2015年06月16日

◎沖縄の知られざる真実「公務員天国」と「土建業者の闘い」

米兵とオンリー

10数年前、沖縄の戦跡めぐりをしたことがある。

ツアーではなくフリーの観光であった。

観光バスは沖縄の名所旧跡をまわりながら、当初は楽しく観光をしていた。

ガイドさんは歳の頃30代半ば、それなりに美人なのは良いけれど、沖縄戦について話し出すと、語り部に憑依(ひょうい)しておどろおどろしく戦禍の惨たらしさを語り続ける。

それが余り芝居じみていて、パフォーマンスにはウンザリしてきた。

「守礼の門」の意味するところも分からず、日本兵の残虐性ばかりカタル。

沖縄には公私で4回ほど行っており、長年の戦史研究でかなりの知識を持っているが、何なんだこれは・・・。

このバス観光は失敗であった。



NHKの放送はヒステリー婆さんのように戦争に関してしつこく無いか

最近NHKのドキュメンタリー、報道番組等が戦争ものを好んで放映しており、コメントも集団的自衛権に疑問を持たせるように仕向けている。

朝は習慣として6時前後に30分ほどノルディック・ウォーキングをやっているが、NHKラジオ放送でも沖縄からのリスナーがオスプレイの離発着の音がうるさいとか、語り部婆ちゃんの声が放送されている。

まもなく沖縄戦の終了の時期が来ているとは言え、ちょっとシツコイのではないだろうか。

まるで安倍政権への批判やNHK会長の籾井さんを引きずり降ろす画策ではないかと考えてしまうのである。



◆沖縄の本音と建前

平成26年度税制改正大綱において、沖縄県の要望を踏まえ、従来の金融特区を抜本的に見直した経済金融活性化特別地区の創設、情報通信産業振興地域等に係る地域指定権限等の沖縄県知事への移譲、航空機燃料税の軽減措置の対象路線の拡大等が盛り込まれ、沖縄振興特別措置法の一部改正案が、平成26年3月28日(金)に国会で可決・成立し、4月1日(火)より施行された。

本土復帰以来40年間にわたって、総額10兆円超の沖縄振興資金が注ぎこまれてきたという。今更「経済的遅れ」はないでしょうよ。

 平成343月までの今後10年間も、沖縄県とその市町村は、国内で最も財政的に優遇された自治体としての地位を保証された。

このような特別扱いがまかり通るのは何故か。

「経済的遅れ」は建前であって本音ではない。本音は「基地負担をお金で補償してくれ」というところにある。

沖縄の政治家、ジャーナリズムおよび知識人の多くは、「お金と基地とは関係ない」といいながら、「沖縄は基地負担・基地被害に苦しんでいる」と強調する。

「基地負担は本土による沖縄の差別だ」とまでいう。

知事を筆頭とする政治家、ジャーナリズム、労組、平和団体の活動家、知識人たちが半ば一丸となって展開する「基地負担軽減」「米軍基地撤去」のための運動が、「お金ではなく心の問題だ」といいながら、補助金獲得を支えている実態を直視する必要がある。

沖縄では非常識な論調が罷り通るほど、補助金に対する感覚が麻痺している。「もらうことは恥」ならぬ「もらうことは善」という風土が醸成されてしまっているというのだ。

沖縄学の泰斗である伊波普猷は次のように述べた。

沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いということである。生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。このご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる(「沖縄人の最大欠点」1909221日付『沖縄新聞』)

また戦後沖縄最大のカリスマ政治家・瀬長亀次郎は「恩を忘れ易いということ」を「乞食根性」と言い換えたが、「与える者は主人として崇めるが、与えない者からは去っていく」という沖縄的な気質を表したものだ。



◆公務員は支配階級

大企業のない沖縄で、本土並みの所得を得ているのはおもに公務員だ。

以前から夫婦そろって公務員の世帯は、沖縄では富裕層だという。

沖縄では誰でも知っていることだが、基地反対運動の主体も、民間ではなく公務員の労働組合である。事実、沖縄の基地反対運動の中核をなす沖縄平和運動センターは、官公労系館にある。一部の公務員が「県民の総意」の名の下に基地反対運動を展開しているというのが実態である。彼らこそが、先に触れた補助金集金メカニズムを動かす最大の利害集団なのだ。



〇「奴隷根性」を土壌とした沖縄の「欺瞞の構造」
その主役を演ずる公務員系労組が、自分たちの職域・職能・職権、そしてなによりも給与・待遇に深く関わる年間予算を維持・増額するために、「過剰な基地負担」を声高に訴える運動を展開し、その声に後押しされるかたちで政治家が政府との交渉を通じて巨額の資金を引き出す、という構図が浮かび上がる。ジャーナリズムは一連の過程を強力にバックアップする。これによって公務員主導型の経済体制が守られる、あるいは強化されるという仕組みだ。振興資金が沖縄においてどう配分されているかは推して知るべしである。

公務員天国というのは沖縄に伝統的な体制である。

2004年度の話であるが、県内給与所得者の平均年収が約340万円だったのに対し県職員の平均年収は2倍以上の722万円であった。

これを見ただけで公務員が如何に優遇されているかわかりますね。



◆絶対平和主義の沖縄信仰を造ったのは誰か

税金還流システムを成立させている要因が二つの「沖縄信仰」です。

 一つは、日本で最も戦争の醜さと平和の大切さを知る「絶対平和主義者・沖縄」という信仰。

もう一つが、沖縄は癒しのパワーであふれているという「自然と文化の島・沖縄」という信仰です。

このイデオロギーと文化の硬軟両面の沖縄至上主義をつくってきたのが、本土のメディアと知識人です。戦争で迷惑をかけた、基地を押し付けて申し訳ない。そういう本土の後ろめたさが、沖縄を実態以上に持ち上げる「沖縄至上主義」をつくってきた。この沖縄報道は自立を妨げました。



〇大江・筑紫的沖縄観を自ら振る舞う沖縄人

 琉球史研究の第一人者で副知事でもあった高良倉吉氏が、こんなことを言ったことがありました。

 「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」

 その後、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後六〇年の取材をしている中で地元の複数の人から聞きました。

 筑紫氏は、6月23日の慰霊の日には必ず『ニュース23』を沖縄から放送していました。そこで筑紫氏が強調したのは

「今も続く沖縄の痛みと怒りを理解しないといけない」

「少数派の声にきちんと耳を傾けるべきだ」ということです。

これはその通りだし、とても大事なことです。
 同様の主張は大江氏が『沖縄ノート』(岩波新書)の中で強調しています。そして沖縄の人たちの中に、この「大江・筑紫的沖縄観」を本土人に持ってもらいたいという気持ちがあるのも事実です。沖縄に赴任する記者はみな「大江・筑紫的沖縄観」の呪縛にとらわれます。

 ところが、この沖縄観が県内でも定着し、戦争も基地も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻む。「日本は何とかしろ」という依存体質、陳情文化が一般人にも蔓延したと、高良氏は解説してくれた。
 

◆沖縄的な気質はどこかの国と似ていませんか。

沖縄も韓国も儒教の国、戦前は同じような扱いを受けた依存体質であり、自分たちを悲劇の民として誇張し、取れるものは何でもいただく、そして決して感謝することはない。

いわゆるタカリの体質、事大主義の地域(沖縄本土から遠い石垣島や奄美大島に対する差別意識がある)ということは自分たちは礼節の邦だと思っていても、決してそうではない似た者兄弟である。



 2012年12月の衆院選挙沖縄1区は下地幹郎国民新党幹事長の大手建設会社「大米(だいよね)建設と自民党の國場幸之助の沖縄最大の建設会社「國場組」の二大建設会社の代理戦争であったという。

すなわち那覇空港の沖を埋めて第二滑走路を造るのも、本土業者と沖縄の業者で争った辺野古への移設は5000億円規模の大公共工事がねらいだったのです。

これらの真相を知るにつけ何が沖縄のためになるかといえば、県民の生活改善よりも土建業者による土建業者のための普天間基地問題を深く知ることです。

今回は書き切らなかったが沖縄の基地反対運動を別な視点で見ることが必要である。

いまいちどこの問題を掘り下げたい方は、「沖縄の不都合な真実」著 大久保潤、篠原章 新潮新書

をお読みください。目からウロコですよ! ご同輩!!!


 



 


 


 


 


 


 

  

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2010年04月29日

◎58年前の4月28日は何の日

 

こんなことを考えるヒトは今どきごく少数しかいません。

このオヤジ何を云いたいのだろう・・・というのが中年を含む若者たち。

この国の成り立ちなんて真剣に考えている人たちはヒマ人しかいないのでしょうか

でも、これは大事なことなんですけどね

 

昭和20年8月15日(1945年)は日本がアメリカを主軸とする連合軍を相手に死力を尽くして戦い「惨敗した日」です。

このことは知っていても占領下に何が行われていたのか、どんな重要なことが決められていたのか知っている人はごく少数でしょう。

 

以前に若い人たちを相手にこんな教育をしたことがあります。

日本の夜明けQ国家成立の要件の基本的構成要素は何か。

領 土:特定の地域に特定の面積を占める陸地及び周辺海域。

国 民:領土の上に住む住民で、その国家の主権に従う者。

主 権:領土に住む住人から認められ組織化された政治権力。

 ここまでは教科書の字面通りに答えましたが、

 

Q「主権」とは何か、自分の言葉で云え!

と云った途端“私は貝になりたい”状態でした。

「主権とは国家の政治のあり方を最終的に決める権利」

もっと分かりやすく言うと

「我々の行く末を自分たちで決める権利」であり、

●日本国のことは俺たち日本人が決める。外国が余計な口出しをするな!

●外国が日本の領域に入ってきて勝手な事をするのは許さない!

●国民の権利はあくまでも日本国政府が守る!

これが我々の守るべきものである。

この腹が決まっていないTVのコメンテータが国の在り方について述べていることが多い。

外国から見たら日本はどうしたのだろう。無国籍の意見がまかり通るアマチャンな国だ。これは御(ぎょ)しやすい国だと見くびられるのがオチである。

 

Q日本が占領下から主権を回復したのはいつか?

に答えられる人はほとんどいない。

進駐軍実は58年前の428日である。

すなわち昭和27年4月28日が日本の独立記念日と云えます。

この日こそ、我が国が連合国との間に締結したサンフランシスコ平和条約が国際条約としての法的効力を発揮し、わが国が敗戦国として受けていた米軍による占領状態の屈辱から解放されて独立の国家主権が回復することができた日なのです。

 

20年8月15日は「終戦の日」ではなく「停戦の日」なのです。この日以降も進駐軍の占領下に屈辱の日が続いていたのを ほとんどの国民は知りません。

 

占領下の日本(OCCUPIED JAPAN)で何が行われていたのでしょう。

昭和20年8月15日以降

             ●財閥の解体

             ●農地改革

             ●婦人参政権

             ●労働組合法の公布

            ●修身・日本歴史・地理の授業停止

             ●神道指令

昭和21年  ●公職追放●極東軍事裁判(東京裁判)始まる
       ●日本国憲法の公布
※占領間GHQの報道管制を受け、進駐軍に批判的な記事は禁止

昭和22年     ●教育基本法の公布
                      
●独禁法・労働基準法の公布
昭和25年  ●警察予備隊発足
昭和26年  ●平和条約・安保条約の締結
昭和27年4月28日 

      ●平和条約効力発生により主権回復

 

このように6年と8カ月の間に国の基本たる骨格が他国に全て決められ、独立国としての気概も失い、我々の行く末を自分たちで決める権利に立ち返ることも出来なくなってしまった。これが占領国アメリカの狙いだったのです。

今一度「日本と云う国の在り方」について考えてみませんか。

それが「4月28日」です。

  
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2009年09月13日

◎モンテンルパの108人の戦犯の命を歌で救った渡辺はま子

恥ずかしながら心に沁みるドラマを観て、久しぶりに流れ出る涙を押し止めることが出来なかった。

昨夜、フジテレビで放映された「戦場のメロディー」は偽善者たちの制作した反戦ドラマと違って、終戦直後のデタラメな戦争裁判で戦犯とされ、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収監された元死刑囚の人たちに生きる希望を与え、500万人もの日本国民による助命嘆願の署名を集め戦犯釈放への道を開いた渡辺はま子の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌の力というものに認識を新たにした。

 

04db6a52.jpg物語は実話に基づいた薬師丸ひろ子主演の渡辺はま子を軸に演出されたドラマである。

戦後処理ともいうべきデタラメな戦争裁判により戦犯とされた同胞の救出劇であり、歴史的資料をふんだんに使った秀作といえる。

 

 圧巻はフィリピン・マニラ郊外のモンテンルパ刑務所で、渡辺はま子役の薬師丸ひろ子が歌うシーンである。俄か作りの死刑囚の独房奥のステージは花で飾られ、「歓迎 渡辺はま子様」と横断幕が掲げられている。

  聴衆は戦争犯罪人とされた百数十名の元日本兵たち。昭和27年12月24日の事である。はま子は振り袖を着て現れ、「支那の夜」「荒城の月」や「浜辺の歌」の日本の歌を歌い続けた。2時間余りを一気に歌い上げ最後に「あゝ モンテンルパの夜は更けて」を歌う時になった。

 このドラマでは 1番2番は“はま子”が、3番は会場が一緒になって歌い上げる演出になっているが、実際には 伊勢雅臣氏の「人物探訪:渡辺はま子」ではこのようになっている。

 

渡辺はま子・・・会が 終わりに近づくと、傍らに立っていた元駐日大使デュラン議員が、禁じられていた「君が代」をお歌いなさい、と言った。「私が責任を持ちます。」 一同起立して祖国の方に向かって歌い始めたが、ある者は泣いて声が出ず、またある者は途中で座り込んでしまった。と・・・

この歌の出来た経緯は教誨師で僧正・加賀尾秀忍が加賀尾は死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を頼んだ。文学好きの代田はノートもない中で、トイレットペーパーにヨードチンキをインク代わりに詩を書いていた。作曲は元将校の伊藤正康(後に自衛隊の陸将で富士学校長)。モンテンルパの中の教会でオルガンを独習して弾いていた。伊藤も行った事もない土地での住民虐殺で死刑判決を受けていたのだ。

   

  加賀尾は出来上がった歌を渡辺はま子に送った。はま子が早速、控え室でピアノを弾いて、この歌を歌っていると、ディレクターの磯部氏が入ってきて、じっと聞いていた。感動して「いいね、なんの歌」と聞き、「これ吹き込みしよう」と即決したという。

このとき現地で録音したテープを帰国してからラジオで流し、500万人もの助命嘆願の署名の作り上げたのである。

 

 彼らが無実であるにもかかわらず戦犯とされ、処刑をされることに怯える状況を作り上げられた比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。

 

その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。

 米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまった。

 比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。“ 

と伊藤正康氏は述べている。

 

戦犯に関してはあまり知られていないが、国書刊行会から「戦犯叢書」全7巻が刊行されている。ここで紹介した教誨師 加賀尾秀忍氏も「モンテンルパに祈る」を書かれている。

昨夜の薬師丸ひろ子いや渡辺はま子さんに感動し、書棚の奥から「戦犯叢書」を引っ張り出して又読んでいるところである。

 

エッSAY! カテゴリー「戦犯と捕虜」

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/cat_1112427.html

 

Depot3(でぃぽ)カテゴリー「戦争裁判」

http://depot3.blog75.fc2.com/blog-category-1.html

 

参考文献

「戦争裁判処刑者一千」 別冊歴史読本特別増刊 戦記シリーズ23 新人物往来社

「すべての戦没者に捧げる」昭和の戦争記念館第5巻 名越二荒之助編 展転社

「いわゆるA級戦犯」ゴー宣special 小林よしのり 幻冬社

「戦犯虐待の記録」 戦犯叢書 佐藤亮一編 国書刊行会

「大東亜戦史3 フィリピン編」「大東亜戦史4 蘭印編」全10巻 富士書苑

 

  
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2009年01月13日

◎ブレない国家観・歴史観を持つために知っておいて欲しいこと

 田母神論文事案に鑑み歴史観のない政治家、官僚、マスコミのコメンテータ等に防衛省が弄られ、隊員の士気が低下している今日。市井に生きるものとして激しい憤りを感じている。

彼の論文の中で私自身確信を持てない部分があったとしても、基本的に彼を支持する理由は発言したことについて、テレビの前で突っ込まれても一度もブレなかったということだ。

最近の日本人は政治家もメディアも激しい反論があったら自分の意見を途中で引っ込めて御免なさいを言う。公の人間は本当に間違いに気づいたのなら謝罪をし、撤回すべきであるが、損得で意見を訂正するのは許されないのである。

 ロシア軍のレイプ

今の政治家は自分の専門以外の知識がない。

しかし国家観、歴史観だけはしっかり持っていて欲しいものである。

学校教育を含めて常日頃から父の世代、祖父の世代が必死で生きてきた時代について、

知る事をあまりにも疎かにしていると感じている。

 

昨年の12月8日、日米開戦の日に新しいBlog 

Depot3(でぃぽ)http://depot3.blog75.fc2.com/

を立ち上げた。

プロフィールに

「欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!」
「アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!」

と書いた。

 銃殺

ここでは過去活字と成ったものから引用させてもらって今一度掘り起し、

本当はどうだったのかということを知ってもらいたいと思う。

最近はnetを通して真実を知ることができ、サヨクのウソに惑わされなくなって来たとはいえ戦争裁判の実態について知らない人たちが多く、先ず最初はアジア各地50箇所で行われたBC級の戦争裁判のでたらめさについて取り上げ、リンドバーグの日記から米豪軍の日本兵に対する残虐行為、満州、朝鮮半島からの同胞の引き揚げ者に対する残虐行為についてUPした。

これから逐次充実させていくつもりである。

 

Depot3(でぃぽ)

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2008年03月15日

◎沖縄集団自決の真相(その1)

沖縄集団自決の真相1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沖縄集団自決の真相2

  
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2006年05月24日

◎ ソ連軍の常軌を逸した婦女暴行

青葉慈蔵尊女性に対する暴行は有史以来戦争には付き物である

しかし満州・中国・朝鮮における日本女性に対するソ連軍の暴行は度を越していると言わざるを得ない

 

避難民の中から女性を引きずり出す、避難民収容所を襲って女性を奪う、民家に押し入り家族の前で妻や娘を強姦する、従軍看護婦を騙してソ連兵の慰み者にする等悪行の限りを尽くした

 

ドイツでも「ベルリン陥落1945」白水社で訴えているように「ベルリンの二つの主要病院によるソ連兵によるレイプ犠牲者の推定数は95千ないし13万人 ドイツ全体では少なくとも200万人の女性が暴行されたと推定している」

 

博多では厚生省引揚援護局や在外同胞援護会救療部が大陸からの引揚者が暴行され妊娠した身体で故郷には帰られないと判断、堕胎の処置を行なった

 

「二日市保養所」の産婦人科病長だった橋爪医師の証言が「水子の譜」に収録されているが、

彼の報告書によれば、強姦の加害者朝鮮人が最も多く、ついでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、そしてフィリピン人のありとあらゆる国籍の男たちに辱められたのである。

戦争と言うものは勝者ばかりが敗者である日本・ドイツを貶め、罪を償えと言う

しかし勝者にも戦争犯罪があるのだということを知ることが我々日本人にとって大切なことである

 

*************************産経新聞 読者から 引用

●“ソ連軍暴行より死”悲劇を忘れてはならぬ

看護婦22人眠る「地蔵尊」参りたい

命日に有志、靖国の提灯供える

 

「事件」は終戦後の昭和21年6月に起きました。その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった満州・新京(長春)の長春第八病院で、三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。  

 

そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。

 しばらくたって、瀕死の重傷を負った看護婦の一人が長春の病院のドアをたたきました。ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。

 

「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、ソ連軍将校の慰みものにされているのです。もう、人を送ってはいけません」。その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。

 

 そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。長春の病院に残っていた二十二人の看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」という内容のことが書かれていました。看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに″死の抗議″をしたのでしょう。

 

 看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。

 

 そして昭和三十一年、財園法人「青葉園」の初代理事長、吉田亀治氏らの厚意によって、同園公園墓地に「青葉慈蔵尊」(さいたま市西区三橋五丁目。JR大宮駅から佐知川原行きバスで、青葉園下車)が建てられ、そこに眠っています。

 

 お地蔵さまは、高さが約1.5メートル。左手に赤十字のマークが入った看護婦の帽子を持っていらっしゃいます。碑には、遺書の文字が刻まれています。

 

 ところで、看護婦たちは靖園神社本殿には、まつられていません。それは、残されていた資料がほとんどなかったので、身元の確認などが十分にできなかったため、とされています。

 

 そこで、有志がお金を出し合って、昨年の同神社の「みたままつり」に青葉慈蔵尊名で永代献灯をし、今年六月の命日に、その提灯を慈蔵尊に供えました=写真。

 

 「談話室」に載ったのは有志の一人、千葉県市原市の会社員、小郡英夫さん(70)からの投書です。小郡さんは、「(看護婦たちが)靖国神社に入れないのは、しのびない。『あなた方の御霊も毎年、掲げられていますよ』という思いを込めて提灯を供えました」と話し、写真も送っていただきました。

 

 青葉園によると、慈蔵尊建立に尽力した初代理事長の吉田氏や、遺骨を持ち帰った元婦長さんも、ここ数年の間に亡くなったそうです。

 

 でも、「読者」の中野さんのいうように「日本人としては決して忘れてはならないこと」に違いありません。われわれも、次代に語り継ぐ努力を続けたいと思っています。(特集部喜多由浩)

 

  
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2006年05月01日

◎血のメーデー(皇居前広場の激突)

血のメーデー1昭和27428日はマッカーサーの連合国軍(GHQ)から日本が解放され独立した日である。

この当時朝鮮戦争が終結したが今だ余燼が燻っている時期

日本共産党が武装闘争を捨てていない時期であり、

学生・労働者は左翼勢力に席捲されていた。

天皇制を敵視する共産党勢力に影響されて、皇居前広場は誰でも使用できる“人民広場”とされ、ここで気勢を上げることは労働運動のシンボル的存在であった。

 

最近明らかにされている外交文書等からこの時期はソ連政府や中国共産党からの政治工作が盛んであり、もちろんアメリカからもかなり政治的後押しがあったことは否定できない。

この混乱期に左右両陣営からの影響に踊らされていたのが日本と言える。

 

 講和条約の発効によって占領法規は無効となり 多方面の法改正が必要となった まず政府が手がけたのは治安立法と労働法規改正であり 27年3月国会に上程された「破壊活動防止法案」に対して総評を中心とする労働組合は逆コース″として強く反対した。

 

4月1218日と二波のストには200万人が参加した こうした混乱の中でメーデーを迎えた 

21年の復活メーデー以来 25年まで皇居前広場で行なわれて来たが 25年5月30日の人民決起大会から 皇居前広場の使用は許可されず 27年は神宮外苑を会場として行なわれた中央メーデーは主催者側発表で約四○万人を集めた。 大会終了後5コースの分散デモに移り うち2コースが彼らが゛人民広場″と呼ぶ皇居前広場に突入 流血を見るにいたる。

 

サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立国として再スタートを切った三日後である。

 午後二時頃、日比谷公園に到着した中部デモ隊の先頭集団が、「実力を持って人民広場(皇居前広場)へ」と後続に呼びかけながら再び行進を開始。これに呼応したデモ隊の一部がそれに続く。警官隊は道を開き、無届けのデモ隊は馬場先門を通って、なんなく二重橋の木柵に達した。「デモ隊は数がそろったところで人民広場を解放した」と気勢をあげ解散するはずであった。突人は広場の群集にとっても、予期せぬものだった。

 

 横一列に隊列を組んだ警官隊が「かかれツー」の号令を合図に動き出す。後続を加え態勢を立て直したデモ隊も前進し、間合いを詰めた。

 警棒が振りおろされ、デモ隊もプラカードや旗竿、野球のバット、竹槍、梶棒、そして投石で応戦した。続々と数を増すデモ隊。増援の警官隊が駆けつける。一進一退を繰り返す中で混乱は増幅され、一帯は催涙ガスが立ちこめ、銃弾が飛びかう修羅場へと変わっていった。

 

 三度にわたる衝突を経て、午後六時すぎに混乱が終息するまでに使用された

催涙ガス弾は七四個

発射された拳銃弾は七〇発、うち二二発が負傷者を出す

デモ隊側は二人の死者と約一五〇〇人の重軽傷者

そして警察官は約八〇〇人の負傷者を出した。

 逮捕者は一二三二人。この中の二六一人が騒乱(擾乱)罪や公務執行妨害罪で起訴され、二〇年七ヵ月にもわたる長期の裁判が行われることになる。

一六人に懲役六ヵ月から四ヵ月(執行猶予一年)の判決が下された

 

この騒擾事件はデモ隊側の占領軍の抑圧からの開放感、共産党指導のデモ隊煽動、外国勢力からの介入・指導、警察側の革命前夜という認識の誤りが相乗的に盛り上がり血のメーデーとなったと総括したい

 

昭和27年血のメーデー 決定的瞬間

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/17272150.html

 

  
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2006年04月30日

◎ 外地からの引揚・復員はまさに660万人の民族大移動であった

                    引揚者終戦を外地で迎えた日本人は、陸海軍将兵・軍属310余万人を含め、実に660余万人に及んだ

終戦と同時にこの膨大な海外同胞は一斉に本土に引き揚げることになり、日本は明治以来数十年かけてアジア全域に広げた生活圏を一気に縮小しなければならなかった

政府はこの未曾有の大事業に取り組んだが、故郷に帰る兵士はともかく大東亜共栄圏の旗印の下各地域に進出していた一般邦人にとって引揚とは、営々と築き上げた生活基盤と全財産を一夜にして失うことを意味した

それでも故国の土を踏めたものは幸運だった

言語に絶する逃避行の途上、多くの人たちが略奪や餓えに倒れ数知れず多くの悲劇を生んだ

これはほんの一部であるが引揚者の手記を紹介する

 

 

●引揚者の手記

  抑留列車                高崎初喜

 私たちは放心したように線路の上に立っていました。ここは北朝鮮の咸興より、二つ三つ南に下がった小さな駅でのことです。

 二〇年一〇月、ソ連軍発行のパスポートを手にした私たちは内地の土を踏める日が近いことを信じつつ清津駅をたちました。二両の貨車に二〇〇人もがつめこまれました。男は数人のみで、あとは女と子供でした。だが、やっと、ここまで来たときに、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちの貨車二両を切り離して、列車は行ってしまいました。

 食糧と水を求めて私たちは朝鮮人の村へ行き、戸をたたきました。「イルブンサラミ(日本人)には分けるものがない」とかたく戸を閉ざし、屋外にある井戸のポンプまではずして家の中に持っていってしまいました。

 一日、二日とむなしく日は過ぎました。そして三日目がきました。線路のはるかかなたに機関車の煙が見えたのです。みんな大喜びで手を振リました。間もなく列車はこの駅に止まりました。そのとき銃を持ったソ連兵が一〇人くらい降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていました。言葉をかわすことはできません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、涙がほおを伝いました。兵隊さんたちも泣いていました。やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。

 そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。

 「日本へ生きて帰れよ!」、「子供を死なすなよ!」と口々に絶叫しました。はたしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。  (金沢市在住)

 

外地からの引揚・復員一覧と引揚要図

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/17242970.html

 

  
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2005年09月05日

◎北朝鮮に残した戦前の日本「資産」はダムや工場など8兆円規模

数ヶ月前のことであるが日朝国交回復で日本の多額の経済協力資金が予想されるとして、経済界の先遣隊が北朝鮮に向かったと新聞に暴露され、国民の反発で急遽中止になったことがあった。

日朝国交回復、朝鮮半島が統一されたなら日本が経済協力支援をやるものと決め付けている。

これはどう考えても納得がいかない。

日本が朝鮮・韓国の旧宗主国だったからといって丸抱えで面倒を見る話はない。

日韓条約で請求権を放棄して日本の経済的損失をうやむやにしてしまったことに問題がある。

私は今一度朝鮮半島に残してきた日本の公的資産と個人資産を明らかにしてに日朝交渉の切り札にすべきであると思う。

8月4日(日)の産経に北朝鮮に残してきた日本の資産についての記事があったので紹介する。

 

***************************************8月4日(日)の産経 引用

●北朝鮮に残した戦前の日本「資産」

開発のダムや工場など8兆円規模

日本窒素工場

 戦前の日本が朝鮮半島に残した資産は昭和二十年八月十五日現在、GHQ(連合国軍総司令部)の試算で八百九十一億ニ千万円(当時のレートは 一ドル=十五円)に上ります。

 このうち、北朝鮮に残した資産は四百六十二億二千万円で、現在価格に換算すると八兆円を超えます。

 

 日本は朝鮮北部を主に工業地帯として開発し、今の韓国にあたる朝鮮南部を農業地帯としで開発しました。朝鮮北部では特に、鴨緑江水系の電源開発に力を注ぎました。

 

 この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です。大正十三(一九二四)年、両氏は朝鮮半島の五万分の一の地図を見ながら、鴨緑江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配に着目した発想でした。

 

この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長、野□遵氏に持ち込んだところ、野□氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。

 

終戦までに、赴戦江、長津江、虚川江、華川、水豊などの発電所が完成し、禿魯江、江界、西頭水、霊峰、義州などの発電所は工事中のまま、終戦を迎えました。

 また、日本海側の興南という地にこの電力を利用した東洋一の化学工場、日本窒素肥料興南工場がつくられ、硫安、硫燐安などの化学肥料が大量に生産されました

 

興南市は工業都市としで栄えました。

現在、日本と北朝鮮とは国交がなく、これらの水力発電所や工場が戦後六十年を経て、どうなっているかについて、外務省も正確な実態を把握できていません。

水豊ダム

 北朝鮮への日本側経済界の窓□でる東アジア貿易研究会の調査によると、日本が完成させた水豊、赴戦江、長津江、虚川江の水力発電所は今も稼働しています。

 

鴨緑江の水豊ダムは今も最大の発電容量(七〇万キロワット)を持ち、電力を中国と折半することになっています。

 

 しかし、ダムの修理費や維持管理費を中国が負担し、それを外貨不足の北は電力で立払わざるを得ないため、実際に北へ支給される電力は半分を大幅に下回っているようです。

 

 また、水豊ダムを含めて送電設備の劣化による損失が大きく、電力が地方に効率よく送られていません。このため、しばしば停電が起きます。

東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場は朝鮮戦争(一九五〇−五三年)で爆撃を受けましたが、その後、修復され、現在も「興南肥料連合企業所」として北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産しているといわれています。

 

興南 しかし、設備の老朽化や電力不足により、同企業所を含む北朝鮮全体の年間肥料生産量は五〇万トンで、必要量(一五五万トン)の三分の一にも足りません。このため、肥料も韓国からの援助に頼らざるを得ません。北の慢性的な食糧難も、こうした電力や肥料の不足が影響しているようです。

 

 このほか、日本統治時代に敷かれた京義線などの鉄道は今も動いていますが、時刻通りに運転されていません。

 戦前の日本は当時の最高水準の技術を朝鮮半島に残しましたが、北朝鮮はその遺産を生かせず、ほとんど食いつぶしているといえます。 (石川水穂)

 

  
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2005年08月16日

◎中国人学者の偽善に騙されるな! 賠償は大陸に残した日本の資産との相殺で解決済み

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昨日NHKで「終戦特集」をやっていたが、その中で中国人学者の朱健栄東洋学園大学教授の論理には無理があった。だれも反論しなかったので、あえて言わせてもらう。

 

朱教授は「中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄したのだという意味のことを言っていた」

これを素直に聞くと中国には大きな暖かい思いやりを感じ、それと同時に大きな借りがあると感じると思う。

しかし、「騙されてはいけない!」このやりかたは中国一流のやり方でこれから逐一解明していく。

 

日本と中国が国交を回復するために1972年9月29日、北京で調印された日中共同声明の時代は中国・ソ連が覇を競っていた時代である。

中国は日本の高度な技術と資金の経済協力を欲していたのであり、「日中共同声明」の調印がどうしても必要だったのである。

賠償問題は周恩来が決裂寸前まで粘った懸案事項であり、朱教授がいう温かい温情でも友好のためでもないのです。

●では日本側がなぜ賠償不払いにこだわったのか。

それは蒋介石との間で「日華平和条約」が結ばれ中華民国側は賠償放棄をしていたのです。

*******************************以下ウィキペディアからの抜粋

日華平和条約(にっかへいわじょうやく)は、日本中華民国(国民政府)との間で、両国間における第二次世界大戦の戦争状態を終了させるために締結された条約である。正式名称は日本国と中華民国との平和条約1952年8月5日に発効した。

中国はサンフランシスコ講和会議に招請されなかったが、日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)を原則として、戦争状態の終了(第1条)、台湾における日本の領土権の放棄(第2条)、通商協定や漁業協定の締結に努めること(第7条、第8条、第9条)などが盛り込まれ、日本国との平和条約の発効日である1952年(昭和27年)4月28日台北で調印され、国民政府の支配下にある台湾を適用範囲として結ばれ、また将来国民政府の支配下に入る領域をも適用範囲と定めた(第10条)。

**********************************ここまで引用

●蒋介石はなぜ放棄をせざるを得なかったのか

日本は中国全土特に満州に莫大な投資をして、満州国を造り上げたのであり、公的資産、個人資産が残されている。これらは双方の了解の下に国家賠償と相殺されるものであり、賠償を支払うより逆に日本側が貰わなければならない状況であった。

それでも蒋介石は賠償にこだわったがアメリカの仲介で請求権を放棄したのである。

 

中国大陸は当初、蒋介石の中華民国が主導権をにぎっており、日本は毛沢東の共産軍と戦争していたのでなく正式には蒋介石の国民党軍と戦争していたのである。

 

194910 中華人民共和国の成立により蒋介石は台湾に追い出された関係で外交の継続性から日華平和条約を踏襲するのは当たり前である。

中国大陸に残した日本の財産と中共側の賠償請求は相殺する取引はお互いに了解した話であり、いまさら、

賠償請求をどうするこうするはないのです。

 

しかし、みなさん中国人は抜け目のない民族です。

ここで忘れもらっては困るのがODAと開発銀行のあわせて約7兆円の経済援助です。

これは裏取引があったのではないかといわれており、中国側はODAは当たり前だという態度ですね。

その他に世界銀行、アジア開発銀行から中国は多大の借り入れをしています。その大型出資国はどこかといえば日本です。

3年後にODAは廃止されるといわれておりますが、村山首相の時に戦闘停止で中国とロシア側に移った破棄弾薬の管理は日本側にないにも関わらず、日本が処理することになった、破棄化学弾の処理費用日本側は2000億円と見積もっておりますが、1兆〜10兆円あるいはそれ以上といわれております。

 

常に日本から金をむしり取ることばかりを考えている中国である。

中国との間で波風を立たせないことばかりを考えている外務省チャイナスクール

この売国奴的官僚がいる限り中国は守銭奴の本領を発揮し、日本はキャッシュ・ディスペンサーの関係が続くことになる。

アメリカの大学にいる中国人学者は中国批判をやることもあるが、日本の大学にいる中国人学者は中国政府の広報マンであると思ってまちがいない。

特にこの朱健栄(東洋学園大学教授)はマスコミに出る機会が多いので、眉に唾つけて聞くことです。

 

追伸

討論会には

プロ市民といわれる都立高校社会科教師(あなたみたいな人がいるから韓国・中国の方々に迷惑が掛かると発言した迷惑教師)

シベリア帰りでソ連の手先になって日本人をつるし上げたバリバリの共産党員の元教師、

我々生徒だったものの迷惑も考えず世間知らずの反日平和主義者の元教師

外国人といえば中国人と韓国人にしか発言させない馬鹿な司会者

中国人の言うことはすべて正しいと思いこみ頭を下げまくる日本人現地経営者

寺島実郎、栗山元駐米大使その他北朝鮮系私大教授とか酷いコメンテーターがいたね。

まともなのは桜井よしこだけでした。

  
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2005年06月29日

◎まぼろしの日本分割占領案

幻の分割占領

?十年ほど前のことである。北方領土返還運動の講演があり、歌手の岸洋子が来るというので講演を聴きに行ったことがある。本格派の唄う「夜明けの歌」の素晴らしさに圧倒され感動していたところ、いまはやんごとない理由で議員を辞職している村上正邦氏が講演したと思う。そのとき彼は北海道は留萌と釧路を結ぶ線で二分されてドイツや朝鮮のように分裂国家になるところであったと衝撃的な発言をしたのが印象的でした。

 

たしか4、5年前のことであったと思うがSAPIOに恵谷治氏の原画製作で「幻の“日本分割占領”地図」が紹介されていた。それは北海道分割だけではなく、日本全土と朝鮮分割まで載っていた。あまり具体的過ぎるのでまゆつば物と見くびっていた。ところが「一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引揚」毎日新聞社発行に「初期占領政策の決まるまで」と題して東京経済大学の竹前教授が『対日戦後処理に適用される一般原則』について詳しく書いてあり、その中に日本分割占領について書いてあった。まさしく恵谷治氏の「幻の“日本分割占領”地図」そのものであった。

***************************************************以下抜粋

●ソ連軍の北海道占領計画

無条件降伏した日本におけるソ連全権代表であるジェレビャンコに対する1945817日付のスターリン指令書(要旨)は次のようになっている。

「クリル列島及び釧路と留萌を含む両市を結ぶ線の北半部の北海道を、ソ連軍占領地区とするよう米国政府に要求した。また、東京におけるソ進軍の駐留地域をソ進に提供する問題をマッカーサー将軍に提起すること」

また、ソ連極東軍総司令官のワシレフスキイ元帥の隷下部隊に対する821日付の命令書(要旨)には、次のように書かれている。

「北海道とクリル南部における上陸作戦の開始は最高司令官(スターリン)から追って命令される。南サハリン占領後、第9航空軍と太平洋艦隊をサハリンに移動させ、23日以降は北海道北部の占領態勢に入る。太平洋艦隊は大陸の2個師団を北海道に輸送することも考慮せよ」

トルーマン米大統領の「回顧録」に、釧路と留萌を結ぶ北海道の北半部をソ連軍の占領地区とするように要求した話が出てくるが、「ソ連軍による東京占領」については言及していない。当時のソ連は実際には北海道までを占領する軍事的余力はなかったため、スターリンはトルーマンに拒否されると、日本本土の占領を断念したと考えられる。

 

●4カ国分割占領計画

米統合参謀本部の統合戦争計画委員会(JWPC)は、日本の降伏を前提に連合国による分割占領計画を作成していた。「日本および日本領の最終的占領』と題された計画書によると、占領計画は次のような3段階となっていた。

 ・第1段階(最初の3か月)

  アメリカが単独で日本を占領し、朝鮮は米ソが暫定的に分割占領する

 ・第2段階(第1段階に続く9か月)

  日本と朝鮮を米英中ソの4か国で分割占領

  [日本]東京(4か国の共同占領)

      北海道と東北地方(ソ連=5個師団)

      関東甲信越と近畿地方(アメリカ=7個師団)

      中国地方と九州(イギリス=4個師団)

      四国(中華民国=3個師団)

  [朝鮮]京城(ソウル/米ソ共同占領)

      咸鏡道と江原道(ソ連)

      平安道と黄海道(中華民国)

      全羅道と済州島(イギリス)

      京畿道、忠清道、慶尚道(アメリカ)

 ・第3段階(占領から1年後)

  大部分の占領軍は撤収し、朝鮮には4か国共同管理委員会を設置し、

  信託統治を経て完全独立を実現させる。

 

しかし、日本が無条件降伏したため、トルーマン米大統領は第2段階以降を認めず、アメリカによる単独占領を決意し、スターリンの北海道と東京をソ連軍の占領地区としたいという要望を退けたのである。

         (注)朝鮮半島の行政区分は1944(昭和19)年当時のもの

**********************************幻の“日本分割占領”地図からの抜粋

 

 今日の日本人の悲願ともいうべき「北方領土」の問題もここに端を発する。すなわち、第二次世界大戦後の戦後処理の原則であった

「領土不拡大の原則」に反して「ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して対日参戦するならば、その代償として千島、南樺太の領有を認める」

 

というヤルタ秘密協定におけるルーズベルト大統領とスターリン首相とのヤミ取引から問題が生じている。

 

すなわち、この協定における「千島」の定義がなされておらず、またカイロ宣言、ポツダム宣言、初期方針などで日本が領有を認められた「周辺の島嶼」の定義もなされていなかったことが、歯舞、色丹、国後、択捉の四島を「千島」に含めるのか、あるいは北海道の「周辺の島々」に含めるのかを不明確にしたからである。

 

しかも敗戦後の一種の真空状況下でソ連軍がこれら四島に進駐して占拠したという歴史的事実がある。しかし、これら4島はかって一度も日本人以外のものに領有されたことがないという歴史的条件、動植物の分布という地理的条件からみて日本の固有の領土であるというはまぎれもない事実である。

 

敗戦処理というものは戦勝国の身勝手な論理と駆け引きで、敗戦国の預かり知らぬところで決められていくものである。

 

悔しいけれども日本が分裂国家にならなかっただけでも良しとするか!

 

  
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