ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

チェコ

「プラハの春」50周年を迎えて

 旧チェコスロバキアで1968年、民主化を求める運動が全土に広がった。しかし、旧ソ連ブレジネフ共産党政権はチェコのアレクサンデル・ドプチェク党第1書記が主導する自由化路線(通称「プラハの春」)を許さず、ワルシャワ条約機構軍を派遣し、武力で鎮圧した。あれから今月20日で50年目を迎える。

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▲旧ソ連軍のプラハ侵攻(米情報機関、1968年に撮影)
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▲チェコの民主化運動のシンボル、バルラフ・ハベル氏と自筆サイン(1988年7月5日、プラハでハベル氏宅で撮影)

 旧ソ連共産党政権の衛星国だった東欧諸国で1956年、ハンガリーで最初の民主化運動が勃発した。「プラハの春」はこのハンガリー動乱に次ぎ2番目の東欧の民主化運動だった。ドプチェク第1書記は独自の社会主義(「人間の顔をした社会主義)を標榜し、政治犯の釈放、検閲の中止、経済の一部自由化などを主張した。

 チェコで「プラハの春」が打倒されると、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜したグスタフ・フサーク政権が全土を掌握し、民主化運動は停滞した。

 しかし、劇作家のバーツラフ・ハベル氏(Vaclav Havel)、哲学者ヤン・パトチカ氏、同国の自由化路線「プラハの春」時代の外相だったイジー・ハーイェク氏らが発起人となって、人権尊重を明記した「ヘルシンキ宣言」の遵守を求めた文書(通称「憲章77」)が1977年、作成された。チェコの民主化運動の第2弾だ。

 そして1989年11月、ハベル氏ら反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが“ビロード革命”だ。

 プラハの春は、ドブチェク共産党第1書記を中心した党内の上からの改革運動だったが、ハベル氏らの民主化運動は知識人や学者たちの反体制派運動だった。チェコではハベル氏ら知識人を中心とした政治運動が、スロバキアではキリスト信者たちの信教の自由運動がその民主化の核を形成していった。チェコ民族とスロバキア民族の気質の相違がその民主化運動でも異なった展開となったわけだ。

 当方は1988年、プラハ市モルドウ河沿いにあったアパートで初めてハベル氏にインタビューした。会見テーマは「プラハの春」20周年目だった。

 ハベル氏の周辺は私服警察によって厳重に監視されていたこともあって、当方はかなり緊張したことを思い出す。約30分間ほどインタビューしたが、最後の質問の時、ハベル氏は、「自分は英語では十分に話せないから、チェコ語で答えるから、ウィーンに戻ったらチェコ人に通訳してもらってほしい」と語った。当方はハベル氏から自筆サインをもらうと、素早くアパートから離れた。ウィーンに戻ると、早速知り合いのチェコ人に頼み、録音したハベル氏とのインタビューをもう一度聞いた。

 ハベル氏との思い出はこれまでも何度か書いてきたが、ハベル氏、ドプチェク第1書記と共に“プラハの春”を推進したイリ・ハイエク外相(当時)、民主化の精神的支柱、ローマ・カトリック教会のフランチェスク・トマーシェック枢機卿らとの出会いはやはり忘れることができない。ハベル氏がプラハ旧市街広場のフス像前でVサインをしながら市民に民主化を訴えていた姿を今でも鮮明に思い出す。

 ハベル氏は民主化後、旧チェコ連邦の最初の民主選出大統領になり、旧チェコ連邦解体後は初代チェコ大統領に選ばれている。通算5年間牢獄生活を強いられたハベル氏はヘビー・スモーカーだった。それがハベル氏の健康を害したのだろう。2011年12月、75歳で死去した。

 チェコでは冷戦後、神を信じない国民が増えた。ワシントンDCのシンクタンク「ビューリサーチ・センター」の宗教の多様性調査によると、チェコでは無神論者、不可知論者などを含む無宗教の割合が76・4%となり、キリスト教文化圏の国で考えられないほど高い(「なぜプラハの市民は神を捨てたのか」2014年4月13日参考)。

 50年前、ドプチェク氏がやり遂げられなかった自由化路線をハベル氏らは引き継ぎ、実現した。その民主化プロセスで多くのチェコ国民が犠牲となった。チェコスロバキアは1993年1月、連邦を解体し、チェコとスロバキア両共和国に分かれた。両国とも現在、欧州連盟(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だ(「『チェコ連邦』の解体が決まった日」2017年8月28日参考)。

 チェコでも冷戦時代を知らない世代が増え、自由を当然の権利と考える人が多くなった。プラハの春、ビロード革命を想起し、獲得された自由を大切に享受してほしい。

チェコ国民の「反難民」は少し違う

 中欧のチェコで20、21日の両日、下院選挙(定数200)が実施されたが、その結果を先ず紹介する。メディアから“チェコのトランプ”と呼ばれている資産家、アンドレイ・バビシュ前財務相が率いる新党右派「ANO2011」が得票率約30%、78議席を獲得してトップ。それを追って、第2党には、中道右派の「市民民主党」(ODS)が約11・3%、第3党には「海賊党」、そして第4党に日系人トミオ・オカムラ氏の極右政党「自由と直接民主主義」(SPD)が入った。与党ソボトカ首相の中道左派「社会民主党」(CSSD)は得票率約7・3%で第6党に後退した。投票率は約60%。

チェコ下院選挙の暫定結果
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出所・オーストリア通信(APA)作成の表

 いずれにしても、「ANO2011」は組閣工作を開始するが、議会で安定政権を発足させるためには難航が予想される、議会に議席を獲得した政党は9政党だが、CSSDと「キリスト教民主党」(KDU−CSL)のソボトカ連立政権の与党2党はANO主導の連立政権に参加する意思のないことを既に表明している。

 プラハからの情報では、「ANO2011」の勝因は反難民政策をアピールし、欧州連合(EU)批判を展開して有権者の支持を得たことだ。欧州では、チェコだけではなく、反難民・移民政策を声高く叫んだ政党が有権者の支持を得て、飛躍している。今月15日に実施されたオーストリアの国民議会選でもそうだったし、ドイツの新党「ドイツのための選択肢」(AfD)の連邦議会第3党飛躍の最大原動力もそうだった。2015年、100万人を超える難民・移民がシリア、イラク、アフガニスタンから殺到した出来事は、欧州の国民に一種のトラウマとなっている。

 自分たちとは異なる文化圏の人間が家の玄関まで来て、戸を叩き、救いを求めてくる。ジュネーブ難民条約に合致しない経済難民やイスラム過激派が紛れ込んでいても、それを冷静にチェックする時間はなかった。欧州諸国は苦渋した。人道的観点で受け入れるか、それとも国境を閉鎖し、入国拒否するかの判断は、多くの欧州諸国や国民にとって決して容易ではなかったはずだ。これまでの人生観、世界観を変えざるを得ない深刻な決定だからだ。

 チェコの場合を考える。チェコには2015年の難民殺到の時、チェコに直接難民申請した者はほぼ皆無だった。殺到した16万人の難民収容のためEUが加盟国に難民受け入れ枠を決めた時、他のヴィシェグラード・グループ(ポーランド、ハンガリー、スロバキア、チェコの4カ国から構成された地域協力機構)と共に、強い拒否反応が起きた。受け入れ数はわずかだったが、チェコ国民は異文化の侵入に激しい抵抗を示した。

 チェコでは冷戦後、神を信じない国民が増えた。ワシントンDCのシンクタンク「ビューリサーチ・センター」の宗教の多様性調査によると、チェコではキリスト教23・3%、イスラム教0・1%以下、無宗教76・4%、ヒンズー教0・1%以下、民族宗教0・1%以下、他宗教0・1%以下、ユダヤ教0・1%以下だ。無神論者、不可知論者などを含む無宗教の割合が76・4%となり、キリスト教文化圏の国で考えられないほど高い(「なぜプラハの市民は神を捨てたのか」2014年4月13日参考)。

 冷戦時代、アルバニアのホッジャ政権は1967年、世界初の「無神論国家」宣言を表明したが、同国は現在、若者たちを中心に宗教熱が広がっている。「無神論国家」アルバニアで国民は神を見出し、中欧の都チェコで神を失う国民が急増してきたのだ。共産圏に属した両国の冷戦後の宗教への国民の関心は好対照というわけだ。

 チェコは昔、カトリック教国だった。それが宗教改革者ヤン・フスの処刑後、同国ではアンチ・カトリック主義が知識人を中心に広がっていった。チェコ国民の無宗教は厳密にいえば、反カトリック主義だ。民主化後、東欧諸国の中でチェコ国民が急速に世俗化の洗礼を受けていったのは決して偶然ではなかった。

 冷戦が終焉し、民主化後30年余りを迎えた今日、欧州に北アフリカ・中東からイスラム系難民が殺到してきた。欧州には既に約1400万人のユーロ・イスラム教徒が住んで居る。
 チェコの反難民感情は、ポーランド、ハンガリー、スロバキアなど他のヴィシェグラード・グループとは異なっている。イスラム・フォビア、反イスラムといった社会現象ではなく、宗教一般への憎悪がその根底に強いのだ。

 スロバキアのフィツォ首相は「わが国はキリスト教徒の難民ならば受け入れる」と発言したことがあるが、チェコではそのような発言は聞かない。チェコではイスラム教だけではなく、キリスト教に対しても強い嫌悪感が潜んでいるのだ。

プラハで“ラビ”の為の護身術コース

 ドイツのユダヤ中央評議会ジョセフ・シュスター(Josef Schuster) 会長は「イスラム教徒が多数を占める地域に住むユダヤ人は自身がユダヤ人であるということを明らかにするのを控えるべきだ」と述べ、男性ユダヤ人は通常、頭の上にキッパ―と呼ばれる帽子をかぶるが、反ユダヤ主義者の襲撃を受けないためにそのキッパ―を外すべきだと発言し、注目されている。欧州では反ユダヤ主義が席巻してきた時でもキッパ―着用を避けるといった意見がユダヤ人指導者から出てきたことはこれまでなかったことだ。

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▲民族衣装キッパ―を被るユダヤ人(ユダヤ教の公式サイトから)

 欧州全土で反ユダヤ主義が拡大し、今年に入っても1月7日、イスラム過激派テロリストの3人が仏週刊紙「シャルリーエブド」本社とユダヤ系商店を襲撃。2月14にはデンマークの首都コペンハーゲン市内で開催中の「芸術と冒涜,表現の自由」に関する討論会会場で銃撃事件が発生したが、その翌日15日には同市内中心部のシナゴーグの近くで銃撃事件が起き,市民1人が死亡,警察官2名が負傷する事件が発生している、といった具合だ。また、ユダヤ人墓が破壊されるといった蛮行は欧州では頻繁に起きている。

 フランスでは昨年一年間で約7000人のユダヤ人が反ユダヤ主義の風潮に嫌気を差し、長く住み慣れたフランスからイスラエルに移住した。欧州連合(EU)の盟主ドイツでも反ユダヤ主義関連の犯罪件数が増加してきた。独週刊誌シュピーゲル電子版が報じるところによると、2013年は788件だったが、昨年は864件で約10%増加した。「実際の反ユダヤ主義関連犯罪はもっと多い」といわれている。

 パリの反テロ大行進直後、オーストリア・ウィーンの「イスラエル文化協会」のオスカー・ドイチェ会長は「パリのジャーナリストたちはイスラム教の預言者ムハンマドを風刺したことで射殺されたが、ユダヤ商店での4人はユダヤ人だという理由だけで殺された」と述べ、憤りを表している。

 コペンハーゲンのテロ事件直後、イスラエルネタニヤフ首相は欧州居住のユダヤ人に対し、「イスラエルへの移住を歓迎する」とアピール。それに対し、メルケル独首相は「どうか欧州に留まってほしい。わが国はユダヤ人の安全確保のためにあらゆる手段を行使する」と約束するなど、異例のアピールを出している。オランド仏大統領も「ユダヤ人は欧州にその居住を保有している。特にフランスはそうだ」と述べ、留まるように説得したばかりだ。ちなみに、ドイツには2013年現在、10万1338人、フランスでは約48万人のユダヤ人が居住している。

 チェコの首都プラハで24日、欧州のラビたち(欧州に約700人のラビ)が集まり、反ユダヤ主義者の襲撃を受けた場合、どのようにして自己防御(護身)するか、また負傷した場合の救急処置のトレーニングを受けたという。ラビが護身術のワークショップに参加するといったことは数年前までは考えられなかったことだ。それだけ、欧州居住のユダヤ人の危機感が高まっているのだろう。ラビの中には「全てのユダヤ人は銃を携帯すべきだ」といった過激な意見も聞かれるという。

 一人のラビは「欧州の政府はユダヤ人の安全対策で十分ではない」と指摘、ユダヤ人自身が率先して安全対策を取るべきだと強調している。

オカムラ議員の“危険な役割”

 独ザクセン州ドレスデン市で5日、反イスラム教、反移住者を訴える「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( "Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes"、通称・Pegida運動)の慣例の月曜日デモ行進が行われた。主催者側によると、約1万8000人が集まった。ドレスデン市以外からも参加者が集ったという。参加者は、Pegida運動に対し批判的なメディアに不満を表明する一方、Pegida運動を「外国人排斥運動」として批判するメルケル首相に抗議する声が多く聞かれた。

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▲チェコ上院議員のトミオ・オカムラ氏(ウィキぺディアより)

 一方、Pegida運動に抗議するデモ集会が首都ベルリン、ケルン、ハンブルク、シュㇳゥッㇳガルト、ロストック市など各地で開かれた。ケルン市では同日、Pegida運動への抗議意思表明としてケルン大聖堂はその照明を消した。独週刊誌シュピーゲル電子版によると、ケルン市では約500人がPegida集会に参加、一時間のデモ行進後、解散したという。

 ドイツ国内ではPegida運動に対し政治家ばかりかメディアもその評価が分かれているが、隣国チェコでは父が日本人、母がチェコ人の親を持つ、実業家の上院議員トミオ・オカムラ氏(42、岡村富夫)が自身のフェイスブックで反イスラム教を国民に訴えていることがこのほど明らかなった。オカムラ議員は極右政党「直接民主主義の夜明け」の党首だ。

 シュピーゲル誌によると、オカムラ氏は国民に反イスラム教の意思表示として、犬と豚を連れてイスラム寺院周辺を散歩しようと呼びかける一方、イスラム教徒が経営する店では買物しないように呼びかけている。同氏は「ケバップ1個を買えば、それだけイスラム教徒のブルカが増える」と述べている。オカムラ氏はベーメン南部のユダヤ人強制収容所の存在を否定して物議をかもしたことがある。

 第2次世界大戦前までは欧州有数のユダヤ社会があったポーランドで今日、ユダヤ系住民はほとんどいなくなったが、反ユダヤ主義が社会では今なお根強い。同じことがチェコでもいえる。同国の人口は約1051万人(2013年12月末現在)で、そのうちイスラム教徒数は2万人に過ぎないが、彼らは国民の日常生活の不満や憎悪の対象となってきている。その扇動役をオカムラ氏が買って出てきたのだ。危険な役割だ。

「ビロード革命」の3人の主役たち

 チェコスロバキアで民主改革(通称ビロード革命)が勃発して今月17日で25周年を迎えた。チェコでは1968年の自由化路線(通称プラハの春)が旧ソ連軍の軍事介入で後退した後、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜して権力を掌握したグスタフ・フサーク政権下で民主化運動は停滞したが、反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが1989年11月17日、結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが“ビロード革命”だ。
 民主化運動を推進した当時の多くの主役たちは亡くなったり、政治の舞台から消えていった。東欧記者だった当方にとって、チェコのブロード革命は歴史との出会いの日々だった。

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▲自宅でインタビューに応じるハベル氏(1988年8月、プラハで撮影)

 チェコの場合、同国反体制派グループ「憲章77」の指導者だったバツラフ・ハベル氏(後日、大統領に選出)との出会いが直ぐに思い出されるが、このコラム欄で過去、数回書いたので、ここでは他の人物との出会いを紹介したい。
 
 チェコスロバキアの民主化では、チェコ共和国とスロバキア共和国で完全に異なったプロセスが展開した。チェコの場合、ハベル氏を中心とした民主化への政治運動であった一方、スロバキアの場合、キリスト教徒たちを中心とした「宗教の自由」を求めた運動が中核だった。そして両共和国の民主化の精神的支柱がローマ・カトリック教会のフランチェスク・トマーシェック枢機卿だった。

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▲チェコ民主化運動の精神的指導者トマーシェック枢機卿(1988年8月、プラハの枢機卿公邸で)

 当方は1988年8月、プラハ城近くにある公邸で枢機卿と初めて会見した時、枢機卿は「信教の自由を求める声は、人間の本性に起因するものだ」と述べ、民主化、宗教の自由への支持を表明した。89年に入って再会した時、枢機卿の体力は急速に衰え、もはやはっきりと返答できないほど弱っていた。

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▲元外相のハイエク氏(1988年8月、ハイエク氏の自宅で撮影)

 ドプチェク第1書記と共に“プラハの春”を推進したイリ・ハイエク外相(当時)は88年8月、当方の“プラハの春”20周年の企画取材に応じてくれた。ハイエク氏はプラハ郊外の自宅で当方を迎えてくれた。家の中に入ると、壁には様々な絵画が掛けられていたのがとても印象的だった。
 プラハの春以降、反体制派という烙印を押され、プラハの政界から追放されていたハイエク氏は会見の中で、「ソ連のチェコ侵略こそ社会主義の発展を妨害した反革命である」と主張し、ソ連共産党政権にプラハの春の名誉回復を要求した。

 プラハでゼネストが行われた時、民主化を求める市民と警備隊が正面衝突した。当方も市民の中に入って取材していたが、警備隊が市民に向かって前進してきた時、市民と共に逃げ、近くの飲み屋に飛び込んだことを覚えている。

 ハベル氏が旧市街のフス像前広場でデモを呼びかけた時、広場には市民のほか多くの私服警官が警戒していた。ハベル氏が広場に到着すると市民は同氏の周りを取り囲んだ。私服警官もハベル氏を取り囲んだ。当方は写真を撮ろうとしたが、私服警官が妨害。集会後、宿泊先の民宿に戻る当方を私服警察がしつこく尾行してきた。スロバキアの取材でも同じような経験をした。当方が宗教の自由集会の取材中、私服警官に拘束され、ブラチスラバの中央警察署で7時間ほど訊問を受けた。
 
 ビロード革命から25年が経過した。チェコスロバキアは結局、民主化後、2つの国に分かれた。チェコは現在、欧州連合(EU)の加盟国だが、国民はブリュッセル主導の政策に強い不満を感じている。社会は世俗化が急速に進み、無神論者の数はEU加盟国で最も多い国となった。

 ハベル氏、ハイエク氏、そしてトマーシェック枢機卿は既に亡くなった。ビロード革命を推進した3人の主役たちが現在のチェコの状況を見れば、どのような思いが湧いてくるだろうか。

ハベル氏、75歳を迎える

 チェコ前大統領、バツラフ・ハベル氏(Vaclav Havel)は5日、75歳の誕生日を迎えた。

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▲1988年8月、プラハのハベル氏宅で撮影

 ハベル氏は大統領時代(1993年〜2003年)、クラウス現大統領らが推進する市場経済改革には最後まで納得しなかった。ブレーキすらかけようとした。生来の人道主義者ハベル氏は資本主義経済の残酷さも知っていたからだろう。
 また、ハベル氏はキリスト教信仰に距離を置いてきた。同国ローマ・カトリック教会最高指導者トマーシェック枢機卿は生前、「自分はハベル氏を信者にしたかったが、できなかったよ」と嘆いたほどだ。しかし、チェコスロバキアのビロード革命(1989年11月)では、教会指導者たちと手を結んで共産政権と戦ったことは周知の事だ。
 当方は反体制グループ「憲章77」のリーダーだったハベル氏と会見するためプラハ市モルドウ河沿いにあるアパートメントを訪問したことがある。会見テーマは「プラハの春」(自由化路線)20周年目だった。
 同氏は会見中もタバコを手から離さなかった。共産政権下の反体制活動家にはヘビー・スモーカーが多いが、ハベル氏もその1人だった。
 ハベル氏は当方の質問に英語で答えてくれたが、今後の民主化の行方を聞いた時、「私の英語では十分説明できないから、この質問はチェコ語で答える。ウィーンに帰国したら、亡命中のチェコ人に聞いてくれ」といって、母国語で返答してくれた。それほど、同氏は真剣だった。旧市街広場のフス像前でVサインをしながら市民に民主化を訴えていた同氏の姿を今でも鮮明に思い出す。
 ハベル氏は民主改革(ビロード革命)後、民主化初の大統領(89年〜92年)に選出された。共産政権時代に5年間の獄中生活を支えたオルガ夫人が亡くなると、女優の現夫人と再婚した。著名な劇作家でもある。
 民主化後、ハベル氏にもいろいろあったが、チェコ国民は同氏を敬愛してきた。それは、大統領時代の功績のためというより、反体制活動家として民主化のため命がけで戦った人間・ハベル氏の姿を忘れることができないからだろう。それは当方にとっても同じだ。
 ハベル氏は最近、健康がすぐれないため外出を控えているという。同氏の健康を祈る。

「フス事件の克服」問われるチェコ

 チェコのローマ・カトリック教会最高指導者、プラハ司教区のドミニク・ドュカ(Dominik Duka)大司教は19日、プラハのフス派教会を訪ねた。テーマは宗教改革者ヤン・フス死後600年を迎える2015年、カトリック教会とフス派教会が共同で慰霊祭を開催することだ。
 ヤン・フス(1370−1415年)はボヘミア出身の宗教改革者だ。免罪符などに反対したフスはコンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処された。同事件はチェコ民族に今日まで深く刻印されてきた。歴史家たちは「同国のアンチ・カトリック主義は改革者フスの異端裁判の影響だ」と説明しているほどだ(「ヤン・フスの名誉回復を要求」2009年9月29日参照)。
 今月1日に列福を受けた故ヨハネ・パウロ2世は西暦2000年の新ミレニウムを「新しい衣で迎えたい」という決意から、教会の過去の問題を次々と謝罪した。ユグノー派に対して犯したカトリック教会の罪(1572年)、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイの異端裁判(1632年)と共に、異端として火刑に処せられたフスの名誉回復をも実施した。
 ところで、現ローマ法王べネディクト16世は09年26日、チェコを3日間訪問したが、国民からはポーランドのようなホットな歓迎は最後まで見られなかった。前法王の謝罪表明と「名誉回復」では十分ではなかったのだ。具体的には、チェコ民族のカトリック教会に対する根深い不信感だ。
 クラウス大統領を初めとしてチェコ知識人たちにみられる「野党精神」はフスの異端裁判の結果、生まれてきた国民性だと指摘する社会学者の意見を聞いたことがある。同大統領が欧州連合(EU)のリスボン条約に強く反発し、その批准書の署名を拒否し続けたことがあったが、クラウス大統領にはブリュッセルを中心としたEU機構に強い不信感があった。換言すれば、権威者に対する払拭できない不信感だ。
 東欧の民主改革から20年以上が経過したが、チェコは旧東欧諸国で旧東独地域と共に最も世俗的な国家だ。国民の約60%が無宗教と答えている。カトリック教徒は約27%に過ぎない。民主改革直後、カトリック教徒の割合はまだ39%だったから、多くの国民が毎年、教会から去っていったことになる。
 欧州の統合プロセスが進行する今日、「フス事件の克服」は単にカトリック教会の問題ではなく、チェコ民族の課題でもあるわけだ。フス死後600年目を迎える2015年は同国にとって歴史的な内省の年となるだろう。

フサーク元大統領の追悼碑

 オーストリア代表紙プレッセによると、旧チェコスロバキア共産政権最後の大統領、グスタフ・フサーク氏の追悼碑を同氏の出身地(ブラチスラバ市ドブラヴカ区)に建立する計画が進められているが、共産政権時代の元反体制派活動家から反対の声が挙がっているという。
 チェコでは1968年の自由化路線が旧ソ連軍の軍事介入で後退した後、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜して権力を掌握したのがフサーク氏だ。同氏は当時のソ連共産党傀儡政権の大統領として国民を弾圧していった。だから、当時の反体制派運動をしていた国民にとって、フサークという名は苦い思いなくして想起できないのだ。そのフサーク氏の追悼碑を建立するということは、到底受け入れられないわけだ。
 それに対し、建立促進派は「フサーク氏は共産政権大統領であったが、ヒトラー時代の反ファシズムの戦闘家として民族に貢献した」と主張する。
 フサーク氏に関して、後日談がある。同氏は死の直前、1991年11月、ブラチスラバ病院の集中治療室のベットに横たわっていた時、同国カトリック教会の司教によって懺悔と終油の秘跡を受け、キリスト者として回心した。この話は、国民に当時大きな衝撃を与えた。チェコ共産党政権下では、東欧諸国の中でも最も激しい宗教弾圧が行われたが、それを指導していたのはフサーク氏だったのだ。そのフサーク氏が死の直前、迫害してきたキリストを受け入れたからだ。
 フサーク氏は反ファシズムの戦闘家、共産党政権下の独裁者、そして最後に、一キリスト者としてその生涯を終えたわけだ。その言動の是非は歴史家に委ねるとして、同氏の生涯は波乱万丈だったわけだ。
 プレッセによると、追悼碑建立問題で市議会は「過半数が建立支持」だ。予定通りにいけば、追悼碑は今年5月1日のメーデーまでに完成するという。

チェコ大統領の著書

 チェコのバスラフ・クラウス大統領が今年3月にプラハで出版した著書「Blauer Planet in greunen Fesseln」(緑に覆われた青い惑星)のドイツ語訳が14日、ウィーンで出版された。同日、著者クラウス大統領が自らウィーンに乗り込み、出版記者会見を開いたので出かけてみた。
 クラウス大統領は「地球温暖化防止とは、究極的には人間本来の自由の制限を意味する」と主張し、一連の環境保護主義に非常に懐疑的な立場を取っている。
 大統領は|狼經超は永遠に変化してきたし、これからも変化し続ける、温暖化防止を叫ぶ科学者の間でもその原因についてコンセンサスがない、人間は環境変化に適応できる能力を有する、っ狼綉模の環境変化に対して人間的な努力は限られている、等の理由を挙げて、現在進行中の環境保護運動や地球温暖化阻止に対して大きな疑問を呈する。
 大統領は「40年間余り、共産政権下で生きてきた人間として、一つのイデオロギー(Environmentalismus、環境保護主義)で社会、国家を規制する動きに非常に危険を感じる。環境保護主義は人間に脅威を与える、新しい衣を着た全体主義に他ならない」と指摘し、インドネシアのバリ島で開催中の「国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議」(COP13)に対しても「あまり意味がない」と述べ、「人間に不安を誘発させる気候カタストロフィー・ヒステリーだ」と切り捨てる。
 欧州の政治家、それも大統領が反環境保護とも受け取られる発言をすれば、批判が出てくるのは当然だ。しかし、クラウス大統領は「グローバルな温暖化に関する議論は自然科学の問題というより、社会科学の問題とすり替えられている」と警告を発する。環境変化に対するデーターが科学的に解釈されず、安易化、不正確に悪用されていくことに対し、「その背後にプロパガンダ工作を感じる」とまで言い切る。
 ノルウェーのノーベル賞委員会が本年度ノーベル平和賞に国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)とアル・ゴア前米副大統領に授与すると発表した時、クラウス大統領は「ゴア氏の活動と世界の平和とは全く繋がりがない」と指摘し、ゴア氏の受賞を批判した数少ない政治家の1人だ。クラウス大統領には「科学技術と経済の発展は環境問題の解決をもたらすが、(環境問題の)原因ではない」という強い信念がある。
 大多数が一つの方向に走り出した時、それとは反対の方向を示す者がいるとすれば、その少数派の声にも耳を傾ける必要があるだろう。単に好奇心からではなく、多数派が見落としてきた事実がそこにあるかもしれないからだ。大統領職という激務の合間にまとめた著書には、著者、大統領の使命感が感じられる。

チェコ「憲章77」30周年

 共産政権時代の旧チェコスロバキアで、劇作家のバツラフ・ハベル氏(後日、大統領に就任)、哲学者ヤン・パトチカ氏、同国の自由化路線「プラハの春」時代の外相だったイジー・ハーイェク氏らが発起人となって、当時のフサーク共産政権に人権尊重を明記した「ヘルシンキ宣言」の遵守を求めた文書(通称「憲章77」)が作成され、200人を超える署名付きで西独(当時)のメディアに発表されたが、あれから今年1月7日で30周年を迎える。
 チェコでは1968年の自由化路線が旧ソ連軍の軍事介入で後退した後、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜して権力を掌握したグスタフ・フサーク政権下で民主化運動は停滞していた。そこで当時の反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がったわけだ。多くの反体制派活動家は拘束されたり、職場を失っていった。ハベル氏も通算5年間、収容所生活を体験した1人だ。
 当方は1988年、「プラハの春」20周年取材のためハーイェク元外相の自宅(プラハ市郊外)を訪問して会見したことがあるが、元外相の住居は非常に質素であったことを思い出す。欧米諸国が「憲章77」グループを支援していたこともあって、フサーク政権はハーイェク元外相に直接手を出すことはなかったが、元外相は一切の政治活動を禁止され、自宅監禁状況だった。
 東欧の共産政権の中でもフサーク政権の反体制派活動家への弾圧は激しいものあった。特に「宗教の自由」を要求したキリスト者たちへの迫害は厳しかった。当方のチェコの友人の1人(キリスト者)も獄中で亡くなっている。ハベル氏やハーイェク元外相といった著名な活動家のほかにも、全てを犠牲にしながら共産政権打倒のために立ち上がった無名の国民たちが多数いたことを忘れてはならないだろう。
 「憲章77」の民主化運動は単にチェコ国内だけではなく、ポーランドの「連帯」運動など他の東欧諸国の民主化運動にも大きな影響を与えていった。ハンガリー、ルーマニア、ポーランドの反体制派知識人たちは当時、「憲章77」に連帯表明をしている。
 同国は「ビロード革命」(1989年11月)後、チェコとスロバキアの2国に分離独立していったが、「憲章77」発表30周年を迎えた今年、共産政権から解放するために苦難の道を行った多くの先駆者たちの歩みをもう一度、振り返る良い機会だろう。
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