July 2006

July 30, 2006

ベナード・アイグナーの思い出   その5

2002年10月9日(水) No.25
ベナード・アイグナーの想い出 その5

Harvey & I

(写真:スタジオにて)
コンソールを挟んで
ハービー・メイソン(右)と私(左手前)


『BAKED POTATO』というライブ・ハウスで、
私と渡辺香津美はある賭けをしました。
それは「ハービー・メイソンはどいつだ」というもの。

フュージョン・ミュージック大爆発前夜、
ドラムでは、
ニューヨークのスティーヴ・ガッドと
ロスのハービー・メイソンが、
人気、実力とも双璧と言われていました。

ところが我々は、ハービーの写真を見たことがありません。
黒人だということだけは分かっていましたが。
したがって、ライブ・ハウスにいる大勢の人の中から、
ハービーを当てようじゃないか、
ということになったのです。

一芸に秀でた人間は、
それなりに普通ではないオーラを、
感じさせるはずですから。

香津美「あいつじゃない?」
私「いや、ちょっと鋭さに欠けるなあ。」
香津美「あいつかなあ?」
私「いや、どうみてもミュージシャンには見えない。」

こんなやりとりをしているうちに、
やがてスラっとした長身で、目付きの鋭い、
ちょっとコワモテの男が入ってきました。

私「あいつだ!間違いない。目で分かる。」

案の定、数分後にその男はドラム・セットの前に。

『ゴルゴ 13』にも通じるプロとしての凄みを、
ちゃんと持ってましたねえ、彼は。

その日のジェントル・ソウツの演奏は、
火を吹くがごとき素晴らしさ。
香津美も、リーの紹介でステージに上がり、
2曲ではありましたが、
立派なパフォーマンスをしました。

これで、このプロジェクトもうまくいく!
私はそう確信しました。


さて、話をベナードに戻しましょう。

レコーディングもなんとか無事終了。
オフの日は、
彼が『EVERYTHING MUST CHANGE』の印税で買った
プール付きの大きな家で何日か遊びました。

なにせこの曲、
ベナード自身がクインシーのアルバムで歌った物の他にも、
ジョージ・ベンソンやらナンシー・ウィルソンやら、
50以上にも及ぶカヴァーがあるのです。

たった一曲のヒットでこんな家が買えるのですから、
やはりアメリカはスケールがでかい、
と思いました。

で、このベナード。
極上の葉っぱ(日本ではご禁制の品)をプカプカ、
それに飽きるとプールでひと泳ぎ、
と思いきや、
突然「いい曲浮かんだ」とピアノの前でひとうなり、
そしてまた一服…。

実に優雅な生活をしておりました。

そして腹が減ると
「シュン、メシ食いに行こう。」
と誘ってくる。

ちなみに、まずいロスの食い物のなかで結構いけたのが、
‘タイ・レストラン’で、
彼はこれが大好き。
私も辛いものは好きですから、
これは大いに楽しませてもらいました。
そして、やはりアジアの方が、
‘食’に関しては上を行ってる、
とも思いましたね。


こうして私のロス出張も無事に終了。

JVCアメリカ遠藤さんの計らいで、
初来日のリー・リトナー&ジェントル・ソウツ、
香津美、私、
そしてトラック・ダウンのため再度来日するベナードは、
同じ飛行機で仲良く日本に向かうことになりました。


ここで【業界豆知識コーナー その3】

‘トラック・ダウン’とは、
マルチ・チャンネルに録音されたいろんな音を、
2トラックのステレオに整理整頓すること。

バランスをとり、各楽器の位置を決め、
エコー(リバーブ)を加えたりして、
レコーディングの最後の仕上げをする、
これを‘トラック・ダウン’言います。
略して‘TD’。

アメリカでは‘MIX DOWN’、
略して‘MIX’と言います。


飛行機の中でも、
私の憧れていた凄いミュージシャンたちと、
大いにコミュニケーションが取れましたし、
ベナードも香津美も本当に楽しそうでした。

ベナードが変な日本語を覚えては、
私たちを笑わせていた、
というのは前に述べましたが、
こんなこともありました。

ノースウェスト航空のアメリカ人客室乗務員(スチュワーデス)
に向かって、突然ベナードが笑いながら、
日本語でこう言ったのです。

「あなたは、変なガイジンです。ガハハ。」

もちろん日本就航の会社のスッチーですから、
日本語が分かるに決まってます。
真っ赤な顔で激怒して、
彼女は去っていきました。

そして羽田到着(当時はまだ成田空港はありません)。
到着ロビーには、
ビクターとソニーの社員がノボリを掲げて待ち構えてました。

『歓迎!リー・リトナー&ジェントル・ソウツ 初来日!』

誰も迎えの来ていない私と香津美とベナードは、
リー達に別れを告げて、
さみしく横の通路から出ていったのです。

(つづく)


(感想 2006/7/30)

ハービー・メイソンには、
その後もいろんなプロジェクトで、
本当にお世話になりました。

なかなかの熱血漢で、
実に男っぽい、情熱に溢れた人。
音楽的にも、プロデュースに関することにも、
多くのことを学ばせてもらいました。

当時はアフロ・ヘアーでしたが、
最近の写真やビデオを見ると、
ツルツルのあたまをしてらっしゃいますね。

私もこのころはフサフサでしたけど…。(笑)


さ、いよいよ本格的な夏ですね。
さっき‘関東地方梅雨明け’
というテロップがTVに流れていました。

暑いのはこたえるけど、
やはり‘夏’は暑くないと、
雰囲気出ませんよね。

といいながら、
私はこれから昼寝をむさぼります。

汗だくで昼寝。

これも私の‘夏の風物詩’
のひとつです。


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 26, 2006

ベナード・アイグナーの思い出   その4

2002年10月2日(水) No.24
ベナード・アイグナーの想い出 その4


さて最初の関門を突破したものの、
翌日からも毎日ベナードのオーバー・ダビングは続きます。

さすがに、クインシー・ジョーンズのゴーストをやってる
一流どころが書いた譜面ですから抜かりない。
どれも素晴らしい。

スタジオにやって来るミュージシャンも、
いろんなレコードでクレジットされてる一流の面々ですから、
カルチャー・ショックを通り越して、
「やっぱ本場は違うわい」と、
アメリカ文化の神髄を大いに堪能しながら、
レコーディングは順調に進んでいきます。

一方その合間をぬって、
渡辺香津美とリー・リトナーとの打ち合わせやら、
ライブのジョイントの話も進めなくてはなりません。
ま、このへんはカルロス小池君が獅子奮迅の活躍。
そのおかげで全てもくろみ通りの成果が得られる。

ライブのジョイントとはどういうことかと言いますと、

その週に「リー・リトナー&ジェントル・ソウツ」が
『ベイクド・ポテト(BAKED POTATO)』
というライブ・ハウスに出演することになっていて、
なんとか香津美に飛び入りで演奏させられないか、
ということなのです。

すでにリーとは、彼の自宅にも行ったりして、
来たるべきレコーディングのための選曲やら
アレンジの打合わせやらは済ませていたものの、
他のメンバーとは初対面。

なにせレコーディングはたった一日でやってしまう、
ゆえにいいコミュニケーションをとる意味でも、
ぜひ一曲でもやらせておきたい。
これがこちらの意図でした。

しかしこれにはリーが反対。

というのは、彼らがライブをやると、
認めてもらいたい無名の若いギタリストやベーシスト達が
楽器を持って大勢待機している。
従ってそういうシーンを作ると、
収拾がつかなくなるというのです。

そこを粘りに粘ってなんとか2曲だけ、
ということで了解してもらいました。
(これはほんとに価値のあることでした。)


さて当日、「BAKED POTATO」の
バカでかいじゃがいもを食いながらステージを待つ私達。

この頃にはアメリカの「量はすごいが味なし料理」
に慣れてきていた私ではありましたが、
それにしてもどこで何を食ってもまずかった。

今でこそアメリカ人のほとんどが箸を上手に使い、
随分手軽でおいしいところが増えましたが、
私の友人のアメリカ人などは、
「日本人のおかげだよ、こうしてうまいものが食えるのは。」
と言ってくれるほど、日本人の‘味’に対するセンスは抜群。

日本の経済進出は随分アメリカ人に嫌われましたが、
この食文化の輸出だけは大歓迎されてるようです。
調子いいですね。まったく。


もちろん金さえだせばどこにだってうまいものはある。
私が言ってるのはごく‘日常のメシ’の話です。

ベナードも気を利かして
「きょうは今ロスで一番流行ってるイタリアンに行こう。」
とか
「一番有名なステーキ屋に行こう。」とか誘ってくれますが、
正直この程度なら東京だったらどこの街にも1軒や2軒はある。
しかも値段はバカ高い。

それに比べてわが日本はどうです。

そば、うどん、かつどん、天丼、カレーライス、オムライス、
焼き肉、寿司、てんぷら、和食、中華、イタリアン、フランス、
冬は鍋、夏はソーメン……、
もう世界のありとあらゆる料理が、
本場よりもさらにソフィスティケーテッドされて味わえる。

こんな話は他のミュージシャンの逸話も交ぜながら、
時折していきますが、
この初海外出張における私の最大の収穫は、
「日本に暮らしていることの幸せ」
を再認識したことでしょうか。

さて、リー・リトナー・バンドの面々が続々とやって来ました。
みな2週間後、東京で香津美とレコーディングをする連中です。
デイブ・グルーシン(KEY.)スティーブ・フォアマン(PERC.)
ハービー・メイソン(DR.)etc.そうそうたるメンバー。

ここで私と香津美はある賭けをしました。

(つづく)


(感想 2006/7/26)

おお!久しぶりの青空だ。

私、もう日本では、
太陽は拝めないのでは、
と思ってました。

ところで、
この渡辺香津美って、
すごい酒豪なんですよ。
知ってました?

一度、彼とカシオペアの向谷と僕の3人で、
下北沢に飲みに行ったことがあるのですが、
(そこは香津美の行きつけの魚の美味い小料理屋)

店ののれんをくぐって中に入ると大将が、
「香津美さん、きょう酒3本しか無いんだよ。」
と言い、3種類の‘一升瓶’を我々に見せました。

「ええっ?そんな。」
と残念がる香津美。

私は、
たった3種類しかないから、
いろいろな酒を楽しめない。
てっきりそれで悔しがってるものと思いました。

すると彼はこう言ったのです。

「しゅん、3本で足りるか?」

「……。」


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 22, 2006

ベナード・アイグナーの思い出   その3

2002年9月24日(火) No.23
ベナード・アイグナーの想い出、その3

With Benard I,

(写真:左から)
吉沢典夫(Engineer)
キース・アイグナー(Bass)
渡辺香津美(Guitar)
私(26才、若い!)
ベナード(Vocal & Keyboard)
村上“ポンタ”秀一(Drums)              
(敬称略)


思いがけず、
ロスでベナードの録音の続きをやることになった私。
飛行機ぎらいの私ですから、
さほど嬉しくもないが、
初めての海外出張ですからまんざらでもない。
そんな複雑な心境でしたね、その時は。

このアルファという会社は、
社員の人数も少なかったせいもあるのですが、
メチャメチャ人使いが荒い。

ちょうど同時進行で、
ギタリスト渡辺香津美に、
当時フージョン・ブームの先駆けとして人気爆発中のグループ
『リー・リトナー&ジェントル・ソウツ』
をからませたアルバムを企画していました。

そしてそのレコーディングは2週間後、
彼らの初来日にあわせて東京でやることになっていました。

折角僕をロスにまで行かせるのだから、
ベナードの仕事一つではもったいない、
と考えたのでしょうね、上層部は。
ならば香津美も一緒に渡米させて、
「リー達とコミュニケーションを取りつつ、
 綿密に打ち合わせして来い!」の命令が下りました。

さあ大変。香津美も私も初渡米。
にわか仕込みの英語でどこまでやれるかドキドキ。
(もっとも当の香津美はちょっとした観光気分でしたが。)

ロスに着いて早速先行していた村井社長と打ちあわせ。
すると開口一番、
「僕は明日帰るけど、レコーディングの段取りはすべて完了。
 しゅん、お前は明日、
 60人のオーケストラとベナードの唄を同時に録るので、
 しっかりディレクションしなさいよ。」

「鬼め!」
私は内心つぶやきました。

幸いロスには、
アルファでアシスタント・エンジニアをやってた
小池君(通称カルロス)がいたので、
車のほうは大丈夫。
しかし彼も他の件で忙しいので、
スタジオまでは送ってくれましたが、通訳はなし。

翌朝9:00。
スタジオにはピアノが2台、ハープが2台、
そして60人のオーケストラが僕を待ちかまえてました。

エンジニア(フィル・シェアーという敏腕)や指揮者、
アレンジャー、ベナードとのやりとりも含めて、
全部英語で仕切らなくちゃなりません。

その後海外レコーディングは死ぬほど経験することになるので、
だんだん面の皮が厚くなって、今では
「意味が通じなければそっちからわかる努力をしろ。」
てな感じでやってますが、その時はもう大変。
私の人生でこんなに緊張したことはありません。


ここで【音楽業界豆知識コーナー その2】

日本ではスタジオ・ミュージシャンをブックする場合、
たいてい1曲いくらとか時間いくらで押さえるのですが、
アメリカの場合は、
3時間でワン・セッションという考え方です。

従ってその範囲であれば、
何曲やろうと、どうやろうと、
プロデューサー側の勝手ですが、そのかわり
約束の時間を1分でもオーバーすると、
情け容赦なく次の3時間分の請求が来る。

このケースは3時間で2曲。
いやあ、もう、なにがなんだかわからないまま、
とりあえず2曲、無事に時間内で終了。

やさしいベナードも目一杯フォローしてくれましたが、
ほんとに何がなんだかわからないうちに終わった感じ。


ようやく最初の大任を終えて、
食事ものどを通るようになって、
ベナード達とアメリカン・レストランに昼食に行きました。

そこで、出された食事にまずビックリ。
とにかく量がすごい!
いったい何人前なんだろう。
そして、味は…、
ま、ま、ま、まず〜〜〜〜〜〜〜い!

翌日も、その翌日も、
ホテルのレストランで頼むものの全てが、
まずい……!!

これではベナードが、
『なす肉ピーマン炒め』や『オムライス』
に狂喜するのもわかる、と思いました。
ホントに…。

(つづく)


(感想 2006/7/22)

「レコード・コレクターズ」の特集で、
このベナードのアルバムが入用になり、
きのう必死で探したら、
ありましたよ、ありました。

多少変色してるものの、
あのなつかしいアルバム『LITTLE DREAMER』が。

私、現在、アナログ盤は聴けないし、
行きつけの学芸大「A'TRAIN」に行って、
20数年ぶりに聴かせてもらいました。

私の26才のときの作品、
とは思えないような素晴らしい出来。
(自画自賛の極み)

ま、それは冗談として(冗談ではない)
ベナードの曲の素晴らしさ、
歌唱力の素晴らしさ、
改めて感動した次第。

よっさん(吉沢さん)のミキシングも国際的、
ポンタもこのころは音数少なくてタイト!いい感じ、
香津美のギターも24才とは思えない円熟ぶり。

至福のひとときでした。
マスター、ありがとう!

なんで、こんな名盤がCD化されないのだろう?
(またしても自画自賛…)

ついでに、
当時の写真を見つけましたので、
掲載しておきますね。

みな、若い……。

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 21, 2006

ベナード・アイグナーの思い出   その2

2002年9月17日(火) No.22
ベナード・アイグナーの想い出 その2

ベナードのレコーディングは、
「盛楽」の『なす肉ピーマン炒め定食』
のおかげもあって順調に進み、
1週間ほどでベーシックなリズムを取り終え、
さあ次はオーバー・ダビング。


ここで【音楽業界豆知識コーナー】

通常レコーディングでは、マルチ・レコーダーを使って、
まずリズム・セクション
(ドラム、ベース、ギター、キーボード etc.)
を録音します。
そして必要とあらばその上にストリングス(弦)や,
ホーン・セクション(管)、コーラスなどを加えていきます。
これをオーバー・ダビング(OVER DUBBING)と言います。
外人は略してオーバー・ダブ(OVER DUB)。

で、最後に唄を入れるわけですが、
これはヴォーカル・ダビングと言うわけです。

つまり‘ダビング’とは、
「現在ある音源」の上に何かを足していく作業のことで、
したがってよく皆さんが使う、
「ねえ、このCDダビングさせてくれる?」ってのは
厳密には間違い。
あれはただ写すだけですから、
コピー(COPY)というのが正しいのです。


ま、そんなことはさておいてベナード君、
とある楽曲にトロンボーンをダビングしたいので、
5人用意してくれる?と私に発注してきました。

ハイハイと私。
そしてトロンボーン・ダビングのその日。

彼の書いてきた譜面を見て私はがく然としました。
なんと‘ト音記号’で書いてあるではないですか。
たったの8小節程、しかも全部ユニゾン。
学校の音楽の時間で習ったかと思いますが、
トロンボーンというのは低音の楽器なので、
‘ヘ音記号’で書くのです。
(ちょっと専門的ですみません)

もちろんレコーディングは大失敗。
ギャラだけが空しく消えました。

これはベナード君、
楽典的知識はないなあと察知した私。
翌日のストリングス・セッションもすぐにキャンセルして
村井社長に相談。3人で緊急会議。

しかしこのベナード君、なかなかのがんこ者。
「ジス・イズ・マイ・ミュージック」とか言っちゃって、
どうしても自分で書く、の一点張り。

私達「チェロはヘ音記号でビオラはアルト記号で書くんだよ」
ベナード「それは知らないが、いい音楽はいい音楽。
     僕はいいものにする自信がある。」
私達「だったら、君が充分にイメージを伝えて、
   専門家に書いてもらえばいいじゃないか」
ベナード「しかし私以上に私の音楽を分かりえない。」

などというアホみたいな話し合いの結果、
ベナード君もついにしぶしぶ折れた。
ただし、アレンジャーの選択は自分がする、
レコーディングはロサンゼルスで、という条件。

そして、翌日からのレコーディングはすべてキャンセル。
ベナードは早々と準備のために帰国。
もちろん心配ですから、
村井さんも打ちあわせに参加するために
急きょロスに発つことになりました。


ここでベナードのために一言。

私は譜面の読める読めないは、
音楽家の価値としてはなんら関係ないと思っております。
ジョン・レノンもエロール・ガーナーも譜面読めません。
ベナードも、暖かくて心にしみるいい唄を書いて、
自ら素晴らしいヴォーカルを聞かせる最高のアーティストです。

しかし、チェロのプレイヤーに「ト音記号で演奏しろ」
というのは無理な注文なのです。

ということで、思いもかけぬことに、
このアルバムは日米を又にかけた、
大げさなものになってしまいました。

私の‘初海外出張’
‘初海外レコーディング’
というおまけ付きで。

(つづく)


(感想 2006/7/21)

このベナード君

雰囲気でお分かりでしょうが、極めて温和。
かつユーモア・センスも抜群で、
毎日変な日本語を覚えては、
私たちを笑わせます。

ただし、
興奮すると‘どもる’くせがあるので、
通常はゆっくりしゃべります。

これが、私の英語教育に、
たいそう役立ちました。

文法や単語のすみずみまで、
極めてはっきり聞き取れるのですから、
理想的な英語の先生でしたね。

いまでも、その点だけは
感謝!

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 19, 2006

ベナード・アイグナーの思い出

2002年9月4日(水) No.21
ベナード・アイグナーの思い出

きょうは、
ベナード・アイグナー(BENARD IGHNER)という人のお話。

このひと、名前を聞いただけでわかる人は少ないでしょうが、
『EVERYTHING MUST CHANGE』という
素晴らしい楽曲をご存知の方は多いのでは。

その作曲者であり、
クインシー・ジョーンズのアルバム『BODY HEAT』では、
クインシーの素晴らしいアレンジに乗って、
ベナード自ら渋くて甘い歌唱を聞かせてくれています。

Body Heat

さらには名作の誉れ高い、
マレーナ・ショアのアルバム
『WHO IS THIS BITCH ANYWAY?』
のプロデューサーでもあります。

Who Is This Bitch

今から25年くらい前、
当時つとめていたアルファの村井社長がその声と作品に惚れ、
このベナードと契約したのです。
日本で制作した彼を、
全米で売り込もうという野望にもとに…。

そして私がその担当を命じられました。

さてこのベナード・アイグナーという男。
190cmはあろうかと思わせる巨大な黒人。
しかし何ともいえない優しい目をしてて、
私は一発で好きになりました。

そして彼の曲はどれもヒューマンな優しさに包まれている。
名ドラマーのハービー・メイソンは
特に彼の詞を絶賛していました。
なんともいえない人間味と自然賛美があると。

そしていよいよレコーディングのために彼が来日。
ここから彼と私の、
まさに珍道中的な1ヶ月が始まりました。

スタジオは、
芝浦にあった「アルファ・スタジオ STUDIO‘A’」
ベナード自身がキーボードと唄、
そしてベースは彼の弟のキース・アイグナー。
ギターとドラムは日本から、という彼の希望もあって、
渡辺香津美と村上ポンタに依頼。

毎日1:00〜10:00くらいのロング・レコーディングゆえ、
当然出前の食事が必要になる。
で、その初日。

「盛楽」という近くの中華屋のメニューを
にわか仕込みの英語でひとつひとつ説明する私。
しかしなかなか理解できない二人。

日本もはじめて、日本でメシをくうのもはじめて。
それに加えて外人とはじめて仕事をする私。
いやはや、なんともこれにはまいりました。

とりあえず「鳥の唐揚げ定食」
(これは「フライド・チキン」でなんとか理解できたよう。
 まずはむこうも、とりあえず無難な選択をしたようです。)
に落ち着きました。

実はこの「盛楽」では、
「なす肉ピーマン炒め定食」というのが実にうまい!
そして、こんなもん英語で説明などできない。

もちろん私はコレ!

さあ出前が来ました。
ベナードとキース君。
「鳥の唐揚げ定食」を
「オー!デリシャス!グー!ファンタスティック!」
とえらくご満悦。
しかもこの人たち箸も上手に使うんです。
当時のアメリカ人では珍しいことでした。

その時、
「なす肉ピーマン炒め」をうまそうに食ってる私に
ベナードが不思議そうな顔をして聞きました。

「シュン、それ、なに食ってんの?」
説明するの面倒だから、
「一口食う?」と私。

恐々口に入れたベナードの顔が急変しました。
そして一言
「う、う、う、うま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!!
シュン、あした俺これにする!」と絶叫。
もちろんキース君も同じ。

さて、翌日。
きょうもレコーディングは順調。
そして楽しい出前の時間がやってきました。

もちろんベナードとキース君は
嬉々として「なす肉ピーマン炒め」を注文。

この世の物とは思えないような、
なんとも幸せそうな顔をして、
彼らは食べ続ける。

で、その日の私は「オムライス」。

するとまたベナードが、
「シュン、それなに食ってんの?」
「一口食う?」と私はきのうと同じ返事。
またしてもベナードは絶叫。
「う、う、うま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!!
シュン、あした俺これにする。」

翌日は彼らが「オムライス」で
私は「レバニラ炒めとギョーザ」
そして、またしても同じことが繰り返されます。

こんなことが5日も続いたある日、
ベナードがしみじみ聞きました。

「シュン、この‘偉大な’レストランはどこにある?」
私は窓越しに(このスタジオはビルの5階。窓の下には川)、
「あそこに見える、こ汚い、ちっちゃな、ほれ、あの店だよ。」
と教える。

するとベナード
「あの店は日本でも有名なんだろうな。」
としみじみ…。

そのときです。
私ははじめて知りました。
日本はなんて食い物のうまい国なんだろうと…。

(つづく)


(感想 2006/7/19)

いやあ、このエッセイもなつかしい。
しかしここでもまた食い物の話になってますね。
……。

今は綺麗になって、
エリート・サラリーマンがたくさん、
といった感じの華やかな芝浦ですが、

当時は汚くて、浮浪者や酔っ払いなども多く、
レコーディングが終わって夜遅く、
駅の向こう側(三田口)にたどり着くまでは、
けっこう緊張したものです。

なによりも、大男の黒人のベナードが、
「シュン、ここニューヨークみたい。怖いよう。」
と怯えながら言ったのにはビックリしました。

「誰がお前なぞ襲うか。
 むこうが逃げるわい。」
と秘かに思ったものです。(笑)

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 14, 2006

名古屋ケントス その10

暑い!
たまらん。

私、早くも夏バテです…。


「名古屋ケントス その10」

4/3(月)ジェミニ&レベルス
2日めのリズム・セッション

私、丹羽くん、ミューチャーの田中君、ショーちゃん
の4人は、
ホテルの裏に再び「山本屋本店」を発見。

「なあんだ、本店はここじゃないか。」
「するとこの間の‘山本屋本店’は何だったの?」

と会話しながら、
ここに入って遅めの朝食。

しかし、

やはり味は以前のそれではない。
絶対昔はもっと‘こし’があって美味かった。

しかも私の知ってる「山本屋本店」は、
古びた二階建ての日本家屋。

私は店の女の子にこう尋ねました。

「ここは、山本屋の本店なの?」
女の子
「はい、山本屋本店です。」

「でも、僕の記憶では、
 本店は箸も太くて、もっと風情があって、日本家屋で、
 こんな感じじゃなかったんだけど。」

すると彼女、
「ああ、それは本家の本店のことでしょう。
 それならまだありますけど、
 ここはその分家の‘山本屋本店’のひとつでして。」

で、1枚のパンフレットを持ってきた。

そこには、‘山本屋本店’と称するお店が、
何十軒も写真入りで紹介されており、
しかもそれらはすべて‘山本屋本店’
となっている。
さらに、これに本家のいろんなお店を足すと、
‘山本屋本店’というのは、
名古屋地区だけで無数にあることになる。

私はこう思いました。
‘山本屋本店の本店’
という説明をしないと、
私のめざすところには行けないではないか、と。


さて、二日目のレコーディングも順調に終了。

とてもエネルギッシュな演奏が録れました。

丹羽くん、田中くんは写真撮影のためもう1泊。

私とショーちゃんは、
駅弁とビールと、おみやげの‘ういろう’を買い込んで、
一路東京へ。

ちなみに私、
駅弁は断然「幕の内弁当」が好き。

シャケやら、煮物やら、カツやら、
さまざまなおかずに、
梅干しが中央にあるアレ。

ゴハンはちょっと冷たくなってるが、
それがまた旅の旅情をかもしだしてて、
いいのです。

それから、‘ういろう

名古屋名物のこの‘羊羹’にも似た食い物。
これも独特ですよね。

息子に頼まれたこともあるのですが、
久しぶりにこれも堪能しました。

この後も、
朝は新横浜で「駅弁」を買い、
そのまま名古屋のスタジオでレコーディング、
帰りも駅弁と‘ういろう’を買い込んで帰京。

こんな生活を何回か繰り返した4月でした。

それから名古屋といえば、

赤福

これもなかなかにうまい…。
………。


なんだかこのシりーズは、
食い物の話ばかりのような気が…。

SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

July 13, 2006

名古屋ケントス その9

7/10(月)の「ALL OF ME CLUB」
プロ、アマ問わず、
たくさんの歌手のみなさんと共演できて、
とても楽しいライブでした。

次回は8/14(月)です。
又ガンガン来て下さいよ。


「名古屋ケントス その9」

この長い連載をタラタラやってる間に、
なんとCDが発売になってしまいました。(7/12)

当初は名古屋限定発売だそうですが、
いっぱい売れて、
早く全国展開ができることを祈ってます。

とにかく文句なく楽しいアルバム!
ホーム・パーティーに最適。
おじいちゃんもおばあちゃんも、
おとうさんもあかあさんも、
こどももあかちゃんも、
みんなでこれを聴きながらダンス、ダンス!

という感じですか。

さて、「ひつまぶし」をたらふく食べ、
しかもまだ夜の9時。

録音スタッフは「明日がありますので」
と早々に引き上げたものの、
残った我々は、
とりあえず一杯飲みに行くしかない。

丹羽くんだけは、
「さ、食うものも食ったし、
 どこへでもおつきあいしますよー。」
と元気いっぱいなものの、
私、田中、ショーちゃんは、異常な満腹ゆえ、
ホテルの近くのバーへ行っても、
酒はぜんぜん進まない。

どよ〜んと眠くなるし、
話もぜんぜん空回りで、
いわゆるみんな「もぬけの殻」状態。

「しょうがねえ、部屋へ帰って寝るか。」
と解散するしかない。
それでもまだ11時。

苦しいお腹をベッドに横たえて、
トリノ・オリンピックの再放送を
ボケーっと観てたのですが、
そのうち、
満腹で、幸せいっぱいで、
満面笑みをうかべてスースー寝ている丹羽の顔が、
浮かんできたのです。

突如私は、ガバっとはね起き、
冷蔵庫のミニ・バーにある酒という酒を、
かたっぱしから飲み干したのでありました。


ところで、
肝心の「ひつまぶし」のお味ですが、
なかなかけっこうなものでありました。

誤解のないように、
最後に言っておきます。

SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

July 12, 2006

gemi II with REVELS


 “名古屋の熱い夜を再現!
  今、何故?
  異様に盛り上がるオールディーズ・ブーム!”


その発信地は、名古屋ケントス。
ここで生まれたgemi II with REVELS。

キュートな双子姉妹、ジェミニが歌い踊り、
クールなバンド、レベルスがビートを固める。
ライブは毎夜、老若男女で溢れ返り、
狂乱のダンスフロアと化します。

演奏されるのは、1950〜60年代ヒット曲の数々。
オリジナルを知る世代にとっては懐かしく、
未知の若者には驚きのグッド・メロディーズです。

今回のデビュー・アルバムは、
200を超すレパートリーの中から
洋邦問わず、珠玉の名曲を多数収録しました。
しかもライブで鍛え上げたサウンドは、
オリジナルよりラウドで激しく、
現代の息吹が注入されています。

さあ、オトナもコドモも、存分に楽しんでください!


●CD

"OLDIES BUT GOODIES"

from NAGOYA KENTO'S 〜恋のヒットパレード〜

Revels.CD

2006年 7月12日発売
¥2,800 (Tax in) / PYCE-2005

01. 恋のフーガ
02. ロコ・モーション
03. 子供じゃないの
04. この世の果てまで
05. 恋のバカンス
06. ダ・ドゥ・ロン・ロン
07. 素敵な16才
08. ボーイハント
09. キッスは目にして!
10. 可愛いベイビー
11. 大人になりたい
12. 悲しき片想い
13. ヴァケーション
14. 砂に消えた涙
15. ふりむかないで
16.スターダスト

全16曲

●同時発売 DVD

"OLDIES BUT GOODIES"

from NAGOYA KENTO'S 〜gemi II with REVELS LIVE SHOW 〜

Revels.DVD

¥3,000 (Tax in) / PYBE-2004

01. 恋のフーガ
02. 恋のバカンス
03. ヴァケーション
04. ロコ・モーション
05. キッスは目にして!
06. この世の果てまで
07. ボーイハント
08. ふりむかないで
09. 大人になりたい
10. スターダスト

全10曲


PRODUCED BY SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

July 09, 2006

筒美京平さんのお話

2002年8月9日(金) No.19
筒美京平さんのお話

Mr.Tsutsumi

きょうは筒美京平さんの登場です。
日本のジョージ・ガーシュインが村井邦彦さんなら、
日本のコール・ポーターはこの人(前回のエッセイ参照)。

とにかく1960年代のGS時代から今日に至るまで、
ヒット曲の数では日本音楽史上最高の存在でしょう。

レコーディングされた曲が4,000曲以上、
オリコンで1位を取った曲が90曲以上、
ベスト10以上が400曲以上ということですから、
この先生と比べたら、
小室哲哉やつんくも可愛く見えちゃいます。

私はアルファという、
ニュー・ミュージックあるいはフュージョンといった、
いわゆる歌謡界とは一線を画す会社にいましたから、
筒美京平という巨大な存在はもちろん知っていたものの、
お仕事をする機会はないんだろうなあと、
ずっと思ってました。

その筒美さんに初めてお会いしたのが7、8年前。
確かソニーの酒井政利さんのご紹介でした。

ところが何故か、こんな私に興味を持っていただいて、
以来、週一くらいのペースで、
食事やお茶のお誘いを受けることに。

そして、
ヒット曲作りのご高説やら、
あつかましくも私の悩み相談やら、
業界の人物に対しての接し方のアドバイスやら、
それはそれは本当にお世話になりました。

普通歌謡曲の大先生ともなると、
銀座のクラブやゴルフなどに、
湯水のごとくお金を使う方が多いのですが、
この先生は違います。

美味しいものを食べながら(すごい美食家)、
気に入った仲間と最近の音楽界の傾向やら、
業界のよもやま話などして、
それを次のヒット曲作りに活かす。

オフは南の島でひとりボケーッと本を読むのが好き、
という物静かなジェントルマン。

そんな彼の信条は
“ヒット作りのコツは大衆の半歩先を行く”というもの。
私なんぞは、
「あなたは時々2歩も3歩も先を行きすぎるんですよ。」
とよく苦言を呈されておりました。


昨年、彼の膨大な作品を
8枚組のCDにまとめたものが発売されました。

その懐かしい曲のアレコレを聴きながら解説を読んでみると、
“なるほど”と思うものがありました。
時代のとらえかた、
ほんのちょっとだけ先を行く巧みなテクニック、
やはり怪物と言わざるをえません。

そして、「いつか君と一緒に1位を取りたいねえ。」
と有り難すぎるお言葉をよくいただいてたのですが、
実はほとんど仕事はご一緒したことがなく、
従って残念ながらそれはかなうことなく今日に至っています。

なぜならば、
その後ソニーの契約プロデューサーとして、
しばらくはTOKIOやら宮沢りえなど、
芸能界の仕事が中心になっていった私に対し、
先生の方はピチカート・ファイヴや小沢健二、NOKKO
といったアーチスト系に興味を持たれ、
お互いが過去の作風とは逆の道を歩み始めたたことも、
大きな要因になったのかもしれません。

とにかくヒットを作ることが何より好きなお方で、
その飽くなき執念には本当に驚かされます。

ここ数年はお会いしていませんが、
ますますのご活躍をお祈りしてますし、
本当に一度一緒にヒットを作ってみたい
という願望は私の方は何ら変わってはいません。

でも又ジャズなんか始めちゃったから、
ますますムリかなあ(笑)。
なにはともあれ、
いつまでも素敵な曲を提供し続けていただきたいものです。

ここで、「筒美京平ってどんな曲があるの?」
という方のために、
私の知ってる範囲でその一部をご披露しましょう。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』
『あなたならどうする』(いしだあゆみ)
『渚のうわさ』(弘田三枝子)
『バラ色の雲』(ヴィレッジ・シンガーズ)
『マドモアゼル・ブルース』(ザ・ジャガーズ)
『スワンの涙』(オックス)
『粋なうわさ』(ヒデとロザンナ)
『雨がやんだら』(朝丘雪路)
『サザエさん』(宇野ゆう子)
『また逢う日まで』『愛する人はひとり』(尾崎紀世彦)
『真夏の出来事』(平山三紀)
『さらば恋人』(堺 正章)
『お世話になりました』(井上 順)
『夜が明けて』(坂本スミ子)
『雨のエアポート』(欧陽菲菲)
『ひまわりの小径』(チェリッシュ)
『17才』『潮風のメロディー』『純潔』『哀愁のページ』
『色づく街』『ひとかけらの純情』(南 沙織)
『初恋のメロディー』(小林麻美)
『芽ばえ』『私の彼は左きき』(麻丘めぐみ)
『赤い風船』(浅田美代子)
『恋のインディアン人形』(リンリン・ランラン)
『男の子 女の子』『小さな体験』『花とみつばち』
『よろしく哀愁』『誘われてフラメンコ』(郷ひろみ)
『青いリンゴ』『オレンジの雨』『甘い生活』(野口五郎)
『恋する季節』(西城秀樹)
『雨だれ』『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)
『二重唱(デュエット)』『ロマンス』『センチメンタル』
『シンデレラ・ハネムーン』(岩崎宏美)
『哀愁トウナイト』
『セクシャル・バイオレットNo.1』(桑名正博)
『東京ララバイ』(中原理恵)
『飛んでイスタンブール』(庄野真代)
『魅せられて』(ジュディー・オング)
『たそがれマイラブ』(大橋純子)
『よろしかったら』(梓みちよ)
『スニーカーぶる〜す』『ギンギラギンにさりげなく』
『情熱・熱風・せれなーで』(近藤真彦)
『センチメンタル・ジャーニー』(松本伊代)
『夏色のナンシー』(早見 優)
『ドラマティック・レイン』(稲垣潤一)
『まっ赤な女の子』『ヤマトナデシコ七変化』
『なんてったってアイドル』『夜明けのMEW』(小泉今日子)
『Romanticが止まらない』『空想Kiss』(C-C-B)
『あなたを・もっと・知りたくて』(薬師丸ひろ子)
『1986年のマリリン』(本田美奈子)
『ツイてるね ノッてるね』
『WAKU WAKUさせて』(中山美穂)
『仮面舞踏会』『君だけに』『A B C』(少年隊)
『人魚』(NOKKO)
『カナディアン アコーデオン』(井上陽水)
『タイムマシーン』(藤井フミヤ)
『強い気持ち・強い愛』(小沢健二)

ああ、疲れた…。


(感想 2006/7/9)

この3月、
酒井政利さんのパーティーで、
久しぶりに筒美先生とお会いしました。
とてもお元気そう。

噂では、
私のジャズ・ライブにも「行こうかな」
とおっしゃってるらしい。

楽しみにしてます。

そんな私の次のライブは、
7月10日(月)、
「セカンドマンデー・ドリーム」
と称してレギュラーになった、
『六本木 ALL OF ME CLUB』

大好きなメンバーとのピアノ・トリオに加え、
次代を担うヴォーカリストたちが、
素敵なパフォーマンスをしてくれます。

サッカーの余韻に浸りながら、
ぜひ楽しんでいって下さい。


さ、いよいよ決勝だ!
イタリアかフランスか…。

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 07, 2006

ジョージ・ガーシュインとコール・ポーター

2002年8月2日(金) No.18
ジョージ・ガーシュインとコール・ポーターのお話

ジャズ・スタンダードのほとんどがミュージカルのヒット曲。
そしてそれらのヒット曲を作り出した数多くの作曲家の中で、
この二人が私は大好きです。

まず、ジョージ・ガーシュイン(1898〜1937)

黒人が作り出したジャズに、『RHAPSODY IN BLUE』
に代表されるシンフォニック・ジャズを導入。
ジャズを、黒人だけのものから、
白人にも愛される“芸術”にまで高めた最大の功労者です。

当然その作風は洗練かつ気品があって、
いわゆる“UPPER MIDDLE CLASS”の人々にも
絶大な支持を得ました。

『A FOGGY DAY』
『BUT NOT FOR ME』
『I LOVE YOU PORGY』
『EMBRACEABLE YOU』
『NICE WORK IF YOU CAN GET IT』
『'S WONDERFUL』
『SOMEONE TO WATCH OVER ME』
『SUMMERTIME』
『SWANEE』
『THE MAN I LOVE』
『THEY CAN'T TAKE THAT AWAY FROM ME』
『I'VE GOT A CRUSH ON YOU』
『OUR LOVE IS HERE TO STAY』
『HOW LONG HAS THIS BEEN GOIN' ON』
etc.

とまあ、今でも愛され続けてる名作がめじろ押し。


それから、コール・ポーター(1891〜1964)

彼もヒット曲の多さではガーシュインに勝るとも劣りません。
そしてその作風はもっと庶民的でより大衆に向かっています。
題材も娼婦や愛人やらがテーマになっていたりもします。
しかしアカデミックな要素も随所にちりばめられていて、
一言でいえば軽妙でお洒落。
粋なセンスに満ち溢れています。

『I'VE GOT YOU UNDER MY SKIN』
『ALL OF YOU』
『ANYTHING GOES』
『BEGIN THE BIGUINE』
『SO IN LOVE』
『MY HEART BELONGS TO DADDY』
『NIGHT AND DAY』
『I GET A KICK OUT OF YOU』
『LOVE FOR SALE』
『IN THE STILL OF THE NIGHT』
『IT'S ALL RIGHT WITH ME』
『JUST ONE OF THOSE THINGS』
『YOU DO SOMETHING TO ME』
『WHAT IS THIS THING CALLED LOVE』
『TOO DARN HOT』
『YOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO』
etc.

とまあこれ又すさまじいヒット曲の嵐。

どれも半世紀以上も前の曲ながら、
今もって唄われ続けている、恐るべき生命力。
敬服の極みです。

さて前回、
日本のジョージ・ガーシュインは村井邦彦さんの
イメージがすると言いましたが、
すると日本のコール・ポーターは誰になるのでしょう?

私のイメージでは、ずばり、筒美京平さん、
という亊になります。

ともに学生時代は軽音楽部でジャズ・ピアノに興じ
(筒美さんは青山学院大)、
作曲家としても偉大な功績を残されたお二人ですが、
その目指すところはある意味で好対照。

村井さんが、
ニュー・ミュージックの先鞭となる洋楽センスの導入により、
新たなポップスの世界を切り開いたのに対し、
筒美さんはむしろ伝統的な歌謡曲の中で、
より大衆に向かって、
少しづつ時代を先取りしながら、
その粋なセンスで歌謡界に新風を吹き込んでいったのです。

ガーシュインが主にメジャー系のキーを好んだのに対し、
ポーターの名曲には圧倒的にマイナー系の曲が多い。
このあたりも、
村井さんと筒美さんの相関関係に類似するものがあります。
ということで、次回はその筒美先生の登場です。
(いいんでしょうか、こんなに好き勝手にやっちゃって?)


(感想 2006/7/7) 

『アメリカ交響楽』
という映画があります。

1945年のアメリカ映画で、
このジョージ・ガーシュインの生涯を描いた作品。
音楽映画としても、伝記映画としても、
なかなかよく出来た作品で、楽しめます。

ガーシュインの曲の素晴らしさに、
今さらながら驚かされますよ。
今、500円とか1000円といった廉価で、
容易にDVDを手に入れることができますので、
興味のある方は、
ぜひご覧になって下さい。

惜しむらくは、
主役が二枚目すぎること、
髪の毛がふさふさすぎること。

当のガーシュインは若ハゲでしたから。(笑)

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 05, 2006

引き続き、村井邦彦さんのお話


2002年7月25日(木) No.17
引き続き、村井邦彦さんのお話

村井さんの数ある名曲の中で、私の一番好きな曲。

それは、ピーターの『夜と朝のあいだに』

高校3年生だったでしょうか?
ラジオでこの曲を聴いて、
「へえ、いい曲だなあ」とまず感心。
     
   夜と朝のあいだに ひとりの私♪

とはじまり、最後は
     
   鎖につながれた むく犬よ♪
   おまえも静かに眠れ♪
    (作詞 なかにし礼)

それまでの歌謡曲とは一味違う洋楽センス。
バックにコロコロと流れるジャージーなピアノのサウンド。
なかにし礼さんのスゴミのある詞。
ピーターの甘い低音。

大都会の朝(私のイメージは新宿でしたが)、
それまでの雑踏がウソのような、
荒廃した静けさのなかに佇む孤独な青年。

目の前にパーッとそうした情景が浮かび、
ちょうどジャズに魅せられ始めてた頃ですから、
よけい心に共感するものがありました。

ちなみに‘夜と朝’は、
ギリシャ語で‘女と男’という意味を兼ねるそうです。
するとこのタイトル…。
ピーターという存在を考えると、なんとも深い意味が…。

プロデューサーはあの酒井政利さん。(当時CBSソニー)
3人の天才クリエイターが、
ピーターというユニークなキャラクターのために作り出した、
見事な一品だったというわけです。

それにしても、この村井さんとその後出会い、
そのことが私の人生を決めてしまう亊になろうとは、
その時はこれっぽっちも考えられませんでした。

話は変わりますが、
アメリカのミュージカル、
或いはジャズ・スタンダードにその名を残す作曲家達の中で、
私が最も敬愛するのが、
ジョージ・ガーシュインとコール・ポーター。

私は村井さんのセンスというのは、
ガーシュイン的だなあとずっと思ってました。

次回はそのガーシュインとポーターのお話を。

(感想 2006/7/5)
朝の4時に‘目覚まし’をかけ、
W杯サッカー「イタリアードイツ」を観てたら、
突然飛び込んできた、
北朝鮮ミサイル発射のニュース。

おかげで、きょうも寝不足です。
それにしても、
何を考えてるんでしょうか?

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 04, 2006

村井邦彦さんのお話

2002年7月17日(水) No.16
村井邦彦さんのお話

Mr.Murai

前回の渋谷森久さんの時にもちらっと登場した、
私の師匠、村井邦彦さんのお話です。

大学も卒業間近(1974年)の私、
プロのジャズ・ピアニストになるのを断念して、
「さてこれから、何をやって食っていこうかな」
とのんびり構えていたわけですが、
ある人の紹介でアルファ(当時はまだ原盤制作会社)
という会社に突然就職することになりました。

で、そこの社長が村井邦彦さん。

私が学生時代在籍していたサークル、
「慶応ライト・ミュージック・ソサエティー」の先輩であり、
同じくピアノを担当していたということもあり、
すごいスタジオを持っているということもあり、
「音楽に関係ある会社みたいだから、
 ま、俺でも何とかやっていけるだろう」
今思えば、そのくらい軽い気持ちでの就職でした。

まさかこれが、
その後の自分の人生を決めてしまうとは、
その時はこれっぽっちも考えなかった。

村井邦彦さんといえば、
社長としてプロデューサーとして、
すごい手腕を発揮して、
音楽界の革命児的存在のアルファを作り上げた人ですが、
一方で大変に優れた作曲家でもあります。

今日は作曲家としての彼に、
スポットを当ててみようと思います。

村井さんの曲はとにかくお洒落!
従来の日本の歌謡曲にはなかった洋楽センスに溢れた作風で、
その後のニュー・ミュージックや、
今で言うところのJポップの先駆けになった、
といっても過言ではない。

代表作は何と言っても「赤い鳥」の『翼をください』

学生バンドとして名を馳せてたこのグループを、
直々に関西まで出向いてプロとしてスカウトしただけあって、
村井ミュージックを表現するにふさわしい堂々としたグループ、
そして歴史に残る名曲中の名曲でした。

「赤い鳥」では他にも
『忘れていた朝』や『窓に明かりがともる時』
などの名作があります。

「トワ・エ・モア」も
村井作品の表現者としては最高のグループ。

大学生の頃の私は、
日本の歌謡曲をどこかバカにしていたものですが、
『ある日突然』を巷で聞いたとき、
「へえー、日本にもお洒落な曲が出てきたなあ」
と妙に感心したものです。
(村井さん、生意気言ってごめんなさい。)

『虹と雪のバラード』(札幌冬季五輪のテーマ・ソング)
もフランシス・レイの『白い恋人たち』
(グルノーブル冬季五輪のテーマ)と並ぶ大傑作でしょう。

他にも、
森山良子『美しい星』、テンプターズ『エメラルドの伝説』、
辺見まり『経験』、北原ミレイ『懺悔の値打ちもない』、
ビッキー『待ちくたびれた日曜日』、
ハイファイセット『スカイ・レストラン』などなど
たくさんの美しいヒット曲をお持ちです。

いわば、洗練された村井さんの作風が、
そのままアルファのカラーとなり、
ユーミンに代表されるニュー・ミュージックの
旋風につながっていったのです。

余談ですが、ユーミンも村井さんが発掘。
そしてこの‘ニュー・ミュージック’という言葉は、
ユーミンを売り出すために、
アルファの会議室でみんなで考え出したのです。
これはホントの話。

村井さんという存在がなかったら、
ユーミンがあれほど早く世に出たかどうか分かりません。

そんな村井さんの数々の名曲のなかで、
私が最も好きな曲。

それは、ピーターの『夜と朝のあいだに』という曲。

(つづく)


(感想 2006/7/4)

現在『レコード・コレクターズ』という雑誌で、
4月号から、このアルファの特集をやってます。
私も先日取材を受けました。
たぶん来月号あたりに登場するのでは…。

それにしてもフランスのブラジル戦での戦いは、
本当に見事でしたね。
さすがジダン!

そろそろこの寝不足の毎日から解放。
ホっとする、と同時に、
なんだか寂しい気もしますが…。

SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

July 01, 2006

名古屋ケントス その8

いやあ、きのうの「A'TRAIN」も完全燃焼。
いつもなら0時過ぎてからいっぱいになるのに、
11時の開演の時間ですでに満員。

この時点で、
遊びに来てくれた可愛いチビっ子・シンガーズの4人は、
早くもカウンターの中で立って飲む、
という有り様でした。

途夢♪待人さんは、「代ナル」に続いて連チャン。
(そうそう彼のサイトも面白いですよ。
 LINK貼ってありますので、こちらのほうもぜひどうぞ。)
きのうのワインも美味しかったですか?

そんなわけで、
帰ったのは朝の6時でした。

次の私たちのライブは、
7/10(月)「六本木 ALL OF ME CLUB」です。
また盛り上がりましょう!


『名古屋ケントス その8』

「えへん、さて、みなさん。
 これから‘ひつまぶし’の正しい食べ方について、
 説明します。」

と、丹羽くんの講義が始まりました。

「まず、最初の三分の一はそのまま食べます。
 これだけでも相当にうまい。

 そして、次の三分の一は、
 そこにある薬味やら葱を混ぜて食う。
 これがさらにうまい。

 さらに最後の三分の一は、
 なんと茶漬けにして食う。
 びっくりするでしょうが、
 これがまた、けっこういけるんですよ。
 ぜひ試してみて下さい。

 では、いただきまーす。」

とパクパク食い始めた。

(‘ひつまぶし’についてイメージの湧かない方は、
  『名古屋ケントス その6』に写真を載せてありますので、
  ご覧になってください。)

「しょうがねえな。」
とコップ一杯のビールをあおって、
私も食い始めましたが、
ここはひとつ、
いささかの抵抗のひとつもしなくてはと思い、
私はこう切り出しました。

私「あのさあ、丹羽よ。」

一心不乱に食い続けてる丹羽は、素っ気無く、
「なんです?しゅんさん。」

私「俺、こういうところは、
  やはり‘女子供’の来るところだと思うんだけど。」

すると丹羽、あっけらかんと、

丹羽「何言ってんですか、しゅんさん。
   カップルだっていっぱいいるじゃないですか。
   ほらそこにも、あそこにも。
   ここは、老若男女、みんなに愛されてるんですよ。
   みんな美味しいものはよく知ってるんですね。
   ボクは一度しゅんさんに、
   ここの‘ひつまぶし’を食べてもらいたかったんですよ。」

ときた。

話がかみ合わない…。


そうこうするうちに、

丹羽「さあ、そろそろ次の段階ですね。
   そこの薬味やら葱を混ぜてみて下さい。
   どうです須藤さん、うまいでしょ。
   しゅんさん、うまいでしょ。」

と言い、またもやパクパク、モグモグ。

丹羽のことをよく知らない録音スタッフの人たちは、
「ほんと、美味しいですね。」
と褒めたたえるので、
丹羽くん、ますます上機嫌。

しかし私も負けてはいられない。

私「でもねえ、丹羽よ。」

丹羽「なんです?しゅんさん。うまいでしょ。」

私「ああ、まあ、うまいけど、
  俺こういうところは、
  ‘家族連れ’で来るのが一番だと思うんだけど。」

丹羽、さらに悪びれた様子もなく、

丹羽「そうですね。確かに‘家族連れ’は多いですね。
   なんてったって、食事は家族一緒でするのが、
   一番ですからね。
   ボクも、東京にいるときは、
   どんなに遅くなっても、
   晩メシは家族一緒に食べるんですよ。」

と答えて、パクパク、モグモグ。

いかん、ますます話がかみ合わん…。


そして‘ひつまぶし’は最終段階に。

丹羽「さあ、最後はみなさん、 
   茶漬けにしてみて下さい。
   だまされたと思って。
   これがまた、本当にうまいんですから。」

と言い、率先して食い始める。

私も言われたとおりに茶漬けにしながら、
最後の抵抗を試みる。

私「でもねえ、丹羽よ。」

丹羽「なんです?しゅんさん。
   けっこういけるでしょ、茶漬けにしても。」

私「俺、こういうところは、
  昼間来るところだと思うんだけど。」

すると丹羽、ますます自信たっぷりに、

丹羽「何言ってんですか、しゅんさん。
   ここは昼間は長蛇の列ですよ。
   30分、40分待ちなんてザラなんですよ。
   夜だから、しかも日曜日だから、
   こうして大して待ちもせず、食べられるんです。

   ボクはちゃんとこういうとこまで、
   計算してあったんです。」


こりゃ、だめだ、
まったく話がかみ合わない…。

そうこうするうちに、
またたく間に食事は終了。

丹羽くん、ご機嫌で、
「ごちそうさまでした。」
と伝票をミューチャーの田中に回す。


私は丹羽に聞こえないように、
となりに座ってる田中くんに、
小声でこうささやきました。

「田中、これ以降、
 晩メシのセッティングは、
 丹羽にはやらすな。」

田中も心得てたらしく、
「了解してます。」
と、ひとこと。

そして時計をみると、
まだ夜の9時。
しかも苦しいくらいの満腹感。

これから、どうすればいいのだ。
この異国の地で…。

(つづく)

SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ