2009年09月13日

◎モンテンルパの108人の戦犯の命を歌で救った渡辺はま子

恥ずかしながら心に沁みるドラマを観て、久しぶりに流れ出る涙を押し止めることが出来なかった。

昨夜、フジテレビで放映された「戦場のメロディー」は偽善者たちの制作した反戦ドラマと違って、終戦直後のデタラメな戦争裁判で戦犯とされ、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収監された元死刑囚の人たちに生きる希望を与え、500万人もの日本国民による助命嘆願の署名を集め戦犯釈放への道を開いた渡辺はま子の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌の力というものに認識を新たにした。

 

04db6a52.jpg物語は実話に基づいた薬師丸ひろ子主演の渡辺はま子を軸に演出されたドラマである。

戦後処理ともいうべきデタラメな戦争裁判により戦犯とされた同胞の救出劇であり、歴史的資料をふんだんに使った秀作といえる。

 

 圧巻はフィリピン・マニラ郊外のモンテンルパ刑務所で、渡辺はま子役の薬師丸ひろ子が歌うシーンである。俄か作りの死刑囚の独房奥のステージは花で飾られ、「歓迎 渡辺はま子様」と横断幕が掲げられている。

  聴衆は戦争犯罪人とされた百数十名の元日本兵たち。昭和27年12月24日の事である。はま子は振り袖を着て現れ、「支那の夜」「荒城の月」や「浜辺の歌」の日本の歌を歌い続けた。2時間余りを一気に歌い上げ最後に「あゝ モンテンルパの夜は更けて」を歌う時になった。

 このドラマでは 1番2番は“はま子”が、3番は会場が一緒になって歌い上げる演出になっているが、実際には 伊勢雅臣氏の「人物探訪:渡辺はま子」ではこのようになっている。

 

渡辺はま子・・・会が 終わりに近づくと、傍らに立っていた元駐日大使デュラン議員が、禁じられていた「君が代」をお歌いなさい、と言った。「私が責任を持ちます。」 一同起立して祖国の方に向かって歌い始めたが、ある者は泣いて声が出ず、またある者は途中で座り込んでしまった。と・・・

この歌の出来た経緯は教誨師で僧正・加賀尾秀忍が加賀尾は死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を頼んだ。文学好きの代田はノートもない中で、トイレットペーパーにヨードチンキをインク代わりに詩を書いていた。作曲は元将校の伊藤正康(後に自衛隊の陸将で富士学校長)。モンテンルパの中の教会でオルガンを独習して弾いていた。伊藤も行った事もない土地での住民虐殺で死刑判決を受けていたのだ。

   

  加賀尾は出来上がった歌を渡辺はま子に送った。はま子が早速、控え室でピアノを弾いて、この歌を歌っていると、ディレクターの磯部氏が入ってきて、じっと聞いていた。感動して「いいね、なんの歌」と聞き、「これ吹き込みしよう」と即決したという。

このとき現地で録音したテープを帰国してからラジオで流し、500万人もの助命嘆願の署名の作り上げたのである。

 

 彼らが無実であるにもかかわらず戦犯とされ、処刑をされることに怯える状況を作り上げられた比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。

 

その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。

 米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまった。

 比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。“ 

と伊藤正康氏は述べている。

 

戦犯に関してはあまり知られていないが、国書刊行会から「戦犯叢書」全7巻が刊行されている。ここで紹介した教誨師 加賀尾秀忍氏も「モンテンルパに祈る」を書かれている。

昨夜の薬師丸ひろ子いや渡辺はま子さんに感動し、書棚の奥から「戦犯叢書」を引っ張り出して又読んでいるところである。

 

エッSAY! カテゴリー「戦犯と捕虜」

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/cat_1112427.html

 

Depot3(でぃぽ)カテゴリー「戦争裁判」

http://depot3.blog75.fc2.com/blog-category-1.html

 

参考文献

「戦争裁判処刑者一千」 別冊歴史読本特別増刊 戦記シリーズ23 新人物往来社

「すべての戦没者に捧げる」昭和の戦争記念館第5巻 名越二荒之助編 展転社

「いわゆるA級戦犯」ゴー宣special 小林よしのり 幻冬社

「戦犯虐待の記録」 戦犯叢書 佐藤亮一編 国書刊行会

「大東亜戦史3 フィリピン編」「大東亜戦史4 蘭印編」全10巻 富士書苑

 

  

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2008年07月09日

◎カウラ捕虜収容所からの大脱走と「戦陣訓」

 最近のドラマを見ていて違和感を感じるのは旧日本兵を演じる俳優の頭髪である。

戦時下、一部を除いて丸坊主が普通なのだが、撮影終了後のタレント活動もあり、

タレントの我がままと監督の信念の無さが目に見えるドラマが、

『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走〜』主演:小泉孝太郎、大泉洋である。

特に大泉洋の熱演が光った内容だけにお前の頭は何なんだと言いたくなるが、それ以上に日本国民にオーストラリアのカウラ捕虜収容所で多くの日本人が亡くなっていたという事実を知ってもらう良い機会であったと評価したい。

 

戦友

                                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このドラマはオーストラリアのカウラ市にあった捕虜収容所の悲しい事件を取り上げている。

この捕虜収容所には多くの日本兵と日本人船舶関係者、

イタリア兵、ドイツ兵、インドネシア兵が収容されており、

オーストラリア側は過剰収容の解消のため日本兵を、

新たな収容所に分離移送する予定であった。

 

昭和19年8月5日早朝、1,200名近い日本兵がカウラ収容所を集団脱走し231名が戦死、また多くのものが首を吊り、あるいは自らナイフでのどを刺して16名が自決した。

この脱走事件でオーストラリア人4名を含め合計235名の死者と108名の重傷者を出したという

 

当時の国民感情から敵の捕虜になることは本人にとっても出征兵士を出した家にとっても「不名誉」なことであり、心情的にはつらい毎日を送っていたものと思う。

このドラマの核となっている戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という文言を何故「戦陣訓」に取り上げ、兵士をこれほど縛り付けることになったかというと、その作成の背景にはこんな事情があったといわれています。

 

当時シナ事変を戦っていた日本軍は中国大陸に展開していた。

蒋介石軍の捕虜になった日本兵に対する残虐行為はあまりにもひどく、そんなに酷い扱いを受けるのであれば、生きるより死を選びなさいということが根底にあったのです。

例えば「陵遅(りょうち)の刑」のように生きたまま身体の肉を切削き、両手両足を切り落とし、最後に首を切り落とすなど・・・池田正之輔氏の『シナ民族性の解明』に詳しい

また小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言 戦争論」第11章p168〜p170にシナ兵の残虐性を示す「首かせのぶら下がり」、「生首のサッカー」が紹介されている。

また清朝時代の西太后の麗姫に対する「人間壺漬け」や「史記」にも載っている呂太后の「人ブタ」を知れば押して知るべしであろう。

 

私は東条英機の作った「戦陣訓」を擁護するものではないが、文字に書かれたものは作った本人の意図に関係なく、受け取る側の解釈でどうにでもなるということ。

そして時の流れで良いほうにも悪いほうにも流れるものだと言いたい。

 

このカウラ捕虜収容所からの大脱走は予想された結末ではあったが、

ただ救いは、カウラ市民によって日本兵を手厚く葬り日本人墓地が作られ、墓地の管理はかつての敵国であるカウラの退役軍人連盟によって行われた。

終戦後、日本政府は感謝の意を込めてカウラ市の丘に日本庭園を贈り、日本庭園と日本人墓地間を結ぶ道には桜並木が作られ「サクラ・アベニュー」と呼ばれている。

この桜が咲く9月後半には、毎年日本庭園を中心に「桜祭り」が開催されているという 

  
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2005年12月26日

◎えげつなかったマッカーサー元帥 “日本国の祝祭日を鎮魂の日に”

マッカーサー東京裁判では昭和天皇と今上天皇(当時皇太子殿下)のそれぞれの誕生日と裁判の節目を重ね合わせ、日本国民が今後100年は祝祭日に国を挙げてお祝いが出来ないようにセットしたのである。

 

ところがGHQの思惑と違って薄情なもので日本国民は戦犯とされた当時の戦争指導者・要人の無念の日は覚えておらずノー天気な国民に成り下がっている

 

いまや国民の関心事は祝日の意義も知らず、ただ何日間休みが取れるかだけである。

政府も祝日の意義よりも休暇を多くすれば経済効果が上がる程度にしか考えておらず、こんな馬鹿な祝祭日を設定したのがポピュリスト親分の森元首相

 

国民は何のための祝日かを知らないヒトが多いですよ!

 

     昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)

  GHQが東京裁判の起訴状を交付し、A級戦犯の被告28人の名前を発表した

 

     昭和23年12月23日(現在の天皇陛下の誕生日)

  絞首刑が宣告されたA級戦犯7人への刑が執行された

 

     昭和21年2月11日(紀元節、現在の建国記念の日)

    開戦時のフィリピン攻略軍の司令官でB級戦犯として起訴された

    本間雅晴中将の銃殺刑が宣告された日

    マッカーサーがコレヒドールで惨敗し

    “I Shall return !”と言って、

     フィリピンを追い出された時の司令官が本間中将

     昭和21年4月3日(神武天皇祭)

  本間雅晴中将の銃殺刑が実行された日

 

  
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2005年10月27日

◎民主党の野田国対委員長が、「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」と正論を吐く。

東京裁判の被告私にとっては極めて当たり前の話ではあるが、民主党にも感情論に流されず過去日本のやってきたことをキチット受け止め、正論を吐く人物がいたということは民主党の将来にも希望が持てたといえる。

 

もっともこの野田国対委員長の父親は防衛大学校の1期生で現役当時“軍神野田”といわれたヒトと聞けば筋金入りだとわかるはず。

 

今回の質問趣意書の内容は「サンフランシスコ講和条約と四回に及ぶ(戦犯釈放を求める)国会決議と関係諸国の対応によって、A級・B級・C級すべての『戦犯』の名誉は法的に回復されている」と主張しており、極めて妥当な話である。

 

政府からの答弁書も「(極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した)刑は、わが国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と指摘。

A、B、C各級の「戦犯」は、国内では戦争犯罪人とはいえないことを明確にした。

これにより朝日系、毎日系、日経系、NHK反対派の論理が破綻したといえる

 

****************************17.10.26 産経から引用

○野田氏の質問主意書要旨  

 民主党の野田佳彦国対委員長の質問主意書の要旨は次の通り。

 「A級戦犯」と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国参拝に反対する論理はすでに破綻している。

「A級戦犯」に対する認識を再確認することは、人権と国家の名誉を守るために、緊急を要する。

 「A級戦犯」として有罪判決を受け禁固7年とされた重光美は釈放後、鳩山内閣の副総理・外相となり、勲一等を授与された。

同じく終身刑とされた賀屋興宣は池田内閣の法相を務めている。これらの事実は「戦犯」の名誉が国内的にも回復されているからこそ生じたと判断できる。

 重光、賀屋らの名誉が回復されているとすれば、同じ「A級戦犯」として死刑判決を受け絞首刑になった東条英機以下7人、終身刑ならびに禁固刑とされ、服役中に獄中で死亡した5人、判決前に病のため死亡した2人もまた名誉を回復しているはずである。

  「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判当局が事後的に考えた戦争犯罪の分類であり、法の不遡及(ふそきゅう)、罪刑法定主義が保証されず、法学的な根拠を持たないと解釈できる。

  
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2005年09月25日

◎東條由布子さんの怒りのメール

東條英機

いまネットで東条英機の孫で、A級戦犯合祀問題で、時々マスコミにお出になる東條由布子さんが石原慎太郎・佐々淳行の両氏に対する怒りのメールを公開している。

東条英機に対するかなり侮辱的な発言があり、肉親としては許せなかったのであろう。

 

私は1000以上の処刑者を出した連合軍が行った戦争裁判は国際法違反であり、これを認める立場にはない。

また昭和28年8月3日に「戦犯の赦免に関する決議」を衆議院において全会一致で可決した時点で戦犯はいない。国民は納得したと見るべきであろう。

国会決議で戦犯から解放したヒトをその後も罪人にするのか

日本人には馴染めないことである。

 

 

 ○敗戦責任を認めていたかどうかといえば明確に認めている。

・東條の宣誓口述書で「敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります」(極東国際軍事裁判速記録に明記)。

     「パシフィック・スターズ&ストライプ」紙も「東條は太平洋戦争と本の敗戦の責任を認めた」述べている。

     処刑直前に残した遺言(花山信勝教戒師の筆録)でも「国内的責任については死をもって贖(あがな)えるものではない。中略・・国内的責任については満足して刑死につく

このように日本に対する敗戦責任を認めていたのである。

 

私はこんなことも考える

日露戦争は世界最強と言われた陸軍大国であり、世界が恐れたバルチック艦隊を誇るロシアに勝てる保障はあったのだろうか。

なかったけれど国家存亡の危機に立ち上がらざるを得なかった。

まさにイチかバチかの勝負であった。

 

大東亜戦争もアメリカの国家戦略(オレンジ計画)で追い込まれて立ち上がらざるを得なかった。

勝敗は時の運である。軍人として戦ったこともない人間が勝敗が決した後で、なにを言っても許されるというものではないと思う。

 

ネットで公開されていたメールだったのであえて紹介する。

 *****************************************************ここから引用

○東條由布子さんの石原慎太郎批判メール

>00様

貴方の「大西中将、阿南大将が靖国神社に合祀されていないとは知らなかった、靖国神社は考えなければならない」という貴方の感想を読んで危機感を覚えました。

新聞はこんなに大きな影響を及ぼすのですから、何かを書く場合、話す場合、よほど精査してかからないといけませんね。
お二人とも早くから合祀されております。

遊就館の中で、阿南閣下の血染めの遺書が一番目立つ遺品ですから、石原さんは、ただの一度も、新・旧の遊就館に行かれていない証拠になります。真実を貴方にもお教えしたく思います。

「MPが来たので慌てて陰に隠れて、死ねるはずもない22口径の拳銃で撃った」とまことしやかに書いておりますが、そのいきさつは、様々な書物を読めば判ることです。私の本にも書いてありますので、是非読んでくださいませ。

念のために書き添えます
東條と日本政府の間には、日本政府が逮捕にくるという誓約がなされていたのです。何故なら、大東亜戦争は国際法には違反していない自衛戦争だったと言う確固とした大義が日本にはありましたから。

従って、「連合軍が逮捕に来た場合には自決する」と祖母にも、お手伝いさんにも護衛の巡査にも宣言していました。60年前の9月11日,くしくも投票日の今日です。逮捕に来た連合軍が持っていた令状は日本政府のものでは無かったのです。

東條は打ち合わせ通り、皆で手分けして家中の鍵を締め祖母を裏庭から逃しました。自決を成功させるため、連合軍が入ってくるまでの時間稼ぎに応接間にはバリケードを造り、かねてから机の上に用意していた拳銃で撃ったのです。恐らく利き手の左手で撃ったのでしょう。

決して、石原さんが言っているように慌てふためいて陰に隠れて撃ったわけでもなく覚悟の自決だったのです。それから、3年3ヶ月、東條は日本国の弁護のために、散って逝った多くの部下たちの名誉のために、命をかけて法廷で戦いました。その間、自決未遂については、様々に嘲笑され、軽蔑されようとも、一言も弁解はしませんでした。

そして、処刑の5分前に東條は花山教戒師に『自決に使用したのは古賀の拳銃だったことを妻に伝えて欲しい』と頼みます。何故なら、昭和20年8月15日に、自決した娘婿の古賀の死を悼み、自決することになったなら、古賀の拳銃を使用することを心に決めていたのでしょう。

しかし、軍人として、戦争指導者として、自決未遂だったのは、「初めて使用した拳銃だった、或いは銃身が長く重かった」など口が裂けても言えないことだったのです。死に赴く5分前に祖父はこの世で最初で最後の弁解をしたのです。

当時の医学では救命は不可能といわれるほどの出血多量で瀕死の状態にあった祖父に、米軍は応接間で最高の応急処置を施し大森の軍の病院に入れたのです。

『東條が握っていた死ねる筈も無い22口径を見てMPが失笑していた。』などと、石原慎太郎さんは冷たく書き放し、佐々淳行さんも「軍人のくせに未遂するような、だらしない東條は靖国神社から分祀せよ。」などと書いておられますが、余りにも冷酷無比ではないでしょうか。

国家、国民に対して、開戦及び敗戦の重責を詫び、死をもって償おうとする日本の首相に向かって、これほどの侮辱に満ちた言葉はないでしょう。東條の心情を思うと、一人の人間として、日本民族の一人として、石原さん、佐々さんの言動を許すことが出来ません。

真実を知って欲しくて長いメールをしました。どこに転送していただいてもかまいません.

 

靖国神社と鎮魂

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/cat_1228494.html

 

  
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2005年08月13日

◎日本軍人・軍属に対する国際法違反のシベリア抑留

ラーゲリー分布図

11日の読売にロシアのコワレンコ氏死去の記事が出ていた。

彼は戦中戦後一貫して対日工作の総責任者で、日本人抑留者に対する過酷な取り扱いを指揮し、62千とも約7万人とも言われている酷寒と食料不足、日本人を使った洗脳教育のありとあらゆる悪事をやってのけた男である

 

●海外の邦人引揚

終戦を海外で迎えた邦人約660万人の中でもっとも辛酸を舐めたのは、旧満州(現中国東北部)などソ連占領地域にいた約二百七十二万人だった。日本国内との通信が途絶する中、ソ進軍将兵による略奪、暴行が繰り返され、このうち約六十二万人はソ連領内に連行・抑留され、約七万人が死亡したとされる。

 

●ソ連軍の満州攻略

 一九四五年八月九日、突如対日参戦して満州、朝鮮半島北部、南樺太(サハリン)に進駐したソ連軍に関する記載から始まる。「九日未明、ソ連極東軍各部隊は東・西・北各国境を突破して潮のごとく国内へ進軍」し、「同日夕刻には、東部国境一帯を完全に制圧下に置」いた。これに対し、満州に駐留していた関東軍は「潰走して続々後方へと退避」し、早々に「壊滅」 (満州における日本人状況)状態に陥った。

 

●ソ連軍の暴行・略奪

 占領下では「ソ連将兵による想像を絶する略奪、暴行」が行われた。「溶鉱炉、ダムの発電機」のような産業施設や中央銀行などの保有する「金塊通貨」が「徹底して撤去」されたほか、個人所有の「時計、貴重品を始め衣類トランク等に至るまでが強奪」され、また「婦女子に対する拉致ヽ暴行」(満州国の終焉と居満邦人の状況)が横行した。

 

●拉致・連行

 こうした中、九月には日本人将兵のソ連領への送致が開始された。また、ソ連軍は同じころから「捕虜数の不足を補うためか」 (満州に於ける日本人状況)、軍人以外の一般男子をも街頭や家から拉致し、捕虜と一緒に移送した。

 もっとも当初は、拉致された将兵らがどこに連行されるのか、はっきりつかめなかった。「兵は寒地被服を着用せしめられ、シベリア行を覚悟しあり」との報告(4511 ・19)からは、その移送先を必死で確認しようとしている日本側の様子がうかがえる。

 

●抑留

 千人単位の作業大隊に編成された将兵らは、シベリアを中心に、ソ連全域に散在する収容所に収容された。

 公開されている外交史料には、収容所の位置と名前を詳細に記した分布図が含まれ、日本政府四七年七月の時点で四百五十六か所、大方の引き揚げが終了した五一年四月の時点では、千百六十三か所の収容所について把握していたことがわかる。

**************************************読売(8.11付け)から引用

「シベリア抑留」関与コワレンコ氏死去

  【モスクワ‐古本朗】旧ソ連共産党の対日政策責任者で、第2次大戦後、旧日本軍将兵らがソ連各地で強制労働に従事させられた「シベリア抑留」に深く関与したイワン・コワレンコ元ソ連共産党国際部日本課長が7月27日、モスクワ市内の病院で病死していたことが、関係者の証言でこのほど明らかになった。87歳だった。

 ソ連時代、対日恫喝外交の信奉者として知られたコワレンコ氏は1918年、極東の沿海地方に生まれ、ウラジオストクの極東大学で日本語を学んだ。

ソ連軍に連行された日本人抑留者の収容所では、抑留者を親ソ派に洗脳するための「民主化運動」が展開され、その一環として抑留者向けに「日本新聞」が発行されたが、コワレンコ氏はその編集責任者だった。

 1950年代からは党中央委国際部で対日政策を担当し、日本課長を経て副部長の要職に就いた。たびたび訪日し、与野党を問わず日本政界と太いパイプを築き、辣腕を振るったが、89年に引退した。

************************************ここまで引用

日ソ両政府は国交を回復した1956年の日ソ共同宣言で抑留者の帰還や賠償請求権の放棄などで合意、問題は両国で可決済みとされている。1947年から1956年にかけて、473000人の抑留者の帰国が行われたが、様々な事情(ソ連当局のオルグを受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地人女性と恋仲になった、など)で帰国を拒否してソ連に残留し、帰化した人もいる。この年の十一月二十七日、条約案は、衆議院本会議を通過した。ソ連は直ちに動き、最終の帰国集団、1025人の抑留者を乗せた興安丸はナホトカを出港し、十二月二十六日舞鶴港に入港した。

この1000名余りの人々は11年間もジュネーブ条約に違反して抑留されていたことになる。


シベリアの日本人捕虜たち―ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実
ラーゲリ―シベリア捕虜収容所そこで何が行われたのか
アルバム・シベリアの日本人捕虜収容所  
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2005年08月02日

◎ドイツ人捕虜が連合軍(米・英・仏)によって60万人も虐待死させられたことをご存知ですか?

アイゼンハワーの狂気

日本軍捕虜に対して狂気とも言うべき米軍の惨たらしい殺人を「リンドバーグの戦中日記」で紹介しました。

ヨーロッパでは余り聞こえてこなかったのでゲルマンは所詮白人だからなかったのだろうと思っていたら、こんな資料が出てきました。

それは「OTHER LOSSES」という著書である。その一部を紹介する

1950年、戦後5年も経てからドイツのアデナウワー首相は議会で、140万7千人のドイツ人捕虜が今も連合軍捕虜収容所に入れられているという声明を出した。これに対する米・英・仏の回答は100万人以上もの行方不明者はソ連の強制収容所で死亡しているか、さもなければ監禁されている筈だというものであった。

西側の人間はソ連ならやりかねないとこれを素直に受け取った。

しかしこれはとんでもないウソだったのである。

 

敗戦国ドイツの将兵が収容された米仏管理下の捕虜収容所はドイツ、フランス等を合わせて1800箇所、米軍捕虜収容所内の全戦死者は1945年9月末まで60万1533人であると見られている。捕虜が全員釈放される46年までには死者数が更に増えているものと見られる。(「捕虜・武装解除敵軍」の統計資料の中の「OTHER LOSSESの項目を分析調査した結果) 

*******************************「アメリカの封印された汚名」から引用

●米軍捕虜収容所の実態

 一九四五年四月、西部戦線で降伏した百万人以上のドイツ兵の大多数はライン河畔の「捕虜仮収容所」に集められた。

 

 しかし収容所とは名ばかりで、何もない大地に鉄条網を張り巡らしただけのところだった。四月の寒空の下、捕虜たちはテントも食料も与えられず昼夜、野外で過ごさなくてはならなかった。次に紹介する収容所内の状況は、バック自身の捕虜体験者へのインタビューに基づく。

 

 夜、暗い穴に横たわる男たちの上にサーチライトのまぶしい光が投げこまれる。彼らは自分たちの頭上、サーチライトに照らされた穴と穴の間の細い道に立っている黒ずんだ男たちの姿を不安気に眺める。この男たちは水をもらいにいくために一列に並び、すべりやすい土手道を一晩中足を引きずりながらのろのろ歩いていた。

 

☆カール・フォン・ルティヒョーの場合

カール・フォン・ルティヒョーは戦闘で捕まったのではない。家に入ってきたアメリカ軍に進んで降伏したのだ。彼は長息いで療養中だった。降伏しなければ地下抵抗をたくらんでいると告発されるかもしれないと思ったのである。

 「私たちはほとんど食べ物もなく、人で埋まった鉄条網の収容所でずっと野外暮らしをしていた」

 彼はドイツ・ライン河畔のレマーゲン近郊にあるクリップ収容所について語った。

 

「便所と言っても、鉄条網の柵の隣の掘割に丸太を渡しただけだった。眠るために私たちができることと言えば、地面に穴を掘り、寒さをしのぐために捕虜同士しがみつくぐらいだった。収容所は鮨詰め状態だった。病気になった捕虜は地面に排便しなくてはならなかった。しばらくすると、多くの捕虜がひどく衰弱し、まずズボンを脱ぐことができなくなった。だから、衣服は病原菌だらけだった。私たちが歩いたり、座ったり、横たわっている泥も病原菌で一杯だった。

 

 当初は水も与えられず雨だけが頼りだった。二週間後に貯水塔から少し水をもらうことができた。しかしほとんどの者が水を運ぶことができず、数時間、時には夜通し行列してやっと数ロ飲めるだけだった。穴を掘って地面に投げ上げられた軟らかい土の上を、穴に落ちないように歩かなくてはならなかった。だからよく穴に落ちて、なかなか這い上がることができなかった。

 

 その春、ライン地方はほとんど雨降りだった。半分以上が雨だった。そして半分以上の日は、まったく食料を与えられなかった。食料は少量のK号携帯食料(第二次世界大戦中に用いられた非常食、三箱で一日分)である。私が与えられる量はその箱から判断してな米兵たちの十分の一であることが分かった。米軍の標準の食事のおそらく五パーセントだ。

 

私は米軍収容所の所長にジュネーヴ条約違反ではないかと文句を言ったが、『条約など忘れてしまえ、ここではお前たちに権利はない』と言われただけだった。数日も経たないうちに、健康を害した捕虜が死んでいった。収容所の門の方に多くの死体が引きずられていくのが見えた。死体は門のところで、トラックに互い違いになるよう無造作に投げ込まれ運び去られた」

 

☆ゲオルク・ヴァイスの場合

 戦車の修理を担当していたゲオルク・ヴァイスはぎっしりと捕虜の詰め込まれたラインの収容所にいた。

「きちんと横になることもできなかった。お互い体がくっついていたので、一晩中体を起こしていなければならなかった。

 

だが、水がないのが一番堪えた。三日半の間、水は一滴も与えられなった。私たちはよく自分の尿を飲んだ。ひどい味だったが、ほかに何ができたろう。捕虜のなかには身を屈めて、地面の湿り気を舐めていたものもいた。やっと少し水が飲めた時には、私はひどく衰弱していて立つこともできなかった。水がなければ死んでいたと思う。ライン川は鉄条網のすぐ側を流れていたのに。

 

 看守は鉄線ごしに水や煙草を売っていた。煙草ひとつが九百マルク。何千人もの人が死んでいくのを見た。看守はトラックに死体を乗せ運び去っていった」 

 

☆ウォルフガング・イフの場合

ウォルフガング・イフは、ラインベルグの推定一万人ほどの収容所で毎日三十人から四十人の死体を引きずり出していた。彼は埋葬要員の一人で、収容所でどんなことが行われていたかしっかり把握できる立場にいた。

 

彼は収容所の門まで死体を引きずる手助けをしていたので余分に食料を与えられていた。埋葬要員は、いくつかある大きな鋼鉄製の車庫に一輪車で死体を運び込んでいた。そこでイフたちのチームは死体から衣服を剥がし、軍人が首からかけているアルミニウムの認識票をポキリと半分に折り、死体を広げて十五から二十体積み重ねて、積んだ死体が1メートルほどの高さになると、生石灰をシャベルで十回かけた。それからアメリカ人のバッグのなかに死体の所持品を入れて立ち去った。

 

死体のなかには四月の凍えるような夜、しもやけに苦しんだ後、壊疽になって亡くなった者もいた。あまりに衰弱が激しく便所の溝に渡した丸太にしがみつくことができずに落ちて、溺れ死んだ者もいる(そのなかには十四歳の少年もいた)

 

時には一日二百人もの死者がでた。同規模の収容所で、イフは一日六十から七十の死体が引きずり出されるのを目撃した。

「トラックが動き出すとこの寂しい貨物も揺れ動いた。ほんとうに背筋の凍る光景だった」とイフは語る。

 

捕虜は死体がどう始末されるのか知らされていなかったが、ラインベルグにおいて五〇年代にドイツの建設作業員が、そして八○年代には墓掘人が棺も墓標もない共同墓地で、第二次世界大戦中のドイツ軍のアルミニウム製認識票とともに、もはや姿をとどめぬ遺骨を発見している。

 

三百メートル四方に三万人 長い間、ラインベルグの収容所で問題になっていたのは人間が鮨詰めにされていることだった。約三百メートル四方の囲いには、当初一万人の捕虜を収容することになっていたが、三万人もの人間が押し込まれた。一人につき三平方メートルの空間しかなかった。捕虜のテレンは、有刺鉄線越し

に息子に一日三百三十人から七百七十人が死んでいるとささやいた。その時、収容所には十万から十二万人の捕虜が収容されていた。

 

 ラインベルグの牧師がケルンの大司教と連れだって、米軍の収容所長に抗議に行った。大司教は法王ピウス七世に直接手紙を書いたという噂だった。しかし、ヒトラーの死の収容所にも平然としていた法王からは、相変わらず今まで通りなんの音沙汰もなかった。

 

☆ハインツ・Tの場合

 ハインツ・T(匿名を条件にインタビューに応じてくれた)がまだ十八歳になったばかりの四月十八日、入院中の病棟に米軍が入ってきた。患者は全員パート・クロイツナッハの収容所に連れて行かれた。何万という人と一緒にパート・クロイツナッハに移されたとき、彼が身につけているものといえば靴とシャツと半ズボンだけだった。収容所は、狭い田舎道と西へ続く低い山並みの間の長い平野に広がっていた。ここで彼は(強制労働でフランスに引き渡されるまでの)数週間、屋根もないところで、食も水もほんのわずかしか与えられず、郵便など自分の状況を知らせる手段さえ奪われて過ごした。

 

 「アメリカ人にはほんとうに腹が立った」とハインツ・Tは開ロー番ロにした。収容所に樹木があったとき、捕虜のなかに大技を切って火を燃やしたものがいた。看守は火を消すように命令した。多くの収容所では、シェルター用に地面に穴を掘ることも禁じられていた。

 

「食べることができたのは草だけだった」 捕虜のなかにはクルミの木に登って、その葉をたばこや食料にしているものもいた。ハインツは最年少の捕虜ではなかった。六歳ぐらいの子供、妊婦、六十歳以上の老人も収容所の捕虜に含まれていた。収容所の記録はほとんど廃棄されているので、どれくらいの民間人が収容されていたのか知る者はない。しかしフランスの報告によると、アメリカがおそらく労働力としてフランスに引き渡した捕虜約十万人のなかに、三万二千六百四十人の女性、子供、老人がいたことが明らかになっている。バート・クロイツナッハの報告を作成したヴァレンタイン・バーンズ中佐は四月二十二日、「A−3収容所で女性捕虜が女子を出産した」と記している。

 一九五〇年、西ドイツ首相アデナウワーは行方不明者には兵士ばかりでなく、十九万人の民間人も含まれていると議会で公表した。この行方不明者のなかには米軍収容所の捕虜になったものも多かったはずである。

*********************************ここまで引用

     誰が捕虜の虐待を命じたか

その人の名はドワイト・D・アイゼンハワー英米軍総司令官(後の34代アメリカ合衆国大統領)である。

当初のドイツ占領政策はモーゲンソー・プランでドイツの再起を防止し、その産業基盤を根絶やしにすることを狙った。この推進者はまさにアイゼンハワーであった。

 

     なぜアイゼンハワーはドイツを目の敵にしたか

イギリスとカナダの軍隊がオランダに進軍しているとき、ドイツ戦線の背後に閉じ込められる格好になったオランダの民間人が飢餓に陥る恐れが出てきた。アイゼンハワーはドイツに対してオランダに食料を供給するよう求めたことがある。無視されたことにより「私はコケにされた! ドイツに仕返しをしてやると怒ったという。強制収容所で行っている身の毛もよだつ話にドイツ風の自分の名前を恥じるようになったという。

 

     この捕虜虐待がなぜ外部に漏れなかったか

・全マスコミを支配下に置き検閲をした。

     米仏軍は死者の数を何十分の一にでっち上げた。ドイツも支配者に対するヘツライからあえてインチキ数字を受け入れた                

     後になってもこれを追求するとアメリカとウソを認めたドイツの敵になるのを避けた。中国・韓国に対する日本の対応と同じである 

     関係者が公表しようとするとペンタゴンが圧力をかけて潰しにかかる。

 

勝てば官軍何やっても許されるのか

我々は勝者の犯罪に目をつぶってはいけない。

日本のなかにも進駐軍(GHQ)に取り入り、時の権力者に媚を売り同胞を支配しようとした学者がいた。

その代表者が横田喜三郎 

戦後は天皇批判をやり最高裁長官までやり、最期には昔のことにはほお被りをして、文化勲章まで貰った悪党である。

 

  
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2005年06月17日

◎リンドバーグの衝撃証言

米兵の日本兵に対する非人道的扱いを告発した資料は少ない。何故かと言えば戦後GHQが情報統制をし、占領軍に不利になる記事は公開させなかったのである。

例えば米兵の犯罪行為を記事にした新聞は発行停止にし、ラジオ放送も統制した。また「真相箱」と言う番組で「悪しき国日本、日本軍は残虐」であるを基本に国民を洗脳し、徹底して占領軍の不利になる話を握りつぶしたのである。

しかしここに現在、絶版となっているチヤールズ・A・リンドバーグ著の『リンドバーグ第二次大戦日記()(新潮社、1974年)がある。

 

 チャールズ・A・リンドバーグ(1902〜74年)

アメリカの飛行家。1927年5月、二ューョークーパリ間を愛機「セントルイスの魂」号で33時間30分かけて飛び、世界初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した。

 

日本の敗色が濃厚になった44(昭和19)年4月から9月までの南太平洋における日米戦について書かれた「戦時下の南太平洋にて」の章は、日本兵に対する米豪軍の日を覆うような残酷なやり方が赤裸々に記述されているので紹介する。

 

リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋◇下巻「戦時下の南太平洋にて」(1944年4月〜1944年9月)から

*******************************************************

ライフ誌に載った日本人の頭蓋骨のお土産*6月21日水曜日

 日本兵士殺害に関する将軍の話一数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう2年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく―帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

 

軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊

は一人の日本兵を捕虜にした。…「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちえっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。

 

*6月26日月曜日

 8時38分、第三滑走路からP38で離陸し、ニューギニアの密林を越えてボランデイアヘという直線コースの針路をとる。天気良好。小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品(スーベニア)として10ポンド(33ドル)の値打があると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。

 

●談たまたま捕虜のこと、

日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」

*****では2千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。

 

もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる

 

*六月二十八日水曜日

 第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。…略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。

 

日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。

 

*7月24日月曜日

 …十分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。…午後、クロード・スタップス少佐ら数人の将校とジープでモクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。そこには一人の日本軍将校と、10人か12人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。

 

頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。

なかには四肢がバラバラになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。

 

洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。穴の底には5入か6入の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。

 

敵を殺す、これを理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。

 

*8月6日日曜日

 明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜の問題を語し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。

でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段と速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。

 

とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう-そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。

 

大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」

 

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

 別冊歴史読本21孤島の戦闘玉砕戦

GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 小学館文庫

 残り半分を続いてどうぞ

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2005年05月20日

◎戦犯と名誉回復 処刑された7人の国家指導者(法務死)はどこに祀られているか

石碑池袋のサンシャインビルの傍らに『東池袋中央公園』がある。その片隅にこじんまりした石碑がある。

周辺の人間も、公園に涼みに来る二人連れも何の『碑』かわからない。

周辺の案内板にはただ『碑』とだけ書いてあり碑の説明もない。

 

正面に書かれている碑文は「永久の平和を願って」、後ろに回ってようやく東京裁判の被告人でA級戦犯が絞首刑になったところだということが判る。

その小さな公園にはホームレスが10人ほど住み着いており、お賽銭箱を時折覗き、お賽銭を失敬している。

 

石碑88昭和231223「今上天皇(当時皇太子)の誕生日」に処刑された7人の遺体はまもなく横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。皇太子の誕生日に合わせて、このようなえげつない事を平気でやるのもアメリカである。

遺骨は遺族に引き渡されることなく、米軍により砕かれて東京湾に捨てられてしまった。ちなみに、ドイツのニュルンベルク裁判で死刑となった12人(自殺したゲーリングを含む)の遺体は焼却され、川に捨てられている。

碑文しかし、1225に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人とも混ざってしまったが)を密かに回収し、戦死した彼の甥の名で近くの興禅寺に預けた。

 

そして、昭和245月に伊豆山中の興亜観音

http://www.geocities.jp/koa_kan_non/)に密かに葬られた。

その後、昭和35818愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移された。

三ヶ根山には殉国七士廟http://www.burari2161.fc2.com/jyunkoku7si.html)が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。

 

○戦犯の名誉回復

戦勝国から戦争犯罪人に指定された方は A級とBC級合わせて 5700名がいます。
その後の国民世論として、戦争に負けたとはいえ戦犯に対する思いは、決して悪いものではなく、むしろ同情的でした。


1953には、国会で「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が可決され、関係諸国の同意もとに、A級・B級・C級の戦犯達は釈放されました。


また、1954から「戦傷病者戦没者遺族等援護法」にて、戦犯の遺族達も一般の戦没者の遺族と同じように遺族年金や弔慰金が支給され、1955年からは、裁判での拘禁期間も在籍期間とする恩給も支給されるようになりました。


このように、日本政府は、戦犯達もA級・B級・C級の区別を問わず扱っており、軍事裁判での死亡者は一般戦没者達と同じように「公務死」または「法務死」として扱っている。

1956
年から厚生省は、靖国神社の合祀事務を開始した。

各都道府県と協力し、一定の合祀資格のある者を祭神としてリストアップし、靖国神社に「祭神名票」として通知しました。

靖国神社では、その名簿を受け新しい祭神として合祀していきました。


1966年には、A級戦犯達の名簿が靖国神社へ送付されましたが、国会で「靖国神社法案」が提出されるなど諸所の問題があり、合祀は数年見送られました。しかし、1978年にはA級戦犯達も合祀されました


このように、戦没者の合祀には、厚生省が名簿を作り、それに基づいて靖国神社が合祀しています。

 

今日、戦犯の合祀については、厚生省は「靖国神社が名簿を送ってくれというから送った」と言い訳し、靖国神社は「厚生省が名簿を送ってきたから合祀した」と言い訳し、まったく意味の無い議論が見られますが、元々、陸海軍省がやっていた祭神名簿作成を厚生省が引き継いだという経緯もあり、官民一体となって行っている作業だといえます。

 

日本がGHQの支配下から離れてやったことは戦犯として恥辱の扱いを受けていた人々の汚名をそそぐことでした。

 

政治家も、一般国民も一体となって彼らの名誉回復に努めたのです。

ところが最近、朝日を中心とする反日新聞が勢いを得て、中国・韓国と一体となって日本を貶めている。

 

これらが続くうちは誇りある国とは言えない。

戦後60年、還暦を迎えて新しく生まれ変わる年でもあります。

はっきりとスジを通さない日本の外交は諸外国の笑いものになっているということを深く認識しなければならない。



巣鴨プリズン13号鉄扉―BC級戦犯とその遺族
巣鴨プリズン13号鉄扉 裁かれた戦争犯罪
看守が隠し撮っていた 巣鴨プリズン未公開フィルム
昭和史の謎を追う〈下〉  
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2005年05月02日

◎やりきれない日本人の習性

久しぶりに帚木蓬生(ははぎほうせい)の『逃亡』という長編小説を読んだ。

スターリン内容は戦時中香港で諜報活動をしていた憲兵隊の軍曹が命からがら日本に帰国したにもかかわらず、今度はC級戦犯敵性国人に対する虐待の罪)として日本警察に追われる話である。

そこには自分が手下として使っていた中国人スパイとの厚情と交情、高級将校の潔さと卑怯な振る舞い、戦友たちの身を挺した支援等が戦時中の香港と終戦直後のヤミ市を舞台に歴史的事実に基づいて描かれている。

2日間かけて読み通したが読んだあとはどっと疲れが出るヤリキレナサだけが残った。

自分には「これは何なんだ!」いう思いをさせるものが大きくは2つある。


逃亡〈上〉
巣鴨プリズン13号鉄扉 裁かれた戦争犯罪
アルバム・シベリアの日本人捕虜収容所
シベリアの日本人捕虜たち―ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実

 1つ目は64万人ものの日本人が国際法に違反しているにも拘らず、旧ソ連によってシベリアの強制収容所に抑留された。

そこでは奴隷的で過酷な取り扱いをされ、その1割の6万2千人が餓死し、凍死させられた

このとき同じ日本人でありながらスターリンの手先になって、共産主義になびかない日本軍人・軍属をつるし上げ苦しめた連中がいた。こいつらが引き上げ船で舞鶴港に上陸するや、「天皇島上陸!」と叫び出迎えの家族を省みることなく、徒党を組んで行進したという。また東京では代々木の共産党本部まで労働歌を歌って隊列を組んで行進した画像が残っている。

ドイツや、ポーランド、ルーマニア等の捕虜はお互いに助け合い協力し合って生き抜いたというのに、この連中は同じ境遇であった日本人を裏切り、長いものに巻かれろの腐った精神で生き抜き、戦後の共産党をつくりあげたという事実。

2つ目はGHQ(戦後占領軍)の手先となって戦犯に名指しされた旧軍人・軍属たちを追い回し、戦場となった国で実施された軍事裁判(50ヶ所)にわざわざ連行し、刑場に送り込んだ日本の警察。

彼らは任務に忠実すぎるくらい真面目であったことを責める事が出来ない。日本人の特性で官吏として忠実に役目を果たしたとしか言いようがないのである。

この戦犯裁判で有罪となり死没した方は 1068名(その8割が無実の報復裁判であったと言われている)

平均年齢 38.74歳、

年齢幅 22歳〜85歳

台湾系日本人24名、

朝鮮系日本人21名を含む

そして戦犯に名指しされた家族に対する日本国民の冷たい眼差しがあった。

彼らの家族は日本の片隅で息を殺し肩をすぼめて生きてきたのです。

朝鮮系日本人の遺骨は「親日のレッテル」を貼られることを恐れて、いまだに故郷に帰れない方もいると言うことです。

武士道の国といわれながら韓国・朝鮮、中国の儒教国特有の事大主義いわゆる権力あるものに媚びるいやらしさと同様の習性が日本人にもあるのかもしれない。

  
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