2015年06月09日

◎台湾総統の馬英九が「慰安婦記念館」を作るという。

馬英九総統

 韓国のヒステリー状態である慰安婦問題について、後ろで糸を引くのは中国であることは明らかであったが、台湾まで習近平が抱き込んでいたとは日本政府の情報収集・分析がいかにお粗末かを如実に表している。
もっともレームダックに近い国民党総統の馬英九である。
中国に忠誠を誓うのは別に不思議ではない。
今回は日本製食品の輸入制限に引き続き、日本に対する嫌がらせをやりだしたのである。
 これらからもわかるように台湾は親日的という幻想に惑わされてはいけない。日本に常に好意的であると考えること自体、外交を知らない人間の考えることである。


◆外交というのは裏切りの連続である。
・日清戦争後の三国干渉で日本が獲得した遼東半島等美味しいところは独・仏・露に略奪された。

・第2次大戦の戦後補償では日本が戦ったこともないはずのスイス、デンマーク、スペイン、スウェーデン、イタリア、カナダ、ギリシャ、オーストリア、アルゼンチンから各種請求権という名目で補償させられています。(国立国会図書館外交防衛課作成資料)

・韓国においては昭和40年の日韓基本条約・請求権経済協力協定で「完全かつ最終的に解決された」と言いながら、その後もOECF資金で総額5960億円の経済協力をしているにもかかわらず、日本の首相が変わるたびに”ごめんなさい”を言わせて日本からカツアゲをしている。(韓国の請求権資金白書)

・中国は昭和49年の「日中共同宣言」で戦争賠償は名目上放棄したように繕いながらODA等の形で6兆2000億円をもせしめ、公的・私的在外財産1兆1000億円以上の日本の資産を獲得したのである。その他民間からの技術移転等を考慮するならば莫大な戦後補償をしているのである。
 しかし日本軍が正面から戦ったのは蒋介石の国民党軍(現在の台湾)であり、共産軍であった毛沢東の八路軍とは真面目に戦っていないのである。

・ソ連に対しては昭和56年の”日ソ共同宣言”で賠償請求権は放棄
その代り満州にあった日本企業の工場設備を勝手に持ち出したり、国際法に違反して一説に76万3000人(抑留死亡者7万7000人)を強制収容し奴隷労働を課したと言われている。ソ連は日ソ不可侵条約を破って日本軍を攻撃したことを忘れてはいけない。

・アメリカにしてもしかりニクソンショックと言われた日本の頭越しにキッシンジャーを北京に送り込んだ裏切り。

 このように外交上の取り決めは相手の都合で破られるものであるが、日本だけは「サンフランシスコ平和条約」とそれに基づく「賠償・請求権協定」を誠実に守り昭和52年までに支払いが完了したのである。ついでに言うならば各国の大災害に日本は声明で出した支援金額は確実に期限までに実施するが、諸外国特にK国やC国は自分で言っておきながら半分に負けろとか期日までに実施しないのが常態だそうだ。

 このように国際社会はウソも約束破りも自国の利益のためには平気で犯すものであると認識しておく必要がある。
台湾においても政治力・経済力を占有している13%の外省人は蒋介石の国民党は主に大陸から連れて来た兵隊であり、このシンパは決して日本に対して良い感情を持っているわけでない。
総人口の85%を占める本省人は支配される立場にあり、金も権力も中枢を占めていない民進党は本省人の数的優位を生かし切れていないのである。
このように分析すると、台湾には反日的な支配階級と親日的ではあるけれども公権力を行使できるほど力のない一般大衆という一大勢力があるのだ。
韓国ほどではないが、台湾も強いものに着くという事大主義のところがあることを認識しておく必要がある。

ここで面白い記事を見つけた。
DNAからも血液学からも台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うということ”台湾人は漢民族ではない”と主張する論文であるので紹介する。
http://depot3.blog75.fc2.com/

  

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2014年05月14日

◎日本の台湾占領

日本軍の台湾進攻図 日本は1874年の台湾出兵を前に、アメリカ人のリゼンドルを外務省顧問に起用した。リゼンドルは台湾出兵に参画するとともに、「北は樺太より南は台湾にいたる一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言し、日本政府に大きな刺激を与えた。

大本営は翌1895年1月、澎湖諸島の占領を決定し、下関における日清講和会議さなかの同年3月26日に、比志島支隊に澎湖島を占領させた。澎湖島の占領は、清国政府の台湾に対する支援を封じる上で、必要かつ有効な作戦であった。この占領は台湾の官民に衝撃を与え、日本の台湾占領の企てに不安を抱かせた。同月30日に日清休戦協定、が調印された。

 日本政府は日清講和条約の締結後、台湾の不穏な動きに加え、外国の介入を恐れ、台湾の受渡しと占領を急いだ。1895年5月10日に、海軍大将の樺山資紀が台湾総督に、樺山の台湾調査に同行した水野遵が、民政局長官心得に任命した。

 樺山総督らは台湾総督府の編成を終え、同月24日に台湾に向けて出発した。27日には北白川宮能久親王の率いる近衛師団と、沖縄の中城湾で合流し、2日後の29日に台湾上陸を開始した。6月2日、台湾の受渡しは当初予定した台北ではなく、三貂角沖の海上で行なわれた。これは清国全権である李経芳(李鴻章の息子)が、台湾住民の反感と襲撃を恐れ、台湾の情勢は平穏裡に受渡し手続を取り行なえないとして、強く要請したためであった。こうして台湾の領有権は、国際法的に清国から日本に移ったのである。

 日本軍の占領は、三貂角の北にある澳底の上陸から始まった。

当時、台湾民主国の兵力は、清国の駐屯兵である湘勇(湖南兵)と広勇(広東兵)による正規軍と、台湾で募集した義勇(民兵)で、合わせて5万ないし10万と推定されている。しかし、正規軍といえども士気も悪ければ、紀律も乱れていた。むしろ義勇の方が、士気も紀律も勝っていた。首府の台北をめざす日本軍が、正規軍の配置されている淡水や基隆を避け、迂回して澳底から上陸したのは、湘勇や広勇の実態に暗かったからであろう。

 上陸した日本軍は、天険といわれる三貂嶺を越え、基隆沖からの艦砲射撃の支援もあって、6月6日に基隆を占領した。台湾民主国の総統である唐景縦が、厦門に逃亡したのもこの日である。

 また、樺山総督もこの日基隆に上陸した。 日本軍の基隆占領は、台北を震憾させた。基隆から台北に敗走する湘勇や広勇は、その道すがら略奪、暴行をほしいままにした。台北城内もまた同じような状況を呈していた。外国の兵隊特に中国の兵隊はこれを生業にしていると言っても良いくらい質が悪いのである。その頃、台北城内の紳商や列国商人に請われた、鹿港出身の辜顕栄が基隆に赴き、日本軍の速やかな台北入城を要請し、みずから案内役を

務めた。

 また、日本軍の先遣部隊が台北に到着した6月7日、陳法なる市井の一婦人が城壁の頂きからハシゴを降ろして、日本軍の無血入城を助けた。台北を占領した日本軍は、ただちに淡水の鎮圧に移り、9日に占領した。これで台湾北部の重要な拠点である台北、基隆、淡水は日本軍の制圧下となった。つづいて17日、樺山総督は元台湾巡撫衙門(役所)で始政式を行なった。その後、日本が台湾を放棄するまで、毎年この日を「始政記念日」として式典を催している。ちなみに、この巡撫衙門は台湾民主国の独立式典の会場でもあり、日本統治下で台北公会堂に改築され、さらには第二次世界大戦に敗戦した日本の、中華民国国民党政権に対する降伏式の式場となった。日本の降伏式は国民党政権の台湾始政式でもあり、その後、台北中山堂と改名されて今日にいたっている。この建物こそ台湾の変遷のあれこれを眺めつづけて来た、物言わぬ歴史の「証人」ともいえる。

 日本軍は思いのほか、たやすく北部を制圧した。このまま行けば台湾全域の制圧も、さほど時間を要しないと思われたが、予想に反して6月19日からの南進作戦は、強い抵抗に遭い苦戦を強いられ、8月6日には混成第四旅団が増派された。つづいて陸軍中将・高島鞆之助が副総督として台湾に派遣され、南進軍の司令官に就任した。さらに10月11日には、乃木希典の率いる第二師団も増派された。台湾の占領に投入された日本軍は、陸軍は二個師団半の約5万人、軍属と軍夫約2万6000人、軍馬約9500頭で、当時の陸軍の三分の一以上が動員され、海軍は連合艦隊の大半が動員された。大清帝国でさえ新進の日本帝国の前に屈しており、海上の孤島の台湾が、独力で勝てようはずはなかった。しかし、それでもあえて台湾住民は、悲壮なまでに激しく抵抗した。

 清国が割譲した当時の台湾の人口は、先住民は45万、移住民は255万の合計約300万と推定されている。移住民の多くは南部と中部に居住し、新開の台北を中心とした北部は、沈葆呂篶銘伝の改革で、政治の中心とはいえまだ時浅く、住民はそれほど定着していなかった。日本軍の北部制圧により、台湾民主国の指導者と正規軍の逃亡があいつぎ、日本軍の中・南部の鎮圧作戦の遂行は、容易になったはずであった。しかし、逆に苦戦することになったのは、この地の移住民の多くが、すでに台湾を父祖の地、墳墓の地として、台湾で生きる決意が強く、それだけに抵抗も激しかったのである。抵抗の凄まじさについては、台湾の住民全員が兵士のごとくで、勇敢で決死の心意気に富み、婦女までも戦闘に加わっている、と日本の記録に残っているほどである。このような悲壮な抵抗に苦戦し、日本軍は台湾全島の鎮圧に5ヵ月も費やしたが、台湾住民には武器らしい武器もなく、竹槍や旧式の銃器では、日本軍の近代的な兵器の前に、とても勝負にはならなかった。

 台湾住民の犠牲は、戦死と殺戮された者を合わせて1万4000人と推定され、負傷者の数は不明ながら、死亡者のそれを上回ると見られている。それに対して日本軍の戦死者は278名、負傷者は653名と発表されている。日本軍一人に対して、台湾住民50人の計算になり、まさに玉砕戦であった。

 台湾住民の抵抗でもっとも特筆すべきは、日本の記録にもあるように、婦女の戦闘参加とゲリラ戦であったことである。また、台東の先住民の戦闘員約700名が、西部の移住民とともに戦ったことも注目に値いする。ながらく移住民と反目しがちであったことを考えれば、先住民の参戦は画期的なできごとである。さらにはこの絶望的な抵抗を通じて、これまでの移住民意識が薄れ、分類械闘に陥りがちな客家人や閩南系の泉州人、漳州人の間に一体感が芽生え、「台湾人」としての意識が生まれたことは、将来に希望を抱かせるものであった。
11月18日、樺山総督は大本営に台湾全島の「平定」の完了を報告した。

 台湾の割譲はいままで余り問題にもなっていなかったので、「霧社事件」以外スムーズに実施されたと思っていたが、婦女子の戦闘参加や激しいゲリラ戦であったとは思いもよらなかったことであった。
                   「台湾」400年の歴史と展望 中公新書から抜粋

  
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2014年05月13日

◎台湾民主国の独立

唐景

台湾はポルトガル語でフォルモサ麗しの島とよばれ、歴史的にはオランダ統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代を経て、19451015日に、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が発した一般命令第1号に基いて中華民国軍が進駐し、同年1025日以後は中華民国政府が実効支配しており、1949101日の中華人民共和国成立に伴い瓦解した国民党が政府機能を台湾に移転してからは、中華民国政府の実効支配範囲とほぼ重複するため、国共内戦後の中華民国の通称としても用いられている。

 

伊藤潔著の「台湾―四百年の歴史と展望―」中公新書を読んでいたら、「台湾民主国の独立宣言」という項目があった。

今まで台湾が独立国を目指していたということは脳裏になく、新鮮に映ったので簡単に紹介する。

 

日清開戦直後の189410月、すでに日本政府の台湾領有の企図を察知していたイギリス政府は、ロンドンの『タイムス』にこれを報道させて各国の関心を喚起し、また、フランスは日本の台湾占領に強く反対し、武力行使も辞さないことを表明した。これらの動きに鼓舞された、清国の両江総督である張之洞(1837-1909)は翌年3月、ロンドン駐在の清国公使を通じて、台湾を抵当に数千万両の借款をイギリスに打診したが断わられた。同じ頃、フランスの艦隊は膨湖島に到着し、日本軍が間もなく膨湖島に侵攻することを知らせ、また、フランス政府は清国政府に、台湾をいったんフランスに譲渡し、戦後に返還することを提案した。しかし、この提案は台湾の守備にあたり、かつて清仏戦争で勇名をはせた劉永福(1837-1917)の強硬な反対で、実現しなかった。そしてこの直後に、日本軍が膨湖島を占領したのである。

フランス政府は講和条約締結の直後、日本の台湾領有を阻止すべく、一度は台湾への派兵を準備したが、領有するマダガスカル島の動乱のために中止した。

しかし、台湾の住民はフランスに期待をかけつづけ、邱逢甲は、「台湾はすでに朝廷(政府)に見捨てられた土地であり、住民には頼るべきところなく、ただ死守あるのみである」と声明し、台湾独立の意向を表明した。さらに519日にいたり、遅まきながらフランスの軍艦が到着したことから、陳季同とフランス艦長との間で、台湾が独立すれば条約を締結して、フランスの保護を受けるか、あるいはフランスの武力介入で、台湾割譲の阻止が可能となることが話し合われた。この直後にフランス艦長が唐景縦を訪れた。当時、徹底抗戦を唱える台薦の紳民は、まさにワラにもすがる心境にあり、台湾独立の決意はさらに固まった。

こうして台湾独立へ向けてにわかに準備が進められ、1895523日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。25日には独立式典が行なわれた。

台湾民主国の総統には唐景鵑推され、藍色の地に虎を描いた国旗の「黄虎旗」と、「民主国之賓印」の文字を刻んだ国璽、「永清」の年号が定められた。かくしてアジア最初の共和国が、ここに誕生した。

国会議長には台湾随一の富豪である林維源が推されたが固辞し、民主国に銀100万両を寄付して、独立式典の翌日に厦門へ逃げた。

唐景鵑禄簓錣涼楼未鰺用して、講和条約締結の直後に公金40万両を上海に送金しており、日本軍が台湾に上陸して間もない6月6日に親衛兵に守られて、淡水からドイツ汽船で厦門へ逃げ帰った。

民主国の独立式典からわずか2週間足らずのことである。

民主国防衛の責任者である、国防部長の李秉瑞にいたっては、総統の唐景鵑茲蠅眛┐佳が速かった。諸外国の承認を得られぬまま日本軍の進撃により、国家としての体をなさないままほどなくして消えさったのである  
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2011年10月24日

◎今この時期大事にすべき国際的友人は“台湾”ではないか

東日本大震災が発生して7ケ月が過ぎました。

世界の最先進国と自負していた日本がいまだに被災地にはガレキが山のように残っている姿をTVで見るに付け“情けない日本に成り下がってしまった”と胸が痛む今日。

国民がもう忘れかけている世界各国からの被災地支援に今一度目を向けたいと思う。

台湾の義捐活動いつも愛読しているメルマガに■ 国際派日本人養成講座 ■というのがある。

これは国際政治から歴史、文化、教育にわたるオールラウンドの講座であり、日本人の教養講座として御薦めの一品である。

今回は台湾からの震災支援のお話である。

今の大学生にとって台湾とは“中国人であり中国の一部である。今は政治的に揉めているけれど、いずれは名実ともに中国に吸収される人たちだ”程度の認識であり、日本との歴史的かかわりについてあまり関心もなく、チャイナスクール出身者の外務省に踊らされている政府・政治屋の認識と同程度である。日本の冷たい反応にもかかわらず今回の台湾からの義援金はすでに200億円を越す額であるという。

台湾のレスキュー隊台湾は震災後、直ちに二つの救援隊が来てくれていた。今回初めて知ったのが李登輝元総統が派遣したNGOのレスキュー隊「捜救隊」である。震災2日後の13日、医師2人を含む35人が日本に到着し、岩手県大船渡市で捜索活動を開始していたのだ。

 翌14日には台湾政府の派遣した28人からなる救援隊が到着し、宮城県名取市や岩沼市で救援活動を行った。支援物資も560トンもの膨大な量に上ったという。

これは中国の顔色を見ながら政治判断をしたことで話題になった。

李登輝元総統が派遣したNGOは台湾大地震の時、曽野綾子さんが会長だった日本財団から3億円の義捐金があり、そのうちの1億円近くを使ってNGOの捜救総隊をつくったものであるという。

日本政府は国際英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンと米英仏中韓露の1紙ずつの計7紙に支援感謝の広告を掲載した。この広告にダントツで支援をしてくれた台湾の人々への感謝は除外されていたという事実、文科省は被災した私費留学生を支援するため、日本政府から奨学金を受ける国費留学と同様に、平成23年3月の一ヶ月分だけ、緊急援助として学部生向けに12万5千円などの支給を行うこととしていたが、台湾からの留学生は対象外とされたという。なんという非道さであろうか。

若い人たちに日本と台湾の歴史的経緯と今回の4月11日までに台湾から寄せられた義援金は137億5千万円で、中国からの義捐金は3月末時点で3億4千万円であったことを紹介したら、いっきに台湾に対する感謝の気持ちを示す輪が広がったものであった。

我々日本人にとって真の友人はどこの国か、そうしていざというときに支援の手を差し伸べなければならないのはどこかを改めて認識する必要があるのではないだろうか。

 

以下をクリックしてください。

国際派日本人養成講座 ■「大震災で深まった日台の絆」を読むことが出来ます。  続きを読む
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2011年04月02日

◎台湾の日本に対する熱い想いに感動

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人口2,300万人の台湾が東日本大震災の被災者への義援金として官民合わせて約106億9千万円(37億3833万台湾元)を超えたという。
しかもその9割以上が民間からで、中でも長栄グループの張栄発総裁が、個人で10億円の義援金を日本赤十字社を通じて拠出するという。
また電子機器の受託生産大手の鴻海グループ(鴻海集団)総裁の郭台銘氏も、台湾の赤十字社を通して約5億5000万円(2億台湾ドル)を寄付している。
 そして4月1日付けの朝日新聞の記事によると、日本のレスキュー隊に感動した台湾の金融機関グループが東京消防庁に1億円寄付したという。
 これほどの親日国を日本政府とNHKが礼を失する扱いをしているのだ。地震発生直後、台湾が1番最初に救援隊派遣を表明したのにも拘らず中国に媚を売るために、発表から2日間も待たされ中国の救援隊が現地入りしてはじめて台湾を受け入れたのである。
 またNHKは各国の支援状況を紹介するのに台湾を中国の一部として扱い正確な支援状況を紹介していない。これほどまで大きな支援をしてくれている台湾の人たちの気持ちを逆なでしているのである。
 自民党政権時代も媚中派の売国奴議員がこれに近いことをやっていたが、今回ほど世界に対して恥ずかしい思いをしたことがない。
今の日本人指導者たちには誇りというものがないのか。仙谷由人が官房長官時代に「日本の属国化はいまさら始まったことではない」と宣言をしたようにこのまま中国の支配下にはいってしまうのか。
 私はこれを機にいままでの日本の迷走ぶりを深く反省をして、誇りある日本を取り戻すチャンスだと思う。いやそうしなければいけない!

そしてこれほどまで日本を大事に想ってくれる台湾を絶対に見捨ててはいけない。
そう思いませんか・・・日本人なら!!!

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■米を上回る 台湾の義援金100億円突破 親日ぶり示す
産経新聞2011.4.1

 台湾外交部(外務省)は1日、東日本大震災の被災者への義援金が官民合わせて37億3833万台湾元(約106億9千万円)に上ったと発表した。うち9割以上が民間からという。
 米国赤十字社が3月29日に発表した義援金1億2千万ドル(約98億9千万円)超を上回っており、人口が10分の1以下の台湾で米国以上の義援金が集まったことは、その親日ぶりを示している。 台湾では3月18日に馬英九総統らが参加したチャリティーイベントで、日本円換算で20億円以上の義援金が集まったほか、台湾の運輸大手、長栄グループの張栄発総裁が23日、個人で10億円の義援金を日本赤十字社を通じて拠出すると発表した。(共同)


■レスキュー隊に感動…東京消防庁に1億円寄付
読売新聞 2011年4月2日

 東日本大震災の東京消防庁の活躍に感動したとして、台湾の金融機関グループ「中国信託フィナンシャルグループ」傘下の慈善団体「中国信託慈善基金会」が1日、東京消防庁に1億円を寄付した。
 この日、都庁を訪れた同会の陳国世副会長は、石原慎太郎知事、新井雄治・消防総監と面会。陳副会長は、「東日本大震災での東京消防庁の活躍に感動した」とした上で、「日本での地震被害は、台湾でも24時間映し出されていた。被災地や東京で人々が秩序を保っていることに敬服している。団結して頑張ってほしい」などと語った。
都は、東京消防庁の装備の充実など運営経費に充てたいとしている。


■台湾の救援隊、2日待たされ到着 日本、中国側に配慮か 
朝日新聞 2011年3月14日
   
 【台北=村上太輝夫】台湾の救援隊が14日、羽田空港に到着した。11日の地震発生直後にすでに隊員派遣の用意を表明しながら、丸二日も待機を強いられた。台湾側は「中国要因でしょう」(外交関係者)と受け止めている。 日本側はいったん受け入れると返答したが、その後「現場が混乱している」として待つよう要請した。だが、その間に各国から救援隊が入り、台湾メディアから「なぜ入れないのか」と疑問が出始めていた。
日本政府は1972年に台湾と断交、「台湾は中国の一部」とする中国の立場に配慮しており、台湾隊受け入れをためらったとみられる。
 13日に中国の救援隊が現地入りし、同日夜にやっと台湾隊受け入れが決まった。
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2009年12月08日

◎金 美齢(きん びれい)さんの日本への帰化を歓迎

2009年9月、日本への帰化が許可され、晴れて日本人「金 美齢」が誕生したという。
彼女は台湾出身で長いこと日本言論界で活躍しており、日本に対する愛情に満ちた激辛の評論をしていた。当時はまだ台湾国籍で金さんの活躍ぶりを好ましく思っていた私ではあるが、彼女は所詮台湾人であり台湾のための発言であると解釈していた。
彼女はJET日本語学校理事長、元中華民国総統府国策顧問であり、台湾独立の闘士でもあった。
テレビ界では
ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日) 、朝まで生テレビ!(テレビ朝日)、
金美齢と素敵な仲間たち(日本文化チャンネル桜) 、」(テレビ朝日)、
太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。(日本テレビ)、
たかじんのそこまで言って委員会(読売テレビ)
等の常連コメンテータである。

一度だけ札幌で行われた講演会を聞きに行ったことがある。
白髪で小柄な体から発するオーラは他の講演者を完全に食ってしまっていた。
今でも印象に残っている言葉に
「あなた達日本人は世界の1等国の国民であるということを理解していない。世界からもっとも信用されている国家であるということを知るべきである」
「それに引き換え台湾は同じ自由主義国家であるヨーロッパの国々に行くのでさえ入国ビザを要求されて、発給まで半年もかかる国があることを知って欲しい」
「にもかかわらず自分の国をさげすみ貶めている国民がいることが残念である」と・・・。
今時ことば尻を捉えられ言葉狩りにあうこと恐れて問題の核心となる事を云わない傾向がある。特に男性のコメンテータは腰ぬけ揃いであるが、金美齢、桜井よしこを代表する女性コメンテータは女に怖いものなしである。
日本の国籍を取得するときは国家に対する忠誠を誓う儀式も日本語の審査もないそうである。
一度韓国に帰国した在日たちが密入国で日本に長いこと潜伏し永住資格者となり、さまざまな特権を主張する在日の在り方に疑問を持つのは私だけであろうか。
金美齢さんのように本当に日本を愛し、日本人以上に日本人らしい帰化人を歓迎する。

金美齢さんのHP
http://www.kin-birei.com/

 

  
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2006年05月30日

◎台湾軍の基礎を築いた旧軍の将校たち 「白団(パイダン)」

白団と蒋介石丁度 一年前の6月 産経新聞に台湾軍の大陸反攻のために協力した旧日本軍の将校団の記事が載っていた。

彼らは敗残兵のような蒋介石軍を基礎から教育訓練をし、現在の台湾軍の基礎を確立したのである。

秘密裏に教育を担当したその数20年間に亘って83名

ただ共産主義に対する危機感と蒋介石に対する恩義のために参加したのである。

 

ただこの問題を考える時 日本は明治以来アジアの先駆者としてアジア諸国のリーダー育成のため長年に亘って努力してきたことを忘れてはいけない

まだ清国の時代の明治33年から終戦の昭和20年の南京政府派遣の学生まで1200名余を士官学校で教育しており、それぞれ国民党軍や袁世凱軍、張作霖軍にも軍事顧問として日本軍の現役将校が派遣されていた。

国民党軍の高級将校にも日本の士官学校出身者がいたので、あまり抵抗が無かったものと思う

有名なのは蒋介石総統、周恩来、孫文も日本で勉強したのである。

韓国でいえば朴正熙 元大統領も

 

日本は過去 蒋介石の国民党軍よりも毛沢東の八路軍に脅威を感じていた

案の定 蒋介石は国共合作で共産軍に取り込まれ、日本軍撤退の後 大陸を毛沢東に明け渡した。

 

戦後米軍が共産軍と対峙したわけであるが日本がなぜムキになって共産軍を壊滅しようとしたかが、ようやくわかったようである。

 

以前芙蓉書房出版の「白団(パイダン)」を読んだことがあるが、結局 蒋介石は金持ち米国が戦う物量作戦よりもアジア式の日本方式を選んだのである。

考えられないほど強かった日本軍に対して最大の敬意をはらっていたのは日本軍の敵だった蒋介石の国民党軍だったということである。

 

陸軍士官学校留学生 地域別 年次別 内訳

http://wildhorse-depot.up.seesaa.net/image/97A48CR8Em8AAF8Aw8DZ97AF8Aw

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***********************産経新聞 H15.6.19から引用

「白団」 旧日本軍将校を蒋介石が招請 台湾軍を極秘教育

昭和24年から20年間で83人 「陸大方式」で近代化

 

 【台北=河崎真澄】中国共産党軍との内戦に敗れ台湾に退却した国民党軍。「反攻大陸」を掲げた蒋介石は、一九四九(昭和二十四)年から二十年間にわたって、総勢八十三人の旧日本軍将校を軍事軍教官としてひそかに招き、旧陸軍大学方式で台湾軍将校を教育させた。「白団(パイダン)」と呼ばれたこの訓練校と教官の存在は、台湾でもあまり知られていない。元台湾陸軍少佐らが″日台軍事秘話″を語った。

 訓練校の創設は一九五〇年五月で、団長(総教官)として招かれたのが中国大陸で戦った第二十三軍参謀長で元陸軍少将の富田直亮(故人)だった。富田は一九四九年九月に蒋介石の密使と東京で会い、同年十一月に二人の旧将校とともに身分を偽り香港経由で台北に到着。富田は日本名を捨て「白鴻亮」と名乗ったため訓練校と教官は、総称して「白団(パイダン)」と呼ばれていた。

 

 台湾に退却してきた国民党軍は二十数万人で、すでに台湾で組織されていた軍隊と合わせても、陸軍中心の台湾軍は五十万人足らず。対する共産党軍は数百万人もの圧倒的な兵力があった。

 さらに国民党軍は、一九三七年に始まった日中戦争以降の戦いで軍事教練や将校育成が追いつかず、敗残兵の色合いも濃かった。このため将校訓練校のはずの「白団」だったが、当初はほふく前進など基本的な教練から始めざるをえず、その上で図上演習など旧陸軍大学方式を踏襲した将校教育を進めた。

 

 台湾軍のなかでも「白団」の存在を知るものは限られていた。一九六二年九月、「白団」に入学した台湾陸軍少佐だった楊鴻儒氏(七三)は、「将校訓練校の入試を受けてこいと上官に言われるまで『白団』について何も知らなかった」と証言する。いわば"非合法″の旧日本軍式の教育機関が台湾にあるということ自体、仮に表面化すれば国際社会から非難の対象になりかねなかった。

 

 楊氏は、「富田総教官をはじめ十数人の日本人教官から戦略戦術をたたき込まれた記憶は今も鮮明だ」という。台北の石碑地区で「実践学社」の表看板を掲げ、楊氏の入学時には約二百人の台湾軍将校が在籍していた。「広東省の海岸から上陸し共産軍と戦いながら北上する作戦ばかり綿密に練っていた」と振り返る。

 

 台湾には米国から正式な軍軍顧問団も派遣されたが、蒋介石があえて旧日本軍将校を頼りにしたのは、楊氏によれば「物量が頼りの米軍方式ではなく、劣勢の兵力でいかに優勢な軍に勝つかという日本軍の作戦が上策だった」からだ。

 

 一般が入手できるほぼ唯一の資料「白団」(中村祐悦著、芙蓉書房出版)によると、富田らは一九六九年に「白団」が閉校するまで、合計八十三人の旧将校を台北に呼び寄せた記録がある。その過程で日米両政府が「白団」の存在に気づいたフシがあるが、同著によれば、結局「この軍件を不問に付している」という。

 

 なぜ、旧日本軍将校たちは密航の危険を冒してまで、かつての敵を支援し、しかも日米は黙認したのか。

 陸上自衛隊出身で、後年、富田の秘書を務めた台北在住の阿尾博政氏(七二)は、「大陸を制した毛沢東に対抗する反共の砦を日台で築く理念に加え、敗戦国日本に温情を示した蒋介石総統に報いたいとの思いが根底にあった」と強調する。

 

 しかし、蒋介石の「反攻大陸」の夢はついえ、「白団」の歴史は一九六九年に幕を閉じる。蒋介石が死去するのはその六年後の一九七五年。最終的に何人の台湾軍将校が教育を受けたか、正確な資料は詳らかではない。

 楊氏はいま改めて、「白団の将校教育や旧日本軍将校の作戦指揮がなければ、繰り返し攻撃を受けた金門島などは、共産党軍の手に落ちていただろう」と考えている。

 

  
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2006年05月23日

◎日本人として日本のため戦った「台湾系元日本兵」の無念さを知る

台湾の無名戦士の碑戦前に台湾は日本の植民地であったということはみなさんご存知のことと思う

しかし台湾系日本人として日本のために戦ったと言う事実は余り知られていないと思う

大東亜戦争に日本兵として出征した台湾青年はその数20万人といわれている

 

高砂族の戦いぶりは以前に紹介したが

 

中国系台湾人の多くが日本の敗戦後 蒋介石により共産党軍との戦いに駆り出されて中国大陸に置き去りにされたり、共産軍の捕虜になったり、朝鮮戦争へ従軍させられたり

いわゆる使い捨てにされた悲劇を忘れてはいけない

日本政府は彼らに対して誠意ある態度を示していないと思う

中国に対する無駄なODAを止め、すこしでも彼らの功績に報いてもらいたいものである

彼らの悲劇を知ることは日本の責任であり誠意である。

そしてそれが台湾を如何に大切にしなければならないかを我々に教えてくれる

****************産経新聞から引用

台湾出身「元日本兵」たちの戦後 歴史に埋もれた無名戦士

国共内戦で捕虜、文革の迫害・・・帰還わずか

 

 大平洋戦争に「日本兵」として出征した台湾青年たちがいた。その数、約二十万人に上る。彼らを中心に約一万五千人が終戦後、国民党政権によって、「国共内戦」の前線に駆り出され、蒋介石が台湾に撤退するや中国大陸に置き去りにされた。共産党軍の捕虜となって、朝鮮戦争への従軍や文化大革命での迫害など辛酸をなめ、大半が命を落としている。九死に一生を得て帰還し、台湾の歴史の闇に埋もれてしまった少数の生き残り兵たちはいま、陳水扁総統に対し今年十月の「無名戦士」慰霊祭への出席と元日本兵」たちへの理解を求めている。

 

 台北から列車で一時間ほどの桃国県中レキ市に住む陳増昌氏(八二)が、五十一年ぶりに台湾の土を踏んだのは一九九三年のことだった。十七歳で日本軍に志願し、防疫担当の軍医補佐として三九年に日本の支配下にあった海南島海口陸軍病院に配属された。三年後に台湾に一時戻って結婚し、妻と再び海南島に渡った。

 

 陳氏はたどたどしい日本語で、「昭和二十(一九四五)年の終戦が自分と家族の運命をすっかり変えた」と話した。日本兵であっても台湾籍の場合は内地復員は認められず、国民党軍の指揮下に置かれ、今度は軍医として病院を維持する責任を負わされたからだ。四九年に台湾に撤退する船に乗ったものの国民党軍兵士に「台湾人は残れ」と海に突き落とされた。

 

 陳氏といっしょに海南島に放置された台湾出身兵は約二千人。翌年、接収に来た共産党軍に捕まり、陳氏は今度は共産党軍で軍医として働かされることになる。だが、六六年には文化大革命が始まり、陳氏は紅衛兵に「日本兵の亡霊」「国民党の残兵」と迫害された。拷問が続いて右の手のひらが開かなくなった。

 

 台湾に生まれた自分の運命をのろった陳氏は何度も自殺を考えたが、「日本の精神教育を受けた自負が絶望に勝った」。八七年に国民党政権がようやく戒厳令を解除し、中国大陸出身の元国民党兵士たちの故郷訪問が認められたため、陳氏など中国大陸に残された台湾出身の「国民党元兵士」の帰郷にも道が開け、十一年前に帰郷できた。

 

 しかし、陳氏のように台湾に生きて戻れたのはほんのー握りだった。

 台湾出身兵救済に奔走する許昭栄氏(七七)によると、日本の敗戦後に国民党軍が台湾や海南島などで半ば強制徴発した台湾青年は約一万五千人

 

このうち約一万二千人が国民党軍兵士として「国共内戦」に、あるいは共産党軍に捕まり「朝鮮戦争」(一九五〇−五三年)に送られて戦死した。

 さらに千人以上が文革前後に死亡したと許氏は推計する。四九年の撤退時を含め台湾に戻れたのは数百人で、千人以上が今も中国大陸のどこかで過去を隠して暮らしている。

 

 許氏も四三年に、海軍特別志願兵として「日本兵」となり、艦艇整備の技術を身に付けた。海軍の技術員が大幅に不足していた国民党軍は台湾占拠後に旧日本兵だった台湾青年を脅迫まがいの手口で自軍に入隊させた。許氏は逃げる道を失って四七年に海軍に配属。国民党軍が保有していた日本からの賠償艦三十四隻の保守も運用も実は台湾出身兵が行っていた。

 

 四九年の台湾撤退で海軍にいた台湾出身兵約五百人が台湾に戻り、その中に許氏もいた。だが、許氏もその後、さしたる理由もなく政治犯として十年間、獄につながれて国民党政権の圧迫を受けたが、八九年に政治難民としてカナダに亡命。中国大陸に残された台湾出身兵の支援や、遺骨の捜索をこつこつと始めた。

 

 許氏によると、国民党政権は八七年の戒厳令解除までは台湾出身兵の行方を捜すことはおろか台湾出身兵の存在すら認めようとせず、家族も口をつぐむほかなかった。

 許氏は、国民党軍を最もよく知る国防部(国防省に相当)など台湾当局に支援を訴えたものの、中国大陸での生存者捜索は中台関係に阻まれて進まず、その状況は四年前に民主進歩党の陳政権が誕生してからも変わらなかった。

 

陳氏のような帰還者も国民党軍退役兵「栄民」と国等の待遇は得られず、生活の苦しさは中国大陸に残留していたころと同じだという。

 人権問題に詳しい歴史研究家の曽欽栄氏は「台湾出身兵を救うことにすら消極的で住民の人権を守れないという事実は台湾が国家として正常でないことを証明している」と手厳しく批判する。

 

 許氏は十月中旬に高雄市で陳氏ら元兵士とともに「無名戦士」の慰霊祭を開く予定。 「三軍の長の陳総統に出席してもらい、台湾人すら知らされていない中国大陸の台湾出身兵の問題を、日本をはじめ世界の人に理解してもらいたい」と、許氏は話す。帰還兵の高齢化も進み、「慰霊祭をわれわれが行うのは今国が最後だ」 (許氏)という。

  

国共内戦

 中国大陸を舞台に中国国民党と中国共産党の軍隊が政権をめぐり演じた内戦。日中戦争終了後の1945年10月、両党首脳は重慶会談で平和的な国家総一を目指す双十協定を結んだが、46年6月に協定が破れ戦闘状態に陥った。米国の軍事支援を受けた国民党軍も47年半ばから劣勢となり、49年10月には共産党が北京に中央政権の樹立を宣言。国民党政権は同年末に台湾へ移り、中台は分断された。45年から国民党政権の施政下に移されていた台湾では、兵員の大陸向け徴用や物資の徴発が行われた。海南島のほか大陸沿岸の島々での戦闘は50年代も続いた。

 

 

  
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2005年09月08日

◎世界のならず者国家 中国に対抗するためには台湾との連携の強化が必要

外交は日本外務省のチャイナスクールの連中のように友好だけでは成り立たない。

平時の戦争が外交であり、いかに国益をかけて戦うかである。

 

外交の基本は「右手で握手しながら左手で相手の頬を叩き、相手のスネを蹴る。しかし友好と言う右手は離さない」これが本来の姿。どこかの首相のようにすぐ両手で握手をしたがるのは外交とは言えない。

 中国は北朝鮮、ロシアの旧共産圏GPに韓国を取り込み、旧宗主国として朝鮮半島に影響力を行使し、日本の封じ込めを狙っている。

 

これを打破するには、今までのように遣られっぱなしの防勢からギリギリの喧嘩をする攻勢転移に移行しなければ、日本は中国の李鵬元首相が言うように1925年まで日本はなくなってしまうかもしれない。

 

韓国という国は過去の経緯から自由主義国とはいっても信頼できないので、台湾と連携しつつインドとの関係を強化する必要がある。そして、チベット、ウイグル、内モンゴルの独立運動を民間として支援をしていくことが大事である。

ここで在日台湾人の切なる思いを紹介する

********************************産経9月8日 コラムからの抜粋

●アジア安定に台湾の国連加盟必要

日本中華聯合総会会長 蘰膳61 (東京都渋谷区)

 国連総会が九月十三日からニューヨークの国連本部で開幕します。今年は国連創設六十周年にあたりますが、日本の皆様にはぜひ台湾の国連加盟問題に注目していただきたいのです。国連では一九七一年、中華人民共和国に「中国」の代表権が移り、台湾は国連を

離れました。中華人民共和国の国連議席問題の解決と同時に、台湾に住む二千三百万人の代表権が置き去りにされました。台湾はこの十二年問、国連加盟に努めてきましたが、国際政治の厳しい現実の

中で実現していません。

 中国はここ数年、軍備を急激に拡大し、多数のミサイルが台湾に照準を合わせでいます。さらに今年三月に「反国家分裂法」を制定しました。

この法律は台湾への武力侵攻の法的根拠となるもので、日本政府も懸念を表明しました。日米両国は台湾海峡間題の平和的解決を共連戦略目標に掲げましたが、これは中国の軍備増強がアジア太平洋地

域の平和と安定を脅かすとの一致した認識によります。

「世界の平和と安全維持」は国連の設立目的の一つであり、国連が台湾海峡の問題に積極的に関与し、その責務を果たしてほしいと願っています。そのために台湾の国連加盟は必須なのです。

 台湾は民主と自由、平和を愛し、日米など世界の主流と価値観を共有しています。経済面では、ハイテク分野で世界トップ級の技術と生産力を誇り、経済実力は世界第十五位。日本にとっては四番目の貿易パートナーです。日本との地理的な近さや歴史、文化的なきずなの強さに加え、台湾が世界で最も親日的であることはご承知の通りです。

 衛生、環境、テロ対策などの国際課題は、国境を超えた各国共連の取り組みが必要です。台湾が国連から排除されていることは、国際社会にとってもマイナスにほかなりません。アジアの平和と安定のためにも、日本の皆様が台湾の国連加盟を支持してくださるよう強く期待いたします。

       ◇

 「日本中華聯合総会」は台湾系の在日居留民団体で作る連合組織。藥瓩呂海里曚病荵綾衆貘絏馗垢墨⊇个気譴拭

「NO」と言える台湾―孤児国家・台湾経済はなぜ強いのか?
日・中・韓 新三国志

  
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2005年08月21日

◎まだまだ見くびってはいけない日本人の誠意 高砂義勇兵の慰霊碑建立

高砂義勇兵の慰霊碑

8月20日付けの産経新聞に「高砂義勇兵の慰霊碑来月着工」と出ていた。

高砂族の慰霊碑に関しては過去2回ほどHPで紹介しているが、慰霊碑再建のための義捐金が3200万円が集まったと出ている。

 

もちろん私の家族もそろって義捐金を納めさせてもらった。

 

高砂族の人たちが示した日本に対する忠誠心と敗戦後彼らに対し、十分な補償が施されていないことを我々日本人は知る必要がある。以下産経新聞から抜粋を紹介する。

*********************************産経新聞からの抜粋

高砂義勇兵慰霊碑、来月に着工

台湾社団法入設立し再建立

 

 【台北=河崎真澄】太平洋戦争に日本兵として出征した台湾先住民出身「高砂義勇兵」の戦没者を祭るため、台北郊外に建立する英霊慰霊碑の再建策が十九日までにまとまった。

 

撤去を求められた慰霊碑の移転と再建立のため産経新聞の読者などから三千二百万円を超える義援金が集まったが、その受け皿組織として関係者は社団法人を来月五日に設立することを決めた。

十一月に戦後六十年を記念し除幕式と慰霊祭を行うことにしている。

 

 この慰霊碑は十三年前、高砂義勇兵の遺族が台北郊外の烏来郷に自力で建立したが、慰霊碑の敷地として約千平方辰療效呂鯡欺で提供してきた地元観光会社が、二年前の新型肺炎(SARS)流行による観光不況のあおりで倒産。新たな地権者が慰霊碑の撤去を要求してきたため、遺族らで作る建立委員会が対応策を探してきた。

 

 その窮状を報じた昨年七月四日付の産経新聞朝刊を見た読者らが慰霊碑を守る会(発起人代表・吉川福太郎氏)を結成。産経新聞も協力して昨年十一月段階で三千三百九十八件の寄付申し出があり、総額は三千二百一万二千三百九十円に上った。

こうした日本側の支援の動きに呼応して建立委員会の代表で烏来郷元郷長(町長)の簡福源氏らが、社団法人の「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。

 

慰霊碑を守る会と産経新聞では、総統府前国策顧問で台湾独立建国連盟主席の黄昭堂氏が理事長を務める「現代文化基金会」に台湾における義援金の管理を委託。基金会が会計監査する形で社団法人の「記念協会」に支援を行うことを決め、建設が始まる。作業が順調に進めば、除幕式と慰霊祭は十三年前に慰霊碑を建立した周麗梅氏(故人)の命日にあたる十一月十九日に行う予定だ。また、高砂義勇兵の記録や遺品を展示する記念館の併設も将来的に検討する。

 

記念協会の代表に就任する簡氏は、「高砂義勇兵慰霊碑にかくも多くの日本人が関心を寄席義援金を送ってくれたことに深く感謝している」とした上で、「さらに多くの日本人に、太平洋戦争に日本のために志願して戦い散っていった高砂がいた歴史を忘れないほしい」と話している。

  

 高砂義勇兵

日本統治下の台湾で「高砂挺身報国隊」「陸軍特別志願兵」「高砂義勇隊」などとして太平洋戦争に出征した「高砂(たかさご)族」と呼ばれたマレー・ポリネシア系の台湾先住民の総称。総数は6000人とも8000人ともいわれる。

血書志願するなど忠誠心が強い上、山地生活の知恵から南洋のジャングル行軍では先頭に立って道を開き、追撃戦でも力を発揮した。半数以上が戦死したとみられるが、生還しても戦後は日本国籍を失ったため、遺族を含め十分な補償や恩給を得られていない。

**************************************ここまで抜粋

日本のため戦った台湾系日本人(高砂族・台湾人)の実態を知り、その誠意に応えよう!

高砂族義勇兵

http://www.cromagnon.net/whatsnew/topics/takasago.htm

 

  
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2005年04月15日

◎台湾は中国の領土ですか、それとも独立した主権国家ですか?

最近軍事大国中国が「反国家分裂法」という物騒な法律を反対無しのほぼ全会一致で決定しました。

これは台湾が中国から離れて独立する動きを見せたら軍事攻撃をするという脅しの法律です。

中国共産党政府が「中華人民共和国」をつくってから約半世紀、

ところで世界中で一番軍事行動で他国を脅かしているのはどこの国だと思いますか。殆どの方はアメリカと答えるでしょうね。1番多いのは中国で11回とも16回とも言われています。思いつくだけでも朝鮮戦争、インドに対する中・印戦争1次・2次、旧ソ連との珍宝島またはダマンスキー島紛争、ベトナムに対する中越戦争、南沙諸島・西沙諸島に対する軍事行動、チベットに対する軍事行動、台湾の金門島に対する砲撃、最近では台湾の総統選挙に対する軍事威嚇等、常に軍事力を背景に力の外交をやっています。このように軍事行動で外交交渉をやる国を軍国主義国家と言います。

このような中国を相手に孤軍奮闘している台湾に焦点をあてて話を進めます。


鍵は「台湾」にあり!―「日・台」新関係がアジアを変える
台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい
新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論
中国人の偽善(ウソ) 台湾人の怨念(ウラミ)―日本が選ぶ賢明な道

台湾は親日、中国は反日の理由
1895年、日清戦争で勝った日本は台湾を穣割された。
元々台湾は化外(けがい)の地といって平地部を除いて未開の地扱いをされ、清国からも相手にされていなかった。
1945年に敗戦を迎えるまで日本政府は台湾の開発に力を入れ、インフラ整備をやり、教育、民生、経済の基盤は日本によって作られたものです。

台湾総督府には総督として明石元二郎(あかしもとじろう)(日露戦争の時、欧州でロシアに対する謀略活動で大成果を上げた大物)、203高地攻略の立役者で陸軍大将の児玉源太郎を当てたり、他にも旧5千円札の新渡戸稲造、東京市長になった後藤新平など、日本の歴史でも傑出した人が台湾に赴任し、、全身全霊を傾けて台湾経営をしたのである。

しかし、戦後、蒋介石の中国国民党が台湾を支配し、知識人、支配層を弾圧する国民党の恐怖政治が続いた。中国共産党の国連復権に伴い、台湾は日米から国交断絶され孤立したが、李登輝・前総統の時代から民主化が進み、国際社会で無視できない存在になっている。

ここで確認したいのは、台湾は中国共産党から過去一回も実行支配されることはなかったということ。
明・清の時代も化外の地、未開の地でほったらかされていたということ。
台湾は独自の憲法を持ち、民主的な選挙で総統が選ばれる民主主義国家であるということ。

それに比べて中国は共産党独裁で、国民選挙もしたことがない。国家主席もシャンシャン大会で決まる反対もない軍国主義国家である。

なぜ台湾が親日で、中国が反日かというと、わたしは国の成り立ちにあると思う。
中国は古来『天命思想』があり、天が私にこの国を預けた。
以前の統率者は悪いやつだったからで、「私に正当性がある」ということになる。
だから戦前中国の主要地域を支配していた日本は悪者にならなければならないのです。
最も戦時対象国は毛沢東の八路軍(共産匪)ではなく、蒋介石の率いる国民党軍でしたけれどね。
なぜ今日のマッチポンプ的な反日暴動が起こるのかといえば、その火種は反日教育をやり、反日記念館・反日公園をつくった江沢民にあるのです。
もちろん中国政府がコントロールをしているのですがね。
彼は共産党政府の施策失敗を隠すため、共産党支配の正当性を主張する手段として、また国民の不満をそらすために反日教育を徹底したのです。
どこの国でも為政者がいつでもやる手ですが・・・、
そのころの小学生・中学生が純粋培養されていま20歳前後になっているのである。いわゆる洗脳です。

本当の日本軍を知らない連中が育ってきたということはプロパガンダもまともに受け取るということになる。

そして戦後日本が中国のために6兆円を超える経済援助をし、天安門事件で国際的孤立をしていた中国を外交的にも支えてきたことも。
今あるのは日本が経済的基盤をつくってやったからであることを一切教えていないことが問題である。
もっとも日本の経済援助で軍事的基盤のインフラ(空港、軍用道路、港湾施設等)を整備し、近代的兵器を買って軍事大国成り上がったわけです。
もちろんこれも国民には教えておりません。これが中国のやり方そのものなのです。

「日中共同宣言」で中国とは請求権放棄の確認をしたが、今ごろになって賠償を支払っていないなどという。あの交渉はすでに蒋介石との間で賠償問題が解決しており、中国としてはソ連との対抗上賠償問題で決裂するよりも日中間の経済交流を急いだのが真相です。

いまさらどの面下げて賠償問題が残っているというのか。「中国こそ正しい歴史認識をしろ!」と言いたい。


それでは台湾がなぜ親日かというと、
一つ目は日本の優秀な官僚が台湾総督府にいて、台湾住民のための国つくりの基本として『西洋近代文明』を教えた。
2つ目は明治の人間の実直さから来る信頼感と親愛感が住民に浸透した。
3つ目には李登輝元総統、金美齢氏等で代表される愛国的親日家の力が大きい

ここに台湾の統計的植民地統治がある。

「日本の近代的社会建設のなかで大きな貢献があった。それは教育分野と衛生分野である。 
台湾は、統計数字からみれば、日本の台湾統治初期の1899年、まさしく「化外の地」にふさわしいほどで、私塾が1,721ヵ所あり、生徒数はたった2万1千人、総人口の1%未満で、近代的学校は1校もなかった。

しかし1943年には、男子の就学率が80.9%、女子が60.9%に上昇した。同時期の中華文明の生誕の地中国本土では、就学率が20%未満である。日本人の教育は、近代科学と近代的世界観の育成にあったが、戦後の中華民国の教育政策は、強制的な暗記による中華民族、中華文化の教育であった。


 亜熱帯の瘴気(しょうき)(風土病)の島を近代市民が健康的に住める島に改造したのは、関東大震災後に東京を大改造した後藤新平である。
それは彼が医者出身だからだけではなく、「明治人」だからでもあろう。台湾近代化の父と評してもけっして過言ではない。
もし、戦後、中国大陸から新しい植民地統治者とともに台湾を襲った天然痘、黒死病、コレラなど、近代市民社会で、すでに絶滅した伝染病の大流行を考えれば、ほとんど目にみえないが、日本近代医学の台湾に対する貢献がいかに大きかったかが理解できよう。
台湾は現在、世界最大の医者の「産地」となったが、その理由は、ただ台湾人がけっして政界へ進出できなかったからではない。
医学が台湾を近代社会に変えたという歴史的な産物という視点からもみるべきではなかろうか。台北帝大の前身は台北医専である。
漢方医ではなく、西洋医学を修得した医者が、日本植民地時代、中華民国時代の2代にわたる台湾の政治・社会・文化運動の主力となったのも、その原点がまさしくそこにあるからではないだろうか。

 中国5千年の文化には「衛生」観念はほとんど存在しないが、日本文化には、神道の疾祓い(みそぎはらい)がある。植民地をみる歴史の目は、政治よりも「文化」にあてられるべきだ」
『中国人の偽善(ウソ) 台湾人の怨念(ウラミ)』 黄文雄 光文社 p22からの抜粋


人間は近代的国家すなわち自分たちが健康で住みやすい社会を作った人々に感謝するものである。
植民地統治というものを正しく評価をし、こどもたちに正確に伝えたのが台湾であり、正当な評価をせずウソばかり教えて、子供たちを欺いたのが中国と韓国・北朝鮮である

2千3百万人の親日国「台湾」はわが国にとって、中国に対する軍事的・経済的な防波堤としてにも重要な位置にあります。
日本は台湾の重要性を深く認識して、ともに手を取り合い繁栄していかなければなりません。
台湾は大切なパートナーです。




  
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