ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

雑感

人は死んだとしても生きている

 オーストリアのチロル州キッツビュールで今月に入り、5人の家族が全員殺されるという悲惨な殺人事件が起き、オーストリア全土に大きな衝撃を投じた。日本では川崎殺傷事件と元農水事務次官息子殺人事件を巡り、ネット世界でいろいろな意見や批判が聞かれたことがあった。「犯人は死にたければ、1人で死ぬべきだった」というコメントが大きな反響を呼んだとも聞く。1人で死ぬべきか否かの議論は虚しい。人は殺すことも、殺されることもできない存在だということが忘れられているからだ。

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▲ウィーンの世田谷公園の秋風景(2017年10月15日、ウィーンで撮影)

 当方は、人間は一旦生命を授かった後は永遠に生きていく存在、と考える。だから、人は他の人を殺すこともできないし、自分を殺すこともできない。換言すれば、恨んでいる人を殺したとしても問題は解決できないばかりか、新たな恨みを繁殖するだけだ。人は憎む人間を射殺したとしても、殺した人間は消滅しない。どのような大量破壊兵器を使用しても、結果は同じだろう。

 北朝鮮の独裁者、金正恩氏が叔父(張成沢)を火炎銃で灰にしたとしても、叔父はまだ生きている。もちろん、この世界ではないが、別の世界で自分を殺した甥を忘れることができず恨み続けているからだ。

 殺したら、問題が解決できるのならば、世界はもう少し平和になっているはずだ。人類はこれまで無数の殺人を繰り返し、個人、家族、民族、国家まで抹殺してきた。人を多く殺せば、それだけ問題が少なくなるという論理は間違っている。実際は全く逆だ。殺せば、殺された人の恨み、つらみを背負うことになるから、問題の解決は一層複雑となる。

 金銭や愛憎問題で人を殺したとしても、問題の解決にはならない。殺したと思った人間が死んでいないからだ。戦争の犠牲者を慰める追悼集会が世界至る所で開催される。なぜだろうか。戦死者がどこかで生きているという思いが払しょくできないからだ。

 こんなことを言えば、「当方氏はとうとう、おかしくなった」といわれるかもしれない。これは当方の「信仰告白」ではない。神が創造された人間を完全に抹殺できると考えるのは傲慢だ。神は殺されれば消滅するような被造物を自身の似姿として果たして創造するだろうか。

 幽霊や亡霊だけではない。この地上で死んだと思われていた家族や知人が夢の中で語りかけてきた、という体験を多くの人は持っている。ただ、大きな声で「彼は死んでいなかった」と叫べないだけだ。死んだ人間が住む世界と我々が住む世界は次元を異にするだけだ。殺された人はその悲しみ、恨みを持ちながら、それらが昇華されるまで去ってきた地上の住民にさまざまな影響を与えるケースが出てくる。

 日本の臨床医が「人は死なない」というタイトルの本を出し、大きな話題を呼んだことがあった。医者がいうから「人は死なない」のではない。人は元々死なないからだ。その医者はその事実を追体験したのだろう。

 アドルフ・ヒトラー、彼はアーリア系人種の優秀性を信じる一方、ユダヤ人をはじめ少数民族を大虐殺した指導者だ。ある宗教家から聞いた話だが、神は霊界にいるヒトラーを救いたいとしても、できないという。なぜなら、彼が殺した何百万人のユダヤ人たちが彼を許すといわない限り、神もヒトラーを勝手に許すことができないというのだ。死後の世界にも明確なルールがあることが理解できる。

 多くの人が殺され、殺したという事件が絶えないこの頃、はっきりというべきだろう。「殺してもダメです」、「人は永遠に生きる存在です」と表明し、殺人が問題の解決にはならないことを主張すべきだ。「人は死なない」という命題は本来、あまり説明が要らない。多くの人は学校の先生から聞かなくても、分厚い専門書を読まなくても薄々知っているからだ。人が永遠に生きたいと願うのは、人は本来、永遠に生きるように創造されているからだ。

 無神論的唯物思想の最終目標は、「人間は物質からできた存在だから殺せる」ということを信じさせ、互いに殺しあうように仕向けることだ。

 殺された人たち、まして偶然に犠牲となった人たちは無念だろうし、その家族の悲しみは消えないだろう。しかし彼らは別の世界で生きている。地上に残された人は命ある限り、一生懸命に生きることではないか。悲しみの涙を流しながら家人を送り出す時は過ぎ、新しい世界に出発した彼らに「出発の歌」を歌い、門出を祝う時代がそこまで来ている(「『死』をタブー視してはならない」2017年10月23日参考)。

人はなぜ「孤独」で苦しむのか

 ドイツ週刊誌シュピーゲル最新号(8月24日号)に「ドイツも孤独で苦しむ国民が増えてきている。孤独対策の担当省を設置すれば」という趣旨の小記事が掲載されていた。「孤独対策省」の新設という発想はこれが初めてではない。メイ前英首相は昨年1月18日、孤独担当大臣(Minister for Loneliness)を新設し、スポーツ・市民社会担当のクラウチ国務大臣に兼任させた(現在はミムズ・ディビース会員議員が昨年11月から就任)。

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▲ウィーン市内の風景(2019年8月28日、ウィ―ン市1区、撮影)

 メイ前首相は、「孤独はモダンな社会では哀しい現実だ」と述べ、孤独で苦しむ国民が増えていることに警告を発している。英国では6600万人のうち900万人の国民がなんらかの孤独に悩まされているという。

 孤独は英国の国民病ではない。ドイツでも同じように孤独対策省を設置し、担当国務相を任命すべきだという声が高まっているわけだ。赤十字社のデータでは、ドイツでは45歳から89歳の国民の9・2%は孤独で苦しんでいる。

 メイ前首相が独自の孤独対策担当相を設置すべきだと考えた契機は、英労働党の下院議員のジョー・コックス氏(当時41)が2016年6月、孤独な人を支援する途上、英国北部のBirstallの路上で殺害されるという事件が発生し、当時、英国内で大きなショックを与えたことだ。メイ前首相は殺されたコックス氏の遺志を継承するために孤独対策のための省を設置したわけだ。ドイツのヴェルト紙によると、デンマークやオーストラリア、そして日本でも孤独な老人を支援するホットラインなどの体制を敷いている。

 当方が35年前ごろ、ウィーンの外国人記者クラブに通っていた時、1人の老人が事務所でファックスの整理を担当していた。彼は年金生活者だったが、年金が少なかったので外国人記者クラブのファックス整理の仕事をもらい、小遣い稼ぎをしていた。彼は1人住まいだった。心配なことは、自宅で自分が倒れたときどうするかだった。誰も自分を見つけることができず、何カ月も自宅で死んでいる自分の姿を思い出すと「ゾー」とするといっていた。しばらくした後、彼は笑顔をみせ、「倒れたとき、直ぐに救急車で通知できる緊急連絡機をもらったので少し安心したよ」と語ったのを今でも鮮明に思い出す。彼も孤独な老人だった。だから、わずかな小遣い稼ぎより、外国人記者クラブで若い記者たちと会話する時間のほうが大切だったはずだ。

 もちろん、孤独は単に1人だけという状況で湧き出てくるものではない。1人でも孤独を感じない人がいる一方、多くの人に囲まれながら孤独で苦しむ人もいる。「都会の砂漠」といった表現は昔から歌謡界ではよく歌われ歌詞だ。ワイルドな資本主義社会で生きている多くの現代人にとって、孤独は常に付きまとう。メイ前首相は現代人を襲う孤独を「流行病」といっていた。

 イエスは群衆から離れ、寂しいところに出かけ、1人になることを好んだ。人間嫌いだったわけではない。彼の場合、神に祈るために寂しいところで1人で神と向かう時が必要だったわけだ。だから、「1人でいること」と「孤独」は決してイコールではないが、現代人は1人でいることに慣れていない。

 ITの時代、人は常に何かとむずびついている。スマートフォン、SNSを通じて常に誰かと結びついているが、インターネットのなかった時代の人間より、現代人はひょっとしたら孤独を感じているのかもしれない。

 社会学者によれば、人間は本来、関係存在だ。出生、家族、社会、職場まで様々なレベルの関係が存在する。その関係が崩れるとき、さまざまなネガティブな症状が出てくる。家庭内で夫、妻とうまくいかない、会社で上司との関係がマズい、といった状況が生じれば、人はやはり孤独を感じる。その意味で、孤独対策の第一の仕事は、失った関係を回復する努力を支援することだろう。そして孤独を感じる人の話をよく聞いてあげることだ。アドバイスはその後でも十分だ。

 関係は対人関係だけではない。自然、動物との関係も大切だ。都会を離れて山や森に出かけるのは、人間界の関係を断つためだけではなく、自然との関係を求めて出かけるわけだ。人間との関係、自然との関係が崩れるとき、人間との関係に疲れたとき、自然の中に出かけ、自然との関係を深めていく。関係を通じて生きるエネルギーを得るわけだ。

 いずれにしても、「関係」で苦しむ人々が増えれば、「孤独対策省」の新設を求める声が広がるかもしれないが、「孤独対策省」が増えるということは、社会にとって朗報ではないだろう。

 最後に、「孤独」に関する名言から、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの言葉を紹介する。

 「誰一人知る人もいない人ごみの中をかき分けている時ほど、強く孤独を感じるときはない」

被害者意識、自己憐憫、そして反日

 海外中国メディア「大紀元」からニュースレターが配信されてきた。その中で興味深いニュースがあったのでそのニュースを紹介しながら、コラムを始めたい。タイトルは「被害者意識から抜け出して」。米保守派のコメンテーター、米国黒人女性のキャンディス・オーウェンズさんの話だ。

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▲南北融和路線を一直線に走る文在寅大統領(2019年6月20日、韓国大統領府公式サイトから)

オーウェンズさんは米民主党を「彼らは黒人、女性、マイノリティー、LGBT(性的少数派)の人々に被害者意識を植え付けている。そして彼らが自立することを阻止し、全ては政府が悪い。あなた方は被害者だと繰り返し主張している。一般的に、左翼の世界観は被害者意識である。この意識を何世代にもわたって植えつけられた黒人は、なかなかそこから抜け出せない」という。彼女自身も、数年前まではリベラルで民主党派だったという。

 被害者意識に伴うのは怒りや恨みだ。しかし、オーウェンズさんにとって成功の秘訣とは勤勉に働き、家族を大事にすることであって、怒りではない。「これは、あらゆる人種に共通する価値観である。アメリカに移住した日本人が、かつて過酷な差別を受けながらも他の移民に比べて比較的豊かだったのは、よい価値観に基づいた生活と自助努力があったからだ」という内容は正論だろう。

 彼女の主張を聞いていると、どこかの国を思い出してしまった。隣国・韓国だ。韓国の為政者は「我々は日本の植民地化で搾取され、人権を蹂躙されてきた。全ては日本側の責任だ」と強調し、国民に被害意識を植え付けてきた歴史がある。朝鮮半島で今席巻している「反日」は被害者意識が憎悪まで高まっていった結果だろう。韓国民は犠牲者、加害者は日本人といった考え方だ。

 被害者意識は米国内の少数民族や韓国で見られる特有の現象ではない。被害者意識の歴史は長い。共産主義思想を思い出してほしい。資本家や知識人が労働者を搾取していると主張し、労働者は被害者だ、それから解放されるために資本家を打倒する共産革命が避けられないと主張し、労働者を煽り、共産主義の国家を建設していった。共産主義は労働者の被害者意識に火をつけ革命を起し、資本家たちを打倒していったわけだ。ただし、その後に建設された共産国家は、資本家たちが支配していた国より独裁的であり、人権蹂躙が日常茶飯事の国となっていったことはまだ記憶に新しい。

 被害者意識を植え付けられた国民、民族はどうしても自立精神を失う一方、問題があれば責任を転嫁する習慣がついてしまう。旧ソ連・東欧政権時代、労働者はノルマだけを意識し、自主的に、創造的に対応するという習慣を失っていった。その結果、欧米の資本主義経済に敗北せざるを得なかった。共産圏では国民が自主的に考え、創造することが禁止されていた。

 オーウェンズさんが主張しているように、被害者意識から脱皮し、勤勉に働き、自助努力こそ発展の秘訣だろう。彼女がその好例として米国に移住した日本人の生き方に注目し、評価しているわけだ。

 ところで、被害者意識は自己卑下を生み出す一方、自己憐憫をもたらす。自己憐憫は心理学的には自己傲慢の現れだと受け取られている。すなわち、被害者意識に囚われていると前向きに考えることや、未来志向が難しくなるわけだ。オーウェンズさんの「被害者意識から脱皮を」は米国内の黒人、少数民族だけにあてはめられたものではなく、韓国民にとっても非常に啓蒙的な内容があると確信する。

 黒人や女性、少数民族出身の国民に被害者意識を植え付ける米民主党や、日本の植民地化時代を理由に、国民に被害者意識を訴える反日を駆使する文在寅政権は国民の自主性、自助努力を奪う大きな過ちを犯していることになる。

人はなぜ「外国人」を恐れるのか

 大リーグで活躍したイチロー選手は現役を終えることを決めた直後の記者会見で「僕も外国人ですからね」と答えていたのが非常に印象に残っている。

 イチロー選手の「やはり外国人ですからね」はいろいろな意味合いが込められているのだろう。日本から大リーグに移籍した直後、英語が全く分からないかった時代などに体験した内容も含まれているだろうし、人種、民族的な違いに端を発した「自分は外国人だ」という思いも込められていたのかもしれない。外国人となった故に見えてきた世界もあったのだろうか(「イチロー『外国人となることの意義』」2019年3月23日参考)。

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▲「地球」(NASA公式サイトから)

 トランプ米大統領がヒスパニック系出身の議員に対し、「出身国に戻ったらいいよ」と発言し、与・野党議員ばかりか、多くの国民から顰蹙をかったばかりだ。対中国政策では共産党政権の野望を見抜き、画期的な対応を見せるトランプ氏だが、民族主義的傾向はやはり否定できないだろう。

 外国人問題が大きな政治議題となる契機は2015年の中東・北アフリカからの難民殺到だろう。「15年前」と「15年後」では欧州の政治は激変したといわれる。欧州の単一通貨(ユーロ)や共同防衛構想などの議題は吹っ飛び、難民・移民問題が欧州の政界を独占していった。

 外国人排斥、反難民・移民傾向が強まり、欧州では民族主義的な政党や運動が次々と台頭してきた。同時に、イスラム・フォビアが現れ、ハンガリーやポーランドではイスラムの北上を阻止すべきだという声(ハンガリーの首相の名をつけたオルバン主義と呼ばれた)が出て、欧州の国民の支持を集めていった。世界最強の米国で“米国第一”を叫ぶトランプ氏が米国大統領に選出されてからは、世界は“自国ファースト”を標榜する動きが多国間協調、国際連携といった声を消していった。

 難民、移民は現地の人間にとって外国人だ。肌の色、言語、文化、宗教も異なる異邦人だ。だから、程度の差こそあれ、外国人に対する警戒心、特には恐怖心が湧いてくる。難民・移民による犯罪が増えれば、反難民・移民の声が国民の中から湧いてくるのは当然かもしれない。

 欧州の治安問題を考えるとき、外国人による犯罪件数、犯罪認知件数に占める外国人犯罪率が大きなウエイトを占める。「15年前」には外国人率,外国人犯罪率といったカテゴリーは社会学者のテーマと受け取られていたが、「15年後」は国の安全のバロメーターと受け取られ出した。外国人率が低く、その犯罪率が低ければ「治安は安定している」といった具合だ。

 ちなみに、実際は外国人犯罪率より、現地人の犯罪率の方が圧倒的に多いが、異邦人の犯罪は国内の治安に大きなインパクトを与える。「やはり外国人は怖い」「外国人を追放すべきだ」といった思いが広がる。統計と実感の格差は外国人犯罪件数ではより顕著にみられるわけだ。参考までに、オルバン首相のハンガリーの外国人率は1・7%に過ぎない。外国人数は2018年の段階で約16万人だ。

 欧州連合(EU)加盟国の統計を担当するユーロスタット(Eurostat)によると、当方が住むオーストリアでは2018年、約138万5000人の外国人が住んでいるが、2010年比で約50万人増え、増加率は58%でEU加盟国でも最高値だ。外国人率は15%だ。15年時に殺到する難民を寛大に受け入れてきたドイツの外国人総数は昨年、963万人で、2010年比で35%増を記録、外国人率は11%だ。

 ドイツの政界は「15年前」と「15年後」では激変してきた。キリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)の2大政党独占時代は過ぎ去り、旧西独では「同盟90/緑の党」がCDUの第1党の地位を脅かすほど躍進する一方、旧東独では反難民・移民政策、外国人排斥政策を掲げる極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が第1党に躍進している。特に、SPDは旧東西でその勢力を選挙の度に著しく失い、存続の危機に陥っている。

 人は「希望」より、「不安」に動かれやすい存在だ。外国人はその外観から仕草まで社会の異分子だ。区別は「社会に統合した外国人」と「社会に統合できない外国人」のカテゴリーに分けられる。後者の外国人に対しては社会は警戒し、不安にかられ、排斥する。

 しかし、外国人問題の本当の深刻さは前者だろう。社会に統合したとしても「外国人」というレッテルは剥がせられないからだ。イチロー選手は米国社会でも英雄であり、実績も飛び抜けているが、現役を終える試合後の記者会見で「自分はやはり外国人ですからね」と吐露した。その「外国人」は社会に統合しているとか、外国の地で実績を残したとかは全く関係がない「外国人」なのだ。欧米社会の場合、特にアジア系やアフリカ系の外国人の場合、人種的外観から外国人という枠から抜け出すことは難しい。米国で最初の有色人種出身の大統領になったオバマ氏ですら、アフリカ出身といった出自が常に囁かれた。

 先進諸国で外国人率が高いのはスイスだ。その比率は25%、国民の4人に1人が外国人だ。世界から追われてきた流れ者が住む場所といわれてきたスイスだが、最近は外国人への取り締まりを強化する一方、反難民・移民、イスラム・フォビアといった現象が大きな社会問題となってきている(「外国人率25%のスイスの悩み」2016年3月1日参考)。

 それでは外国人への恐れ、不安が解消される社会の外国人率はどれだけだろうか。「外国人」という呼称、概念が死語となることは考えられるだろうか。

熱中症対策のために「幽霊の話」でも

 いつものようにヤフーのサイトを開けて東京の「気温」を見た。やはりかなり暑い。6日は36度、明日もその暑さが続くという予測だ。

 日本の読者のことを考えた。さぞかし、酷暑を乗りきるのは大変だろう。アルプスの小国ウィーンでも7月は30度を超える暑い日々が続いた。パリでは42度という観測史上最高気温を記録した。パリほどではないが、ウィーンは今週末また30度以上の暑さになりそうだ。

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▲ウィーンで最も涼しい教会ルプレヒト教会(2011年7月15日、撮影)

 ヤフーのサイトには「熱中症指数」という欄がある。この欄をみて、「今日は外出しない方が無難だろう」と考えるお年寄りの人も出てくるのだろう。日本はとにかく全ての分野で繊細で親切だということが「熱中症指数」という欄を見ても分かる。日本の天気予報のように詳細に国民に情報を提供してくれる国は欧州にはないだろう。

 当方は毎朝、5時前には目が覚め、1日をスタートさせる。部屋の中が蒸し暑い時はベランダにPCを運んで仕事を始める。それから明日のコラムのテーマを考え出す。そういえば、ここ数日、隣国・韓国とのいがみ合いについて書いてきたので、そのコラムを読む読者を一層ホットにさせたのではないか、という思いが湧いてきた。もしそうであるならば、申し訳ない。そこで読者のために何か涼しいテーマを書こうと考えた。

 そこで「幽霊の話」を思いついた。このコラム欄でも過去10本以上の幽霊の話を書いてきた。幽霊は当方の友達というわけではないが、未知の存在ではない。先日、久しぶりにぐっすりと眠っていた時の事。突然、トントンと戸を叩く音がする。直ぐに目が覚めた。それも完全に目が覚めたのだ。まだ眠りたいとか、あくびが出るといった中途半端な目覚めではない。トントンという音を聞いた瞬間、当方は100%目が覚めたのだ。

 時計を見ると5時前だ。誰かが戸を叩いたことは間違いないが、誰もいない。多分、当方の知り合いの幽霊がぐっすりと眠っている当方に「朝だよ」と声をかけてくれたのだろう。目覚まし時計の役割をしてくれた幽霊は善意があり、親切だ。悪い思いで近づいてくる幽霊は直ぐに分かる。警戒心が湧くからだ。時には鳥肌が立ち、呼吸も乱れてくる。

 人には歴史があるように、幽霊には必ず歴史がある。多くの幽霊は何かを伝えたいという思いがあるから、それを尊重しなければならない。幽霊が出てきたといって大騒ぎし、直ぐに悪魔祓い、というのではかわいそうだ。

 幽霊は体がないから、体をまだ持っている人間で、自分と相対関係が少しでもある場合、近づくことができる。幽霊も人を選択する。日本の首相公邸に住む幽霊は安倍晋三首相には現れるが、菅直人元首相や野田佳彦前首相の前には現れなかった(「公邸の幽霊は人を選ぶ」2013年5月26日参考)。

 詳細には説明できないが、悲しい歴史がある家で泊まったことがある。目を覚ますと、当方の顔に傷跡がついていた。幽霊が生きている人間を傷つける場合、その幽霊はかなり強いエネルギーをもっていることになる。生前の悲しい出来事を今なお忘れることができず、近づく人間に時には傷跡をつけるのだ。

 ところで、幽霊の存在は既に市民権を有している。欧州の王室には幽霊が頻繁に出現する。スウェーデンのカール16世グスタフ国王の妻シルビア王妃は首都ストックホールム口外のローベン島にあるドロットニングホルム宮殿には「小さな友人たちがおりまして、幽霊です」と証言している。その国王の妹クリスティ―ナ王女も「古い家には幽霊がつきもの。世紀を重ねて、死んで埋葬されたとしても、そのエネルギーは残るものです」と語っている(「欧州王室に『幽霊』と『天使』が現れた!」2017年1月6日参考)。北欧の王室は幽霊にはなんと寛大なのだろうか。

 ノルウェー王ハーラル5世とソニア王妃の間の長女マッタ・ルイーセ王女は天使と交信できることで有名だ。天使に関連する本も出版している天使のエキスパートだ、といった具合だ(「『天使』と交信できる王女様」2012年8月24日参考)。

 このコラムを読んで下さった読者の皆さんは束の間、隣国・韓国との紛争や日々の出来事を忘れ、幽霊について考えてみてほしい。偏見がなくなり、心が広がれば、直ぐ傍まで幽霊がきていることに気が付かれるだろう。

 多くの幽霊は地上にまだ体を持っている人間のとりなし、祈りを願っている。なぜならば、彼らは地上生活でその使命を完全には成就できなかったために、地上生活から離れることができないで苦悩している。仏教用語でいえば、成仏できないのだ。

 守護霊、守護天使など様々な呼称で呼ばれている霊もいるが、恨み、憎しみを晴らすために地上の人間に憑く霊もある。現代、後者の霊が地上を覆ってきた感じがする。憎悪の背後には、それを鼓舞し、囁く霊が必ずいる。

 憎悪の虜になれば非常に危険だ。それから解放される唯一の道は「敵を愛せよ」だろう。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールは「我々は愛さなければならない」と語っている、「愛したい」のではなく、「愛さなければならない」というのだ。極限すれば、愛せないから、愛さなければならないのだ。キェルケゴールの言葉は日韓両国関係にもひょっとしたら当てはまるかもしれない。

 「当方氏の言いたいことは分かるが、我々は聖人ではない。具体的にどうすればいいのだ」と賢明な読者ならば質問するだろう。残念ながら、今回はそれには答えたくない。日韓問題になれば、せっかく熱中症対策のために「幽霊」の話をしたのに、また頭の中がホットとなってくるからだ。
 

人はなぜ「憂鬱」となるのか

 大谷、豪快15号、ソロ同点、という見出しの記事がヤフーのニュース記事の中に大きく報じられていた。エンゼルスの大谷翔平選手にとって後半戦初のホームランだ。海外に住む日本人の活躍は嬉しい。イチローや野茂投手の時も確かそうだった。

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▲現代のクラウンの1人、ボリス・ジョンソン英新首相(2019年7月24日、BBC放送の中継から)

 大谷選手の活躍は大リーグの話だが、この嬉しいニュースを読んでから1日をスタートするのと、そうではないのとでは明らかに気分が違う。朗報が少なくなったからだろうか。京都アニメーションの放火殺人事件は最近では暗いニュースだった。オーストリアでも東京発の外電で大きく報じられた。ウィーンでは子供が母親をナイフで殺害したニュースが起きたばかりだ。

 当方がロビンソン・クルーソーのように無人島に住んでいたら、大谷選手の活躍はもちろん知らないだろうが、京都の放火事件もウィーンの殺人事件も知らずに生活していただろう。夕食のための魚とりに余念がなかったはずだ。

 インターネット時代の到来で人間を取り巻く生活環境が大きく変わった。地球の裏側の出来事も直ぐにリアルに知ることができるようになった。世界的知識人の講演を大学に行かなくても傾聴できる。カナダ・トロント大学心理学教授だったジョーダン・ピーターソン教授の話をソファーに座ってコーヒーを飲みながら聴ける。まさに時代の恩恵だろう。

 ところで、人間は昔より幸福になっただろうか。科学技術は進歩したが、それを享受する人間はあまり発展していないのではないか。人間社会は発展しているが、その発展のテンポは遅い。前者が急速に発展するので、後者との格差は益々広がってきた感じがする。

 ダーウィーンの進化論を学んできた現代人は、人間は進化する存在だと信じてきたが、科学技術の世界ではその通りだとしても、人間の精神的世界は余り進歩していないように感じるのだ。現代人はPCやスマートフォンを駆使し、地球の裏側で開催されているスーパーボールを観戦する一方、紛争と戦争、殺人と嫉妬が渦巻いている世界に依然、生きている。

 ところで、オーストリア日刊紙プレッセは27日1面トップで「クラウン(ピエロ)が政治の世界で活躍してきた」と報じていた。現代はクラウンの時代だという。当方も数日前、道化師の活躍についてその社会的背景をコラムに書いた。クラウンが人々の痛みや悲しみを少しでも軽減するために存在しているとすれば、クラウンが活躍する時代は人間にとって幸せな時代ではないことになる(「政界は『道化師』の活躍の舞台に」2019年7月23日参考)。

 クラウンはポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)を笑い飛ばし、現代人の憂鬱な思いを可能な限り軽減してくれる。だから、クラウンは時代の寵愛を受け、人気者となるが、彼らが活躍する社会や時代は幸福な世界とは程遠い。

 現代人はクラウンが語る内容やパフォーマンスを見て笑いだしたり、カタルシスを感じるが、その後味の悪さに耐えられなくなって、新たなクラウンを探し出す。その繰返しかもしれない。その意味で、クラウンは消耗品だ。

 数日前、直径100メートルほどの小惑星が地球を通過した。その数日前には同じような小惑星が地球に衝突する危険性があったが、幸い、通過してくれた。昔もそうだったろう。無数の小惑星が人々が住んでいる地球に衝突していたかもしれないが、人々は衝突する瞬間まで小惑星の接近に悩まされることはなかったはずだ。現代人は人類の誇る科学技術の発展で快適な生活を享受する一方、不必要な懸念や恐れを払しょくできなくなった。多くを学び、多くの情報を知ることが人間の幸せに通じる、という楽観主義的世界観は今や暗礁に乗り上げてきた(「地球衝突リスクの高い『小惑星』の話」2019年7月20日参考)。

 現代人が薄々感じている憂鬱は、例えば小惑星が地球に衝突する危険性があることを知ってしまったからだろうか。そうではないはずだ。「知ること」が不幸や不安をもたらすのではなく、知っても何もできない、という無力感が絶望となって跳ね返ってくるからではないか。21世紀の運命論者だ。彼らは多くのことを学び、知っているが、絶望的なまでに憂欝だ。

 人間自身の運命と、その運命の前に頭を下げざるを得ない現実との間で人は憂鬱となる。繰り返すが、「知ること」を通じて憂欝となるのではなく、知ってもそれを変えることができない自身の無力感に打ちひしがれてしまうからだろう。

 最後に、聖書の観点から上記の話を考えてみた。「エデンの園」に生命の木と善悪を知る木があった。人類の始祖、アダムとエバは神のようになりたいという思いから、その善悪を知る木の実を食べた。それを知った神はアダムとエバをエデンの園から追放した。神が激怒したのは、アダムとエバが善悪を知ったからではなく、神の戒めを破ったからだとすれば、神と和解する以外にその絶望的な状況から抜け出すことができないことになる。

 私たちは、ロビンソン・クルーソーのように孤島で生きる必要はなく、大谷選手の活躍などを知りながら、神との和解を求めていく以外に他の選択肢がないだろう。知っても何もできない、という絶望感、無力感から解放される唯一の道は、知って、それが実行できる存在(神)との和解しかない、という理屈が生まれてくる。

人はなぜ「疑う」のだろうか

 イエスの12弟子の1人、使徒トーマスは復活したイエスが十字架で亡くなった人物かどうかを疑った。「ヨハネによる福音書」20章には「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じません」と述べている。すると、イエスはトーマスに十字架で釘を打たれて穴が残っている手をみせると、トーマスは眼前のイエスが十字架から復活した主であることを信じた。その際、イエスは「見なくても信じる者は幸いなり」という言葉を残した。使徒トーマスの話は新約聖書の中でも有名な個所だ。疑いやすい信者に対し、「あなたは聖トーマスのようだ」と呼んで揶揄う。

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▲サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のトーマス像(ウィキぺディアから)

 使徒トーマスは疑い深い人間のシンボルのように受け取られているが、フランシスコ法王はそのトーマスを評価している。同法王は2015年4月12日、サン・ピエトロ広場の説教の中で、「トーマスに大きな共感を感じる。彼は復活したイエスが十字架で亡くなられた自分の愛する主なのかを確かめたかった。そのため、復活イエスに手を差し伸べ、十字架の痕跡を確認しようとした。そして復活イエスだと分かると、『私の主よ』と叫び、神を称えている。トーマスはイエスの復活の意味を誰よりも理解していたのだ」と説明し、トーマスの名誉回復をしている。ちなみに、正教会ではトーマスを「フォマ」と呼び、「研究熱心なフォマ」と評価し、復活祭後の日曜日を「フォマの日」としている。

 ところで、「疑い」は決して理由なく湧き出でてくるわけではない。それなりの理由や事情がある。ドイツ人のべネディクト16世は「知性と信仰」をライフテーマとしてきた。機会がある度に、知性と信仰は決して相反するものではなく、知性に基づいて信仰の重要性を強調してきた。ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセは「クリストフ・シュレンブフの追悼」の中で、「信仰と懐疑とはお互いに相応ずる。それはお互いに補い合う。疑いのないところに真の信仰はない」と述べている。

 それでは、人はなぜ「疑う」のだろうか。理解できないから疑うのか。それとも「疑う」という機能が脳細胞の中に独立して存在するのだろうか。前者の場合、トーマスのように、イエスのアイデンティティが実証されれば「疑い」は消滅するが、後者の場合、分かったとして「疑い」は払しょくできず、常に付きまとう。

 現代人は後者の「疑い」に陥る人が案外多いのではないか。その場合、説明したとしても「疑い」が解消しないどころか、時にはその「疑い」は肥大化し、対応できなくなるというケースが出てくる。知性や情報は「疑い」の排除に役立たない。議論をしても相手の「疑い」を払うことが難しい、という状況が生まれてくる。

 知性的、論理的に話せば全ての人がそれを信じ、「疑い」が消滅するとすれば、この世界は既に疑いのない天国のような世界になっていなければならないが、現実はむしろ逆だ。インターネットで即情報を共有し、ライフタイムで事例を目撃できる時代が到来したが、人の「疑い」は依然、存在する。「話せば分かる」と叫んでテロリストに殺害された日本の首相がいたが、「話しても分からない人」が少なからず存在するという現実は昔も今も変わらないだろう。

 人間の疑いが代々継承され、現代人の我々の中にも生き続けているとすれば、人間は生来、疑い深い、敵愾心の強い存在ということになる。そこからは悲観的な人間像しか生まれてこない。

 「疑い」という感情の背景には不信感がある。信頼の欠如だ。相手の言葉、約束に対する不信は「疑い」を生み出し、その「疑い」が人間の記憶を管理する脳神経網の海馬に定着すると、「疑い」はもはや消滅できなくなる。「疑う」という思いが少なく、素直で人を信じやすい人はその海馬の機能に問題があるか、神によって祝福された人間だろう。

 人間が生まれて最初に持つ「疑い」は自分に向けられた親の愛に対してではないか。親は自分を常に愛していると感じた胎児、幼児は生涯、その愛の保障を糧に成長する。一方、親は自分を愛していないと感じた幼児はその「疑い」、「不信」が成長するにつれ確信となり、時には攻撃的となって暴発する。

 家庭が崩壊し、親から十分な愛を受けずに成長する人が増えてきたということは、「疑い深い人間」が増えてくることを意味し、同時に、その人間の数が増えていくことで社会、国家は不安定になっていく。「疑い」が愛に対する不信に立脚しているとすれば、知性や論理でその「疑い」を説得できない理由も明らかになる。

 「疑い」を解消できる唯一の手段は、「愛されている」という実感を回復することだろう。「自分は親から愛されている」と実感できる人間は「疑い」という不信を打ち破ることができるのではないか。

 聖書の話に戻るが、アダムとエバには2人の息子、カインとアベルがいた。神は2人に供え物をするように命じた。そして神はアベルの供え物は受け取り、カインの供え物を受け取らなかった。カインはその時、どのように感じただろうか。神は自分を愛していないという疑いであり、不信だ。そしてその思いが高まり、その怒りは神に愛されているアベルに向かう。カインはアベルを殺害することでその疑い、不信、憎悪といった思いを暴発させていった。現代人の多くはカインの宿命を引きずって生きている。彼らは失ってしまった「愛されている」という実感を必死に探しながら彷徨う。

人はなぜ「友」を探し求めるのか

 フェイスブックが登場して以来、友人の数が急増した若者たちが多いという。ある若者は数千人の友人がいると自慢するが、その数千人の友のうち、どれだけの友が互いに理解しあっているだろうか。韓国ではフェイスブック上の多くの友を「仮想友人」と呼んでいる。従来の伝統的な“人生の友”といった意味合いは薄れ、もっぱらフェイスブックの“デジタル”な世界が交流の場だ。古代ギリシャ哲学者アリストテレスは、「多くの友を持つ者は、1人の友ももたない」と述べている。1人の人間が両手の指の数以上の友達を持つことは難しいのではないか。

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▲DMZで出会ったトランプ大統領と金正恩委員長(2019年6月30日、CNNから)

 話は飛ぶが、世界の指導者と呼ばれる政治家で現在、「友達」という言葉を頻繁に発信するのはトランプ米大統領だろう。ホワイトハウスの1日の職務を終え、就寝する前のつかの間、トランプ氏はツイッターでその日の歩みを振り返り、伝達し、そして友へのメッセージを発信する。

 トランプ氏の「友達」と呼ばれる外国指導者の中には日本の安倍晋三首相が含まれている、安倍氏はゴルフ仲間であり、トランプ氏を最初に第45代米国大統領と認知して訪ねた外国人指導者だ。「友達」と呼ばれる資格は十分ある。

 トランプ氏から「友達」と呼ばれている世界の指導者は安倍氏だけではない。あの北朝鮮の独裁者、金正恩朝鮮労働党委員長もトランプ氏の友達サークルに入っている。米国と激しい貿易戦争を展開させている中国の習近平国家主席に対しても「我々は互いによく理解し合っている」と友達扱いしている。そのほか、ロシアのプーチン氏もトランプ氏から友達とまでは呼ばれていないが、限りなく友達に近い政治家だろう。

 安倍氏を除くと、偶然かもしれないが、トランプ氏の友達には強権政治家、独裁者が多い。米国の政治信条や政策と対立、ないしはライバルの国の指導者が多いことだ。習近平主席の中国とは世界の覇権争いを展開し、プーチン氏のロシアとは、軍事面で対立を繰り返し、前回米大統領選挙の不正関与疑惑問題でなどで対立している、といった具合だ。

 もちろん、トランプ氏の「友達」という表現にはさまざまな意味合いが含まれているから、通常の「友達」とは比較できない。明確な点は、「友達」は、厳密にいえば、政治用語、概念ではない。政治の世界では「友達」という言葉を使わない。味方か敵か、同盟か敵国かという分類だ。その政治の世界に、トランプ氏は「友達」という全く異なった表現を駆使しているわけだ。

 「シャーロック(ホームズ)には友人がいない」と実兄マイクロフトが語るシーンがある。それを初めて聞いた時、名探偵シャーロック・ホームズの世界は華やかな犯罪捜査の世界だけではなく、人間シャーロックの孤独な世界が浮かび上がってきたものだ。

 トランプ氏はひょっとしたら本当の友達がこれまでいなかったのかもしれない。だから、世界最強国家の大統領に選出された後、トランプ氏は米国大統領という看板を使い、友達探しを始めたのではないか。

 ついでに言えば、トランプ氏から友達と呼ばれる35歳の独裁者、金正恩氏にも自身の悩みなどを打ち明けることができる友達はいない。金ロイヤルファミリーの垣根内で生まれ、そこで成長していった金正恩氏は年齢差が大きいが父親・金正日総書記の料理人だった藤本健司さんが唯一の遊び友達だったという。金正恩氏は多くの側近、親族関係者を粛正してきたが、実妹、金与正(党宣伝扇動部第一副部長)さんだけが金正恩氏の悩みや苦境を知り、そのメンタル・ケアをしているのだろうか。

 ワイルドな資本主義世界の中で歩んできたトランプ氏、そして金ロイヤルファミリーの世界で成長し、遊び友達もいなかった金正恩氏が後日、朝鮮半島の非核化問題が契機となって会合し、年齢差、世代の差を超えて交流できる「友達」に発展していったのだろうか。

 はっきりしている点は、政治の世界の「友達」の賞味期限は他の世界よりも短いことだ。時の政情が変わると、「友達」は政治の舞台からあっさりと姿を消していくからだ。いずれにしても、トランプ氏も金正恩氏も自分の心の世界を理解してくれる変わらない友達を探している点では同じだろう。

 聖書には「友」について言及した有名な個所がある。新約聖書「ヨハネによる福音書」15章13節にイエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と述べている。旧約聖書には、イスラエルの初代国王サウル王から追われるダビデを守るサウル王の息子ヨナタンとの交流が記述されている。王になったダビデは後日、ヨナタンの息子(足の不自由な障害者)を王の食卓に招き、土地を与えて、戦場で亡くなった友人ヨナタンの恩に応えている。ダビデとヨナタンの友情物語は読む者の心を動かす。

 最後に、「友達」に関する名言を探した。フランスの作家アルベール・カミュの言葉だ。

 Don’t walk behind me; I may not lead.
 Don’t walk in front of me; I may not follow.
 Just walk beside me and be my friend.

 (どうか私の後からついてこないでほしい。私は多分、導くことができないから。私の前を歩かないでほしい。多分、ついていかないから。ただ、私と一緒に歩いて、友であったほしい)

人はなぜ「不安」に駆られるのか

 ロシアの民族主義政党「祖国」の指導者で実業家、ドミトリー・ロゴ―ジン氏はツイッターで「楽天主義者は英語を学び、懐疑主義者は中国語を学ぼうとする。そして現実主義者はAK−47(ミハイル・カラシニコフが製造した自動小銃)の使い方を学ぶ」と述べている。

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▲エルドアン大統領、マクロン仏大統領と首脳会談(2019年6月28日、大阪G20サミット会議で、トルコ与党「公正発展党(AKP)」公式サイトから)


 英語は国際言語として世界で活躍するためには必修の言語だ。未来に楽天的な人間は英語を学んで世界に飛び出そうとするが、中国が世界第2の経済大国に躍進したきた今日、中国語を学ぶことが大切となってきた。しかし、現実の世界を見るならば、いつ大国間で戦争が発生するか分からなくなってきたから、自己防衛のために旧ソ連製カラシニコフの自動小銃の扱いぐらい知らなければならない、といったロシア愛国者のメッセージだろう。

 東西欧州を分断した冷戦時代は終焉し、自由に世界を行き来できる時代が到来したと喜んだのも束の間、21世紀に入って、未来への黄金の見通しは次第に変色し、2015年夏以降の中東・北アフリカからの大量の難民・移民の欧州北上に直面すると、冷戦時代に切断した“鉄のカーテン”を再び持ち出す時間もなく、欧州では国境線の管理強化に乗り出す国が増えてきた。同時に、反難民、外国人排斥運動が台頭し、イスラムフォビアも席巻。その一方、大国間で軍備拡大の動きが加速してきた。`第2の冷戦時代`が到来した、と警告を発する政治家も出てきた。

 21世紀の時代のトーンは「不安」だ。時代が動き、科学技術が発展し、IT通信技術で24時間、どこでも対話、通話でき、地球上で起きている全ての出来事をリアル・タイムで体験できる時代に入った。にもかかわらず、前世紀の人間より、現代人は「不安」に駆られる。

 「不安」の正体が解明できれば、「不安」は自然解消するが、「不安」の正体がつかめない。退職後の夫婦の老後資金には「2000万円の蓄え」が必要というニュースが流れたから「不安」なのではない。もしそうならば、老後資金を「2001万円」を貯金している夫婦は「不安」から解放されることになるが、実際はそうとはいえない。少子化による人口急減による社会福祉体制の崩壊も大きな懸案だが、それが21世紀の人間が感じる「不安」の正体とは思えないのだ。

 ところで、政治の世界にも「不安」が大きな影響を与えている。

 政界では正体不明の「不安」を利用して人々を扇動するポピュリストたちが登場してきた。そして当然の帰結だが、「不安」を効果的に煽るためにどうしても「敵」が必要となる。「敵」がはっきりすると、漠然としていた「不安」に、持続性のある感情、「憎悪」が生まれる。そして「不安」と「憎悪」が結合するわけだ。

 例を挙げる・トルコのエルドアン大統領は軍のクーデター未遂事件後、非常事態宣言を敷き、「不安」にかられるように強権を発揮し、2017年4月には議会内閣制から大統領制へ移行する憲法改正を問う国民投票に僅差で勝利した。国内では強権政治を展開し、言論・メディアの自由を制限する一方、米国亡命中の反体制指導者ギュレン師をクーデター未遂事件の黒幕と断言し、民主化運動家を次々と拘束していった。エルドアン大統領の行動の原動力には政治的野心もあるが、それ以上に「不安」がある。

 エルドアン大統領はトルコ最大の都市イスタンブールの選挙のやり直しを命じた。「イスタンブールを統治する者はトルコを統治する」といわれてきたが、そのイスタンブールで反政府指導者が統治することにエルドアン氏は強い「不安」を感じたからだ(エルドアン氏は1994年から98年までイスタンブール市長を務めた)。

 エルドアン氏は同市の選挙のやり直しを命じたが、結果は前回選挙以上の大差で野党指導者が勝利し、エルドアン大統領の与党「公正発展党」(AKP)の候補者は敗北した。エルドアン大統領の場合、国民に「不安」を煽ることでその統治力を強化する一方、自身もその「不安」に踊らされている、典型的な実例だ。同じことがロシアのプーチン大統領や金正恩朝鮮労働党委員長にも言えるだろう。「不安」が彼らの大きな政治的原動力となっているのだ。

 いずれにしても、21世紀に入り、「不安」から旧ソ連製のカラシニコフ自動小銃を手放せられない、ということは不幸だ。ビッグ・データを駆使しても明るい未来像を描くことは容易ではない。人生の悲観論者にならないためにも、我々の周囲に漂う「不安」の正体を知り、対策を講じなければならない。

 明確な点は、私たちを取り巻く科学的、物質的世界が飛躍的に発展した一方、それに呼応すべき人間の精神的、霊的世界の発展が滞っているように感じることだ。この両世界の乖離が21世紀に入ってより鮮明に感じられてきた結果、焦りにも似た「不安」が生まれてきたのではないか。個人から社会の隅々までに「不安」が覆ってきたのだ。

人間の「魂」の重さは2.5グラム

 海外中国メディア「大紀元」日本語版で興味深い記事が掲載されていた。「死は2つの世界の中継点か」という見出しで、人間の魂の場所について米国の神経心理学者の発言を紹介し、「心臓を移植すると魂の記憶も移植された人間に移る」という。そして「心臓」は人間の性格や特長が存在する場所で、脳を制御し、感情、恐怖、夢、思想などを管理しているというのだ。

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▲ウィーンの春の訪れ(2019年3月31日、ウィーン市16区で撮影)

 昔から「心」はどこにあるかで様々な説があった。最もポピュラーな説は「頭部説」だ。頭部、脳にこそ人間の全ての感情、思考、記憶が機能し、保管されているというのだ。2014年のノーベル生理学・医学賞に英ロンドン大のジョン・オキーフ教授、ノルウェー科学技術大のマイブリッド・モーザーとエドバルド・モーザー夫妻の3人の脳神経学者が受賞した。3人は「場所細胞」と呼ばれる機能を有する脳内の海馬について研究し、記憶の仕組みを解明していった。脳外科医によると、記憶は「海馬」という個所にあるから、その部分が傷つけば、記憶だけではなく、人間の精神機能は消滅するというのだ。シャーロックホームズの話では「マインドパレス」が頻繁に登場してくる(「『マインドパレス』の解明を急げ」2015年12月18日参考)。

 イタリアの脳神経外科医が頭部移植を計画して話題となったことがあった。このコラム欄でも紹介した。頭部を切り離し、他者に移植すれば、移植先の人間にその頭部の持ち主が移動する。老人となり、疾患で上半身の健康を失った人間が自身の頭部を健康な人間の上半身に移植すれば、その人は自身のアイデンティティを維持しながら若返るというわけだ(「脳神経外科医の『不死』への挑戦」2016年10月22日参考)。

 「頭部説」の次は、魂は心臓にあるという説だ。人々が大好きな「ハート印」だ。しかし、厳密にいえば、100%、私の心、魂はここにあると納得できる説はまだない。面白い説では、魂が足にあると唱える学者も昔いた。ひょっとしたら、ウサイン・ボルト(100、200mの短距離世界記録保持者)の場合はそうかもしれないが、大多数の人間は足で思考し、足で苦悩しているとはどうしても思えない。

 もっと究極の問いが出てくる。心、魂というものは存在するのか、だ。唯物論と唯心論で学者の間で喧々諤々の論争があった。最近は脳の中に心の機能があるという「脳神経説」が主流となりつつある。だから、脳神経学者は時代の寵児となり、メディアなどに引っ張りだこになる。人は自分の魂がどこにあるか知りたいからだ。

 それに対し、キリスト教世界では、神は人間の肉体を創造した後、そこに「息を吹き入れた」という個所がある。旧約聖書の「創世記」第2章によれば、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」という。息は神の生命であり、人間の魂だというわけだ。人間をサルや動物と区別するものは神の息、魂というわけだ。

 「大紀元」によれば、1915年、人間の魂の重量は、22.4グラムであると発表されたが、米国の科学者が1990年末、さらに精密に魂の重さを量ることに成功し、死後の体重は生前より2.5〜6.5グラム減少したことが分かったという。すなわち、肉体の死を迎えた魂が死後、その肉体から抜けていって永遠の世界に移ったので、その人の体重が2.5から6.5グラム軽くなったことから、魂の質量が測量されたわけだ。

 それにしても、人間の魂が2.5グラム、最大6.5グラムの重量に過ぎないのだろうか。余りにも軽すぎるのではないか。ルネ・デカルトは「方法序説」の中で「我思う、ゆえに我あり」と語ったが、哲学の世界の重量が2.5グラムだと分かれば、哲学者はやりきれなくなるかもしれない。考えることが馬鹿らしくなる唯心論者が出てきても不思議ではない。しかし、冷静に考えれば、「神の息」が人間をして人間らしくしていると考えれば、その息の質量が軽くても文句は言えない。

 無神論的進化論者は、人間は創造されたのではなく、偶然の変化と自然選択の中で進化してきたと考え、他の動物とは大きな違いがないと主張している。ただし、進化論を裏付ける中間種は存在せず、全ての存在物は短期間にいっきょに生まれてきていること、地球を含む宇宙の生命適応性、観測可能性を説明できないことなど、進化論の欠陥が次第に明らかになってきている。にもかかわらず、進化論は21世紀に入っても創造論よりも多くの支持者を集め、一種の信仰となってきた。あれもこれも、魂の有無、その所在地が分からないことから起因する誤謬だ。21世紀の最大の科学的課題は魂の所在地を明確にすることだろう。
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