May 2007
May 29, 2007
ジャズまくり時代 その10(最終回)
やりましたね、
白鵬。
先日、旭鷲山関にお会いしたとき、
「白鵬は俺が連れて来たんだよ。」
と、誇らしげに言ってましたから、
さぞやお喜びのことと思います。
その、モンゴル出身力士のパイオニア、
「旭鷲山」の引退セレモニー
(6/2 両国国技館)
のために、
私は「 君が代 」を、
男声4部コーラスにアレンジしました。
歌うは『 jammin' Zeb 』
日本代表。
がんばれよジャミン!
さて、
長々と続いた、
私の大学時代回想記も、
きょうが最終回です。
2003年11月24日 No.60(後半)
ジャズまくり時代 最終回
とにかく、
私の大学4年間は、
ジャズ・オンリー!
ジャズ・ピアノが上手くなることしか、
頭に無かった。
そして、
ぎりぎりのところで、
学業との両立が出来た背景には、
多くの友情の支えもありましたね。
朝、私を起こすために留年するハメになったり、
私が単位を落とさないよう、
せっせと情報を運んでくれたり、
よけいな出席カードまで出してくれたり…。
「持つべき物は友」
とは、よく言ったもの。
こうして、
試験週間もなんとか乗り切りながら、
私の‘酒場ピアニスト’の生活は、
続いていきます。
しかし、
前々回も書きましたが、
その一方で、
なにかやるせないものが、
どんどん私の中に芽ばえていったのも事実。
銀座では、
相変わらず酔った客が、
「アレやれ」「コレ伴奏しろ」と言ってきます。
私は自分に問いかける。
「バカヤロー!
俺はジャズをやるんじゃなかったのか?
なんでこんなところにいるんだ…?」
ある夜、
昭和の映画界を代表するスーパー・スター、
石原○次郎という人が来ました。
「小僧、
『思い出のサンフランシスコ』出来るか?」
なまいき盛りのガキの私は、
「ふん、どうせ歌謡曲みたいに歌うんだろうよ。」
と言わんばかりに、
仏頂面で、不機嫌そうに、
「ええ…。」
と答える。
ところがです。
いやいやながらも、
その伴奏が終わったとき、
彼は、なんと、
10万円のチップをくれたのです。
「小僧、ご苦労だったな。」
前にも書きましたが、
タクシー初乗りが、100円の時代にです。
思いだすのも嫌なのですが、
私は彼に向かって、
思わずこうつぶやいていました。
「あのう、
もう1曲いかがですか?」
「……。」
思い悩んだあげく、
友人の熱心な勧めもあって、
結局私は、
「ライト・ミュージック・ソサエティ」
に戻ることにしました。
そして、
芝『郵便貯金ホール』
での、卒業コンサートを最後に、
‘普通の大学生’
として学生生活を終え、
アルファというレコード制作会社に就職。
今度は主に、
ポップスを中心とした、
レコードの‘プロデュース’という仕事に、
就くことになりました。

(一番左のキーボードを弾いてるのが私。【拡大版】)

(いや、若いなあ…。)
以来、ジャズ・ピアノは、
私の‘趣味の世界’に落ち着くことに。
時々、仲間たちとセッションしたり、
ジャズ・クラブの「ジャム・セッション」などで、
数曲弾かせてもらったりする以外は、
ジャズ及びジャズ・ピアノは、
私の趣味の部分に、
25年以上も
封印されることになるのです。
2000年の春に、
「ジャズ・コーラスでもやってみようかな。」
と、思い立ち、
女声コーラス・グループ
『STARLIGHT JUNCTION』を結成。
再び演奏活動をはじめるまでの
長きにわたって…。
(おわり)
(感想 2007/5/29)
そういえば、
きょう、5月29日は、
私の誕生日。
ま、この年にもなると、
単純に「誕生日おめでとう」
という気分でもありませんが、
この私の学生時代を回顧してみて、
つくづく思い出されるのは、
父のことですね。
私の父は、
幼い頃、家業が没落したために、
尋常小学校しか行けず、
意を決して19才で満州に渡り、
かなりの成功をおさめていたものの、
突然のソ連軍侵攻のため、
すべての財産を没収され、
あげく、極寒のシベリアに捕虜として3年も抑留。
奇跡的に裸一貫で生還したあと、
こつこつと真面目に働いて、
私を育ててくれました。
安月給をはたいて、
ピアノを買ってくれたり、
レッスンに行かせてくれたり。
私が、好きな音楽の道で、
こうしてやってこれたのも、
やはり、
父のおかげと言うべきでしょう。
もっとも父は、
私がまっとうな道を歩むのを望んでおり、
そのために、
高い月謝の大学に入れてくれたのですが、
なかなか、
人生思うようにはいかないようです。
ま、元気でやってんだから、
いいじゃないか。
なあ、とうさん!
というわけで、
この長い長いシリーズは、
1999年に80才でこの世を去った、
わが最愛の父、
宮住清繁に捧げたいと思います。
たまには真面目に、
締めくくってみました…。
SHUN MIYAZUMI
白鵬。
先日、旭鷲山関にお会いしたとき、
「白鵬は俺が連れて来たんだよ。」
と、誇らしげに言ってましたから、
さぞやお喜びのことと思います。
その、モンゴル出身力士のパイオニア、
「旭鷲山」の引退セレモニー
(6/2 両国国技館)
のために、
私は「 君が代 」を、
男声4部コーラスにアレンジしました。
歌うは『 jammin' Zeb 』
日本代表。
がんばれよジャミン!
さて、
長々と続いた、
私の大学時代回想記も、
きょうが最終回です。
2003年11月24日 No.60(後半)
ジャズまくり時代 最終回
とにかく、
私の大学4年間は、
ジャズ・オンリー!
ジャズ・ピアノが上手くなることしか、
頭に無かった。
そして、
ぎりぎりのところで、
学業との両立が出来た背景には、
多くの友情の支えもありましたね。
朝、私を起こすために留年するハメになったり、
私が単位を落とさないよう、
せっせと情報を運んでくれたり、
よけいな出席カードまで出してくれたり…。
「持つべき物は友」
とは、よく言ったもの。
こうして、
試験週間もなんとか乗り切りながら、
私の‘酒場ピアニスト’の生活は、
続いていきます。
しかし、
前々回も書きましたが、
その一方で、
なにかやるせないものが、
どんどん私の中に芽ばえていったのも事実。
銀座では、
相変わらず酔った客が、
「アレやれ」「コレ伴奏しろ」と言ってきます。
私は自分に問いかける。
「バカヤロー!
俺はジャズをやるんじゃなかったのか?
なんでこんなところにいるんだ…?」
ある夜、
昭和の映画界を代表するスーパー・スター、
石原○次郎という人が来ました。
「小僧、
『思い出のサンフランシスコ』出来るか?」
なまいき盛りのガキの私は、
「ふん、どうせ歌謡曲みたいに歌うんだろうよ。」
と言わんばかりに、
仏頂面で、不機嫌そうに、
「ええ…。」
と答える。
ところがです。
いやいやながらも、
その伴奏が終わったとき、
彼は、なんと、
10万円のチップをくれたのです。
「小僧、ご苦労だったな。」
前にも書きましたが、
タクシー初乗りが、100円の時代にです。
思いだすのも嫌なのですが、
私は彼に向かって、
思わずこうつぶやいていました。
「あのう、
もう1曲いかがですか?」
「……。」
思い悩んだあげく、
友人の熱心な勧めもあって、
結局私は、
「ライト・ミュージック・ソサエティ」
に戻ることにしました。
そして、
芝『郵便貯金ホール』
での、卒業コンサートを最後に、
‘普通の大学生’
として学生生活を終え、
アルファというレコード制作会社に就職。
今度は主に、
ポップスを中心とした、
レコードの‘プロデュース’という仕事に、
就くことになりました。

(一番左のキーボードを弾いてるのが私。【拡大版】)

(いや、若いなあ…。)
以来、ジャズ・ピアノは、
私の‘趣味の世界’に落ち着くことに。
時々、仲間たちとセッションしたり、
ジャズ・クラブの「ジャム・セッション」などで、
数曲弾かせてもらったりする以外は、
ジャズ及びジャズ・ピアノは、
私の趣味の部分に、
25年以上も
封印されることになるのです。
2000年の春に、
「ジャズ・コーラスでもやってみようかな。」
と、思い立ち、
女声コーラス・グループ
『STARLIGHT JUNCTION』を結成。
再び演奏活動をはじめるまでの
長きにわたって…。
(おわり)
(感想 2007/5/29)
そういえば、
きょう、5月29日は、
私の誕生日。
ま、この年にもなると、
単純に「誕生日おめでとう」
という気分でもありませんが、
この私の学生時代を回顧してみて、
つくづく思い出されるのは、
父のことですね。
私の父は、
幼い頃、家業が没落したために、
尋常小学校しか行けず、
意を決して19才で満州に渡り、
かなりの成功をおさめていたものの、
突然のソ連軍侵攻のため、
すべての財産を没収され、
あげく、極寒のシベリアに捕虜として3年も抑留。
奇跡的に裸一貫で生還したあと、
こつこつと真面目に働いて、
私を育ててくれました。
安月給をはたいて、
ピアノを買ってくれたり、
レッスンに行かせてくれたり。
私が、好きな音楽の道で、
こうしてやってこれたのも、
やはり、
父のおかげと言うべきでしょう。
もっとも父は、
私がまっとうな道を歩むのを望んでおり、
そのために、
高い月謝の大学に入れてくれたのですが、
なかなか、
人生思うようにはいかないようです。
ま、元気でやってんだから、
いいじゃないか。
なあ、とうさん!
というわけで、
この長い長いシリーズは、
1999年に80才でこの世を去った、
わが最愛の父、
宮住清繁に捧げたいと思います。
たまには真面目に、
締めくくってみました…。
SHUN MIYAZUMI
May 23, 2007
ジャズまくり時代 その9
きのう(5/22)の「代々木ナル」
『 jammin' Zeb 』ライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの大盛況。
いやあ完全燃焼です。
きょうは‘もぬけの殻’。
それにしても、
このグループとの演奏は、
いつもにも増して体力がいる。
そろそろ、
他のピアニストにも手伝ってもらわなくては…。
ということで、
6/6(水)の同セッションは、
若手の遠藤(征志)くんに、
やってもらうことにしました。
こちらは、
まだ少しお席があるようです。
どうぞお早めにご予約下さい。
さて私の、
大学時代回顧シリーズも、
そろそろ終盤。
2003年11月24日 No.60
ジャズまくり時代 その9
大学4年生にもなると、
仲間たちはみな就職活動を開始。
しかし、私ときたら、
相変わらず銀座と六本木を掛け持ちの
バンド生活。
「就職」なんて、
これっぽっちも頭の中に無い。
試験週間の勉強も、
ステージの合間に、
その辺の喫茶店に飛び込んでちょこっと。
そんな感じでしたね。
でもね、
仲間というのはいいもので、
私が授業などサッパリ出ないで、
酒場でピアノばかり弾いてるのを、
よく知ってるもんですから、
困らないように、
ちゃんと情報を与えてくれるのです。
たとえば、
「おい、あしたの○○(科目の名前)は、
出席取るらしいぞ。」
などと、
親切に教えてくれるのです。
しかたなく寝ないで大学へ行くと、
ふだんは2、30人くらいしか集まらない講義に、
そういう日だけは、
何百人も集まってる。
(もちろん私もその一人)
配られた出席カードに名前を書いて、
あとは居眠りして講義を終えると、
数日後にその科目の教授から、
呼びだしを受けました。
「君の出席カードが2枚出てるんだが、
どうしたことだね?」
てっきり私が知らないで、
欠席してるものと思ったある友人が、
うまく出席カードを2枚入手して、
私の分も書いててくれたらしいのです。
おかげでこの単位は、
落とすハメになりましたが、
どうしてその友人を責めることができましょう?
こんなこともありました。
毎晩朝の5時までピアノを弾いてるわけですから、
当然試験週間などは、ヘロヘロ。
でも翌朝10時から、
絶対に落とせない科目の試験が控えてる。
朝方家に帰ると、
やはりライトの、
ある友人から電話がありました。
「シュン、少し寝ろよ。
俺も同じ試験受けるし、
こうなったら俺は徹夜のつもりだから、
起こしてやるからさ。」
「いやあ、悪いなあ。
じゃ、お言葉に甘えて少し寝るよ。」
数時間後、約束どおり、
「時間だぞ、起きろよ」のコール。
おかげで、なんとかその試験をクリア。
しかし、私を起こしてくれたその友人が、
いくら探しても見当たりません。
なんと私を起こしたあと、
安心したのか自分が寝てしまい、
なんと彼はこの単位を落としたがために、
もう1年大学に残るハメになったのです。
お気の毒…。
もうひとつ試験にまつわるエピソード。
ある試験で、
問題を見た瞬間、
完全にヤマがはずれており、
にっちもさっちも行かなくなったことがあります。
大教室のうしろではまだ問題を配っているのに、
「ええい、時間の無駄だ。」とばかり、
私は早々と名前だけ書いて、
提出に行きました。
するとその教授、
「君は随分あきらめが早いんだね?」
とニヤニヤ。
「はい、完全にヤマがはずれました。完敗です。」
と、いの一番に答案用紙を置いて、
立ち去る私。
喫茶店でお茶を飲んだり、
芝生の上でタバコを一服したりして時間を潰すうち、
同じ試験を受けた仲間たちが出てきたのですが、
みな一様に惨敗模様。
しかし答案用紙だけは、
うそ八百、
きっちり埋め尽くしてきたそうです。
ところがこの科目、
白紙で出した私だけが単位を取り、
1時間悪戦苦闘した仲間の多くは、
落としていたんですねえ。
まったく大学というところは、
摩訶不思議?
それにしても、
つくづく、
親不孝だな俺は…。
(つづく)
(感想 2007/5/23)
大学生当時、
私は父親から、
「もし一年でも留年したら、
月謝は払わないから、
自分でなんとかしろよ。」
と、きつく言われておりました。
なにせ、鬼のような、
親父でしたからね。
私が通ってたのは、
私立大学ですから、
月謝も高いんですね。
とても自分の力ではムリ。
しかも、留年すると、
仲間がいなくなるわけですから、
こうした、
「出席取るぞ情報」や、
「抜き打ち試験やるぞ情報」などが、
入らなくなる。
だから、
毎日講義に出なくてはならない。
すると音楽活動が出来ない。
だから絶対留年なんか出来ない。
けっこう、
ヒヤヒヤもんで卒業したんですよ、
これでも。
そのせいか、
社会人になってからも、
「ヤバイ、こりゃ留年だ。」
と、いう夢を見て、
汗びっしょりで目が覚める。
そんなことが、
なんどもありました。
みなさんは、
どうなんでしょうね…?
SHUN MIYAZUMI
『 jammin' Zeb 』ライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの大盛況。
いやあ完全燃焼です。
きょうは‘もぬけの殻’。
それにしても、
このグループとの演奏は、
いつもにも増して体力がいる。
そろそろ、
他のピアニストにも手伝ってもらわなくては…。
ということで、
6/6(水)の同セッションは、
若手の遠藤(征志)くんに、
やってもらうことにしました。
こちらは、
まだ少しお席があるようです。
どうぞお早めにご予約下さい。
さて私の、
大学時代回顧シリーズも、
そろそろ終盤。
2003年11月24日 No.60
ジャズまくり時代 その9
大学4年生にもなると、
仲間たちはみな就職活動を開始。
しかし、私ときたら、
相変わらず銀座と六本木を掛け持ちの
バンド生活。
「就職」なんて、
これっぽっちも頭の中に無い。
試験週間の勉強も、
ステージの合間に、
その辺の喫茶店に飛び込んでちょこっと。
そんな感じでしたね。
でもね、
仲間というのはいいもので、
私が授業などサッパリ出ないで、
酒場でピアノばかり弾いてるのを、
よく知ってるもんですから、
困らないように、
ちゃんと情報を与えてくれるのです。
たとえば、
「おい、あしたの○○(科目の名前)は、
出席取るらしいぞ。」
などと、
親切に教えてくれるのです。
しかたなく寝ないで大学へ行くと、
ふだんは2、30人くらいしか集まらない講義に、
そういう日だけは、
何百人も集まってる。
(もちろん私もその一人)
配られた出席カードに名前を書いて、
あとは居眠りして講義を終えると、
数日後にその科目の教授から、
呼びだしを受けました。
「君の出席カードが2枚出てるんだが、
どうしたことだね?」
てっきり私が知らないで、
欠席してるものと思ったある友人が、
うまく出席カードを2枚入手して、
私の分も書いててくれたらしいのです。
おかげでこの単位は、
落とすハメになりましたが、
どうしてその友人を責めることができましょう?
こんなこともありました。
毎晩朝の5時までピアノを弾いてるわけですから、
当然試験週間などは、ヘロヘロ。
でも翌朝10時から、
絶対に落とせない科目の試験が控えてる。
朝方家に帰ると、
やはりライトの、
ある友人から電話がありました。
「シュン、少し寝ろよ。
俺も同じ試験受けるし、
こうなったら俺は徹夜のつもりだから、
起こしてやるからさ。」
「いやあ、悪いなあ。
じゃ、お言葉に甘えて少し寝るよ。」
数時間後、約束どおり、
「時間だぞ、起きろよ」のコール。
おかげで、なんとかその試験をクリア。
しかし、私を起こしてくれたその友人が、
いくら探しても見当たりません。
なんと私を起こしたあと、
安心したのか自分が寝てしまい、
なんと彼はこの単位を落としたがために、
もう1年大学に残るハメになったのです。
お気の毒…。
もうひとつ試験にまつわるエピソード。
ある試験で、
問題を見た瞬間、
完全にヤマがはずれており、
にっちもさっちも行かなくなったことがあります。
大教室のうしろではまだ問題を配っているのに、
「ええい、時間の無駄だ。」とばかり、
私は早々と名前だけ書いて、
提出に行きました。
するとその教授、
「君は随分あきらめが早いんだね?」
とニヤニヤ。
「はい、完全にヤマがはずれました。完敗です。」
と、いの一番に答案用紙を置いて、
立ち去る私。
喫茶店でお茶を飲んだり、
芝生の上でタバコを一服したりして時間を潰すうち、
同じ試験を受けた仲間たちが出てきたのですが、
みな一様に惨敗模様。
しかし答案用紙だけは、
うそ八百、
きっちり埋め尽くしてきたそうです。
ところがこの科目、
白紙で出した私だけが単位を取り、
1時間悪戦苦闘した仲間の多くは、
落としていたんですねえ。
まったく大学というところは、
摩訶不思議?
それにしても、
つくづく、
親不孝だな俺は…。
(つづく)
(感想 2007/5/23)
大学生当時、
私は父親から、
「もし一年でも留年したら、
月謝は払わないから、
自分でなんとかしろよ。」
と、きつく言われておりました。
なにせ、鬼のような、
親父でしたからね。
私が通ってたのは、
私立大学ですから、
月謝も高いんですね。
とても自分の力ではムリ。
しかも、留年すると、
仲間がいなくなるわけですから、
こうした、
「出席取るぞ情報」や、
「抜き打ち試験やるぞ情報」などが、
入らなくなる。
だから、
毎日講義に出なくてはならない。
すると音楽活動が出来ない。
だから絶対留年なんか出来ない。
けっこう、
ヒヤヒヤもんで卒業したんですよ、
これでも。
そのせいか、
社会人になってからも、
「ヤバイ、こりゃ留年だ。」
と、いう夢を見て、
汗びっしょりで目が覚める。
そんなことが、
なんどもありました。
みなさんは、
どうなんでしょうね…?
SHUN MIYAZUMI
May 17, 2007
ジャズまくり時代 その8
先日、
私がプロデュースしている男性コーラス・グループ
『jammin'Zeb』を連れて、
旭鷲山関に会いに行ってきました。
6/2「両国国技館」で行なわれる、
彼の「断髪式セレモニー」で、
ジャミンが歌うことになっているので、
その前に、
「一度コミュニケーションをとっておきましょう」
というイベント・プロデューサーの計らい。
いやあ、気さくな、
いい人でしたね。
旭鷲山といえば、
日本に初めてやってきた
モンゴル出身のお相撲さん。
ご苦労も多かったでしょうが、
今ではお国の英雄です。
そして彼の、
「僕の生まれたモンゴルは貧しい国でね、
家に帰っても食べ物なんかなかった。
だから相撲の世界に入って、
いっぱいメシが食えるのが嬉しかったね。
家の冷蔵庫を開けるとなんでもある、
そんな君たちは、
幸せなんだよ。」
というひと言に、
若いジャミンは、
とても心動かされたようでした。
よかった、よかった。
そんな幸せな『jammin'Zeb』の次のライブは、
5/22(火)の「代々木ナル」
どうぞお早めに、
お店のほうにご予約下さい。
(詳細は「最新ライブ案内」のコーナーに)
さて、今度は、
私の若かりし頃のお話。
2003年11月16日 No.59
ジャズまくり時代 その8
いささかインチキな手段ではありますが、
北條さんというピアニストに後を譲り、
シャンソンのお店『V』からの脱出に、
無事成功した私は、
単発でのセッションに呼ばれて弾いたり、
夜な夜な六本木ジャズ・クラブでの修業の旅に、
再び明け暮れておりました。
そうこうするうち、
またまたギターのウエス飯田氏から、
電話がありました。
W「シュン!
いい‘ハコ’の仕事があるんだけど、
また一緒にやらないか?」
私「もうシャンソンは嫌ですよ。」
W「いや今度はジャズだ。しかも毎日だぞ。
銀座と六本木だ。」
私「えっ?掛け持ちですか。」
W「そうだ、稼げるぞー。」
最後の一言にグラっときた私は、
またしても、
よく吟味もしないで二つ返事。
そして、言われるがままに、
その銀座の店に行ってみました。
「スーツ着用」てのが、
ひっかかってはいましたがね。
案の定、そこは‘ジャズ・クラブ’
ではなく、
正真正銘の‘銀座のクラブ’。
美しいおねえさんがいっぱいの…。
そして当時は、
カラオケというものがなく、
お客が「何か唄を」ということになると、
我々‘バンドメン’が伴奏するんですね。
一応ジャズ・コンボという体裁は整ってるものの、
メインは酔っぱらった客の伴奏。
ホステスと客の『銀座の恋の物語』
なんてしょちゅうやらされた。
そして、誰も唄わない時だけ、
勝手にスタンダード・ジャズをやる。
もちろん誰も聴いちゃいませんが。
でもウエス飯田氏は上手いし、
ドラムもベースもちゃんとしたプロですから、
「ま、勉強、勉強!」と自分を叱咤激励して、
やっておりました。
この銀座の仕事が夜の7時から11時半まで。
それから大急ぎで地下鉄に乗って、
六本木のもう一つのお店に移動。
ただしこっちは、
銀座よりはもう少しジャズっぽい雰囲気。
‘ジャズ・クラブ’ではないが、
ホステスのいるクラブではない。
「高級なジャズ・バー」って感じのお店。
銀座からホステスを同伴して飲みにくる、
お金持ちが多かったですね。
ま、大差ないか。
ただし、
このお店の専属歌手が素晴らしかった!
その人の名は、
中本マリ。
まだ売れる前のマリさん。
しぶい声、
持って生まれたジャズ・センス。
はじめて聴いた日から、
「この人は大物になるなあ。」
と子供ながらに実感しましたね。
人柄も温厚で、
私を本当の弟のように可愛がってくれました。
この店でのウエス氏の演奏は素晴らしく、
マリさんの唄の伴奏やインストなどでは、
銀座の店とは一転して、
ご機嫌な演奏を、
毎日毎日繰り広げていました。
かけだしの私など、
ついていくのが精いっぱい。
このお店の演奏時間が夜中の1時半〜5時まで。
そして始発電車で疲れ切って帰る私。
こんな生活が半年も続き、
いつしか私も、
大学4年生になっていました。
一緒にプロを目指していた仲間も、
一人抜け二人抜け。
みんな髪の毛を切って就職活動。
しかし、
その時の私の収入は、
2店の掛け持ちで、
なんと月30万!
タクシー初乗りが100円。
電車賃といえば、
新宿から当時住んでいた上北沢まで、
たった30円。
そんな時代に、
月30万の荒稼ぎですから、
これは魅力です。
でもね、
なんか空しくなってきました。
毎日ジャズが上手くなっていくのは、
自分でもよく分かる。
しかし、
演奏する場所は、
言ってしまえば「飲み屋」。
客の目当てはジャズよりも酒と女。
たまたまそんな場所しか無かったのでしょうが、
マイルスやビル・エヴァンスのような、
演奏活動を夢見てた私には、
あまりにも大きなギャップ。
プロは厳しいですね。
これで食ってく精神的タフさが
俺にはあるのか…。
次第に重〜くなってきました。
そんなある日、
最上級生になったライトの仲間が、
「戻ってこないか?」
と誘いにきたのです。
なんでも後輩のピアノでは、
まだまだ未熟で心もとない、
「最後の卒業コンサートはお前とやりたい」
と言ってくれたんですね。
ちょっと心が揺らいだのも、
確かです。
(つづく)
(感想 2007/5/17)
いつも不思議に思うのですが、
今の物価は、
当時の6倍〜7倍。
でも、
ミュージシャンのギャラは、
当時も今も一緒なんですね。
そういえば、
CD(レコード)の値段も、
あまり変わっていない。
音楽の世界は、
物価の上昇とは関係ないところに、
存在しているのでしょうか?
他に、物価と関係ないものといえば、
卵。
わからん…?
SHUN MIYAZUMI
May 13, 2007
ジャズまくり時代 その7
ああ楽しかった。
5/11(金)の、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
私が日頃お世話になってる、
地元ジャズ・バーのみなさんに、
ぜひCHIHARUをお聴かせしようと、
企画したのですが、
まずは大成功だったようです。
CHIHARUも楽しそうでしたね。
また機会をみつけて、
やりたいと思います。
みなさん、
ありがとうございました。
さてさて、
なにやら長〜いシリーズになってきた、
私の大学時代のお話も、
きょうで早や7回目。
2003年10月28日 No.58(後半)
ジャズまくり時代 その7
ようやくプロとして、
毎日演奏活動ができると、
喜んだのもつかの間、
なんとそこは、
「シャンソン」のお店。
ジャズをやりたい一心の私には、
当然フラストレーションが溜まります。
2週間ほどたったある日、
私はついに、
バンマスの飯田さんに直訴。
(「バンマス」とは「バンド・マスター」
つまりリーダーの亊。)
「シャンソンもいいけど、
僕はジャズがやりたい。
このお店は僕にはむきません。
辞めさせてくれませんかー。」
すると飯田さん、あきれ顔で、
「お前ねえ、
‘ハコ’で仕事がもらえるなんて、
ラッキーなんだぞ。
お前みたいに、
コレはいい、コレは嫌、
なんてワガママ言ってるようじゃ、
プロのミュージシャンなんかにゃ、
なれないんだぞー!」
「……」
しかし、
プロの‘ジャズメン’に憧れてる当時の私は、
ひるみません。
「いいです。食えなくったって。
僕はジャズしかやりません!!」
「分かった。
そのかわり、
次のピアノはお前が見つけて来い。
それまではお前がやれ。
いいな!!」
「やった〜!」とばかり、
翌日からはピアニスト探しです。
でもそのお店がシャンソンのお店であることは、
入る前の私を除いては、
みんな知っていたし、
私の回りはみんなジャズ・ピアニストか、
それを目指す若手ばかりだったので、
誰も相手にしてくれません。
こうして、1ヶ月が過ぎ、
まる2ヶ月にもなろうかといったある日、
救いの主が現れました。
今もバリバりの現役で、
ビル・エヴァンスのような知的なピアノで有名な、
北條直彦さんというピアニストが、
「そうかあ、俺今ヒマだから、
やってみようかな。」
と言ってくれたのです。
ややもすると、
絶望的になりかけていただけに、
狂喜しましたねえ。
ウヒョヒョ。
ただし私は、
この先輩には、
「ばっちりジャズができますよ〜。」
としか言ってません。
今も、この北條さんとは、
時々お会いするのですが、
この話になったことがないところをみると、
忘れちゃったんでしょうかね。
ま、怒ってないことだけは確かです。
それとも、
さすがの名手の北條さんだけに、
それはそれで、
毎日楽しみながら弾いてたんでしょうか。
いずれにしても、
35年以上も前の話。
もう時効だ、時効。
アハハハ。
でも今思えば、
わたしゃ本当にガキでしたね。
ギターでバンマスの飯田さんといえば、
‘ウエス飯田’という異名を持つ、
ウエス・モンゴメリーにそっくりなスタイルの、
名プレイヤーでしたし、
ほかのプレイヤーも、
素晴らしい名手ばかり。
特にサックスでは、
現在もスタジオや
山下達郎のバックなどでも活躍中の、
淵野繁雄さんや、
有名な大友義雄さん、
といった名手もいました。
シャンソン歌手では、
仲代圭吾、村上寛、磯部僥太郎といった、
その世界では有名な人達も数多く、
そして素晴らしい歌手ぞろい。
あとから思えば、
実に有意義で、
貴重な勉強が出来た、
2ヶ月だったわけです。
そして、なにより、
私は、
譜面に強くなりました。
(つづく)
(感想 2007/5/13)
今、この頃を思い出して、
つくづく言えることは、
どんな音楽も、
どんな体験も、
絶対にプラスになる、
ということです。
私のところへ勉強に来る、
若いシンガーやプレイヤーには、
私はいつも、
「ジャズだけじゃなく、
いろんな音楽を聴きなさい。
それが演奏の幅をぐっと拡げるから。」
などと、
偉そうなことを言っておりますが、
でも本当にそう思います。
特にシャンソンなんて、
色気がなきゃ、
絶対いい演奏できませんからね。
してみると、
あれは本当いい時期だったのかも。
(しみじみ回想…)
さて、
5/14(月)は「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
ピアノ・トリオ・ライブ。
若手のみんな、
どんどんセッションしに、
来て下さいよー。
なんだか、
アズナブールが、
聴きたくなってきた…。
SHUN MIYAZUMI
May 09, 2007
ジャズまくり時代 その6
みなさん、
ゴールデン・ウィークは、
いかがお過ごしでしたか。
私は、と言えば、
前回も書いたように、
5/8(火)の「DANKS ヘアー・ショー」に、
(渋谷CCレモン・ホール:旧渋谷公会堂)
私がプロデュースする、
男性ヴォーカル・グループの
『jammin'Zeb』がゲスト出演。
この大きなイベントのため、
けっこうあわただしい、
GWを送っておりました。
でもそれも、
昨日無事終了。
関係者のみなさん、
モデルのみなさん、
本当にお疲れさまでした。
素晴らしいヘアー・ショーでした。
またお目にかかれるのを、
楽しみにしています。
さらにその後、
「代々木ナル」でライブ、
という変則ダブル・ヘッダーの私。
久々、
ちゅうまけいこ&佐藤有介と競演。
セクシーな、ちゅうまのヴォーカルと、
パワフルな有介のベース。
北海道からいらしたお客さまもいて、
なかなかに盛り上がりましたね。
ありがとうございました。
楽しませていただきました。
次回この素敵な競演は、
7/4(水)です。
というわけで、
ちょっと間が空いてしまいましたね。
私の大学時代回顧シリーズ
のつづきです。
2003年10月28日 No.58
ジャズまくり時代 その6
昼は家で猛練習。
夜は銀座や六本木で、
プロの洗礼を受ける毎日。
まったく、
親が知ったら嘆き悲しむであろう、
デタラメな大学生活を送っていた、
私ですが、
大学も3年になりますとね、
そんな私のピアノも、
ちっとはマシになってきたようで、
最初の師匠の大沢保郎さんや、
ほかのプロの人たちから、
「シュン坊!
明日ちょっとワンステージだけ、
‘トラ’やっててくんない?」
といった電話が、
少しずつ入ってくるようになりました。
(‘トラ’というのはエキストラの略で、
‘代わり’と言う意味です。)
嬉しかったですねえ。
プロのベースやドラムの人たちと、
何曲か一緒に演奏が出来る。
この日を待っていた!
そんなある日、
大沢保郎トリオにいた、
飯田さんというギタリストの人から、
「レギュラーで、
銀座の『V』というお店に出ないか?」
という話を持ちかけられました。
前回もお話したように、
当時は‘ハコ’といって、
毎日同じお店に出演するのが普通。
‘ハウス・ピアニスト’
という言葉にも憧れてたし、
これでいよいよ僕もプロの仲間入りかと、
二つ返事。
ところがです。
そこは、なんと
『シャンソン』のお店。
しかも喫茶店…。
「ジャズが出来るぞー。」と言われて、
喜んで入ったものの、
ジャズ・スタンダードは、
各ステージの1曲目のインストだけで、
あとは全部シャンソンの伴奏。
しかも毎日、
日替わりで歌手が来る。
そしてリハーサルなどは無く、
いつもブッつけ本番。
なかには、
‘コード・ネーム’が書いてない、
いわゆる‘おたまじゃくし’の譜面、
だけを持ってくる歌手までいる。
それを、
初見で弾かなくてはいけない。
……。
さらに、
シャンソンというのは、
テンポが、
リットしたり、アッチェルしたり、
(遅くなったり、速くなったり)
と、曲の中で、
めまぐるしく変化する。
歌手のみなさんの自由奔放な歌い方にも、
上手に合わせなきゃいけない。
……。
それまでの私といえば、
シャンソンも別に嫌いではなく、
時々は聴いておりました。
イブ・モンタンとか、
シャルル・アズナブールとか、
はたまたピアフとかベコーとか。
アズナブールなんか、
ほんと、いいですよね。
(今でも大好きなシンガーです。)
ただし、
この大学2年間というもの、
ジャズ一色できた私ですし、
‘ジャズ・ピアニスト’を夢見て、
毎日がんばってきたわけですから、
いきなりシャンソンを弾けって言われても、
「そりゃあんた、
話が違うじゃありませんか」
ということですよ。
「誰がシャンソン弾きたい、
と言いましたか」
という話ですよ。
まいりましたね。
それはもう、
大変な毎日でした。
30分の休憩中、
ほかのプレーヤーは、
お茶かなんか飲みに行くのですが、
私一人、
楽屋(といっても更衣室)で、
おたまじゃくしをタテに読んで、
なにげにコード・ネームをつける作業。
コードさえ書いておけば、
なんとかごまかせるから。
さらには曲の下調べ。
しかし、
無情にも、
本番はすぐやって来る。
毎回あぶら汗、冷や汗タラタラの、
ステージでしたね。
しかも日曜日も祭日も、
一日も休みが無い。
「プロはつらいなあ…。」
を早くも実感。
こうして、
思ってもみなかった、
「シャンソンの伴奏」から、
私の演奏活動は、
始まったのでした。
(つづく)
(感想 2007/5/9)
そういえば、
きのうも「代ナル」で、
何人かの人に、
「ブログ読んでますよー。」
と言われました。
「ブログで調べてライブ来ました。」
というお客さんもいました。
嬉しいですねえ。
「頑張って更新しなくちゃ。」
という気になりますねえ。
更新します。
それにしても、まさに、
「インターネット時代」
ですね。
見知らぬ人どうしが、
実は近い距離にいるわけです。
さあ、5/11(金)は、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
これも、
凄いことになるんだろうなあ。
きょう一日は、
再び体力温存DAYか…。
SHUN MIYAZUMI
ゴールデン・ウィークは、
いかがお過ごしでしたか。
私は、と言えば、
前回も書いたように、
5/8(火)の「DANKS ヘアー・ショー」に、
(渋谷CCレモン・ホール:旧渋谷公会堂)
私がプロデュースする、
男性ヴォーカル・グループの
『jammin'Zeb』がゲスト出演。
この大きなイベントのため、
けっこうあわただしい、
GWを送っておりました。
でもそれも、
昨日無事終了。
関係者のみなさん、
モデルのみなさん、
本当にお疲れさまでした。
素晴らしいヘアー・ショーでした。
またお目にかかれるのを、
楽しみにしています。
さらにその後、
「代々木ナル」でライブ、
という変則ダブル・ヘッダーの私。
久々、
ちゅうまけいこ&佐藤有介と競演。
セクシーな、ちゅうまのヴォーカルと、
パワフルな有介のベース。
北海道からいらしたお客さまもいて、
なかなかに盛り上がりましたね。
ありがとうございました。
楽しませていただきました。
次回この素敵な競演は、
7/4(水)です。
というわけで、
ちょっと間が空いてしまいましたね。
私の大学時代回顧シリーズ
のつづきです。
2003年10月28日 No.58
ジャズまくり時代 その6
昼は家で猛練習。
夜は銀座や六本木で、
プロの洗礼を受ける毎日。
まったく、
親が知ったら嘆き悲しむであろう、
デタラメな大学生活を送っていた、
私ですが、
大学も3年になりますとね、
そんな私のピアノも、
ちっとはマシになってきたようで、
最初の師匠の大沢保郎さんや、
ほかのプロの人たちから、
「シュン坊!
明日ちょっとワンステージだけ、
‘トラ’やっててくんない?」
といった電話が、
少しずつ入ってくるようになりました。
(‘トラ’というのはエキストラの略で、
‘代わり’と言う意味です。)
嬉しかったですねえ。
プロのベースやドラムの人たちと、
何曲か一緒に演奏が出来る。
この日を待っていた!
そんなある日、
大沢保郎トリオにいた、
飯田さんというギタリストの人から、
「レギュラーで、
銀座の『V』というお店に出ないか?」
という話を持ちかけられました。
前回もお話したように、
当時は‘ハコ’といって、
毎日同じお店に出演するのが普通。
‘ハウス・ピアニスト’
という言葉にも憧れてたし、
これでいよいよ僕もプロの仲間入りかと、
二つ返事。
ところがです。
そこは、なんと
『シャンソン』のお店。
しかも喫茶店…。
「ジャズが出来るぞー。」と言われて、
喜んで入ったものの、
ジャズ・スタンダードは、
各ステージの1曲目のインストだけで、
あとは全部シャンソンの伴奏。
しかも毎日、
日替わりで歌手が来る。
そしてリハーサルなどは無く、
いつもブッつけ本番。
なかには、
‘コード・ネーム’が書いてない、
いわゆる‘おたまじゃくし’の譜面、
だけを持ってくる歌手までいる。
それを、
初見で弾かなくてはいけない。
……。
さらに、
シャンソンというのは、
テンポが、
リットしたり、アッチェルしたり、
(遅くなったり、速くなったり)
と、曲の中で、
めまぐるしく変化する。
歌手のみなさんの自由奔放な歌い方にも、
上手に合わせなきゃいけない。
……。
それまでの私といえば、
シャンソンも別に嫌いではなく、
時々は聴いておりました。
イブ・モンタンとか、
シャルル・アズナブールとか、
はたまたピアフとかベコーとか。
アズナブールなんか、
ほんと、いいですよね。
(今でも大好きなシンガーです。)
ただし、
この大学2年間というもの、
ジャズ一色できた私ですし、
‘ジャズ・ピアニスト’を夢見て、
毎日がんばってきたわけですから、
いきなりシャンソンを弾けって言われても、
「そりゃあんた、
話が違うじゃありませんか」
ということですよ。
「誰がシャンソン弾きたい、
と言いましたか」
という話ですよ。
まいりましたね。
それはもう、
大変な毎日でした。
30分の休憩中、
ほかのプレーヤーは、
お茶かなんか飲みに行くのですが、
私一人、
楽屋(といっても更衣室)で、
おたまじゃくしをタテに読んで、
なにげにコード・ネームをつける作業。
コードさえ書いておけば、
なんとかごまかせるから。
さらには曲の下調べ。
しかし、
無情にも、
本番はすぐやって来る。
毎回あぶら汗、冷や汗タラタラの、
ステージでしたね。
しかも日曜日も祭日も、
一日も休みが無い。
「プロはつらいなあ…。」
を早くも実感。
こうして、
思ってもみなかった、
「シャンソンの伴奏」から、
私の演奏活動は、
始まったのでした。
(つづく)
(感想 2007/5/9)
そういえば、
きのうも「代ナル」で、
何人かの人に、
「ブログ読んでますよー。」
と言われました。
「ブログで調べてライブ来ました。」
というお客さんもいました。
嬉しいですねえ。
「頑張って更新しなくちゃ。」
という気になりますねえ。
更新します。
それにしても、まさに、
「インターネット時代」
ですね。
見知らぬ人どうしが、
実は近い距離にいるわけです。
さあ、5/11(金)は、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
これも、
凄いことになるんだろうなあ。
きょう一日は、
再び体力温存DAYか…。
SHUN MIYAZUMI