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 あなピグモ捕獲団の『メメントモリ』を観て、いろいろと考えたことを書いて頭の整理をしておこうと思う。まずタイトルのメメントモリとは、確か「死を思え。」というような意味でペストやなんかが流行って人がバタバタと死んでた中世のヨーロッパで人気の言葉だったと記憶している。死を考えることで生を充実させようというような標語だったか?いやまぁ俺の記憶だからそうあてにはならないが…

 数年前、十二指腸潰瘍がこじれて穴があき腹膜炎を起こしたのだが、それはもう腹が痛くていたくて死ぬかと思った。その時身に沁みて知ったのが、人は死に直面すると抗いようもなく生きようと考えるものなんだということだった。その頃の俺は、まぁ、いろいろあって相当やさぐれており、もう死んだほうがマシだとか、いつ死んでもいいやみたいなことをうそぶいていた。しかし、痛みと熱で悪夢にうなされ、いざ死ぬかもしれないと痛烈に感じた時、とっくに家族に疎まれ見放され、経済的にはあてにもされていない俺なのに「今、俺が死んだら生命保険も解約しちまったし、家族に1円も残せない。こんなろくでなしで稼ぎが悪くても、生きて仕事してれば家に幾らかでも金を入れられるじゃないか!それは彼らにとってもプラスになるはずだ。」という取って付けたような言い訳を捻り出して、生きた方が良いと結論し、翌日手術を懇願してのうのうと生き延びたのだった。そういうわけで俺の中ではこの一夜はまさにメメントモリだった。死ぬほど生きろ!と言われてもそんな根性も取り柄もない俺は、死ぬほどの病気になるしか能がなかったって訳だ。ぐぬぬ...

 一度目に拝見した時、楓、椿、椚(ちょっとうろ覚え...)の三人が死んでいるというところからお話しが始まったので、死後の世界が描かれているのかと思ったが、どうも考え違いをしていたようだ。「死んでる」がどうしても「死んだように生きてる」に思えて仕方がなかったし、二回目を観終えて、これはエヴェレット理論の多宇宙世界を描き出したものではないか?!という印象を得たからだ。しかし、実を言うと俺はエヴェレット理論というものがどうゆうものだか詳しくは知らない。なんとなくこんなもんらしいという知識があるだけである。まぁ、俺の知能は、高度な物理学の理論を理解できるような上等なもんじゃないんだから仕方ない。まぁ要するに、その時その時の無限にある選択の結果、宇宙は確定する訳だから、選択の数だけ宇宙が存在し得て、同時並行に宇宙がたくさんあるんじゃない?というようなもんだと俺は勝手に理解しているんだけど。

 だから、劇中、少なくとも二つの宇宙が様々に時間をズラして描かれていたように思う。ひとつは楓、椿、椚が生きていて、柊が死んでいて、柊の弟から姉の死を聞きノートを渡される宇宙。ともう一つは楓、椿、椚も柊も生きていて四人が東京ドームでコンサートをし柊の弟がその舞台を楽しみにする宇宙。前者の方がより具体的に分量も多めに描写されていたので、こちらが現実だろうと俺は思っていたが、はて本当にそうなのだろうか。後者の方は、世の中そんなにうまくいくわけないよとか考えがちな俺からするときっと見果てぬ夢の世界で非現実な妄想なんだと決めてかかっていたが、いや本当にそうなのだろうか?あまりにも、あらゆる身体が複雑に絡み合い、やけに美しく力強かったから。

 俺が明日の正午に東京にいる確率は、今現在。ゼロではない。明日は休みだし新幹線や飛行機のチケットを手配すれば全く不可能ではない。しかし、刻一刻とチケットの手配やなんかをしないという選択を続けるならば、明日俺が東京に居る確率はどんどん減少する。逆に今すぐにでもネットでエアチケットを検索し始めれば、俺が明日東京にいる確率はぐんぐん上がっていくだろう。何が言いたいかというと今この時、未来はまだ確定されておらず開かれていて、つまりは俺の欲望や意志によって変えられ得るということである。ポパーさんはこういう状況を宇宙は開かれているとおっしゃって『確定性の世界』という本にそう書かれている。

 俺がこんなことを考えるのも、俺にエヴェレットの多世界解釈を教えてくれた人がこんなことを言っていたからだ。「俺が生きてる世界では、あいつが癌で死んでいるが、あいつが生きている世界では俺が癌で死んでいるんだろうな。」本当にそうかどうかは俺にはわからない。しかし、まぁそんなこともあるのかもしれないとは考える。過去のある時点でその人とご友人が異なる選択をしていたら、そんな世界が生じている可能性を否定出来ないからである。しかし、過去の選択は変えられない。過去はもう確定してしまっていて、今、現在はその過去に基づいた新たな選択をし続けるしかない。そして、その選択の結果、未来が、今になり、あっという間に確定して過去になって積み重なっていく。

 もしも俺がもう少し若かったら、「俺は刻一刻、俺の未来に関わる選択を迫られているのか!」などと考えて焦ってしまっただろうが、今や不埒な欲望が減退し、自分がどうなりたいとか、誰かや世界をどうにかしたいとか思わなくなった最近では、「はは〜ん。宇宙の成り立ちとはそういうものなのか…」と何となく腑に落ちたりするのである。老化したということなんだろう。そう言えば劇中、年老いた楓、椿、椚のそれぞれが東京ドームに行かなければと思い立つシーンがあったが、あれはきっと見果てぬ夢の世界で起きなかったことに執着し妄想しているのではなく、現に起こった事実がフラッシュバックしたのだと俺は解釈している。

 だから、大志などもとからなく不埒な欲望も体力とともに衰えたこんな俺でも、日々ちったぁマシな選択をした方がいいなという気になった。やはり、ボケた時に夢想や妄想より愉悦や快感のフラッシュバックを体験したいと思うからだ。それで、こんな俺がする選択は、ともかく魅力的な女性は口説こうというものである。こんな俺なんだから相手にされないのは当たり前なんだし。そういえば、やらないで後悔するよりもやって後悔したい!というある人の名言もあった。

 思えば、現実には起こらなかったけれども、起こってもおかしくなかったことをその場に立ち上げる事ができるのも創作の力である。俺はその場に居合わせ何かを体験して、慰められたり、悲しくなったり、グッと来たり感激したりする。しかも、こんな訳のわかんない理屈を考えつくのである。俺が、少女漫画っぽいなと感じたのは、おそらく...夢も希望もない厳しい現実と儚い夢のような現実を同時並行の多世界として描き出し、「だから、まだまだ生きてみようぜ。」と突きつける感じがとても繊細で優しくエレガントだったからだと思う。

 ん?いや待てよ。俺は納得いかないことには、いったん抗ってみる主義だし、パブロフの犬のように外界の世界から条件づけされた倫理や道徳や責任みたいなものに反応して押し潰されがちな質だし、あの頃の俺は、箱に入れられラジウムのアルファ崩壊によって放出された青酸ガスを吸って死んでしまうかも知れない生と死が確率的にしか記述されないようなシュレディンガーの猫のように刻一刻、生と死が重なり合う状況に身も心も引き裂かれていた。もしかして、死にそうな病気になった原因があんなことやそんなことだったとしたら、俺も案外、死ぬほど生きていたのかも知れない...そう気づいたら、なんだか嬉しくなってきて、また生きてみようと思える。しかし…と言うことは… 俺は、魅力的な女性とみたら、死ぬほど口説くしかないという事になるが果たしてそれでいいのだろうか?

 ともかく、福永さんの三人の女優さんに対する二十年分の感謝というか愛というかそういう想いを感じたし、あるいは、どこかで別々の世界に行き違ってしまった誰かに対する想いも含まれていたのかもしれない。あなピグモ捕獲団のみなさんがどんな野望を抱いて東京に赴かれたのか、そしてまた、どんな思いで福岡に戻ってこられたのかを俺は知らない。だけど、こうして毎回素晴らしい公演をこの福岡で観ることができるのは、俺にとってこの上ない悦びである。光も音もダンスも台詞も演技もみんないいのでいちいち書けない。次回公演を今からとても楽しみにしている。皆さまぜひまた、よろしくお願いいたします。

Mahalo