February 2007

February 26, 2007

MINT JAMS その2


金曜日の「学芸大 A'TRAIN」ライブ。

いやあ、
‘狂乱の夜’とは、
まさにこのこと。

お店がパンクするんじゃないかと、
心配になりました。

でも、ありがたいことです。

感謝…。

また、来月も、
盛り上がりましょうね。


それにしても、

どんどんヒート・アップする、この夜。

……。



さて、

カシオペア『MINT JAMS』
のお話のつづきです。


2日間にわたって行なわれた、
築地「中央会館」でのライブ録音。

熱狂的なお客さんの後押しもあって、
素晴らしい演奏が収録できました。

その中から、
7曲ほど選び出し、
さらに、演奏の出来のいい方を選び、
(2日間、同じメニューでしたから)

今度はスタジオで、
仕上げ(MIX DOWN)作業。


ここからは、
さも「スタジオ録音」のような、
クオリティーの高い、音作りを目指します。

というか、
これこそが、

この企画の重要なところ。

単純な「ライブ・ミックス」ではない。

私も、
かつて経験したことがない作業。


まずは、
ホールの残響、拍手、歓声、
これらをすべてカット。

しかし、それだけでは、
せっかくのライブ演奏の迫力、
臨場感が出ないので、

これ以上レベルを上げると、
拍手、歓声が再び聞こえてしまう、
ギリギリのところまで、
ホールの残響を戻していく。

しかも、
個々の楽器の音質は落とさずに。


このあたりの、
エンジニア吉沢さんのお手並みは、
それは見事なものでした。

吉沢さんといえば、
「赤い鳥」「ガロ」「ユーミン」「Y・M・O」
などなど、

アルファの歴史の根幹をなす、
重要な作品、アーティストにすべて関わった、
天才エンジニア。


そして、彼が
「300人くらいのホールが一番いい。」
と言ったのも、
ここへきて納得。

大きなホール、大観衆では、
ドラムにかぶった残響を消すことが、
困難になるんですね。

ステージの高さ、
ステージと客席の距離、
ホールそのものの残響、

いろんな条件を考えての、
会場選びだったのです。

やはり、天才は違う!


余談ですが、
ライブ初日、MCの向谷実(キーボード)が、

「きょうのライブはレコーディングされます。
 みんなの歓声がレコードになります。
 みんな盛り上がっていこうぜー!!」

と言ったのは、

大ウソです。


さあ、今度は、
ひとつひとつの楽器の音を、
入念に作っていく。

ライブの迫力を残しつつも、
スタジオ録音に負けないような、
高度で良質なサウンドを目指して。

スタジオにある、
高価なリバーブ装置、エフェクター、
などなど、
ありとあらゆる機材を使っての音作り。

ドラムのサウンド作りだけで、
3日くらいかかったんじゃないかな。


こうして、
スタジオに缶詰になること、
丸一週間。

「これだ、これこれ。
 これがカシオペアだ!」

と思える作品が出来上がりました。

大満足。


さあ、今度は、
「価格をいくらにするか」
で、アルファの会議は大モメ。

「これだけ立派なものが出来たんだから、
 堂々と、通常価格の
 ¥3,000でいいではないか。」
という意見と、

「いくら演奏がいいとはいえ、
 すでに既発売の楽曲ばかりだし、
 アレンジも、
 そう変わってるわけではないのだから、
 ¥3,000は高い。

 今までのファンの皆さんには感謝の意味で、
 また、これからのファン拡大のためには、
 買いやすい¥2,000でいくべき。」

という意見に、

まっぷたつ。

(実際「ASAYAKE」なんて曲は、
 早くも3度目の登場ですからね。)

結果は、
「AD-LIB」編集長などの助言もあって、
¥2,000というお買い得価格に決定。


となると、
レコード会社(アルファ)としては、
そんなに利益をあげられない。

したがって、
ジャケットにもあまりお金をかけられない。

「¥3,000でいこう」
を強く主張していた、
社長の村井(邦彦)さんなどは、
ちょっとスネた感じで、

「その辺のひとに、
 パパっとイラストでも画いてもらったら、
 いいんじゃないのぉ。」


私も、¥2,000支持派でしたから、
「ま、このくらいは譲歩するか。」

と、ほんとにその辺の誰かに
画いてもらった。

安く。

で、誰だったんだろう?

忘れてしまいました。


前にも言いましたが、
私はレコード、CDの類いの管理が、
きわめて悪く、

自分の作ったものですら、
持っていないものが数多い。

この『MINT JAMS』も、
見つけることが出来ませんでした。

ひょっとすると、
リーダーの野呂一生かなあ。

彼は画もうまかったから。

誰か覚えてるひとがいたら、
教えて下さい。

(ジャケットは前回のエッセイに
 掲載してあります。)


そんなわけで、

だまてらさんが、コメントで指摘した、
「手抜きっぽいジャケット」というのは、

ある意味、正解なわけです。


さあ、とにもかくにも、
こんな感じで、
めでたく発売と相成りました。

そして、

本当によく売れました。


さらに、このアルバムは、
イギリスでも発売され、

この後の「ロンドン公演」や、
「ヨーロッパ各地のジャズ・フェスティバル」
などでの、
記録的な大成功につながっていくのでした。

めでたし、めでたし。


さて最後に、
(あともう少しのご辛抱)

この『MINT JAMS』という
アルバム・タイトルについてひとこと。


これを考えたのは、
当時アルファの「海外担当」として勤務していた、
エドワード・リーマン君というイギリス人。

MINT:ハッカ
JAMS:(ジャズ)即興的なライブ演奏をする

‘ジャム・セッション’なんて、
ジャズの世界ではよく言いますよね。

まさに、このアルバムの内容にピッタリの、
素晴らしいタイトルだと、

海外スタッフの間でも大受けでした。


しかも、これ、
メンバー4人のイニシャルで、
構成されているのです。

Issei Noro:野呂一生(ギター)
Minoru Mukaiya:向谷実(キーボード)
Tetsuo Sakurai:桜井哲夫(ベース)
Akira Jimbo:神保彰(ドラムス)


リーマン君、
お手柄でしたね。


ああ、長くなった。

だまてらさん、
こんなところです。


しかし、この話。

カシオペアを知らないひとや、
興味のないひとには、

つまらなかったかもしれませんね。


ま、

私だって、
  
たまにはちゃんと仕事をするんだぞ。

というところも、


見せないと…。



SHUN MIYAZUMI


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2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

February 23, 2007

MINT JAMS


きのうの「 代々木ナル 」

なんだか、
またまた、

盛り上がっただなあ〜。


みなさん、
ありがとうございました。

佐藤有介(ベース)
イェ〜イ!

お前はやっぱりいいぞ!


ちゅうまけいこ(ヴォーカル)
可愛〜〜〜い!


ということで、
このセッション、


5 / 8(火)に再演でございます。

今回、お見逃した方、

ぜひ!!



さて、今日は、

「 カシオペア・デビューよもやま話 」
の番外編として、

彼らの数多くのアルバムの中で、
最も人気の高いもののひとつ、

『 MINT JAMS 』


このアルバムについて、
お話をしたいと思います。


Mint Jams


これは、彼らにとって、
7枚目か8枚目のアルバム
だったと記憶しているので、
1982、3年頃の作品でしょうか。

ちょうど彼らの人気が絶頂に達しようかと、
いう時期ですね。

そして、この作品は、

「 ライブ盤 」といえば「 ライブ盤 」だし、
そうではないといえば、
そうではない、

という、

妙チクリンなもの。


この頃の彼らは、

年に2枚のペースで、
オリジナル・アルバムを作り、
そのニュー・アルバムをひっさげて、
全国4、50ヶ所のライブ・ツアーを、
年2回行なう、

という、
驚異的なスケジュールを
繰り返していたのですが、

そのうちに私は、
ある種の‘もどかしさ’を覚えるように
なっていました。


どういうことかと言いますと、


カシオペアというのは、
圧倒的なライブ・バンドでしたから、

コンサートを繰り返すうちに、
演奏がどんどん良くなっていくんですね。

当たり前といえば当たり前ですが…、

彼らの場合は特に‘そう’。


毎回、
ツアーの最後のほうになると、

「 ああ、今のこの演奏で、
 もう一度全部録り直したいなあ。」

という欲求がつきまとう。

この‘もどかしさ’の連続であったわけです。


そのうち、

「 この、熱気溢れるライブ演奏と、
  スタジオ録音の緻密さが一緒になったもの、
  そんなアルバムが出来ないかなあ…。」

「 でも単純なライブ盤だと、
  音が悪くて売れないし…。」


そんな漠然とした思いが、

次第に現実のものとしてどんどん膨らみ、

ついに、

このアルバムの企画が生まれた、

と、こういうわけです。


さて、

この企画を、
社内の会議で通すと、
私はまず、
ライブ会場を探すことから始めました。


いつも私とコンビを組んでいただいてた、
エンジニアの吉沢(典夫)さんの助言によると、

300人くらいのホールが、
音響的には、
いちばん録音に向いている、らしい。


そこで私は、
都内及び東京近郊にある、
その規模のコンサート・ホール情報を、
たくさん取り寄せ、

その中から、
良さそうな数カ所を選び、
吉沢さんと一緒に下見。

その結果、

残響その他、
いろんな条件にピッタリということで、

築地にある、
「 中央会館 」という古びたホールで
2日間興行をやることにしました。


さあ、今度は集客の問題。

当時の彼らは、

東京だと、
「 NHKホール 」(4,000人収容)2日間が、
あっという間に完売、

という人気でしたから、

通常のインフォメーションだと、
大混乱になるおそれがある。


そこで、

ファン・クラブ会員だけを対象に、

「 ハガキによる応募。
  抽選により、600人(2日間で)を無料招待。」

という形でいくことに。


そして、
コンサート内容は、
まったく通常のライブと同じやり方。

人気のある楽曲を中心に、
1時間40分のプログラムを組み、
MCもいつものような感じで、
2日間同じライブをやる。

それをそのまま録音。


お客さんは熱狂しましたねえ。


降って湧いたような企画。


彼らもいつも通り、
熱い、素晴らしい演奏を
繰り広げました。


さあ、今度は、

その中から、
ベストな楽曲、演奏を
7曲(だったかな?)選んで、
スタジオに持ち込み、

手直し、オーバー・ダビング一切無し。

拍手や歓声は全部消して!

一日一曲のペースで、
スタジオ録音のような緻密さで、

『 MIX DOWN(ミックス・ダウン)』

(この‘MIX DOWN’の説明は、
 過去ログ、「 ベナード・アイグナーの思い出 」
 を参照してください。)

をするのですが…。


やっぱり長くなってきましたねえ。

2回に分けましょう。

ということで、

次回をお楽しみに!


(まだ、だまてらさんの質問に、

 全然答えてないし。)



(つづく)



さあ、きょうは、

学芸大「 A'TRAIN 」

ライブ。


連ちゃんだ。


盛り上がりまっせえー。



SHUN MIYAZUMI

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2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

February 17, 2007

カシオペア・デビューよもやま話  その2


くしゅん。

ぐしゅぐしゅ。


一昨年あたりから、
私もどうやら花粉症の仲間入り。

まだ2月だというのに…。

これも暖冬、
地球温暖化の影響でしょうか。


さてそんな中、

2/22(木)
「 代々木ナル 」にて、

とても興味深いライブをやります。


まずは、

最近知りあった、
素晴らしい若手ベーシスト、
佐藤有介君。

初めて見たとき、
「 ひょっとして、こいつは天才? 」
と思えたほどの逸材。

どうしても一度一緒にやってみたくて、
ママに頼んで、
めでたく競演と相成りました。


そしてヴォーカルは、

私の古くからの飲み仲間で、
美人の誉れ高き、
素敵なジャズ・シンガー、

ちゅうまけいこさんにお願い。

これまた公式の場では初競演。


これは、いったい
どんなライブになるんでしょうか?

大いに楽しみ。

興味津々。

わくわく…。


好奇心旺盛のかた、
ぜひいらして下さい。

ま、こんなことが出来るのも、

ジャズという音楽のなせるわざ!?



2004年04月11日 No.73
カシオペア・デビューよもやま話 その2


レコーディング半ばで職場放棄。

スキーによる骨折、入院という、
おバカなプロデューサー
の存在にもめげず、

カシオペアはなんとか1979年、
デビューを果たしました。


とはいえ、このデビュー盤。

彼らのライブの熱気に比べると、
なにか釈然としないものがある。

そこで私は急いで
もう一枚アルバムを作ることにしました。


そこへ、

JAL(日本航空)
『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
キャンペーンCM

の話が舞い込んできました。


チャンス!

私は、
リーダーの野呂一生(ギター)に、
一日でアレンジをするように言い、

本来日曜日で休みのはずの、
「 アルファ・スタジオ 」を
無理やり空けてもらって、

大慌てでレコーディング。


この速攻作戦が功を奏したのか、


めでたく採用と相成りました。


I Love NY
(シングル「 I LOVE NY 」のジャケット。レアもの?)


こうして、

この『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
が収められた、

『 SUPER FLIGHT 』

というセカンド・アルバムは、

当時のフュージョン物では破格の、
5万枚を突破するという、
セールスを記録したのです。

よかった、よかった。


Super Flight
(アルバム「 SUPER FLIGHT 」のジャケット)


ま、なんとかこれで、
無責任なデビュー時の失態は、
免れたのではないでしょうか。


その直後、
ドラマーが神保彰に代わり、

即座に出した『 サンダー・ライブ 』
というライブ・アルバムが、
「 AD-LIB 」その他の音楽専門誌で、
海外ミュージシャンの絶賛を浴びるようになり、

続く『 MAKE UP CITY 』というアルバムが、
アメリカのジャズ・チャートで、
7位にランク・イン。

名ドラマー、ハービー・メイソン
(かつて過去ログ、
 「 ベナード・アイグナーの思い出 」でもご紹介)
とのジョイント・ツアーで、
さらに実力をつけ、

次第に、
コンサート・チケットは、
いつも、あっという間に完売。

そして、どの会場でも、
熱狂的なファンが、
どんどん増えていく。


こうして、カシオペアは、
またたく間に、
押しも押されぬ人気バンドとして、
活躍していくことになるのですが、

この話を続けていくと、

これだけで楽に一年くらいは
かかってしまいそう。


ということで、

カシオペアには、

また時折ご登場を願うことにして、


スキーから始まった、
この長〜いお話にも、

ひとまずピリオドを打つことに

したいと思います。


そうそう、

そういえば、

先だってソニーから、

カシオペアの全アルバムが、
“オリジナル・ジャケット”で
CD発売になりました。
(くどいようですが、
 デビュー・アルバムだけは違います。)


その中で、

シングル盤ばかりを集めた

『 カシオペア・シングル・コレクション 』

なる物が、
新たに作られました。


その解説(ライナー・ノート)を、
不肖、この私が、
書いておりますので、

興味のお有りの方は、

ご覧下さいませ。


ちょっと恥ずかしい気もしますが…。




(感想 2007/2/17)


なにぶん昔のことですから、

その、
『 カシオペア・シングル・コレクション 』
の解説を書くにあたって、

当時の音を、
引っ張り出して聴いたり、
いろんなことを、
必死で思い出したりして、

これはこれで、

なかなか大変な作業でした。


足掛け10年にわたり、

20枚近いアルバムや、
おびただしい数のコンサートで、
一緒に仕事をしたカシオペア。


やはり、私のなかでは、
特別に感慨深い存在ですね。


そんなカシオペアの、
数多くのアルバムのなかで、
最も人気の高いもののひとつに、

『 MINT JAMS 』

というのがあります。


先日、
このブログのコメント欄に、

友人の「 だまてら 」氏から、
このアルバムに関する質問が、
寄せられておりました。


というわけで、次回は
「 番外編 」として、

この『 MINT JAMS 』制作秘話。

これを、
いってみたいと思います。


は、

はっ、


はっくしょ〜〜〜〜ん!


…….



SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 2  | マイ・ディスコグラフィー

February 13, 2007

カシオペア・デビューよもやま話


きのうの「 六本木 ALL OF ME CLUB 」
ピアノ・トリオ・ライブにお越しのみなさん、
歌手のみなさん、
演奏してくれたみなさん、

ありがとうございました。


休日なのに、
すご〜いお客さんの数でしたね。

びっくりしました。

みなさん、
ひとあし先に、
花見ですか?

ま、おかげさまで、
ノリノリで演奏することができました。

きょうは、指が痛いです…。


次回、このセッションは、
3/12(月)です。

3ヶ月ぶりに平日。



2004年03月16日 No.72
カシオペア・デビューよもやま話


1979年の正月スキーで、
ものの見事に骨折。

長い長い入院生活とリハビリを終え、
春爛漫の4月、

ようやく社会復帰を果たした私。


そんな私の帰りを、

とある新人バンドが、
心待ちにしてくれていたのです。


そのバンドの名は、


「 カシオペア 」


当時、
私が在籍していたアルファ・レコードでは、
「 フュージョン・ミュージック 」に、
やたら力を入れていました。


かつて、
このブログのエッセイでもご紹介した、

「 深町純&ニューヨーク・オールスターズ 」
「 渡辺香津美&ジェントル・ソウツ 」

の他にも、

ニューヨーク在住の才人「 横倉 豊 」
今は亡き名ギタリスト「 大村憲司 」

などなど、

ずいぶんいろんなアーティストがいましたね。


ま、とにかくこの会社は、
本当に新しもの好き。

そして、
私がこの手の音楽を、
好きだと思われていたのか、

アルファにおける
フュージョン・プロジェクトは、
ことごとく私が担当しておりました。


そんなアルファに、
ある日、
「 カシオペア 」というバンドのデモ・テープが
持ちこまれてきました。

いくつものレコード会社から断られて、
やってきたそうです。

アルファなら、
「 フュージョン・ミュージック 」に力を入れてるし、
商業的にも成功をおさめているし、
なんとか認めてもらえるのではないか。

ま、そんな期待をこめて、
来たのではないでしょうか。


ところが、
アルファの評価も、
それほど高いものではありませんでした。


なにぶん、若い。

オリジナリティーはありそうだが、
演奏が荒い。

でも、フュージョン物の流れのなかでは、
こういうのも一つくらいあってもいいのでは、
という程度の契約でなんとか成立。

プロ野球の世界でいうと、
「 ドラフト外入団 」「 契約金ゼロ 」
みたいな感じでしょうか。


ところが、

ライブを見て仰天!


ほとばしるエネルギー、
粗削りながらもハイ・テクニックの嵐。

そしてなによりも、

明るい!

しゃべりも面白く、
お客さんを楽しませるパフォーマンスは、
なかなかに大したもの。


そうそう、今思えば、

デビュー前の彼らは偉かったですよ。

ライブの前に渋谷駅前で、
自分たちで作ったチラシを配ったりしてました。

「 僕たちカシオペアというバンドです。
 今日ライブをやります。
 来て下さ〜い! 」

そのかいもなく、
渋谷の「Y」という、
安キャバレーの2階にある、
みすぼらしいライブ・ハウスに集まったお客は、

たったの5人…。


それでも頑張って演奏して、
自分たちで楽器を片付け、
3階の控室に戻ると、

泥棒が入って、
全員財布を盗まれている、

なんてこともありました。


そんな彼らに、
いつしか私は、
「 何とかこのバンドを応援してやりたい。」
という気持ちが芽ばえていったのです。


そんなカシオペアも、
無事デビューが決まり、

折しも来日していた名エンジニア、
アル・シュミットのサポートで、
とりあえず年内にリズム・トラックを録音、
残りは年が明けてから。

「 じゃあ、みんなよいお年を! 」
と別れて、

例の骨折騒動と相成ったわけです。


なんとも無責任なプロデューサー
がいたもんです。


この時の話は、

後に有名になった彼らが、
取材のたびに話すものですから、
その度に記事になり、
こちらはただ苦笑するのみ。

ははは。

仕方ありませんね。


それから、

ジャケットがまたひどかった。

ボンヤりした4人の写真の上に、
おびただしい数の錠剤(ピル)が。

「これでは、
 さわやかで溌剌とした彼らのイメージとは、
 ほど遠いではないですか。
 なんとか再販から、
 ジャケットを作り直して下さい。」

この直訴から、

私の仕事は再開です。


その直訴はめでたく取り上げられ、
その初版のレコードは姿を消し、

今市場にあるのは、
とりあえずこんな感じのもの。


Casiopea 1


作品も、
(私が言えた義理ではありませんが)
「 もっとポップに作れたはずだ 」

とここでも後悔の念。


ならば、
「 すぐに次を作ろう 」

と、

リーダーの野呂一生君をけしかけ、

次なるアルバム(スーパー・フライト)
の制作準備にとりかかったわけです。


というと、
聞こえはいいのですが、

今にして思えば、

さんざん迷惑をかけ、
失いかけた信用をとり戻そうと、


単に、


入れ込んでただけの話かも…。


(つづく)




(感想 2007/2/13)


その初版のカシオペアの
デビュー・アルバム。

「 薬漬けジャケット 」のカシオペア。

5000枚くらい市場に出たそうですが、
今やファンの人のなかでは、
ひょっとして、
貴重なものかもしれませんねえ。


うちには、あるのかなあ…?


さらに、
このアルバムには、

先日お亡くなりになった、
マイケル・ブレッカー(TS)氏や、
お兄さんのランディ・ブレッカー(TP)
それに、
デヴィッド・サンボーン(AS)

といった、

ニューヨークのスーパー・プレイヤーたちも、
参加されている。
(あとでダビングしたのでしょうが。)

こんなことも、

ちっとも知らなかった。


ほんと、

無責任だわ…。



SHUN MIYAZUMI

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〜2005 エッセイ 2  | マイ・ディスコグラフィー

February 07, 2007

私をスキーに連れてかないで その7

毎日暖かいですねえ。
地球温暖化…。

きのうなんか、
久しぶりに駒沢公園を歩いたら、
汗びっしょりになりましたよ。

桜が狂い咲きしちゃうんじゃないの?


こんな調子じゃ、

夏が思いやられる…。


というわけで、
長々と続いた「スキーと骨折のお話」も、

きょうが最終回です。



2004年03月04日 No.71
私をスキーに連れてかないで その7


1979年。

司馬先生と竜馬くんのおかげで、
退屈だったはずの入院生活も、
それなりに有意義なものとなり、

3月の初めには、

晴れて「仮退院」の許可が出ました。


久しぶりのシャバ。
久しぶりの外の空気。

ヨ〜ロレイホ〜〜♪


さっそく近くの寿司屋に行きましたよ。

久しぶりの寿司。
久しぶりの酒。

ヨ〜ロレイヒ〜〜〜〜〜〜〜♪


松葉づえで現れた私を見て、
寿司屋のオヤジは驚きましたねえ。

事情を話すと、

「そりゃ大変だったねえ。
 今日は刺し盛サービスだ。
 ゆっくりしてってよ。」


ありがたい!


山盛りの刺し身に舌鼓を打ちながら、
久しぶりの酒が進む進む。

健康であることの幸せ、
自由な身であることの喜び。


ところが、

あまりの喜びに浮かれすぎ、
飲みすぎ、
帰り道の階段のところで足がもつれ、
スッテンコロリ。

実はそのまま、

病院に逆戻りになってしまったのです。

トホホ…。


幸い今度は骨には異常なく、
軽い打撲ですんだものの、
「本退院」は、
さらに一週間ほど遅れてしまいました。


さあ、喜んだのは病室仲間。

「おかえり〜。」

「……。」


2ヶ月以上も一緒に暮らしていると、
仲間意識や連帯感は、
異常なまでに強くなるんですね。


こんな話もあります。


消灯後、誰かが、
「ああ、たばこ吸いてえ。」
と騒ぐ。

すると、
一人だけ、自由に動けるK君が、

「僕、斥候に行ってきます」
と、ナース・センターの前の応接セットの所で、
見張りをやってくれる。

その間、
窓側のNさん、Mさんのギプス・ベッド組が、
窓を大きく開け、
各々ベッドの上でプカプカ。


するとK君が、
「看護婦が来ます〜」
と、すっ飛んで帰ってくる。

みんなあわてて火を消して、
めいめいの明かりも消して、

たぬき寝入り。

スースー…。


それでも、若い看護婦なら、
「なんか、タバコのにおいがしますねえ。
 だめですよ。ここは病院ですからね。」
と、やさしく微笑んで、
さっさと帰ってくれるのですが、

一度、

「大変です!婦長が来ます!!」
と、K君がすっ飛んで帰ってきたときは、

あせりました。


この婦長。

なかなかに厳しい鬼婦長で、

規律を破ると、
洗髪を一回飛ばされたり、
さながら刑務所なみの罰則を
しかけてくるのです。


「なんですか。タバコのにおいがしますよ。
 みなさん、ここは病院ですよ。
 火事にでもなったらどうするんですか。
 誰ですか、吸ってたの?
 正直に言いなさい!
 ここをどこだと思ってるんですか!!」

とまあ、全然引き下がらない。


その間みんな、スースーと、
ひたすらたぬき寝入り。

そのみんなの、
‘すっとぼけ’ぶりが可笑しくて、

笑いをかみこらえるのも必死。


そう、

今となってはこんなのも、

いい思い出話。

そして、

みんな、とてもいい人たちでした。


そのうち、

症状の軽いK君が退院し、
Sさんが退院し、
また代わりの人が担ぎ込まれ、

この私も3月中旬には本退院。

残ったのは、
腰の悪い、寝たきりの、
Nさん、Mさん
だけと相成りました。

お二人が退院したのはそれから半年後。

そしてその年の暮れには、
晴れて退院した全員で、

同窓会までやったのです。


以来25年間、
会うこともないのですが、
みなさんお元気なのでしょうか。


退院して、一番嬉しかったのは、
風呂ですね。

まあ、こすってもこすっても、
出るわ出るわ
アカが。

そして、
ギプスを壊してビックリしたのは、
骨と皮だけになってる私の左足。

人間、使わないところって、
あっという間に退化するんですね。


さあ今度は、
2日に一回のリハビリに通う。

これがまた痛いのなんのって。


そうこうするうちに、
少しずつ肉も付いてきて、
松葉づえから普通の杖に変わり、
ゆっくりでも、
なんとか会社に行けるようになったのが、

4月の中旬。


あっという間の骨折を直すのに、
これほどの時間がかかるとは…。


壊れるのは一瞬。

作ったり、元へ戻したりするのは、
本当に時間がかかるもの。

これは人間関係も一緒ですかね。


さて、

こうしてアルファ・レコードに復帰した私。


実は年末に、

ある新人バンドの
デビュー・アルバムを作り初めており、

「じゃあ、残りは来年。
 よいお年をー!」

と別れて、
この事態になり、

かじ取り、船長のいないまま、
なんとかレコーディングを完了し、

でも社内では、
あまり注目もされないまま、
デビューを迎えた哀れなバンドが、
私の復帰を待っていたのです。

そのバンドの名は、


「カシオペア」


ということで次回は、

「カシオペア・デビューよもやま話」


こんなの、
いってみようかなと思ってます。


(このシリーズおわり)




(感想 2007/2/7)


4ヶ月会社をリタイアしても、
お給料はちゃんと入ってた。

このときだけは、
「サラリーマンって、いいなあ。」
と実感しましたね。

ま、その5年後に、
結局はフリーになるわけですが、

スキーはもちろんやっておりません。


そればかりか、

ある時期のゴルフを除いては、
スポーツは私にとって、
全く無縁の存在になってしまいました。


今の私にとって、
スポーツとは、

ジャズ・ピアノだけ,

かな?


というわけで、
2/12(月・祝)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
ピアノ・トリオ・ライブです。

どうぞ唱いに、盛り上がりに、
来て下さい。

「スポーツ・ジャズ!」

どうやら私には、
これがいちばん、

お似合い!?



SHUN MIYAZUMI


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〜2005 エッセイ 2  

February 01, 2007

私をスキーに連れてかないで その6

きのうの「代々木ナル」

すごい盛り上がりでしたね!

みなさん、ありがとうございました。

このライブの模様は、
このページのLINK(Friends)にある、
友人の「途夢♪待人」氏が、
詳しく書くでしょうから、
どうぞご覧になって下さい。
(WJJというコーナーです。)

彼のライブ評も、
面白いですよー。

それにしても、

CHIHARUは、
やはり最高だ!

次回、このセッションは、
4/24(火)です。

まだの方、

ぜひ!



2004年02月19日 No.70
私をスキーに連れてかないで その6


「竜馬がゆく」に大感動した私。

続けざまに、
「世に棲む日々」「燃えよ剣」「功名が辻」「空海」
などなど、
司馬作品を一日一冊のペースで読破。

おかげで、
この退屈な入院生活は一転、
大変有意義なものになりました。


それにしても「竜馬がゆく」は、
見事な作品。

竜馬の不撓不屈の生き方もさることながら、
いろんな逸話が、
網の目のように張り巡らされ、

読み直すたびに、
いつも新たな発見がある。

登場人物も個性豊かに描かれており、
「幕末の一大叙事詩」
で片付けるには惜しいくらいの人間ドラマが、
ふんだんにあるのです。


たとえば、

勝海舟の勧めもあって、
竜馬が、
西郷隆盛に初めて会いに行ったときの話。


「いやあ、お待たせしましたなあ。」
と西郷が現れると、
竜馬は何やら庭の方に向かって、
一匹の鈴虫とたわむれている。

「すまんけど、この鈴虫を籠に入れて、
 エサでも与えてくださらんかのう。」
と竜馬。

「変なヤツが来たもんだ」と思いつつも、
家来に命じて‘虫かご’を用意させる西郷。


その数週間後、
再び西郷を訪ねる竜馬。
そしてあの時の鈴虫を見せる西郷。

「おお、元気だったか!」と喜ぶ竜馬。

しかし、それは、

一週間ほどで死んだ鈴虫に代えて、
いつ竜馬が来てもいいように、
常に新しい鈴虫と入れ替えさせていた
西郷の配慮だったのです。


後日勝海舟は竜馬に聞きます。

勝 「西郷ってのはどんな男だった?竜馬よ。」
竜馬「そうですな、ひとことで言って、
   釣り鐘のような人ですな。」

勝 「それはまたどういう意味だ?」
竜馬「大きく叩けば大きく響く。 
   小さく叩けば小さく響く。」


勝は感心してこう記しています。

「評するも人。評さるるも人。」
(つまりどちらも大人物だということ。)


(うまい!
 勝さん、あんたもなかなかやるねえ。)


竜馬が鹿児島の西郷の家に泊まったくだりも、
傑作です。


竜馬が蒲団に入ると、
となりの部屋で、
西郷と奥方が何やらもめている。

何でも、
家を空けて国事にばかり奔走してる西郷に、
家の雨漏りがひどいので、
何とかしてくれという話。

それに対する西郷の答え。

「今は日本中が雨漏りしておる。
 自分の家の雨漏りだけを直せば
 いいというものではない。」


さすがの西郷も、
奥方には苦しい弁明をするものだと
思わず苦笑いする竜馬。


その他にも、

おりょうと知りあった頃、
火事で焼け出されて、
路頭に迷ってるおりょう一家に、
有り金の50両をすべてくれてやる竜馬。

「あの、困ります。こんな亊してもらっては。」
と当惑するおりょうに対し、

「かまわん。女一人救えなくて、
 どうして国が救えるか!」


(やってくれるじゃないの竜馬くん。
 かっこいいねえ、男だねえ。)


「人は利でしか動かない。」

これも言い得て妙だな。

イディオロギーの違いから、
(例えば、尊王攘夷、佐幕、開国等の)
論争のあげく、
斬り合いばかりをやってる連中を横目に、

薩摩の余った武器と、
長州の余った米をトレードにし、
お互いから感謝をされ、
それが薩長同盟につながっていく、

てなことを、やってのける。


(若いくせに、
 世の中の道理がわかった奴じゃのう。
 わしなんか、この年になっても、
 まだ失敗ばかりしとるちゅうのに…。)


「議論すべからず。実践あるのみ。」

議論で相手を打ち負かしても、
相手は絶対納得していない。
ただ恨みだけが残ってるだけだ。


(そのとおりじゃが、
 なかなか実践するのは、
 むずかしゅうござるよ、これは。)


ま、こんな話がいっぱいあって、

27才という
‘はな垂れ小僧’の私にとっては、

本当にためになる、
出会いだったのです。


「竜馬がゆく」は、
その後何回も読みました。

30代では30代なりに、
40代では40代なりに、

得るものがある。

特に、
困った時、
にっちもさっちも行かなくなった時、

全身バネのような、
竜馬の生き方や考え方は、

大いに勇気づけられたものです。


こうして、
「 スキー → 骨折 → 手術 → 入院 」
という、
波乱万丈のスタートとなった1979年は、

おかげで、ほんのちょっぴり、
私を成長させてくれた、

そんな年になったのかもしれません。


(つづく)



(感想 2007/2/1)


暮れにも書きましたが、
昨年の私は、

「種まきの年」
「充電の年」

でもありましたから、

有り余る時間を利用して、

今度は、
司馬遼太郎「戦国4部作」(全12巻)
に挑戦してみました。


これがまた、

素晴らしい!


一介の油商人から身を起こし、
美濃一国をぶんどる斎藤道三を描いた、
「国盗り物語 前編」

‘革命児’織田信長と、
古い‘室町体制復活’を願う明智光秀
を対比させながら展開していく、
「国盗り物語 後編」

「豊臣秀吉は‘偉大な商人’であった」
という、大胆な発想のもとに描かれる、
「新史太閤記」

なにゆえ徳川家康が勝ち、
石田三成は敗れたか、
を事細かに分析する、
「関ヶ原」

周到な準備と、
権謀術数のかぎりを尽くして、
ついに豊臣家を滅ぼしてしまう家康と、
‘義’という美名のもとに大阪方に殉じた、
真田幸村ら武将たちを描いた、
「城塞」


各々3回は読みましたかね。

現在4回目。


いやあ、勉強になります。


これらに共通するテーマは、

「人間とは何か」

ということ。


人間死ぬまで勉強やねえ。


司馬遼太郎さん、
あなたは偉大です。

日本で最初に、
『ノーベル文学賞』を取るべき人は、


絶対‘あなた’でした。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 08:39コメント(6)トラックバック(0) 
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