September 2006

September 28, 2006

スパイ大作戦

2003年1月16日(木) No.33
スパイ大作戦

きょうは、
かつて日本のお茶の間を賑わしていた、
アメリカ産アクション・TVドラマのお話です。

その中でも、私がもっともお気に入りのドラマ、

スパイ大作戦!


これを最初に見てたのは、
私が中学から高校にかけてですから、
かれこれ35年以上も前のことになります。

さらに、
15年くらい前にも深夜に再放送してましたから、
かなりの年齢層の方がご存知なのでは?

その再放送のとき、
新聞にある若い女性からこんな投書がありました。

「最近『スパイ大作戦』の再放送が始まりましたね。

 実は私、この番組には苦い想い出があります。
 最初の放送のとき、私は幼稚園でした。
 父が好きで毎週見てるので、
 私も漠然と見ていたのです。
 しかし、
 全くといっていいほど意味が解らなかった。

 一体何をやってるのか、
 一体この人達は悪人なのかいい人なのか、
  全く解らない。

 父は楽しそうに見てるので、
 きっと面白いんだろうなあ,
 きっと私が子供のせいで解らないのだ,
 早く大人になりたいなあ、
 と思ったものでした。

  すると、待望の再放送。
  今や大人になった私。
  今度は楽しむぞーと、
  胸を高ぶらせてブラウン管の前に。

  ところがです。

  今度も全く解らないのです。
  一体この人達は悪人なのかいい人なのか、
  一体何をやってるのか、
  全く解らないのです。

  皆さん、私はバカなのでしょうか?」

というもの。

ハハハ、この人好きです。
失礼ながら、
思わず大笑いしたことを覚えてます。


確かに、
「おはようフェルプス君」で始まる冒頭から、
「このテープは自動的に消滅する。」
までを聞き逃すと、
その日はパーですね。

でも、
よーく聞いてても変装しちゃったりするから、
本当に解らなくなる部分も多々ある。
このひとの言ってることはよく解ります。

でもその仕掛けといい、罠のはめかたといい、
スリリングでよくできてるなあと、
毎回感動したものでした。


それからオープニングの音楽。

マッチをすって、
それがダイナマイトの導火線のように横にのびていく。
ヒュルヒュルヒュル〜〜ジャッジャッジャッジャッジャッ!

これがまたカッコいい。

この音楽を作ったのは、ラロ・シフリンというひと。

クインシー・ジョーンズ(鬼警部アイアンサイドetc.)
ジェリー・ゴールド・スミス(オーメンetc.)
とならんでアメリカでは、
「3大サスペンス音楽家」として知られています。

彼は、
あのブルース・リーの『燃えよドラゴン』シリーズ、
でも有名ですね。

そういえばどこかタッチが似てませんか?


最近トム・クルーズの主演で「ミッション・インポッシブル」
というタイトルで映画化されましたが、
これは私にはイマイチ。

「スパイ大作戦」の持つ、
巧妙に罠をしかけて相手を破滅させる、
という本来のスリリングさが全く無い。

というか全然別ものでしたね。

配役陣も、このTVシリーズのほうが、
渋い職人の集まりって感じでリアリティーがある。

若山弦蔵さんを筆頭に、
アフレコの人たちも渋かった。


そしてこの『スパイ大作戦』に代表される、
アメリカのTVアクション物が、
父も私も大好きで、
我が家にテレビがやって来た昭和33年ころから、
この手の物は全部かかさず見てました。

モノクロ時代の
『FBI』
『ハイウエイ・パトロール』
『アンタッチャブル』
『タイトロープ』(チャック・コナーズ。よっ、二枚目。)
『サンセット77』
『サーフサイド6』
『逃亡者』(おお、デヴィッド・ジャンセン!渋かった。)
『ベン・ケーシー』(これ医者)
『コンバット』(これ戦争物。サンダース軍曹、しびれるー。)

『ナポレオン・ソロ』
『チャーリーズ・エンジェル』
(このあたりからカラー。)
『刑事コジャック』
『スタスキー&ハッチ』
『アイアンサイド』
『白バイ野郎ジョン&パンチ』
『ベガス』
『刑事コロンボ』
『ナイト・ライダー』
etc.etc.

全部見てました。ぜ〜んぶ!!


でも最近こういうの、
全然ないですよね。

もっともっと金のかかったアクション映画が、
気軽にビデオやBSで見られるから、
制作もしてないんでしょうか。

でも、1時間完結のお気楽娯楽物って、
それはそれで楽しいんですがねえ。

私がジャズを好きになるのは、
ずーっと後のことになるのですが、
ガキの頃から
こういった物が好きだったところをみると、
私のアメリカかぶれも相当だったように思います。


そんなTVシリーズしか知らない私が中学に入ったころ、
とてつもないスケールのアクション映画が、
スクリーンに登場しました。

クラスの男どもが大騒ぎをしているので、
早速映画館へ行ってみる。
そしてそのカッコ良さにしびれまくったわけですが、
はたしてその正体は?

ジャーン!

そうです、

『007ロシアより愛をこめて』

ジェームズ・ボンド!

演じるはショーン・コネリー!!


これには仰天しましたね。

それまでのアクション物の常識を打ち破る、
スケールの大きさ、
金のかけ方。

ガキの私の心を揺さぶる、

大事件でした。


(感想 2006/9/28)


ちょっとだけジム・インガーの話に戻ります。

私が初めてロサンゼルスに行ったのは1977年。

そして前回、前々回のジムの話、
すなわち伊東ゆかりさんと一緒に行ったのが、
1992、3年頃。

このとき、ジムの車で、
毎日ロスのフリーウェイを走ってたのですが、
なにか不思議な違和感を覚えました。

「なにかが違う…。」

最初、それがどこから来るのか、
ちっとも解らなかった。

そのうちに私は、
あることに気がつきました。

車がみんな、

日本の車。

ホンダ、マツダ、ニッサン、トヨタなどの、
軽自動車。


私が小さい頃、
アメリカのTVのアクション物で見た車といえば、

キャデラック、ポンティアック、リンカーン、

あのバカでかいアメ車ばかりでした。

80年代も確かそうだった。

そのバカでかいアメ車が、
さっそうとフリーウェイを走ってるさまを見て、

「おお、アメリカだ。」

と感激したのですが、

今や小回りがきいて燃費の安い日本車ばかりが、
走ってるのを見て、
全くアメリカにいるという実感がなかったんですね。

ちょっぴりさみしい気分に…。

そういえばジムの車も、
2ドアの「ホンダ」

でした。


SHUN MIYAZUMI


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〜2005 エッセイ 1  

September 24, 2006

ジム・インガーとロックンロール  その2

2003年1月8日(水) No.32
ジム・インガーとロックンロール その2

Jim & Miyazumi

わが友、ジム・インガー

とにかくこの男と私、

国境を越えて、
ここまでウマがあうヤツも珍しい。


彼からみれば私は、
他の日本人とは違う‘極めてアメリカ人的’な、
自由奔放なやつに見えてるようです。

自分の仲間のミュージシャンに紹介するときも、
「彼はアメリカ人とおんなじ、
 普通の日本人とは違うから安心しろ。」
というような紹介の仕方をする。

すると彼(彼女)らも、
「ハ〜イ、シュン!」
とたちまちフレンドリーにふるまってくれる。

もっともそういう時はいつも、
「日本人って、なんか嫌われてるのかなあ」
と複雑な気持ちにはなりますけど…。


ところで、
私がロスに滞在するときは、
まずこの男に連絡をします。

理由は、

ただ面白いから。


例の伊東ゆかりさんのプロジェクトでは、
2年続けて、
リッチな『リッツ・カールトン・ホテル』
に泊まったのですが、

毎晩毎晩うれしそうにやって来ては、
今流行りのところへ連れて行ってくれたり、
帰りは送ってくれたついでに、
私の部屋のミニ・バーの酒を全部飲んで、
平気で運転して帰る。

毎回チェック・アウトの酒代をみて、
腰をぬかしそうになりますが…。


帰国の前日、
荷造りをしてるときにもやってきて、
バスローブだのドライヤーだの
詰め込もうとするので、
さすがにそれは、かたくなに拒否しましたが、

それもそのはずで、

彼がマイケル・ボルトン
という歌手と一緒に来日した時は、
毎日ツインの一人使用をいいことに、
使わない浴衣(ゆかた)をせっせとためこみ、
みんなのお土産にしたそうです。

こういうデタラメさも、
ミュージシャンならではですね。

ただし、
良い子の皆さんは絶対マネをしないように。


その来日のときの話。

日本をよく知らない他のメンバーは、
言葉が通じないことに怯えて、
毎日ホテルの、
何の変哲もない、
しかも高いだけの朝食を食べて、
絶対おもてには出なかったそうです。

しかしこの男には私が
『立ち食いそば』
なるものを教えてあったので、
ひとりで赤坂の街をぶらぶら、

たった1ドル(当時のレート)で、
うまい‘そば’や‘うどん’や‘カレーライス’を
毎日堪能してたらしい。

あとから、
「お前のおかげだ」と盛んに感謝されました。

彼も日本の食い物は、
大絶賛でしたね。


私がアメリカ的なら、
やつは日本的。

ま、生まれてきた国は違えど、
根本的には似た者同士ってやつでしょうか。


そんなジムも、

さすがに『カラオケ』の普及には
むかついてましたねえ。
ライブの仕事も随分侵食されてきてたようです。

さらに今は打ち込みやシンセサイザー全盛の時代。
スタジオの仕事も減ってる、
とボヤいてました。

ああいった、伝統的な、
いかにもアメリカ的な素晴らしいミュージシャンが
その仕事場を追われていく。

なんかさみしい気もします。


「もし俺がロスからいなくなってたら…」といって、
故郷ニューヨーク州バッファローの電話番号も、
一応聞いてはありますが、

元気でミュージシャンをやっていて欲しいものです。


ということで、
再び彼と仕事できる日を夢見て、

私も頑張らねば…。


それまで生きてろよ、

ジム・インガー。


(おわり)


(感想 2006/9/24)

1984年
「ロサンゼルス・オリンピック」


開会式のクライマックスで、
100人のピアニストが同時に、
ガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』を弾く、
という素晴らしいシーンがあったのですが、

覚えておられる方も、
多いと思います。


実はあの中に、
このジム・インガーもいたのです。


なんでも、
ロサンゼルス中の、
プロのピアニストというピアニストが、
総動員されたらしい。


私はその時ニューヨークにいたのですが、
事前に彼からそのことを聞いていたので、
スタジオのテレビを食い入るように見ながら、
彼を探しました。

「おそらく、これだな。」
と思える人物を、
階段の中央付近に見つけましたが、

白いタキシードを着て、
真面目くさって弾いてる様が、
なんとも似合わなくて、
可笑しかった。


でも、
ああいう立派な物もちゃんと弾けるんだなあ、
と、妙に感心したことを、

今でもはっきり覚えています。


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

September 21, 2006

ジム・インガーとロックンロール

2002年12月10日(火) No.31
ジム・インガーとロックンロール

前回まで華々しくご登場いただいた、
ジェフ・バクスター率いる『BILLY & BEATERS』。

このバンドでピアノを弾いていたのが、
今日ご紹介する、
ジム・インガー(JIM EHINGER)というひと。

きょうはそんな彼のお話。

Jim Ehinger
(JIM EHINGER)

名前から察するに北欧系にルーツがありそう。
(本人は、
 「北海を荒らし回ってた海賊の末裔」
と言ってましたが。)

年は私と同じで、
しかもなかなかの男っぷりです。

有名な「ドクター・ジョン」の一番弟子で、
およそロックンロール・ピアノを弾かせたら、
いまだこの男以上の存在を、
私は知りません。

最初三好鉄生のレコーディングで
そのプレイに感心させられ、
ロスに行ってからもなぜかジェフ以上にウマが合い、

三好のセカンド・アルバムの録音のために、
スカンクと一緒に東京に呼んだ時も、
セッションが終わってから毎日つるんで遊んでました。


ジェフとは好対称。
商売の下手な、
本当の意味での純粋なミュージシャン。

しかもシンセサイザー全盛の今も、
古いカントリーや、
ブルース、ロックンロールのピアノ・スタイルに、
こだわり続けているあたり、
頑固一徹、
職人肌的な名人です。


7、8年前でしたか、
伊東ゆかりさんのレコーディングでロスに行きました。

「三好の仕事から10年くらい経ってるし、
ひょっとしてもうここにはいないのかなあ?」
と思いながらジムに電話すると…、

いましたよ! いました! まだロスに。

その時私達一行は、
『リッツ・カールトン』(マリーナ・デル・レイ)
という海沿いの5ツ星ホテルに、
なぜか格安で宿泊できていたのですが、
このジム・インガー、
うれしそうに毎晩のようにやってきました。

そのホテルには、
でっかいプール、ジャグジー、テニス・コートなどがあり、
ヨット・ハーバーにも隣接していて、
部屋のベランダから見るその景色は、
まあリッチなことこの上ない。

海に面した大きなダイニング・ルームもそれはそれは優雅。
『コロンボ』に出てくる犯人役の金持ちが
いつも食事をするところ、
といった感じですか。

アーノルド・シュワルツネッガーが家族でランチにも来ました。

又、ある日曜日には
プールの上にバージン・ロードを作って、
プールサイドでは本物の弦楽隊が
『ゴッドファーザー』を奏でている。

なんとこれがマフィアの結婚式。

まるで映画のような世界。


そのレストランで、
ジムと、彼が連れてきた美しい女性と私の3人で
ディナーをしたときの話です。
(ゆかりさんたちは、
 和食しかダメな事務所の社長と、
 リトル・トーキョーの「和食屋」へ行きました。
 かわいそうに…。)

そして、だだっ広いそのレストランには、
一台の素敵なグランド・ピアノが置いてある。


するとジムが支配人を呼んでなにやら交渉。

「ちょっとピアノ弾いてもいいかなあ?」
「他のお客さまのご迷惑にならないような、
  静か〜な曲ならどうぞ。」
「わかってる、わかってる。」

で、最初は、
『ミスティー』とか『想い出のサンフランシスコ』
といったスタンダードを、
インチキくさい、
カクテル・ピアノのようなスタイルで弾くジム。

ところが、支配人が向こうへ行った瞬間、
「シュン、シュン」と私を呼ぶ声が…。

振り向くと、
私にウインクをして、
突然、ガガガガガガガガガ〜ン!
とロックン・ロール・スタイルに早変わり。
そして次第にノリノリになり、
他のお客もみんなピアノのほうを注目し始める。

でもほとんどが、
「ま、お下品な!」
というしかめっ面の老夫婦といったところですが。

もちろん支配人はあわてて飛んできて
「お客さま、おやめ下さい!
 静かな曲なら、と申し上げたはずです。」
「いや悪い悪い」
とまた『ミスティー』にもどすジム。

で、

また支配人が向こうのほうヘ行くと…、

「シュン、シュン」と再びジムの声がする。

振り向くと、
ニヤッと笑って、
またまた、ガガガガガガガ〜ン!と
激しいロックンロール・ピアノでノリノリ。

するとまたまた支配人が血相変えて飛んでくる。

こうしたことを繰り返した後、
ついに3回目には、この支配人、
怖そ〜〜〜〜うなお兄さんを連れてきたので、
さすがのジム君もそこで終了。


さあそうこうするうちにリッチなディナーも終了。

するとジム君、
「シュン、今から面白いクラブへ連れてってやるよ。」
と、最近ロスで流行ってるナイト・クラブを、
ハシゴで案内してくれる。

ご承知のとおり、
ロスは車がないとどこへも行けません。
でも帰りもこいつが送ってくれるから安心安心。

みなさん、外人とは仲良くしておきましょうね。

およそ日本人同士の観光では行けないようなところも、
現地人がいると安心だし、
ガイド・ブックに乗ってないような面白い所も
大いに楽しむことが出来る、

と、こういうわけです。

それにしても、
この『BILLY & BEATERS』は、
いかにも「アメリカ!」というサウンドにもかかわらず、

スカンクといい、ジムといい、

私とのフィーリングは、まさにピッタンコ!

そんなバンドだったようですね。


(つづく)


(感想 2006/9/21)

懐かしいなあ、ジム・インガー。

元気かなあ…。


ところで私、
ジャズ・ピアニストのくせに、
けっこうロックン・ロール・ピアノも
弾けちゃうんですよ。

ええ、
実はこのジム・インガーのスタイルを間近で見ながら、
こそっと勉強しておいたのです。

もっとも彼のそれは、
超人ともいえるテクニック。

右手と左手が完全に別人が弾いてるよう。

見事でした。

また聞きたい…。


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

September 18, 2006

ジェフ・バクスターと牛丼 その3

2002年11月18日(月) No.29
ジェフ・バクスターと牛丼  その3

1982年。(だったかな)

三好鉄生のデビュー・アルバムが、
予想以上のセールスをあげたため、
アルファでは、
「さっそくセカンド・アルバムを作ろう。」
ということになりました。
それも今度は日本で。

前回の「BILLY & BEATERS」のメンバーから、
ギターのジェフ・バクスターと、
ピアノのジム・インガーという人だけを呼び、
あとは日本のミュージシャンと日米混合バンドでのセッション、
という形で。

ドラムはまたしても村上ポンタ秀一、
ベースが当時『おニャン子クラブ』で荒稼ぎの後藤次利、
そしてアレンジとギターに、今は亡き大村憲司、
という、これまたそうそうたる面々。

鈴木キサブロー(曲)、故大津あきら(詞)
両氏の作品を中心に、
これもなかなかの出来だったとは思うのですが、
残念ながら、
今回は『涙をふいて』のようなシングル・ヒットに恵まれず
敗北。

世の中、そう簡単にはいきませんね。

でもレコーディングは和気あいあい。
素晴らしく楽しいセッションでした。


そのレコーディング中、
スカンクがおかしな言葉を持ち込んできました。

‘ナジマンボ’という言葉なのですが、
これ、「NG」(NO GOOD) という意味のスラングらしく、
どうやら彼はこれを流行らせたいようでした。

例えばこんな感じ。

演奏が終わるとすかさずジェフが
「シュンどうだった?」
と聞く。

そこで、あんまり良くないと私が
‘ナジマンボ’
「ようし、もう1回やろう。」
とこうなるわけです。

じゃあその反対の、「GOOD」を作ろうということになって、
出来上がったのが‘オキマンボ’という言葉。

やはりスラングで、
アメリカのミュージシャンは「OK」のことを、
よく「オキドキ(OKI-DOKI)」と言います。
デーブ・グルーシンのようなインテリは使いませんが…。

その‘オキ’に‘マンボ’を加えただけ。

じゃあ「VERY GOOD」は何か。

彼が気に入ってた日本語の‘イチバン’を加えて、
‘オキ・イチ・マンボ’

これができたときも、
スカンクは得意満面の笑顔でした。

アホくさ…。

でもスタジオというのは娯楽のない職場ですから、
こうやって遊んで、リラックスしながら、
いい演奏しようと頑張るんですね。

ちなみにその年のジェフからのクリスマス・カードには、
『1983 WILL BE OKI-ICHI-ICHI-ICHI-ICHI-ICHI-MANBO!』
と、‘ICHI’が余白いっぱい埋め尽くされてました。


ジェフとの仕事は今のところこれが最後ですが、
その後も何回かは会っています。

一度ニューヨークで、
カシオペアのレコーディングをやってる時、
偶然彼も来ていて、
(なんでも「ドゥービー・ブラザース」が、
 ソ連公演の為に臨時に再結成され、
 そのプロデューサーとして、たまたまNYにいたらしい。)

スタジオのアシスタントがたまたまジェフとも懇意で、
連絡をしてくれたところ、
すぐにスタジオに来てくれました。
スペシャル・紙巻きタバコを持って…。

それから、
「モシモシ、ワタシハ、バクスターデス。」
と変な日本語で自宅に電話があったことも。

翌日、六本木で中華を一緒に食べました。

ところが、
なんだか不良を絵に描いたようなこの男が、
妙に穏やかで普通っぽくなってる。

なんでも結婚したらしく、
きれいな奥さんと、4才になる娘の写真を、
嬉しそうに見せるのです。

「スカンクも人の子。大人になったんだなあ。」
と、なんともほほ笑ましい感じでした。
(やつは私より2、3才年上でしたか?)

で、食事が終わってコーヒーが運ばれる。
私が「砂糖は?」というと、
彼は首をふりながら、真面目な顔をしてこう言いました。

「いや、子供もできたし、
 俺は‘白い粉’はぜんぶやめたんだ。」

「……」


彼の父親は、アメリカでも有名な広告代理店のVIP。
「BILLY & BEATERS」のタイアップなんかも、
父親のおかげかもしれません。

とにかく、腕も一流には違いありませんが、
運も強い!
入ったバンドがことごとくスターになるんですから。

バンド仲間では、そんなジェフを
‘商売上手’と非難する向きもありますが、
そうした営業努力を度外視しても、
やはり強い星の元に生まれてきた一人であることは、

確かなようです。

(おわり)


(感想  2006/9/18)

『吉野家の牛丼』の完全復活を願って、
私流の食べ方をご披露します。

まず、ビールを一本と「牛皿」をひとつ注文。
さらにカウンターのなかから「おしんこ」をひとつ取り出す。

この「牛皿」と「おしんこ」の‘つまみ’が約半分、
そしてビールがほぼ無くなりかけたときに、
「並の牛丼」をひとつ注文。

これがすぐに出てくるので、
注文のタイミングに気をつけなければいけない。

そして「並の牛丼」では、
どうしても肉が足りなくなる。
そこで、半分残ってる「牛皿」の肉を混ぜる。

これで完璧。

「大盛り」や「特盛り」では私には米が多すぎる。

卵は使いません。
なぜなら、
せっかくの‘だし’が卵の黄身の味になるから。

同じ理由で「月見そば、うどん」のたぐいも、
私は好みません。

ええ。


ちなみに、

私がこういうくだらないことを書いてるときは、

‘ひま’か‘アレンジが煮詰まってる’かの、

どっちかです。


SHUN MIYAZUMI


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〜2005 エッセイ 1  

September 17, 2006

アルファの宴


0610collectors

2006年9月15日発売の音楽雑誌
『レコード・コレクターズ10月号』に、

偶然にも、
私がかつてプロデュースし、
この夏エッセイでもご紹介した、

「渡辺香津美 / マーメイド・ブールヴァード」
「ベナード・アイグナー / リトル・ドリーマー」

という2枚のアルバムが、
ジャケット入りで紹介されています。
(P.110〜113)

これは、4月から始まった長期連載、
『アルファの宴』
という記事の一環です。

私が在籍したアルファ&アソシエイツ、
アルファ・レコードの歴史を辿った特集。

来月号あたりからは、
私も登場することになっていますので、
ときどき本屋さんを覗いてみてください。


SHUN MIYAZUMI

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September 15, 2006

ジェフ・バクスターと牛丼 その2

月曜日に、転んで手首を痛めたと書いたところ、
いろんな方からお見舞いのメールや電話をいただきました。

おかげさまで、かなり回復。
ようやく今日あたりから、
少しずついろんなことができるようになりました。

利き腕が使えないのは、
本当に不便ですねえ。

ご心配おかけしました。

今後は、浮かれて歩かないよう、
心がけます。


というわけで、
過去ログ「ジェフ・バクスターと牛丼」の続きです。


2002年11月8日(金) No.28
ジェフ・バクスターと牛丼  その2

(そうそう、前回9/12の文中に、
  このジェフの写真を掲載しておきました。
  興味のあるかたは、ご覧になってください。)


1981年の秋。(だったかな)

三好鉄生のデビュー・アルバム制作のため、
三好、私、
そして当時アルファのアシスタントだった、
後に日本を代表するエンジニアとなる寺田康彦、
(このときは勉強のために見学参加)
の3人は、ロサンゼルスに向かいました。

バック・ミュージシャンは、
「東京音楽祭」で知り合い、
東京で数曲のセッションに参加してくれた、
『BILLY & BEATERS』の面々。
(ヴォーカルのビリー・ヴェラをのぞく)

いずれもアメリカでも名うてのミュージシャン揃いです。

レコーディングは毎日、
朝10時から夕方6時まで。
ということは、
間に当然昼食をはさむわけですね。

最初はドラム、ベース、ピアノ、ギター
といったリズム録りですから、
エンジニアやらアシスタントやらを加えると、
総勢10人くらいの食事が必要になります。


で、その初日。

リーダーのスカンク(バクスター)が、
ローディー
(日本では“坊や”とも言う、いわゆる楽器運びの人達)
のジョージという男に、
「‘ビーフ・ボール’を買って来てくれないか。」
と指図している。

なんでも『吉野家の牛丼』が、
最近スタジオの近くにオープンしたらしいのです。

「なるほど、こっちでは‘BEEF BOWL’って言うんだ。」
と変なところで感心しつつも、
「どうせロスは何食ってもまずいんだから、
 物珍しくもないけど牛丼でもいいや。」
と、こっちもオーケー。


そのアメリカ版『吉野家の牛丼』ですが、
もちろん味は日本とまったく同じ。

ただしこの人たち、
‘オシンコ’はさすがにだめなようで、
代わりに‘コールスローのサラダ’
みそ汁もだめで‘コーン・スープ’
というメニュー。


さあ、そのリアクション。

これがみんな、

「うまい!うまい!」を連発。
なかには、
「こんなうまい物、生まれて初めて食った。」
というやつまで現れる始末。

「だろっ?」 「だろっ?」と、
いち早くその存在を知ってたスカンクの、
まあ得意満面な顔。

初渡米、北海道の炭鉱町出身で、
和食しかダメな三好君も、
まさかアメリカで‘牛丼’が食えるなんて
思ってもみなかったようで、
もちろん大満足。


しかし、驚いてはいけません。

この人達、

翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、
つまり一週間のひるメシという昼飯、
ついに最終日まで、

ぜーんぶ‘牛丼’だったのです。


このときも私は、
日本人で良かった…
と妙な優越感に浸ってしまいました。

本当に我々は、
恵まれた食文化の中に生きているのです。


でもさすがの私も、
最初の2日間はお付きあいしましたが、
3日目にはやんわりお断りして、
ひとり外へ出て他の食い物を探しました。

当たり前です。

すると、
ありましたよ、
‘ゴキゲンな店’が近くに。

その名もずばり、

『レバノン料理』!!

こんがり焼けたチキンにスパイシーな野菜、
甘味のあるやわらかいパン、
「こっちのがずっといいのに。」と
ひとりほくそ笑む私。

それからこの店の‘クラブハウス・サンド’が
またうまい。
レバノンもアジアといえばアジアですからね。
これまたジューシーで抜群でした。

私はこれを交互に食して、
なんとかこの難局を乗りきりました。


さあ‘牛丼’タイムが終わると午後のセッション。

するとスカンク、今度は、
何やら紙巻きたばこのようなものに火をつけ、
他のミュージシャンに回し始めました。

もちろんこっちにも来た。
「いちばんスタッフ!」とか言う怪しげなやつが。
ま、ここはアメリカだし、
お付き合いとも思って私も一服。

ところが、これは強力!!!
たった一服で、頭クラクラ!!
夕方までマヒしてしまいました。

でもこの人たちは平然とプレイを続ける。
しかもゴキゲンなプレイを。
やはりアニマル…。
そしてこれも毎日の日課。

もちろん仕事にならないので、
私は翌日から、
これもパスしました。


さて、このスカンク・バクスターですが、

実はGメンの資格も持ってて、
拳銃所持OK。
飛行機もただで乗り放題。

そしてローディーのジョージは、
シチリア生まれの、
マフィアの流れを組む血の気の多い男。
もちろん太い腕にはちゃんと入れ墨が。

この二人で、
週末になるとロス沖に船を出して、
密入国してくるメキシコ人を銃で威嚇しに行く、
というのが趣味のよう。

二人ともご機嫌な男ですが、
なんとも悪趣味ですね。

でもみんないい感じのヤンキーでした。


こうして一週間後、
レコーディングも無事終了。

『TESSEI』と名付けられた、
この三好鉄生のデビユー・アルバムは、
そこに収められている
『涙をふいて』という曲のヒットにも助けられて,
20万を越える大ヒットになりました。

Namidawofuite

でも、一番の功労者は、
やはり『吉野家の牛丼』

でしょう。


(つづく)


(感想  2006/9/14)

3年前、
「女子十二楽坊」が初来日。

私は日本側の音楽監督として、
リハーサルを取り仕切っていたのですが、
その初日、
「昼食は何がいい?」
と彼女たちに聞いたところ、

ただちに、
「牛丼!」
「吉野家!」
という答が全員から返ってきました。


ということは、

この食い物は、

世界中のミュージシャンを魅了する、
のかもしれませんぞ。

そういえば、
BSEの関係で、
我々もずいぶん久しく食べてませんね。

なんだか、

恋しくなってきました。

ヨシノヤ…。


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

September 12, 2006

ジェフ・バクスターと牛丼

ひさしぶりに、
過去ログのリニューアルです。

2002年10月29日(火) No.27
ジェフ・バクスターと牛丼


ベナード・アイグナーの思い出』の項で、
彼が‘なす肉ピーマン炒め’や‘オムライス’に狂気!

その結果私は、
「日本の食文化の素晴らしさを初めて実感した」
というようなことを、
とうとうと述べましたが、

きょうはそんなお話をもうひとつ。


私はアルファ・レコードという、
極めてアメリカ・ナイズされた会社で育ちましたから、
海外でのレコーディングというものに関しては、
おかげさまで、
けっこうたくさんの機会に恵まれました。

そして、いつも思ったのは、

「日本という国は、
 本当に食い物が美味いんだなあ。」
ということ。


例えば、アメリカでレコーディングをする場合、
スタジオには、
いろんなスタジオ・ミュージシャンがやって来ます。

そして僕が日本人だとわかると、
とたんにみんなで食い物の話になります。


その場合まず、
日本に行ったことのあるやつが、
他のミュージシャンにむかって、
「おい、日本に行ったことあるか?
 あそこは食い物うまいんだぞお。」
と、知ったかぶりに始める。

すると、別のやつが、
「知ってる知ってる。
 俺、先月ボズ・スキャッグスと行ったんだけど、
 何食ってもうめえんだよ。」

またまた別のやつが、
「オー、イエー!‘スシー’‘テンプラー’」
だのと大騒ぎ。

これが私に対する、
めいっぱいの敬意表現というものでしょうが、
別に悪い気はしません。

当時のアメリカは、
本当にまずかったのですから。


傍らで、日本に行ったことのないやつは、
話に参加できないわけですから、
ハンバーガーかサンドウイッチを寂しそうに食ってる。

ただし、日本といえば、
‘食い物’か‘ソープ・ランド’しか話題にならないのも、
いささか残念な気がしましたが、
ま、所詮おバカな‘ミュージシャン’ということで、

ここは大目にみてあげましょう。


ところで、ここに、
「ジェフ・バクスター」というギタリストがいます。

長身で、お茶の水博士のような髭をたくわえ、
通称‘スカンク’と呼ばれてるギタリストですが、
その経歴は華麗です。

ジミ・ヘンドリックスのセカンド・ギターに始まり、
スティーリー・ダン、ドゥービー・ブラザース、と、
彼が入ったバンドはことごとく成功するのですから、
よほどの強運と言えるでしょう。

Doobie Brothers
(ドゥービー・ブラザース、『ミニット・バイ・ミニット』
 のジャケット。左下がジェフ・バクスター。)

そのジェフと最初に出会ったのは1981年頃。

TBSの主催する東京音楽祭というイベントに、
「アルファ・アメリカ」
(当時破竹の勢いで、アルファはアメリカにまで進出。)
の契約アーチスト
「BILLY & BEATERS」のプロデューサー兼ギタリストとして、
来日していたときのことです。

この「BILLY & BEATERS」とは、

ビリー・ヴェラという、
有名なカントリー系の歌手をリード・ヴォーカルに、
伝統的なカントリー、ブルース、ロックなどを混ぜ合わせた、
ホーン・セクションを入れて総勢11人からなる、
いかにも「ジス・イズ・アメーリカ!」
というバンド。

ドゥービー・ブラザースあたりとも共通点がある。
事実交流もあるみたいでした。

その東京音楽祭では、
「AT THIS MOMENNT」という素晴らしいバラードを演奏し、
ノーマークながらなんと金賞を獲得!

そしてこの曲、
その時はヒットしなかったのですが、7年後、
アメリカのホーム・ドラマの主題歌になり、
見事ビルボード誌全米NO.1に輝くのですから、
ここでもジェフ・バクスターの強運たるや、

しぶといものがあります。


ちょうどその時期私は、
「三好鉄生」という人のプロデュースを始めるところ。

で、この「BILLY & BEATERS」のサウンドが
私のイメージにピッタリだったので、
ジェフに頼んで、
数曲レコーディングのバックをお願い。

案の定、社内でも好評で、
引き続き「アルバムも作ろう」ということになり、
その数週間後、
今度は三好を連れて、

こっちがロサンゼルスに飛ぶことになりました。


(つづく)


きのうの「ALL OF ME CLUB」にお越しのみなさん、
ありがとうございました。

で、きのういらした方はご存知なのですが…、

お店に入る直前、
何かにつまずいた私は、
ものの見事に転倒。

とっさに支えた右手首を、

激しく痛めてしまいました。


幸い指は動いたので、
ピアノの演奏に支障はありませんでしたが、

今朝起きてみると、

右手首が、
ぶあーっと腫れてる。

きのうは他にも、
何かと‘転ぶ’ことが多く、
週あたまにして、
いきなり‘出鼻をくじかれた’感じですねえ。


先週が調子良かったものですから、
これは神様の、
「あんまり調子こくなよ!」
という警鐘なのかもしれません。

というわけで、
きょうはおとなしくしています。

みなさんも、
街を歩くときは、
気をつけてください。

それにしても、


痛い……。


トホ…。


SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 1  

September 07, 2006

白線流し(学園紛争 最終回)

10年以上も前のことになりますが、

フジTVで『白線流し』という番組がありました。

長野県松本市の高校に通う3年生たちの「学園生活」
をテーマにした青春ドラマで、

自分の進路や将来に対する希望と不安、
思春期特有の、ガラスのように繊細な心の動き、
また、全日制と夜間部に通う生徒どうしの交流や、
その中から生まれた、
みずみずしい恋愛感情などを描いた、
とても素晴らしい作品。

普段ドラマなどあまり見ない私ですが、
これだけは夢中になって観ていました。

その理由のひとつは、

ジャニーズ事務所に所属する、
‘TOKIO’というグループの‘長瀬智也’の、
初主演作品であるということ。

Uwasano Kiss
その当時私は、
この‘ TOKIO’のプロデューサーをやっており、
わずか1年半の間に、

『LOVE YOU ONLY』という
デビュー・シングルを
皮切りに、
『うわさのキッス』
『風になって』など、
8枚のシングルの制作、
そしてそれらを含む
3枚のアルバムの制作、


さらにコンサートの音楽監督など、
他のことが何も出来ないくらいの忙しさで、
このグループの仕事に追われていた時期。

この長瀬も、

松本でのロケを終えてすぐさま帰京、
夜遅くスタジオに飛び込んできて、
そのままレコーディング、

などという時期だっただけに、
よけい親近感の持てる‘ドラマ’だったわけです。


キャスティングも見事で、
どの役柄の子もみんな適役にして好演!

とりわけ、
「大河内渉(わたる)」という、

複雑な家庭に生まれ、
昼間は鉄工所で働き、夜はこの高校の夜間部に通う、
という孤独な少年の役を、
長瀬が見事に演じきっていたのには、
正直ビックリしました。

当時彼はまだ16才くらいじゃなかったかなあ。

もっとも当の本人は、
「セリフが少ないから、けっこう楽っす。」
などという、全く見当違いの理由で、
この役柄を気に入っていたようですが…。


もうひとつの理由は、

言わずもがな、

私の青春時代がオーバーラップしてくることです。

いつも当時を思いだして、ジーンとしてしまう。


さらには、10年前というと、
私の息子も、
反抗期真っ最中の多感な中学生でしたから、

この‘ドラマ’に出てくる親たちの、
子供を心配する心境も痛いほどわかる。

過去の自分の目を通しても、
今の親の目で観ても、
憎いくらいに気持ちが伝わってくるドラマで、
毎週毎週TVの前で、
くぎ付けになって観ていました。


その最終回。

卒業式が終わって、
学生帽の白線を解いて、
みんなで川に流すラストシーンでは、
‘スピッツ’の主題歌の効果も手伝ってか、
不覚にも涙がポロポロ。


そして、

私にとっての高校3年生はというと、


どうしてもあの‘学園紛争’と、
暑い暑い炎天下での、
「松山商ー三沢」の歴史的死闘が、
真っ先に浮かんでしまう。

私と同い年の連中が演じたあの‘ドラマ’は、
いったい何だったんだろう?

あのエネルギーは、
どこから出ていたんだろう?


あれから37年が経ちました…。


当初軽い気持ちで始めた「高校野球の話」が、
こんな展開になるとは、
思ってもみなかったのですが、

いま改めて、
あのことの‘意味’を考えてみると、


これは、
青春時代にこそ存在する
‘熱’というものの仕業ではないか、
と思うようになってきました。

‘熱’にうなされたように、
炎天下で黙々と球を投げ、
‘熱’にうなされたように、
体制を批判して、少年少女の身で政治行動に出る。


すべては‘熱’という、
内在する‘マグマ’のようなもののなせる業、
と解釈し自分を納得させてしまうのが、
私のような人間には、いちばんふさわしい…。


そして、
「もういちど、
 あの‘熱’を手に入れてみたい!」
と願うのは、

もはや欲張りというものでしょうかね。


こうしてみると、

昭和44年(1969年)という年は、
私の人生において、

どうやら、

‘特別に意味深い一年’


だったようです。


(おわり)


さてさて、9/11(月)は、

恒例‘セカンド・マンデー・ドリーム’
六本木『ALL OF ME CLUB』での、
ピアノ・トリオ・ライブです。

前回は、この高校の仲間も
いっぱい来てくれました。

シンガーのみなさんも、
どんどん唄いに来て下さい。


SHUN MIYAZUMI

写真 : (C) Sony Music Entertainment Inc.

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2006 エッセイ 

September 04, 2006

学園紛争 その5

神戸(西宮)の実家に帰省中の、
私の中学校以来の大親友、小原(おはら)氏。

頭脳明晰な彼のことですから、

この一連の学生運動に関しても、
あるいはヘーゲルやマルクスの理論に関しても、
明快な、独自の論理をお持ちのはず。

そして、この錯乱した私の脳みそに、
なんらかの光明を与えてくれるに違いない。

と、大いなる期待をこめて、
彼のご高説を賜りに行ったわけですが、

これが、

見事に大はずれ〜。


ノンポリ度に関しては私よりさらに上を行く、
といった感じの雰囲気で、しかも、
「それがどうした!」とばかり、超然としている。


そして彼は、

「人にはみな
 ‘思想の自由’というものがあるのだから、
 ヘーゲルなど理解できなくてもいいではないか。

 もし我々が自分の意思で、
 ‘これは倒さねばならない相手だ’
 と感じたときに立ち上がっても遅くはないし、
 今そうした行動は、彼らにまかせておいて、
 我々は自分たちの道を模索すべきではないか。

 俺は北大に行って‘文学’をやる。
 (当時彼は、ヘッセやマンといった、
  ドイツ文学に傾倒していました。)
 お前は‘音楽’をやれ。

 あくまで自分のやりたい分野で、
 堂々といろんなことを主張すればいいのだ。」

というようなことを、

言ったのか言わなかったのか、

残念ながら私には、

まったく記憶がありません…。


しかし、数日後、
妙にふっ切れて帰京したことは覚えているので、
自分の無知を適当に正当化して、
良くも悪くも‘開き直り’の気分にさせてくれた、
ことだけは確かなのではないでしょうか。


そして私たちは、

「そうだ京都行こう。」
とか、
「それ今日は須磨離宮だ。」
「やれ難波じゃ、ほれ心斎橋じゃ。」
と、昼間はほっつき歩き、

可愛い女子を見つけては、
O「にいさん、あの子可愛いで〜。」
M「どれどれ。」
とか、
M「あっちの子はどう?」
O「うっひょ〜、ええ感じやなあ。」

などという他愛ない思春期の会話をし、

夜は家で、
夏休み以来となる「サッカー・ゲーム」の再戦。

といった毎日を送ったことだけは、

さらに明確に覚えているところをみると、

この小原というお方も、
私に負けず劣らずの、
かなり「お気楽」な性格の持ち主であることは、

疑いの余地もありません。

(補足しますと、
 当時はコンピューター・ゲームはまだありません。
 ここでいう「サッカー・ゲーム」とは、
 おもちゃの卓上盤のことです。

 鉄の棒に、選手の形をした人形がくっついてて、
 ゴール・キーパーも含めて
 卓上のイレブンを全部、
 自分の手前にあるレバーを操作して、
 ガチャガチャ攻めたり、守ったりする、
 という、極めて原始的な代物。
 (すごくうるさいんですよ、これが。)

 そして、
 自主トレの豊富な「ホーム」の小原氏に対し、
 「アウェー」の私は圧倒的に不利。

 生涯、このゲームだけは、
 いまだ彼に勝ったことはありません。)


ま、そんなことはさておき、

帰京してまもなく、
この学園紛争は、
急転直下、一気に解決することとなります。

この急変には、
当時さまざまな説が飛び交いました。

「PTAの一部や強硬派の教師たちが、
 機動隊導入による強制排除を校長に迫って、
 どうやらやむなく学校側も決断したそうだ。」
とか、
「業を煮やした夜間部の‘民青’が、
 他校の支援者も巻き込んで、
 大掛かりな殴り込みをかけるそうだ。」

あるいは、
「早く学園を元に戻せ。」
という一般生徒の署名運動が活発化してきた。

でもひょっとすると、
一段と冷え込みが厳しくなってきたこの頃、
暖房を切られた校舎に立てこもるのが、
辛くなってきたのでは。

などなど、

様々な噂が飛び交いましたが、
当事者ではないので、
真相のほどはわかりません。

いずれにしても、
ようやくバリケードは撤去され、授業も再開。

3ヶ月にも及ぶわが校の‘学園紛争’は、
一応の終結をみることとなりました。


しかし、その爪痕は意外と深く、
夏休み以前の、
やれ修学旅行だ、体育祭だ、学園祭だ、
などに象徴される、
和気あいあいとした‘学園生活’に戻ることは、
ついにありませんでした。


そして、またたく間にその年も終わり、
年が明けると我々3年生は、
大慌てで受験準備をしたり、
各々が進路に向かって勝手に行動を始め、

殺伐としたなか、
あっという間に、駆け足で、

『卒業式』


さすがに卒業証書を手にしたクラスメートの顔には、
元の明るさが戻ってはいましたが、
めいめいが次の進路に向かって、
「じゃお元気で。バイバーイ!」てな感じの、
あっけらかんとした最後。

私も、
「さあ、大学に行ってジャズだ、ジャズだ。」
と、気分はすっかりそっちのほう。


今にして思えば、

ドラマ『白線流し』のような、
感動的なクライマックスなんかも、
やってみたかったなあ、

と、ちょっぴり悔しい気分、

ではありますが…。


(つづく)


SHUN MIYAZUMI


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2006 エッセイ 

September 01, 2006

学園紛争 その4

8/29(火)の『代々木ナル』
‘SUITE VOICE’とのライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。

若いお客さんがいっぱいで、
彼女らのファン層の広さにビックリ。

おかげでこっちもノリノリでした。

次回、この共演は
10/11(水)『六本木 ALL OF ME CLUB』です。

みんな、また来てね!


さてさて、まだまだ続く‘学園紛争’


何だか‘ミイラとりがミイラ’のような感じで、
荒れはてた校舎内をうろちょろするうちに、
「化学」の教員室の前を通りかかると、

またしても、

「おい、宮住じゃないか。」
と中から聞いたことのあるような声がして、
立ち止まる私。

なにやら薬品の壜をいじりながら声をかけたのは、
これも同じクラスのT君というやつ。

「おお、Tか。何してんの?」
と中に入る。

「いやね、今宵あたり
 夜間部の‘民青’(という一セクト)が襲撃してくる、
 という噂があってさ。
 だから、これで対決してやろうと思ってんだ。」
と、‘硫酸’や‘塩酸’といった、
なんとも危険な薬品をセレクトしている。

(注:うちの高校には夜間部がありました。)

いくら何でも、そこまでやってはいけないと思い、
私はこれには反論。


すると彼は、
「いや、‘プロレタリアート階級闘争’のためには、
 多少の犠牲は仕方ないのだ。」
と言う。

私は、
「じゃ、何かい、
 あーたの家は、かなりの資産家だそうだけど、
 親父を倒して、
 その財産や資産を山谷の労働者に分け与える、
 とでも言うんですかい?」

とでも言いたかったが、
‘無知’に近い私ではたちまち論破されると思い、
ここはじっと我慢の子。


さらに彼は驚くべきことを言う。


「そういえばお前、
 期末の‘化学’、20点だぞ。」

「なぬっ、どうして知ってる!」

と、教員の机を見ると、
期末試験の答案用紙が全クラス分、
ぶあーっと散乱している。

そのなかから自分のクラスのを探しだしてみると、

確かに私は、

20点…。ぐすっ…。

しかしこのTは、

もっと低い…。

私は、
「あーたね、
 私より‘化学’の成績の悪い分際で、
 そんな危険な薬品扱ってもいいの?」

とも言いたくなったが、
‘硫酸’をぶっかけられるのも嫌なので、
ここでもじっと我慢の子。


しかし、

「革命」というのは、こういうことなのか。
きのうまでの上下関係やら秩序というものが、
まるで正反対の状況になってしまうものなのか、

と、紛争勃発以来初めて、
がく然とした思いで、
私は朝方、むなしく帰宅しました。


翌日。

「これは俺も少し勉強せねばならんわい。」
と思いたち、さっそく本屋へ。

そして、彼らが言ってた本をごっそり買い込む。

「共産党宣言」(マルクス&エンゲルス)
「弁証法」(ヘーゲル)
「共同幻想論」(吉本隆明)
「邪宗門」(高橋和巳)
「死霊」(埴谷雄高)

そして数日で、これらをたちまちにして読破、

と言いたいところですが、

これはウソ!


本当は、

書いてあることが、

な〜〜〜〜〜〜〜んにも解らん!?

どれもこれも難しすぎる……?。

すべてが‘別の惑星’の言葉のように思える。


「彼らはこれを本当に理解しているのか?
 だとしたら俺は、
 本当は‘真性バカ’ではないのか?」

と、かつて経験したことのない劣等感に陥る私。

そして、何度トライしようとしても私の手は、
傍らに置いてある、
「ビッグ・コミック」や「漫画アクション」
に自然に伸びてしまって、
結局は‘ゴルゴ13’や‘ルパン三世’
を読みふけることになってしまう。


もはや、
これらを自力で読破することをあきらめた私は、

「誰か俺に、
 これらを簡単にレクチュアしてくれるやつは
 いないものか?」

と、またしてもイージーな道を模索する。


そうだ!

と、ここで、

またしても小原氏登場!

父親の転勤で、
中学校の2年間を「三重県四日市」というところで、
ともに暮らした級友小原氏が、
連休を利用して、
神戸(西宮)の実家に帰省しているはずだ。

(この小原氏は、
 今後もこのエッセイにたびたび登場するので、
 以後お見知り置きのほどを。)

彼なら、私よりずっと成績も良かったし、
アタマもいいはず。
きっと私にわかりやすく説明してくれるに違いない。

と思い、
夏休み以来再び私は、
西宮の彼の実家に出かけて行ったのでした。

季節は晩秋、
11月も早や下旬を迎えようとしていました。


(つづく)


SHUN MIYAZUMI

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2006 エッセイ