September 2007

September 29, 2007

jammin' Zeb(ジャミン・ゼブ)



素晴らしいヴォーカル・グループが誕生しました。

今や業界では、
ちょっとした話題になりつつあります。


そのグループの名は、

jammin' Zeb(ジャミン・ゼブ)


070815 jammin Zeb


ジャズ・コーラスがメインですが、
ポップス、ファンク、ゴスペル、ラテンから、
日本語のオリジナルまで、
見事に歌ってしまいます。


平均年令 23才
平均身長 180.5cm

若くて、爽やかで、グッド・ルッキング。

そして、
本当に歌うことが大好きな、
素敵な若者たちです。


このグループは、
昨年の8月25日に結成されました。

そして、
この10月17日に、
ビクターエンタテインメントより、

SMILE

というアルバムで、
メジャー・デビューです。


そのプロデュースからマネージメントまでを、
総合的に、
私が取り仕切っているわけですが、

私の過去の経験からも、
結成から1年で“メジャー・デビュー”
というスピードは、
ちょっと記憶にありません。


すさまじい練習をする人たちで、
リハーサルの休憩中も、
誰かがちょっとしたフレーズを歌い出すと、
すぐにコーラスが始まってしまう。

「これじゃ、休憩になってないじゃないか。」

と、思わず苦笑する場面が多々あるのですが、

ほっておくと、
一日中でも歌ってるんですね。

それが、とても自然な感じで、
見ていて本当に気持ちがいい。


そんな彼らのライブ・デビューは、
今年の2月28日。

場所は、
六本木「 ALL OF ME CLUB 」という、
こじんまりとしたジャズ・クラブ。

ここではジャズ・ナンバーが中心。


すると、その一週間後には、
新宿「 スペース・ゼロ 」(キャパ300人)
というところで3日間、
日本美容学校 」の卒業イベントにお呼ばれ。

今度は日本語のポップスを中心に歌い、
学生やご父兄の方々から、
大絶賛を浴びました。


jammin' Zeb at SpaceZero



さらに、5月8日には、
渋谷「 CCレモン・ホール 」(旧・渋谷公会堂)での、
「 DANKS ヘア・ショー 」にゲスト出演。

2500人のお客さん(2回廻し)の前で、
『“オペラ座の怪人”メドレー 』を堂々と歌う。


6月2日は「 両国国技館 」

旭鷲山関の引退・断髪式セレモニー。

なんと土俵の上で、
『 君が代 』を歌う、
という光栄な仕事を、
立派にこなしました。


Kokugikan 3



そして、8月22日は、
丸の内「 コットン・クラブ 」で、
ビクター・コンベンション 」。

マスコミや、大型レコード店のディーラーさんら、
150人あまりで溢れかえる会場で、

国府弘子さん、NOONさんといった、
素晴らしい先輩アーティストに交じって、
臆することなく、
ア・カペラを中心に4曲ほどご披露。

これも、
すこぶる好評のようでした。


おかげさまで、
“幸運すぎる”スタートが切れたようです。


というわけで、

いよいよ、これから、
いろんな場所で、
いろんなライブを、

ガンガンやって行く予定です。


お近くに行った折は、
ぜひ覗いてやって下さい。

きっと、

心癒されると思いますよ。



そんな彼らも、
一応 “ ZEBLOG(ゼブログ)
という、ブログを持っています。

私の、このページにも、
リンクを貼ってありますので、
こちらも時々見てやって下さい。

ただし、あまり更新しません。

更新力は弱いです。

どうぞコメントで、
「もっと更新しろ!」
と、叱ってやって下さい。(笑)



そのブログにも、
個々のプロフィールが載っていますが、

ここでは私なりの、
メンバー紹介をしてみようと思います。


■コージロー(本名:鈴木宏二郎)

070815 Kojiro

1981年3月24日生まれ 身長182cm
ジャミン・ゼブのリーダーです。
統率力、運営力があって、
立派にメンバーをまとめてくれています。
コーラスでは主にセカンド・テナー。
ソロ・シンガーとしても非凡で、
のびやかな美しい高音を聴かせてくれます。


■スティーブ(本名:仲光甫 なかみつはじめ)

070815 Steve

1982年3月13日生まれ 身長180cm
まさに「コーラスの申し子」といった感じで、
クラシックからジャズまで、
ありとあらゆるコーラス・ワークに精通。
すさまじい高音から、バリトン、バスといった、
どのパートでも歌えるスーパー・マンぶり。
ア・カペラをまとめる能力も素晴らしく、
渋いソロもなかなかのものです。


■レンセイ(本名:西澤連聖)

070815 Lensei

1984年8月16日生まれ 身長175cm
父が日本人、母がオーストラリア人のハーフ。
美しくてパンチのある高音が魅力で、
コーラスでは主にトップを歌っています。
ジャズ・スタンダードからロックン・ロールまで、
どんな曲でもスラスラと歌ってのけるほどの曲通で、
これがまだ23才かと、
驚いてしまうほどの完成度の高いシンガーです。


■シモン(本名:西脇史門)

070815 Simon

1987年12月31日生まれ 身長186cm
父が日本人、母がメキシコ人のハーフ。
まだあどけない19才の大学生ですが、
その太くて、力強い低音は、
ちょっと驚異的なものがあります。
もの静かで、温厚な性格ですが、
ひとたびライブになると、
バイタリティー溢れるステージで圧倒します。



本当に将来が楽しみな4人組です。

心暖まる応援のほど、
よろしくお願い致します。


というわけで私のブログでは、
これを機に、新たに、

「 jammin' Zeb インフォメーション 」

というカテゴリーを設けました。


今後もジャミンの情報を、
せっせとお送り致します。


次回は、
彼らのデビュー・アルバム

『 SMILE 』

について、
詳しくお話しようかと思っています。



きょうはスペシャル版でした。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 14:37コメント(6) 
jammin' Zeb インフォメーション | 2007 エッセイ

September 22, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その5 (最終回)


19日(水)は、
jammin' Zeb を引き連れて、
前橋に行ってきました。

ジャミン・ゼブ初遠征です。


「音羽倶楽部」という、
小高い丘の上にある、軽井沢を思わせるような、
美しい景観に囲まれた、
素晴らしいクラブ・ハウス。

その建物の奥にある、
円形の、美しいダイニング・ルームが、
コンサート会場。


音羽倶楽部 ‘ソサエティ’
約100人の会員のみなさんの暖かい拍手と、
スタッフのみなさんの、
至れり尽くせりのサポートのおかげで、
本当に素晴らしいライブとなりました。

ピアノは私で、
競演が、はたけやま裕(PER)と岸徹至(B)。


コンサート終了後は、
スタッフのみなさんと、楽しい打ち上げ。
そして、クラブハウス内のホテルで、
みんなでそのまま一泊。


お天気にも恵まれ、
楽しい遠征となりました。

みなさん、
ありがとうございました。

また行きますよー。



さて、長々と続いたタモリ話も、

いよいよ最終回。


タモリ3 「戦後日本歌謡史」その5(最終回)


販売元のビクターに断られ、

レコード会社数社からの
猛烈な抗議が続くものの、

アルファはへこたれない。


いろんな試行錯誤を繰り返したのち、

ついに、
大手レコード店チェーン「新星堂」が、
販売をしてくれるところまで、
こぎつけてしまいました。

そして、
発売後1ヶ月あまりで、
3万枚近く売ったといいますから、

全国規模、全レコード店で売ったら、
すさまじい数字になったのでは、
ないでしょうか。


さあこれで事態は、

いよいよ泥沼に…。


レコード会社数社は、
ついに訴訟の準備を始めるとともに、

「日本著作権協会(JASRAC)」と、
「日本レコード協会」に、
抗議文を提出。

これに同意した両協会は、
アルファに対し、
発売中止を求める要望書を提出。


これに対してアルファは、

「当初の予定通り、
 法廷闘争も辞さず。」

「パロディという新しい文化を認めさせる、
 絶好のチャンス!」

と、あくまで徹底抗戦の構え。


「レコード・コレクターズ 9月号」には、
社長の村井邦彦さんの、
こんなコメントも掲載されています。

「レコード発売は文化事業であり、
 時代を映す鏡でありたいと思う」

「‘パロディや川柳は読み人知らずで、
 宴会などで歌うべきもの’
 という意見もあるが、
 現代は川柳を作りたくなるような
 時代なんだよね」

(ともに、『朝日新聞』81年11月21日付夕刊)


村井さんが、
そんな事を言ったのは、
ついぞ知りませんでしたが、

その村井さんのもとには、

実際パロディされながらも、
好意的なご友人の作家の方たちから、
激励の電話があった、
と聞きますし、

私のもとにも、
数多くのミュージシャンから、
同様の電話がありました。

とりわけ、

曲の改変を担当した、
鈴木宏昌(コルゲン)さんなどは、

「裁判になったら、俺も戦うぞー。」
と、やけに張り切ってましたし、

大瀧詠一氏も、

「俺もずいぶんパロディをやったけど、
 こんなスゴイことをやられたら、
 もうお手上げだよ。(笑)
 これを世に出せないなんておかしい。
 いざとなったら俺も一緒に戦うから。」

といった内容の電話を、
私にくれました。

これも「レココレ」にありましたね。


さあ、面白くなってきた。

ワクワク…。


アルファの中には、
「もうやめたほうがいいのでは…。」
という消極的な意見も出始めてましたが、

若い私は、

「イケイケ〜〜。」

て感じでしたね。


困ったやつ…。



ところが事態は、
思いがけず、

あっというまに終焉を迎えることに…。


「唯一の取り扱いルートである新星堂が、
 レコード会社数社からの申し入れを受けて、
 ギブアップしてしまったため、
『タモリ3』は事実上廃盤となってしまう。」

 (レコード・コレクターズ 9月号)


そうか、
今度は「新星堂」に圧力がかかったのか…。

さらに、
こんな話も聞きました。

ビクターに対し、
他のレコード店から、
猛烈なクレームが来たらしいのです。

その理由が、
けっこう笑えるのですが、

「そんなに面白くて、
 かつ売れてる商品だったら、
 なぜ新星堂だけに売らせる。
 うちにも売らせろ。
 じゃないと、今後ビクターの商品は、
 扱わないよ。」


「……。」



もうダメですね。

パロディ論争とはなんの関係もない、
ビクターの販売部や新星堂まで、
巻き添えになってしまったようです。


こうして、
この稀代の問題作は、

「幻のレコード」として、

市場から消え去ってしまいました。



あれから25年か…。


「レコード・コレクターズ」の、
『アルファの宴』という特集は、
私の若かりし日の記憶を、
鮮明に呼び起こしてくれました。


今にして思えば、

村井さんとしては、
この論争を法廷まで持ち込んで、
パロディ文化の存在と、その意義を、
もっともっと、
世に問いたかったのではないか。

仮に敗訴するにしても、
多額の違約金を払うにしても、

そこまではやりたかったんじゃないかな。


私はそう思います。



今、あの騒ぎを思い出してみて、


あのときのアルファの主張は、
本当に正しかったのか、

このアルバムは名盤だったのか、
はたまた愚作だったのか、

実のところ、
私には未だにわかりません。

(‘迷盤’であったことは確かですが;…)


ただ言えることは、

私には、
とてつもなく面白かったということ。

今もって「ありゃ最高だよ」
と言ってくれる人がたくさんいること。

これより数年後に、
嘉門達夫さんが、
「替え歌」を花開かせたこと。


これらを考えると、

一応の存在意義は、
あったのでしょうね。


そして、はっきり言えることは、

あれは、
「アルファ」でしか作れなかった、

ということです。


アルファというのは、

そういう新進気鋭の会社であり、
レコード業界の革命児であり、
常に新しいものにどん欲で、
冒険を恐れない。


つまりは、
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
が問題児だったのではなく、

アルファそのものが、

問題児であったわけです。


新しいものは、
つねに敵をつくる。

トラブルもいっぱい起きる。

事実ほかにもいろいろありました。

(いずれ折りをみてお話しますが)


しかし、
それに立ち向かう、
若さとエネルギーがありましたね。

面白い会社でした…。



連載『アルファの宴』も、
そろそろ終わりが近づいてる、
と聞きました。

この取材を受けた、
あるいは、この特集を読んだ、
かつての幹部や社員は、
みな一様に、

あの面白かった時代を、
感慨深く思い出していることでしょう。


「レコード・コレクターズ」誌と、
ライター田山さんに深く感謝して、

ひとまずこの稿を、

閉じたいと思います。


謝謝…。



(おわり)



現代。

パソコンの普及と、
インターネット時代になって、

著作権なんて、
完全に無法地帯になってますよね。


それに比べると、

『タモリ3 戦後日本歌謡史』
をめぐる攻防なんて、

可愛いもの。

そう思いませんか?


ということは、

そろそろ復活が許されてもいいのでは…。


どうでしょう?


だめ?



(誰に向かって言ってる…?)



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 15:11コメント(12)トラックバック(0) 
2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

September 16, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その4


いやあ、きのう今日と、
久しぶりの青空。

気持ちがいいですねえ。


そんななか、

きのう(土曜日)の、
「 ケンウッドスクエア・丸の内 」
『 jammin' Zeb ミニ・ライブ 』
にお越しのみなさま、

ありがとうございました。


さわやかな午後のひとときでした。

アカペラが中心だけど、
あんなライブもいいなあ、
と実感しましたね。


また、折りをみて、

やりたいと思います。



さて、まだまだ続く、

タモリ話。



タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その4


せっかく苦心して作り上げたものの、
販売元ビクターの拒絶にあって、
またしても‘お蔵入り’となってしまった、

『 タモリ3 』


しかし、今度は、
タモリが黙っていませんでした。

ラジオやテレビの自身の番組で、
かけまくったり、
実演したりして、
このアルバムの存在を、

世にアピールしたのです。


そして、

その存在と面白さは、
次第に口コミで広がっていき、

近田春夫さんが
「タモリのレコードを発売せよ市民連合」
を名乗ったり、
ファンの間に発売を求める署名運動が起きたり、
といった事態に発展していったのです。

(レコード・コレクターズ 9月号)


そうした‘世論’の後押しのおかげもあって、

「新星堂チェーン」のみ、
という変則的な形ではありましたが、

このアルバムは、
ついに‘日の目を見る’
こととなりました。


やったあー!


TAMORI 3


しかしね、

この問題は、

そんなに簡単にはいかなかったようですよ。


実は、
ここから先は、

制作の当事者ではあるものの、
当時30才の私など出る幕も無いほどの、
大人どうし、トップどうしの熾烈な戦いが、

展開されていったようなのです。


無責任なようですが、

私は高みの見物。



まずは、

「作家はレコード会社の専属」
であった時代の、
古い楽曲を管理する、

コロンビア、ビクター、キング、テイチク

といった老舗レコード会社からの、
猛烈な抗議。

「これは、あきらかに著作権侵害である。
 かつ、許可も無く、
 偉大な先生方の偉大な楽曲を、
 このような無礼な扱いをするなど、
 もってのほか。
 これは重大な名誉毀損にあたる。」

として、

即刻発売中止と、
しかるべき著作権の使用料を求めて来た。


それに対してアルファは、

「これは欧米でも認められている、
 パロディという新しい文化。
 よく知られた作品を‘ひきおろす’
 ことによって生じる面白さが、
 パロディの良さであり、
 むしろ問題にする事自体、時代から遅れている。」

と、真っ向から対立。


私はひそかに、

「いいぞぉ、やれやれー。」


さらに、

「レコード・コレクターズ 9月号」には、
こんな記述もあります。

『この作品の被害?に遭った作家の反応も、
 一様ではなかった。
 騒ぎを報じた『週間読売』(81年11月29日号)に、
 自作詞をパロディにされた作家たちのコメントが、
 掲載されている。

 「売れればいいということで、
  何でもメチャクチャなことをやるレコード会社
  の姿勢も間違ってますよ」
  (石本美由起。「憧れのハワイ航路」の作詞者)

 「とにかく最高に面白かった。(中略)
  僕はちっとも不快じゃないし、
  最高にいいんじゃないかと思ってます」
  (橋本淳。「ブルー・シャトー」「君だけに愛を」
   の作詞者)

 また、「東京ナイトクラブ」を「東京ホストクラブ」に
 パロディ改変されたフランク永井のように、
 ステージにタモリを上げて一緒に歌ってしまう
 実演家まで出ていた。
 要するにパロディされた側の反応も、
 怒る者、楽しむ者に別れたのである。』


そうでした、そうでした。


そして、
今にして思えば、
販売を拒否した肝心のビクター内部も、

決して一枚岩ではありませんでしたね。


吉田正さん(作曲)、
佐伯孝夫さん(作詞)、
といった、黄金期を支えた偉大な作家、
を抱えるビクターとしては、

その先生方の名誉を守るとして、
法務部を中心に猛反発。


ところが、
当の実演家のフランク永井さんは、
最初聴いたとき、
椅子からころげ落ちるほど大笑いしたそうです。

そして「レココレ」にもあるように、
タモリをステージにあげて一緒に歌う、
といったことまでやってのけた。


さらに販売部は、
「他のレコード会社を敵に回すだけでなく、
 ‘新星堂’だけで売らせるということは、
 他のレコード店、チェーンから、
 総スカンを食らう。
 今後ビクターの商品を扱ってもらえない。」
と、変なところで消極的。


ところが、制作・宣伝部はどうか。

この騒ぎの最中に、
ビクターの制作部に、
遊びに行ったときのこと…。


ある人に、
「ところで(新米)ディレクターの、
 K君はどこにいる?」
と聞いたところ、

「ああ、あいつならコピー室にいるよ。」
と教えてくれた。


当時はまだカセットの時代。

正規のサンプル盤が出来るまでの間、
宣伝用のサンプル音源として、
せっせとカセット・コピーをする、

そんな時代だったんですね。


コピー室に行くと、
K君が、
数十台のカセット・デッキを同時に回して、
何かを大量コピーしている。


なんとそれが、

『 タモリ3 』


しかも、
コピーの大元になってる一本が、
すでにコピーのコピーの孫みたいなヤツだから、
音質が劣化していて、
「シャーーー」
というノイズがあからさまで、

なんとも聴きにくい。


私はK君に、

「なんでこんな音の悪いのしか無いの?」


するとK君、

「いやあ、これ今、
 なかなか‘上物’が手に入らないんですよ。
 これでも状態がいい方でね。
 
 そうだ!
 これ宮住さんが作ったんでしょ。
   
 もっと音質のいいの下さいよ。
 もう社内の注文が多くて、
 自社の他の物そっちのけで、
 コピーしてるんだけど、
 間に合わないんすよー。」


「……。」



ま、どこのレコード会社へ行っても、
こんな感じでしたね。

(なにが著作権侵害だ。)


こうして、

業界も世論も、

まっぷたつ。


そして、事態は、

ますます悪化の様相を、


呈していったのです…。



(つづく)



先日、

森進一さんが、
「おふくろさん」
を勝手に改変させたとして、
当の作家の川内康範さんが大激怒。

そして世論は、

どうやら川内さんに同情的なようですね。


してみると、

この『 タモリ3 』などは、

今出しても、

まだまだ大変だということでしょうか。



ううむ…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 19:45コメント(6)トラックバック(0) 
2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

September 12, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その3


猛暑から開放されたかと思うと、

今度は、じめじめとした秋雨前線が、
どかっと居座る日本列島。

なんかこう、
スッキリしませんね。


そんななか、

この人たちのコーラスは、
スカッと爽やか。

今週の土曜日に、
こんなミニ・ライブがありますよ。
場所は「ケンウッドスクエア・丸の内」


日時:
9月15日(土) 14:00〜15:00 (開場13:45)
出演:
『 Jammin' Zeb 』
内容:
国際フォーラムで開催される
「 東京ジャズ 」( 9 / 20 〜 23 ) の関連イベントです。

予約:
TEL:03-3213-8775
(ケンウッド スクエア・丸の内まで) (要予約)


場所の概要はこちらをご覧ください


お近くの方、
散歩がてら、いかがですか?

(無料ですが、要予約)



というわけで今日も、
「タモリ3」のつづき。


タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その3


さて、

そんな紆余曲折を経て、

我らスタッフとタモリは、
再びこの、「稀代の問題作」
のレコーディングに突入しました。


不思議なもので、

2年のブランクと、
一度味わった挫折(発売不可という)、
が、かえって、
みんなの力をみなぎらせる結果となり、

次から次へと、
傑作(???)が生まれていきました。


『ビキニ・スタイルのお嬢さん』
(ダニー飯田とパラダイス・キング)
       ↓
『テキ屋スタイルのお兄さん』

初めて‘テキ屋’の格好をした、
チンピラのおにいちゃんが、
恥ずかしくて海辺に出られない、
という唄。


『高校三年生』(舟木一夫)→『放浪三年生』

♪僕ら、草とワラしか食べないが、
 暮らす仲間は、椅子まで〜も〜♪

腹が減って仕方なく、
椅子まで食べちゃう、
という貧乏学生の唄。

キタナイですよ、コレ。


『バラが咲いた』(マイク真木)→『ハラをさいた』

「この唄に感化されて、
 作家木島由紀夫(三島由紀夫)は、
 ハラをさいたのです。」

などという注釈付き。
あぶない;…。


『UFO』(ピンク・レディー)→『USO』

♪USO(ウッソー!)♪

おなじみピンク・レディーの大ヒット曲が、
ここでは、

♪USO(ウソ)というより、
 ‘つわり’なのね
 もしかしたら、もしかしたら、
 そうなのかしら〜♪

手当たり次第やりまくったおねえちゃんが、
「もしかして、妊娠しちゃったのかしら」
という唄になってしまう。

これを、ピンクになりきって歌うタモリは、

本当に気持ち悪かった…。



ほかにも、


『ブルー・シャトー』→『ブルー・エンペラー』

『勝手にシンドバッド』→『勝手にダイドコロ』

『長崎は今日も雨だった』→『長嶋は今日もダメだった』

そう、このときは長嶋新監督の時代。
毎日、毎日、負けてばかりでしたね、
巨人。


『くつひもカミソリ』
     ↑
『よこはまたそがれ』(五木ひろし)

なんてのもケッサク。

♪ゴムひも〜は、売って売ってしまった
 ゴムひも〜は、売って売ってしまった〜
 もう、おしまいね〜♪

という、田舎の雑貨屋のお話。


『モッキンバード街道』
     ↑
『ロックンロール・ウィドウ』(山口百恵)

これも名作(?)ですねえ。
ぜんぶ鳥の名前で作られてる。

そして、

♪カッコカッコカッコばかり口走る〜
 モッキンバード街道 ホホケキョ♪

と締める。

うまい!?


詞を担当した高平さんも、
もう手がつけられないほど、
ノリノリでした。


こうしたレコーディングの模様も、
「レコード・コレクターズ 9月号」に、
私の話が掲載されているので、

ちょっとそれを、
そのまま借用。

『(前略……)
 自分はパロディにした元歌の音質、音色まで、
 そっくりに作ることが役割でしたね。
 あのLPは戦後の復興から現代までの、
 日本の社会情勢と流行歌がシンクロしている
 という作りでしょう?
 ということは、レコード制作技術の発展史でも
 あるわけです。
 だから戦後間もない頃の「サンゴの唄」
 (「リンゴの唄」のパロディ)
 だったらくすんだモノラルの音色で、
 それがだんだんステレオの時代になって、
 音質が良くなってくるところまで
 グラデーションをかけて再現しなきゃ
 感じが出ないわけです。

 あとは唄のディレクションですね。
 パロディは原曲が匂わなくてはならないんですが、
 タモリは声色上手だから
 同じメロディだったらそっくりに歌えるんですけど、
 パロディだからメロを数カ所で、
 変えなくてはならないでしょう?
 そうすると歌のプロじゃないから
 どこか似なくなってしまう。
 そこで僕が発声、歌唱指導をしたんです。
 何というか…成り切ってもらうためにね。
 例えば最後の山口百恵ちゃんの歌真似をするときは、
 ‘マイクのコード挟んで女になったつもりで
 やったらいいんじゃない’なんて言って(笑)。
 タモリも本当に脚の間に挟んで、
 ‘あ、きたきた!’って(笑)。
 だから歌唱というより、
 一曲ずつに対する芸の指導というか、
 成り切り誘導だね。

 あれ、歌入れ30数曲を二日間でやったんですよ。
 誰か管理の人が入ってきたらヤバイと思って
 スタジオ‘A’に鍵をかけて、
 酒をがんがん持ち込んで(笑)。
 アルファの女子社員ふたりに接待係をお願いして、
 一曲終わるたんびに
 ‘タモリさん、すてきよー’
 なんてお酌してもらったりしてね。
 スタジオ‘A’で宴会しながら、
 それはもう楽しくやったんです。
 あのレコードにはその雰囲気が詰まってるよね。』
 (宮住)

それに対して、
インタビュアーのライター田山さんが、
こう受ける。

『「タモリ3」の狂躁的なまでのテンションの高さは、
 二日間の‘宴会レコーディング’
 でもたらされたものだった!
 何という無茶をするのだろうか。
 このエピソードを聞いた時は、
 あまりに破天荒なアルファ魂に呆れ、感心し、
 笑ってしまった。』


私も、この記事を読んだ時、
思わず笑ってしまった。

アハハハ。


しかしまあ、

これは、あたりまえのこと。


こんなバカバカしい物を、
シラフで、
真面目くさって、

やれるわけがありません。


さらに後日、

再びタモリに来てもらって、
こうした楽曲のつなぎ役をつとめる、
いくつかの挿話を録音。

これがまた即興性に満ちた傑作ぞろいで、
改めて、
タモリの‘天才’を見る思いでしたが、

きりがないので、
もうやめておきます。


そして、前述したように、
一曲ずつを、
オリジナルと同じような感じに、
緻密にトラック・ダウン。

さらに、効果音を加えたり、
いろいろな加工をほどこしたりして、

とにもかくにも、

この‘大作’は完成しました。


ところが、ここに、

またしても大きな壁が……。


今度は、
新生「アルファ・レコード」の販売元、
ビクターが、

「やっぱりこれは、
 お引き受けできない」

と言ってきたのです。

(ビクターよ、おまえもか…)



さあ、今度は、


タモリが怒った。


ラジオやテレビにおける自分の番組で、
これらの音をかけたり、
実演したりして、
このレコードの存在を、

世に知らしめたのです。


そしてこれが、

さらなる波紋を、


大きな波紋を、


呼ぶことになりました…。



(つづく)



最近、会う人ごとに、
この「タモリ3」の話になります。

レココレか、はたまたこのブログか。

でも、
意外とみなさん、
読んで下さってるみたいで…。

ありがたいことです。


きのうは、
某有名広告代理店の社長から、
「俺の持ってるのはカセットで、
 もう伸びきっちゃったよ。
 シュンちゃん、コピーしてよー。」

と言われました。


ううむ…。


これはいいのか…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 16:28コメント(7)トラックバック(0) 
2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

September 07, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その2


9 / 5(水)& 6(木)の「代々木ナル」
『 jammin'Zeb 2days 』
にお越しのみなさん、

ありがとうございました。


両日とも満員の大盛況。

特にきのう(6日)は、
台風直撃のなか、
ほとんどキャンセルもなく、
最後まですごい盛り上がり。

みなさん、
無事に帰宅されましたでしょうか…。

でも本当に、

ありがたいことです。

グシュン;。


そのジャミンの情報は、
このブログでも
随時インフォメーションしていきますので、

ときどきチェックして下さいませ。



さて、きょうも、

タモリの話。



タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その2


現在市販されている音楽専門誌
「レコード・コレクターズ 9月号」に、

『アルファ最大の問題作とは?』
といった形で紹介されている、

このアルバム。


いったい、
いかなる物だったのでしょうか…。


1978年頃。

私がまだ、
アルファにいたときの話です。


タモリを我々に紹介し、
今や‘お笑いの世界’では、
重鎮のプロデューサー、
高平哲郎さんから、

一本の電話がありました。


「宮住、面白い企画があるんだけど、
 乗らない?」


なんでも、

戦後最初のヒット曲「リンゴの唄」に始まり、
78年当時の最大の人気歌手、
山口百恵までの歌謡曲のヒット30数曲を、
全部‘パロディー’にしてタモリに歌わせ、

その曲間を、
大橋巨泉やら、竹村健一やら、
東北から集団就職でやって来た名もない一青年、
などに扮したタモリが、

もっともらしく、
そのヒット当時の世相を語る、

という壮大な構想。


お調子者の私は、
一発で乗った。

新しくて面白いものが大好きな社長、
村井邦彦さんも、

乗った。


かくして、
私と高平さんは、
すぐさま選曲に入る。

詞は高平さんが担当。

「リンゴの唄」→「サンゴの唄」
「野球小僧」→「お灸小僧」
「憧れのハワイ航路」→「たそがれのオワイ航路」
「東京ナイトクラブ」→「東京ホストクラブ」


「夕焼けトンビ」(三橋美智也)なんて、
こうでした。

「夕焼けトンビ」

夕焼けぞらが真っ赤っかあ〜
トンビがくるりと輪をかいた
ホ〜イのホイ
そこか〜らこっちが
見える〜かあ〜〜い♪

     ↓

「ぐらぐらコンブ」

ぐらぐら釜が真っ赤っかあ〜
コンブがくるりと輪をかいた
ホ〜イのホイ
底か〜らこっちが
見える〜かあ〜〜い♪


次々と出来上がっていく、
こうしたバカバカしい詞に、

今度は、
今は亡き鈴木宏昌(コルゲン)さんと一緒に、

原曲がにおいながらも、
ちょっと、なんか、違うぞ、

といったメロディーを付けていく。


そして今度はスタジオで、
原曲とそっくりなアレンジを、
スタジオ・ミュージシャンに
演奏してもらい、

タモリには、

灰田勝彦やら、岡晴夫やら、三橋美智也やら、
フランク永井やら、松尾和子などなどの、
オリジナル歌手になりきってもらって、

唄入れをする。


こうして私は、
数曲が出来上がった時点で、
社長の村井さんに聴いてもらいました。


いやあ、もう大受け。

社内の会議でもバカ受け。


こうして、

前年の77年に、
『タモリ』というアルバムで、
レコード・デビューし、

(そう、タモリは最初、
 レコード・デビューだったのです。
 今の彼からは想像もつかないでしょうが…。)

その後またたく間に茶の間の人気者となった、
タモリの、
セカンド・アルバムとして企画した、
このレコーディングは、

どんどん進んで行きました。

楽しかったなあ、コレ。



ところが…、

ここで大問題が起こってしまいました。


当時のアルファは、
「アルファ・アンド・アソシエイツ」という、
小さな原盤制作会社。

したがって、
その販売、宣伝は、
「東芝EMI」に委託しておりました。

その東芝から、
クレームが来たのです。


「これを発売するのは、無理です。」


理由は、

「全レコード会社を敵にまわす。」

というもの。
  


今は、
作詞家、作曲家はフリーですが、

昭和30年代までは、
レコード会社の専属でした。

ビクターの吉田正さん、
コロンビアの古賀政男さん、

といったように。


その先生方のお作りになった名曲を、
面白可笑しく変えてしまい、

ある意味茶化し、
ある意味バカにしながら、
やっちゃうわけですから、

重大な「名誉毀損」にあたる。


なおかつ、
現著作権は各レコード会社にあるのだから、
きちんとした許可をもらわなくてなならない。

おそらく許可すまい。


このへんの事情も、
「レココレ」には詳しく書いてありましたね。


当時東芝を代表するプロデューサーで、
アルファの作品をこよなく愛してくれていた、

あの渋谷森久さん

かつてブログにも書きましたが、
「ハナ肇とクレージー・キャッツ」の、
一連のコメディ・ソングを、
世に送り出した、

あの破天荒な、ハチャメチャな、
渋谷さんまでもが、

「クニ(村井さん)、シュン(私)、
 こりゃ危険だ。
 わるい事は言わない。
 これはヤメたほうがいい。」

と、止めに入ったくらいですから、

この企画の強烈さが、
わかろうというものです。


やむなく、この企画をあきらめ、
より安全な企画で、
『タモリ2』を発売した私たちでしたが、

その「アルファ・アンド・アソシエイツ」は、
その直後、
「アルファ・レコード」というレコード会社に、

出世しました。


販売こそ、
ビクターに変わりましたが、

制作に加え、
宣伝の機能も持ち、
以前よりはずっと、
「発売」に関する発言権を持ちました。


そんなある日、

社長の村井さんが、

「シュン、
 あれ面白いから作っちゃおう。
 続きをやりなさい。
 責任は俺が取るから。」

と、言って来たのです。


心配よりも何よりも、

私は狂喜しましたね。


あんな面白い仕事が、


再開できるわけですから…。



(つづく)



ところで、

この7日間で、

私は4回もライブをやりました。


私のスポーツ・ピアノ・スタイルでは、
これは自殺行為ですね。

きのうも、
演奏の途中から、
血圧が急上昇するのが、
わかりましたよ。

年かな。

自重しなくては…。

トホホ。


というわけで、


しばし休養…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 21:04コメント(5) 
2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

September 02, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」


ああ、楽しかった…。

8/31(金)の、
「 学芸大 A'TRAIN 」ライブ。


なにせ、
一ヶ月ぶりのライブですからね。

ちゃんとピアノが弾けるのか、
いささか心配でしたが、

常連のみなさんの、
暖かい拍手と声援に支えられ、
いつも通り、
楽しく盛り上がることができました。

感謝…。


さて、
ご存知のかたも多いと思われますが、

この夏は、
休み返上で、
ほとんどスタジオにこもり、

『 jammin' Zeb 』
のレコーディングに追われていた私。


そんな彼らのデビュー・アルバムも、

ようやく完成致しました。

パチパチ。


詳しい事は、
このブログで、
随時インフォメーションさせていただきますが、

なにはともあれ一段落。

ふ〜…。


というわけで、
スタジオから開放されるやいなや、

今週はいきなり3本のライブです。


9 / 3(月) SUITE VOICE 「六本木 ALL OF ME CLUB」

         

9 / 5(水)& 6(木) jammin' Zeb 「代々木 N A R U」

         
(詳しくはこのブログ、
「 最新ライブのご案内 」をご覧下さい。)


それにしても、

みごとに ‘コーラス・ウィーク’ だこと…。


がんばりますよー。


みなさん、

どうぞいらして下さい。



さてさて、

先日、私のもとへ、
こんな雑誌が送られてきました。

「 レコード・コレクターズ 9月号 」

RecordCollectors0709


以前、
「 インフォメーション 」のカテゴリーでも、
ご紹介しましたが、

この雑誌では、
昨年の4月から、

私がかつて在籍した、
「 アルファ・レコード 」
の特集を連載しております。


題して『 アルファの宴 』


私も何度か取材を受けましたが、
今回のテーマは、

「『 タモリ3 』発売の紆余曲折 」


そう、

かつてレコード業界を騒然とさせた、
空前の問題作、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』

というレコードに、
スポットが当てられています。


冒頭から、
こんな書き出しです。

「タモリLPにクレーム
 パロディーは著作権侵害 」

「81年11月10日、こんな記事が
 『 毎日新聞 』に大きく掲載された。
 問題となったのは
 同年9月20日に発売された
 『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』
 という企画もののLPである。」


この担当ディレクターは、
何をかくそう、この私でしたから、
私の話も、
あちこちに掲載されております。


例えばこうです。

「まずは、このアルバムの成り立ちから、
 順を追って説明しよう。
 『 タモリ3 』は、
 『 タモリ 』(77年)、『 タモリ2 』(78年)
 に続くアルバムだが、
 2枚目から3年間のブランクを置いた
 81年に発表された。
 その経緯について現場担当ディレクターだった、
 元アルファの宮住俊介が次のように語ってくれた。」

「『 戦後日本歌謡史 』は、
 もともと東芝で出ていた1枚目(『 タモリ 』)
 の続編として作りかけてたんだよね。
 でも東芝側が‘全レコード会社を敵に回すから
 お受けできませんって(笑)、
 断ってきたんですよ。
 それで急遽、その次の企画だった
 ‘音楽の変遷 その1’
 というネタを中心としたものを、
 『 タモリ2 』として繰り上げ制作したんです。」


なるほど、

そうだった、そうだった。


しかし、

アルファは作ってしまった…。


「でも村井さんがある時、
 ‘あれ面白いから作っちゃおう。
 責任は俺がとるから’って。
 それでプロデューサーの高平哲郎さんと
 セッティングして、
 発売の目処も立ってない時点で、
 数日間でレコーディングしました 」(宮住)


こうして、

この問題作の制作過程や、
レコード業界を騒然とさせたいきさつ、
その社会的反響、

そして、
ついには裁判沙汰にまで発展した経緯が、

こと細かに書かれていきます。


なかには、
私の知らなかったことまで、
詳しく書かれてあり、

ライター田山さんの、
並々ならぬ取材力がうかがえるのですが、

まずは、
書店にて、
一度手に取ってご覧になって下さい。


というわけで、
せっかくのタイミングですから、

次回はこの、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』

について、

当事者たる私が、
もっと詳しくお話してみようと思います。


さらに、
これを機に、

「 マイ・ディスコグラフィー 」

というカテゴリーを設けてみました。


私のプロデュースした作品のなかから、
面白いエピソードのものを抜き出して、
随時ご紹介してみよう、

というものです。


その一回目が、

この、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』


では、この、

アルファ最大の問題作とは、



いかなるものだったのでしょうか…?



(つづく)



そういえば、
この「 レコード・コレクターズ 9月号 」には、

『 ドアーズ(doors)』
の特集も組まれています。


ドアーズといえば、

かつて「 レコード買いまくり時代 その1〜4
でも書いたように、

私にジャズを目覚めさせてくれた、
衝撃のロック・バンド。

この特集も見事でした。


お早めに書店に…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 01:36コメント(8)トラックバック(0) 
2007 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー