August 2006

August 28, 2006

学園紛争 その3

思い出は、果てしなく続く…。

昭和44年の秋。
私が高3の秋。

夏休みが終了と同時に生じた、
私が通う高校の‘バリケード封鎖’は、
早や3ヶ月目を迎えようとしていました。


そんなある日、

私は思い切って、
立てこもってるやつらを訪問してみようと思い、
夜も10時をまわった頃、
ひとりで学校に向かいました。

校舎に入ってすぐ、
椅子や机によるバリケードの入り口には、
ひとりの門番らしき男が、
白ヘルに顔をタオルで覆ってどっかと座っている。

すると、その男が私を見て、
「なんだ、宮住じゃないか。」
と、タオルを下にずらして顔を見せる。

同じクラスのK君というやつだった。

普段は物静かで、あまり目立たない男ゆえ、
こんなやつまで参加してたのか、
と二度ビックリ。

K「なんの用だ。」
私「いや、みんな元気かなと思ってさ。」
K「そうか。じゃついてこいよ。」

とあっさり通してくれた。


階段を上って、久しぶりに自分の教室に行くと、
闘争に参加しているたくさんの連中が、
一斉に‘じろっ’とこっちを見る。

教室はがらーんとしていて、
みんなが食べたり飲んだりした残骸や、
吸い殻でいっぱいの灰皿なんかが、
無造作に散らばっている。

そこへ、リーダー格のOという男が現れ、
「おお、宮住じゃないか。
 君も参加してくれるのか。」
と声をかけてくれた。

「いや、そうじゃないんだけど、
 こっちもそろそろ無関心ではいられなくてさ。」
とやんわり私。

そして私は、

「受験を控えた3年生などは、
 必ずしも君たちの行動を
 快く思っていないのでは。」
あるいは、
「学園を通常の形に戻してから、
 教師も交えてみんなで討論を積み重ねる、
 という方法もあるのではないか。」

などということを、もっともらしく語ってみた。


するとO君、さすがにリーダーらしく穏やかに、
「いや、
 もうそんな悠長なことを言ってられないのだ。
 ‘プロレタリアート階級闘争’に関しては、
 君も少しくらいは知識があるだろ?」
ときた。

困った私は、
「い、いや、それが、恥ずかしながら、
 いたって‘政治オンチ’なもんで。」
と、もじもじ。

O君は怒りもせずニコニコと、
「ならヘーゲルの‘弁証法’なんか読むといい。
 マルクスにも影響を与えた哲学者だ。」

すると近くにいたやつが、
「いきなりヘーゲルじゃ難しすぎるよ。
 吉本隆明‘共同幻想論’なんかが、
 手始めにいいんじゃないかな。」
 (ちなみに吉本隆明とは、
  作家‘よしもとばなな’さんのお父さん。)

さらに別のやつが、
「いや、最初は小説のほうがわかりやすいぞ。
 高橋和巳‘邪宗門’とか、埴谷雄高‘死霊’
 あたりだったら知ってるよな。」

とかなんとか、

入れ替わり立ち替わり、
矢継ぎ早に攻勢がかかる。


チンプンカンプンの私は、

「いや、それが、ハハハ、なんとも…。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』なら読んだけど。」
と思わず言いそうになったが、

やめた…。


そうこうするうちに、
過激そうな女闘士のひとりが、

「まさか、あんた、
 ‘共産党宣言’(マルクス&エンゲルス)
 も読んだことなくて、
 ここへ来たんじゃないでしょうね。」
と強い口調で迫ってきた。

にわかに雲行きが怪しくなったので、
「また来るわー。」
と、すみやかに退散。


それから、今度は、
いろんなクラスを覗いてみようと、
荒れ果てた校舎内をうろちょろ。

すると、どのクラスでも、
あちこちに集まって討論会をやってたり、
ギターの弾けるやつを中心に、
「遠い世界に」(五つの赤い風船)など、
学生運動に影響を与えたフォーク歌手(グループ)
の曲を、男女仲良く肩を組んで合唱したりしている。

まるで、
アメリカ映画『いちご白書』
サークル・ゲームのようだ。

「なあんだ、
 けっこう青春してるんじゃないか。」
と、ここでも場違いな感想を持つ私。


それにしても、さすがの私も、
ヘーゲルだの、吉本隆明だの、埴谷雄高だの、
聞いたことのない名前ばかり並べられては、
いささか頭が混乱してきたことは事実。


さらに、

この立てこもってる連中のなかには、
他校の生徒もかなりいたらしい。

いわゆる外人部隊。


これは後日、私が社会人になって、
直接‘本人’から聞いたことなのですが、

今や世界的に著名な音楽家、R.S.氏も、
この輪のなかにいたらしい。

なんでも、自校で人数が揃わず、
こうした闘争にまで至らなかった、
ということで、
ご丁寧に他校の応援部隊として、
馳せ参じていたとのこと。

もっとも後日、彼の、
「駒場は可愛い女子がいっぱいいたからなあ。
 うちなんか、数も少ない上に、
 ‘ブス’ばっかだったからさ。、ハハハ。」
と言うに至っては、

「あーた、うちの学校に、
 何しに来とったんやー。」
と言ってやりましたが、

それもこれも含めて、
いつまでたっても私を混乱させる、

そんな出来事ではありましたね。

この学園紛争。

……。

(つづく)



さあ、29日(火)は『代々木ナル』

素敵な女性ジャズ・コーラス・グループ
‘SUITE VOICE’との共演です。
今年2回目。

ベースは久しぶりに、
山口和与さん。

どうぞ、いらして下さい。

「山谷ブルース」や「受験生ブルース」は
できませんが、

「Cジャム・ブルース」とか
「ハーレム・ブルース」なら、


できます。

ハイ。


SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

August 26, 2006

学園紛争 その2

きのうの「A'TRAIN」も盛り上がったなあ。
みなさん、ありがとうございました。

いつもの若手シンガーたちはいなかったけど、
新しいお客さんもいっぱいいて、
それなりに新鮮。
したがって、久しぶりにインストの炸裂。

朝まで年を忘れてギンギンの演奏。
おかげで、きょうは使い物になりません。
ハハハ。


というわけで、
今日も、またまた昭和44年に、
タイム・スリップ。


思ってもみなかった‘学園バリケード封鎖’

しかし、楽観的な私は、
「所詮高校生のやることゆえ、
 そんなに長くは続くまい」
と正直思ってました。

それに‘家での自習’ができるような意志の強さ、
など持ち合わせていないことは、
この夏の四国で実証済み。

したがって「図書館にでも行ってくる」と母に言い、
一応勉強道具だけは持って、学校には出かけていく。

しかし、1週間経っても、2週間経っても、
いっこうに解決する気配はない。

それに聞くところによると、
立てこもってる生徒の数はかなりのもので、
うちのクラスから参加してる数が最も多い、
というではありませんか。

女子も多数いるそう。


そのうち校庭や中庭では、
あちこちで集会が行われるように。

闘争に参加していない一般生徒も、
この問題を真剣に考えよう、
ということらしい。


今まで全くの‘政治オンチ’の私でしたから、
いったい何でこんなことなったのか、
皆目理解ができないというのが本音。

ゆえに、こうなったら私も、
集会に参加してみようかなと思い、
そーっと輪の中にもぐりこむ。
それもなるべく可愛い女子がいるあたりを狙って…。


すると闘争には参加していないものの、
彼らと同じ思想を持つリーダー格の男女が、
‘彼らの行動及びプロレタリア革命の正当性’
‘このままでは日本はだめになる’
などということを、
口角泡を飛ばして理論的にまくしたててる。

それを地べたで膝小僧をかかえながら、
輪になって真剣に聞く男女。

「われわれのー」
とか、
「内なる自己の総括においてー」
といった、
TVでしか見たことのない、
全共闘特有の、実に流暢な言い回しで。

「そんな硬いこと言わないで。」
とか、
「こんな乱暴な手段を取らなくたって、
 他にやりようが。」
などと発言しようものなら、
途端に、周りの男女から
「このバーカ」
といった冷たい視線が浴びせられる。

リーダー格からは、
「この‘日和見(ひよりみ)め’。
 お前のような奴がいるから、日本はだめなのだ。」
と矢のような攻撃。

こりゃいかん、
と早々に退散。


「おや、あっちのほうでは何やら音がするぞ」
とそっちの集会に行ってみると、
そこでは別のクラスのH君による、
フォーク・コンサート。

ギターをかき鳴らしながら、
当時の学生運動のバイブルとも言われていた、
岡林信康、高石ともや、加川良、
などの唄を、実にうまく歌っている。

それを輪になって真剣に聴く男女。

「チューリップのアップリケ」
「受験生ブルース」
「教訓」

それまで洋楽しか聴いたことがなかった私でしたから、
これはこれで実に新鮮。

さらにどこまでいってもNO天気な私は、
「へえー、H君ってあんな才能があったんだ。
 ギターも唄もうまいなあ。」
と全く筋違いな感想を持って聞き入る。


さらに「おや、あれはなんだ」
と別の集会に行くと、
N君という友達が、
ビートルズやローリング・ストーンズの曲を、
見事に弾き語り。

「うああ、こいつもうまいなあ。
 きっと女の子にモテモテなんだろうなあ。
 よおし。俺も大学に行ったら、
 絶対ジャズ・ピアノをマスターしてやる。」
と、またまた大幅に筋違いの感想を持って聞き入る。

ただし政治オンチの私には、理論的な集会よりは、
少なくともこういった音楽コンサートのほうが、
まだピンと来る。

ま、とりあえず学校には行くものの。
毎日、毎日がこんな状況。

そして、9月がすぎ、10月がすぎ…。

事態は一向に進展しない。


そしてどこまで行っても、
誰に話を聞いても、
今回の学園紛争そのものが、
私にはあまりよく理解のできない事柄。

「俺はバカなんだろうか?」
とも真剣に思った。

よおし、

「こうなったら思い切って、
 立てこもってるやつらを表敬訪問して、
 直接話を聞いてやるかな。」

と思い立ったのでした。


(つづく)



ようやく涼しくなってきましたね。

昼は、
夏の終わりを告げる、
物悲しいセミの大合唱。


夜は、

あれ松虫が鳴いている

チンチロチンチロ、チンチロリン…。


SHUM MIYAZUMI


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2006 エッセイ 

August 23, 2006

学園紛争

「早稲田実業」「駒大苫小牧」の選手のみなさん、
そしてこの甲子園大会に出場した選手のみなさん、

本当にお疲れさまでした。

素晴らしい大会でしたね。
大いに楽しませてもらいました。

来年も待ってるぞー。


それにしても、
高校野球の話にはじまり、
昭和44年夏の「松山商業−三沢高校」の激闘の話、
なんかを書いていたら、
なんとそれ以来となる‘決勝戦再試合’になるなんて…。

あまりのタイミングのよさに、
自分でもビックリしています。

したがって私の心は今もなお、
昭和44年に戻ったまま。


そしてこの年は、
私の人生において、
もうひとつ衝撃的なことがあったのです。


2学期がはじまり、
「いよいよ本格的に受験勉強だ。
 夏休みの失敗を取り返すぞー。」
と、決意もあらたに登校した私。

ところが、私の通う高校は、
大変なことになっていました。

それは、

「バリケード封鎖!」


校舎に入ってすぐの階段の手前のところに、
うず高く積み上げられた椅子と机。

白いヘルメットをかぶり、
顔をタオルで覆い、
手には何やらぶっそうな棒を持った連中が、
‘通せんぼ’をしていて、
私たちは教室に行くことができない。

靴箱のところには、
「全校生徒は中庭に集まるように。」
という貼り紙。

仕方なく、多くの一般生徒と一緒に中庭に行くと、
困り切った表情の校長先生からお話が。

その内容はというと、

「本日一部の生徒たちにより本校は占拠されました。
 現在教職員が懸命に説得にあたっていますが、
 解決には至っていません。
 ただしみなさんは決して動揺することなく、
 しっかり自習に励んで下さい。」

というもの。


「ありゃりゃ。」

意気揚々と登校したばかりだったので、
こりゃ完全に肩透かし。

さらに我が校には女子が多く、
まあそれなりに学園生活を楽しんでた私でしたから、
「なんだ、つまんねえの。」
というのが、不謹慎ながらもその時の率直な感想。


この数年前から、
日米安全保障条約に反対する学生運動の波は、
全国の大学という大学に拡がり、
前の年には有名な‘安田講堂’事件が起こり、
東大の入試までもが中止になるという、
前代未聞の出来事にまで発展。

その熱風が、
ついに高校にまでやってきた、
とまあこういうわけです。


そして、当初の彼らの標的は、
強引に安保を強行した自民党政府だったのですが、
思想のズレから次第に内部分裂を始め、
「プロレタリア革命!」という名のもとに、
「中核」「革マル」など様々なセクト争いにまで発展。

さながら、
東映映画『仁義なき戦い』
のような様相を呈してきていた、

そんな時代。


そうそう‘セクト争い’といえば、
こんなこともありました。


私の通う高校は、
井の頭線「駒場東大前」というところにあります。

そして駅の向こう側には大きな時計台。

そう‘東大教養学部’です。

私は何人かの友達と、
土曜日の放課後は、この東大の‘学食’に、
よく昼メシを食いに行っていました。

120円のA定食とか、
150円のB定食とか、
これがなかなかうまいんですよ。
(もちろん当時の価格です)


そんなある日のこと。

4、5人の仲間とメシを食い終わり、
「こんなところに入れたらいいなあ。」
と、途方もないことをほざきながら、
のんびりと東大構内を散歩していたその時、

突然‘キーーーーー’と正門が閉まる。
すると間もなく、門の外には不穏なざわめき。

やがて、‘ドーン、ドーン’とドアを開けようとする音。
そして火炎瓶やら石やらが、あられのように降ってきて、
さらには放水車まで用意しているのか、
ドバーっと水までもが門の上から降りかかってくる。

「すわっ、赤穂浪士の討ち入りか!」
と思う間もなく、
門はこじ開けられる。

どうやら日大の全共闘の襲撃らしい。

するとどこに隠れていたのか、
おびただしい数の吉良家のサムライ達が、

じゃなかった、

おびただしい数の東大全共闘が、あちこちから、
ヘルメットにタオル、手にはゲバ棒といったいでたちで、
ブワ〜っと現れて、
構内はたちまち戦場と化す。

石でおもいきり殴られ、
ヘルメットも割れ、
血だらけで倒れる学生。

あっちでもこっちでも、
ゲバ棒で殴り合う学生達で、
構内はもう騒然。

「これがいわゆる‘内ゲバ’というやつか…。」

「大変なところに来てしまった…。」

さあ、あちこちの戦闘シーンをくぐり抜け、
石や火炎瓶が飛び交うなか、
「あわわ」「あわわ」と懸命に逃げ惑う私たち。

ようやく、

ほうほうの体で逃げ切った私たちでしたが、
そんな記憶も冷めやらぬうちに、
まさか自分の通う高校までもが、
そんな紛争に巻き込まれるとは、

夢にも思いませんでした。

(つづく)

ところで、
高校野球が終わると、
一気に‘秋’の雰囲気になりますね。

ちょっぴり寂寥感。

毎年のことですが…。


SHUN MIYAZUMI


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2006 エッセイ 

August 17, 2006

松山商業 その5

私の8/6の予言通り、
今年の甲子園は面白すぎますね。

派手な打ち合い。
逆転につぐ逆転。

おかげで、仕事になりません。


きょうの2試合もすごかったー。
特に「帝京-智辯和歌山」は壮絶!

ホームラン7本が飛び交うノーガードの打ち合い。
9回にだめ押し3ランが出て、
帝京が一挙8点を取って12-8と逆転したときは、
正直、帝京の勝ち、と思いました。

しかし9回裏に、
今度は智辯の4番が3ランを打って1点差。
そしてそのまま再逆転、サヨナラ勝ち。(13-12)

「おいおい、
 劇画を見てるんじゃないんだろうな。」

と言いたくなるような凄い試合。

「野球は筋書きのないドラマ」
とはよくいったもの。

これだから、やめられませんね、
高校野球は。


しかし、打ち合いもいいけど、

昭和44年の夏の「松山商業」は、
それはそれは、
芸術的ともいえる、
素晴らしい‘守りの野球’でしたよ。


夏休みを、
四国の素敵な自然環境の中で、
大いに受験勉強に励もうという私の目標は、
生来の‘意志の弱さ’と‘なまけもの’
という性格ゆえ、
もろくも崩れ去ってしまいました。

ということで、
志半ばにして四国を後にした私。

しかしすぐに帰京しないところが、
私のひとすじ縄ではいかないところ。


ちょうどその時、
神戸(西宮)の実家に帰省していた、
中学校時代の親友、小原(おはら)氏を訪ね、
なぜか、そのまま数日逗留。

昼は大阪や神戸の街を散策。
たまたま立ち寄った心斎橋の電気屋で、
「松山商1-0鹿児島商」
と、きょうも完封勝ちしたことを知る。

夜はふたりで「サッカー・ゲーム」に没頭。

でも、いよいよ、本当に「ヤバい」と思い、
今度こそあきらめて帰路につく。

新幹線の中では、
かすかに聞こえるラジオ放送で松山商は、
優勝候補の一角、
藤波(のち中日)のいる静岡商を4-1、
準々決勝で下したことを確認。

久しぶりの我が家で、
それでも翌日は準決勝を観る。
若狭(福井)を5-0でなんなく一蹴した松山商は、
本当に公約通り、
決勝までコマを進めてしまいました。


そしてあの運命の日。

誰もが、
「高校野球史上最高の決勝戦!」
「史上最も感銘を与えた試合!」
と絶賛してやまない、
あの「三沢(青森)」との決勝戦の日を迎えました。

この試合の様子は、
8/9に書いた「松山商業」というエッセイの中で、
当時の新聞記事が読めるようになっていますので、
ここでくどくど解説するのはやめましょう。

とにかく歴史的な死闘とはこのこと。

試合はどっちも譲らず、
スコアボードには 0-0 が果てしなく続く。

特に、
相手、太田幸司投手に手も足もでない松山商が、
踏ん張って踏ん張って、
「こちらも絶対に点をやらないぞ。」
と頑張る姿が、
本当に鳥肌が立つほどの感動を覚えました。

そして私の中に、
あの四国予選で見た、
丸亀商、井原投手との試合が
ありありとよみがえって来たのです。

「ああ、あのときの、あのチームなら、
 再びこんな試合をやってのけても不思議はない。」
と思ったのです。

そして、
今、日本中に、
こんな感動を与えているこいつらは、
私とおない年ではないか、

お前ら、
どうして、こんなに頑張れるんだ!

でもここに来るまで、
想像を絶する練習をしてきたんだろうなあ…、

とも思った。

のほほんとした学園生活や、
自堕落な夏休みを送ってきた私には、
それがよけい衝撃的でした。


延長15回の裏は、
一死満塁、ノー・スリーの絶対絶命をしのぎ、
16回裏も、
一死満塁、ノー・ツーからスクイズを見破り、
これまた奇跡的に守り切る。

そして延長18回。
0-0 のまま再試合に…。

1時に始まった試合は、
5時半になろうとしていました。

しばらくは、声もでないほどの感動…。


その後、2学期が始まるまでの10日間は、
なんの記憶も残ってないところを見ると、
おそらく、私も少しは反省。
人並みには勉強したのではないでしょうか。


そして9月。2学期が始まる。
「松山商」のやつらに負けてたまるか、
と、私にしては珍しく「ヤル気まんまん」で、
始業式に臨むため登校した私。


ところが、

私の通う高校は、

これが大変なことになっていました。


SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

August 15, 2006

松山商業 その4

いやあ、すごい試合でした!
「青森山田-駒大苫小牧」

一時は1-7と大劣勢の駒大苫小牧。
青森山田も相当に強く、
私は優勝候補の一角と見ていましたから、
正直「駒大も、もはやここまで」と思ってました。

それが、驚異的な追い上げ。
9回にまさかの同点ホームラン。
そしてサヨナラ逆転勝利。(10-9)

なんという底力でしょうか。
このチームを倒せるところはあるのでしょうか。

いずれにしても、球史に残る名試合でした。


それから、きのうの『ALL OF ME CLUB』ライブ。
「お盆だからお客さん少ないだろうな。」
と思ってたら、これが満員大盛況。
ありがとうございました。

懐かしい高校の仲間も来てくれて、
すごく嬉しかったです。

若手シンガーもみんな良かった。

次は9/11(月)です。
またみんな来てね!


さて、時計の針を‘昭和44年の夏’
に戻しましょう。


母の予感が見事に的中。
素晴らしい環境で、
ほとんど毎日快適に遊んでばかりの私。

しかし、一日1回の海水浴以外は、
けっこう部屋にとじこもってるので、
親戚の人はみんな、
私がちゃんと勉強してると思っていたようです。

まさかその大半を、
‘高校野球観戦’と‘昼寝’に費やしてる
とは誰も思っていない。


そんなある日、伯父が
「しゅんは、よく勉強するから感心だ。
 明日はご褒美に、釣りに連れていってやろう。」
と言ってくれました。

多少の‘うしろめたさ’はあるものの、
「わあい」と素直に喜ぶ私。

きょうはそんな、
瀬戸内特有の‘釣り’のお話です。


翌朝5時ごろ起こされ、居間に行くと、
おばあちゃんや叔母らおなご衆が、
私たちの昼食の‘にぎり飯’を作っている。

そして伯父やら他の親戚の人やら、
総勢6、7人で近くの漁港まで歩く。
もちろん、いとこのおさむも一緒。

そこにはチャーターした舟と船頭さんが待っている。

「ポンポン」というエンジンの音も軽やかに、
舟は美しい瀬戸内の島々の間を、
波をけ立てて進んでいく。

やがて「このあたりで良かろう」と、
船頭さんがエンジンを止め、
プカプカと浮いた舟の上から、
一同‘釣り’の開始。


この瀬戸内特有の‘釣り’とは、
釣りざおを使わないことにあります。

いわゆる‘糸釣り’

舟からおもりをつけた‘糸’を海中に投げる。
瀬戸内の海はさほど深くないので、
すぐに海底に到着。
そこから、糸をほんの少しだけ上に上げて、
ゆらゆらと糸を動かしながら、
潮の流れでやって来る魚が食いつくのを待つのです。

父もこの‘釣り’が大好きで、
私は子供の頃から、
四国に来るたびに、
連れてきてもらってました。

景色も抜群で、本当にのどか。
最高に気持ちがいい。

そして、よく釣れるんです、これが。
‘めばる’‘ベラ’‘さば’など、
煮魚に最適な魚が中心。

ちょっと釣れなくなると船頭さんが、
「潮の流れが変わったな。」
とまた舟を動かし、
良さそうな魚場まで移動。

私には「潮の流れが変わった」なんて
ぜんぜんわかりませんが、
プロってのはすごいですね。


お昼になると、
近くの島(ほとんどが無人島)に舟をつけて、
釣った魚をさばいて‘刺し身’にしたり
切り身を‘みそ汁’の中にぶち込んで、
おばあちゃんたちが作ってくれた
‘にぎり飯’と一緒に食う。

これがまた最高に美味い!

ちなみに、母には男兄弟が6人もいて、
これがみんな上手に魚をさばく。

冬には‘ふぐ’なんかも魚屋から買ってきて、
家で勝手に調理してしまうのです。
どこに毒があるかなんて、
ちゃんとわかってる。

私は伯父(叔父)の調理する
‘ふぐ刺し’や‘てっちり’を、
子供の頃からいやというほど食べているので、
都内の小料理屋で、
何万円もする‘ふぐ料理’なんか、
一向に食べる気がしません。

人のご馳走になるのなら別ですが。


おとな衆がくつろいでる間に、
私とおさむは、
近くの岩場で‘さざえ’取り。

海にもぐって、
岩にへばりついてる‘さざえ’を、
箸で落として拾う。

こどもの頃は、
ほんの30分くらいで、
バケツ一杯分くらいの‘さざえ’が
容易に取れたんですよ。

なんという‘海の幸’の恵みでしょうか。

さて、午後は、
みんなのおみやげ用に、
もうひと釣り。

そして、
水槽にあふれんばかりの大漁となって、
夕方、悠々として漁港に帰って行く。

もちろんこれが夜のおかずです。

素晴らしいですね。

でも、聞くところによると、
最近は高松からの工場用水による汚染で、
瀬戸内の海もかなり被害を受けてるそう。

いけませんねえ、
自然破壊は。


さて、そんな楽しい日々を送ってる間に、
いよいよ「甲子園の本大会」が開幕。
私が注目している「松山商」は、
1回戦で「高知商」を10-0で難なく撃破。


そして、
夏休みも半分が過ぎたこの頃になると、
さすがの私も、いささか心配になってきました。

「こりゃ、東京に戻ってちゃんと勉強しないと、
 やばいかな…。」

というわけで、
予定を大幅に繰り上げて、
(実は休みの間は、
 ずっと四国にいるつもりでした。)
帰京することにしたのです。

(つづく)

さ、親父の墓参りにでも行こうかな。


SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

August 13, 2006

松山商業 その3

昭和44年の夏。高3の夏。四国の夏。
その2日目。

おいしい‘朝ご飯’をいただいたあと、
ちょっと海辺を散歩。
「さあ、今日からはしっかり勉強するぞ!」
と決意も新たに部屋に戻る。

30分くらい参考書をめくったあと、
「ちょっとだけだぞ」と言い聞かせてTVをつける。
しかし、そのまま‘高校野球香川県予選’に没頭。

そうこうするうちに、
「しゅんちゃーん、お昼よー。」と叔母の声。
今日のお昼は、これまた本場‘小豆島のそーめん’。

昼食後、少しだけ勉強。
その後またしても野球観戦。
するとまた、ヒマなおさむちゃんが、
「泳ぎに行こうぜー。」と誘惑に来る。
もちろん二つ返事で、優雅にふたりで海水浴。

家に帰って‘すいか’を食って、
少しだけ勉強、そしてまた野球、そのうち昼寝…。

そうこうするうちに、
「しゅんちゃーん、ご飯よー。」と叔母の声。

今日も豪勢な‘海の幸’がドッチャリ。

そして、この瀬戸内の魚が、本当に美味い!
鯛、カレイ、めばる、さば、ままかり、たこetc.etc.
どれもこれも身が引きしまってて抜群のお味。


さらにこの‘庵治(あじ)’という土地は、
表は瀬戸内海に面し、裏は山。
したがって‘山の幸’も豊富。

今でこそ県道が東西に走り、
高松から車で20分くらいで行けますが、
私が小さいころは、
険しい山を登り、そして海に向かって下っていくという、
なかなかに行きづらい場所でした。
高松から、車でも1時間くらいかかった。

前々回、ここは‘平家の落人村’として有名、
と書きましたが、
四方を海と山に囲まれ、
しかも‘海の幸’‘山の幸’が豊富。
平家も実にうまいところに落ち延びたものです。

ちなみに母の旧姓は「兜(かぶと)」。
間違いなく平家の落ち武者の末裔だと思います。


こうして一家団欒。
大勢でワイワイと美味しい食事をするうちに、
きょうも終了。

「いかん。明日からは本当に勉強しなくては!」
と今度こそ言い聞かせて寝る。


しかし翌日も、
さらにその翌日も、
それからさらにその翌日も、

ずっとこんな生活になってしまいました…。

母が抱いていた不安は、
見事に的中したようです。


そんななか、
高校野球の地区予選も終盤をむかえ、
いよいよ北四国大会というクライマックスに突入。

当時は今のように49代表制ではなく、
2県で一代表という厳しいものでした。
甲子園への道は、今の倍険しかったわけです。

四国からは、
北四国(愛媛、香川)から1校、
南四国(徳島、高知)から1校、
が、代表として甲子園に進めます。


その北四国大会の1回戦、
「松山商(愛媛)-丸亀商(香川)」の試合は、
私をくぎ付けにしてしまいました。

試合は、
息詰まる投手戦、
そして両チーム鉄壁の守備。
9回を終わって 0-0 のまま延長戦へ。

しかも特筆すべきは、
「松山商」は9回を終わった時点で、
‘完全試合’をやられていたということです。

それもそのはず、
丸亀商のピッチャーは、
のちにヤクルトのエースとして活躍する、
井原慎一朗。

とても高校生では打てないだろうという、
早いストレートと切れのいい変化球を投げる。

一方、終始劣勢の松山商も、
エース井上の粘り強いピッチングと、
見事な内外野の守備で、守り抜く。

そして延長15回の表。
ついに疲れの見えた井原から、
松山商は一挙5点を奪って、5-0で逃げ切り。

「相手のピッチャーがすごい時は、
 とにかくこっちも粘って点をやらない。
 そして相手が疲れるのを待つ。」
という驚異的な守りの野球。

とにかく、レベルの高い、
感動的な、すごい試合でした。

翌日の決勝戦も、
4-0で高松商(香川)を振り切った松山商が、
晴れて北四国代表として、
甲子園への切符を手にしました。

しかもインタビューアーの、
「甲子園での目標は?」
という問いに対し、
松山商の主将(大森といったかな)はきっぱりと、
「全国制覇です!」
と言いきった。

当時は、
「まず初戦突破です。」とか、
「一戦一戦大事に戦います。」
といった、謙虚な発言が普通だっただけに、
この大胆な発言にもビックリ。

「ようし、よく言った。
 ならばしっかり見届けてやるわい。」

と秘かに思った私でありました。

(つづく)


さて、14日(月)は『六本木 ALL OF ME CLUB』
で、ピアノ・トリオ・ライブです。
素敵な若手シンガーもいっぱい来ます。

お盆休みのない方、
どこといって行くあてのない方、

どうぞ、お集まりください!


SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 19:48コメント(0)トラックバック(0) 
2006 エッセイ 

August 11, 2006

松山商業 その2

昭和44年の夏。
高3の夏。
四国での私の生活が始まりました。

朝。
心地よい、さわやかな潮の香りとともにお目覚め。

おいしい焼き魚の朝ご飯をいただいたあと、
ちょっと海辺を散歩。

そして、
「さあ、頑張って勉強するぞー。」
と決意も新たに部屋に戻る。

私にあてがわれた部屋は6畳くらいの
陽が燦々とふりそそぐ洋室。
そしてご丁寧に小さなテレビまである。

30分くらい参考書をパラパラとめくったあと、
「ちょっとだけだったらいいか。」
と思ってTVをつけてみると…、

「おおっ、やってるやってる!」

高校野球香川県予選!

当時は今よりも、
四国のレベルはずっとずっと高くて、
どこが甲子園に出てきても優勝候補、
といった時代。

そんな地区予選が見れる機会はめったにない。
ということで、しばし食い入るように見る私。


そうこうするうちに、
「しゅんちゃーん、お昼よー。」
という叔母の声。

「はーい。」
と私。

居間に行くと、
スタンドで働く伯父(母の兄)夫婦、
なぜか結婚しないで伯父の仕事を手伝ってる叔母、
一つ年下のいとこのおさむちゃん、
そしておばあちゃん、
が勢ぞろい。

きょうのお昼は、
本場‘讃岐うどん’のせいろがてんこ盛り。
「く〜っ、たまらん。美味い!」
と感動の私。


昼食後。
部屋に戻って、30分くらい参考書をパラパラ。
そのうちに、ちょっと気になってTVをつける。
「おおっ、やっぱり予選とはいえ、
 四国はレベル高いなあ。野球をよく知ってるなあ。」
とひたすら感心する私。

気がつくと、1時間くらい見てるので、
「いかん、いかん。俺は勉強しに来たんだ。」
と、自分を奮い立たせる。

すると、
受験とは関係のない、
ひまを持て余してるいとこの‘おさむ’が、
ドアをコンコンとノック。

「しゅん、ちょっと泳ぎに行こうぜ。
 あんまり勉強ばかりしとると、
 体にわるいぞー。」
と誘いに来る。

「そうだな。まだ休みはたっぷりあるしな。」
とすぐにこれに応じる私。


部屋で水着に着替えて、
サンダルを引っかけて、
ほんの数十メートル歩くと、そこは遠浅の海。

雄大な‘屋島’を仰ぎながら、
波のおだやかな瀬戸内の海に遊ぶ私たち。
もちろん海水浴場ではないので、
他には誰もいない。

さながら、
‘ダイヤモンド・ヘッド’を仰ぎながら、
‘ワイキキ・ビーチ’独り占め〜〜!
って感じですか。

(そう言えば、
 ‘屋島’と‘ダイヤモンド・ヘッド’は、
 どこか雰囲気が似てるなあ…。)

(ガソリン)スタンドのシャワーを浴びて家に帰ると、
おばあちゃんが‘すいか’を切ってくれている。
これをたらふくいただき部屋に戻って、
「さあ、今度こそ勉強!」

しかし猛烈な睡魔が襲ってきて、
「少しだけ」と言い聞かせて昼寝…。


そうこうするうちに、
「しゅんちゃーん、ご飯よー。」
と叔母の声。

「はーい。」
と私。

居間に行くと、
刺し身、煮魚、焼き魚、かまぼこ、ジャコ天、など、
瀬戸内の誇る、美味しい‘海の幸’が、
これまたてんこ盛り。

すると近くに住む、
もうひとつの親戚(母の姉)の家族がやって来て、
さらにワイワイと盛り上がる。

部屋に戻ろうとすると、
叔母たちが、
「しゅんちゃん、夏休みはいっぱいあるんじゃけん、
 ゆっくりしなさい。
 あんまり勉強ばかりしとると、体に悪いよー。」
と言うので、

「それもそうですね。」
と輪に入って、一緒に盛り上がる。食いまくる。

そして一日が終わる。

「あしたからは、ちゃんと勉強するぞ!」
と自分に言い聞かせて、ご就寝。

おやすみなさーい。

スースー……。


SHUN MIYAZUMI


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2006 エッセイ 

August 09, 2006

松山商業

せっかく高校野球の話になったので、
今日はもうひとつそんなお話。

ほぼ45年にわたって高校野球を見続けている私ですが、
「この‘1校’を挙げよ。」と言われたら、
私はためらうことなく、
昭和44年(1969年)夏の優勝校、
「松山商業(愛媛)」
を挙げます。

この年の「松山商」といえば、
あの太田幸司のいた三沢高校(青森)と、
延長18回 0-0 引き分け再試合の決勝戦’という、
今や伝説ともなった歴史的死闘を繰り広げた、
あの「松山商」のことです。

というと、
「なあんだ、けっこう妥当な選択じゃないか。」
とおっしゃるオールド・ファンも多いと思いますが、
まあ聞いて下さい。

このチームには、
私しか知りえない、
もうひとつのドラマがあるのです。


昭和44年というと、私も高校3年生。
つまりこの甲子園大会に出た3年生とは‘同期’
ということになります。


受験をひかえた私は、
この大事な大事な夏休みをどう過ごすか、
思案に明け暮れていました。

そして私は、
くそ暑い‘都内の予備校通い’という愚行を捨て、
風光明媚、自然環境抜群の、
母の実家がある四国の片田舎で、
大いに勉強に励もうではないか、
という結論に達したわけです。

そこは、香川県の‘庵治(あじ)’という、
瀬戸内海に面した、
平家の落人村としても有名な美しいところ。

実家はガソリン・スタンドを営んでいて、
すぐ裏に部屋がいくつもある大きな家があり、
さらにそのすぐ裏には松林、そして遠浅の海。

夕暮れに海辺に出ると、
左手には源平の合戦で知られる‘屋島’が雄大に佇み、
美しい瀬戸内の島々が眼前に拡がる。

ベナード・アイグナーならば、
ここで美しい詩などいくつも書きそうですが、
残念ながら私にはそんな才能はない。

さらに実家には、‘修(おさむ)’という、
一つ年下の仲のいい従弟もいて、
話し相手にも事欠かない。

これ以上の環境がありましょうや!

ただし母は心配そう。

母「あんた、大丈夫なの?
  毎日毎日、おさむさんと遊んでばかりいちゃ、
  だめなのよ。」
私「大丈夫だよかあさん。ボクだってバカじゃないよ。
  この夏が受験生にとって大事だってことは、
  百も承知さ。」

と、『渡る世間は鬼ばかり』を思わせるような、
くさい会話を繰り返したのち、
心配そうな母を振り切り、
私は意気揚々と四国に出かけたのでありました

(つづく)


ところで今年の甲子園。

やけに点が入ると思いませんか?

11-10だの、11-8だの、10-7だの、9-6だの。

これって何故でしょう?
ピッチャーのレベルが低いのでしょうか?

違います。

私はある事に気づいたのです。

それは、

‘ストライク・ゾーン’が
プロ並みに厳しくなっている。

去年までだったら、
プロと比べると縦横ボール2個分くらい、
高校野球の‘ストライク・ゾーン’は広かった。

ワンバウンドすれすれのどろんとしたカーブや、
胸元辺りに来るくそ高いストレートが、
「ストライク!」とコールされるシーンはざら。

ま、未熟な高校生ピッチャーゆえ、
こうでもしないと試合が終わらないという配慮だろうと、
この部分は私も目をつぶって観てましたが、
今年は違う。

したがって、ストライクの欲しい投手の球が、
みんな真ん中に集まってきて、
そこを痛打される。

こういうことだと思います。

しかし、野球界全体のことを考えたら、
これは良いこと。

高校から鳴り物入りでプロ入りした投手が、
コントロールの悪さから遂に開花せず、
さみしくプロ野球から去る、
というケースが多々あったわけですから。

‘ストライク・ゾーン’の統一は、
望ましいことだと思いますね。

ついでに欲を言えば、
金属バットもやめてほしいなあ。

高校野球は好きだけど、
あの‘キーン’という金属音だけはいただけない。

それに木のバットでやってないと、
メジャーで通用するバッターも育ちにくいですよ。
野球関係者のみなさま。

ところで、
私って、

ヒマなんでしょうか?


SHUN MIYAZUMI


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2006 エッセイ 

August 06, 2006

高校野球のお話

木曜日の「ALL OF ME CLUB」
‘SUITE VOICE’とのジョイントも無事終了。

たくさんのお客さんに盛り上がっていただいて、
良かったです。
次は8/29「代ナル」、10/11「ALL OF ME CLUB」
とこのジョイントは続きます。


さてきょうは、高校野球のお話。

ここんとこ、
過去ログのリニューアルばかり続いていたので、
何か新しい話をしなくては、と思っていたら
ちょうどうまい具合に始まりましたね。

『全国高等学校野球選手権大会』

そう、‘夏の甲子園’。

プロフィールにもありますが、
私の最大の娯楽が‘スポーツ観戦’で、
その中でも野球が一番好き。

そして夏は、やっぱりこれに限る。

日本の夏の風物詩!

この大会の間だけは、
イチローもメジャーも日本のプロ野球も、
私のなかではひと休み。


‘高校野球の魅力’に関しては、
いろんなスポーツ・マスコミやジャーナリストが、
まことしやかに語り継いでいますので、
ここであえて私が言う必要もないでしょう。

それにエンターテインメントは、
理屈じゃなく面白ければいいのですから、
それで充分。


メジャー・リーグ・ファンの友人からは、
「あんな下手くそな子供の野球の、どこが面白いの?」
と言われますが、いいんです。
「負けたら‘青春’が終わる」という一発勝負が、
面白いから。

「あんな炎天下で毎日投げてたら、肩壊して、
 プロでは使い物にならなくなるぞ。」
と言う熱心なプロ野球ファンもいますが、
いいんです。
本人たちが好きでやってるんだから.

「あんな炎天下で毎日やってて、体壊さないかしら。」
と心配する女性もいますが、いいんです。
どうせ‘女の子にもてたい’と思って、
始めたに決まってるんだから。


私にとっての‘高校野球の魅力’
それは、
いろんな時期の、いろんな場所での、
私にとっての‘夏’を思いださせてくれること。

とにかくこの時期は、
日本中どこへ行っても高校野球。

海の家でも、
山荘のロッジでも、
空港のロビーでも、
駅の待合室でも、
田舎のおばあちゃんの家でも、
涼みに入った喫茶店でも、

とにかく高校野球。

日本の‘夏’から甲子園が消えるなんて、
想像もしたくない。

「ああ、あの時は○○商業が勝ったんだなあ。」
とか、
「あの夏の優勝校は、○○学園だったなあ。」
とか、
楽しかった夏の思い出とともに、
その大会での名場面や優勝校が、
私のなかでよみがえってくる。

これだけで充分です。

というわけで、
今年も理屈抜きに、
楽しみたいと思います。

ちなみに、今年は面白いですよ。

「私、昭和35年以降の春夏優勝校
 全部そらで言えます」
とプロフィールに書きましたが、
そんな野球オタクが、
今年の見どころをそっとお教えします。


まず「駒大苫小牧」の夏3連覇なるか!

これ、もし達成したら空前絶後。
3連覇は昭和初期の「中京商」が一回。
他に2連覇が三校ありますが、
これらはいずれも戦前の「中等学校」時代の話。
つまり当時は5年制だったわけで、
参加校の数や野球の普及度なども考えると、
3年制の今のほうが、連覇はずっとずっと難しい。
それが3連覇ともなるとこれはもう大変なこと。

それから「横浜」の春夏連覇なるか!

これは過去に五校ありますが、
もし達成すると「横浜」は二回目、
ということになって、これまた初の大偉業。
(前回は松坂がいましたねえ。)

そして、今年は「春、夏いずれか」
全国優勝した学校が17校もいる。
もちろん全部スラスラ言えますよ、私。

「高知商」「徳島商」「静岡商」「県岐阜商」
「熊本工」「今治西」「三重」「帝京」「早実」
といったかつての名門校も多数復活。

昨夏、今春と旋風を巻き起こした、
さわやかな県立校「清峰」や、
日本最南端、石垣島から来た「八重山商工」が、
「天理」「智辯和歌山」といった強豪とどう戦うのか。

ひょっとすると、
「青森山田」「仙台育英」あたりが、
東北に初の優勝旗を持ち帰るかもしれない。
(もっとも「青森山田」の選手は、
 みな‘大阪弁’ですけどね。笑。)

いずれにしても興味は尽きません。

おっと、
もう試合が始まったな、

見なくては…。


SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ 

August 03, 2006

ベナード・アイグナーの思い出   その6

2002年10月16日(水) No.26
ベナード・アイグナーの想い出 その6


帰国してまもなく、
スタジオ’A(アルファ・スタジオ)では、
渡辺香津美とリー・リトナー&ジェントル・ソウツ
のレコーディングが行われました。
それもたった一日で。

渡辺香津美(G)、
リー・リトナー(G)、スティーブ・フォアマン(PER.)、
アンソニー・ジャクソン(B)、デイブ・グルーシン(KEY)、
アーニー・ワッツ(TS)、
そして、ハービー・メイソン(D)
とまあ、今考えると凄いメンバー!

コミュニケーションもバッチリですし、
これだけの顔触れですから、
当然といえば当然の素晴らしいセッションになりました。


翌日からはベナードのトラック・ダウン。

それよりもベナードは
『なす肉ピーマン炒めライス』や『オムライス』との再会に、
ことのほかお喜び。
そして1週間後ようやく完成に至りました。

こうしてできた2枚のアルバム。
新生アルファ・レコードの記念すべき第1弾と第2弾として、
その年(1977年)の冬発売になりました。

渡辺香津美のアルバム『MERMAID BOULEVARD』は、
このジャンルとしては破格の、10万枚を越える大ヒットに。

MermaidBoulevard 1
MermaidBoulevard 2
(『MERMAID BOULEVARD』のジャケット 表/裏 )

一方あれほど大変な思いをし、
膨大な制作費を費やしたベナードのアルバム
『LITTLE DREAMER』はというと…。
ほとんど知られることなく…。

時間をかければいいとか、
金をかければ売れるとか、
あんまり関係ないのかなあと、
若き日の私は妙に悟ったのでした。

でも、本当に素晴らしいアルバムなんですけどね。

その後ロスに行くと、
必ず一度はベナードを訪ね、
彼のプール付きのデッカイ家でくつろいだものでした。

実はその後、
この投資を取り返したいアルファとしては、
あのクインシー・ジョーンズにプロデュースを依頼。
快諾を得たにもかかわらず、
このベナードは、
「いや、たとえクインシーであっても私の音楽は解りえない」
と言って断ってしまったのです。

「あっ、このバカが…。」
と思ったのですが、
逆にそんな人間くさい彼の人柄が、
ますます好きになったことも確かです。


その後たいした仕事もなく、
いつしか彼は私達の前から姿を消しました。
聞くところによると、
「アメリカ人は音楽がわからない」
とかなんとかうそぶいてフランスに行き、
ミュージカルの一員として歌ったり踊ったりしているそうです。

ま、彼のことですから、
フランス人のきれいなお姉さんを横にはべらせて、
あの渋い声で
『EVERYTHING MUST CHANGE』でも歌って聞かせたり、
『なす肉ピーマン炒め』の話でもしながら
盛り上がってるんでしょうか……。

(おわり)


(感想 2006/8/3)

2、3年前に、
音楽評論家の池上比沙之さんと電話で話したとき、
このベナードの話になりました。

彼は今だにベナードと交流があるらしく、
それによると、
なんでも故郷のサンディエゴに帰って、
元気に音楽活動をしている、
とのことでした。

良かった、良かった。

さ、私はきょうは
『六本木 ALL OF ME CLUB』でライブ。
素敵なコーラス・グループ‘SUITE VOICE’
とのジョイントです。
みなさん、どうぞいらして下さい。


ところで!!

私、もうボクシングは見ません!

なんですか、あの判定は!?

あの試合を観て、
「亀田が勝った」
と思った人は、
おそらく一人もいますまい。

私は、とあるバーで、
数人の仲間と観ていたのですが、
そのあとの酒の、
まあ後味悪いこと。


大人のみなさん、
ボクシング関係者のみなさん、
TBSのみなさん、

スポーツはもっとフェアにやりましょうよ。

フェアに!

SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 13:46コメント(3)トラックバック(0) 
〜2005 エッセイ 1