2015年05月15日

◎戦時動員と「強制連行」との違い

朝鮮人の徴用 韓国は何かにつけて「強制連行」を連呼する。
強制連行とはいったい何であろうか。
 一般国民は戦場で捕獲された捕虜のように数珠つなぎにされ、トラックに乗せられ鉱山や炭鉱に投入され、逃げ出さないように武器を持った監視員が見張っている。
 年配の人は小林多喜二の「蟹工船」や北海道の道路建設のために集められ樺戸集治監(刑務所)で過酷な労働を強いられた囚人たちの闘いの映画「北の蛍」(仲代達也主演)、むかし良くあったタコ部屋のイメージではないだろうか。それは明らかに間違いである。


 いま韓国では戦時に朝鮮人労働者を受け入れた日本企業に対する損害賠償請求訴訟が韓国の裁判所で起こされ、国家的な利益を優先するとして過去の条約に縛られることなく日本側敗訴が続いている。
これも「慰安婦問題」と同じ朝日新聞がニュースソースとなって日本を貶める要因を提供しているのである。


 「強制連行」という言葉は戦前・戦中には存在しない。
では、何を指して「強制連行」と言われているのかというと、一般的には国民徴用令に基づいて昭和十四年に策定された「朝鮮人内地移送計画」によって、朝鮮人労働者が朝鮮半島から日本内地へと集団渡航したことを指す。つまりは「戦時の労務動員」である。
 その総数については、送り出し側の朝鮮総督府や受け入れ側の厚生省、内務省にも終戦までの完全な統計が揃っておらず、厚生省統計(米国戦略爆撃団調査報告からの引用)では動員数は六十六万七千六百八十四人、内務省統計では六十三万五千余人とされている。

 朝鮮半島では昭和十四年九月から「募集」(自由募集とも言う)という形で労務動員が始まる。この「募集」制度によって、炭坑、鉱山など内地の事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を受け、総督府が指定する地域で労働者を募集し、応募した人たちが内地に集団渡航できるようになった。

 日本人に対しては昭和十四年四月から国民徴用令による強制力をもった「徴用」が適用されたが、「募集」で始まる朝鮮半島での動員はかなり緩やかだったと言える。
この「募集」方式による動員計画はほとんど達成されなかった。
 
 そこで昭和十七年二月以降に採られたのが「斡旋」(官斡旋ともいう)方式であった。
これは事業主が朝鮮総督府に必要とする人員の許可申請を出し、総督府が道を決定し、道は郡、府を通じて邑、面に人数の割り当てを行うという、行政機関の斡旋のもとで労働者を募集するという制度であった。

 昭和十九年九月からは「徴用」が始まる。徴用は道知事が発行する徴用令書により指定された職場で働く義務を伴う動員方式である。ただ、徴用による内地派遣は昭和二十年三月関釜などの連絡船が途絶したため、七ヵ月間しか実施されていない。

これらは募集、斡旋、徴用と三段階の動員であり 三段階のうち法的強制力(罰則)をもつのは徴用のみであった。韓国はこの戦時動員以前の出稼ぎや不法入国者まで強制連行だとしている。
朝鮮人と比べるならば 日本人は昭和十四年七月から文字通りの徴用が始まり、被徴用者は終戦時に延べ六百万を超えていたのである。半島人は当時朝鮮系日本人であり「日本国民」だったということを忘れてはいけない。

 明治四十三年の日韓併合以降、日本内地在住の朝鮮人人口は大正十年頃から増え始め、昭和二年には約十六万五千人、昭和十三年末には約七十九万九千人に達した。朝鮮半島からの戦時動員が始まったのは昭和十四年九月だから、戦時動員開始以前に既に約八十万もの朝鮮人が日本内地に居住していたわけである。森田芳夫氏の論文「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(『法務研究報告書』第四十三集第三号昭和三十年七月)

 厚生省統計によれば、昭和十四年から十六年の三年間(ほぽ「募集」の時期に相当)に内地へ渡航した朝鮮人は約百七万人にのばった。この期間に「募集」制度によって内地に動員された朝鮮人は、そのうち延べ約十四万七千人に過ぎない。つまり、「募集」以外に約九十二万人もの内地渡航者がいたのである。

 昭和十八、十九年頃の九州の炭坑での賃金は一日四〜八円(平均五円)で、これに各種手当が付いて月収は百五十〜百八十円、勤務成績のよいものは二百〜三百円。むしろ、同じ職種では日本人徴用者に比較して「はるかにいいのが実情である」(労働科学研究所「半島労務者勤労状況に関する調査報告」昭和十八年)と指摘されているくらいである。
 従って、朝鮮の親元への送金や貯金(徴用時は強制貯金)も行われ、「半島労務者の送金は普通三〇円〜五〇円程度」であったという(大内規夫「炭山に於ける半島人の労務管理」昭和二十年五月)。
 当時、巡査の初任給が月額四十五円、事務系の大学卒の初任給が七十五円、上等兵以下の兵隊の平均俸給が十円弱だから、朝鮮からの動員労働者の収入が相当の高額と言える。

 このように戦時動員された朝鮮人は決して強制連行でもなく、無給で奴隷のように扱われていたわけでもありません。むしろ地元朝鮮で働くよりも3倍から5倍の収入を得ていたのです。全てがすべて日本本土で働くのを嫌がっていたということはありません。
貧しい経済圏から豊かな経済圏への移動(移住)は国際情勢に目をやれば一目瞭然と言っても過言ではありません。軍隊や警察を使ってまで強制的に連れてくることはないのです。

 昭和四十年、日韓基本条約が締結された際、同時に締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」(日韓協定)などの諸協定によって、日本と韓国の間の戦後処理は完了しました。この日韓協定で「完全かつ最終的に解決」と謳っております。だから歴史認識がどうたらこうたら、日本企業に対する損害賠償請求で訴訟に持ち込まれる筋合いはないのです。


 唐の時代、重臣が太宗に高麗征討を諌めたこんな言葉が伝わっています。。
「かの高麗などと申すものは、はるかに遠い辺境の卑しい異民族でありまして、仁義の道を以て待遇する相手ではなく、中国の礼義を要求すべき相手でもございません。古来、魚やスッポンと同様にあしらっていたものでございます。
それゆえ、少々の無礼がございましても、おおめに見て、見のがしてやるのがよろしいと存じます。」(『貞観政要』より。)とあります。

 日本は中・韓連合の歴史戦に勝たなければなりません。
今や中・韓の捏造した歴史観が世界中に広がりつつあります。彼らを打ち負かすには組織的対応が必要であると同時に、草の根的な活動も大事になっております。資料がたくさん世に出回っているので、我々もしっかり勉強しようではありませんか。


 一時「大人の対応」が大事として放っておいたことが今日を招いたのです。
この段階においても沈黙を守るなんて負け犬を自覚できない愚かな政治家や学者・マスメディアは許せないとは思いませんか・・・ご同輩!!!


※別冊正論23 戦時動員は「強制連行」ではなかった。のデータ等を参考にまとめた。

  

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2008年03月30日

◎朝鮮総督府の役割 その1

総督府 その1  
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◎朝鮮総督府の役割 その2

総督府 その2  
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◎朝鮮総督府の役割 その3

総督府 その3  
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2005年09月03日

◎埋もれていたハングルを広めたのは日本

相変わらず韓国では親日派狩をやっている。

以前に文化遺産とも言うべき朝鮮総督府の建物を取り壊した。彼らは日本の匂いのするもの全てが気に入らないのである。

 

しかし日本にかかわりあうもの全て取り除くことは不可能である。

建物ばかりではなく民族の根本的なところ、すなわち言葉ハングルがある。

ハングルと日本(朝鮮総督府)のかかわりを見ると韓国がこれからもずっと「民族の魂」とも言うべきハングルを守り、国民に普及させたのは宗主国日本だったという事実を認める必要がある。

 

***************************以下「韓国は日本がつくった」からの一部抜粋

 

親日派処分 李朝までの朝鮮では、両班が使う漢字が良く、国語である朝鮮語は愚民の言語として蔑視されていた。

 

●ハングルはいつ作られ、どのような扱われ方をしたか

 

李朝朝鮮ではハングル語は両班(朝鮮貴族)から蔑まれ、宗主国の漢字ばかりが尊ばれてきた。

朝鮮半島でようやく独自の文字が考察されたのは、李朝朝鮮の世宗二五年(一四四三)である。

時の国王、世宗により「訓民正音」(ハングル)の28文字が創設された。

ところが、せっかくハングルがつくられたものの、公文書は相変わらず漢文で書かれていた。

例によってそれは朝鮮人の事大からであり、宗主国への遠慮からであった。

 チャングム

 実際、世宗が3年かけてハングル28の文字をつくったときには、両班から猛反別が起こった

反対者のひとりであった崔万里の反則理由は、「日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字をもったら、彼らと回様に野蛮人になってしまう。

 

そのうえ、我々は中国を宗主国と仰いでいるのだから、新しい文字をつくることは中国からしてみれば謀叛であり、怒りを買う恐れがある」

 

結局、ハングルは婦女史専用で、無学な庶民が用いる「諺文(オンモン)」と呼ばれ、主に仏教や経書の解説書、散文、小説、農書、婦女子の私文書などに用いられただけだった。

 

15世紀には朝鮮独自の文字としてハングルが作られた。しかし朝鮮人は逆にいっそう漢字や儒教に傾倒し、ハングルは排斥され漢字が重要視されていった。

 

こうして、世宗がせっかく創ったハングルだったが、正音庁(諺文庁)などに所蔵されていた諺文口訣は、第10代の燕山君によってことごとく焼き払われた

オギョモさらに、一五〇四年、学問の府であった成均館が遊蕩の場とされてしまい、ハングルの教授と学習が禁止された

 

このように、燕山君の時代になると、正音書籍を燃やし、ハングル使用を厳禁とした。誰かが、正音を使用しているのを知っていながら告発しないような場合まで、罪となったのである。

 次代の中宗は、一五〇六年に即位するなり諺文庁までをも閉鎖してしまい、ついにハングルは完全に廃止された。ハングルが再びこの世に姿を現すのは、「日帝三六年」の朝鮮総督府時代を待たなければならなかった。

 

●日本が考案し普及させた漢字・ハングル混じり文

 

 日韓合邦後、金沢庄三郎と小倉進平の両博士を中心とする日本人学者たちは、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化し、言語として完成させたのだった。

 

小倉博士の『朝鮮語学史』によれば、朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために国学、国文の使用を鼓吹し、ハングルを奨励しはじめたのは、1897年の日清戦争後からで、朝鮮が大韓帝国として清から独立してからであった。

 

 このとき、はじめて公文書での漢文の使用をやめ、漢字・ハングル混じりの新訂国文を公布し、使用を奨励することとなったのであろう。

 

 前述したように、漢字とハングル混じり文の発案は福沢諭吉である。そして、それが最初に使われたのは、「漢城旬報」が1886に「漢城週報」と紙名を改めた後だった。

 

文体の創案者は、同紙を創刊した共上角五郎が福沢に紹介したひとりの老儒学者ともいわれている。

 ハングルが韓国の全国民に教えられはじめたのは、1910年の日韓合邦以降である。

 

 ひとことで朝鮮語といっても、東北、西北、ソウル、東南、西南、済州島など、地域によって方言がある。それはまた、中部方言群(京畿、黄海、忠清、江原、咸鏡南道中部)と、慶尚道方言群(慶尚、全羅、済州、咸鏡南道中部以北)に、ニ分することもできる。

 

●朝鮮総督府のハングル普及の大きな力

 そこで朝鮮総督府は、現代ソウル語を標準語とする朝鮮語を教育を通じて朝鮮社会に普及させることとした。

 しかし、朝鮮文字であるハングルはつづり方が繁雑なうえ、歴史的蓄積や国語、国文としての言語体系化がなされていない。もっとも大きな問題は、教科書として採択できる朝鮮語の教材がきわめて少ないことだった。漢文・ハングル混じりの文章体系も未確立で、使いはじめてから日も浅い。そんなわけで、教育内容に適する教材が少なかったのだ。

 

中宗 そこで、総督府は1911年7月に「諺文綴字法研究会」を発足させ、日鮮の学者を集めて、研究と普及を進めた。また、「普通学校用諺文綴法」を決定、教科書として採用した。

 同時に、朝鮮の文化は漢文の文化であり、従来ハングルはずっと除外されてきた。漢文を知らなければ、朝鮮文化を知らないということになるだけでなく、ハングルでさえ読み書きできない。

 

ということから、寺内総督が着任してから一年後の1911年8月、朝鮮教育会が発足され「朝鮮語及び漢文」を教育することが決まった。

 そして朝鮮教育令によって、普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校に、「朝鮮語および漢文」の毎週の授業数を規定した。

 

 日本人子弟も、小中高校とも朝鮮語を学んでいた。

 当時の学務課長であった呂削幸太郎は、著書『朝鮮施政史』(改訂版)のなかで、「日本人子弟にも同じ朝鮮語課目を設けていた」(六六ページ)と述べている。小中高校で朝鮮人と日本人生徒の区別はいっさいなく、必修課日とされでいたのだ。

 

 ハングルについてもう少し説明すると、「ABC」や「イロハ」のように、連続書きしで語を表すのではなく、漢字と同じく上下左右に組み立てていく漢字体表音文字である。表記法が統一されておらず、実学教育を行うにはきわめて困難をともない、教育言語問題のひとつとして考えられていた。それだけに、当時の教育関係者はかなり苦労したようだ。

*****************************************ここまで一部引用

 

ハンサングンNHK BS2でやっている『チャングム』は16世紀初頭の宮廷を舞台にやっているが、そこに出てくる書物はすべて漢字であり、中国の医学書ばかりではないか、そして権威あるものはすべて宗主国の明である。

 

このようにハングルは日本の強制的な教育(朝鮮総督府)がなければ、ここまで普及することもなく、相変わらずハングルは藪の中であったはずである。

その結果、朝鮮はいまもって文盲率は高く、自分の国の文字を持ちながらそれを貶めて、宗主国の漢字をそのまま使う奇怪な国であったはずである。

 

しかし福沢諭吉たち日本人の努力と誠意によってハングルは日の目を見たのである。

 

  
Posted by wildhorse38 at 23:55Comments(2)TrackBack(0)