ジェンダーフリー又はウォーギルトインフォメーションプログラム続編
ジェンダーフリーってバタくさい言葉、子供の頃には聞いたこと無かったのですが、今は
出席の取り方や朝礼の時の並び方も男女混合が一般的だという話を先日学生から聞いてびっくりしました。性教育も、私が子供の頃は女子生徒だけ別の教室に連れて行かれて、映画か何かを見せられていたみたいです。別に何か間違っていたという風には思わないですが。運動会の時のダンスで女の子と手をつなぐのが照れくさかったりした(実は嬉しかった)のですが、それってやっぱりまずかったので、ジェンダーフリーにして
男も女も正々堂々と手をつながなくてはいけないと(笑)。という些末なことでは無いのでしょうが、「ジェンダーフリー」ね〜。「フリー」にはなってほしくないです。
ただより高いものはないって言うでしょう(「フリー」はこっちの意味ではないですね)。バリアフリーには、私は大賛成ですけど。
最近、80年代のニューアカデミズムが大流行した時期に定着した「文化=人工的・社会的構築物=フェティシズム」論に対抗するような、あるいはその反動として、<身体>の意義を強調する論調・本が目につきます。そのはしりは、養老孟司氏の『唯脳論』だったのでしょう。そう難しいことをごちゃごちゃ言わないで、みんな誰もが持っている同じ脳を尺度に足が地に着いた議論をしましょうというのですから(脳にも性差や個人差はあるのですが、その辺は唯脳論ではどうなるのか不明です)。そのことを養老氏自身の確固たる身体を反映する簡潔で歯切れ良い文体で書いたので、『バカの壁』が大いに受けてしまったのだと思います(幼少時に漢文の素読でもしたのでしょうか)。ベストセラーを連発する斉藤孝氏や自らも武道家である
内田樹氏の最近の本(『死と身体』)も同じような<身体>の復権を訴える論調です。こうした思想の揺れは、時計の振り子のようなもの(「時代の流れ」ともいいます)で、どちらが良いとか悪いとかいうものではないのですが、「ジェンダーフリー」運動は、男女の違いは「文化=人工的・社会的構築物」だから(一昔前のボーヴォワールみたい)、人為的にどうにでも解体・改造できるという楽天的な前提に基づくものですね。私はこれは明白に間違っていると思います。ということで、日本の戦後の文化史的コンテクストの上に「ジェンダーフリー」運動を置き直した
西尾先生の著書の登場と相成ったのでしょう(追記
こちらのブログも非常に参考になります)。

死と身体―コミュニケーションの磁場
結局何が一番問題かというと、「ジェンダーフリー」の錦の御旗の下に今まで採用されてきた具体的な政策(理念ではなくて)は、結果的に日本人の伝統的な生活文化の型を壊すことに貢献してきたのではないかということです。男女の間に漠然と存在していた様々な区別を意識的に撤廃するということは、日本の中に数百年から千数百年間に培われた生活文化(=伝統)を破壊することにつながりかねないからです。何を大げさなと笑うかもしれません。その程度のことで壊れてしまうような文化は壊れてしまえばいいという意見もあるかもしれません。ただ、今まで歴史の中で出来上がった文化的な伝統を放り捨てて新しい伝統を作るためには数百年の歳月が最低限必要です。その意味ではアメリカに固有の文化はありません。ソニーがバブルの絶頂期に、アメリカのある映画会社を買収しようとした時、アメリカ人の魂を買うつもりかと一部から強い反発を受けました(それに対して、あんなものアメリカの魂かという冷めた意見もありました)。笑止千万ですね。そもそも、アメリカには、日本やヨーロッパの一部にあるような生活文化はまだ(というより永遠に)存在しないからです(笑)。留学生仲間が、アメリカは何だかふわふわした所で何年住んでも落ち着けないんだよな〜と呟いていたのを思い出します。
「ノイラートの船」ではないですが、一旦航海に出てしまっている船(ここでは、日本の生活文化全般)が、「ジェンダーフリー」論者が提唱する根本的な修理(=思想改造)を、港の中のドックならともかく、海上で航海しながら行うことが出来るでしょうか?私は難しいと思います。改革とは所詮伝統を背景にしながら、漸進的にしかできないものです。今ある慣習を全てたたき壊して更地にした後に新たに作るということはできないのです。生物は、進化の最中に根本的に作り直すことはできません。生物は漸進的に進化するだけで、根本的に作り直したら、死んでしまいます(又は、『ドクター・モローの島』のように奇怪な生物だらけになるでしょう)。生活文化も同じです。根本的な文化の作り直しなど不可能であることは、無惨な失敗に終わった中国の文化大革命やクメール・ルージュが行った虐殺を見ればわかるでしょう。生命も文化も共にシステムですから。この文化の<型>の喪失について、唐木順三が書いた覚え書を思い出しました。
これから確実にやってくる地殻変動とそれによって生じる世界の様々な文化の大津波(「冬ソナ」現象はその前触れに過ぎません)の前にシェルター代わりにもなる自らの生活文化を自分の手で廃棄してしまうわけにはいかないのです。明治維新直後にヨーロッパ諸国へ視察に出かけた岩倉遣米欧使節団が自分達より体格が優れている白人を前にしても堂々と振る舞っていたと現地の新聞が書いていますが、これは江戸時代までに培われた日本文化の型が彼らの中に生きていたからです。これに対して、ここ数年、コンビニ店前や駅のホームやモール内に所構わずヤンキー座りをしている中学生・高校生(彼らは「ジェンダーフリー」教育を受けている世代なので、男女の区別は行動には反映されません)に欠けているものは、まさにこの文化の型なのです。こんな光景を私は学生でいる間に見たことがありません。このような生活文化の型の破壊が、あくまでリベラルな「進歩主義」的装いの下に、非人称的に進む(困ったことに、推進している人々の大半に悪意はないですから)のが最も恐ろしいことだと思います。文化の型を喪失した群衆は「安心のファシズム」に進んで身を委ねる他無いからです。
欧米から見た岩倉使節団 アメリカ人が保守化してしまったのはなぜなのだという両親のつぶやきを時々思い出すことがあります。特にレーガン政権以降です。両親が米国のボストンに留学していたのは、アメリカが最も楽天的且つリベラルだった1960年代です(JFKの暗殺の報を聞いて、当時のアメリカの高校生〜私が話を聞いた人は白人女性でしたが〜は訳が分からず、悲しくてひたすら泣いたと言っていました)。ベトナム反戦運動が燃え広がり(ジョーン・バエズのLPが実家に1枚ありました)、J・F・ケネディのイニシアティブの下に公民権法案が成立した頃です。今は極左扱いの言語学者ノーム・チョムスキーも、ベトナム反戦活動家として相当な影響力を持っていました。人種差別を受けていた南部の黒人の環境改善のために、北部からボランテイアの学生が南部に向かった頃でもありました。アポロの月面着陸(真偽の程が議論されていますが)、フラワームーブメント、
シカゴ・エイト、ヒッピーイズム、ウッドストック等々、アメリカ合衆国のごく短い歴史の中で最も華やかで理想主義的な時期だったと思いますが、同時にアメリカの国力が70年代に一旦下降するきっかけを作った時代でもあったのだと後からふり返って思います。
アメリカ全体が「保守化」したのは、この時代に行われた様々な社会工学的な実験が無惨な失敗に終わったという反省があるからだと思うのです。たとえば、黒人の学生を優先的に入学させる「アファーマティブ・アクション」政策の実施によって、黒人一人一人を見れば、その制度を利用して大学・大学院に進学して活躍した人もいますが、現在アファーマティブ・アクションを利用して大学に入学した黒人学生の卒業率は著しく低い(数パーセント)のが現状です。これはほんの一例に過ぎませんが、アメリカ人が単に歳を取ったから保守化したという問題ではないのです。「バックラッシュ」という言い方も正しくありません。彼らはより現実的になっただけです。
現実的になることと単なる保守反動は似て非なるものです。アメリカの中でも最もリベラル色の強いマサチューセッツ州ボストンのケンブリッジ界隈で大学院生生活を過ごしたということが、両親のアメリカを見る目を相当歪めていたのだなと今にして私は思います。日本の「ジェンダーフリー」論者はこのようなアメリカ人の苦い教訓を学んでいるのでしょうか。あるいは、同じようなスケールの壮大な実験と失敗という愚行を日本でも周回遅れで繰り返そうというのでしょうか。
小手先の文言いじり(例:差別語狩り、ジェンダーフリーかるた)や様々なメディア操作によって、人間や社会が簡単に改良・革命できると信じている「ジェンダーフリー」論者の脳天気な人間観には呆れる他ありません。彼(女)らにとっては、「人間=善」(善意で物事を行えば、思った通りになる)なのです。実際は、「人間=善〜悪」であり、この総体を直視することが真のヒューマニズムですが、こんな当たり前のことがなぜ分からないのでしょう。
今回は「ジェンダーフリー」問題という形で表面化していますが、真の問題は、彼(女)らが持つ過度に楽天的で薄っぺらな人間観です。アメリカのキリスト教保守派のように「人間=悪」と決めつける必要は無論ありませんが、「人間=悪」の可能性を頭の片隅に入れて生きることがアウシュビッツ・ヒロシマ以降に生きる人間が果たす最低限の務めだと思います。
ジェンダーフリーを唱える人の中に社民党の党首の福島瑞穂さんがいるのですが、彼女ほど「含羞」という言葉が似合わない女性は見かけませんね。故市川房枝さんの方がよほど女性らしかったと思います。南野法務大臣はどうか、ですか.....それは回答を控えさせて頂きます。ただ、『曽根崎心中』の濡れ場に「水戸黄門」が土足で踏み込むようなものです。「頭が高い!」と振りかざした印籠には徳川家の葵の御紋ではなくて「ジェンダーフリー」と書いてあったりして。その暴力性が私には耐えられないのです。男女差別があって良いというのではないのです。ただ、全てをフリーにする(一元化する)ことは無意味であるということを分かってもらえない人には私の本文は勘違いされるでしょう。となると、やっぱり「フリー=ただ」より高くつく物は無いのですね。
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「ジェンダーフリー教育」については、テレビでその教育関係者と芸能人が討論する番組でちょっと見た程度しか知らないですが、その番組では、日頃、常識が無いといわれることの多い芸能人の意見の方が至極まっとうで、逆に「ジェンダーフリー教育」を説明する教育関係者の方
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西尾幹二のインターネット日録管理人です。
トラックバック有り難うございました。
常識を壊す運動が起きているようです。常識ある人々がまだたくさん残っているうちに、このジェンダーフリーに警鐘を鳴らして行きたいと思っています。その点、こうやってブログで繋がることは勇気がでますね。
今後もご活躍ください。
トラックバックありがとうございます。
ばかblogで大丈夫なんでしょうか?(笑)
福島瑞穂的な方々にはどうもいけません。そっちはそっちでやってればです
本文大変おもしろかったです。
トラックバックありがとうございました。
私がジェンダーフリーを知って最初に感じた疑問は、「らしさ」をなくすことが性差別をなくすことにどう繋がるのかということでした。
表層的な意識を変えただけで、深層の奥にある根本的な「らしさ」がなくなるとは到底思えません。
大切なのは、「らしさ」をなくすことではなく、「らしさ」を尊重できることですから。
TBありがとう。
多すぎるので、同じ内容ですから1つにしました。
これからもよろしく。
Tバックありがとうございました。
世の中には、「同質」と「平等」の区別がどうもうまくつかない人たちがいるようです。そして学校教育の中では、それが「名簿の記載順序」がけしからんなって言って表面化したりしてくるわけです・・・。
男女が互いを尊重することの一助に、現在のジェンダーフリーの活動がなるかと言えば・・・不可です。
TBどうもです。本文楽しく拝見させていただきました。
どうも教育の場が知らないうちにえらいことになってしまってるようで、
一児の母親としては心配なところです。
これからも拝見させていただきます。
皆様、コメント有り難うございます。万年堂さんの仰るように、福島瑞穂は運動会のダンスで堂々と手を繋いでいたんでしょうね。郵政民営化の紙芝居もそうですが、かるたなどの「啓蒙的」姿勢は実に傍迷惑ですね。運動会もどんな風に変わり果てているのか気になります。Kem37さんの同質と平等の相違、私は平等と公平性と言い換えます。プロ野球の監督でも、信頼される監督は全選手を平等に扱う人ではなく、公平に起用する人です。某さんの指摘にも全く同感です。男女の個性を削り取ることでできるのは同じ背丈のどんぐりだけでしょう(笑)。
富士山2000さん、了解です。
トラックバック、ありがとうございました、また、こちらからもさせていただきましたことをお知らせいたします。
私も書きましたが、たぶん、読むに堪えない稚拙な文章ではないかと思います。ただ「ジェンダーフリー」というものがきちんと理解されないままに独り歩きしてしまっている、そんな印象がぬぐえません。教育現場や議会などでも、賛成・反対がなされていますが、どちらもちゃんと「性別」と「性役割」と「ジェンダー」がごちゃまぜになっている(「ジェンダー」は「性役割」と訳されていますが、どうも私はこれに違和感を感じています、ちょっと、ニュアンスが違うんじゃないかと)人達があまりにも多くないかなって。
そう言った意味でも、あなたが書かれた内容、鳴らされた警鐘は、重要だと思っています。
kanakoさん、はじめまして。「ジェンダーフリー」という理念は何でしょうか。「フリー」という語感が良くないのかもしれませんが、イメージが先行して極端な例(ジェンダーフリーカルタ)が取り沙汰されてしまうと、本来の趣旨がどこかに行ってしまうという懸念はわかります。ただ、私が書いたことは、本文の冒頭でも断ったように、理念ではなく、個々の具体的な政策に関して(というよりも、ある状況で実施される具体的な政策に関してしか何か言うことは無益だと思います)あてはまることでしか無いと思います。どこかで読んだのですが、男女差がある程度目に見える形ではっきりしてくる小学校の高学年の生徒に同じ部屋で着替えをするように強制するといった措置には疑問を感じざるを得ません。実際に私が小学生だった頃は、高学年の時に、水泳の授業の前も(!)男女とも同じ教室で着替えていたのですが、女子生徒の親から抗議が出て、男子生徒だけが教室を追い出されて、他の所(理科教室だったはず)で着替えることに相成りました。私も含む男子生徒の多くは、自分たちだけが教室を追い出されたことと密かな愉しみを奪われたことに本当にがっかりしていたのですが、今思うと当然の措置でしょう。大学内でも「男女共同参画委員会」なるものがありますが、そこで出ているポリシーの中には賛成できることもあります。たとえば、学内への保育所の設置は、予算の許す限り直ちに行われるべきだと考えます。ただ、「女性教職員の割合を全教職員の25%にしなさい」(努力目標らしいですが)という通達にはどうしても納得がいきません。あほらしいと思います。女性だろうが、外国人だろうが、必要な人材であれば取る他無いからです。前任校では私が去った後は、ネイティブの英語教師を専任教員として雇っています。また、私自身、前任校では、女性教員の採用人事を推進したことがあります(土壇場で票読みが1票狂ってしまい、非常に焦りましたが、何とか成功しました)。理由は、学内の女性教員の割合を増やしたいという大義名分ではなく、その人が候補者の中でポストに最も適任だと思ったからです。工学部などは圧倒的な男社会(そもそも女子学生の割合が多くて数%です)なのに、そこに一律に「25%」などという数字を押しつけてくる文科省のバカさ加減は何とかならないものかと思います。これが「ジェンダーフリー」なら(他の名目がついていても)、お断りです。機械的にそのようなことを行うと、必ず既得権益化するのです。アメリカの大学の黒人学生(無論優秀な黒人学生も例外的にいますが)のように。私が上で書いたことは個々の具体的な政策に関してです。ただ、もし理念が理解されないという懸念があるのであれば、反対派を説得する義務は「ジェンダーフリー」論者にあると考えます。ただ、彼(女)達が行おうとしているかに見える社会的なエンジニアリングは失敗したときのつけが極めて大きいのでくれぐれも慎重にと願います。
TBありがとうございました。拙文からもリンク貼らせていただきました。
ジェンダー論に関しては全く素人ですが、「スカートの下の劇場」でクリシンに帯の推薦を書いてもらった上野千鶴子さんが東大教授となり、言論の中心にいることに、少し前とは隔世の感があります。
今やこちらが主流の言説なのでしょうね。
素人ながらにジェンダー格差については色々、考えることはあります。
小学生の頃は、利発だという理由だけでクラス委員とか級長とか呼ばれる類の役割を仰せつかりました。決まって男子が(正)、女子が(副)なんですよね。
学級会も(正)が司会、(副)が書記だったりすると、「たまには代わってくれ、なんで男だけこんな目に遭うんだ。」なんて思ってました。
一方で、教育を経済学的に人的資本投資としてみた場合、今の連れ添いとは、同じ大学、学部です。(当然、成績は向こうのほうがよい。)
同じ投資効果を生むはずが、こちらは生意気にいっぱしのビジネスパーソンを気取り、片や専業主婦という「非生産的」身分に落ち着いているのは、やはり社会が男中心に回っているということであると、痛いほど感じています。
身体論へのゆり戻しの解説には目から鱗です。
最近、すっかり養老さんから内田先生に移り、オニババに至った自分の思考経路がうまく整理できました。
思い出すのは、たしか吉本隆明の批評だったと思いますが、「どんなに優れた恋愛論も、ひとつの恋愛には及ばない」というフレーズがありました。
この言葉に出会って以来、頭でのみ考えるより、行動や経験、身体での体験を重視して来た自分を思い起こしました。
TBから返信遅れました。
すいませぬw
確かに欧米の流れでの話しだとおもう。
BLOGにも書いたが男女の差異と差別はごっちゃにしてはいけない。
しっかり区別して欲しい。
なに事も中庸が肝心で、やれジェンダーフリーだ、やれ日本の伝統だ
とは言わずにいいとこどりできる柔軟な思考を養っていきたいと思う。
maubaさん、こんばんは。実は「ジェンダーフリー」なる概念、日本でしか通用しない和製英語だって聞いた覚えがあるのですが。プロ野球のナイターってアメリカ人には通じないですよね。とにかく今ある秩序を破壊するお祭り騒ぎに夢中で実際に下位のものが上位の王座を簒奪して一体どうしたいのでしょうね。単なる屈折した薄暗い破壊衝動ばかりが強調されていて、お祭の後始末は誰がやるのだろうといつも思います。
はじめまして。中国地方の大学生(♂)です。三回生です。歴史学を専攻してます。なぜジェンダー・フリーを唱える女性学者は女のカッコウをしているのでしょうか?月水金日は女のカッコウ、火木土は男のカッコウとか、顔の左半分は化粧をするが右半分はしないとかいう風にしないのはなぜなのでしょうか?それと「男女共同参画社会基本法」この法律名に出てくる男女という言葉は人間を男、女というふうに区別しているわけですから、フェミニズムの人たちの考えにのっとるならジェンダーフリー思想に反するのではと思います。したがって「人間共同参画社会基本法」としなければならないはずです。最近の高校家庭科教科書『家庭一般21』(実教出版)には次のように書いてあるそうです。「生物学的性差について明らかなことは、妊娠の可能性を女性は持つが男性は持たないということだけである」これは中学で習った生物の授業と矛盾します。哺乳類動物はすべて、妊娠前の妊娠育児へ向けた準備能力、妊娠出産、出産後の育児能力、これらの有無により雌雄が区別されるはずです。哺乳という言葉がそれを表してます。妊娠・出産だけで雌雄を区別するのは魚類・ハチュウ類・両性類です。鳥類は授乳はしませんがヒナのために巣をつくり、餌をとってきて与える行為をメスがします。この家庭科教科書を使用する高校生で中学で習ったことをちゃんと覚えている学生は「アレ?」と矛盾を感じることになるはずです。また高校時代だったか、漢文の授業で「断腸」という言葉のもととなった故事を教わりました。人間に子供を奪われた母猿が悲しみのあまり急性胃炎になり腸が裂け死ぬ話です。この出来事に感じ入った人が漢詩をつくり、そしてそれが後々の世まで伝えられたのはなぜなんでしょうか。この母猿の姿が人間世界の母と子の関係を映し出しているからではないでしょうか。人間にも母独特の子に対する感情、即ち母性があるからです。人間のメスに母性がなければ、この出来事を詩として残そうとはしないはず。この故事は五世紀前半の中国の書物に出てくる話です。大学の女性学関係の講義で「母性は近代になって産業革命以降、作られたものである」という話を聞きましたが間違いではないでしょうか。女性学では「母性というものは近代社会に都合のいいように作られたもの」と教えてます。しかし人間とあらゆる生物を比較してみますと母性というものは鳥類・哺乳類には存在します。というより生物の世界においては親子の関係しかなく親となるのはメスだけのようです。人間社会に特有なものは父性ではないでしょうか?父性(男らしさ)が人間特有に、創られたものなのではないでしょうか。何のために作られたかというと、女性が安心して子供を産み育てることができる物理的環境(一族、部族、社会、国家)をつくるため女性より体力のある男性に父性(男らしさ)が必要とされたのではないのかと思います。
上の文章の部分は……です。