が欧州初の極右政党大統領に選出されれば、オーストリアは欧州から再び孤立する」といった懸念の声すら欧州のメディアで報じられた。

 ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪に対しては毅然とした姿勢で批判しなければならないし、極右問題についても、その社会背景について慎重な分析が必要だ。同時に、メディア機関も冷静な報道姿勢が求められる。メディアが単なるプロパガンダ機関となってしまってはならない。ワルトハイム氏の過去問題は今もメディアの報道姿勢を考える上で重要な教材だ。

30歳の外相に未来を託す国民党

 オーストリアのケルン社会民主党主導連立政権のパートナー政党、国民党はメルケル独首相の与党「キリスト教民主同盟」(CDU)の姉妹政党だ。党是には本来、キリスト教価値観を掲げた政党だ。その政党が選挙の度に得票率を落とし、野党の極右政党「自由党」の後塵を拝することが多くなった。

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▲2016年12月8日、独ハンブルクで開催された欧州安全保障協力機構(OSCE)閣僚級会議で会談するケリー米国務長官(右)とクルツ外相(オーストリア外務省の公式サイトから)

 オーストリア大統領選で同党が擁立した党重鎮アンドレアス・コール氏(元国民議会議長)が第1回投票で5位となり、早々と姿を消したのは、党の現状を端的に反映した結果と受け取られている。

 そして大統領選の決選投票では社民党や野党「ネオス」が次々と「緑の党」前党首の左派知識人のアレキサンダー・バン・デア・ベレン氏の支持を公式表明したが、国民党だけは2人の候補者(バン・デア・ベレン氏と極右政党「自由党」のノルベルト・ホーファー氏)の誰を支持するかを最後まで表明しなかった。ラインホルト・ミッターレーナー国民党党首(副首相)は、「有権者が自身で決定できる問題だ。政党がアドバイスする必要はない」と説明した。

 ところが、決選投票のやり直し投票日(12月4日)の数日前、国民党のラインホルト・ロパトカ院内総務がTVインタビューで「私はホーファー氏を支持する」と表明。それを聞いたミッテルレーラー党首は、「党の方針を無視した発言であり、党への忠誠を破るものだ」と激怒、直ちにロパトカ院内総務を呼び会談した。「院内総務の意見はあくまで個人のものであり、党を代表したものではない」と述べ、党内分裂のイメージを払拭するのに躍起となったほどだ。

 ロパトカ院内総務のホーファー支持表明は確信犯的行為だ。国民党内では、リベラルで無神論者のバン・デア・ベレン氏ではなく、キリスト信者であり、堕胎に反対し、同性婚を認めないホーファー氏を支援すべきだという声も多かったはずだ。

 党独自候補者の敗北後、国民党は2人の大統領候補者の誰を支持するかで党内は2分してきた。元党首のエルハルト・ブセック氏や欧州連合(EU)の元農業担当委員フィッシャー氏は「ホーファー氏を大統領にしてはならない」として、バン・デ・ベレン氏支持を個人的に表明したが、彼らは現職ではない。ロパトカ院内総務は国民議会内の国民党クラブ代表だ。党内ランクではナンバー2だ。その人物が党首とは全く異なった見解を堂々と表明したことは、党分裂の前兆といわざるを得ない。

 国民党と好対照なのは社民党だ。5月にファイマン首相の後継者になったクリスティアン・ケルン党首はバン・デア・ベレン氏支持を表明する一方、これまで絶縁してきた自由党と接近し、ハインツ・クリスティアン・シュトラーヒェ党首と会談、同党首に対して敬意を表明するなど、将来の連立構想を念頭に積極的な行動を見せている。一方、国民党は社民党との連立政権維持を最大目標に掲げているだけのジュニア政党となってしまった感がある。

 それでは「国民党に未来はないか」というとそうともいえない。国民党にはセバスチャン・クルツ外相がいる。問題は彼がまだ若すぎることだ。外相に任命された時が27歳、今年8月で30代に入ったばかりの政治家だ。
 
 クルツ外相は難民政策や外国人問題の統合問題では「自由党」の強硬路線に近い。対トルコ政策では自由党と全く同じだ。トルコのEU加盟交渉の中止をはっきりと主張している。
 クルツ外相ならば「自民党」に流れる批判票を奪い返す一方、ケルン首相の社民党と対抗できるのではないか、といった期待が国民党内にある。クルツ外相が国民党の党是であるキリスト教の看板を掛けなおし、伝統的な保守政権として国民党を復活させることができるか、若き外相の言動に注目が集まっている。
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