2014年09月29日

◎世界には悪党ばかり(その3)

 欧州へのツアーに参加してみると、各国にキリスト教文化が息づいており、巨大な大聖堂がある。人々はこの大聖堂に圧倒され平伏すのである。

信仰の力とは巨大な建物と金をかけた芸術的装飾にあるような気がする。

各国の大聖堂に共通しているのは、ユダの裏切りを顕す「最後の晩餐」であり、子供のころからユダヤは悪い奴だと教え込んでいるのである。これが心の規範になる。

世界中のキリスト教徒がユダヤ人を心の中で排除し嫌う所以はここにあると思う。



 聖書にこんなことが書かれている。

・カナンの地へ向かうユダヤの兵は途中、ミディアン人を打ち負かして、すべての男を殺して家畜と財産を奪い焼き払った。

凱旋した兵士にモーゼは怒って「なぜ女子どもを生かしたまま残したのか。男は幼な子でも殺せ。男を知っている女も殺せ。ただ処女はお前たちの慰みにしていい」【民数記31章―17節、18節】

戦争とは殺戮(さつりく)と略奪と強姦だとモーゼは言う。


・ロシア・リャザンを落としたモンゴル軍が「大寺院に押し行って大公妃や公妃を切り殺し、司教や司祭を火炙り(ひあぶり)にし、あまたの住人を切り殺して街を焼き払った。【古田博司著『紙の本はかく語りき』】

WW兇砲いてベルリンを占領したソ連軍は13万人を強姦し、その20%が妊娠し、うち90%は堕胎したが残り10%は出産した。【H・ザンダー著『1945年ベルリン解放の真実』】


韓国軍はベトナム戦争に参戦し、住民虐殺をやった。「犠牲者は30万人を超す」【米議会記録】韓国のやった強姦は凄まじく掃討した部落では片端から女を犯し、子供の首を刎ね皆殺しにした。

または女をさらっては強姦し、現地妻として子を成しベトナムに置き捨てられた結果、韓国との混血児が3万5000人言われている。これにはベトナム特需目当ての韓国人ビジネスマンもかかわっているとのこと。

朝鮮戦争時の共産匪および一般市民に対する虐殺事件
・保導連盟事件 ・済州島43事件 ・居昌良民虐殺事件 


ベトナム戦争時 韓国軍の行った虐殺事件

・ゴダイの虐殺 ・タイヴィン虐殺 ・タイビン村等の虐殺事件

・フォンニィ・フォンニャットの虐殺 ・ハミの虐殺 


ベトナム戦争時 米軍の行った虐殺事件

・ソンミ村虐殺事件



その他

・WW胸、アイゼンハワーは100万人のドイツ軍捕虜を鉄線を巡らし野ざらしにして消しさった。【ジェームズ・バクー著『ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道、消えた100万人』】

・カチンの森事件はソ連軍が巨大な墓穴にポーランド将兵を生き埋め。死亡者数1万2千人

英米空軍によるドイツの無防備都市ドレスデンへの意味のない空爆、死亡者数は13万〜39万人

・広島・長崎への原爆投下 死亡者数は1950年までに33万人        

これらの事案はウィキペディアで検索できる。

・先の大戦で朝鮮半島からの引き上げ途中で日本女性が犯されたその強姦犯の過半は朝鮮人で、ソ連兵の3倍以上【上坪隆著『水子の譜(うた)』】

また一時米国の高校の副読本として使用されていた【ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著『竹林はるか遠く』に引き揚げ時の朝鮮人による強姦・略奪・殺戮(さつりく)が描かれている。いまは在米コーリアン・パワーの抗議で中止されていると聞くが・・・。

・終戦直後、日本に進駐した米軍はその日から強姦事件が起こしている。それは朝鮮人と同じで占領軍の特権のように強盗・強姦のやりたい放題で、1952年(昭和27年)4月28日の講和条約発効までに2,536人の日本人が米兵に殺された【調達庁調べ】



 現にイラク戦争でもバグダッドを落とした後、米兵や米報道記者が国立博物館の貴重な文化財を盗んで空港で捕まった記事は記憶に新しい。

キリスト教文化圏ばかりではなく、日本を除く世界中の国がモーゼの言う通り、戦争に勝ちさえすれば何をやっても良いという権利があると思っている。

しかし日本には武士道精神があり、戦(いくさ)の美学がある。

だから日清戦争では山形有朋が残虐を極める支那兵への報復を戒め(いましめ)、フィリピンでは山下泰文が略奪・強姦・放火は軍命令で禁止した。



高山正之はこのような表現をしている。

強姦も略奪もしない日本だから、「P(女郎屋)」が女郎(慰安婦)を連れて軍の後を追ったのだ。

各国はモーゼの昔からみな強姦で済ませてきた。戦場でカネを払う発想は今に至るまで持っていない。 

まさに核心をついた表現であり、納得!!!


韓国軍による村民の虐殺


 


 


 


 


 

  

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2011年09月07日

◎大都市空襲はジェノサイドだ!

空襲s

高山正之の変見自在「サダムフセインは偉かった」に引き続き、「スーチー女子は善人か」

を読み終えた。彼の歯に衣着せぬモノの言いよう、トラブルを恐れず固有名詞をあげて辛辣に酷評する表現力には感服し、すっかりファンになってしまった。

彼の文章になかにこんな一場面が記されていた。

「映画『パール・ハーバー』の中で、日本の艦載機が病院を銃爆撃し、患者や看護婦

がばたばた殺されていく場面があった」と・・・。

この映画に関しては嘘が多過ぎるとの前評判があり、とても見る気持ちにはなれなかった。

空襲に関してはアングロサクソンの嘘にはキッチリ対抗しなければならない。


有名なものとして第二次世界大戦末期の1945213日から15日にかけてイギリス軍とアメリカ軍がドイツ東部の都市・ドレスデンに対して実施した無差別爆撃があり、ドレスデン爆撃によって市民や多くの難民が犠牲になり、歴史的建造物の多くが瓦礫の山と化した。ドレスデンには目立った軍施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。この爆撃はドレスデンの街の85%を破壊し、3万人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。

第二次世界大戦中に行なわれた都市に対する空襲の中でも最大規模のものであった。


9年ほど前にドレスデンを訪れたことがある。

黒く酸化した砂岩と白い砂岩がモザイク模様のような建造物がほとんどであり、歴史的建造物は殆ど復旧されていた。

しかしその白い砂岩の多さが空襲の激しさを物語っていた。


東京大空襲に関しては一万七千五百機・爆弾十六万トン、B29のこの恐るべき殺戮と「一億人の昭和史4 空襲、敗戦、引揚」が解説しているように、17年4月18日 ドウリットル中佐指揮のB25が 太平洋上の空母から発進 東京など5都市を奇襲したのが 日本初空襲だった 19年6月から九州諸都市を爆撃したが 空襲が本格化した1911月1日から終戦までの9ヵ月半に 日本空襲に飛来したB29は延べ1万7500機 投下した爆弾16万トン 被災者920万人死者35万人負傷者42万人全焼家屋数は221万戸という恐るべき数字となった。


「原子爆弾による荒廃を別とすれば いままでに行なわれた空襲のうち 最も大きな惨害をもたらした」といわれる20年3月10日の東京大空襲は 一夜にして10万人の生命を奪い家を失った都民は100万人を超えた 191124日 20年2月25日そして3月10日 つづいて4月13日・15日 5月24日・26日の7回の焼夷弾攻撃で 全市街地の50・8%を焼失 開戦時の35区の人口687万人が253万人に減り 市街地域は米空軍の焼夷弾攻撃目標簿から抹殺されるに至った 空襲による東京の死者は11万5000人 負傷者15万人の犠牲者を出した。


「モロトフのパン籠」と呼ばれた焼夷弾は 油脂を六角筒に充填したナパーム弾,空中で破裂し、火の油が降り注ぐ木造家屋が密集する日本には効果てきめんで20年1月3日の名古屋をはじめB29が落とした焼夷弾は日本全土を焼き尽した。とある。

これは「ジェノサイド」大虐殺と言わずして何と表現するのであろうか。


本土空襲の指揮を取っていたカーティス・E・ルメイ少将は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想録のなかで次の様に述べている。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。

日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。

木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…」

こんなまやかしを我々は黙って受け入れるであろうか・・・。


日本の都市に対する無差別戦略爆撃を立案・指揮者であるルメイの焦土化作戦は、標的となった日本の都市は、軍需工場、民間住宅地の区別なく徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と渾名された。


ところが1964年航空自衛隊創立10周年に、航空幕僚長の浦茂の招待を受け来日、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。これは参議院議員で元航空幕僚長源田実と小泉純一郎元首相の父親である小泉純也防衛庁長官からの強力な推薦によるものであったという。

これだけは許せない!!!!

以下に高山正之の変見自在「残忍な米国ならいざ知らず」 

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2008年04月10日

◎戦場に花咲く武士道

戦場に花咲く武士道  
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2008年03月15日

◎沖縄集団自決の真相(その2)

沖縄集団自決の真相3  
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◎沖縄集団自決の真相(その3)

沖縄集団自決の真相4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沖縄集団自決の真相5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦時下沖縄県民によるスパイ活動の実態

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/89169274.html

 

沖縄人の見た沖縄戦

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/87610228.html

 

 

 

 

 

  
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2008年03月14日

◎日本軍将兵として戦った朝鮮系日本人の記録

 今から60数年前、欧米の横暴に義憤を覚え、多くの朝鮮系日本人が日本のために、我々の父や祖父と共に命をかけて戦い、2万2千人余りの尊い命を失った。我々日本人は軍人として戦った先人が日本人であれ、民族の違う朝鮮系であれ、深甚なる敬意を払わなくてはならない。そしてそのことを忘れてはいけない。フランスが外人部隊に、イギリスがネパールの傭兵グルカ兵に対するように・・・。それが軍人に対する世界の常識である。

朝鮮系日本軍将兵の記録

  
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2008年03月11日

◎視点を変えて沖縄問題の特殊性を見る

沖縄と云えば「集団自決」「本土に対する恨み、つらみ」いつまでも続く被害者意識

昭和20年本土決戦の防波堤となって沖縄全土が焦土と化し多くの県民の命を奪った

このことに関しては同胞として同情と感謝を申し上げる

戦後60数年、禊(みそぎ)の精神性を有する日本民族にはいつでも、いつまでも続く「沖縄の心」にそろそろ区切りをつけるべき時期が来たのではないか。

 

■中華と儒教

一時期沖縄の県民性について勉強したことがある。

そこで云える事は沖縄言葉は古い大和言葉を基調にしているが、その精神は中国の大中華、韓国・朝鮮の小中華、そして沖縄の親中華の中にあると結論した。

県民の意識の中に日本本土に住む日本人より「儒教」に傾倒しており、より中華的とも言える。

その一例がより中国に親しみを持っており、意識の中に中華思想がある。

例えば沖縄本島の首里城、那覇から離れるほど儒教的序列が下がる。

石垣島や慶良間列島は海に浮かぶ島であり、当然序列が下となり沖縄本島から見れば蔑視の対象となると、沖縄出身のジャーナリスト惠隆之介氏は述べている。

 

韓国で云えばソウルから離れた済州島などは蒙古の占領地で蒙古馬の生産地であったというだけで、そこに住んでいる住民を見下げているのだ。

 

ここで儒教というものの功罪について考えてみると

儒教は日本独自の解釈で徳川幕藩体制の規範とも言うべき「士道」を確立し、明治国家の設立後、国民国家形成のための「道徳」となった。

それ以降、国民道徳の基礎となり、日本人としての行動規範となっているのである。

 

ところが中国、韓国・朝鮮ではどうかというと

本来、儒教精神に溢れ、道徳性の高いはずの漢民族も朝鮮民族も世界的な犯罪国家を形成し、他国に対して迷惑をかけても謝罪するということはないのである。チャイナマフィア、在日系暴力団しかり、国家的領土侵略(尖閣、竹島、西紗列島、南紗列島等々)しかりである。

 

実は我々日本人とは儒教の解釈が違うのです。

紀元前から現在に至るまで、シナ人の儒教は血族(身内)のなかだけにあったという事実。

血族内では仁愛にあふれ、祖先供養と親への孝養の気持ちは日本人の想像を絶するほど強いのである。

明治時代、日本は日清戦争、日露戦争を通して国家意識を植え付けることに成功したが、当時のシナは「国家とは?」と問われても、近代国家に対する意識はなく、この問いに答えるシナ人留学生はいなかったという。

強いて云えば「清」、彼等にとっては「清の皇帝」とその他は三跪九叩倒をするタダの朝貢国でしかなく、国家のイメージを持つことが出来なかったのだ。

しかしその実態は皇帝と自分の意志を発露することのない奴隷の関係であった

孫文は「中国には宗族(男子単系血族)あって、国族(国民意識)なし」と嘆き、国民意識を持たせようとしたが果たせず、毛沢東は全土を流血の「文化大革命」で徹底的に破壊し、儒教を敵視した。

 

それ以来残っているのは、宗族エゴイズムであり、自己の宗族以外の者には基本的に何をしてもよいのであり、ひどいことをしても反省などはしないのである。

今の中国の開き直りの姿を見れば近代国家には程遠いということが理解できると思う。

今回の毒ギョウザ事案、反日暴動時の日本大使館・公使館及び公用車に対する破壊行動しかりである。

 

沖縄人にとってもヤマトンチュー(本土人)は宗族以外の者であり、シマンチュー(沖縄人)を酷い目にあわせた敵なのです。だから、いつまでも絞れるだけ絞るというのが彼等の基本姿勢である

 

米兵■戦時における諜報活動について

反日教育の中に日本の軍人は沖縄の民間人をスパイ呼ばわりにして虐待したというのがある。

戦時においてスパイ取締りは当たり前の事であっても、平和ボケの現代日本では理解が出来ないのである。

 

沖縄攻略にあたり、貴方が米国の軍人であったなら先ず何をやりますか

第1に情報活動でしょう

孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百戦危うからず」というがあります。

そのためにやることは沖縄の地理・歴史・風俗に通暁している工作員を確保します。

その候補は、海外に雄飛していたシマンチューから獲得することでしょう

シナ大陸、サイパン、フィリピン、インドネシア、オーストラリア(真珠とり)、ペルー、ブラジル、そしてアメリカの至る所に出稼ぎ沖縄人が散在していた

その中でもカネや身分保障に釣られる者、沖縄を出なければならなかったクイツメ者、廃藩置県まで沖縄に君臨し支配していた中国からの帰化人、沖縄支那党の子孫等々いくらでも利用できたのである。

 

人間はいつまでも清廉潔白、清く正しく生きることは難しいのです。

飢えと疲労、物欲・性欲が極限まで行った時、正常な判断力を失い、祖国であろうと同胞であろうと裏切ることもあるのです

 

現に支那党の子孫が天津から支那党のスパイ組織を沖縄に潜入させ、情報活動をやっていた。

沖縄人が中国国民党(蒋介石軍)の情報員となり活動をしていたとの記録もある。

ペルーに移住していたはずの男がいつの間にか沖縄に帰ってきていた。

撃墜された米軍の偵察機が沖縄の方言で克明に書かれた日本軍の陣地配備図を持っていた

戦後米軍の諜報員として働いた沖縄人に功労として、米軍キャンプ出入り自由の特権を与えていたという。

アメリカにいた日系二世部隊が太平洋戦域やヨーロッパ戦場で大活躍していたのを思い出してください。

 

一方こんな話もある、

戦後、国頭地区のジャングルに隠れていた日本軍の敗残兵狩りに、

小学校教師が食糧と交換に米軍に協力して、日本兵をおびき寄せて殺させたという事実もある

実際こんな話は山ほどあるはずであるが、戦後米軍の沖縄統治政策で米軍に不利な情報はすべて封印され、左翼と相俟って沖縄防衛に心血を注いだ日本軍を悪役にし、米軍憎しの反米感情を日本軍に向けさせたのである。

戦後間もない昭和25年に沖縄タイムス社から出された沖縄戦記「鉄の暴風」(初版は朝日新聞社刊)、大江健三郎の「沖縄ノート」、家永三郎の「太平洋戦争」など多くの反日的出版物が米軍統治政策に協力をし、反日世論を作り出したのである。

いわゆる戦後GHQが情報操作のため作成し、日本人の歴史観を歪めた「真相箱」沖縄版であり、米軍としては植民地統治成功の代表的例である。

 

このように別な視点から見ると何故沖縄はいつもこんなに捻じ曲がってしまうのかが見えてくるものである

 

戦時下沖縄県民によるスパイ活動の実態

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/89169274.html

 

  
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2008年02月27日

◎執拗なイージス艦「あたご」タタキは「日本の恥」

 イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故をめぐってマスコミ界をあげて、防衛省タタキをやっている。

特に朝日系列、TBS系列は執拗に自衛隊を貶めている。

 

あたごと漁船団の航跡マスコミが問題視しているのは、石破防衛相への事故発生報告が何ゆえ約1時間半もかかったということ。

イージス艦の回避行動が何故遅れたかということに尽きるのではないか。

大臣への第一報が遅れた問題は、発生時に統合幕僚監部のオペレーションルームに当直勤務していた内局(背広組)職員が、同ルーム責任者の制服組(自衛官)幹部から石破氏に速報するよう指示されたにもかかわらず、防衛相秘書官への連絡を怠っていたということに尽きるのであって、防衛省には「重大な事故・事件は各幕僚監部が(内局を経由せず)防衛相秘書官に1時間以内に速報する」とした事務次官通達が守られなかったということである。

すなわちオペレーションルームに勤務していた職員に緊張感がなかったということに尽きる。

 

イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故で、「あたご」の当直士官が、清徳丸を含む漁船団の存在について、交代前の当直士官から引き継ぎを受け、把握していたことが25日、第3管区海上保安本部の調べで分かった。

 

 3管本部は衝突直前に交代した当直士官が、見張りや、艦橋と戦闘指揮所(CIC)のレーダー員らに、漁船団の接近を継続的に監視するよう指示せず、衝突1分前まで自動操舵(そうだ)による直進を続けた可能性があるとみている。

 

衝突12分前に交代直後だった右舷の見張りが初めて清徳丸の灯火を視認したが、レーダー員や当直士官に伝達せず、3管本部の調べに「相手がよけると思った」という趣旨の供述をしていることが分かっている。

 

 3管本部は、当直士官と見張り、レーダー員らがそれぞれ漁船団の接近を認識しながら、危険性についての判断を誤った可能性があるとみている。

 

いつも感じることであるが、日本人は“判官びいき”に過ぎないかということである。

イージス艦「あたご」は8000t級で漁船「清徳丸」は7t

「あたご」は日の丸を背負った日本最高装備の軍艦

それに対して「清徳丸」はしがないマグロ漁船の漁師親子

 

その国家権力の象徴とも云うべき悪の権化(左翼の立場から言えば)である軍艦が、

か弱き善良なる一市民の命を奪ったカタチである今回の事故

「あたご」は針路変更をしたとしても急激に曲げることは構造上できない。

しかしながら「清徳丸」7tの超小型船 亡くなった方には申し訳ないが、

パニックにならなかったらどうにでも対処できたと思いませんか。

 

すべて日本国の軍艦が悪いのでしょうか

マスコミの異常なほどの自衛隊タタキには、

何か裏があるのではないかと疑ってしまうのは私だけであろうか

 

あれほど日本国中が大騒ぎしていた中国産毒ギョウザ事案がいよいよ核心に迫ってきた段階で、

今回の衝突事故、中国寄りの御用新聞・テレビにとっては正に絶好のタイミングで「嫌中国」から「親中国」へ国民世論をシフト。

なぜ私がこのよう言うかといえば日本の大新聞は一国民ましてや漁師たちの海難事故に決して同情的ではないといいたい。

 

「玄海灘海難事故」を思い出してもらいたい

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E7%95%8C%E7%81%98%E6%B5%B7%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85#.E5.8F.82.E8.80.83.E8.B3.87.E6.96.99

2003年(平成15年)72日と76日、福岡県沖の玄界灘において、日本の漁船および水産庁の漁業取締船に大韓民国(パナマ船籍)の貨物船が相次いで衝突したうえ、海に投げ出された日本人船員に対する救助活動を一切行なわず、多くの人命と日本国に対して損害を与えた連続海難事故がある。

 

韓国の船舶にもかかわらず、日本のマスコミはあえて国名を伏せ、パナマ船籍との報道が多くなされた。

テレビでは、NHKを初め民放も各社が2003年7月2日未明、福岡県沖の玄界灘でパナマ船籍の貨物船「フン・ア・ジュピター」が鳥取県境港市の巻き網漁船「第18光洋丸」と衝突。1名死亡、6名が行方不明、その他重軽傷者多数と報道

 

さらに事故の4日後である7月6日朝、6名の行方不明者を捜索している水産庁の取締船「からしま」が、

またも別の韓国貨物船にぶつけられ大破、16名が海に投げ出されました。

この海域は「第18光洋丸」の救助海域であり、すぐ仲間の取締船が駆けつけたので幸い全員が救助された。

 

水産庁の取締船「からしま」は韓国の貨物船から受けた衝撃があまりにも大きく、船体が傾いてしまった。

 

この事故も、韓国に対する媚ヘツライからか、その日の昼にテレビで不可解な報道をされた後、全国放送からは完全に消え去ったのである。

翌7日「からしま」は、船体の半分以上が海につかり、曳航は不可能と判断され、やむなく自沈処理をしたという事案

 

この事案からみてあまりにも「防衛省タタキ」は度を過ぎていないか。

「防衛省タタキ」→「自民党タタキ」=「福田政権タタキ」→「民主党政権擁立支援」=「親中国擁護」=「国民に対する食の安全無視」

に繋がると思いませんか

 

産経新聞社がFNNと合同で23、24の両日実施した世論調査で、イージス艦と漁船の衝突事故をめぐる石破茂防衛相の責任問題について「すぐ辞任すべきだ」との回答は6・5%にとどまり、「辞任せず、防衛省の体制見直しなどを続けるべきだ」とする回答が全体の約6割を占めた。という国民の声を聞いてヒステリックな「火病(ファビョン)」状態から良識ある報道姿勢に戻りませんか

 

  
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2008年02月08日

◎命令した親方の責任と実行犯にさせられた弟子たち

     元親方と現役力士3人が逮捕されるという前代未聞の不祥事は、朝青龍問題が一段落したばかりの相撲界を再び揺るがした。逮捕の一報を受けた日本相撲協会の北の湖理事長(元横綱北の湖)は午後8時半過ぎに東京・両国国技館で記者会見し、「長い歴史の中で力士が逮捕されたことはまことに遺憾で残念」と謝罪。国技の聖地をかつてない激震が襲った。と産経新聞20.2.8は伝えている。

 

今回のこの事件に関して、亡くなった斎藤さんは本当に気の毒なことでした。

今日のテレビ朝日系列の「スーパー・モーニング」を観ていて何か釈然としないものを感じた。

相撲界側を代表してタレントで元放駒親方の龍虎が、

相撲界のシゴキや親方と弟子の関係を伝統というものに焦点を当てて語ったが、

大谷昭宏コメンテータをはじめ司会者も否定的な発言に終始した。

所詮彼らには格闘社会の命令の重さは理解できないなと納得した。

 

●「命令と実行」

“命令の徹底”といえば軍隊

軍隊といえば旧日本軍の下士官と兵

敵を倒すということは人を殺すということ

市街戦になって敵兵が我が陣地に向かって、まさに手りゅう弾を投げようとしている。

我が部隊の指揮官はそれに気づき、A上等兵に敵兵の狙撃を命じた。

A上等兵はその敵兵が婦人兵だと認識した。しかし敵兵が女性兵士だろうと少年兵士だろうと、

躊躇することなく、理不尽も不正義もなく、上官の命令に黙って従って実行するしかないのです。

一瞬の迷いが戦友の、そして自分の命を失ってしまうことになるのです。

 

旧軍では“上官の命令は天皇陛下の命令である”を都合よく使い規律を保ってきたところがある。

戦後自衛隊は旧軍のあり方を徹底して否定し、本来の軍隊の本質を見失っているところもある。

その中の一つに上官の命令であっても、社会通念上の常識から逸脱している場合は、

“命令を拒否する”ことができることになった。

上官の命令が自分の思想信条に合わなければ、

従わなくても良い組織は軍隊として成り立たないのです。

 

マッカーサー戦後、B級戦犯の裁判で多くの兵隊たちが死刑もしくは懲役刑になりました。

多くが捕虜収容所の看守、もしくは戦地において敵捕虜の取扱の実行者という立場で、

捕虜虐待の罪を着せられ、戦犯に指定されたのである。

 

しかし捕虜の処分を命じたのは誰か、

もちろん自分の判断で実行したことがあるとしても、多くの場合は上官の命令である。

しかし上官の命令は絶対のものであるとして教育を受けた日本軍と、

上官と意見が衝突した場合、簡単に軍事裁判を要求できる西欧の軍隊との考え方の相違は、

日本側にとって相容れないものがありました。

 

多くの直属の上司は自分の責任を部下に負わせ、逃げおおせたのは、

占領軍の軍事裁判は“実行者に責任あり”の考え方が優先されたからです。

これは“上級者が責任を取る”という日本伝統の責任の取り方を真っ向から否定し、

戦後、責任を取るという伝統の美学を失った大きな原因となったのです。

 

兵隊さん●東ドイツが崩壊してベルリンの壁が撤去されました。

しかし、あの10〜20cmの壁を乗り越えようとした多くの東ベルリンの市民が、

国境警備隊に阻止され射殺されたのです。

 

壁が崩壊したときに起こった問題が、

上官の命令で国境侵犯をしようとする犯罪者である国民を、

射殺した東ドイツ兵を逮捕し射殺の罪を問うたのです。

彼らは軍人として与えられた任務を全うしただけに過ぎないのです。

国境侵犯の犯罪者を法律に従って実行したに過ぎないのです。

 

彼らに対するインタビュー画像を見ましたが、

東ドイツの片田舎から出てきた純朴なただの青年兵士に過ぎないのです。

彼らは泣いていました。「私たちは任務を果たしたに過ぎないのです」と・・・。

しかし“実行責任”を問う統一ドイツ政府は彼らを裁判にかけたのです。

 

●私は大学の運動部に席を置いたことがあり、

他大学の運動部の封建制もある程度知っているつもりですが、

その最たる相撲部屋の上下関係や、

絶対君主的な親方の命令は推して知るべしであろう。

 

今回の殺人リンチ事件はあくまでも親方が責任をとるべきであり、

実行者たる3人の兄弟子は相撲部屋の特殊性を鑑みて、

情状酌量の余地があると判断すべきであろう。

彼らに責任があるとすれば、暴力行為に及んでいるうちに、

テンションが上がって、歯止めが効かなくなり、

行き着くところまで云ってしまったという後悔であろう。

酒乱の親方の命令を実行しなければならなかった3人の若者たちが、

気の毒でならないのは私だけであろうか 

  
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2007年10月03日

◎情緒的にならず「隠さず真実を教える」のが教育

米軍の悪行

政治的思惑や情緒的歴史観に惑わされず、真実を教えるのが教育である。

 高校教科書の沖縄戦集団自決に関する記述に付けられた検定の撤回を求める動きが続いている。

さっそく、リベラルでハト派を自認する福田首相、ゆとり教育の町村官房長官の指示を受け、政治と金で脛に傷持つ渡海文科大臣(山崎拓派)が集団自決「軍の関与」記述復活に動き出した。

 

●「誰が・・・」に対する疑問

国家機関に所属する人が犯罪を働いたら全て国家の責任であろうか?

韓国人学生がアメリカの大学で銃乱射をして、無差別大量殺人をやったのは韓国という国の責任であろうか?

警察官がストーカーをやり、拳銃を使って女性を撃ち殺し、自殺したのは警察庁もしくは国家の責任であろうか?

自衛官が女性宅に侵入し、寝ていた女性を陵辱しケガを負わせたというのは、防衛省もしくは国家の責任であろうか?

これら全て個人の犯罪であって、道義的責任はあっても、決して国家の責任とは云えないのである。

 

戦時中沖縄で、米軍の圧倒的な火力の下、洞窟に隠れて戦っていた日本軍は多くの沖縄県民を戦闘の巻き添えにしたことは事実である。

地形と火力を組織的に活用し戦闘をする軍隊が、一般市民をどのように守るかは世界各国軍隊の悩みの種である。

市街地は3次元の戦いとなって攻・防ともに多大の損害が出ることにより、一般市民の犠牲者をできるだけ出さないという意味からオープン・シティーという戦闘のやり方もある。

しかし有史以来、国内戦(市街戦)を経験したことがない日本軍は、沖縄県民を巻き込む形で戦闘に突入した。

サイパン島における米軍の掃討作戦、フィリピンにおける婦女子に対する悪逆非道な米兵の集団暴行、

 

飛行冒険家で有名な「リンドバーグの日記」であきらかのように、南太平洋地域における米兵の日本兵に対する非人間的な行為は一部のマスコミを通して明らかになった。

例えば、日本兵捕虜を数珠繋ぎにして滑走路に座らせ、ブルドーザで踏み潰したり、米タイム誌に載った記事には、米本土にいる恋人に贈った「日本兵のドクロ」、日本兵に対する皮剥ぎ(頭髪)、遺体から取り出した骨でつくった靴ベラや土産品

こんな話が当然沖縄にも伝わっていたはずである。

このような話が増幅され、まことしやかに軍人にも、県民にも植え付けられ、その結果“戦場パニック”になっても不思議ではない。

 

沖縄には無数の洞窟が存在し、隠掩蔽するには格好の地形である。

米軍は南洋諸島における洞窟陣地からのゲリラ行動に手を焼いており、シラミつぶしに洞窟陣地の壊滅を図った。

米軍の洞窟陣地攻撃は熾烈を極めた。

住民を使って情報をとり、入り口を発見したら、手りゅう弾を数発放り込み、火炎放射器で焼き殺す。又はドラム缶でガソリンを流し込み火をつける等考えられるあらゆることをやったのである。

この間、兵隊のいるところに市民が集まってきて、助けを求めるのはあたりまえであり、それが兵隊たちの作戦を妨害し、兵隊と県民が一蓮托生に焼き殺されることになる。

ここに軍と非戦闘員の葛藤が生まれる。

 

兵隊たちは洞窟を使って戦うのが任務であり、非戦闘員が同じ洞窟にいるだけで足手まといになり、十分な戦いができない、ましてや乳飲み子がいれば、その泣き声で米軍に発見されやすい。

自分たちの命がムザムザと失われることに対する生への執着、県民を救わなければならない軍人としての葛藤というかジレンマ、

軍人も勝ち戦のときは大和魂、ニッポン男児、軍人精神と高尚な精神状態を保てるが、負け戦となり生への執着心だけになったとき、人間性を失い、唯の餓鬼となり得る。

今沖縄でこれでもか、これでもかと言われている日本軍の行為はこのような状況下での軍人の行った行為とも云えるのである。

兵隊のいなかった国頭村地区に避難した県民は戦闘の犠牲を避けて助かった例もあるのである。

唯いえることは昭和25年発刊の沖縄タイムス社の『鉄の暴風』に記され、作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などに孫引きされた軍命令説は、渡嘉敷、座間味での集団自決は遺族年金受給のために「軍命令だった」と関係者が偽っていたことなどが明らかになっている。

当時沖縄県民の窮状に鑑み、両島の守備隊長があえて沈黙を守ったがために「極悪非道の日本軍」というイメージが定着したのである。

左翼陣営の政治闘争が、戦後の沖縄を支配したため、良かれと思ってやったことが、必ずしも県民のため、国家のためにならなかったのである。

戦後日本の言論界もメディアも政治家もスジを通すことに躊躇するようになった。

長いものには巻かれろ、

票にならないものは相手にしない、

闘うことを恐れる日本人がいまや主流を占めるようになった。

 

以下 産経新聞から引用

【主張】教科書検定 政治介入排し事実正確に  

2007.10.3 02:55  このニュースのトピックス主張

 高校教科書の沖縄戦集団自決に関する記述に付けられた検定の撤回を求める動きが続いている。教科書検定は政治的な動きに左右されてはならない。正確な歴史の記述を求めたい。

 教科書検定への批判には、大きな誤解や論点のすり替えがある。

 今回の検定前の教科書には「日本軍のくばった手榴弾(しゆりゆうだん)で集団自害と殺しあいをさせ」など、軍の命令で強制されたとする誤った記述があった。

 検定意見は近年の研究や証言に基づき軍命令説の誤りを指摘したものだ。前述の記述は検定の結果、教科書会社側が「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺し合いがおこった」との表現に修正した。

 検定は、軍の関与や体験者の証言を否定するものではない。

 集団自決は、米軍が沖縄本島西の渡嘉敷島、座間味島などに上陸したときに起き、渡嘉敷島では300人以上が亡くなった。その後の地上戦で12万人を超える沖縄県民が戦死した。この悲劇は決して忘れてはならない。

 軍命令説は、昭和25年発刊の沖縄タイムス社の『鉄の暴風』に記され、作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などに孫引きされた。だが作家の曽野綾子氏が渡嘉敷島で取材した『ある神話の背景』をはじめ、調査や証言で軍命令説は信憑(しんぴよう)性を失っている。

 渡嘉敷、座間味での集団自決は両島の守備隊長の命令だったとされてきた。しかし遺族年金受給のために「軍命令だった」と関係者が偽っていたことなどが明らかになった。大江氏の『沖縄ノート』に対して元守備隊長や遺族らが誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起きている。

 渡海紀三朗文部科学相は教科書会社から訂正申請があれば書き換えに応じる可能性を示した。検定意見の撤回を求め沖縄県で開かれた大規模集会などを受けたものだ。

 しかし、訂正申請は誤記・誤植や統計資料の更新など客観的事実の変更に限られるべきだ。検定の方針が変わることはあってはならない。民主党が検定の撤回や見直しを求めていることは教科書への政治介入である。

 教科書には実証に基づいた正確な記述が必要だ。政治的思惑で歴史事実を書き換えることは許されない。 

  
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2007年04月02日

◎事に望んでは危険を顧みず!!!

■自衛隊ヘリが墜落、4人全員死亡 鹿児島・徳之島■

自衛隊ヘリ30日午後11時ごろ、鹿児島県・徳之島の天城岳(標高533メートル)の山頂付近に陸上自衛隊第101飛行隊(那覇市)所属のCH47JAヘリコプターが墜落、炎上した。鹿児島県から急病患者の搬送要請を受けて出動した隊員4人が乗っていたが、31日朝、県警などが現場で機体の残骸(ざんがい)とともに4人を発見し、全員の死亡を確認した。陸上自衛隊は航空事故調査委員会を設置、委員5人を派遣した。

Asahi.com 200703312022

 

Netのニュースを見ていたら自衛隊機の遭難のニュースが飛び込んできた。

この種のニュースを聞いていつもやり切れないものを感じる。

乗員の中には7月に定年を迎える方もいたという。

 

いつも腹立たしいのはマスコミはこの事実を淡々と伝えるだけで、悪天候の中で国民の安全のため、命をささげた4人の自衛隊員に尊敬の念も、哀悼の意を表するメディアは一つもない。

ただ産経新聞だけが隊員の経歴を紹介していた。

 

これが同じ日本人の態度であろうか!

今のマスコミには使命感に殉じた軍人に対する尊敬の欠片もない。

 

私の友人に元幹部自衛官がいる。

彼が現役の時の体験談をメールで書き送ってきたので一部紹介する。

 

○○殿へ
 (略) 
帯広時代のある時(1971年頃?)、 帯広で子供が交通事故に遭って帯広の病院で、 緊急治療が出来ずに、札幌の病院(北海道大学病院?)へ移送した事があった。
 
 要請を受けて、悪天候の中、11師団?の 飛行隊のヘリだったと思うけれど、急遽、発進。
 
しかし、濃霧で狩勝峠を越えられずに山頂近くに激突した事があった。
 ヘリからの連絡が途絶えて、急遽、師団司令部に駆けつけたら、衛生隊長以下が集っていて亡くなった2名の衛生隊員を、皆、良く知っており沈痛な雰囲気だった。
 

消息を絶って、すぐ2番機が飛び立って 今度は、これも危険な悪天候の襟裳の海上を迂回して到着、移送して、何とか子供は命を取り留めた。
 
ところがだよ、翌日の新聞が 『人命を軽視する自衛隊』と、非難の記事を書いた。
また、確か、人権団体か革新団体?がスピーカーを持って営門前に抗議に来たよ。
 
 
何が、人命軽視かというと、自衛隊機が無謀にも濃霧の日高山脈を越えようとして激突した事をさしていた。
 
『こんな人命軽視の自衛隊は、帯広から出て行け!!!』と営門前で叫んでいた。
 
この他にも、今でも忘れられないのは、道東の僻地の小学校の通学路を造る依頼が5師団にあって、

第5施設大隊が夏休み期間に工事に出て行った。

子供たちが山道を通って通学するとヒグマに出会う危険性が前から指摘されていたから。

子供たちの為になれると、隊員たちの士気は高かった。
 
 そうして5施設隊の隊員が校庭に入り、体育館に宿泊しようとした時に、この学校の教員や町の教育委員会の連中が来て、

『神聖な教育現場に自衛隊員が入るとは何事か。教育現場を汚す気か!!!』と猛烈な抗議。
 
 
さすがに隊員達は、それじゃあ撤収しようと隊長に詰め寄ったそうだが、教育委員会は要請を受けたのだから、

工事をしろの一点張りで、結局少し離れた川原に野宿して、40日あまり工事を実施し、通学路を完成したそうです。
 
隊長や班長は、怒りをあらわにする隊員を必死に説得したとのこと。


 どうして、こんな事を知っているかというと、当時、司令部に居たので、師団管内の情報が逐次、入って来たからだ。
 
 知っての通り、道東の夏の原野は、蚊どころか牛を刺すブヨが溢れているじゃない。しかも石ころだらけの川原に追いやり、

テント暮らしをさせて重労働だけを無償で強要する。
 
 
このような聖職者(教員)が行った神聖な教育の結果が、今の虐めと自殺と幼児虐待・殺害の日本なんだね。 

以下略

ー・−・−・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・− 

 

北海道のマスコミも教育界も一事が万事この調子

ただ私が危惧するのは、大正時代の軍縮時代に軍人は一般国民から軽視され、軍人のお嫁さんにはなるなとか、東京の国電に乗ったらわざと足を踏まれるやら帽子を飛ばされるやらの嫌がらせを受けたという。

 

その後5.15事件、2.26事件、満州事変、シナ事変が続き、大東亜戦争に突入することになる。

誇り高き軍人を必要以上にコケにするとその反動が恐ろしいということを知って欲しい。

 

今の自衛官には国民として、日本の軍人として正当な評価を与えるとともに、彼らの高い能力を色々な場で生かすことを考えるべき時期に来ていると思う。

イラク復興支援で活躍した初代隊長番匠浩一郎将補やヒゲの隊長で有名な佐藤正久元1等陸佐のような使命感に燃えた人材が自衛隊には沢山いるということを忘れないでほしい。

 

徳之島の天城岳に惨禍した4人の英霊に“合掌”

 

○自己犠牲の精神(空自パイロットの墜落死)

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/20875374.html

  
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2007年03月15日

◎ペリリュー島守備隊の健闘を称えるニミッツの詩

ニミッツ提督の詩

世界の戦史で後世に語り伝える代表的な玉砕戦として、

紀元前480年のペルシャの大軍(300万)に対し、スパルタ(4000)がテルモビレーの天嶮で戦い、激戦の末全滅したテルモビレーの戦いがある。

激戦の地にスパルタのレオニダス王以下の玉砕した敢闘精神を称える2つの碑が建てられているという。

 

 

 

 

 

「この地に於いて スパルタ国4千の兵(つわもの)は戦死せり 勇敢にも3百万の軍勢に立ち向かいて」

「旅人よ 行きてスパルタに告げよ われら 命(めい)を守りて ここに斃(たお)れると」

 

大東亜戦争においても我が日本軍も後世に伝えるに値する戦闘が幾つもある。

その中で「ペリリュー島の戦い」の勇戦ぶりは日米両軍から称えられた戦いである。

 

ペリリュー島は、パラオ諸島の小さな島で、南北九キロ、東西三キロ、全体で二〇平方キロの珊瑚礁からできた島である。第二次大戦の末期、日米両軍によって七十三日間に亘る死闘が繰り返された。ペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団隷下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名。

 

米軍の総兵力四万二千。それに対して、我が方は、二度までも敵の上陸を阻止。しかし衆寡敵せず、持久戦に移り連日連夜、彼我肉迫する戦闘を行ない、七十三日間を持ちこたえたが、健在者の僅か五十数名で最後の突撃を敢行し玉砕した。

 

いまペリリュー神社が創建され、そこに1万2千の将兵の御霊を慰霊する石碑が立っており、ニミッツ提督の日本人将兵の敢闘精神を称える詩が刻まれている。

 

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。

あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。

此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

 

先日 私のブログにニミッツ提督のペリリュー島守備隊の健闘を称える詩は根拠がないとコメントしてきた訪問者がいた。

 

この印象的な詩は『米公刊戦史・海兵隊史』にも、

ニミッツの『太平洋海戦史』にも載っていない。

 

実は元・航空幕僚長・浦茂氏が昭和五十九年に渡米し、

ニミッツ提督の資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れた。

その時に、兵学校の教官からニミッツの詩として教えられたものである。

 

ペリリュー島のサクラと神社 米国公刊戦史の讃えるもの

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm

  
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2006年12月16日

◎慰霊の島「硫黄島」

硫黄島の擂鉢山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

姉妹作「父親たちの星条旗」に引き続き「硫黄島からの手紙」を観てきた。

「・・星条旗」よりも比較的良くできていたと思う。

 

物語は戦況が悪化の一途をたどる19446月、陸軍中将の栗林忠道(渡辺謙)が、本土防衛の最後の砦ともいうべき硫黄島へ指揮官として着任したところから始まる。

 

そこには一軍の将栗林中将から一兵卒までの人間模様が描かれる。

弱みを見せられない高級将校と虚勢をはって生きなければならない青年将校、人間性丸出しの兵隊たち。極端に走りすぎかなとも思うが所詮は外国人の作った映画、日本の共産党シンパの監督たちが作った映画よりずうっと観やすかった。

 

25年ほど前、硫黄島に行ったことがある。擂鉢山から海軍の司令部壕まで見たことがある

 

一番強烈な印象は地熱の物凄さであった、洞窟の中に入ると一瞬メガネがクモリ、汗が吹き出てきた。

壕の外に出てきた時は全身が汗でびっしょりであった。

またつい1〜2週間前に新たに発見されたという壕は滑走路の脇に入口があり、榴弾砲の実弾が弾薬置き場に積み残されており、飯ごうとかビンとかがまだ残っていた。

 

7月半ばであったこともあり、砂浜が焼けて照り返しに凄まじいものがあった。

井戸を掘っても水は出ず、雨水を溜め煮沸して飲んだとあった。

壕の中での生活で苦労するのは大便の処置である。

バケツ等に溜めてそれを外に捨てるのである。一ヶ月も篭っているとウンチも白くなったとある。

 

擂鉢山の砲台はほとんどが海岸に転げ落ちていた。

敵艦からの艦砲射撃で砲台の土台を打ち砕かれ、転げ落ちたのだということだ。

良くこんな悪条件の中で36日間も戦い抜いたものだと驚嘆したものだった。

 

米軍は硫黄島占領後、直ちに飛行場を設営するため、日本軍の遺体収容を待たず日本軍陣地を埋めてしまった。

そのため未だ一万数千人の遺骨収集ができていないという。

島が日本に返還されて、自衛隊が使用しているが飛行機の発着のたびに日本軍兵士の遺骨を踏みつけているのです。

この硫黄島こそ日本国内で米軍を打ち負かし、そして矢弾尽き果てるまで善戦敢闘し玉砕した日本軍の聖地として、永く歴史に刻むべき慰霊の島と思う。

米国人が作った割には手前味噌の部分は比較的少なく、一見に値する映画でした。

 

兵の生きざま

http://comorebinosato.seesaa.net/article/29770003.html

  
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2006年06月25日

◎御伽草子 「熊と兵隊」

突撃 平成○年七月一日から五日までの間、第○普通科連隊は連隊長・H一佐の統裁の下、

H大演習場において第二中隊、第三中隊、施設作業小隊の訓練検閲を実施した。

 

この間、二歳ぐらいのヒグマ二頭が訓練地域内に出没、まさに厳戒態勢の中で検閲が実施された。

 

 戦況の進展に伴い、この内の一頭の熊が攻撃側の第三中隊長O一尉の意図を体したかのように中隊CP、段列、迫撃砲陣地地域を襲撃、第二中隊の防御準備を妨害、ジープの座席や付近に集積しておいた隊員の背のうからチョコレートや高カロリー・高タンパクの戦闘用糧食を食い荒らし、一暴れした後、隊員が楽しみにしていた加給食のスポーツドリンクまで飲んでしまい、腹がいっぱいになったのか満足げな表情でヤブの中に消えていった。

 

我々としても熊ごときになめられては自衛隊の沽券に関わると思い、撃退するため空包射撃や警笛を鳴らして追い払おうしたが、まったく動じず実に腹のすわった不届き千万な熊であった。

 

 ところがこの熊、夜となく昼となく防御地域に現れるため、第二中隊長S三佐は昼は昼で熊のための監視警戒を強化せざるを得ず、夜は夜でまさにインディアンの襲撃から幌馬車隊を護るがごとく、ライトを照らした車両を外側に配置して円陣防御を組み熊の襲撃に備えた。

 

この西部劇もどきの厳戒態勢にさすがの熊も恐れをなし、近寄ることができなかったようである。

精強第二中隊とはいえ敵の偵察活動と熊の出没に神経をすり減らし、一睡もできず目を真っ赤にして攻防の朝を迎えた。

 

ところが第三中隊の突撃支援射撃が開始され、まさに突撃発起の態勢に入ろうとしたとき、防御側第二中隊の左第一線地域に突如熊が出没、この熊は本来攻撃側の味方であったはずなのに防御側寝返り、攻撃を妨害する挙にでた。

 

第三中隊長は怒り心頭に達するも憎き裏切り者の熊五郎にかまわず猛烈な突撃を敢行、無事任務を完遂し、大きな成果を残して検閲を終了した。 

     

 ところがこの熊、状況終了後、四日ぶりの“一献”を楽しみにしていた隊員たちの宿営地にまで出没、連隊長に一言いいたい事があったのかどうかは知らないが、統裁官幕舎の約三十メートル付近にまで接近、挨拶攻撃をして、一騒がせしたる後ヤブの中に消えていった。

 

まさに検閲講評の特記事項に価する熊五郎たちであった。おかげでしばらくは”酒の肴“に困らない思い出多い訓練となった。

 

後日談ではあるが、この熊たち、我々の戦闘用糧食の味を占めたこともあり、その後も度々崇高なる国防の任に燃える我々自衛隊の訓練を妨害していたが自衛隊官舎地区にまで出没し、愛しい妻子の安全を脅かすまでに増長したのでやむなく“死刑判決”

今は白い木綿の死装束を着て、あの世から我々の訓練を見守っているらしい。

“南無阿弥陀仏”

 

  
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2006年05月20日

◎中国の嫌がらせと日本航空・全日空の反日行為

自衛官 中国の嫌がらせについては予想できたことであるが、相変らず日本の航空会社が自衛隊を乗せたがらないとか紛争地帯には飛びたがらないなどと、世界に向けて日本の恥を撒き散らしている。

 

 それにしても、今回の復興支援群第十次派遣隊が、中国の圧力で計画通りに飛べなかったと聞いて、かの国は国際協力・平和活動を妨害する単なるチンピラ国であるということを証明している。

 

国連の常任理事国たる中国は国連の活動財源たる国連分担金を日本の10分の1(日本:19.5%、中国:2.1)しか収めておらないにもかかわらず、日本の国際貢献を妨害する。これは許しがたい行為である。

 

 いま事故ばかり起こしている日本航空はイラン・イラク戦争のとき、危険地帯からの邦人輸送を拒否し、トルコ航空に助けてもらったことがある。こんな会社が日本を代表するナショナルフラッグを押し立てて世界を飛んでいるなんて情け無いと思いませんか。

 

命がけで任務を遂行しようとする自衛官が制服で自国の航空機に乗れないなんて本当に残念に思います

政治家も、マスコミも共産系労働組合を持っている日航に圧力をかけなければいつまでも恥ずかしい思いをしますよ

腰の引けた政治家ばかりでスジを通そうとするものはいないのか

 

*****************************産経新聞5月16日付 引用

●イラク派遣チャーター機 中国が圧力飛べず 陸自隊員、別便に分乗

 復興支援のため十五日にイラク南部サマワの宿営地に到着した陸上自衛隊の復興支援群第十次派遣隊が、中国の圧力で出発計画の変更を余儀なくされていたことが十五日、分かった。複数の政府高官が明らかにした。政府が隊員派遣のためにチヤーターした民間航空機の飛行にキ国当局が待ったをかけたためだ。イラク復興支援事業は、日本政府が国際貢献の一環として取り組む外交政策の大きな柱。政府は中国当局の意図を測りかねており、今後、国際貢献のための要員派遣のあり方を見直す方針だ。

 

 政府関係者によると、第十次派遣隊は当初、五月七日に羽田空港からの出発を計画。香港を拠点とする航空会社「キャセイ・パシフィック」に、イラクヘの経由地であるクウェート行きの航空機をチャーターした。

 しかし、この計画を知った中国当局がチャーター機の飛行計画の中止を要請。中国側の「圧力」を受けキャセイ側は土壇場の五日になって、日本の仲介業者を通じ防衛庁にキャンセルを通告してきた、という。

 

 防衛庁は急速予定を変更し、七日深夜の関西国際空港発のカタール航空機など民間定期便二機に、隊員らを分乗させて派遣した。百四十人の隊員は、二十五人と百十五人に分かれ、当初予定していた制服ではなく私服姿で乗り込み、カタールなどを経由してイラク人りした。

 

 キャセイ社は、「準備も万全で、十分飛ぷ意思はあったが、複数の国が領空通過を認めなかった」 (広報)と説明。ただ、領空通過を不許可とした国名や理由については、「一民間会社の立場で明らかにはできない」(同)としている。

 

 一方、陸上幕僚監部は「チャーター機は業者を通じ手配しており、キャンセルされた詳しい理由は聞いていない」(広報担当)としている。だが、政府高官の一人は「自衛隊がチャーターした民間機は軍用機とみなし、運航自体を中止するよう中国当局がキャセイ社側に強く働きかけたものだ」と証言。陸上自衛隊幹部の一人は「命がけの任務に向かうのに私服姿で民間機に乗り、しかも出発直前の変更と、隊員には申し訳ない事態になった」と語り、今後二度とこういうことのないよう、関係各部署に指示したと明らかにした。

 

・駐日中国大使館の話

 「この件については何も聞いていない。大使館員はだれも知らない」

  

 領空通過後権

 1944年に採択されたシカゴ条約(国際民間航空条約)で、自国の領空に対する完全な主権が認められた。締約国の航空機は、特別協定などで許可を得れば他国の領空を飛行できる。ただ、民間航空機にだけ適用され、軍事、税関、警察業務に用いられる航空機は対象外。主権国が軍用機と認定した場合、領空通過の許可は主権国が国内法に基づいて判断する。

  
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2006年05月14日

◎「共謀罪」法案はホンネの議論を!

自衛隊と近隣諸国 いまマスコミで取りざたされているのは「共謀罪」法案

法案反対のオンパレードである。

いま何故「共謀罪」法案なのか、彼らとは別の視点で考えてみたい。

確かに国連総会で2000年に採択された「国際組織犯罪防止条約」は、共謀罪の設置を義務づけているとはいえ、何か奥歯にものの挟まった議論が多い。

 

各政党はその摘要に手かせ足かせをして、有名無実のものにしようとしている。

自民党は自民党でとりあえず法案が通ったら、後から使いやすいように修正すればよい程度で、本音を隠して論議をしているのではないか。

 

そこで私は国防と言う視点で考えを示したい。

いま日本を取り巻く情勢は

北朝鮮は日本に対して常に敵対意識を持っており、テポドンは韓国と日本に向いており、いつでも打ち込める態勢にある。

日本の主権を侵す拉致問題、覚せい剤の密輸、平壌宣言に違反している核兵器開発、国を挙げての偽札つくりに終始している。

 

韓国は1952(昭和27)年 李承晩大統領が日本の主権を侵して李承晩ラインを設定した
このため、済州島付近から対馬海峡にわたる漁場での日本漁船の操業が強制的に禁止された
1965(
昭和40)年 日韓漁業協定の成立で撤廃されるまでの間に李承晩ラインを盾に3,929人が抑留され、328隻が拿捕された。その過程で44名の方が死傷しています。

 

それ以来韓国は日本の領土「竹島」を不法占領し続けているのです。

ノムヒョン大統領になってから自分の人気回復のため、愚かにも既成事実をさらに実効支配を強固にしようとして、日本を挑発しております。

日本はいつまでもダラダラ韓国の言いなりになっては永久に竹島を取り戻すことができません。

戦争するしないは別として、最悪の事態に対処するべく準備をするのは国家の務めであります。

 

中国は中国共産党の失政をごまかす為に反日的政策を採り続けております。

東シナ海の油田・天然ガスの盗掘をやり、日本の国益を犯し続けております。

また中国の原子力潜水艦が日本の領海を侵しているにも拘らず、日本政府は腰砕け外交で中国に舐められております。

 更に尖閣列島は中国の領土だと因縁を着け、日本の領土・領海を侵し続けており、中国はやくざ的手法を変えない限り、いつか日本と軍事的にぶつからざるを得ません。

 

国内的に考えると

日本は外国のスパイ天国と思われており、国家の安全が保てないようになってきております。

 

北朝鮮の出先機関で朝鮮総連の非合法地下組織の「学習組」が日本国内で在日朝鮮人を使って拉致・産業スパイ・軍事スパイ等反日活動を大々的に実施しています。

 

竹島問題の紛糾で日韓の軍事衝突が起きる可能性がある。

日本には軍事力で紛争を解決しようとする考えは無くとも、相手にその気があればその準備をしておくのが世界の常識である 

 

ヒトはこれを治安維持法の再来と言うヒトがいるかもしれない

しかし戦前 治安維持法の対象となった共産党はコミンテルンの指示により祖国ソヴィエトのため戦い、尾崎秀実はゾルゲ事件を起こしたのである。

日本のためではなくソ連のために命をかけたのである。

 

李高順(社民党党首 土井たか子の本名 Will5月号 p203)は民主党の管直人とともに出身の祖国のために北朝鮮の大物スパイ辛光洙(シン・ガンス)の釈放に尽力した。

 

東京大学教授 姜尚中は日本に帰化したものでも玄孫(帰化した本人→その子→その孫→その曾孫→玄孫)まで朝鮮人だと定義している

姜尚中の考えは「在日」が日本で日本人に「反抗」し「逆襲」することとし、在日朝鮮人が主権者となり日本人を支配するとしている(正論6月号 「ディアスポラ知識人」姜尚中の思想解剖) 

いまやNHKが執拗に姜尚中教授を賛美している

彼は日本に住んでいながら少しも日本に対する愛着は無く、いざと言う時は祖国 朝鮮・韓国のために戦うことは明確である

 

これらを冷静に分析すると国家存立のために「共謀罪」法案は必要であると言わざるを得ない

きれい事に終始するのではなくホンネで話し合い、核心を付いたスジの通った議論をしようじゃないか

 

***********************産経新聞 社説 18.5.11から引用

「共謀罪」法案

懸念の払拭へ慎重な詰めを

 

「共謀罪」を創設する組織犯罪処罰法改正案の国会審議が大詰めを迎えている。

 共謀罪は、テログループや暴力団など組織的な犯罪集団が、犯罪を謀議した計画段階で処罰するものだ。重大犯罪を早期に摘発して 「未然防止」することは無論、必要なことである。

 国連総会で2000年に採択された「国際組織犯罪防止条約」は、共謀罪の設置を義務づけている。119か国が批准・締結し、発効している。日本は条約に署名し、与党だけでなく、民主、共産各党も賛成し、国会承認されている。

 共謀罪の問題点は大きく二つある。どんな団体や組織に適用するのか、さらに共謀の「謀議」は、どの範囲で成立を認めるかだ。

 適用対象について、与党の修正案は、暴力団など「犯罪の実行が目的である団体」に限定した。

 民主党の修正案は「組織的犯罪集団」としたうえで、懲役・禁固5年以上の罪に当たり、かつ「国際的犯罪に限る」と厳しい枠をはめた。

 しかし、条約は、「4年以上の懲役・禁固に当たる罪」を対象とし、「国際的犯罪に限定しない」ことを義務づけている。厳しい制約を課した場合、犯罪摘発が遅れ、条約の目指す「未然防止」が期待できなくなる恐れがあるからだ。

 やはり、条約に沿って、「国際標準」で考えるべきではないか。

「謀議」についても、与党の修正案は謀議だけでなく、現場の下見や凶器の購大資金の準備など実行に向けた「外部的行為」を構成要件にした。

 民主党は「テロの実行日が決まっている」「軍事訓練を行う」など、具体的な「予備行為」が要るとしている。

 余りに厳格な条件を付けたのでは、実効性が薄れかねない。だが、拡大解釈の余地を残し、不当な運用をされることがあってはならない。

 野党側は、労働組合や市民団体などまで適用の対象にされかねない、と懸念する。与党側は、労働団体などの正当な活動は妨げない、などとする再修正案を示したが、政府も、懸念の払拭へ、今後の審議を通じて十分な説明が必要だ。

 テロや組織犯罪を国際連携で摘発しようというのが条約の要請であり、改正案の本来の目的だ。日本が、犯罪を阻止する国際的なネットワークの穴になってはならない。

 こうした犯罪の未然防止を図りつつ、その一方で拡大解釈を生まないよう、どう歯止めをかけるのか。国会審議で慎重に詰めていく必要がある。

 

 

組織的な犯罪の共謀罪に関するQ&A

http://www.moj.go.jp/HOUAN/houan23.html

 

 

 

  
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2006年05月06日

◎多民族国家だった日本の軍隊の悲哀

日本軍あえて戦前の日本を多民族国家と位置付けたのは朝鮮人、台湾人、強いて言うならば満州人を含めた軍隊であったといえる

朝鮮系日本人、台湾系日本人は日本国籍で日本人であった

戦後彼らの意思とは関係なく日本人としての国籍を剥奪され、朝鮮・韓国国籍(厳密に言えば北朝鮮は国家として認めていない)に、台湾国籍になったのである

したがって彼らが日本軍の軍人として凶状をおこなったとすれば、日本軍としての責任であり、その非難は甘んじて受けなければならない

 

例えば朝鮮系アメリカ兵がイラクで残酷な犯罪行為を行なったとしたら、アメリカ軍が責任を取らなければならないのは当然である

 

しかしながら韓国から旧日本軍は、米軍は残酷だと非難はされたくないものである

韓国は天に唾はいているのと同じだよ!と言いたい

 

私の基本姿勢は

旧日本軍の軍人として戦った朝鮮系日本人、台湾系日本人には精一杯の敬意を払っており、今を生きる私たちは感謝すべきと思う

ましてや台湾出身者24名 朝鮮出身者 21名が戦犯として処刑(法務死)され、14名が特攻隊員を志願して命を落としており、たくさんの戦死者を出している

当時は日本の1等国民になるために命を懸けていたのです

戦後軍人恩給の対象とするべく日韓条約で議題に挙げたが韓国側としてはまとまった金を要求 個人賠償については韓国政府が責任を持って実施するということでまとまったのである

しかしながら台湾兵に関してはその補償は十分でないと判断する

 

ただ韓国があることないこと言い立てて、日本を貶めることを止めない場合は、断固として懲らしめるべし

以下 私としてはあまり気乗りはしないが、韓国の民族性を判断する資料として紹介をする

その中でハンギョレ21の「ああ, 震撼の韓国軍!」は韓国軍がベトナムで如何に住民虐殺をやったか韓国側資料を紹介する

 

 

朝鮮系日本軍人・軍属への疑い

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/29594179.html

 

貴方はどれだけの軍人・軍属が戦犯として処刑され、または自ら命を絶ったかご存知ですか

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/24241178.html

 

ベトナム戦争での韓国の特需 総決算

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50249731.html

 

ああ, 震撼の韓国軍!

http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm

 

山下将軍降伏の地で朝鮮系日本兵の凶状に耳を疑う

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/17462097.html

 

朝鮮軍司令部で出した朝鮮兵の注意書き

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/17462263.html

 

  
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2006年04月24日

◎ 佐久間艇長を今一度!

若い頃に読んだ本に「佐久間勉艇長の遺言」がある。

男として、人間として、上に立つものとしていかにあるべきかを真剣に考えていた時のことである。

武士道に関する書物を、戦国武将の生き方を、軍人の伝記を、そして偉人と言われるヒトの物語を読みふけった。

各書物はそれなりに得ることが多く大変に勉強になったが、しかしそれらは所詮創作の世界であり、心に深く重きを置くものではなかった。

 

ある時、数枚しかない薄い本ではある佐久間艇長けれど、装丁は重々しい作りの「佐久間勉艇長の遺書」という本であった。

この遺書を読んでいくうちに、これは世界に冠たる日本の軍人であると確信した。

その内容はまもなく死んでいく身でありながら、極めて冷静に事故の分析をし、今後の開発に遅れをとらないように配慮するとともに、部下の遺族に対する配慮をお願いする等指揮官として、まさに見本とも言うべき見事な死に様であった。

 

本人はもちろんのこと13名の部下たちも自分の持ち場を離れず、その場で絶命していたことは全世界に打電され、日本軍人としての生き様が世界から賞賛された。

 

今この平和ボケした世の中に「責任感」「思いやり」「軍人としての生き方」を紹介することにより、日本人の世界に誇るべき精神性をあらためて認識することが大事なことではないかと思い紹介する。

********************「日本を護った軍人の物語」祥伝社 から引用

驚嘆すべき最期

 事件は明治四十三年四月十五日、山口県新湊沖で起こった。潜航訓練を実施していた第六号潜水艇が沈没したのである。

 その日、呉から母艇・歴山丸に曳航されてきた第六号潜水艇は、新湊港を発し沖合いに出た。

予定されていた訓練は前日に引き続き水上航走後の半潜航である。半潜航は通風筒だけを水面に出し、ここから空気を取り入れガソリン機関によって航行する。当時の潜水艇は水中潜航をする

ときは電気エネルギーだったが、それでは速度が出ず、航行時間も短かった。

 このため速度を上げたり、長時間航行する場合はガソリンを燃料にしなければならず、空気の供給が必要となり、通風筒を水面上に出して航行することになるのである。訓練中、やや離れたところにいた母艇・歴山丸では係員が艦橋から第六号潜水艇を厳垂に監視していた。

 当時、日本海軍は九隻の潜水艇を保有していたが、うち七隻が英米からの輸入艇、二隻が国産だった。第六号潜水艇は国産第一号、全長二二メートル、五七トンという小さな船である。配備されてわずかに数年、性能が劣り構造的にも不十分なところが多かったので、事故が起こることを警戒していたのである。

 当然、乗組員には優秀な者たちが選ばれていた。艇長の佐久間大尉には四年の経験があった。

日本海軍が初めて潜水艇を保有したのが明治三十八年秋。佐久間はその翌年から潜水隊に所属、

 

一年後には艇長となった潜水艇乗りの草分けの一人である。十三名の部下も熟練した技術を持つ者たちだった。

 午前十時過ぎ、半潜航に人ろうとしたとき、突然、通風口から海水が浸人、潜水艇は後方に大きく傾いて沈んでいった。歴山丸の監視員は艇影を見失ったが、この時点ではさして心配はしなかった。潜水艇が海中に沈んでいくのは当然だし、すぐに浮上するだろうと思ったのである。

 ところが、一時間経っても、二時間経っても、潜水艇は浮上しなかった。ここに至って歴山丸の指揮官は事故が起こったと判断、無線で呉鎖守府に通報した。驚いた鎮守府は引湯器具等を積んだ数隻の軍艦を現場に派遣、懸命の捜索を行なったが、その日は発見できなかった。

 海底約十六メートルに沈む第六号潜水艇が確認されたのは翌日の午後三時半。引き揚げられたのは沈没後二日が過ぎた四月十七日のことだった。

 この日、現場には多くの海軍関係者や知らせを受けた乗組員の家族たちが詰め掛けていた。しかし、潜水艇の扉を開くに際し、佐久間の直属の上官である第一潜水隊司令・吉川中佐と数名の係官以外は艇から遠ざけられた。

 乗組員の生存は絶望と見られていたし、海軍関係者は艇内の状況が心配だったのである。つまり佐久間艇長らが海車軍人として恥ずかしからぬ最期を遂げたか否か。

 当時、潜水艇の事故は欧州においてもしばしば起きていた。その際、引き揚げられた艇の扉を開けると、そこには見るも無惨に多くの死体が群がっているのが普通だった。なんとか自分だけは助かろうと昇降口に殺到しているのである。ときには折り重なった遺体に乱闘の跡さえ見られることもあった。万一そのような見苦しい状況であれば、それを家族の目に晒すわけにはいかない。そうした配慮によって限られた人間だけで昇降口の扉を開いたのである。

 吉川中佐らが不安を抱きつつ扉を開けると、そこには驚くべき光景があった。艇長・佐久間大尉は司令塔に座していた。舵手はハンドルを握ったまま、機関中尉は電動機のそばに、空気手は空気圧搾管の前に……。

 乗組員全員がそれぞれの持場で少しも取り乱した形跡なく、生けるがごとく水眠していたのである。死に至るまで忠実に職務を遂行した様がありありと窺えた。

 一通りの検分を終えて外に出た吉川中佐は「よろしい」と一言絶叫し、その場に泣き崩れた。

吉川中佐らに続き、潜水艇の内部を見た関係者はみな言葉もなく胸せまり、熱い涙を流した。

 

佐久間艇長の遺書

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/16983540.html

 

日本を護った軍人の物語―近代日本の礎となった人びとの気概

  
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2006年04月12日

◎中国で日本軍を題材にした親日的な小説「温故一九四二」がロングセラーとは・・・

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中国といえば反日、あることないこと嘘八百並べ立てて、ステロタイプに「悪逆非道の日本軍」というのが定番である。産経のこの記事を読んで「本当かよ!」と我が目を疑った。

まさかエープリール・フールじゃないだろうな。夢なら覚めないでくれはオーバーだが、いまだに猜疑心が拭い去れないでいる。

 

明治以降日本人は日本に留学してきた蒋介石、周恩来等、万単位の中国の若者に教育を与え、多くの日本人志士たちが孫文の中国革命を助けるため大陸に渡り、資金的にも軍事的にも大きな貢献をしてきたのは紛れもない事実である。しかしながら毛沢東の中国共産党、蒋介石の国民党がその事実を隠し、日本国内の左翼偏重主義者と連携して宮崎滔天をはじめとする大儀のために戦った日本人を貶めた。

 

今回の河南省の大飢饉からの救出もさることながら、日本が中国国内で実施した産業振興やインフラ整備、教育等正当に評価される時期が早く来ることが望まれる。

 

今回の記事により、中国にも正確な資料に基づき、正しい評価をする良心的インテリがいるということが判っただけでも日本人として嬉しく思う

*******************産経新聞から抜粋

○中国小説「温故一九四二」(中国書店)農民の飢餓救った日本軍

邦訳本出版中国で映画化も決定

 

【北京=福島香織】一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版されたのが、翻訳の「温故一九四二」(中国書店)である。

 同小説は日中戦争の最中の一九四ニ〜四三年、河南省を襲った旱魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。

 飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。

その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。他の中国人から収奪したものだったとはいえ、農民はこれに応えて、猟銃やクワを握って武装し、軍糧を巻き上げてきた中国軍を武装解除させた。

 「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」と軍糧のとりたてを黙認する蒋介石に対し、食べることが何より優先事項だった庶民。「最後に歴史を動かすのは庶民の基本的生活の要求だった」と劉震実さんはいう。

 河南省生まれの劉震実さんは、当初は故郷の災害史をまとめるつもりで、祖母や叔父らにインタビューし新聞記事を集めていた。史実に初めて触れて驚愕すると同時に「人の記憶は意外にあいまい。こんな大事件をみんなあまり覚えていない」と、ショックを受けた。それではいけないと、九三年に小説として発表。以来、読者の圧倒的支持を得て、今も重版が続いている。“中国の山田洋次”と称される馮小剛監督による映画化も決定した。

 翻訳者の劉燕子さんはこの小説に魅了された一読者だった。九一年に日本に留学。今は大阪で、文芸誌「藍・BLUE」編集長を務める。「日中の懸け橋になりたいと思って文芸誌を編集してきた。この小説こそ日本の人々に読んでほしい」と話している。

 

劉震実さん=写真上=著、劉燕子さん=写真下

  
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2005年12月10日

◎日本軍青年将校の指導でベトナム人民がフランス軍に立ち向かった裏話

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昭和40年代の古い雑誌を見ていたら私が以前にblogに書いたベトナム戦争の元ネタとなった記事が載っていた。

 

2005年5月28日「2人の旧日本兵フィリピンで生存」の文字躍る

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/23317706.html

ではエピソードだけを載せたが、武装解除された日本軍がそれぞれの地でどのように植民地解放闘争に拘わっていったかを知る貴重な資料と思い紹介することにした。

全記録ベトナム戦争30年(サンケイ新聞出版局)で出した増刊号に載っていた話である。

慶応大学の加茂徳治教授が学徒兵として各地を転戦し、インドシナのフランス軍と戦い、ベトナムで終戦を迎えたときのことである。

 

ベトナムの独立闘争は日本が日露戦争に勝利し、白人によって植民地支配を受けていた有色人種の希望の星となった時点で、アジアの各地から希望に燃えた青年たちが日本に留学してきた。同じ時期にベトナムからも王家の血筋のものが留学している。

 

北ベトナム軍の前身のベトミン軍はろくな武器も持たずに闘っていたということ。

後に米軍が悩ませられたベトコンの抵抗は旧日本軍人が伝授した教育訓練であった事実

 

日本軍人が指揮したフランス軍に対する待ち伏せ攻撃の話等

 

「私は北ベトナムのゲリラ隊を養成した」

http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/10496997.html

に詳しく載っているので一読してもらいたい

 この記事は、現代戦においても伝統的な心理戦が大きくモノを言うということを教えてくれる

 

  
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2005年11月30日

◎歴史を巨視的に大観する術を心得ない日本の指導者

自衛官

戦後60年 国家と軍隊というものをタブー視してきた日本の指導者(政治家、教育界、マスコミ等)の罪は大きい。

占領軍であったGHQの言うがままの7年余り、独立しても国の原点に返ろうとしなかった日本“吉田茂”の罪は大きい。じ後の国策を大きく損なったとしか言いようがない。

じ後は経済優先になり、国民生活は確かに豊かになった。

しかし国家の尊厳を忘れ、必要以上の及び腰外交に終始する商人国家になったがため、中国・韓国には彼らのいうがままに国益を無視した経済援助をしたにもかかわらず、感謝されることもなく、ただ侮蔑の眼差しを受けただけである。

 

サンフランシスコ平和条約が発効された時点で憲法改正をし、GHQによって骨抜きにされた教育、軍事を根本から見直しあるべき姿を追求すべきであった。

 

今ようやく自民党結党50周年を迎え憲法改正をやろうとしている。

しかし自民党の憲法草案は桝添・与謝野等いわゆる学者GPが主導権を握って現憲法とあまり代わらない論調で作られようとしている。

その中で憲法9条は相変らず中途半端にしようとしている。

「自衛軍」とは何ごとか

あの屈辱的な「自衛隊」という名前を引きずって半世紀

現職自衛官は「国防軍」「防衛軍」「軍」という名称にこだわっていることと思う。

自衛隊という言い方は治安維持のときに使う町内会の警備隊に使われる名称である。

 

憲法と言うものは国家のあり方を決めるものである。

本来のあるべき姿を追求すべきと考える。

「平時の外交の延長が戦争である」ということを国の指導者はしっかり認識する必要がある。

 

 

***********************朝雲新聞のコラム 春夏秋冬から引用

◎反帝国主義的帝国主義   平川祐弘

 軍を志す者は、自国の過去の戦争について、それなりに評価を下すものだ。米国では泥沼化したベトナム戦争の際は反戦派も多数出た。イラク戦争も長引くにつれ人気が落ちたが、徴兵制でないから反戦気分は今の程度でおさまっている。朝鮮戦争は多数の戦死者を出したが、その前の第二次世界大戦が米国にとって正義の戦争として記憶されたから、国のために命を俸げることへの疑問は少なかった。

 中国ではどうか。文化人革命で国が乱れた。だが軍隊内には「造反有理」はなかった。文革批判の映画『芙蓉鎮』で、下克上で混乱に陥った国を救うものとして軍が登場する。暗い映画の中で希望の星は人民解放軍の女医さんだった。中国には子供に「軍」と名づける親が多い。「軍」という女の子もいる。だがその中国は今や貧富の差が世界一、地方の娘が売りに出されようとしている。「農民の疲弊を救え」そんな社会正義を訴えて青年将校が決起すれば事だ。党関係者は国民の不満をそらすためにも日本をさらに悪者に仕立てるかもしれない。

 悪者扱いされぬためにも、日本は旧軍や戦争の評価をきちんとしなければならない。米中英ソが戦争中に喧伝したように、第二次世界大戦は善玉の民主主義諸国と悪玉のファシスト諸国の戦争だったのだろうか。私はそうは考えない。

近代日本は西洋に範をとる植民地主義国家として中国朝鮮のナショナリズムと衝突した。その日本は「大東亜戦争」では主観的には西洋植民地主義の東亜支配を打破しようとした。西洋を学ぶとともに西洋列強と対峙せねばならなかった近代日本には二面性があった。

その結果、日本はいうならば「反帝国主義的帝国主義」に陥っていたのである。そのいずれか一面のみを強調するのは間違いだ。

 『五箇条ノ御誓文』の「智識ヲ世界二求メ大二皇基ヲ振起スベシ」 「旧来ノ陋習ヲ破り天地ノ公道」基クベシ」は日本の国是だ。米国と戦った日本が戦後たちまち米国民主主義という公道に範をとったのも、二面性のある近代日本の歴史の中で西洋を師とする面にさっと頭のスイッチを切替えたからである。

さっと時流に乗る人がこの国には多いが、歴史を巨視的に大観する術を心得ないから、近隣諸国のいちゃもんにきちんと答えられない。

  (ひらかわ・すけひろ=東大名誉教授)

  
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2005年09月22日

◎海外公館に「情報担当官」を新設は危機管理の第一歩

情報=スパイ=汚い仕事から情報マン=スマート(頭が良いの意味)=エリートへ意識を変える時期が来た。

情報マンといえば「007シリーズ」の破壊活動や拉致・殺人という華々しい活動しか頭に浮かばないかと思うが、公的発表の文書や新聞報道の地道な分析、外国の情報マンとの情報のやり取り等静的な活動が比重を占める。それと同時にその国に根付いて広い人脈を作り、情報組織を構成しなければ緊要な時期に緊要な情報が入ってこないものである。

 

先日 イラクで日本人が拉致される事件があった。

これに関しては日本の外交団はまったくの無能であった。結局 米軍にオンブにダッコ状態であったという。

いつからこんなにだらしなくなったかといえば、ロシア大使館武官コズロフ大佐に情報を渡していた宮永元将補事件、ロシア大使館の駐在武官ビクトル・ボガテンコ大佐に、機密文書を手渡したという容疑の海上自衛隊の萩崎繁博3佐事件が有名であるが、マスコミで叩かれ、政治家に情報活動に対する見識と理解がなかったがために、じ後、積極的な情報収集はまったくと言うほど控えていたと言うのが実情であろう。

 

しかし自衛隊が国際的に認められ、世界の紛争地で活動するようになれば、自衛のためにも積極的情報活動が必要になってくる。

また日本周辺がキナ臭くなってきており、国内世論も現実的になってきたことが今回の情報官の配置であろう。

世界の常識から言えば、軍事力の弱いところほど情報能力を高めて国家としての危機管理に力を入れるものである。

 

●一人前の情報組織に育てるには

・長い年月と多額の資金

・命をかけた危険

     マスコミと反政府勢力からの妨害活動

これらに対する指揮官の腹を据えた堅固な意志が必要である。

 

 

************************************************産経921日付から引用

○在外公館に情報官 外務省5年間で100人配置

 外務省は二十日、対外情報取集能力の強化を目的として、在外公館で情報収集活動に専従する「情報担当官」を来年度に新設する方針を固めた。

五年間で百人配置する方針。対テロ情報や周辺国・地域の大量破壊兵器の拡散防止に向けた情報報取集にあたり、体系立った情報戦略の構築を目指す。初年度は米英中など三十カ国に30人を配置する。将来的には情報機関「対外情報庁(仮称)」の創設に向けて、環境を整備するねらいもある。

 

 外務省が、防衛庁などからの出向組である駐在武官とは別に、情報担当官を新設する方針を固めたのは、イラクでの日本人人質事件や北朝鮮の核開発問題で情報収集能力の低さが露呈し、対応が後手に回ったため。在外公館で取集しているナマ情報の欠如とそれに伴う分析能力が米英両国に比べ、「著しく弱い」(幹部)との判断がある。

 

 周辺国における核・ミサイル拡散や国際テロの脅威が高まるなど日本を取り巻く安全保障環境が激変する中、情報収集能力の低下は国家安全保障の根幹にかかわるとの危機感も背景にある。

 新設される情報担当官専門的な訓練と研修を受けた後、在外公館で「ヒューミント」と呼ばれる人的情報の収集に絞った活動を行う。具体的には現地の新聞記者、研究者など民間人を含む情報源の開拓や、派遣国の情報機関員との人間関係の構築が求められる。

 

 効率的な情報取集を行うため、大使の指揮下にある一般職員とは別に本省国際情報統括官組織から直接指導を受けられるようにする。

外務省は来年度の概算要求で国際情報統括官組織として約七億七千万円を盛り込み、秘密情報の漏洩を防ぐ技術、法整備や情報公開の基準整備にも取り組む。

 

 町村信孝外相の私的懇談会は十三日、英情報局秘密情報部(SIS)を参考に、外相の下に「特殊な対外情報を扱う固有の機関」設置を提言。国際情報局は昨年八月、領事移住部の領事局格上げに伴い現在の国際情報統括官組織に改編され、情報取集能力の強化が急務とされていた。

  
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2005年08月29日

◎大東亜戦争の心理戦 日本軍の謀略ビラ

日本軍の伝単(謀略ビラ)心理戦ではラジオ放送の「東京ローズ」が有名ですが、米兵に甘い囁きで訴える東京ローズは圧倒的な人気をはくしていた。

戦後米兵は日系女性のアナウンサーを逮捕し、戦犯としました。

いままであまり公表されていなかった伝単(宣伝ビラ)を紹介します。

  
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◎大東亜戦争の心理戦 米軍の謀略ビラ

米軍の伝単(謀略ビラ)隊は戦の中でいかにして敵の戦意を挫くか

これは大きな問題である

 

 

・激烈な戦闘で戦意を挫く

・ベトナム戦争のように自国での反戦運動の盛り上がり

・心理戦で厭戦気分を作り出す

この謀略ビラは兵隊の厭戦気分を醸成させるため敵味方大いにやったものである

果たして日米どちらに軍配を上げますか?

  
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2005年08月22日

◎戦争画(ニューギニア密林の死闘)佐藤 敬 油彩

ニューギニア密林の死闘昭和17年から3年間に亘る攻防戦はマッカーサー元帥をして「世界中で最も頑強な戦闘」と呼ばしめた。

日本軍は密林中の地下陣地すなわち頑丈な地下壕と巨大な熱帯樹の根元に穴を掘って巧妙に潜伏して攻撃する肉弾接近戦で連合軍を苦しめた。

堀井少将指揮する南海支隊(独立工兵15連隊、歩兵144連隊、歩兵41連隊)の戦であった。

 

  
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2005年07月26日

◎「日本軍=悪」の「刷り込み」からの解放を!

大江・岩波の名誉棄損

戦後60年、GHQは占領政策の一環として「太平洋戦争の真相はこうだ」「真相箱」「質問箱」と名称を変え、3年間に亘ってラジオを通してお茶の間に日本軍の犯罪を告発し続けた。真実の中に巧妙に虚偽を織り込み民主主義の正義が勝ったのだと刷り込まれ、いつしか日本人の歴史観や戦争観が占領軍の思うつぼにはまってしまった

「日本軍=悪」定番となってしまい、反論を許さない風潮が出来てしまった。

とくに沖縄においては国内戦となったため、多くの民間人が犠牲となり、ぶつけようもない怒りの矛先は必然と彼らを巻き込んだ日本軍に向けられた。

そのなかには軍人の理不尽な要求もあっただろうし、追い詰められた民間人の誤解もあったろう。

ただ戦史を研究しているものとしては、常に人間として極限まで追い込まれた場合どう判断し、どのような行動をするかを常に考えるものである。その根底には民族性がある。

 

今までの研究結果からして日本軍の将兵は欧米・中国・朝鮮の将兵と比較しても決して残虐でもなく、むしろ田舎出身の兵隊は情にもろく人間味に溢れていると感じている。

それに比べて欧米の将兵は捕虜となった日本兵にどんな仕打ちをしたか、シナ兵の自国民(シナ)に対する残虐さ、朝鮮戦争・ベトナム戦争時の北朝鮮兵、韓国兵の民間人に対する残虐行為等を知るにつけ、冷静に判断する必要性を感じている。

 

この度、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こしたと聞き、国民に冷静に判断させる環境が出来てきたと嬉しく思います。

我々は完全にGHQにより洗脳され、共産党シンパに刷り込みをされたままの歴史観を解放し、実証に基づいた判断が出来るようにしようではありませんか。

 

***************************産経新聞 24日付 引用 

「自決強制」 名誉棄損 大江氏・岩波を提訴へ

沖縄守備隊長遺族 記述誤り、

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことがニ十三日分かった。

 訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(八八)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(七二)。

 訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。

 

兵隊 訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本車の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

 沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

 

 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

 

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、〈高文研)で明らかにした。

 その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大学教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。 

 

集団自決が軍の命令だったとされてきた″歴史″が法廷で争われることになった。沖縄戦が住民を巻き込んだ悲惨な地上戦だったことは事実だが、軍の残虐性を示す″証拠″の発端は、島の長老と生存者による遺族のための悲しい口裏合わせだったという。

 

最初に書かれた沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の記述は大江健三郎氏の代表作『沖縄ノート』だけでなく、故家永三郎氏の『太平洋戦争』など多くの出版物や教科書で独り歩きしている。主なものを拾った。(教科書問題取材班)

 

★沖縄戦集団自決「軍命令」・出版物・教科書で独り歩き。

 

■鉄の暴風

恩納河原に避難中の住民に対して思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた

《住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾はあちこちで爆発した。

・・・阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた》

《座間味島駐屯の将兵は約1000余・・・隊長は梅沢少佐。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。・・・村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。

 

■沖縄ノート

《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞の試みを絶えず繰り返してきたことであろう》

 

《那覇空港に降り立った、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリーボートから乗船を拒まれた。かれは実のところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき

 であったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。

 

■太平洋戦争

《沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長赤松高次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民三二九名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌など

を使い、凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無間係とは考えられない。座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため三〇名が生命を失った》

 

■教科書

《日本軍にスパイ容疑で殺されたり、「集団自決」を強制されたりした人々もあった》《軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した》(日本書籍新社の中学歴史)

《日本軍によって集団自決を強いられた人々やスパイ容疑・命令不服従などを理由に殺された人々もおり・・・》(実教出版の高校世界史)

《犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民や虐殺された住民も含まれており・・・》(桐原書店の高校日本史)

《日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、悲惨をきわめた》(三省堂の高校日本史)

《戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり、スパイ容疑や戦闘の邪魔になるとの理由による住民虐殺もおこった(東京書籍の高校日本史)

*******************************ここまで引用

虚偽の元となった沖縄タイムス社の『鉄の暴風』はベストセラーとなり、現在10版を重ね沖縄ショップの書籍コーナーで売られている。

『鉄の暴風』は曽野綾子氏によれば執筆者に取材したが彼は現地取材をしておらず、聞き取り調査も又聞きの状態で資料と呼べるものではなかったということである。

そして、これもGHQの情報統制化の昭和25年に発行され、「全て軍部が悪い、人民は犠牲者、アメリカは解放者」という東京裁判史観に毒されていたのである。

「ゴー宣 戦争論3」の第11章 沖縄戦神話の真実にわかり易く書かれているので一度お読みになってはいかがですか!

 


新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉
ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決
GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 小学館文庫
日本解体―「真相箱」に見るアメリカGHQの洗脳工作  
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2005年07月12日

◎敵であろうと味方であろうと勇敢なる軍人には敬意を払うものである

いにしえより真の武士(もののふ)は勇敢に戦って戦死したものには最大の敬意を払うものである。

残念ながら日本の為政者は武士の心を持っていないため「戦士の美学」を知らない。

大勲位の中曽根元首相にしても海軍主計大尉出身、現代風に言えば会計隊の大尉すなわち事務専門の将校である。宮沢喜一にいたっては大蔵省の事務官にへばりついて軍隊に行ったことがない。もちろん80歳代の政治家は引退とのことであるから誰もいないということになる。

710日の産経新聞(正論)にクライン孝子氏はまさに憂国の士とも言うべき素晴らしい意見を述べられているので紹介する。

その前に戦場に花咲く武士道の逸話をご披露したい。

 

○オーストラリア軍の勇戦に敬意を表した日本軍部隊は巨大な木製十字架建てて丁重に弔った。

十字架の墓標 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開始とともに、日本軍はシンガボールをめざしてマレー半島を南下した。

それは破竹の進撃であって、翌年の一月末にはシンガポールの対岸まで達した。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みたが健闘むなしく、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。

日本軍の近衛師団は、オーストラリア兵の勇敢なる戦に感激した。彼らに敬意を現すために、二百人を葬った墓地の上に巨人な木製の十字架を建てた。

そこには『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。(本文と画像は一致しない。他の資料には丸太を十字に組んだとある)

 

 

当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(現ASEANセンター代表)は、

 「そんなことはいくらもあった。第一、山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ,特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は、戦意が乏しく逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起きたのだ。勇敢な敵兵に敬意を表すことは、言葉は悪いが当時の。ファッション″だった。

 

それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレパルスを撃沈させた。すると指揮官の壱岐春記人尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために、花束を投下したではないか。

 

捕虜と日本兵 日本が植民地勢力の牙城・シンガポールを陥落させて、アジア諸国は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を催行した」。

日本の武士道精神、欧米の騎士道精神を体得している軍人には慈悲の心を常に持ち合わせているものである。

 

しかしこのような話は勝ち戦のときは往々にしてあるが、戦線が長引き戦友が殺され、殺伐とした戦場になった場合は見るに耐えない残虐な行為もするものだ。しかし戦争も終わり長い月日が経ってお互いの憎しみが癒えた時、お互いの健闘を認め合い友情が生まれるものである。

 

 

 

 

 

***********************************産経新聞 正論 平成17710日から引用

◎靖国に向き合えずに何が国家観か!

≪戦没者への思い忘れた政治家達≫

          ノンフィクション作家 クライン孝子(ドイツ在住)          

○かみしめたい遺族の願い

 天皇・皇后両陛下は先ごろ第二次世界大戦の激戦地サイパン島を戦後初めて慰霊のため訪問された。その両陛下のお気持ちを察すると、次は一八六九年(明治二年)以降、日本のために命をささげた軍人、軍属やそれに準ずる文官・民間人・学徒など戦没者約二百五十万柱を祀る靖国神社へ、と願うのは私の勝手な思いてあろうか。

 ところて、今回の両陛下による慰霊の旅についての報道では、当時親族八人をこの島で亡くした戦没者遺族の一人、平良善一氏の「(戦後)六十年、私たちにとっては六十一年、ようやく戦争が終わった気がする」という述懐が心に残った。

 このシーンをテレビで見て、私はふとドイツでも遺族の一人が同趣旨の言葉を今から二十年前の一九八五年五月、吐露していたのを思いだした。

 当時のコール西独首相は、第二次大戦四十周年記念にあたって、レーガン米大統領を伴い、二度の大戦の戦没者約二千人が眠るビットプルク英霊兵士墓地を訪れ献花した。

実は両首脳によるこの同墓地への訪問は、四十九人のナチ親衛隊も祀ってあるという理由で、ユダヤ人をはじめ一部の反戦者の猛烈な反対に遭い、警察や軍隊も出動するものものしいムードのなかて挙行されたものてあった。

 それだけに、今もドイツ国民の間で、戦いに敗れたとはいえ、戦没者を手厚く遇したコール首相の勇気と決断は語り草になっている。

 今回私も、両陛下のサイパンご訪問の直前、この墓地を訪ねてみた。そこはかつて、二つの大戦の激戦地となった場所で、見渡す限りの平野が果てしなく広がる独仏国境近くの一角に、こんもりとした木々に囲まれて墓地はあった。

こうしたドイツの戦没兵士を慰霊する墓地は国内外に一万ヵ所近く(うち国内七千九百六ヵ所)あり、約八万柱が祀られている。

 

○戦い終われば敵味方なし

異国のドイツ戦没兵士の墓地といえばこんなエピソードがある。紹介しておこう。

 昨年シラク仏大統領は、第二次大戦におけるノルマンディー上陸(Dデー)六十周年記念式典に敗戦国ドイツのシュレーダー首相を招待した。

この時、同首相は、この地にあるドイツ兵士墓地を、戦勝国への配慮という理由で素通りしてしまったのである。

 早速ドイツでは野党の保守政党をはじめ各界から愛国心欠如を指摘する非難の声が上がったばかりか、かつての戦勝国からも怪訝な目で見られる結果になった。

欧米では戦いが終われば敵味方なく、国のため戦場に赴き自らの命をささげた戦士たちを国を超えて丁重に扱うからである。

 ところが極東アジアではどうだろう。今も日本は六十年前の戦争の禍根を引きずって近隣諸国、とりわけ中国の内政干渉を受け、一国の首相の戦没者慰霊さえ、ままにならない。

 日本国内でさえ、小泉総理の靖国参拝には、総理経験者の大物政治家をはじめ、まるで中国と口裏を合わせたかのように、参拝自粛を迫る声が後を絶だない。

 「止めるのも一つの立派な決断」と忠告に及んだ中曽根元総理に至っては、そもそも自らが中国の圧力に屈して参拝を中止し、この問題をこじらせた張本人である。「友人胡耀邦(当時中国共産党総書記)の立場を慮った」との弁解も、今となれば責任逃れとしか問こえない。

 

○首相の参拝は国家の原点

 それにしても、同じ敗戦国とはいえ、この日独の違いは一体何に起因するのだろう。あえて一言でいうなら、日本人、とりわけ日本の政治家たちの度し難い国家観の欠如、国家概念の不在もしくは認識不足にあるように思うがどうか。

 野党はもとより、小泉内問のサポートに回るべき与党のベテラン議員たちでさえも、国内政争に明け暮れ、与野党間の駆け引きや党内の主導権争いを、国外へ平気で持ち出す愚を繰り返している。

 その結果、外交巧者の中国などに手の内を見透かされ、外に向けても一枚岩になりきれずに、国益を損なう不用意な外交カードを切ってしまう。しかも彼らの多くが、いまだその重大さに気付いていないことが悲しい。

 政治家とて人の子である。何も国民は彼らに全知全能の存在であることを望んでいるのではないが、少なくとも、独立国家存立のイロハだけはしっかりと頭にたたき込み、国の衰亡に手を貸すようなぶざまな政治だけは行ってもらいたくない。

 小泉総理の靖国参拝は、その原点にあると私は確信している。

****************************************ここまで引用

昭和の戦争記念館 大東亜戦争の秘話【第3巻】

大東亜戦争を見直そう

大東亜戦争への道

 


世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第3巻〉大東亜戦争の秘話
大東亜戦争への道  
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2005年07月07日

◎旧日本軍の悪行とされている『三光』は中国の伝統的戦争文化

 

支那には昔からまともな人間は兵隊にならないという伝統があります。

支那軍には徴兵制度が確立していなく、その辺の男たちを強制的に狩り集めて兵隊にするのが通常の姿である。

 

給料がもらえているうちは良いが、なくなったら一般市民の家に押し込み略奪するのを常としそれが特権でもあった。

 

こんな支那軍だから徴兵され日本人としての誇りを持った日本兵に勝てるわけがないのである。

 

日本軍とまともに対峙して勝てない部隊はどうするか。

退却する以外ない。

追撃する部隊にとって一番困るのは何かといえば、兵站線(食料、弾薬、兵器の追送)伸びきっては攻撃部隊の支援が出来ないことである。

 

それでは逃げる部隊はどうするか。

攻撃軸の幹線道路沿いの村々を破壊していくこと、すなわち日本軍が雨露を凌ぐための民家には火をつけて燃やす。

一番大事な水を使えないように井戸に毒薬を入れる。

村々に備蓄してある食糧は根こそぎ持っていって日本軍が調達できないようにする。

男たちは兵隊として連れて行く

この伝統的戦闘方法に支那軍の悪行を日本軍にすり替えたすべてが入っている。

 

蒋介石と毛沢東「光」というもの日本人にとっては「光明が射す」「光り輝く」「後光がさす」などすなわち「太陽信仰」と重なりプラス思考が優先されます。

 

しかし大陸では「光」はカンカン照りの大地をイメージし、「砂漠」と重なり「カラ」の意味すなわち何もなくなるというマイナス思考が優先されます。

このように日本と支那ではまったく逆の意味になります。

 

では彼らは『三光作戦』という言葉をどのように定義していたでしょう。

●毛沢東の共産軍

     焼光(サウクァン) 焼き尽くす   

     殺光(サアクァン) 殺し尽くす   

・搶光(チャンクァン) 奪い尽くす

「蒋介石の国民党軍が人民を殺害するために使ったスローガン

  中華人民共和国の「中国人民述語辞典」抜粋

 

 ●蒋介石の国民党軍

     分光(フェンクァン)分け尽くす    

     吃光(ツウクァン) 食い尽くす    

・用光(ヨンクァン)  使い尽くす

「共産党軍のスローガンで地主階級を粛正する清算闘争の用語」 

   中華民国の「中共述語彙解(いかい)」抜粋

 

中国人同士が実施した「三光作戦」

19世紀末から国共内戦(国民党と共産党の戦い)を実施し、中国人同士が焦土作戦(破壊尽くす戦闘行動)を繰り広げるのが常であった。

 

『清郷作戦(チンシャン)   村つぶし

『堅壁清野作戦(チェンピイチンイエ) 

 南京郊外に火をつけて農家などを燃やすなど、攻めてくる敵には何も渡さない徹底した破壊作戦

 

『三光作戦』とは中国人同士が使用した中国の伝統的戦争文化スローガン

 

光文社発行の『三光』中国帰還者連絡会編は長らく共産軍に捕虜として抑留され、洗脳された中国共産党の代弁者である。 この本をまともに受け取った純真な日本人は大きなショックを受け「旧軍=悪」として自虐史観に陥った。

 

     兵隊による略奪

兵隊による略奪は支那軍ばかりでなく、歴史的に有名なのが十字軍の遠征である。遠征も2回目以降になるとイスラムの高度な文明と豊かな財宝に目がくらみ略奪を目的に遠征をしたといわれている。

 

中世のヨーロッパの戦争は兵隊の略奪が給料代わりであった。

独ソ戦でソ連軍がドイツになだれ込んだときに国を挙げて煽ったのは「ドイツの女をレイプしろ」で会った。

 

「北京の55日」で有名な北清事変はヨーロッパ各国軍の略奪振りは凄まじいものがあった。しかし同じく出兵していた日本軍が規律厳正で各国から賞賛を浴び、白人国家のイギリスが日本と日英同盟を結ぶ大きな要因になったといわれている。

 

    中国の歴史を紐解くと、中国という国には軍隊が国民を守るという意識はなかった。

なぜなら近代国家としての『国家』『国民』という意識がなかったから。

民は力あるものに屈服し、奪い取られるものとしてしか位置づけられなかった。

 


日中戦争知られざる真実―中国人はなぜ自力で内戦を収拾できなかったのか
検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す  
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2005年07月05日

◎シミュレーション「日中もし戦わば」と「国の慰霊」

いま国立の慰霊施設を造るかどうか問題になっているが、靖国神社以外に何が必要だというのか。

今の政治家もマスコミも日本国の国家主権にかかわる問題に、なぜ中国や韓国に口出しをさせるのか! 

 

中国や韓国のための慰霊施設に日本国民がお参りに行くと思いますか?

日本の近代国家建設のため尊い命を捧げた方々の魂が靖国神社に集まっているのです。

こんな話を知っていますか?

イラクに派遣された自衛官たちが靖国神社にお参りをし、  

「いざというときは靖国神社で会おう!」と誓ってイラクへ旅立ったということを

ここが140年間守り通した武士(もののふ)たちの慰霊の場所なのです。

 

今の自衛官を旧軍の軍人に重ね合わせてシミュレーションして見ました。

 

*****************************************シミュレーション

     時は201X年世界情勢は急変

•中国は日本からのODA等多額の経済援助を搾り取り、軍備拡張政策により今やアメリカ、ロシアに比肩する三大軍事大国に発展

•中華帝国の復活を宣言、アメリカも迂闊に手を出せないほどの強硬政策をうつようになった。

 

日本は相変わらず「日中友好」の呪文に縛られて中国のいいなりの政策をやっているうちにいわゆる反日教育で育った世代が中国政権の中枢に入り、ことさら日本に対する挑発的行動が目に余り、日本国民世論は限界に達してきた。

近隣諸国は強圧的な中国の外交政策には辟易しながらも盲従している。

 

●中国国内の混乱と経済の悪化

中国の国内政策の失敗(食料増産、人口抑制、石油開発、環境破壊等)による国民の不満増大

  都市労働者と内陸農民の所得格差の増大と強制的な土地収用から来る農民暴動

・中国共産党の場当たり的な政策に嫌気を刺した外国企業が撤退を始めたことによる失業者の増大

農業・工業生産物の不良品続出による対日輸出の停滞

     少数民族(チベット、ウイグル、内モンゴル)の民族紛争と台湾の独立運動の激化

 

●対日敵対行動

戦時賠償(個人)100兆円の要求

     毒ガス弾処理 10兆円の要求

     尖閣列島付近のガス田の盗掘と尖閣列島への軍隊の派遣

円借款の返済放棄

「愛国無罪」を主張して日本大使館、日本企業襲撃の暴動多発

日本企業に対する法外な税金の取り立て

近隣諸国を威圧して日本の大動脈であるシーレーンの封鎖(石油輸送の妨害)

日本近海でミサイル射撃を伴う海空軍の威圧

北朝鮮を使っての日本国内に対するテロ・ゲリラ

国際関係 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●日中戦争の勃発と日本の敗戦

米中核戦争を恐れた米国内の反戦運動により、日米安保条約が機能せず、日本の和平努力にもかかわらず、日本が単独で中国・北朝鮮と戦わざるを得なくなった。

韓国は日本に宣戦布告はしなかったけれど、北朝鮮に10万の義勇兵を送って対日戦に投入した。台湾は当初日本と共に戦っていたが、大陸からのミサイル攻撃に根をあげ降伏した。

 

自衛隊は当初、組織的に戦って戦果を上げていたが、日本国内において中国と連携を取りながら、後方地域で活動していた反日平和勢力等による妨害活動、朝鮮総連の秘密部隊による日本各地の原子力発電所攻撃、交通機関に対する攻撃が頻発し、次第に劣性となったため、マスコミの戦意高揚策により特攻的攻撃をやらざるを得なくなった。

 

 日本は当初、破竹の勢いで中国海空軍を撃破したが、中国解放軍の人海作戦・CBR攻撃・サイバー攻撃、核兵器威嚇等の波状攻撃で健闘むなしく敗れた

 

●自衛官の宿命

自衛官は「國家に対する忠誠心」「家族を守るため」犠牲的精神で侵略軍と戦い、多くの戦死者を出した。

 

●日本の運命と敗戦後の自衛官

中国との戦争に敗れた日本は、中国・北朝鮮等の占領軍による占領政策により、親中国政権が誕生し、国際法違反の戦争裁判により戦争指導した政治家及び自衛隊の高級幹部は死刑になり、捕虜虐待の罪により、多くの幹部はもちろんのこと陸曹・陸士の約6000人が無実の罪にもかかわらず有罪とされた。

国民世論は占領軍の政策に踊らされて自衛官を軍国主義者と非難し、その家族に対して冷たい仕打ちをした。

特に無実の罪で殺された戦犯の家族は戦後60年立っても名誉が回復されず社会の片隅でひっそり暮らしている。

中国・韓国・北朝鮮への気兼ねから国家の責任者たる総理大臣も靖国神社にお参りができない状態

日本のマスコミは中国・韓国・北朝鮮の国家利益のために世論工作をする。

******************************************シミュレーション

 

 世界の軍隊は破れたとしても國家のために戦って英霊となった軍人には國家として敬意を現すものである

もし自衛官たちがこのような状況にされたとしたら、彼らに黙ってこれを受け入れろというのですか!

かれらはきっと怒り狂うでしょう。

ふざけるな!

 誰のため戦ったのだ!

 貴様らそれでも日本人か!・・・と。 

 

日本の平和を願って命を懸けて戦った旧日本軍の軍人・軍属の無念さを知って欲しい!

 

 

 

 

 国防
新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉
新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

  
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2005年07月03日

◎日米の軍人が命を懸けた戦場の実相 サイパン島

指揮官

今日(72日)のNHKスペシャル「僕らは玉砕しなかった・少年少女たちのサイパン」を見ていて

東条英機の戦陣訓が「自決」のすべてであるという風に捉えていたが必ずしもそうともいえないのではないか。

米軍側から見た映像ばかりでその構成はどのようにでも出来るものである。

米軍は日本軍や民間人の潜んでいそうな場所は手りゅう弾や催涙ガス、火炎放射器で虱潰しに攻撃している

米軍の戦法は敵の潜んで居そうなところはすべて潰すというのが昔も今も変わっておりません。

日本軍は昔も今も無駄弾を撃ちませんが、米軍は物量にまかせて無駄弾だろうがなんだろうが身に危険を感じたら撃ちまくるのです。

映像では一つ一つ呼びかけをやりながら出てこなければ爆破するように見えますが、あれは撮影のための呼びかけと見るのが妥当でしょう。

 

私が依然に見た米軍の映像には無抵抗の日本兵を焼き殺したり、狐狩りでもするように追い回して撃ち殺したりしている映像を見たことがある。

 

NHKの映像を見ている限り日本軍の兵隊さんの言うことを信じて皆手榴弾で自決してしまった。

しかし米軍は紳士的でこんないい人もいるのかと生き残ったおばあさんが語っていた。

それも真実であろうし、我々のおじいさんやお父さんを虫けらのように扱って猟をするようになぶりころしたのも真実であろう。

番組のナレーターは「米軍は捕虜に関する国際条約を守って生き残った人に危害を加えることはなかった」という。

 

日本人というのはなんと純真なのだろう、他国の与えた情報をそのまま信じて自分の国をけなす。

こういう人たちがNHKにいる限りは米軍ばかりか、中国・韓国はこれからも安泰です。

 

しかしこれは戦争ですよ。一般市民を焼き殺す目的で都市に対して焼夷弾による空襲をやったんですよ。

それも日本政府から航空自衛隊創設に貢献した功績で勲章を受章したルメイ将軍が日本爆撃の総指揮官として指導に当たり、「日本の家屋は木造であるから、ガソリンをまいて焼夷弾を打ち込めば都市を丸焼けにできる」として、周囲から爆撃し一般市民を真ん中に追い込み最後に猛烈な爆撃をするやり方が米軍である。

 

一般市民殺戮を目的に国際法に違反してまで広島・長崎に原爆を落としたのは誰ですか。それが戦争です。

あまり奇麗ごとにとらわれない方がよいと思う。

 

白人が日本人を人間として扱っていない時期があったのです。

会田雄次の「アーロン収容所」という著書に我々捕虜の前では素っ裸の白人女性も白人兵の前では嬌声を上げて恥ずかしがる。結局は我々日本人を動物くらいにしか見ていないのだと書いている。

 

●フィリピンのダバオにいた米軍はこんなこともやっています。

•昭和16年12月 の開戦直後米軍によって抑留された日本人婦女子2,400名に対する強姦事案があった。 

   •同年12月20日 将校の指揮する米兵はダバオ抑留所内の日本人10名を捕縛し、熱湯を浴びせ、耳を切り、目をえぐり、鼻を削ぎ、手足をもぎ取るなどの酸鼻極まる暴虐を行い、かくして56名が殺害された。

あのリンドバーグの衝撃の証言があったようにこの話もまんざらウソとは思えないものがある。

 

   ・戦犯叢書「戦犯虐待の記録」国書刊行会発行には連合軍の捕虜になった日本軍人に対する惨たらしい虐待が綴られています。一度図書館等でお読みになることをお勧めします。

なぜ戦場心得ともいうべき「戦陣訓」が出たかというと支那事変が大いにかかわってくる。

 支那大陸での長い戦場生活に兵隊の規律が段々乱れてきたということ。

 支那軍の捕虜になった日本兵は支那の伝統的拷問によって惨たらしく殺されていた。

   耳を切り、目をえぐり、鼻を削ぎ、手足をもぎ取るなどは当たり前で、クビかせをさせてぶら下げ、最後には自分の体重でクビが抜け落ちるまでイタブル等人間としての尊厳を保てないそれならば武人らしく死のうじゃないかというのが趣旨である。

 

   それが「捕虜になるぐらいなら死ね」だけが一人歩きしたことが悲劇を招いたといえる。

 

●  結論があっても言えない話

  貴方は小部隊の指揮官である。

  兵隊5人と洞窟に潜んでいたところ、子供連れの民間人が助けを求めて自分たちの洞窟に入ってきた。

  外は米兵が日本兵捜索のため洞窟を虱潰しに爆破したり、火炎放射器でナパームを打ち込んでくる。

  発見されたら100% 5人の兵隊と乳飲み子をつれた親子は殺される

  あちこちで洞窟が爆破されている。洞窟から逃げ出すことは物理的に不可能

  その時赤ちゃんが泣き出した。

  赤ちゃんが泣き止めば助かる可能性はわずかながら残されている・

  赤ちゃんがこのままなき続ければ100%全員が殺される。

  さあ! 貴方ならどうする。

  これが生死をかけた戦場です。

 

 ※戦陣訓(せんじんくん)は、1941年(昭和16)1月8日、「軍人勅諭」の実践を目的として、当時の陸軍大臣・東条英機が公布した、軍人としてとるべき具体的な行動規範。
 

 

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2005年06月28日

◎サイパン島 米軍の卑劣な毒ガス攻撃

 

読売 両陛下サイパンへいままで2回にわたってサイパン島の日本軍と米軍の死闘について紹介してきたが、今回も田中徳祐著「我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実」から抜粋する。

 

今日(27日)午後天皇皇后両陛下は戦没者慰霊のためにサイパンへ向けて旅立たれた。

今回紹介する毒ガスについてはドイツ軍が第1次世界大戦に初めて使用してから各国で研究・開発していた。

 

しかしこれを使ったという記録があまりないのは、これを使用することは陸戦法規(ハーグ条約)違反であるため、各国とも秘密裏に使用するというのが実情である。

 

蒋介石軍(支那軍)はすでに支那事変のときから使用し、そこで生活する支那住民のことを考えることなく、退却時井戸という井戸には全部毒薬を叩き込んで日本軍が使えないようにしたという記録がある。

今までは米軍が日本軍に対して毒ガスを使ったという記録がほとんどなかったが、終戦後1年半もゲリラ戦で抵抗した田中大尉だから書き残せる事実をこの本から汲み取ってもらいたい。

この本はすでに絶版になっているが大きな図書館には置いているところもある。

 

***************************以下抜粋 

 敵は海上と陸上から攻撃をしかけてきた。しかし、そそり立つ岩石が重なり合い、しかも道路上から五十米もある絶壁で周囲が取り囲まれていた。海上は怒涛岩をかみ、駆潜艇も近寄れないところだった。

 

 だが、悲しいことに、食糧補給ができず、あるものといえば私が拾い集めてきたわずかばかりのものだけである。 敵は、海上と道路から、昼夜連続で砲撃をしかけてきた。我々にとっては死の篭城に等しかった。苦しさに耐え切れず、洞窟から一歩外に飛び出せば最後、待ち構えている銃砲火を浴びることは必至だった。

 

七月十二日、敵はついに最後の手段とみたのか、毒ガス弾攻撃をしかけてきた。全く予期していなかっただけに、さすがにあわてた。防毒面はすべて捨ててしまっていた。毒ガス弾は、ノド元をえぐり取るような赤筒弾だった。「全員砂に顔を当てて呼吸せよ。濡れ手拭で口を覆え!」

 

 だれ言うとなく叫び、全員がコウモリのように、洞窟の濡れた岩に顔を当て、地面に吸いつき、素早く毒ガス弾の処置をとった。しかし、次々と撃ち込まれてくる毒ガス弾に、洞窟内は白煙で真白く覆われ、抵抗力の弱い子供や老人は、もがき苦しみ血をはきながら死んでいった。

 

「畜生。苦しい……ノドが……一気に殺せ」 そばにいた海軍の重症兵が叫ぶ。同時に、口からダラダラと鮮血を吐いた。血は、汗と油にまみれた衣服にベッタリとしみ込んでいく。 あまりの苦しさに、手榴弾で自決していく重傷兵が出る。

 

サイパンの残骸「おい、岸壁をよじ登って突撃だ。全員討ち死にだ」とあたりの洞窟から叫び声が聞こえたかと思うと、苦しさに堪えかねていた兵士数人が飛び出していった。敵の集中弾が、待っていたかのように火を吹き、兵士たちは射殺された。

 

 私は、頭が変になり、眼がくらんで気が遠くなりかけた。

 ……もうダメだ……と思ったが、洞窟を匍い出し、岩と岩の間に顔を突っ込んだ。外からのスキ間風が鼻先きに流れてきた。それから先きは意識不明となった。

 

 ……その後どうなったか、死人同様に幾時間かがすぎていた。涼風が肌をなで、身に寒さを感じて始めて自分が毒ガス弾に意識不明になっていたことを知った。「あっ、オレはまだ死んでいない……」

 

●串剌しにされた婦人

用心深く周囲を見廻した。と、同時に、いつ敵が侵入して狼籍を働いたのか、不思議な死体をみた。岩と岩の間に、一本の青竹をわたしそこに串刺しにされた婦人が、物凄い形相で掛けられていた。(中国人や朝鮮人がよくやる残虐行為)全く、人間のなせる行為とは考えられない残酷な光景である。まだあった。自分と同じ洞窟にいた兵士や住民たちが、五体バラバラに切りきざまれて倒れていた。

 

自分が、何の傷もうけずに、こうして生きているのが不思議でならなかった。 私は自分のからだをつねってみた。やはりオレは生きている、とわかった。

 

 ジャングルに入り、洞窟の前で屍から食糧をあさった。何日か前に戦って戦死した兵士の腐敗した悪臭が鼻をついてくる。十米ぐらい離れた洞窟付近で、生き残った兵士の話し声が耳に入ってきた。 屍を飛び越え、洞窟に近寄ってみると、自分が想像していた一人や二人ではなかった。まだ、五百名を超える兵士がこのジャングルに生き残っていた。

***************************「我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実」から抜粋

今回の毒ガスに関する記事は普段目にすることの出来ない記事であり、米軍は中部太平洋戦域で如何にして日本兵、軍属、民間人を虐殺したかを記憶にとどめておく必要があると思い紹介した。

 

ベトナム戦争が終わってあとの昭和50年代の半ばころのことである。

米軍のスカウト小隊(敵中深く潜り込んで偵察・警戒)に所属していた隊員と接することが会ったが、彼のいうことにはベトコンの首を何人切り落としたか判らないといい、気に入らないやつはナイフで切り裂いてやると周りを威嚇していた。

 

彼は一種独特の異様な雰囲気を持った兵隊で、仲間の兵隊も気味悪がってあまり傍に寄りたがらなかったのを思い出す。

 

戦争は人を狂わすものです。平和時の判断で戦争を論じてもあまり意味はない。

 

「常在戦場」という言葉がある

ものごとを考えるときは戦場における最悪の状況を基準に考えれば自ずと答えが出る。

 

沖縄の慰霊、硫黄島・サイパンの慰霊

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/26269777.html

 

リンドバーグの衝撃証言

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/25468782.html

 

サイパン島は昔激戦の島であった

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/24716523.html

 

サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/24845255.html

 

  
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2005年06月26日

◎大東亜戦争という名称を使うだけで右翼だと思いますか?

真珠湾

10年ほど前に自衛隊の学校で戦史教官をしている2佐のかたに「大東亜戦争を見直そう」著 名越二荒之助(なごし ふたらのすけ)という面白い本があるよと情報提供したら、「大東亜戦争・・・ですか!」と一瞬困った顔をし、話に乗ってこなかった。

このようにどちらかといえば右寄りといわれている自衛隊の方でも大東亜戦争という言葉に拒否反応をするのが日本です。

 

なぜ日本においては日本政府公称の「大東亜戦争」という言葉が定着しなかったのかを考えてみたい。

 

広辞苑には「太平洋戦争の日本側の当時の公称」とよそ事のように書かれているが、

●フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように書かれている

「大東亜戦争という呼称は、1941年(昭和16)12月10日の日本の閣議決定、「今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」にちなむ(12月12日発表)。当時、大半のアジア諸国が欧米諸国の植民地支配下にある中で、大東亜戦争と呼称するのは、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず。」(情報局発表)として、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものと規定した。これは1943年(昭和18)11月の大東亜会議で再確認された」

 

『大東亜戦争(だいとうあせんそう)は、第二次世界大戦における1941年昭和16年12月8日真珠湾攻撃)から1945年昭和20年8月15日ポツダム宣言受諾)まで、日本が中心となって大東亜共栄圏を形成することを目的とした日本連合国との戦争の、当時の日本での呼称である。1941年昭和16年12月12日の閣議で決定され、その意味は戦争地域に留まらず『大東亜新秩序建設を目的とする戦争』であるとされ、日華事変(支那事変・日中戦争)も含むとされた。

アメリカ合衆国イギリスオランダとの戦争太平洋戦争支那戦線は日中戦争を参照。

戦後の一時期、GHQはこの呼称の公式な使用を禁止して「太平洋戦争」という呼称で置き換えた。その後、禁止は解除されたが、この言い換えはそのまま日本社会に受け容れられて定着し、「大東亜戦争」はあまり使われなくなった。1974年林房雄が『大東亜戦争肯定論』を発表して以降、小林よしのりの『戦争論』シリーズや保守系の雑誌などにおいてこの呼称が復活するようになった。

大東亜戦争に関して世界はどのように評価しているか。

太平洋戦争(戦争の評価)および大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧を参照』

 

●第二次大戦を世界はどのように呼んでいるか確認してみよう。

 

・ソ連     「大祖国防衛戦争(対独戦、対日戦)」

・アメリカ   対日戦〜「太平洋戦争」  対独戦〜「ヨーロッパ戦争」
・ヨーロッパ諸国 「第二次ヨーロッパ大戦」
・日本      大東亜戦争(日本政府が命名)
         太平洋戦争GHQから統制された)
 

これでも判るようにそれぞれの国が戦争目的・意義から自主的に命名しているのが現状である。

アメリカの公称『太平洋戦争』に固執している日本人は戦争の呼称について無頓着のところがあるといわざるを得ない。

 

●太平洋戦争と大東亜戦争の違いについて考えてみよう

・太平洋戦争〜アメリカがハワイ、フィリピンを植民地にして太平洋の支配を狙い、最終目標である日本の粉砕を戦争目的

※日露戦争終結後日本の台頭にアメリカは将来の対日戦を想定「オレンジ計画」を作成、シナリオ通りに日本を追い詰めていった。

・大東亜戦争〜支那事変も含めて、対米英支蘭戦争を総称 自存自衛、ABCD包囲陣を粉砕が目的

 

●大東亜戦争の意義

「戦勝国とは最終的に戦争目的を達成した国をいう」 クラウゼウィッツ著【戦争論】

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の基石を置いた」    英国の大歴史学者 H・G・ウエルズ

「日本人は日本のためというよりも日本の掲げた大東亜共栄圏に含まれていた国々(東南アジア)のために偉大な歴史を残した
  歴史学者 アーノルド・トインビー

日本の英・米・蘭・豪等西欧諸国に対する捨て身の一撃は東南アジアから中近東を経てアフリカ諸国にまで独立の火の手を上げさせ、世界の独立国60ケ国足らずを130数ケ国にまで増やした実績は、「日本は戦争目的を達成した」といえる。

 

東京裁判でただ一人『日本無罪論』を主張した国際法学者のインドのパール判事の「日本無罪論」の概要を紹介する。

1 支那事変以来、米英両国は中立国の国際法上の義務に違反して、公然と蒋介石政権に対し、経済的も軍事的にも多大の援助を与えた。

これは明らかに日本に対する挑発行為で会って、宣戦なき戦争を日本に仕掛けたものである。

 

2 支那事変の末期、米・英・支・蘭等4カ国が共同して、ABCD包囲網を作り、日本を経済的に封鎖した。

 特に日本に対する石油の全面禁輸をしたことは、日本に対する激しい挑戦行為である。

 

3 米国は開戦前の11月26日、日本に対し最後通牒を突きつけた。その第三項に、「日本は中国及び仏印全土から、陸海軍と、警察力を全部撤退するよう」要求した。

これは明らかに日清日露両戦役の結果、日本が正当に得た権益を捨てることを要求するもので、この要求は宣戦布告と同様である。 

4 米国は11月27日、前哨地帯の諸指揮官に対し、戦闘体制に入るよう秘密指令を出した。事実上米国はこの日に対日戦争を開始したことになる。

米国議会はこの事実を知って大変驚き、上下両院の査問委員会を結成して、部の挑戦行為を激しく非難した事実がある。

 


大東亜戦争への道
世界から見た大東亜戦争

印の昭和史―戦後50年自虐の終焉
GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 小学館文庫

敗戦直後からGHQは占領政策の一環として「太平洋戦争の真相を日本国民に知らせる」ためのラジオ番組を作った。それは「真相はかうだ」「真相箱」「質問箱」と名称を変えながら3年にわたってお茶の間に日本の犯罪を告発し続けた。

「アメリカの民主主義が正義」との観念を植え付け、日本の歴史観を変え軍隊に対する嫌悪感を植えつけることに成功した。

 このように日米が死力を尽くして戦った「太平洋戦争」はあくまでもアメリカの戦争史観であり、アメリカの立場で語っていることになる。

これはあくまでも日本政府が公称した『大東亜戦争』を使用すべきものと判断する。

 

  
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2005年06月23日

◎『戦艦大和ノ最後』と軍事常識

 

産経大和いま軍事常識から外れた話に尾ひれがついて軍人としての尊厳を貶めている。

 

20日付けの産経新聞の1面に『戦艦大和ノ最期』に書かれていた記述内容が事実と反すると出ている。

日本人で実戦の経験がある旧軍人は80歳以上のお年寄りばかりで、脂の乗り切った40代50代のジャーナリストがいない。

社会の中堅層に軍人上がりがいないため実戦経験者から見たらとんでもない事象を真実として流布されている。

それが今回紹介する「救助艇指揮官による手首きり」の話であり、「南京事件の100人斬り」であり、「沖縄慶良間列島の集団自決」である。

************************************************************産経新聞からの抜粋

戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)のでヽ救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。

 

手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声大語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として″独り歩きしているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

 

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。

 

この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、ひしめく腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足蹴二カケテ突キ落トス」と記述していた。

 

これに対し、初霜の通信士で救助艇丿指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を断るなど考えられない」と反論。

 

将校その理由として

ヽし鎧隆韻軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない

救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない

5濬時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。

 松井さんは昭和四十二年『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲・するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。

********************************************************************以上抜粋

 

私は「手首きり」などなかったと思う。

災害救助に武器を持っていかないのと同様、救助に専念できる装備が常識である。

     日本刀を持っているものは十分理解できると思うが足場の悪いところで刀を振り回すことは自殺行為である。日本刀はよく切れる。

     敵機からの再攻撃がなければ整斉と救助活動をやったものと思う      

     著者の吉田満氏が昭和21年に書いてGHQから発禁処分にされた時点では「手首きり」の話はなかった昭和27年に出版された本には新たに「手首きり」の話が付加されていた。

ここで考えて欲しいのはGHQは徹底した情報統制をやっていたということこの本が発刊されたのが27年8月未だOCCUPIED JAPANであったと言うことを・・・。

発刊するために旧軍悪人説を採用したと考えるのが妥当と思う。

 

 

    「南京事件の100人斬り」

市谷台で切腹した三島由紀夫が使った名刀「関の孫六兼元」はたった2人の首を刎ねただけでグンニャリ曲がって使い物にならなかったと言う。また日本刀の研究家の話でも3.4人が限度と言うことである。

100人斬るためには、最低30本の日本刀を持って攻撃しなければならないなんて、私はご免です。

それに副官と迫撃砲小隊長という任務であれば、ほとんど敵兵と白兵戦にはならない。それに支那兵はすぐ逃げまくる。

結論 軍事常識から100人斬りはありえない。

 

    「沖縄慶良間列島の集団自決」

まず最初にダレも書かないからあえて言う

劣勢になっている軍隊のいる陣地に民間人を入れるな!が原則

敵の砲弾の集中砲火にあって民間人を巻き添いにして壊滅する。

良かれと思ってやったことが結局非戦闘員を殺してしまうことになる。

 

100匹の羊より3匹の狼の方が強い。

訓練されたプロの戦闘員は組織的に抵抗をする。素人または訓練のされていない新兵が入ると抵抗する組織が早期に瓦解する。

 

沖縄戦では軍隊のいない国頭地区(沖縄北部)に避難した島民は助かっているが、島尻(沖縄南部)に軍人の保護を求めた島民は悲惨な目にあっている。

 

敵の砲弾の死角(飛来する砲弾の角度から安全な地点)になる地区に住民を誘導(見方によっては追い払った)した可能性はある。

指揮官の支持を好意的に見るか、悪意を持って見るかによって180度違ってくる。

 

国民の気持ちとしては軍隊に守って欲しいが軍隊は傍に来るなと言う、理を尽くして説明しても母親になつく子供のように保護を求める。

だから国内戦になったら、非戦闘員(一般国民)の安全確保のための警察組織または役場・市民課との連携が重要になる。

 

軍人恩給、遺族年金の対象となるには軍の命令が必要であり、赤松・梅沢両隊長に頼んだ。

そのため両隊長は教科書にまで載せられ、極悪非道の軍人にされてしまった。

そして現地で取材をして確証を得ると言う基本的なこともせず、彼らを口汚くののしった急先鋒は、あのノーベル文学賞の大江健三郎である。

 

結論 恐怖心と軍人たちの重荷になってはいけないという責任感(戦前の一般国民の心構え)から戦場ヒステリー(新興宗教の集団自殺の心理状態)で自決した。

  


先生、日本のこと教えて―教科書が教えない社会科授業
ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決
仕組まれた“南京大虐殺”―攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ
  
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2005年06月11日

◎サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した

 昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。

この著書はもはや絶版となっており、大きな図書館にかろうじてあるくらいだ。

 

その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

 

サイパン島「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」

 

 そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」 投降を勧める放送は再三くり返された。

 

 我々はその放送を頭っから否定した。「そんな甘い手に我々がのると思うか」放送を耳にすればするほど、強い敵気心が湧いてきた。

 

 投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。

 

 我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。

 

 そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。

 その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。

 

 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。 ……なんたることをするのだ! 小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)

 

 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。

 

あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。

 

「おい、もうがまんならん。撃て」この状況をみていた私は叫んだ。同時に吉田軍曹が一発撃った。しかし、なんの効果もない。敵は、もはや我々に無頓着である。

 

 残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

 

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

 

 射撃をやめ、この非道な行為を脳裏に焼きつけた。いまは眼からは一滴の涙も出ず、この恨みを、どこまでも生き抜いていつかきっと返さねばならぬと、全身に激しい怒りがみなぎった。

 

 恨みに狂う我々はしかし手のほどこしようもない。焼き殺されていく無惨な運命にただ合掌し、霊を弔うだけが精一杯だった。

 我々の発砲にとうとう敵の反撃が始まった。看護婦たちが自決した右上の丘陵伝いに、攻撃してきた。我々は洞窟に潜み、抗戦をつづけた。そして夕暮れまでなんとか持ちこたえた。だが、この戦闘でも半数は死傷者となり、明日への戦闘能力を失った。

 

『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

 

 

ライフ誌に載った日本人の頭蓋骨のお土産ここにこんな写真がある。

これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。

 

「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等

 

常識では考えられないことをするのが騎馬民族アングロサクソン、支那人、朝鮮人である。これをやられたのが我々の父であり、祖父の時代の日本人である。

 

今回 天皇皇后両陛下の戦没者慰霊のご訪問を機に遺族の間に反米感情が沸き起るのではないかと、米政府が心配するのもわかるが、日本人はGHQの洗脳を完全に受け入れて悪いのは日本軍だと思い込んでいるから心配しなくともいいですよ。

 

 小林よしのり(ゴーマニズム)が反米を標榜するのがわかりますね。だって彼は真剣に勉強しているようですから・・・。

 


西欧の植民地喪失と日本―オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所  
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2005年05月28日

◎「2人の旧日本兵フィリピンで生存」の文字躍る

旧日本兵今朝一番、ビックリするようなニュースhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050527it03.htmが飛び込んできた「フィリピン南部ミンダナオ島で、元日本兵と見られる男性2人が生存していた」と。

フィリピン情報http://www.t-macs.com/kiso/his/his_9.htm

 在マニラ日本大使館は27日、確認のために館員を同島ジェネラルサントスに派遣。同日中に面会する。大使館によると、2人は帰国を希望しているという。

 厚生労働省では、この2人は、旧陸軍第30師団捜索第30連隊の山川吉雄中尉(87)=大阪市西区出身=と、中内続喜(つづき)伍長(85)=高知県明治村(現越知町)出身=ではないかと推定している。第2次世界大戦中、第30師団は、同島で作戦に従事していた。2人は同島で終戦を迎えて、そのまま山岳地帯で、60年近く生活を続けてきたと見られる。2人が生活していた一帯は、モロ・イスラム解放戦線(MILF)などの反政府ゲリラの勢力下にあり、ゲリラ部隊とともに戦ってきたのではないかと推測されている。

ここで思い出すのがベトナムやインドネシアに残留し、現地人に戦闘指導あるいは現地人を指揮し共に戦った旧日本兵の埋もれた戦争秘話である。

 

アメリカ軍と激烈な戦闘をしたベトナム軍の戦法は「実は日本軍が伝授した」という「ベトナム戦争秘話」について紹介する。

 

  一般的に最先端の軍事技術を持って大量の物量作戦のできる米軍に勝てるわけがないと考えるのが普通である。しかし近代兵器を十分持たない北ベトナム軍とベトコン(南ベトナム民族解放戦線)http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000012.htmlが世界最強の軍隊をうち負かしてしまったのである。

この神話とも言うべき戦いの原点に日本が関係していると言ったら貴方は信用しますか?

これからベトナム戦争の話をします。

 

ベトコンのゲリラ戦術がどのようにして生まれたかというと、かつてインドシナに駐屯していた旧日本軍の将校達が、終戦後もベトナムに残って、彼らベトナム独立軍(当時はベトミンと言った)の将校たちに指導をしたのが始まりだという。

 

慶応大学教授の加茂徳治氏が、戦時中ベトナム人に戦い方を指導したという話がある。終戦後現地に残っていた陸軍将校達が、ベトナム人の抵抗組織(ベトミン)から半ば強引に、我々の指導をしてくれと言われ教育をしたそうだ。当時ベトナムには士官学校や各種の軍学校があったが粗末なもので、その教官のほとんどが日本人であった。 当初は武器も持たず戦い方も知らないベトミンが、日本軍の武器を譲り受け日本軍将校の指導の下に、フランス軍に攻撃を仕掛けた。そのときはじめてベトナム人達はフランスの軍隊が破れるのを見たという。そのことは彼らの価値観を180度変えたとも言われている。

 その後フランス軍が撤退しアメリカ軍が入ってきたが、近代的な装備をもつアメリカ軍がもっとも恐れたのがベトコンの原始的な戦術であった。

 

ベトナム戦争例えばアメリカ海兵隊は軍用犬を使用して、トンネル式の陣地に隠れるベトコンを追跡した、対するベトコンはニンニクを置いて犬の嗅覚を麻痺させ追跡を振り切った。

またコウモリの帰巣本能を利用して、アメリカ軍の基地に巣をもつコウモリを見つけだし、その足に火縄を付けて放ち、コウモリが巣に戻り基地が火事になってアメリカ軍が混乱しているところを襲撃したりした。

 

さらにおもしろいのはアメリカ人が太鼓を怖がるという事実である。ベトコンが夜不意に太鼓を叩くと、アメリカ軍は算を乱して後退したり動揺したという。

在日米軍の将兵達も日蓮宗妙法寺の太鼓を聞くとぞっとするという。

そういえばベトナム戦争華やかなりしとき、日本の演習場で大砲の射撃訓練をやりながら、自分たちの撃ったドカーンという轟音に過剰反応していたのを思い出す。

 

このように近代的な装備に対して原始的な戦術で対抗することも一つの手であるし、民族のもつ古くからの伝統的手法を使ったのがベトナム戦争だったと思う。

 

  戦いというものを考えるとき近代兵器が全てではなく、その戦い方によっては原始的な方法も有効なものであると言える。

 

朝鮮戦争における中国の人海戦術、ロシア軍に対するチェチェンの独立闘争運動、ロシア軍のアフガン侵攻におけるイスラム勢力の山岳ゲリラ、イラク戦争後の米軍に対する自爆攻撃しかりである。

 

しかしここには民族の存亡を懸けた強烈な愛国心が見える。

これが勝利を勝ち取った大きな要因ではないだろうか。

 最後に世界中で突撃を頻繁に実施するのが日本とベトナムだと言われており、ベトナム人に突撃を教えたのが日本人であることを覚えていてほしい。

フィリピン南部ミンダナオ島の元日本兵と見られる2人男性が一日も早く救出されることを望みます。


フィリピン・セブ島〈’03〉
ミンダナオ島戦記―マキリンの雲は燃えて
ベトナム戦争―誤算と誤解の戦場  
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2005年05月19日

◎旧日本軍の遺棄化学兵器の処理は半永久的に日本から金をむしり取る「打ち出の小槌」

処理記事中国に遺棄されたと称する毒ガス弾は本当に日本の責任だと思いますか

軍隊の武装解除は通常大砲、小銃、弾薬、食料、補給物品、車両等全てについて明細書を作成し、双方立会いの下、員数を確認お互いの確認書の署名した時点で所有権は移行する。

事実 台湾に関してはちゃんと証拠が残っていて防衛研究所に台湾派遣軍と海軍の作成した詳細な武器引渡しリストがあった。そこには毒ガス弾を何発引き渡したなども記載されていた。
 他の日本軍も部隊ごとに詳細な武器引渡しリストを作成して整然と引き渡したと考える。

中国国内で発見された毒ガス弾の製造元は日本、旧ソ連、中国、腐食で確認できないがアメリカ、イギリスのものも混在していたと思われる。

ということは毛沢東の共産軍は旧ソ連から支援を受けていたし、蒋介石の国民党軍はアメリカの支援を受けていた事実からこれら発見された砲弾は日本軍から中国軍(毛沢東軍、蒋介石軍)または旧ソ連軍に移管されていたと考えるのが妥当である。そしてその砲弾を使って国共内戦(蒋介石軍vs毛沢東軍)を戦っていたのである。

内戦は結局蒋介石が台湾に押し出され、実質上の戦争は終わったわけである。 

使用期限の切れた又は不要になった弾薬は処分しなければならない。

正規の軍隊と違って馬賊・匪賊・共産ゲリラ上がりは軍事常識は知らないからヤミクモに埋めたものと思う。

毒ガス弾が発見され、トラブルを恐れるチャイナスクールの外務省の役人が時の総理大臣村山富市と河野洋平外務大臣に「中国製と旧ソ連製の混じった毒ガス弾の処理を要求してきましたが、いかが致しましょうか?」と判断を仰いだところ眉毛のトンちゃん「まとめて日本が処分してあげなさい!」といったという。

その結果が「中国遺棄化学兵器処理に関する日中間の覚書の署名について」( 平成11730日)

で日本が全責任を持つこととなった。

これは「日本の砲弾と確認できるもののみ処理をする」と突っぱねるべきであった。

処理画像日本は廃棄義務は70万発(支那派遣軍の保有弾数から)といい、中国は200万発(自国と他国の破棄弾薬のすべて)という。しかし50年たって毒ガスが出てきて「日本の責任で処分しろはないだろう!」言いたいが中国の宦官にも等しい外務省の役人は中国側にたって日本国民を裏切り続ける。その金額はねずみ算式に増えていくのです。

ちなみに自衛隊の化学処理班が試験的に行った処理作業は1年間に100発が限度であり、それに要した費用は一億円だということである。

オーストリアが第1次大戦の弾薬処理を50年間やっているがいまだに終わらないということである。

この遺棄化学弾処理はODA・開発銀行等の合わせて7兆円どころではなく、一説によると5兆円とも10兆円以上の費用が掛かるともいわれている。

国賊ともいうべき村山・河野・外務省の役人は実質戦時賠償ともいうべき負担を国民に負わせたのである。

中国吉林省敦化市郊外のハルハ嶺に建設する大規模処理施設とは別に中国各地に小規模処理施設を新設する方向で検討に入ったということである。

いままでの中国のやり方は次の通りである。

町からはなるべく離れたところに処理施設を建設し、敷設設備として、舗装道路、消防・警備施設、従業員宿舎、輸送車両、近郊町村の上下水道、周辺の土地の買い上げ等思いつくものすべて1セットで新しい街を造れというのが常套手段である。

まさに中国は莫大な周辺整備対策費を要求してくるのである。

日本政府は2008年までに約780億円を計上するということである。

 

筋を通さない外交のツケがこのような形で国家の尊厳と国益を侵し続けるのである。

 


たかられる大国・日本―中国とアメリカ、その驚くべき“寄生”の手口
乗っ取られる大国・日本―「金」「土地」「先端技術」を吸い上げるアメリカの戦略  
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2005年05月04日

◎自己犠牲の精神(空自パイロットの墜落死)

「昨日(3日)静岡県警のヘリが静岡市の住宅街に墜落 警視ら5人死亡」の記事があった。幸い住宅街に落ちたにも拘らず一般住民に被害が出ず、新聞もTV等の報道でも彼らを批判する記事は見当たらなかったのが救いであった。

 航空自衛官

同じような事故で1999年11月、自衛隊機の墜落事故があった。

航空自衛隊入間基地所属のT−33ジェット練習機が墜落、乗員2名が死亡した事故について新聞やニュースで大きく取り上げられていた。

 

それらの報道の焦点は「あわや大惨事」「首都圏80万戸停電」中には「冷凍庫の中のアイスクリームが溶けた!」等々『自衛隊がえらい事してくれたな、どうしてくれるんだ』と云わんばかりの批判的なものばかりで、殉職したパイロットに対するお悔やみの言葉が聞かれなかった。

 

 しかし、そのときの事故の真相はこうなのである。

操縦席に煙が発生し、墜落の3分前に「脱出する」と連絡があったのだが、『今このまま脱出したら住宅街に墜落してしまう。最悪の事態だけは回避しなければ』と考えたのだろう。

 

これ以上飛行したら助からないと思いつつも、最期まで機体を誘導し、河川敷に墜落した。1人は墜落寸前に脱出したがパラシュートが開くのに間に合わなかった。もう1人は脱出した形跡がないという。 

 

もしも、ただ単に脱出機能のトラブルで脱出不能であったならその交信記録が残っている筈である。 まさに危険を顧みず、自らの身を犠牲にして使命を果たしたのである。 彼等の犠牲のお蔭で民間人の犠牲者を出さずに停電等の最小限の被害で済んだと言っても過言ではない。


新・武士道―いま、気概とモラルを取り戻す
歴史から消された日本人の美徳―今蘇るこの国の“心の遺産”とは
指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく

この大切な事こそ焦点を当てて報道すべきなのに、アイスクリームが溶けたとかの、くだらない事ばかりを放映している情けない現状であった。

 一方、この尊い犠牲に対し、当時の防衛庁長官をはじめ空幕・入間基地司令等の上層部からは、この英雄的行動に関しては一言もなく、フォローや哀悼の辞すらなく、国民に対し卑屈と思えるほどただ陳謝するばかりであった。

 せめて、自分の身を犠牲にして大惨事を防ぐという英雄的行動をとった彼等に対し、『彼等の勇気ある行動に敬意を表し、諸官を誇りに思うと共に、使命に殉じた尊き魂に哀悼の意を捧げる』と、 犠牲者に対するはなむけの言葉としてこの位の言葉は捧げて欲しいものだった。

組織のトップにいる人のそんな声明一つで彼等の命を懸けた英雄的行動は少しでも報われるし、遺族の慰めにもなると思うのです。 又、国民に対しても、自衛官に対しても、自衛隊の任務の重大さと心意気を再認識させる良い機会であったと思うのだが・・・。
 
最近の日本人は何か大事な事を忘れている。
「自らの身を犠牲にして公のために尽くす」という事を「ダサイ」とか「古い」とか言って恥ずかしいと思っている者が多い。
私は非常に残念に思うと同時に激しい憤り感じずにはいられない。
こういう風潮が蔓延することは国家崩壊の前兆とも言えるのではなかろうか。
意外と自衛官自身もそういう事に無頓着になりがちの傾向がある。
我々心あるものが目を向けずして誰が目を向け伝えるというのであろうか!

自衛官は昨日の県警ヘリ墜落事故の事例を捉えて、せめて自分の家族に、我が身を犠牲にし、愛しい妻や子がいるにも関わらず最期まで最善の努力をして散っていった同僚がいたことを伝えて欲しい。

殉職された航空隊長守邦旺男警視他4名の方々に心から哀悼の意を表します。 合掌!

 

  
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2005年05月01日

◎軍人の宿命

jieikann最近の自衛隊はカンボジア、東チモール、アチェ、シナイ半島等世界で活躍する自衛隊となってやっと市民権を得たように思う

しかしいまもって左翼的なメディアやNHKは努めて自衛隊色を出さないようにしようとしているのが伺える。もうそろそろ「軍隊とは何だ」という本質論を一般国民レベルで知る時期が来ていると思いませんか?

 

○自衛官としての任務

かって新田次郎夫人で作家の藤原ていさんが民放TVの取材で陸上自衛隊の幹部候補生学校を訪問し、婦人自衛官(いまは女性自衛官というらしい)の幹部候補生にインタビュー をしている番組を見たことがある。

 

藤原ていさんは敗戦後満州の新京(今の長春)から3人の幼子を抱え、女手一つで北朝鮮を経て韓国に至るまで筆舌に尽くしがたいご苦労をされた体験を「流れる星は生きている」という小説に書いてベストセラーになった方です。


流れる星は生きている
国防
日本を護った軍人の物語―近代日本の礎となった人びとの気概
闘将伝―小説 立見鑑三郎

戦争の悲惨さを肌で経験している彼女が、大学を出たばかりの22・3歳の幹部自衛官としての教育訓練を受けて間もないリクルートの娘さんたちに「戦争とは何だ」とか、「あなたたちは目の前にいる恨みもない妻子のある敵兵を撃ち殺すことが出来ますか?」と追求していた。

それに対し若い幹部候補生は「はい、撃ちます」と戸惑いながら答えていたのが妙に虚しく聞こえ、一昔も前のことなのに鮮烈に脳裏に残っています。

幹部候補生にとっては自衛官としての使命感から答えたのであろうと思うが、もし私が上司であったなら別な答えを教えていただろう。
たとえば「その立場にならなければ確信を持って言えないが、撃つことが私の任務であるならば、任務を全うしようと努力するでしょう」と・・・。
「国防という使命」のまえに人間の心を押し殺してしなければならない行為があると言うこと。

○『国防が崇高な任務と言われる所以は?』
自衛隊の式典に参加すると必ず来賓の挨拶の中に「国防という崇高な任務を有する自衛隊は・・・」という言葉があります。

ところで 貴方は国防が崇高な任務と言われる所以を考えたことがありますか?
人間にとって、命を捨てると言うことは一番いやなことです。
しかし軍人はいざとなったら家族も何もかもを犠牲にして、与えられた任務に従って国難に立ち向かわなければなりません。しかも常に最前線で敵と対峙しなければならないのです。

一般国民は自分たちの一番いやな仕事を、やりたがらない仕事を自衛官の皆さんに頼んでいる。
悪く言えば押しつけているのです。
そして皆さんはそれを契約という形で受け入れているのです。国民は自衛官の任務は大変な仕事であると認識していなければなりません。
だから自衛官の任務に大義名分をつけて、自衛隊の任務は尊い犠牲的精神を発揮し、お国を守るという崇高な目的のために存在すると言わざるを得ないのです。

一般国民に自衛隊の国を守ると言う任務を軽視させてはいけないし、また自衛隊は国民の期待を裏切る行為は許されないのです。

「軍隊とは命を棄てることを国民に約束した特異な任務を持った集団である」と言える。
命を懸けない任務は「収入を得るためのただの仕事」なのです。

そして自衛官も一般国民に出来ないことをやっているという自信と誇りを持って、「俺たちは国家国民のためにいざとなったら命を棄てる覚悟がある。これは我々にしか出来ない任務である」と自画自賛をして自分を精神的に追い込まなければいけないのです。

間違っても「いざとなったら俺は逃げるよ!」なんて冗談は言ってはいけないのです。

  
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2005年04月25日

◎ 『旧日本陸・海軍の遺産』と自衛隊の継承

明治以降大東亜戦争の敗戦まで近代国家のカナメであった旧日本軍には勝っても負けても輝かしい軍歴があるのですが、自衛隊は警察予備隊発足当時から旧軍とは一線を画しており、香港攻略戦の歩兵第二百二十八連隊、または拉孟守備隊の歩兵第百十三連隊の流れを汲む普通科○○連隊というような絆はありません。

 

東郷元帥多感な少年時代に「戦後民主主義教育」の強い影響を受けた防大1・2期生は戦前と完全に決別することを要求され、新しく生まれ変わった組織を強調するあまり旧軍を否定的に見てきたからではないだろうか。

    

今の自衛隊にとって必要な伝統の幹の部分は「旧軍からの血の遺産(戦いの歴史)」の継承である。

韓国・北朝鮮は日本の敗戦により植民地の地位から解放され独立したとき、民族の血を流すことなく、真正面から日本に戦いを挑んで得た独立でなかったがため、今も国の歴史を語る時、苦しさを覚えているのである。

 

韓国・北朝鮮にとって国家存立のための戦いを日本に挑まなかったことは、あの執念深い民族性が、特に知識人といわれる階層のプライドが許さないのです。だから日本の皇族を拉致した内容のものや、日本との戦いをテーマにした小説がベストセラーになり、日本文化をこき下ろしては溜飲を下げているのです。


坂の上の雲〈1〉
大東亜戦争への道
新・地球日本史―明治中期から第二次大戦まで (1)
世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第5巻〉すべての戦歿者に捧げる
世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第3巻〉大東亜戦争の秘話
世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第1巻〉満洲事変と支那事変

自衛官は「国家の戦いの歴史」を継承することが国造りの精神的支柱になることを自覚する必要がある。
それは国防に携わるものとして、一般国民と取り組み方が違うのは至極当然なのです。
 
4・5年前の話になるが、発売からわずか四か月で五十万部を突破した話題のベストセラーにマンガ家の小林よしのり氏の『戦争論』がありました。その後「戦争論2・3」を書き上げベストセラーとして売り上げております。

これらはまさに硬派のコミック本であり、反日的勢力から見ると、いわゆるアブナイ本の一種です。
ところが下は中学生から上は七十代、八十代のお爺ちゃんお婆ちゃんが愛読者でした。

この本がなぜ広範囲の読者層から支持され、話題の書として多くの評論家から議論の対象とされているかを考えてみると、戦争の「暗の部分」と「明の部分」に真正面から取り組んでいたからであろう。

つまり我々にとって、純粋に痛快な気持ちにさせる勝ち戦と民衆の犠牲を伴う負け戦を真正面から取り上げているからであろう。

そして、政治的配慮から良くあるように不自然に事実をネジ曲げていないから、素直な気持ちで読むことができ、いま人権と権利ばかり主張して責任を問われない社会的風潮の中で、『個を押さえて、公のために尽くす、やせがまんの精神』に新鮮さを感じ、その主張に共鳴を覚えていたのかも知れません。

時代は人権・環境・男女共同参画問題を隠れ蓑に大きくヒダリに行きつつも、これではいけないと思っている人達が、着実に育ってきている証拠と見ることができるし、ヒステリックな戦争アレルギーが通用しなくなってきてもいることは小林よしのり氏たちニューライトの人たちの主張が国民に受け入れられてきたということである。

いま中国・韓国の反日暴徒たちの騒いでいます。
「新しい教科書をつくる会」のつくった教科書に対して、相変わらず朝日新聞を中心とする反日勢力とアジアの覇権を握ろうとする中国、そして相変わらず懲りない事大主義の韓国・北朝鮮が中国と連携して、日本の主権でもある教育問題に内政干渉してくる。

日本の総理は「次の世代を背負って立つ若者に対する教育に口出しは許さない!」とどうして言えないのだろう。
ビシッと跳ね付けないからいつまでも外交カードとしてつかわれるのです。

いつの時代からか旧日本軍の諸行はすべて悪であり、勝ち戦を語る事はタブーとされる風潮が一般化した。
イラク派遣や東チモール・アチェへの災害救助ですこしは自信をつけてきたようだが、相変わらず腰がひけていて士気の鼓舞のための勇壮な話はしづらいようです。

日本軍の戦闘については、負け戦についてはよく分析をし、負けた原因についての教訓事項を導き出すのが通例である。
これは幹部にとっては表芸ですから大事なことですが、一般の隊員にとって、もちろん幹部にとっても負け戦より勝ち戦のほうが好きなはずです。

昔自衛隊の学校で戦史の教官が講談師のように口角泡を飛ばし、状況に入りタタン・タン・タンと机をたたき、「○○戦いの一席」をやるので、学生は戦史の時間を楽しみにしていたとのことです。

妙に教訓じみた精神教育より自分たちの父親が、祖父達が青春時代に命をかけて、純粋な気持ちで国家のために戦った事実を知ることは、国防に携わる者や心ある一般国民でも胸を熱くするものです。
 
アメリカ海兵隊のガイドブックの前段部分には、戦いの歴史と海兵隊員として継承すべきモラルが載っております。アメリカの国威発揚の手段として海兵隊がいかに戦ってきたかを紹介しているのです。もちろん「北京の五十五日」で有名な義和団の乱(北清事変)に参戦して大活躍した戦史も載っております。

まもなく日本海会戦勝利100周年(5月27日)がやってきます。
なぜ日本はロシアと戦わなければならなかったか。
当時の世界情勢はどのような状況であったのか、中国は?朝鮮は?アメリカは?イギリスは?
日本の若者が血を流し、世界最強といわれたロシア陸軍を破り、世界に名だたるバルチック艦隊を全滅させたことにより、これが世界中の植民地解放の発火点となり、次々と起こる植民地闘争に白人国家は驚愕したのである。

これ以後アメリカの危機感からたてられた国家戦略「オレンジ計画」で、日本は追い詰められ、結果的に大東亜戦争に突入せざるを得なかったとは言え、日本が世界に与えた歴史的価値は誇るべきものであると思う。
この際、学校で習わなかった明治以降の近現代史を勉強してみませんか!

  
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2005年04月23日

◎旧軍に対する誤解を解く

我々が旧軍を批判するときによく言われるのが、日本の軍人は「捕虜になるぐらいだったら死ね!」と言われ、多くの軍人が無駄死をしたということがある。

今回は何故そのようなことになったのか検証する。  

 

石昭和16年1月に東条英機が出した戦陣訓がある。

この中の本訓其の二の第8「名を惜しむ」に生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と言う一節があり、この「生きて虜囚の辱めを受けず」だけをとらえ拡大解釈をして、敵の手に落ちるときは死ねということが強調されてしまったのである。

 

 では、なぜ戦陣訓というのが出たかというその背景を考えてみる。

日本軍が、世界的に評価されたのは、1900年の北清事変(義和団の乱)に義和団を制圧するために出兵したときのことである。

このとき日本と欧米の8カ国が出兵し、欧米の兵隊が略奪行為や泥棒みたいなことをして、北京市内を荒らし回っていた。


新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論
新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論 (2)
新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉
日中戦争知られざる真実―中国人はなぜ自力で内戦を収拾できなかったのか
南京事件「証拠写真」を検証する

日本軍は、近代国家として始まったばかりということもあり、国際条約にも、軍律も非常に厳しかった。それによって、イギリスの新聞で「日本軍はすばらしい。これだけ軍律を守れる国は世界にも数えるぐらいしかない」などと書かれ、このときの日本軍の軍律が一級品と評価され、日英同盟の締結の大きな要因ともなり、世界中からも高い評価を受けた。

しかし、支那事変が起きて長期化していくうちに、段々と軍律は乱れてきたので引き締めの
意味も込めて戦陣訓が出された。
また、支那軍(中国軍)は、昔から民族性もあり、残虐な行為をする軍隊である。
日本軍と支那軍が戦っているときに、日本軍の捕虜は、かなり無茶苦茶なことをやられたのである。
学校の教科書に載せられていた支那婦人に対する残虐な処刑は陵遅の刑(りょうちのけい)と言って伝統的な中国の処刑のやり方であり、日本兵がやったことにすり替えた。日本人には乳房をえぐり取る発想はない。『支那民族性の解明』池田正之輔著に詳しい。

また『ワイルド・スワン』に共産党員が地主の女性達を強姦したあげくに乳房を切り落とす場面が出てくる。

彼らのやり方は生きたまま顔の皮をはがされたり、耳を削がれたり、目を刳り貫かれたり、鼻を削がれたり、手足を切断されたりしていたのである。もっとひどいのは首かせをされて宙づりにされ、自分の体重で首から抜け落ちるまでぶら下げられたりした。

支那軍が日本人街を襲った通州事件では、束にして鼻や手をぶち抜いて針金を通したり、女性を逆さ吊りにして股間に異物を突っ込んだり、妊婦は腹を裂いて赤ん坊を出したりしたという証言もある。支那大陸ではこれらが通常の姿であった。

それで日本軍としては、あまりにも残虐すぎる支那軍のやり方を見て、捕虜になってあんな無惨な殺されかたをされるのだったら、いっそうのこと腹を切ってでもその場で死んだ方がましだというところから「生きて虜囚の辱めを受けず」が強調されたのである。

軍人として人間としての尊厳を守るための教えでもあったわけです。
戦陣訓は、戦場道徳を守りなさいというのが本来の趣旨だったのが、その一部分だけが突っ走ったのが現実である。
その一部分だけを捉えて戦陣訓はどうだったとか、軍人勅諭はどうだとかの批判をすべきではないのである。
我々が日本の色々な問題を考えるときに、とかく言葉じりだけを捉え批判する傾向があるが、本来何を言いたいのか、本質的なことは何だろうということをしっかりと読みとることが大事だと思う。

  
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