2005年12月05日

◎「百人斬り」って何だあ!

野田・向井少尉17年8月23日、東京地裁でいわゆる「百人斬り」名誉棄損訴訟の判決があった。

残念ながら野田・向井の両少尉(当時)の遺族の訴訟は敗訴判決になった。

9月5日、東京高裁に控訴し、逆転判決を目指すという。

 

いわゆる「百人斬り」事件については多くの方が知っていることと思うが、あらためてその実相を検証したいと思う。

 

○ 事件の概要

 昭和12年7月、中国・北京郊外で発生した盧溝橋事件が拡大して支那事変となり、上海付近に上陸した第16師団の歩兵第9連隊は、首都南京攻略の追撃戦に移った。

 

 この作戦中の11月、東京日日新聞(現・毎日)は、「百人斬り競争」の見出しで同連隊の野田・向井の両少尉(当時)が、南京攻略までにどちらが先に、日本刀で百人を斬ることができるかの、国民の戦意を高めるための現地からの虚報の記事を数回にわたって掲載した。

 

 ところが両少尉は、戦後の昭和23年になって、この記事が唯一の証拠となり、南京・雨花台で中国側によって銃殺とされた。

 

 この時、毎日新聞と当の執筆した浅海一男記者は、中国当局に創作記事であることを証言することもなく日を送り、さらにくわえて、それから20数年が経過した時点になって、今度は朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」というシリーズで殺人ゲームであったとする中国人の一方的聞き書きを同紙に掲載し、また、これを単行・文庫本として出版し、次いで朝日新聞社を離れた同記者は、平成11年に「南京大虐殺否定論13のウソ」(共著)と題するさらに誇張した単行本を発刊するに至った。

 

 一方中国にあっては、戦時下に掲載された両少尉の並んだ写真を等身大に拡大し、南京虐殺記念館と盧溝橋の記念館に展示しているとのことである。

 

 この一連の繰り返される虚偽報道に、長年耐え忍んでこられた野田・向井両家の遺族は、我慢の限界もこれまでと、平成15年4月に毎日、朝日両新聞社と朝日新聞の元記者等に対する訴えを東京地方裁判所に提起していた。

 

○当時の両少尉の立場は何かといえば

向井毅少尉は富山大隊の歩兵砲小隊長野田少尉は大隊副官であった。

 

軍事的な常識でいえば白兵戦(小銃を持った兵隊同士が銃剣で刺したり、斬ったり、撃ち合う接近戦闘)をやるのは尖兵長指揮する1個小隊であり、前衛に随伴して前進する歩兵砲小隊はこの立場にない。

 

歩兵砲小隊長は尖兵小隊が戦う前線から離れたはるか後方に位置し、砲弾を撃って白兵戦を支援する立場である。

 

大隊副官は常に大隊長の耳目となり手足となって大隊長を補佐する任務にある。

大隊長の命令で最前線の状況を確認したり、大隊命令を作成したり、命令を指揮下部隊に伝達したり、上級部隊に報告に行ったりする任務であり、敵兵とキッタハッタをやる立場にない。

 

二人とも白兵戦をやったとしたら日本軍の負け戦か又は任務放棄である。

 

日本軍を見たら蜘蛛の子を散らすように逃げる支那軍を相手に白兵戦はあり得ないといえる。

もし戦闘間に何人かの敵兵を叩き斬ったとしても、それは戦争中ですから当たり前の話で問題にすることは出来ないはずです。

 

日本刀で何人のヒトを殺せるかといえばせいぜい2・3人といわれている。それは血糊がまきついて棒のようになり切れなくなると言われている。

 

刀の重さと力で叩き斬るシナの青竜刀と違って、日本刀は芸術的ではあっても曲がりやすく、刃は鋭利なだけに欠けやすいともいえるのです。

 

少人数を相手に戦うには向いているけれども、白兵戦のようなぶちかましの戦闘には向いていないともいえるのです。

日本刀を扱ったことがあるヒトは理解できると思う。

 

 

平時の立場で戦いの実相を決め付けてはいけないのです。

 

 

 

野田 毅    鹿児島県出身

        陸軍士官学校

        歩兵第九連隊

        昭和二十三年一月二十八日没・三十五歳

        陸軍少佐

 

向井敏明    山口県出身

        京畿公立商業学校

        昭和二十三年一月二十八日没・三十六歳

        陸軍大尉

 

「英霊にこたえる会」から一部抜粋

  

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2005年07月06日

◎中国人が行った南京大虐殺

 

南京入城式いま南京大虐殺=日本軍という思いこみが一般化されている。

南京大虐殺とは実は支那人が過去何回もやっていることで、自分たちがやってきたことを日本軍がやったように見せかけ、それを外交カードとして日本に譲歩を迫るパターンが多い。まさに日本に対する謀略戦に勝利をしたといえるかもしれない。

 

我々日本人はシナの戦いの歴史といえば横山光輝のコミック「三国志」「史記」「水滸伝」が馴染み深い、日本との戦いでは白村江の戦、元寇の乱、秀吉の朝鮮征伐、そして近現代史の日清戦争、北清事変、第1次・第2次上海事変、シナ事変等日中の戦いはあっても一般国民には良く判らないのが現状だろう。特に明治以降の日中の戦に日本が勝利しているにも拘らず、思想戦に負けて自虐的な日本批判のオンパレードである。

 

中国の城もヨーロッパの城も、日本の城とは違って町全体が要塞であり、町全体を戦場として戦う。

 

光華門南京市は城壁に囲まれ、周囲34厖、山手線ぐらいの広さ、城壁は高さ10〜25m、城壁の幅7〜13mもある。

この要塞は市民を抱え込んで戦うため、優勢なときは市民を守ることが出来るが、負け戦のときは一般市民は袋小路に追い込まれ、逃げ場のない要塞のなかで大虐殺の憂き目に会うのである。

 

 高い城壁で囲まれた要塞攻撃では一般市民を巻き込んで多くの犠牲者を出すのは軍事常識ある。

過去に自分たちシナ人がやってきた南京大虐殺を日本軍の南京攻略戦にすり替えたと見るのが妥当と思う。

 

支那人は過去4回の南京大虐殺の歴史的記録がある

 

●中国人が行った南京大虐殺

–1回目  549年 侯景 梁の武帝の南北朝時代南京を包囲して陥落後、漢民族の「大虐殺」を行った。

•2回目 1853年 洪秀全 「太平天国の乱」において弁髪の清国軍の兵士(満州族)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われた。その後 洪秀全が権力闘争で「東王」の楊秀清軍を「大屠殺」した。

•3回目 1913年 張勲 「辛亥革命」のあとに清朝復活を企図して、「第二革命」への弾圧が行われ、弁髪でないものが数千人殺された。

•4回目 1927年 蒋介石が実施した北伐の国民革命軍が南京陥落直後に日・米・英の外国公館や領事館やキリスト教会を襲撃、強姦、殺戮を実施した。

 

20世紀中国が犯した大虐殺

•中国共産党による旧地主階級の粛正:        2千万人以上

•中国の文化大革命 紅衛兵による暴殺:   100万〜200万人

•中国人民解放軍によるチベット人の虐殺:  120万〜150万人

•カンボジャのポルポトによる自国民の殺害(中国が軍事顧問団)

             100万〜200万人

 

いま南京事件の記念館に飾られている人骨は年代測定をきちんとやっていつの時代のものかを検証する必要がある。

  


南京事件「証拠写真」を検証する
「南京事件」の探究―その実像をもとめて
1937南京攻略戦の真実―新資料発掘
「南京虐殺」の徹底検証

●論争の問題点

・南京事件の問題点は中国側指導者変わるたびに虐殺されたという人数が増えていくこと。〜記念館では30万人最近の指導者は60万人を主張している

・安全地帯に逃げ込んだ便衣服の兵隊を兵隊と見るか、一般市民と捉えるかである〜ジュネーブ条約では軍服を脱いだもの、階級章がつけられていないのはゲリラとして処刑しても良い。

・南京攻撃のときに人口は南京市に何人住んでいるか(権威ある数字は20万人

〜支那軍10万と市民20万のあわせて30万人を一人残らず殺すことは不可能

過去独裁者のいるところ必ず自国民の虐殺がある。

ヒットラーのように民主主義で選ばれたファシズムの信奉者は他国民を大量虐殺する。

スターリン、毛沢東、金日成の共産主義者は自国民を大量虐殺する。

そして自分のことを棚に上げて他国を批判するこれすべて共産国家のなせる業なり。

 

  
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2005年05月06日

◎復讐裁判と「百人斬り」の軍事的非常識

百人斬り第2次大戦後の軍事裁判で連合国により、日本の軍人・軍属又は政治家達が所謂戦争犯罪人として絞首刑、或は銃殺刑に処された。

今回はその真相に迫る。

 戦犯として有罪判決を受けたのは約6500名、その内、死刑判決を受けて殺された人が判決途中で病死した人も含めて1068名いる。

その裁判に関わる記録や文献を分析し、事実関係を照らし合わせた結果、冤罪、つまり濡れ衣を着せられた人が、その内の7・8割を占めていた。でたらめな理由で罪を着せられた全く関係無い人が殺されたのである。

 事実上、人身御供として敗戦の責任を彼等に押しつけたという事である。

 

 そもそも、戦勝国である米国を中心とする連合国が、敗戦国である日本を更に貶める為に「敗者の罪」を問い、処刑するというのは常識的に考えればおかしな事である。

このような裁判を「報復裁判」又は「復讐裁判」という。

戦争というのは外交と外交の戦いなのである。そこに勝ち負けによって正悪の所在が決まるという理屈は無いのである。世界中の戦争の歴史を見ても、それぞれに正義がある。

所謂、国益を懸けた正義と正義の戦い、それが戦争を考える時の基本である。

 

 いつも私が非常に忸怩たる思いをしている事がある。

それは戦犯という事で罪になった人達の汚名が未だ晴れずにいる事、その為に遺族が辛く悔しい思いをして来た事である。

「あの人は戦犯だからきっと悪い人だ。」等と戦後ずっと日本人からも後ろ指を刺され続けているのだ。

特に同じ日本人として、同胞たる日本人に対してそんな仕打ちをする事は本当に赦しがたいことなのだが、これも「お上は常に正しく、一般庶民を正しい方向に導くものである」という信仰がなせる業なのかも知れない。

 

 それらのその冤罪の例として、『百人斬り』というのがある。

これは大隊副官であった野田毅少尉と同大隊の砲兵小隊長であった向井敏明少尉、この2人が南京攻略戦において、どちらが先に百人斬るか競争を始めた。と当時の東京日日新聞(毎日新聞の前身)の浅海一男という記者が戦意高揚目的で虚構の記事を書いたのが事の発端で、そしてその虚報が罪とされ、両少尉は銃殺刑にされてしまった。

 

更に田中軍吉という中隊長も名刀『助廣(すけひろ)』で300人斬った。という虚報により罪を着せられ両少尉と共に銃殺刑にされた。 軍事に関わる者として常識的な判断をすれば、これらが如何に荒唐無稽であるかがわかる筈である。何故ならば、僅か10卍の行程で今から攻撃しようとする時に大隊長の副官や砲兵小隊長が百人斬りなど出来ようか? 

 

時間的にも補職的(役職)にも大いに無理がある。おまけに日本刀というのは人を斬ってもせいぜい2・3人と云われている。血糊と刃毀れによって、すぐ斬れなくなるもので現実的に不可能である。いま彼ら2人の名誉を回復するための裁判が行われている。

 

1970年11月 三島由紀夫と森田必勝が市谷の陸上自衛隊東部方面総監の部屋で割腹自殺をした。その時使った刀は名刀「関の孫六」、たった二人を介錯しただけでグンニャリと曲がっていたという。 それらの明白な矛盾点があるにも関わらず、「報復裁判」により彼等は殺されてしまった。

 

 北京の『中国人民抗日戦争記念館』には、この両少尉の並んだ写真が等身大で切り抜かれて展示されている。そして周りには「この日本人がこれだけ人を殺した」と残虐さを強調する様な記事が囲んでいるという。 

 

更に宮城県の小学校では歴史教育で『百人斬り』が事実として教育されていて、子供達は「バカヤロー!人で遊ぶんじゃねー!人間のクズめ!日本のはじ!」等と罵倒する感想文を書かせ、教師はこれに3重丸を付けている。

 

 常識的に考えられない様な虚実が今も尚事実として伝えられている。南京大虐殺があったとされる当時の記録によると、南京には兵隊も含めて全部で20万人位、多く見積もっても25万人位しかいなかったのだが30万人虐殺したとなっている。この30万人というのが一人歩きして今の世界の常識になってしまっている。

 

こんな事を我々はいつまでも許していてはいけない。そして今中国では虚構の塊「南京事件」を世界遺産に登録する手続きが進められている。これに対して日本の外務省は何ら手を打っていないという。 

 

様々な虚実が既成事実となって伝えられているけれども、「そんな事が出来る訳が無いじゃないか」と常識的な判断をし看破していく必要がある。軍事的な見地で物事を考える常識の持たない知識人が幅を利かす世の中、せめて防衛にかかわる人たちの声に期待したい。※参照:別冊歴史読本「戦争裁判処刑者一千」

 


仕組まれた“南京大虐殺”―攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ
『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究―中国における「情報戦」の手口と戦略
「南京虐殺」の徹底検証
「南京事件」日本人48人の証言
中国人の大原則―まだわからないのか日本人! 

  
Posted by wildhorse38 at 10:47Comments(0)TrackBack(0)