2016年10月13日

◎漢族史観を大胆に覆す仮説を読む意義

 近現代史を軸に日本・朝鮮・中国に関する資料を半世紀近くかき集めていたが、「かわいそうな歴史の国の中国人」、「真実の(中国史・満州史・朝鮮史)」シリーズの著者 宮脇順子氏からのツナギで中国に関する碩学ともいえる岡田英弘氏の著作を何冊か読むうちに、彼の「読む年表 中国の歴史」、大モンゴル帝国から世界史は始まる!という謳い文句の「日本人のための歴史学」に出会い、私の頭の中に整理されていた今までの中国史とは違うものの考え方を知った。
 中国人を知るうえでモンゴルを中心とした歴史の流れを知る必要性が生じ、楊海英著の「逆転の大中国史 ユーラシアの視点から」を熟読した。この本は日本人の大半が定番としていた学校教科書の中国史に関する私の素朴な疑問の大半を解決してくれたのだ。
 ましてや「漢民族」という「民族」が古代からいて黄河を中心に文明が周辺部にひろがったと現在の中国でも日本でも信じられているということ。
 しかしながら考古学的にも言語学的にもそのような証拠はなく、そもそも「漢民族」と呼べる人々はいなかったということ。ついに「中国4000年の歴史」と刷り込まれていたことがあの民族特有の大法螺であったことが分かってしまったのだ。
これをぜひ心ある人たちに紹介したいと思い、纏めつつあったが、産経新聞(H28.10.9)の読書欄に評論家の宮崎正弘氏がこの本を紹介しており、これを拝借して引用することにした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下引用
「逆転の大中国史 ユーラシアの視点から」
          楊海英著(文芸春楸・1550円+税)
漢族史観を大胆に覆す仮説
「目から鱗」というのは本書のために用意された言葉である。従来の「漢族中心史観」の天地がひっくり返る衝撃を味わえる。北京の視点からではなくユーラシアの立場からみれば、漢族の王朝は「漢」の405年と[明]の276年、合計681年でしかない。
 「中国四千年」という歴史観は誇大妄想の類い、ほかの王朝は雑多な北方民族、遊牧民、そして隋、唐は鮮卑系。元はモンゴル、清は満州族の王朝だった。宋の時代はキタイの夏、タングート系の遼、漢族の金の3国鼎立だった。
キタイは契丹、タングートは西夏だ。「ところが、シナは宋の漢人も漢の漢人と同じであると純潔主義を主張し、それ故に、ユーラシアの当時の正統は宋であるとし、大キタイ国と大夏帝国はその『宋の地方政府』であったかのように歪曲している」と楊氏は指摘する。
 かくして夏、殷から現代中国まで一気通貫の歴代王朝があったかのような解釈は間違いで「漢民族と呼べるような人々はいなかった」。秦の始皇帝以前の「夏、殷、周」はそれぞれがタイ系、北方遊牧民、そして西からの遊牧民でユーラシアに興った諸文明が黄河流域へ移動してきたのだ。それが「中原で成立したと想定される王朝だ」。
 このような大胆な仮説も氏が現地を実際に何回も踏査し遺跡や石碑文などから確認し実証している。
 紀元前3000年にシベリアやモンゴルに冶金文明があり、それ以前の古代遊牧文明が残した鹿石などが残る。万里の長城は城市を囲み、土地に縛られる文明だが、遊牧民は移動する文明で、後者の先駆者が東に匈奴、西にスキタイ。だから漢族は現世利益の道教にのめり込んだ。
 こうして漢族史観の洗脳がとけると、ウイグル、モンゴル、チベットの反乱を抱える現代中国の文明的難題が透けて見えてくる。つまり近未来は仏教、イスラムなど宗教文明が分裂を導く導火線となり、文明の乱立あるいは鼎立という時代を迎えると予測す
る。まさにコペルニクス的な中国史の転換である。
 評・宮崎正弘(評論家)

  

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2015年05月22日

◎インドネシアの「汝の隣人の法律を尊重せよ」に喝采!

死刑反対 4月29日 インドネシアは薬物密輸などで死刑が確定していたオーストラリア人2人を含む外国人7人とインドネシア人1人を死刑執行した。

 「人類が政治的ご都合主義による蛮行によっておとしめられた」。と豪紙シドニー・モーニング・ヘラルド(電子版)社説は、こんな見出しを掲げて非難した。

アボット豪首相は抗議のため、駐インドネシア豪大使を召還した。

 豪州は約30年前に全土で死刑制度が廃止されており、「オーストラリアは、インドネシアの司法制度の強化支援と死刑制度が無益で非人道的であることをインドネシア国民に教育する努力を加速するべきだ」と上から目線で圧力をかけてくる。

 

 一方のインドネシアは、薬物問題が深刻化していることが背景にあり、4月30日付のインドネシアの英字紙ジャカルタ・ポスト(電子版)は「汝の隣人の法律を尊重せよ」とする社説を掲載。社説は「この問題は死刑制度に反対する国々と、今でも制度を維持している国々との間の典型的で正反対の話である」との認識を示した上で、どの国も国益を踏まえて外部からの圧力に対応する。

 同様にオーストラリアは自国に入ろうとした難民船を追い返さないよう求めた国際社会の要請を無視したことがあったが、それはアボット政権がその判断が国益にかなうと判断したためで、(死刑をめぐる判断は)ジョコ政権も同じなのだ」と反論した。死刑制度についても「適正な手続きによって作られた政策はどんなに完璧でないとしても、尊重されるべきである」として、インドネシアの立場を擁護した。

 

 まさしくインドネシアの主張は正論であり、豪州の批判は先進国(白人国家)特有の自国の価値観を優先する上から目線の言い方である。

ジャカルタ・ポストの「汝の隣人の法律を尊重せよ」の社説は痛快の一語に尽きる。

果たして日本のメディアが中国・韓国にこの論理で厳しく反論できるであろうか。

外務省をはじめ日本の政治家は“事なかれ主義第一主義”で国益を最優先しているとは思えないのである。

 
 今回も自民党の二階総務会長が国会議員や経済人ら3000人の訪中団を率いて中国に忠誠を誓いに行っており、小沢一郎と同じパフォーマンスをやっている。

この二階俊博という男はかの小沢一郎の腹心の部下であり、過去に東シナ海の日中中間線でのガス田開発問題では、麻生当時外務大臣が中華人民共和国によるガス田開発強行に断固対応する姿勢を示したり、江沢民の銅像を全国の主要箇所に建てようとしたり、またグリーンピア南紀を中国のペーパーカンパニーに売ろうとする等どこの国の政治家かと問いたくなるような政治家である。


 こんな男にノコノコついて行く経済人も経済人である。

お前たちには国家観や歴史観というものがないのか。商人は金を儲ければよい、学者・研究者は自分の実績を評価して研究の場を与えてくれればよいと考えるのが戦後民主主義の教育を受けたものの姿である。

 そろそろ馬鹿な隣国にたいする大人の対応は止めて、筋を通す日本外交で行きたいものですね。

 インドネシアの「汝の隣人の法律を尊重せよ」に喝采を送ろうではないかご同輩!!!

  
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2013年04月15日

◎ウソつき国家韓国の尻馬に乗って日本を批判する恥知らずのノーベル平和賞のひと

アウンサン スー・チー

ミャンマー最大野党、NLD党首アウン・サン・スー・チー氏の来日は、2011年12月にミャンマーを訪れた民主党の玄葉光一郎外相(当時)がスー・チー氏と会談した際、招請したことをきっかけに実現した。


 関係者によると、スー・チー氏は最初、首を縦に振らなかったが、玄葉氏が会談中「東日本大震災から復興した姿を見てほしい」と重ねて要請し、承諾を得たという。

 彼女は2013.2.1韓国訪問中、宋永吉・仁川市長が「ドイツと違い日本は従軍慰安婦問題などを認めない。関心を持ってほしい」と述べたのに応じて、太平洋戦争をめぐる日本の歴史問題に絡み「過ちは誰でもあるが、過ちを認めることをためらうことこそが本当の過ちだ」と述べ、上から目線で日本の姿勢を批判したという。

 

 日本とミャンマーの関係は1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

 

 1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、19448月に秘密会議で(AFPFL)が結成され、ビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いる (PRP)が三派合同した。19453月、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。

 連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本に勝利したものの、イギリスはビルマの独立を許さず、再びイギリス領となった。

1947719日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任したという経緯がある。

 

 麻生太郎副総理は201211月、テイン・セイン大統領やウィン・シェイン財務・歳入相らと会談、民主化に取り組むミャンマーを経済支援する方針を表明

 同国への円借款を26年ぶりに再開すると発表。
 ヤンゴン近郊の大型工業団地周辺のインフラ整備などに
500億円程度を年度内に供与する方向。円借款再開の前提となる同国の延滞債務問題の解消も後押しするという。

 

 これだけ日本に関わりがあっても、ウソつき国家韓国の尻馬に乗って日本を批判するこの女の発想に許せないものがある。彼女は15歳の時に国を離れインドから宗主国であった英国に行き、西洋式の教育を受け英国籍を取得したという。英国情報部所属の白人と結婚をし、子供をもうけ25年間も英国で暮らした彼女は西洋人そのものであり、ビルマのあの貧しい暮らしにアイデンティティを求めるのは無理がある。彼女はビルマでは育っておらず、ただアウンサン将軍の血を引いた忘れ形見のビルマ人だというわけである。


 世界はイギリス情報部のプロパガンダに騙されて、若くて美しいビルマ娘を持て囃したに過ぎない。

彼女は西欧側の便利な人物として重宝され、ビルマに乗り込んだまでは良かったが、軍事政権に拘束され軟禁状態に置かれていた。


 2011
3月、テイン・セインがミャンマー大統領に就任。軍政に終止符が打たれた。

彼の政権になってからは中国に替わって西側の資本が流入し、ミャンマー経済は活況を呈し、タイ・ベトナムとともに東南アジアの工業製品の兵站基地になりつつある。

テイン・セイン大統領になってからは経済が発展して人々の暮らしは以前とは比べものにならないくらい豊かになってきている。

 現在は国民の意識が変わり、以前のようにスー・チー女史に対する期待も薄らいできたと言える。

安倍政権は民主党のパフォーマンスの尻拭いをやらされているが、それなりの扱いで収めるべきであろう。


 彼女の父親のアウンサン将軍が指揮するビルマ国民軍は形勢が不利になってくると日本及びその指導下にあるビルマ国政府を裏切ってイギリス側に寝返ったという事実。その結果ビルマ独立の時期を遅らせた張本人であることも覚えておく必要がある。

世界の男どもは美人に弱く、そのパフォーマンスに惑わされるものである。

忘れてはいけないのは、彼女とその組織を支えてきた活動資金はどこから出ていたか、彼らの政治活動を指導していたのは誰か、彼女の名声を支えてきたメディアにはどこから資金が回っていたか、半世紀以上もイギリス情報部の保護下で政治活動をしてきたという実績が物語っているのである。


 2011
3月、テイン・セイン大統領に軍政に終止符が打たせたのは英国ではなく、中国のアジア戦略に危機意識を持った米国であり、結果的にスー・チー女史一派の力を削ぐことになったといえる。日本政府は民主党に通じるミャンマー最大野党、NLD党首のスー・チー女史一派にはパイプだけは確保しておいて、経済発展を目指すテイン・セイン大統領に入れ込んでミャンマーを応援するべきであろう。

  
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2011年08月27日

◎「こりゃ痛快なり!」高山正之の「変見自在」

スーチー

久しぶりに痛快な本を読んだ

「変見自在 サンデルよ、『正義』を教えよう」第6弾 新潮社 1400 円である。

実はこの題名の心惹かれたのである。というのは最近NHKあたりで放送された『ハーバード白熱教室』を観ていて、もっともらしい言いようにある種の違和感を感じていた。

日本人は外国人特にアングロサクソン系の著名人の言説に無批判で受け入れる傾向がある。

近現代史をライフワークにしている私にとっては、世界を牛耳る白人国家の欺瞞性に辟易していたところにこの題名だ。

はっきり言って題名に惹かれたと言ってよい。

思わず「MARUZEN」へ走った。

「最近、巷で流行りの『正義』とやらは、悪いヤツほど振りかざし、非道国家ほど気取りたがるのが常――」とあるこの文言が気に入った。

第1章 ウソつき新聞は今日も健在

第2章 真実は歴史を知ることで見えてくる

第3章 恥を知らない人々

第4章 美談はまず疑ってかかれ

第5章 悪人ほど「正義」を気取る

この構成も良いではないか

 

この第5章にアウンサン・スーチー 女史に関する記事が乗っている。

ビルマの歴史を研究し、英国の植民地化について知っている私は、常日頃から何で英国国籍を持っている英国人のスーチーがビルマ民主化のシンボルなんだと納得がいかなかった。アングロサクソン総掛かりでわるだくみをしていたのだ。それに親日国であり、今持って式典には「軍艦マーチ」を演奏するミャンマーを日本はないがしろにしていた。英国のビルマ王族に対するあまりにもひどい仕打ちは目に余るものがあった。老大国の狡猾さがよくわかる。

このへんで冷めた目で見る歴史観を持つべきではないのか。

実は買ったその日のうちにこれを読み切り、1〜5弾を購入しようとしたが、あいにく1冊しか購入できなかった。

一度騙されたと思って読んでみてください。損はありませんぞ!ご同輩諸君

イギリスが如何にしてビルマを植民地化したかを解説したのが下記のブログである。


◎イギリスの植民地統治が独立後の人種間対立を生んだ

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50136591.html

 

以下は「変見自在 サンデルよ、『正義』を教えよう」新潮社からの抜粋である。

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■英国人〃スーチーの果した偉業

 昔は奴隷船を仕立ててアフリカから黒人を運び込み、農園なりで働かせるのが形たった。

 しかし手間かけて運ぶのも面倒だ。どうせなら現地で奴隷を働かせた方が合理的だと考えるようになった。 

 帝国主義植民地の誕生である。例えばビルマだ。北のアッサムにお茶の木が見つかり、南のイラワジ河口が売れる作物コメ作りに適していると知って、英国はここを植民地にした。

 ただ、この国には歴史ある国王がいて、英国の横暴に対して臣民が団結して抵抗する危険があった。

 それで英国は国王をインドに流し、王子を殺し、王女はインド人兵卒に払い下げて王家の血筋を絶やした。ついでにマンダレーの王城は監獄に作り替えた。

 「ビルマ人の国ビルマ」も作り替えた。イスラム教徒のインド人を入れ、華僑も入れ、周辺の山岳民族もキリスト教に改宗させて山からおろして多民族多宗教国家に変えた。

 英国は奪った国王の玉座や宝石を渋々返したが、ビルマは英国の植民地統治の責任も国連の場で糾弾を始めた。

 その中にはアウンサンの暗殺もあった。表向き彼は元首相ウ・ソーに殺されたことになっているが、国民の多くは英国が仕組んだことを知っていた。

 ビルマがそうやって騒ぎ続ければ、他の元植民地国家もやがて騒ぎだす。欧米による奴隷支配が明るみに出れば、東南アジアで残虐行為をやったのは日本ではなく、白人国家だったことがばれてしまう。

 かくて白人国家は目配せし合ってビルマ非難を始めた。苛めにはアウンサンの娘スーチーを使った。

 彼女は父を他国に投された。本末なら反英のシンボルになるはずの15歳の少女を元ビルマ総督が英国に連れ出し、英国人として教育し、英国人の夫まで与えて手なずけた。

 スー・チーは父を殺し、祖国を彼壊した英国に忠誠を誓い、英国に背く祖国を非難し「植民地支配の糾弾」事業を潰した。

 米英はビルマ政府を軍事政権と非難し、厳しい経済制裁を科してビルマの目を封じた。白人国家に楯つけばどうなるかという見せしめだった。

 先日、そのビルマを訪ねた。経済制裁はこの国の歩みを完全に止めた。街の景色は二十年前と同じ。おんぼろトラックの荷台に鈴なりの客を乗せたバスが雨の中、泥水を蹴立てて走っていた。

 貧しさに負けて九〇年代、議長のタンシュエは制裁に加わっていない中国に支援を乞うた。反対した良識派のキンニュンやエーベルは追放された。

 雪崩のように入り込んだ中国人は金融も商売も独占し、マンダレーは大声でわめき、痰を吐き散らす彼らに占領されていた。

 中国の支援で水力発電所ができたが、電気は中国に送られ、ビルマは毎日のように停電し

ている。

 中国の悪弊、賄賂も普及した。例えばパスポートを取るには入管事務所の周りに屯する口利き屋に頼むのが形になった。口利き屋が事務所から役人を連れ出し、申請者と役人と口利き屋の三人で日本なら幾ら、米国は幾らと賄賂額が折衝され、やっと旅券が出る。

 政治も中国化した。間もなく民主化を謳う総選挙があるが、ポスターはどこにもない。代わりに選管事務所の役人が戸別訪問し期日前投票させる。投票用紙の候補者名は空欄で有権者はただサインするだけだ。

 中国に国を売ったタンシュエ一派の全員当選がもう決まっている。

 ビルマは腐り切った。もはや欧米植民地支配を糾弾する覇気も力もない。

 英国人スーチーはその役割を十分に果たした。

                           (二〇一〇年十一月四日号)

 

  
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2009年04月14日

◎カルデロンさん問題は法務省のレッド・クリフ

 ■国外退去の不法滞在両親をのり子さんが見送り
                                 産経新聞 2009.4.13 
  のり子さんを残しての帰国について記者の質問に答えるカルデロンさん一家=13日午後、成田空港 不法滞在のため、国外への強制退去処分を受けた埼玉県蕨市の中学2年生、カルデロン・のり子さん(13)の両親が13日夕、のり子さんを日本に残してフィリピンへ向けて出国した。のり子さんは父、アランさん(36)と母、サラさん(38)を成田空港で見送った。カルデロンさん帰国

 平成18年、サラさんが入管難民法違反で逮捕されたことをきっかけに、一家は強制退去処分を受けた。だが、一家は日本に残ることを希望。法相の裁量で特別に滞在が認められる「在留特別許可」を求めていた。

 森英介法相は先月16日、日本生まれののり子さんには「在留特別許可」を出したが、両親の滞在は認めなかった。

 のり子さんは、「両親と離れることはすごく不安だし、つらい」と述べ、別れの際、涙を流した。今後、のり子さんの面倒は、サラさんの妹がみることになっている。と産経新聞は伝えている。

■不法滞在問題は国のケジメ
この問題については森英介法相のポピュリズムに組みしない決断に全面的に賛成である。

今月13日、両親が入管に出頭した際、入管側は3人そろって帰国するか、両親だけでフィリピンに帰るかを通告していたのである。

法務省入国管理局によると、我が国に潜在している推定約25万人の不法滞在者を今後5年間で半減することを目指している。
法務省としては今回カルデロン一家を感情論だけで彼らの不法滞在を許してしまったらこの国は2度と不法入国者を強く取り締まることが出来ないであろう。
外国の事例や過去の日本の事例はどうなっているかと問われれば、法務省関連のHPには、

労働力不足の時代のフランスでは、不法滞在者が警察署に申請するだけで在留資格がもらえた時代もありました。
イギリスだと7年以上の違法滞在者で子どもがいる場合、家族全員に永住権を与えるという制度もあります。
ポルトガルの場合、子供がポルトガルの義務教育を受けていると、親も正規の在留資格がもらえるようです。
スペインは、2005年に条件を満たした不法滞在者の一斉合法化をやりましたが、これは失敗に終わったので次はなさそうです。
2008年の欧州共通移民政策以降は厳しくなったので、イギリスやポルトガルの制度がまだ残っているのかはわからない。という。

 ただ数年前ヨーロッパ各地で見た明らかに不法滞在者(警察官の姿を見るとその場から逃げる)と思われる旧植民地から来た人々が、治安を悪くしていると現地の人々が訴えていた。
 旧西ヨーロッパ諸国にはEU加盟で入国が自由になった旧東ヨーロッパ諸国と東側(現在は中欧)経由でロシアからも一旗組が流れ込み、特にロシアからのマフィアの資金源となる少女売春をあちこちで見ることが出来た。


■カルデロンさんは犯罪者というケジメ
カルデロン一家について冷静に考えてみるとパスポートを偽造しての不法入国であり、滞在期限切れの単なるオーバー・スティではないのです。
マスコミが盛んに殺し文句にしているの「日本語しかしゃべれない子供を残して帰国をさせるのは惨い」。

ここで私は”本当に日本語が喋れないのか!”。
両親はかなり流暢に日本語を話すことが出来たとしても、二人だけの会話にもタガログ語を使わなかったというのか。
それはないだろう!。
そばでフィリピン人の両親がタガログ語で会話をしていれば子供も必然的に覚えるものである。
あの殺し文句は日本人支援者が言わせていると私は解釈する。

更にいうならば、日本のビジネスマンたちは英語もアラビア語もハングルも話すことが出来ない家族を連れて外国へ赴任することもあります。
 フィリピン政府も政府を挙げてのり子さんのフィリピン人化に力を入れると表明しているじゃないですか。
フィリピンに帰国できない理由はなく、もちろん日本で暮らしたいという気持ちはあるでしょうけれども、マスコミや日本の支援者の甘言に引きづられて帰国できなくしているとしか思えないのである。

 カルデロン・のり子さんと同じような立場の人は、一説によれば500人を下らないという。
不法入国後に真面目に働いても、不法入国をした罪は消すことができないのです。
 この際彼らも甘えることなく帰国するのが妥当であったのです。

■不法入国者と在日社会

ある識者に言わせると今回の不法滞在問題を誘導しているGPに韓国・朝鮮系が多いという。

何故か?。
今日本で強制連行されたと主張している人々の大半が戦後日本に不法入国をして財を築いた人たち、もしくはその人たちから生まれた子供たちであるからです。
 日本のパチンコ業界を率いる「マルハン」の韓昌祐(ハン・チャンウ、74)会長は1999年、日本政府から勲3等「瑞宝章」受けた。
 韓国の「中央日報」の記事(金玄基特派員 2005.06.09 )でも明らかのように、彼も不法入国の犯罪者でありながら、米国フォーブス誌が選定した世界億万長者ランキングで日本国内の24位にランクされた成功者なのです。

 何故彼らが不法入国者として扱われないかといえば、韓国・朝鮮人に対する政府の弱腰と彼らの強面の裏と表があるからです。
彼らには与野党の有力議員・官僚・警察OBとパチンコ業界と強い繋がりがあるからとも言えます。

 感情論だけで世論を間違った方向へ誘導するマスコミや人権屋が蔓延ってケジメのない現在の日本をつくりあげたことを反省し、法務省はこれからも厳格に法の適用をし、緩みきった日本の社会に”カツ ”を入れるべきである。
これをきっかけに”悪いことをしたら罪に服するという日本の本来の姿”に戻ろうではありませんか。

 

 

中央日報の韓会長インタビュー記事

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=64371&servcode=300&sectcode=300&p_no=&comment_gr=article_64371&pn=2&o=r

●パチンコの正体のブログ
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/136.html 
 

  
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2007年10月11日

◎「トルコ兵、クルド労働者党(PKK)と交戦」を聞いて

トルコ軍参謀本部は、南東部シルナクで7日、トルコ軍とクルド独立派武装組織、クルド労働者党(PKK)が交戦し、トルコ軍兵士13人が死亡したと発表した。これを受けトルコ軍は、PKKが拠点とするイラク北部との国境付近を砲撃、今後緊急越境の可能性もあるとトルコの民間テレビNTVは伝えており、国境地帯の緊張が高まっている。と日経新聞【イスタンブール8日共同】は伝えている

クルド人の居住地はトルコ、イラク、イランの3ヶ国にまたがっており、人口が最も多いのはトルコで、1200万〜1500万人がトルコ南東部に位置している。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送っており、トルコ国内においても比較的貧しい階層に位置付けられている。

オスマン・トルコ軍オスマン帝国から革命で誕生したトルコは、人民党政権が単一民族主義をとったため、東南部に位置することとなったクルド人は長らくクルド語の放送・教育を許されないなど、文化的迫害を受けてきたが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり、クルド人独立を掲げるクルド労働者党 (クルディスタン労働者党) (PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はトルコ政府に対してゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から一部抜粋

 

2年前にトルコに旅行した時のことである

トルコ国内の主要都市は近代化され、そこの住む人たちは西欧化されていて、ここはイスラム圏なのかと思うほどであった。

 

しかしトルコ東部地域に入るとそこは農業地帯と荒涼たる平原が広がっており、綿花畑には季節労働者たちが家族を伴って朝早くから日が暮れるまで泥だらけになって働いていた。

小学生と思われる小さな子までが大人と一緒になって働いており、重要な働き手であるという。

もちろん、この時季学校には行っていないのである。

 

現地ガイドに聞くと、見るからに貧しい出稼ぎ労働者たちは東部地区(クルド人地区)から来ているとのことであった。

どうして東部と西部がこんなに格差があるのかと聞いたところ、言葉を濁しながらも反政府的なクルド人問題があるということを匂わした。

 

現地ガイドは生真面目、温厚誠実な好青年であったが、国を乱そうとする人々は絶対許さない。

もしそんなことがあったら、私は直ちに銃を持って戦うと力強く宣言した。

 

そういえばトルコ建国の父「アタチュルク初代大統領」の命日にこんなことを言っていた。

「アタチュルクはトルコのため命をかけて戦い、我々は豊かな共和国になった。この自由で平和な国を作ったアタチュルクの命日が今日なのです。国民は亡くなった時間にモスクに集まり、走っている車は全て停止しお祈りを捧げるのです。ですからこの移動中のバスも僅かの間で結構ですから、私(ガイド)と運転手にお祈りの時間をください」

我々はその言葉に感動して彼らと一緒に黙祷をしたのでした。

 

もっとも我々が黙祷しているときに、高速道路を突っ走っていく1台の乗用車があったが彼に言わせると「あの車はトルコ人ではない!」そうだ。

 

外国旅行して感じることは、各国は国際情勢の変転のなか、領土を取ったり取られたり、民族同士が宗教やアイディンティティのために民族紛争を起こして殺しあう。

そういう歴史を踏まえて国というものの大事さ、民族の伝統と融合等を大事にすることにより、愛国心を高揚させているのです。

 

それに引き換え我がニッポンは国の歴史・伝統をおろそかにし、お隣に傍若無人な共産党独裁国家の中国、無法者のテロ国家である北朝鮮、反日偽造国家でニッポンの領土「竹島」を不法占拠している韓国が控えていてもノー天気な国柄

 

「性善説」は日本国内だけにしか通用しない。

世界各国は自分の国の飢えた国民を如何に食わせるか、将来に亘って国が発展し平和を保つためには、他の国のことなど犠牲にするのはあたりまえの「性悪説」が世界の常識であると肝に命ずるべきである。

 

  
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2006年01月12日

◎ トルコの爽やかな愛国心

 献花                                                  いま小泉首相がトルコを訪問している。

実は私たち夫婦は昨年の11月トルコを旅行しました。

トルコ人のガイドが「トルコは若い国です。人口の50%が子供たちである。これから大いに発展していくのです」といっていた。

確かに街も奇麗で西欧化されており、観光客に好印象を与えていた。

現地ガイドがこんなことを言っていた

1111日は私たちが最も尊敬する初代大統領ケマル・アタチュルクの命日なのです、彼はトルコという国をつくり、その発展に全身全霊で尽くしたのです。いま我々があるのは彼のおかげです。0905になったらトルコの国中が活動を停止して1分間の黙祷を捧げるのです」

「そこでお願いがあります、時間になったら、今走行しているバスを止めて1分間だけ祈らせてください!」

ツアーのお客さんたちはその真摯な態度に感銘を受けて一緒に祈らせてもらいました。

その間確かに長距離バスや乗用車が止まってお祈りをしている風であった。

中には無視して走っている乗用車もあったが、ガイドに言わせるとそれは外国人であろうとのこと。

ガイドから「アタチュルク」に関する逸話を聞いて、日本の明治維新をやり遂げた明治の偉人たちと似ているなと感じた。若者から年寄りまでが彼のフアンであり、信奉者であった。

建国の偉人を称え、今も彼に感謝する国民を見て、爽やかさを感じたものです。

「そしてせっかく彼らが命がけで作ってくれたこの国を侵そうとするものは絶対許さない、わたしは命を懸けて戦うでしょう!」といった現地ガイドのアフメットさん33歳 新婚半年

私たちはみんな貴方のファンになりましたよ!

 

**************************読売新聞 18.1.11付け引用

○対イラク支援、トルコと連携 日本「陸自撤収後」にらむ首脳会談

  【アンカラ=小林弘平】

小泉首相は10日の日本・トルコ首脳会談で、今年前半に想定している陸上自衛隊のイラク撤収後の新たな復興支援をにらみ、イラクの隣国トルコとの連携の強化を確認する考えだ。背景には、陸自が安全に撤収する環境を整えるには、周辺国と協力しつつ、復興支援策を充実させることが重要だとの判断がある。

 

 小泉首相は日本出発当日の9日、イラク復興支援でトルコと協力し、どういうことをやっていくべきか、という点を考えたい」と記者団に述べ、新たな復興支援のあり方を首脳会談で議論する考えを示した。

 

 政府は陸自のイラク南部サマワでの活動を今年前半に終える方向で調整している。陸自撤収後も、政府開発援助(ODA)などの支援を積極的に継続する姿勢を打ち出し、サマワ住民らの理解を得ることで、撤収を安全に進めたい考えだ。

 

 トルコは1890年以来、1世紀以上の友好関係を維持してきた有数の親日国とされる。イラク北部のクルド族との親密な関係もあり、イラク復興支援にも積極的に関与してきた。

 

 小泉首相が、イスラエルのシャロン首相の緊急入院を受け、同国とパレスチナ訪問を中止しながら、トルコ訪問を実施したの、イラク復興と中東和平の両面でトルコを重視しているためだ。日本の首相のトルコ公式訪問は1990年の海部首相以来となった。

 首脳会談では、トルコの欧州連合(EU)加盟について支持を表明する予定で、外務省幹部は「トルコとの関係強化は、イラク支援などで外交上良い影響が期待できる」と語る。

 

 また、日本は石油輸入の90%以上を中東に依存しており、自衛隊撤収後のイラク復興支援は、資源エネルギー戦略上も重要と指摘されている。

 

○トルコ建国の父へ小泉首相が献花

                       【アンカラ=小林弘平」

小泉首相は10日午前(日本時問10日夕)、トルコの近代化、西洋化を果たした建国の父である初代大統領ケマル・アタチュルクの霊廟を訪れ、献花した。

 

 首相は、廟に併設されている博物館の入り口で、「建国の父、アタチュルクの偉業に敬意を表し、日土(トルコ)両国の友好発展を祈念します」と記帳した。館内では、高松宮殿下が1931年にアタチュルクに贈った日本刀などを見学した。

  
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2005年11月24日

◎生きるために必死になって働く子供たち

トルコの主要都市のマンション

 トルコという国はまさに発展途上の国である。

必死になって国のインフラを整備して国の骨格を作ろうとしているのがわかる。

それはここ3・4年で幹線道路が見違えるほど整備されてきている。

住宅も主要都市のいたるところに高層住宅が建てられ建設ラッシュであるというか、造りかけが至るところにある。

この国は本来小麦、サトウキビ、綿花などの農業国家であるが、最近外資を取り入れて製造業にも力を入れだした。

意欲に燃える国家であっても問題点は多い。

 

それは東部トルコとの経済格差である。

西部トルコの11月は綿花の取り入れ時期である。

この農業労働者は東部トルコから一家そろってやってきて、テント生活をしながら食い扶持を稼ぐのである。

子供も労働賃金の対象である。ゆえに小学生くらいから農業労働者となって、朝早くから手元が見えなくなるまで大人と一緒になって働くのである。

当然教育は受けられない。教育が無いから肉体労働から抜けられないという現実

 

観光地では外国人を見たら汚れた汚い手を出して「ワンダラー(1ドル)、ワンダラー」といってお金をせびる。

一緒に写真を撮っただけで「ワンダラー(1ドル)、ワンダラー」である。

この現状に心痛めている現地ガイドはお金をやることは彼らの将来のために良くないので与えないでくれという。

しかし働かずして金銭を得ることを覚えた子供たちは、これから抜け出ることは至難の業である。

 

エジプトでも貧富の差は激しく観光バスの止まるところには、垢にまみれ靴もはかない裸足の子供が観光客からのほどこしを待っている。飴をやったら美味しそうに食べていたが、その場をなかなか立ち去らない。

バスが動き出してから判ったことであるが5歳くらいの弟がいたのです。弟のためにも、もっと飴が欲しかったのだろう。

 

小学生くらいの子供が頭にパンを載せて売り子をしていたり、上手に日本語を駆使してみやげ物を売っていた。開発途上国の子供たちは生きるために必死になって働いているのだ。

 

曽野綾子のエッセイを読んでいたら限度を知らない、知ろうとしない甘チャンの左翼人権屋のことが頭に浮かんだ。井の中の蛙 世界の実情を知らずという言葉が今の日本に相応しいのかも知れない。

 

********************************産経 11月14日付 曽野綾子の透明な歳月の光から引用

○日本は「悪い国」なのか

〜事実なき批判〜 

 だいぶ古い新聞を読んでいたら、選挙中に共産党の志位委員長がJR池袋駅東口で小泉政権の批判をしたという記事を読んだ。こういう古い話は、新聞といわずに旧聞というのだそうだが。

 志位委員長は自民党政権を「国民いじめ」とし、年金などの「改悪」を列挙し、「人間を物のように使い捨てにする政治に未来はない」と言ったという。

 人は他人を批判する表現を聴くのが好きだ。

そして歯切れのいい悪評を聞くと、その通りだと思いたがる。

 しかし私はこの志位委員長の演説は事実に全く即さない、新聞だったら捏造記事に近いものだと思う。

 志位委員長に伺いたい。日本はほんとうに人間を物のように使い捨てにしている国なのか。もしそう思っているなら、志位委員長はあまりにも世界の現実について不勉強である。

 私の見たアフリカの多くの国では、人々はお金がなければ全く医療行為を受けられなかった。救急車も急患の家族がお金を払えなければ、血を流している怪我人や痛みにのたうち回っている病人をそこに置き去りにして帰るのが普通だ。

 引退後も飢え死にはしない程度の年金があったり、一部自己負担にせよ健康保険があったりすることが、どの国家でむなしうることではない。日本でお金を一円も持たないホームレスが厳寒の道に倒れていれば、救急車は必ず収容する。そんな国が世界中にあると恩ったら大間違いだ。

 パキスタンの被災地では、地震発生後一週間経っても、傷の手当てをしてもらえない人や、寒さや飢えを防ぐことのできない人が救援を待っていた。しかし日本では阪神・淡路大震災の被災者を、そんな形で見捨てはしなかった。

 税関の役人が空港を通過する客に公然と金品をねだる国を私は何度も通過した。学校を建てるための資金があっても、「ワイロを持ってこないと許可証にハンコを押さない」と公然と言う役人のいる国の名も聞きたければお教えする。

 アメリカの警官は黒人市民を町中で引っぱたく。日本でそういう警官がいたら、すぐに職を失うだろう。 停電もしない。子供たちは自ら不登校の道を選んでも、家が貧困なために、山羊の番や乞食をして金を稼げと親に言われて学校へ行けないことはまずない。

 家に食べるものがないので、お腹が空いて学校で勉強が手につかない子供もいない。片道四キロ、五キロを歩かなければ学校に通えない子もめったにない。

 それでも政治が「国民いじめ」なのか。

 事例やデータなしに悪い国だと感情的に言うことは、人々を大きく誤らせる。政治家はもちろん、学者も新聞記者も、根も葉もある嘘をつくことが仕事の小説家でも、許されないことだろう。

  
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2005年10月14日

◎イギリスの植民地統治が独立後の人種間対立を生んだ

東南アジアでは植民地から独立後も、いや独立することにより人種間対立があからさまになってきた。

東南アジアを支配していたのは、イギリス、フランス、オランダ、ポルトガル、アメリカである。

地域的に一番大きく、世界中に根を張っていたのはイギリスである。

イギリスの植民地支配には支配の原則があり、如何にしてビルマ(ミャンマー)を支配したかを通して、その残酷性と姑息な統治要領を検証する。

日本が行なった日韓合邦との違いを考える一助になればと思う。

 

    英国のビルマ統治要領(植民地支配)

支配の4段階

1 国民の求心力を奪う王族の島流し

2 反抗の意欲を失わせる徹底した弾圧

3 ビルマ人の民族意識を物理的に稀薄にさせる異民族の移植

4 少数民族を引き込んだ分割統治作業

 

王族の追放1段階 英印軍による力による占領と王族に対する辱めと島流し

 ・11世紀最初の統一王朝 1824〜86年間に英国の3度の侵略戦争

 ・1886年 英印軍に屈服 英国の植民地となる

 ・アユンパヤ王朝最後の国王ティボーと王妃を庶民の使う牛車に押し込めて王城から追放

 ・国王と王妃、4人の王女をインド西部、ボンベイの近くラトナギリに流し国民から隔離

 ・王位継承者第1位の第1王女パヤを身分の低い既婚のインド人軍属と結婚させ最貧層の社会に落とし不遇の中で死なせた。

 

 

 

弾圧2段階 徹底した弾圧と恐怖心の植え付け

 ・1886年から4年間に6万人の英印軍と軍事警察官を使って、その地方の指導者、関係者、家族まですべて処刑

英印軍が1人殺されたならその村の半分以上 時には全員を処刑

  ローマ軍のやった「decimation10人ごとにくじ引きで1人殺す やり方を踏襲

 ・武器狩りの実施(先端を切断した包丁、山刀等)

 

 

 

 

 

 

               

支配階級3段階 ビルマ人の民族意識の否定と民族間の憎悪の助長        

 ・毎年10万人単位のインド人を入植

 ・下ビルマの人口約500万人のうちインド系58万5千人、英国人・華僑等12万人

  ラングーンの人口構成 インド系54%、中国系7%、英国人4%、ビルマ系36%

 ・インド人は高利貸し・金融業を独占、 ビルマ人は小作人、 華僑は機械精米・流通業・不動産業

 

 

 

 

 

 

威嚇4段階 少数民族を利用した分割統治と独立後の民族闘争

     山岳少数民族(モン、カレン、チン)にキリスト教の布教と教育の場を与え、軍人、警察官に採用し支配者側としてビルマ族を弾圧した。

 

     ビルマ族68%、 山岳少数民族25%

     1930年 サヤ・サンの反乱 死者1万、投獄9千、処刑128人 

     1937年 宗教紛争 イスラム教徒と仏教徒の衝突で3千人が死亡 

     人口4653万人、仏教徒89%、キリスト教徒5%、イスラム教徒

 

     独立後はイギリスに協力していた山岳少数民族は報復に出たビルマ族主体の政府軍と民族解放闘争を旗印に戦わざるを得なかった。

果たしてどちらに同情すべきか

 

※日露戦争で黄色人種も白人に勝てるとの希望を抱いた植民地の人々は人材を育み、ナショナリズムを鼓舞し、抵抗を続けた。そして宗主国を追い出してくれる日本軍を待ち望んでいた。スー・チー女史の父アウンサン将軍は日本軍とともに戦った独立の闘士 彼女の夫は宗主国の英国人

  
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2005年09月04日

◎日本・トルコの友好親善に尽くした、日露戦争の功労者「山田寅次郎」

トルコが親日になった理由の一つは

1890(明治23)9月16日に紀伊半島南端沖合で発生したトルコ軍艦エルトウールル号遭難事件で日本の対応が良かったことと、二つ目は日露戦争でトルコの宿敵ロシアを打ち負かしたことにあると言われている。

 

つい先日「世界遺産を旅する」を読んでいたら、国交黎明期の功労者、山田寅次郎の話が載っていた。

読んでいるうちに、彼は日本・トルコの親善に尽くしただけでなく、日露戦争のとき、黒海に停泊中のロシア艦隊の動静を監視中、偽装したロシア船団が南下するのを発見、牧野公使に通報した大功労者であることがわかった。今年は日露戦争大勝利100周年記念の年でもあり、山田寅次郎の名前を世に知らしめるのも大事と思い、今回紹介することにした。

 

************************************「世界遺産を旅する」からの抜粋

●日本・トルコ、国交黎明期の功労者、山田寅次郎

山田寅次郎 イスタンブールのトプカピ宮殿には、日本人の見学者に「おや」と思わせるものが、少なくともふたつある。

 ひとつは中庭(2庭園)に入って右手の、かつての厨房に展示されている約25百点の陶磁器のなかに1018世紀の中国の青磁や白磁に混じって陳列されている。18世紀頃のものらしい伊万里焼や有田焼である。まだ鎖国政策を貫いていた日本からどのようにして流出し、はるばるイスタンブールに着き、スルタンたちの宮殿で使われるようになったのか、興味をそそられる。

 

もうひとつは、中庭の左奥の武具展示室(宝物庫)に、日本の鎧、兜、太刀がガラス・ケースに収められ陳列されていて、それらが日本人・山田寅次郎から皇帝アブドウル・ハミト2(在位1876年〜1908)に献上された品である旨の説明がついていること。

 

オスマン・トルコ帝国時代のトルコ皇帝と接触があった日本人・山田寅次郎とはいったいどのような人物なのだろうか、と誰もが思うに違いない。しかし知っている日本人は稀だろう。

 

 実はこの山田寅次郎なる人物こそ、日本人として初めてイスタンブールの土を踏み、トルコを親日国にする上で大きな功績のあった日本入なのだ。

 

 そのきっかけとなったのは1890(明治23)9月16日に紀伊半島南端沖合で発生したトルコ軍艦エルトウールル号遭難事件だった。ハミト皇帝が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトウールル号が、帰路暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合の樫野灯台付近の岩礁に衝突難破し、特使を含む518名が溺死した事件で、死を免れた69名は、地元民の手厚い救護の後、明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた。

 

 当時24歳、義侠心に富んだ寅次郎は、この事件を知るといたく同情し、ー民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。

 

4ヵ月かけて18924月4日にイスタンブールに上陸した彼は、外務大臣サイド・パシャに義損金を手渡し、皇帝アブドウル・ハミト2に拝謁して明珍作の鎧兜と豊臣秀頼所持とされる太刀を献上する。現在トプカピ宮殿に展示されているのはそのときの品々なのだ。

 

 日本人の真情に触れた皇帝からトルコに留まって士官に日本語を教えてくれるように請われた寅次郎は、以後国賓待遇で延べ約20年間トルコに滞在することになる。この間イスタンブールに妻の姓で中村商店という雑貸店を経営しながら、彼は蔭に日向に日本とトルコの友好親善に尽くした。

 

 折しも日露戦争(1904)が始まってロシア海軍の動向が気遺われるようになり、寅次郎のところにもオーストリア駐在牧野公使が、黒海に停泊中のロシア艦隊の動静を監視して欲しい旨依頼がくる。

 

お国の大事に寅次郎は、ボスポラス海峡入口に一軒家を借りて日々望遠鏡で海峡を見張るとともに、トルコ人20人を雇いガラタ塔上から海峡を南下するはずのロシア艦隊を監視させた。そして7月4日、ついに偽装したロシア船団が南下するのを発見し、牧野公使に通報、この情報は同公使からは極秘電で本国に急報されたという。

 

 アジアの新興国日本が、日本海海戦でバルチック艦隊を葬り、強大国ロシアを破ったことは、長い間ロシアに脅かされ続けてきたトルコにとっても快哉の声を上げる出来事だった。

 

以後トルコは益々親日的となり、日本の近代化を範とし、立憲国家の道を歩むようになる。

 その後第1次大戦が勃発したのを機に寅次郎は帰国し、大阪に居を構え、1925年には日土貿易協会を設立、理事長としてトルコとの貿易や文化交流の拡大に努めた。

 

それから6年後、招かれて17年ぶりにトルコを訪れた寅次郎は、共和国となったトルコの新しい首都アンカラでかつて日本語を教えた士官で時の大統領ケマル・パシャと再会する。

 

そして生涯の大半を「民間親善大使」として、日本とトルコの友好親善に捧げた寅次郎は、1957年、91歳で世を去った。

      

  
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2005年08月26日

◎インド独立の最大の功労者 チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボース

つい2・3日前の産経に英国がインド独立運動に危機感を抱いてチャンドラ・ボース暗殺を計画したが、未遂に終わったと出ていた。60数年前の話である。

チャンドラ・ボースは日本と関係が深く、いわば現在の親日的なインドの源はチャンドラ・ボース指揮するインド国民軍と日本軍が英国に対しインパール作戦を実施、敗れたとはいえ共に戦ったという実績があるからである。

しかし、戦後しばらくの間はガンジーもネールも意識的に過小評価してきたが、1997年1月ニューデリーの国会議事堂の構内でボースの銅像が建てられインド政府も正式に彼の偉業を認めた。

ボース死後50年にしてはじめてガンジー、ネールと並ぶインド独立の功労者として取り扱いを受けたのである。

**************************************世界大百科事典からの一部抜粋

スバス・チャンドラ・ボースSubhas Chandra Bose,1897年1月26日〜1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ネタジ(指導者)の敬称で呼ばれる。

インドの政治家。インドの独立を目ざした民族運動の指導者。

ベンガル州の富裕な名家に生まれ,ケンブリッジ大学卒業。

インド高等文官試験(I.CS.)に優秀な成績で合格したが,たまたまマハートマー・ガンジーの呼びかけたインド政庁への非協力・不服従運動にこたえて,高等文官になることを辞退し,民族運動に参加した。たちまちベンガル地方の指導者 D.C.R.ダースに認められてぬきんでた若手指導者となった。

 

1924年インド国民会議派カルカッタ支部執行委員を皮切りに,運動中逮捕されて拘留中にもベンガル州立法参事会議員に選出され,さらにカルカッタ市長にも選ばれた。

 

ネールとならび,国民会議派内に台頭しつつあった左派勢力の指導者の双へきであり,28年インド独立連盟を結成してインドの完全独立を要求,長老に対抗した。彼の急進的傾向はガンジーにいれられず,38年,39年と2年連続で国民会議派議長に選出されながら,39年にはガンジーの圧力で辞任。この結果,急進的な〈フォワード・ブロック Forward Bloc〉を結成した。

 

2次大戦中拘留されるが,41年保釈中に身をくらまし,ベルリンに逃れて,〈敵の敵は友〉として枢軸側と協力してイギリスと戦うことを呼びかけた。436月訪日し,10月には日本軍と協力してシンガポールに自由インド仮政府を樹立して首班となり,インド国民軍を率いてインパール作戦を日本軍とともに戦った。45818日,東京に向かう途中,台北での飛行機事故で死亡。

インドの嵐―コミック

  
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