Itoshima Diary

福岡の糸島半島に住む糞じじいの胸のうち…

November 2012

2e1d3ad0.jpg



この世は深い、
『昼』が考えたよりもさらに深い。
この世の嘆きは深い―
しかし、よろこびは―断腸の悲しみよりも深い。
嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。
しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ―、
深い、深い永遠を欲してやまぬ!

とツァラトゥストラは言った。



前回の3月公演を観た後、あることがあって、わたしは深い、深い、悲しみに沈んだ。もちろん、公演とは関係がない。個人的な出来事である。それがどういうことだったかは、ここには書かない。どこぞの知らないおっさんの胸の内を覗いてみたいと思う者はいないであろうからである。

桜の咲きはじめた前回公演の頃は、深い悲しみへの途上にあった。観終わった後、すこし元気になったように思う。あの時も感想文を書いてみたが、最近ニーチェさんの「悲劇の誕生」という本を読んで、あれはギリシャ悲劇だったのだなぁ…としみじみ思ったのだ。

ニーチェさんによれば…ギリシャ悲劇とは、人間が文明を持ち始め共同体が大きくなるにつれて、ひとりひとりがバラバラに分離、個体化されることによって生命力を消耗し弱っていくのに抵抗するため、年に一度、劇場全体がディオニュソス的な秩序壊乱、混沌、狂気のなかで混然となり溶け込むように生の根源に触れながらも、溶けて無くなる寸前に個体として戻ってくるというギリギリのアブナイ営みだった。前回のメロスは、ニーチェさんの説明にピッタリ当てはまっていた。もちろん、音楽はサチュロス合唱隊による合唱ではなく、AKB48のデジタルサウンドではあったけど。

なかなか、本題に入れなくて申し訳ない。だが、舞台芸術になんの専門知識もなく、これといった感性も持ち合わせていないただのおっさんが、天才山田恵理香氏からなにか書くこと求められたら、分析や批評ではなく、「走れ、メロス!」を観て、ライブや演劇をみては泣いている変なおっさんがどう感じたか、「走れ、メロス!」という演劇がよろよろ歩いているただのおっさんをどう動かしたかを書くより他はないと思ったからである。それで、今回の新生「走れ、メロス!」をみるに至るまでの状況というものに触れざるを得ないというわけだ。もう少しだけ辛抱して欲しい。

まぁ…そんなわけで前回のメロスを観た後、おっさんは多少持ち直したかに見えた。しかし、現実はいや自然は残酷である。今回の震災をみればよくわかる。人間のことなどお構いなしなのだ。自然の猛威はおっさんを容赦なく襲う。おっさんはたじろぎ、これに何とか抵抗しようとするが、ちっぽけな個人の意図で自然を制することなどできない。人によっては運命とか流れなどと呼ぶものかもしれないが、ちょっと変な人であるこのおっさんは簡単にはそんな流れに乗れない。諦めが悪いとも言えるし、頭悪いし、だからある意味狂気を帯びているとも言える。

おっさんは混乱し自分の内から湧き出すエネルギーの出し方も間違えてしまった。退院後徐々に体力が回復し、体内から生じるエネルギーが増大するにつれて、なんと自分のエネルギーを使って自分の内臓である十二指腸を攻撃し始めるのである。十二指腸潰瘍が再発した。通院と投薬で大事に至る事はなかったが、このままでいい訳がない。おっさんはどうすべきか考え続けた。たいした思考力のないおっさんは、書物に頼った。自分の頭で考えることができないから、他の人の頭を借りるよりなかったわけだ。「アンチ・オイディプス」を読み、ニーチェさんに至った。それで、冒頭のツァラトゥストラの詩になるのである。


では、新生「走れ、メロス!」が、変なおっさんにどう機能したのか?このわたしにどう役に立ったのか?やっと本題だ。


一言でいうと、頭の整理になった。難解といわれる哲学書を読み耽って得られたイメージの数々がそこに存在していたからだ。

人も物もあるエネルギー体であること。言葉が人と人とを繋げるというよりは支配しようとするものであること。支配するもの(システム)の道具であること。音楽は、人間に世界を直截に把握させるということ。人間は視覚に縛られていること。個体化する時に視覚に頼ること。時間はデジタルだが、それを意識すると身がすくんで容易には動けなくなること。移動しない旅があること。その場にとどまり走り続けること。

というようなことが、舞台の上で物象化されていた。頭の中でイメージしていたことが具体的な形になってそこに現れていた。



すごいライブでは歌詞が意味をなさなくなる。聞こえているのだけれども意味がわからなくなっている。それでも涙が溢れてくる。何かに反応している。

声になっていない台詞、言葉になっていない台詞、変な発音の台詞、変な言い回しの台詞、まともな舞台俳優調の台詞。いろんな台詞が出てきて、わけわからないものほどグッときた。こころに刺さってくる。支配のシステムに回収されていないからだろう。

役者さんたちの動き。大変だったと思う。特にメロス役の方。とてつもなく過酷な身体の使い方だったようにお見受けした。山田恵理香氏はとんでもない暴君だ。

ノイズ。確かに現代は雑音だらけだ。だが、やはり…悲劇には世界そのものを直感させる音楽が必要だと切に思った。

だんだん、文章にならなくなってきた。
今回のメロスは、私にとってギリシャ悲劇ではなかった。むしろ、喜劇的だった。観劇中何度も笑いを押し殺した。特に、メロスとセリヌンティウスが殴りあって抱擁するシーンで十字架の陰から盗み見るように覗く王様の表情は最高だった。そんなわけで観劇中はとても楽しかったし、元気が出たような気もした。

わたしには、舞台が黄金色に見えていた。
時間が流れているのか、いないのかわからないような。特に最後のメロスが羊たちと戯れるシーンは、永遠に続くかのような気がして、その時はそうでもなかったのだが、いま思い出すといたたまれない。牧歌的なのどかな風景のはずなのだが…わたしは戦慄する。おそろしいものを感じる。死のイメージなのか?

荒涼として、風が渡り、藁の匂いがする。開かれた恐ろしさ。放り出された恐ろしさ…
アフタートークで山田恵理香氏が語った。「おそろしさを背負って走る。」ということなのか?
このまま、わたしは走り続けなければならないのだろうか?もう、随分とくたびれ果てているのだが。体力も消耗し、免疫力も落ちた。抗生剤やステロイド剤を飲みながら、溶けていく耳の形を保っているのに。しかし、泣き言を言っても始まらない。いたわってくれと望むのは奴隷根性だ。潔く受けて立たなければいけない。

いま、文章を書いてみて気がつくこともある。
私は舞台を高みから見下ろしていた。そこに溶け込むことはなく冷ややかな目で見ていた。今回はどうもそうしてしまった。私のこころにはバリアが張ってあるのかもしれない。エヴァンゲリオンでいえばATフィールド。今回の「走れ、メロス!」はそれを突き破ってはくれなかった。強度が足りなかった、私を引きずり下ろして、混沌に巻き込み溶かし消し去るにはエネルギー量が足りなかった。永久凍土のように冷たく堅く汚く凝り固まってしまった私の魂を振動させるには、もっと破壊力を持ったエネルギーを浴びせる必要があるのである。私という個体を爆発させる必要がある。

シンプルな舞台でこの複雑で理由の分からない世界を描き出している山田恵理香氏の手腕は凄い!の一語に尽きる。好みでもある。だがやはり、さらなる強度が欲しい。
どうか、わたしに魂の救済を!


っていうか、「お前の魂の救済?」そんなのお前が自分でやれよって話しですよねぇ〜
ただの愚痴や病状の告知にしかなってなくて申し訳ない。ただ、書いてみたらこうなってしまった。だが、こんな文章からでも自分に必要なものを必ずや見つけ出すのが、天才山田恵理香氏である。そして、またとんでもない劇を立ち上げてくれる。

次回も楽しみにしてま~す♡(^o^)/


Mahalo

という文章を丸二日かけて書いて推敲してたら、なんかもうあらゆることがどうでも良くなってきた。自暴自棄というのでもなく、諦観というのでもない。もしかしたら、これがまんなか50なのかな?
さっき、狭〜い便所に入ったら
「世界がどうなろうが関係ねぇ〜や。俺は俺でしかない。この狭い視野の中でベストを尽くして、おれ固有のある振動数で震えてるしかないんだ。」
と思った。これは許しなのか?救済されたのか?これでいいのだろうか?

だが、まぁ…今はもうこれでいいかな。


1cec5199.jpg


先週は「うまうまかき揚げ丼セット」を食して、大変美味しくて喜んだのだけれども、食後の膨満感が半端なく、相当苦しくなってしまったので、今日(この文章を書くのに時間を要したため、今この推敲の段階では既に昨日)は「かき揚げうどん」なんと!390円にした。それにしてもお安い。十二指腸潰瘍の手術後あまり食べられなくなった私にとっては、ボリュームもちょうどよく満足。それになんともカラッとパリっと揚がったかき揚げのころもをつゆに浸してジュワ〜バリバリっと頂く食感&味わいが最高!

そんな、かき揚げうどんが出来てくるまでの数分間、ぼんやり一人でカウンターに座っているうちに、私の意識は立ち働いている店員さんたちの動きや表情に吸い寄せられていった。カウンター越しに斜め右に見える男性は50代後半、見るからに真面目で実直そうなおじさん。いやもしかしたら60を越しているかもしれない。きっとバブルの頃にはどこかの会社でサラリーマンをしていたはずだ。今はうっすらと額に汗を浮かべて休む間もなく手を動かしている。いや手だけではない。身体全体が動き続けている。

正面には少し線の細い自己主張とはまるで縁がないような存在感の薄い50代中盤の女性、この方も以前は事務職に就かれていたような気がする。お二方とも、なんと表現したらよいかわからないのだが…なんともイイ表情をされている。仕事の忙しさにも緊張でこわばることなどなく、かと言って慣れでだらしなくなることもない。そう言えばお二方ともメタルフレームのごく当たり前の眼鏡をかけてらっしゃる。ただただお二人の表情に引き込まれる。

ふっと気を抜いている間に、店員さんたちの位置が入れ替わり私の正面には60代のカラっとしたハッキリした印象の女性が…そういえばさっき彼女はわたしの注文をとってくれたんだった。彼女はオーダーされた料理を作る場所に向けて微妙に身体の向きを変えながら、うるさくなくそれでも恐らく適確に聞こえるような大きさの声で注文を読み上げている。彼女の身体の向きを追うとカウンターから見て左側の少し奥の方で、こちらは明らかに60を過ぎたおじさんというよりもおじいさんという方が適切かもと迷うぐらいのどこか恵比寿さまのような面持ちのおだやかな風貌の男性が天ぷらを盛り付けている。その動作のテンポは50代の男性よりも少し遅い。でも、見ていて心地良いリズムを刻んでいる。

表情、動き、リズムとテンポ!そう思って店内を見回してみると、店長と思しき30代の男性以外はみな50歳代以上ではないかと。店員さんたちは店長を含めて6人。男性は30代の店長、50代の男性、60代の男性のという感じの3人。女性は眼鏡をかけた50代の女性、眼鏡をかけていない50代の女性、60代の女性の3人。その時店内にいたお客さんはざっと20人くらいだから、店員さん1人でお客さん3人の面倒を見ている計算になるわけだが、資本主義経済的にこの比率で効率がいいのか悪いのかはわたしにはわからない。というか、そんなことは知りたくもない。この仕事場はどうにも心地いいのだ。

6人全員が一瞬たりとも動きを止めない。それぞれのリズムとテンポで泳ぐように滑らかに移動してゆく。しかめっ面でなく、でも、にこやかというのでもなく。その表情は、ちょっと大袈裟に言うならわたしにはとても「貴いもの」に感じた。誇りを持って仕事をしている表情などと言って既存の言葉にしてしまうとまったく陳腐なことになる。おにぎりの皿にお漬物を載せてカウンターに、ワカメをうどんの入った丼に、厨房の奥へ、うどん玉を鍋へ、精算のためにレジへ…彼らは緊張も気負いもなく淡々と流れるように動く、しかもそれぞれの動きが邪魔になることなど全く無く、それらはハーモニーを奏で、より美味しいうどん、より高位の迅速かつ丁寧なサービスに結実する。

うどんのウエストは、うどんその他の食事及びそれらを提供する際のサービスを生産する機械である。彼ら6人は、うどんのウエスト機械の部品なのだ。彼らはそれぞれがそれぞれの作動原理にしたがって作動し、接続し、離接し、連接することでうどんやサービスを生み出してゆく。個々の部品(=彼ら)同士はまったく無関係かつ独立であるにも関わらず、それらがある上位の原理によって統合された時に、全体として「うどんのウエスト機械」が誕生し、まったく考えもつかないようなことが起こる。機械とはそんなものである。

それにしても店員さんたちがとても羨ましく思えた。彼らを観ていると、「部品だから嫌だ!」じゃないんだなってことが痛いくらいにわかった。彼らのような部品になら、私もなりたいと感じた。どうしたら、あんなに質の高い貴くも感じられる部品になれるのであろうか?意図や意識の問題ではないように思う。こんな調和はもっと個々人の奥深いところから生じていて、そこのところが変わらなければ、我が身には訪れないような気がする。

ところで、個人の身体もそれはそれで機械である。私の場合で言えば「くう」機械。様々な部品から構成されている。そして身体には、器官、細胞、タンパク質、分子…といった、階層をなして接続、離接、連接している無数の部品が存在する。しかし、この話しはまだまだ粒の粗い局面での様相である。この局面では、部品としての気品や貴さを生みだす何かが実在する奥底にはまだまだ届かない。どうやればそんな性能を有した部品になれるのか?その答えを見つけるためにはもっと細かい粒の世界に踏み込む必要があるのではないか?



先月、山田うんさんのソロダンス「ディクテ」を見た。見たというか浴びた。
そこに存在していたのは、通常の言葉であれば人間という身体に精神を備えた動物というような物理的な存在のはずなんだけれども、わたしには、山田うんさんが光の玉に見えた。それは、様々に形を変え、動き、色彩を変化させる。空気を震わせ音まで発する。あるテンポで、リズムで躍動し、不意にスイッチしては、また違うテンポやリズムを刻む高出力のエネルギー体。


ひとりの女は、何かの形象を形成するものなのではない。ひとりの判明な定義された人物ではない……。女は、空気の奇妙な快い振動であり、彼女は無意識のまま気づかれることもなく、この振動に応答する振動を求めて前進する。ーD.H.ロレンス

という言葉が、公演を観る前に読んでいたジル・ドゥルーズさんの「ディアローグ」という本(そう思い込んでいたけど、調べてみたら「アンチ・オイディプス」p418でした。)の中に引かれていた。それを読んで、もしかしたら人間は父、母、夫、妻、子ども、恋人、愛人なんかの言葉で固定されたようなものじゃなくて、刻々変化して止まないエネルギー体と考えた方がいいんじゃないかと思っていた矢先に、高エネルギー体としか言いようのない「ディクテ」の山田うんさんに出くわしたのである。まったく衝撃的であった。「ディクテ」を見た後のわたしは極度の興奮状態で、夜中おそらくうなされていたに違いない。そして、眠ったのか眠っていなかったのかが判然としないまま次の日の朝になった。

それ以来、わたしの感覚はおそらく変化してきている。恐かったものが恐くなくなったり、悲しかったことが時々悲しく感じなくなったり、何かを見てもそれまでとは違う見え方がしているような気がする。感覚のために作動する私の中の器官や細胞のどこか深い層で何らかの変化が起こったのかもしれない。それほどに山田うんさんのエネルギーは高出力でわたしの身体を貫き通していたように思う。きっと、彼女のエネルギーの振動が私というエネルギーの振動に強烈に干渉して私の振動における振幅や周波数を変化させたのだ。

今までも言葉はあまり当てにならないと考えていたが、ますます大切なことは言葉では伝わらないという気がしてきた。意識できること、まして言葉にできることなどは人間関係の表層の表層である。人と人との関係は、あるエネルギー体とべつのエネルギー体との衝突で、ある時は心地良い、ある時は不快な空気の振動のようなものが生じ、共鳴しハーモニーが奏でられ至福の想いを抱くこともあれば、耳を劈くばかりの不協和音で胸が潰れる想いをすることもあるのだ。そして、それぞれのエネルギー体は無意識に振動し、そのテンポやリズムを変化させながら進んでいくのである。だとすれば、既存の秩序や道徳といったものは何なのか?!というような問題にもなるわけである。

とまぁ…分子レベルから量子・エネルギーレベルへと粒を小さくするとこんな風にさらに訳の分かんない話になる。

というようなことを美味しいかき揚げうどんを食べながら考えたのでした。うそ。本当は我慢するのは止めて食べたいものを食べようと思っただけでした。だって、いつ死ぬかわからないんだもの。


Mahalo

b632f7d3.jpg


バーベキューに使った網12枚と鉄板を洗った。
楽しいことの後には片付けがある。
「あぁ〜〜〜!メンドクセー」と思いながらもコツコツやれば、3時間で終わる。
ん?パーティーは2時間足らずだったはずだが…

あなた楽しむ人。わたし片付ける人。役割分担というものだろう。
こういう事態を耐え難いと感じるか、仕事があってよかったと感じるか、人それぞれだろうな。
さて、ぼくはどちらなのだろう?
気の持ちようではある。しかし、何も解決しない。

Mahalo

↑このページのトップヘ