昨夜は、睡眠剤を飲むのが早かったせいか、すぐに眠たくなったでやんす。目が覚めたのは7:00くらいだったので、少しだけ寝たでやんす。ウンコがしたくなって起きて、トイレに直行でやんす。
大量生産!ブリブリo(-""-;)o⌒ξ~ξ~ξ~ξ~ξ~ξ~ξ~ξ~

台所の時計を見ると7:45くらいだったので、また寝ることにしたでやんす。昨夜、ショパンを聴いたせいか夢の中でもショパンが鳴り響いていたでやんす。雨のため少し肌寒いでやんすが、寝ていると心地が良いでやんす。目が覚めたのは9:00を過ぎてので下に降りて台所に行き朝食を摂ったでやんす。今日の朝食は、小さなクロワッサンが2つとヤマザキパンのツナが入ったランチパックと紅茶とオレンジでやんした。

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クロワッサンはオーブントースターで焼いてから食べた方が良かったと後悔したでやんす。口から吐き出して焼き直すわけにも行かず、後はウンコになるのを待つだけでやんす。ヤマザキのツナが入ったランチパックは、味はそれなりでやんした。おいらはこのシリーズの中ではオーソドックスなタマゴのランチパックが好きでやんす。このシリーズはミンチカツや牛カツもあるでやんす。1度、食べてみたいでやんすが、節約家というかケチな母上は最低でも20%引きになっていないと買ってこないので、しばらくはおいらの口に入ることはないような気がするでやんす。
(;-_-) =3 フゥ

洗面所へ行き歯を磨いて髭を剃ってから、仏間へ行き仏様にお線香を上げ色々なお祈りごとをしたでやんす。
(* ̄ノ ̄)/Ωチーン (* ̄- ̄)人 i~ 合掌

正座は少しずつ出来るようになったでやんすが、まだ、正座をすると痛いでやんす。毎日仏様の前で正座をするのもリハビリの一環だと思って続けれたら良いと思うでやんす。2階の自室に戻り布団を畳んだやんす。布団を畳んで押入れに入れるのもこれもリハビリの一環でやんす。パソコンで昨日のブログの続きを書いたでやんす。パソコンから流れていた音楽は、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、クラウディオ・アバド(指揮)、ロンドン交響楽団のショパンの「ピアノ協奏曲 第1番」でやんした。1楽章の出だしは少し速いような気がしたでやんすが、2楽章は甘美という言葉がぴったりくるなぁという演奏でやんす。実のところこのCDは、かなり長い間お蔵入りしていたCDでやんす。iPodで聴くためというのもあるでやんすが、持っているCDを全てパソコンにインポートをするという作業をしている時に出てきたCDでやんす。グラモフォンやデッカという特に大きいレーベルのCDではなく、単に安かったら購入したCDでやんす。当時の2000円という価格で買ったのはタワーレコードだったと思うでやんす。2000円という価格は今では当たり前の価格でやんすが、CDは当時、出始めだったので3000円は越えていたでやんす。小遣いの少ないおいらはアルゲリッチの弾くショパンのピアノ協奏曲が聴きたくて購入したでやんす。ライナーノーツはなかったでやんす。多分、ほとんど聴いてないと思うでやんす。
ミ(ノ_ _)ノ=3 ドテッ!!

ここからは、Wikiの引用でやんす。
ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11は1830年に完成された。ドイツ出身のピアニスト・作曲家で、ショパンが一時弟子入りを考えていたフリードリヒ・カルクブレンナーに献呈された。
概要第1番とあるが、実際は2番目に作られている。ショパン自身の話によると、最初に書いたヘ短調協奏曲のオーケストラ総譜が一時行方不明になったので、この曲を先に出版したという。
1830年10月11日、ワルシャワでの告別演奏会においてショパン自身のピアノ独奏により初演された。
この作品は彼の故郷ワルシャワへの告別と、飛翔の意味が込められているといわれる。ロマンティックな情念と創意にあふれる第2番に比較して、第1番は構成を重視した作りで規模も大きい。
ピアノ独奏部に対してオーケストラの部分が貧弱であると批判されることがあり、カール・タウジヒ(曲の構成及びピアノパートにまで改変を加えている)、ミリイ・バラキレフなどが自作の管弦楽編曲を残している。だが、この曲の自筆譜はほとんど現存しておらず、ほぼ同時に作曲された第2番同様に現在の楽譜は他人によりオーケストレーションされた可能性が高い(出版社が複数のオーケストレーターに書かせたとされている)。
ヤン・エキエルによるナショナル・エディションでは、作曲者が楽器の指定を書き込んだ一部現存するピアノスコア、オーギュスト・フランショームがパート譜を元に作成したピアノ編曲譜などを元にしてショパンが本来意図したであろうオーケストレーションを復元した「コンサート・バージョン」と、従来の楽譜を校訂した「ヒストリカル・バージョン」を刊行している。
第1楽章 Allegro maestoso ホ短調 4/3拍子
協奏風ソナタ形式。オーケストラによってマズルカ風の第1主題とポロネーズ風の副主題、第2主題が奏された後、独奏ピアノが登場し、終始華やかに曲が展開される。第2主題は通常のソナタ形式とは逆に、提示部は同主調のホ長調で、再現部は平行調のト長調で演奏される。
第2楽章 Romanze, Larghetto ホ長調 4/4拍子
瞑想的な弦の序奏に続いてピアノによる美しい主題が現れる。途中のagitatoの部分で盛り上がりを見せた後、ピアノのアルペジョを背景に、オーケストラが最初の主題を奏でて曲を閉じる。切れ目無く終楽章へ続く。
第3楽章 Rondo, Vivace ホ長調 4/2拍子
短い序奏の後、ポーランドの民族舞踊の1つである「クラコヴィアク」を基にした華やかなロンドが出る。オーケストラとピアノが掛け合い、途中に民謡調のエピソードを登場させつつ、堂々たるクライマックスを築く。コーダ部分のアルペジョは特に高度な技術を要求されるが、最大の見せ場の一つとなっている。
余談バラキレフは第2楽章をピアノ独奏用に編曲している。
1975年(昭和50年)に発表された都はるみの『北の宿から』(作詞:阿久悠、作曲:小林亜星)の旋律は、本作の第1楽章副主題 (H-G-A-H-E-F#-G-F#-E) によく似ているが、月刊雑誌「ショパン」(2009年1月号)での小林の話では、特に本作をもとにして作曲したというわけではないという。
また、本作は映画「白い家の少女」にも使用されている。クリスチャン・ゴベールが担当したオリジナル・サウンドトラックの導入部のほか、映画本編においても、主人公であるリンが日ごろからレコードプレイヤーにかけ愛聴している曲として用いられている。
クラシックを題材にした漫画『のだめカンタービレ』の主人公の一人のだめがデビューコンサートで演奏。シュトレーゼマンが指揮するロンドンフィルと競演。大成功する。
また、ショパンコンクール本選ではこの1番もしくは2番が課題となっているが、圧倒的に1番を弾くピアニストが多いのも事実である。

マルタ・アルゲリッチは母語であるスペイン語の他に、フランス語、英語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語などを自在に操ることができる。精神的に納得できない場合は、しばしば演奏会をキャンセルすることもある(ただし、逆にどうしても演奏したいときには体調不良でも演奏することもある)。メディア嫌いで知られ、インタビューの回数は多くない。
若い頃、職業ピアニストであることが嫌になり、語学が堪能なことから秘書になろうと思ったことがあると、インタビューで語っている。また、この当時は、ピアノを弾かずテレビばかり観ていたとも語っている。
3度の結婚で3人の娘をもうけたが、いずれも離婚している。子どもたちはみなアルゲリッチが引き取り育てた。アルゲリッチの3人の娘には、いずれもプロフェッショナルの音楽家はいない。しかし、中国人指揮者との長女であるリダ・チェンは、ヴィオラ奏者として母親と共演することがしばしばある。シャルル・デュトワとの娘アニー・デュトワは、アルゲリッチのいくつかのCDをはじめ、しばしばクラシック音楽のCDのライナーノートや音楽専門誌に執筆している。ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチとの間に生まれたステファニー・アルゲリッチは、主にアルゲリッチのCDの表紙やドキュメンタリー映像などを撮影しているプロの映像アーティストである。
1980年の第10回ショパン国際コンクールの審査員であったアルゲリッチは、ユーゴスラヴィアからの参加者イーヴォ・ポゴレリチが本選に選ばれなかったことに猛烈に抗議して、審査員を辞退した。ポゴレリチのことを「彼は天才!」と言い残して帰国した件だけが取り上げられることが多いが、アルゲリッチは「審査席に座った事を恥じる」と述べ、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めてしまうのではなく、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。1990年代後半ドイツで、急病のポゴレリチに代わって、アルゲリッチが登場したことがある。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番ハ長調 Op.26を演奏した。





マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、クラウディオ・アバド(指揮)、ロンドン交響楽団のリストのの「ピアノ協奏曲 第1番」を聴いたでやんす。このリストのピアノ協奏曲第1番は、ショパンのピアノ協奏曲1番とのカップリングでやんした。ここからはWikiからの引用でやんす。

ピアノ協奏曲第1番(ドイツ語:Klavierkonzert Nr. 1)変ホ長調(S.124, R.455)はフランツ・リストが1830年代から1856年にかけて作曲したピアノ協奏曲。第3楽章でトライアングルが活躍することから、エドゥアルト・ハンスリックに「トライアングル協奏曲」と揶揄されたことで知られる。
初演は1855年、作曲者自身のピアノとエクトル・ベルリオーズの指揮により、ヴァイマルにて行われた。さらに変更を加えた後の1856年にようやく出版された。イギリス出身のピアニスト・作曲家のアンリ・リトルフに献呈されている。リトルフによる5曲の『交響的協奏曲』の影響が強い(全曲ともスケルツォを含む4楽章からなる)とする見解もあるが、リストは、リトルフと知り合う以前に、既にスケルツォを含む4部分の構成を採用しており、逆にリストがリトルフに影響を与えた可能性も否定できない。
主要主題は、リストが19歳だった1830年の草稿にまで遡るが、現在知られているような作品の最終的な形が整ったのは1849年のことである。しかし1853年、1856年にはさらなる推敲が加えられ、最終的に出版されたのは1857年のことであった。
作品は全曲を通じて連続して演奏される。バルトーク・ベーラは本作について「循環形式によるソナタ形式を初めて完全に実現させた作品であり、共通の主題が変奏の原理によって扱われている」と述べた。





Creedence Clearwater Revival(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 略称CCR)のアルバムで「Chronicle(クロニクル)」を聴いたでやんす。特にこれといって好きな曲があった訳ではなく、当時、一緒にバンドをしていたケビンがCCRのカバーをしたいということで、買ったのがこのCDでやんす。特に深い思い入れがあるということではないでやんす。
( ̄∀ ̄;)汗 

ここからWikiの引用でやんす。
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival、略称CCR)は、アメリカのバンド。アメリカ南部特有の泥臭いサウンドを持ち味としたサザンロックの先駆者的存在。活動期間は短いながらもロック界に大きな足跡を残し、1993年にロックの殿堂入りを果たしている。
1959年にジョン・フォガティ、スチュ・クック、ダグ・クリフォードの3人で結成されたブルー・ベルベッツを前身とする。後にジョンの兄のトムが加入する。1967年にサンフランシスコのファンタジー・レコードと契約し、バンド名をゴリウォッグスと変えてデビュー。
1968年にバンド名をクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改めた。同年にスワンプロック(南部のロック)のカバー曲「スージーQ」がヒットし、当時ヒッピー文化が全盛だったサンフランシスコでは異色の存在として脚光を浴びる。
1969年から1970年にかけて、彼らの代表曲となる「プラウド・メアリー」、「ダウン・オン・ザ・コーナー」、「雨を見たかい」といったヒットを飛ばす。ところが「プラウド・メアリー」(3週連続)、「バッド・ムーン・ライジング」、「グリーン・リヴァー」、「トラヴェリン・バンド」(2週連続)、「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」という、この5曲は全てビルボード・シングルチャートで全米第2位に泣かされている。全米No.1を獲得出来なかったアーティストの中で最多5曲の全米第2位楽曲を持つという珍記録になっている。
前途洋々かと思われたバンドだったがジョンに注目が集まりすぎたゆえにメンバーの仲がぎくしゃくし、1971年にトムが脱退。翌1972年に発表したアルバム「マルディ・グラ」は各メンバーの曲やボーカルも取り入れた民主的な作品であったが失敗に終わり、バンドはあっけなく解散した。
ジョンはソロ作『ブルー・リッヂ・レインジャーズ』(1973年)、『ジョン・フォガティ』(1975年)を発表するが、楽曲の著作権にかかわる訴訟に巻き込まれたため、CCR時代の楽曲が唄えなくなってしまった。また訴訟関連に嫌気が差したことも影響して、音楽活動に消極的になり隠遁状態が続いた。しかし、1985年には『センターフィールド』を発表、同作はミリオン・セラーを記録し、1997年に発表した『ブルー・ムーン・スワンプ』では、キャリアの集大成的なサウンドを披露しグラミー賞を獲得した。また同年に開かれたソロライブでは数多くのCCR時代の楽曲も披露した。また2003年には、『THE BLUES Movie Project』を締めくくるコンサートに客演するなど、寡作ではあるものの健在振りをアピールしていた。2007年訴訟問題が解決したジョンは古巣のファンタジー・レーベルから『リバイバル』を発表。
二人のメンバー、スチュとダグは現在「クリーデンス・クリアウォーター・リヴィジテッド」としてライブ活動を行っているが、別活動のジョンとの接触はない。トムは1990年にエイズのために家族を遺して、48歳で死去している。

雨を見たかい (Have You Ever Seen the Rain?)は、1971年シングルとして発売されビルボードで8位になった。 数々のアーティストにカバーされている。2006年にはロッド・スチュワートがアルバム『Still the Same... Great Rock Classics of Our Time』の中で、1993年にはラモーンズがアルバム『Acid Eaters』で、日本では1990年に田中一郎とスーパーノマッドによりエースコック「スーパーカップ」CMソングとして田中一郎自身が作詞した日本語詞でカバーされた。
俗にこの曲の歌詞が「ベトナム戦争の反戦歌で、「雨」は米軍によるナパーム弾絨毯爆撃の隠喩である」という説が広く信じられているが、作詞作曲者ジョン・フォガティ自身は、1997年に当時のオフィシャル・ウェブサイトで次のように発言している。
「このことは、ベイエリアでは他の地区よりもよく起こるんだ。陽が照っているのに雨が、虹と雨粒が降ってくることがある。風が吹くと、雨が金門橋を越えてサンフランシスコ湾に飛ばされて来るんだ。『雨を見たかい』はCCRの崩壊についての歌なんだ。"Have you ever seen the rain coming down, sunny day?" の部分は、sunny dayが黄金時代のクリーデンスを示唆している。しかし、ぼくたちに雨が降り掛かって来るのが見えたということを言っているんだ」Hank Bordowitz著 "Bad Moon Rising" p.107-108





12:30くらいになったので、下に降りて台所へ行ったでやんすが電気は消えていたでやんす。母上は客間で新聞を読んでいて、おいらの顔を見ると御飯の支度をするといったでやんす。御飯の支度といっても電子レンジで残り物の麻婆豆腐と残り物の御飯を温め、ガスコンロで残り物のお味噌汁を温め、大根おろしをすっただけでやんす。ということで、今日の昼食は、残り物の麻婆豆腐、しらすおろし、残り物のお味噌汁(具は、破竹、わかめ、豆腐)、御飯、オレンジでやんした。

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電子レンジの性能があまりよくないため、麻婆豆腐は少し冷たかったでやんす。しらすおろしの大根は季節はずれのため、少し辛かったでやんす。痛み止めと胃薬を飲んでから、母上と少し話をしたでやんす。話といっても音楽の話や入院中の話でやんす。今日は雨が降っているので、散歩には行けそうにはないでやんす。今年は体重を10キロ減らす予定なので、頑張って歩こうと考えているでやんす。家に閉じ籠っているよりも、少しは外の風邪にもあたるほうがストレス発散にもなるでやんす。
ヾ(´▽`;)ゝウヘヘ

2階の自室に籠もりパソコンと睨めっこをして、ブログを書きながらBon Jovi(ボン・ジョヴィ)のアルバム「The Circle(ザ・サークル)」を聴いたでやんす。デビュー当時からボン・ジョヴィは好きでやんす。しばらく、聴かなかったこともあったでやんすが、また、聴いている間に好きになったでやんす。メロディーが万人受けするところが人気の理由だと思うでやんす。
(≧∇≦)ъ ナイス!

ここからはWikiからの引用でやんす。
『ザ・サークル』(The Circle)はアメリカ合衆国のロックバンド、ボン・ジョヴィが2009年に発売した11枚目のスタジオ・アルバム。前作『ロスト・ハイウェイ』はカントリーロックを基調としていたが今作はロックンロールを基調としている。なお、スタジオアルバムにボーナストラックが収録されなかったのは、1986年に発表された『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』以来である。
トライベッカ映画祭でも上映されたボン・ジョヴィの25年の歴史を"Lost Highway World Tour"を通して描いたドキュメンタリー映画『WHEN WE WERE BEAUTIFUL』がデラックス・エディションに付属するDVDに収録されている。
また、先行シングル「We Weren't Born to Follow」はWii専用ゲームタイトル『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル クリスタルベアラー』のテレビCMにタイアップされた。





Lenny Kravitz(レニー・クラヴィッツ)のアルバム「Circus(サーカス)」を聴いたでやんす。レニーは本当に器用な人間で、ギター意外にも、ドラムやベースを弾けるでやんす。ここからは、Wikiからの引用でやんす。

レニー自身の言葉によれば、ストレートなギター・アルバムを作るという意図から、オーバー・ダビングを最小限に抑えて、ホーン・セクションも使わない音作りとなった。「ロックンロール・イズ・デッド」「トンネル・ヴィジョン」「ブリット」では、レニー1人ですべての楽器を演奏している。
日本のオリコンでの1位獲得に加え、本国アメリカでもBillboard 200で初のトップ10入りを果たす成功作となった。本作からの第1弾シングル「ロックンロール・イズ・デッド」は、全米75位・全英22位に達した。





15:00になったので、「ショムニ・ファイナル」をみてから「ワンダフルライフ」をみたでやんす。普段はほとんどドラマをみないのでやんすが、入院している時に暇なので家でも継続してみているでやんす。ドラマの後は「スーパーニュース・アンカー」をしているので少しだけみていたでやんす。管総理はいつ止めるのだろうと考えたりしているでやんすが、民主党内や野党の論争を見ているとこの国のためというような気がしないでやんす。とりあえずは復興のことを重視してするでやんす。原発のこともあるでやんす。そんなことを少し思いながら、テレビを消してパソコンと睨めっこをしてブログを書き、Eric Clapton(エリック・クラプトン)のアルバム「Clapton Chronicle(BEST OF エリック・クラプトン)」を聴いたでやんす。このアルバムを聴くとクラプトンは良い曲を作っているなぁという感じがするでやんす。おいらは、このアルバムに収録されている曲は、ほとんどアルバムで持っているでやんす。クラプトンといえばクリーム時代のクラプトンのアルバムを聴いてみたいと思うでやんす。ここからはWikiの引用でやんす。

クラプトンのキャリアは、ルースターズから始まる。クラプトンは1963年1月から8月まで在籍。その後、ケイシー・ジョーンズ・アンド・ジ・エンジニアズに参加。程なくロンドンでも注目を集めていたバンド、ヤードバーズに迎えられる。1963年の秋である。ヤードバーズでのプレイが認められ、その存在が注目されるようになったが、バンドはポップ路線を志向するようになり、クラプトンは他のメンバーと意見が対立。1965年にバンドを去ることになる。その後、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジが相次いで「ヤードバーズ」に参加する。
ヤードバーズ脱退後、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズに参加。オーティス・ラッシュ、フレディ・キングらの曲を盛んに演奏した。彼らの楽曲はその後のクラプトンのキャリアにおいても度々取り上げられた他、本人たちとの共演も行っている。この頃、ロンドンの街中に“CLAPTON IS GOD”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった。
その後、ジャック・ブルースやジンジャー・ベイカーらと「クリーム」を結成。メンバーの即興演奏を中心としたジャム・セッションや実験的な音楽を追求。しかし、メンバーの人間関係の悪化により、バンドは空中分解する形で解散。その直後、スティーヴ・ウィンウッドや先のベイカーらとブラインド・フェイスを結成し、1枚のアルバムを残して解散した。
クラプトンは新天地を求めてアメリカに渡り、アメリカ南部のミュージシャンとデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。デュアン・オールマンをゲストに迎えて「レイラ」を録音した。
その後もクラプトンは様々なセッションにギタリストとして参加する。その一方で本格的なソロ活動もスタートした。1974年9月14日付のシングルチャートではボブ・マーリーのカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(I Shot The Sheriff)でナンバー1を獲得している。
1991年、自らのバンドを従え、ジョージ・ハリスンのソロをサポートする形で日本だけのツアーを敢行。途中、ジョージの休憩を兼ねて、自らの楽曲を演奏するコーナーもあった。ジョージからは世界ツアーの提案もなされたが、亡くなった自分の息子に捧げる楽曲の録音のため、クラプトンはこれを断った(ジョージは、これが最後のツアーとなった)。この時に録音されたのが「ティアーズ・イン・ヘヴン」(Tears In Heaven)である。この曲は1992年に全米シングルチャート第2位を記録し、1993年には年間最優秀曲に選ばれ、この歌が収録されたアルバムも最優秀アルバム賞を獲得。
1996年、映画『フェノミナン』にカバー曲、「チェンジ・ザ・ワールド」を提供している(元々はカントリー・シンガーのワイノナ・ジャッドが歌っている)。この曲でクラプトンはグラミー賞のソング・オブ・ジ・イヤーを獲得している。ちなみにプロデューサーはベイビーフェイス。
1998年にはB.B.キングらとともにアメリカ映画『ブルース・ブラザース2000』に出演した。1999年には、かねてから自身の所有するドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」への資金捻出のために所有するギター104本をニューヨークのクリスティーズのオークションに出品した。その中には「愛しのレイラ」をレコーディングしたストラトキャスター「ブラウニー」が含まれていた。
2002年のイギリス女王即位50周年式典のライヴでは、ジョージ・ハリスン死去への追悼として、元「ビートルズ」のポール・マッカートニーと共に、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスを演奏し、当時の録音同様リードギターを担当し、加えて特別にリードボーカルも担当する。2004年11月3日、イギリス政府より、ナイトの爵位に次ぐ「大英帝国第三級勲位」(CBE)が授与された。
2004年6月24日には自身のギターコレクションの2度目のオークションを開催。出品された56本の中には彼の使用したギターで最も有名で長年愛用したブラッキー('56年製のフェンダー・ストラトキャスター)の愛称を持つギターも含まれていた。「ブラッキー」は当初の落札予想価格を大幅に越え最終的に95万9,500ドル(およそ1億520万円)の価格がつけられ当時「世界一値段の高いギター」となった(現在は塗り替えられている)。
2005年にはクリームの再結成ライヴが5月に4公演(5月2、4、5、6日)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、10月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3夜連続で当時のオリジナルメンバーで行われた。
世界各国でのツアーを行い、来日公演も多数(2006年秋=17度目)。2009年2月には2年ぶり18度目の来日公演を行った。
日本でのアルバム売り上げは1999年発売のベストアルバム『BEST OF』が200万枚、1992年発売のライブアルバム『アンプラグド』が120万枚(全世界では1500万枚)など。
エヴァンゲリオンの作画監督貞本義行のファンであり、自身のアルバムジャケットを制作依頼している。





ブログを書きながら、クララ・ハスキル(ピアノ)、パウル・ザッハー(指揮)、ウィーン交響楽団のモーツァルトの「ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 ジュノーム」を聴いているでやんす。クララ・ハスキル・エディションなる17枚組のCDをアマゾンで買ったでやんす。正直、モーツァルトのCDはかなりダブったでやんすが、ハスキルの弾くシューマン、ショパン、ベートーヴェンが聴けるのと、グルミュオーの演奏するベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが全曲が聴けるというので非常にお買い得なアルバムでやんす。ここからWikiの引用でやんす。

ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作曲したピアノ協奏曲。
この協奏曲は、フランスの女流ピアニスト、ジュノーム嬢がザルツブルクを訪れた際に、彼女に献呈されたといわれてきたため、『ジュノーム』というニックネームがついている。この曲の新鮮さ、大胆さとこれまでにない規模の大きさは、彼女の影響によるものとされている。
第6番、第8番、第9番は作曲年代が近いが、3曲の中で最後にあるこの第9番は内容、形式ともに特に優れた曲として高く評価されている。
第1楽章の冒頭で、オーケストラによる第1主題の呼びかけに応えていきなり独奏ピアノが登場するところなどは、型破りなスタイルである。このスタイルは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、第5番「皇帝」の先駆とも言えるであろう。
第2楽章のヴァイオリンが弱音器をつけて最低音域で歌うハ短調の旋律や、第3楽章の大規模で貴族的なロンドも魅力的である。
カデンツァは第1楽章、第2楽章用にそれぞれ2種類書かれている。第3楽章用のカデンツァ(アインガング)は2箇所あり、それぞれ3種類書かれている。この曲のカデンツァが数多く残されている理由は、モーツァルト自身がこの曲をよく演奏していたためであるとされる。少なくとも、1777年10月4日ミュンヘンで、1781年4月3日と1783年の春にウィーンで演奏されたことが知られている。
「ジュノーム嬢」が誰であるかはモーツァルトの研究者の課題となってきたが、2004年3月15日に音楽学者のマイケル・ローレンツはモーツァルトの友人でフランス人のジャン・ジョルジュ・ノヴェルの娘ヴィクトワール・ジュナミ(Victoire Jenamy)であることを発見した。





続いて、クララ・ハスキル(ピアノ)、ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)、ウィーン交響楽団でモーツァルトの「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466」を聴いたでやんす。この曲のCDを何枚も持っているでやんすが、お気に入りなのはハスキルとカーゾンでやんす。両方とも甲乙つけ難い演奏でやんす。因みにクララ・ハスキル・エディションを買うと「ピアノ協奏曲 第20番」は4回も聴けるので楽しめるでやんす。
ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆

ここからはWikiの引用でやんす。
1781年、モーツァルトは生まれ故郷ザルツブルクを追い出され、ウィーンでフリーの音楽家として生活することになった。彼にとってここでの生活の糧は、裕福な貴族や社交界を対象にしたコンサートであった。彼は、ピアノの名手ということもあり、18年の間に21曲のピアノ協奏曲を書き上げた。特に、この曲が作曲された1784年から1786年までは、音楽家として作曲・演奏ともに円熟味が増し、またそれらを発表する良い機会も得て順風満帆の時期となった。
モーツァルトは、短調のピアノ協奏曲を2曲(もう1曲は第24番 ハ短調)作曲している。華やかさが求められた当時の協奏曲とはうってかわって、それまでの彼の協奏曲には見られない、激しいパッションの表出的な性格を帯びている。暗く不安げな旋律、劇的な展開、厳しさと激しさの入り混じった感情など、とても強い表現性を持った作品といえる。
次の日に初演を迎えていた前日、まだパート譜の写譜が間に合ってはいなかった。土壇場で完成した曲にもかかわらず、ちょうど演奏会当日にウィーンに訪れた父レオポルト・モーツァルトは、「この協奏曲は堂々としていて、オーケストラも立派に演奏しのけた」とモーツァルトの姉ナンネルに報告している。この曲を境として、モーツァルトらしさが出てきた作品が多くなったといわれている。この作品は、モーツァルトの死後も演奏された数少ない協奏曲の1つである。
第1楽章の365小節目と第3楽章の345小節目にはカデンツァの指定がある。作曲者自身によるカデンツァは残されていないが、若きベートーヴェンやブラームスはこの曲に心酔し、自作のカデンツァを作曲している。とりわけベートーヴェンによるカデンツァは有名で、演奏会や録音で最もよく演奏されている。演奏者自身が作曲したカデンツァを弾くこともある。
シャルル=ヴァランタン・アルカンは全楽章をピアノ独奏用に編曲しており、第1楽章のカデンツァでは本曲と交響曲第41番第1楽章のモティーフが、第3楽章のカデンツァでは本曲の第1・2楽章のモティーフが展開される。
モーツァルトの弟子のヨハン・ネポムク・フンメルは、カデンツァを作曲すると共に、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。





クララ・ハスキル(ピアノ)、ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)、ウィーン交響楽団でモーツァルトの「ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調 K.386」を聴いたでやんす。ここからはWikiの引用でやんす。

1782年の10月19日にウィーンで作曲された作品。ピアノ協奏曲第12番の終楽章の差し替えとして構想されたものといわれている。しかし現存する楽譜は不完全である。





母上が夕食の支度が出来たと下から呼んだので、下に降りて台所へ行き夕食を摂ったでやんす。今日の夕食は、鶏肉と野菜の炒め物、豚肉と野菜の中華風炒め、枝豆、御飯でやんした。

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テーブルが狭いというか物が多いので、おいらの食事を置くところがないでやんす。片付けなければならないでやんすが誰もしないでやんす。昔は5人で食べていたテーブルは今では3人用のテーブルになっているでやんす。
( ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄; アリャ?

鶏肉と野菜の炒め物は、いつもと変わらぬしょう油とみりんを使った甘辛の味付けでやんす。今が旬の破竹が入っていたでやんす。 豚肉と野菜の中華風炒めは、妹君が味付けをしたらしく豆板醤がよくきいていて、アスパラガスが入っていたでやんす。枝豆はあまり美味しくなかったでやんす。夕食を終えてから、坑うつ剤と痛み止めと胃薬を飲んだでやんす。
θ。( ̄▽+ ̄*)お薬ざます♪

とりあえず、下に居てもすることがないので、2階の自室に籠もりパソコンと睨めっこをして、ブログを書きながらクララ・ハスキル(ピアノ)、イーゴリ・マルケヴィチ(指揮)、ラムルー管弦楽団の演奏でモーツァルトの「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466」を聴いたでやんす。今日、聴くのは2回目でやんす。この演奏は名演と呼ばれているでやんす。次も同じ演奏者達でモーツァルトの「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」を聴いたでやんす。ここからはWikiの引用でやんす。

ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したピアノ協奏曲。モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、短調の作品はこの曲と第20番ニ短調K.466だけである。
モーツァルト自身の作品目録によれば、1786年3月24日に作曲された。初演は同年4月7日、ウィーンのブルグ劇場で開かれたモーツァルト自身の予約音楽会で行われた。翌月の5月1日にはオペラ『フィガロの結婚』が初演されている。
多くの人がイメージするような「モーツァルトらしい」明るい曲ではなく、暗く情熱的な作品である。しばしば「ベートーヴェン的な」作品と言われる。
モーツァルトの弟子であるヨハン・ネポムク・フンメルは、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。
独奏ピアノ、フルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦五部
モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、最大の編成である。オーボエとクラリネットの両方を採用している。木管楽器が活躍する場面の多い曲になっている。
第1楽章 アレグロ ハ短調 3/4拍子 ソナタ形式
ぎくしゃくとした印象の第1主題で始まる。第1主題の中の跳躍する音型は第1楽章の中で何度も繰り返される。第2提示部で第1主題が繰り返される前に、ピアノが独自の主題を見せるのは、ニ短調の協奏曲と共通する。
第2楽章 ラルゲット 変ホ長調 2/2拍子 ロンド形式
第1楽章と第3楽章とは対照的に、穏やかな優しい曲。木管とピアノの応答が美しい。
第3楽章 アレグレット ハ短調 2/2拍子 変奏曲
主題と8つの変奏からなる変奏曲。アルフレート・アインシュタインは「革命的なぶきみな急速行進曲」と呼んでいる。第4変奏と第6変奏では、第2楽章に似た木管とピアノの楽しい応答がある。最後には6/8拍子に変わり、ニ短調の協奏曲とは違って悲劇的なまま締めくくられる。
第1楽章のカデンツァや第2、第3楽章のアインガングは、モーツァルト自身のものは残されていない。そのほかにもピアノのパートを完成させていない部分がいくつかある。これらは、モーツァルト自身が演奏会で即興演奏した部分と思われる。
モーツァルトが書いたハ短調の有名な作品には、管楽器のためのセレナード第12番K.388『ナハトムジーク』がある。この曲は、のちに弦楽五重奏曲第2番K.406に編曲された。
第24番K.491が書かれた直前の3月2日にはピアノ協奏曲第23番K.488が作曲されている。直後に初演された『フィガロの結婚』のケッヘル番号はK.492で1つ違い。
ベートーヴェンもハ短調のピアノ協奏曲第3番を作曲している。両曲の第一楽章の第一主題はその類似性が指摘されている。アルフレート・アインシュタインは、ベートーヴェンはモーツァルトの曲に感嘆し、自分の曲の中で「二、三の貢物を捧げている」と述べている。





しばらくクララ・ハスキル・エディションは続くでやんす。何背、17枚組のCDでやんすから・・・
今まで、持っていたCDはビル・エヴァンスのアルバム「シークレット・セッション」が8枚組で最高でやんした。このアルバムもかなり聴き応えがあったでやんす。どちらかというか、マニア向けのCDという感じでやんした。クララ・ハスキル・エディションは価格も安く、色々な作曲家の音楽が楽しめるのでお薦め出来るでやんす。
d(⌒ー⌒) グッ!!

クララ・ハスキル(ピアノ)、フェレンツ・フリッチャイ(指揮)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でモーツァルトの「ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K.459」を聴いているでやんす。ここからは、Wikiからの引用でやんす。

1784年の12月11日にウィーンで作曲され、1784年に一気に書かれた6曲のピアノ協奏曲の最後を飾る作品で、モーツァルトがピアニストとしての自活を賭けて、自身の演奏会で弾くために作曲されたものである。
タイトルの『第2戴冠式』とは、1790年の10月15日にレオポルト2世の戴冠式を祝して催された演奏会で、モーツァルトは、ピアノ協奏曲第26番『戴冠式』K.537と共に演奏したために呼ばれている。なお作品目録に明記されているトランペットとティンパニのパート譜は紛失し、発見されていない。だがヘ長調の調性から誤記の可能性も残る。
なお、第1楽章と第3楽章にはモーツァルト自身のカデンツァがある。