February 2008

February 29, 2008

将棋と私 その2


『敬愛なるベートーヴェン』
(Copying Beethoven)

という映画、
ご存知でしょうか。

新しい映画です。


耳のほとんど聞こえなくなった、
晩年のベートーヴェンが、
ある女性の手助けにより、

無事、あの「第九交響曲(合唱)」
の初演にたどりつく、

というお話。


暮れにも書きましたが、
この「第九」。

いけませんねえ。

やはり、この曲だけは別格です。

ましてや、
ベートーヴェンが自ら指揮をして、
あの歴史的な初演を行なう、
(もちろんこれはフィクションですが…)
という設定ですから、

もういけません。

あまりの感動に、
涙が止まりませんでした。

続けて2回観ました。


まだの方、
どうぞご覧になって下さい。

「TSUTAYA」に、
いっぱいあります。

レンタルで。


さて、話はがらりと変わって、
(変わりすぎ?)



『将棋と私 その2』


私が大学1年生のときのお話です。


ジャズ・ピアノがやりたくて、
「K大ライト・ミュージック・ソサエティ」
に入部した私。

ま、そのへんのくだりは、
『ジャズまくり時代』
というエッセイに、
詳しく書いてありますので、

興味おありの方は、
ぜひ、お読み下さい。


実はそのとき、
一緒に入部した新入生のなかに、

とてつもなく将棋の強い男が、
いたのです。


仮に、
「F井君」としておきましょうか。


一浪で工学部に入学した、
このF井君。

埼玉県の地主の息子で、
親はお金持ち。

「埼玉からじゃ通学に不便だろ。」

てなことで、この親、
世田谷の野沢あたりに、
お洒落な2DKのマンションをひとつ、
ポンと買い与えた。

当然のように、
ここが、
我ら1年生の溜まり場となります。


そして当時は、
「コンピューター・ゲーム」
などというものは無かった。

娯楽といえば、
麻雀かトランプか将棋。

特に将棋は、
二人で出来ますから、
すぐに成立します。


てなわけで、

さっそく、
このF井君と、一局指した。


ところが…、

これが…、


強いのなんの……。


まったく歯が立たない。


というか、
誰が対戦しても、
あっと言う間に、

みんな、

木っ端みじん…。


しかも、
対局中の言い草が憎たらしい。

「おお、そうきたかー。
 助かるよなあ‘ヘボ’が相手だと。
 考える必要がないもんなあ、アハハ。」

だの、

「あ〜あ、見てらんないよー。
 よくそんなバカな手思いつくよなー。」

だの、

あざけり、嘲笑、コケにしまくり。


ところで、

彼の専門楽器はギター。

入学当初から、
「俺はライトで腕を磨いて、
 絶対プロのギタリストになってやる。」
と息まいておりました。

でも、ギターは、

へたくそです。

なーんにも面白くない。


だから、
私、のみならず、
みな、こう思ってましたよ。

「ギターより、
 将棋のほうが、
 ずっと‘プロ’に近いんだけどなあ…。」


さて、そんなF井君に、

一度、

忘れることの出来ない、

屈辱的な敗北を喫したことがあります。


ある日の夜遅く、
私はひとりで、
F井君のマンションに遊びに行きました。

すると彼は、
机に向かって、
レポートらしきものを書いている。

私が、
「おっ、感心だなあ。
 勉強かよ。」
と聞くと、

「ああ、明日までに提出なんだ。」
と、さらりと答える。


「どう、休憩して一局やんない?」
と私。

すると、
「いいよ、じゃ並べろよ。」
と、あっさり。


駒を並べ終わって、
「ほら、並べたぞー。
 早く来いよ。」
と言うと、

「俺はここでいいから、
 早く指せよ。」
と、のたもうた。


「‘指せよ’たって、
 盤を見なくていいのか?」
と聞くと、

「ああ、お前なんか、
 見なくても勝てるよ。」
と、ぬかしやがった。


(みてろよ、このヤロー。)


なめられまくった私は、
怒りにふるえながら初手を宣言。

「7六歩」

すると、
向こう向きの彼は、
せっせとレポートを書きながら、

「3四歩」

と、平然と答える。


将棋盤は、
こちら側(先手)から見て、
横に「9〜1」
縦に「一〜九」
という番号がつけられています。

最初の形で言うと、
一番右上が「1一香」
一番左下が「9九香」

と、なるわけです。

こう表示することで、
どの駒がどの位置にいるのかが、
分かる仕組みになっているのです。


それにしても、
見ないで指すとは…。

しだいに怒りは、
驚きに変わっていきます。


何手か進んで、
私が、
「5五桂」
と言うと、

向こうの方から背中越しに、
「おおい、それじゃ飛車がタダだぞー。」
という声が聞こえる。

よくよく見ると、
私の「飛車」は、
遠くにいる、やつの「角行」に、
獲物のように狙われている。


「待った。
 じゃここは6六銀だ。」
と訂正すると、

「それだと、「金」が死ぬぞー。」

「……。」


この光景、

お分かりでしょうか。


私は必死に盤を見ている。

やつは、
レポートかなんか書きながら、
向こうの方で、
平然と指手だけを言ってくる。

やつには、
今、盤面がどうなってるか、

すべて分かっているのです。

こっちの手も、
すべてお見通しなのです。


そして終盤、

「王手!」

という声がかかり、

彼の言う通りに駒を動かすと、


詰んでいる…。


無惨にも、
私の王は、
やつの強力な駒軍団に取り囲まれて、

行き場を失っていました。

……。


なんたる屈辱でしょうか。


盤面を見てるやつが、


見てないやつに負けるなんて…。


(つづく)


さ、これから、

月末恒例「学芸大A'TRAIN」
ミッドナイト・セッションです。
ガンガン弾いてきます。

そして明日は、
渋谷「オーチャード・ホール」で、
早朝からジャミンのリハーサル&本番です。

なが〜い夜が、

始まります。


明日、お会いしても、

「ウッ、酒くさ〜い。」
などと、
言わないように、

お願いしますね。


しかし、

このスケジュールは、


無謀だったかなあ…?



SHUN MIYAZUMI



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2008 エッセイ 

February 23, 2008

将棋と私


昨日、今日と、
暖かいですねえ。

明日から、
また寒さが戻るそうですが、

この時期、
こういう日があると、
春の足音が聞こえてきそうで、
浮き浮きしてしまいますね。


さて、ジャミン・ゼブ。

そろそろ、
次のアルバムに向けて始動です。

私も、
せっせとアレンジをしなければならない。


しかし、

これが、

おっくうなのですよ。

実は…。


試験勉強とおんなじです。

始めるまでが長い。

なんだかんだと理由をつけて、
なかなか始めない。

そのうち時間がどんどん過ぎて、
しだいにあせってくる。


毎日、これの繰り返しです。


きょうも「書き日」の予定だったのですが、


こんなもん、


書き始めてしまいました。


あ〜あ…。



『将棋と私』


将棋。

けっこう好きです。

日曜日の朝は、
いつもNHK教育の「将棋講座」を、
観ています。


しかし、
‘定跡(じょうせき)’なんか、
ほとんど知らない。

覚えようともしない。


わずかに、

「矢倉(やぐら)」「ミノ囲い」「穴熊(あなぐま)」
といった、
簡単な守り方を知ってる程度ですから、

ま、‘ヘボ将棋’
の部類だと思います。


ただし、その棋風は、

典型的、

‘攻め将棋’


ロクに守りも固めないで、
とにかく攻める。

攻めて、攻めて、攻めまくる。

そんな先の手まで読めるわけがないので、
とにかくこの一手。

感と度胸だけで、
ガンガン行く。


特に上級者とやるときは、
がっちり守られたら、
なす術(すべ)がないので、

相手が守りに入る前に、
ガンガン行く。

相手の理論の裏をかく。

混乱を与える。

題して、
「肉を切らせて骨を切る戦法。」


これで、
10回に一回くらいは勝つ。


そのかわり、
攻め損なったら、
詰め損なったら、

一巻の終わりです。

相手に、
ごっそり駒を渡してしまってるのですから、

「あっ…。」
というまに終わり。


ま、こんな感じですね。



さて、

私が将棋を覚えたのは、
いつのことだったのでしょうか…。

幼稚園か、

小学校低学年か…。


そして、
相手はいつも父親でしたから、

最初に手ほどきを受けたのは、

おそらくこの人だったのでしょう。


ただし、この人は、
私に輪をかけた‘ヘボ将棋’。

私が知ってる、
数少ない‘守り方’すら、
知りません。

したがって、
小学校の高学年にもなると、
もう相手になりません。

どうせ私が勝つに決まってるんだから、
もう、この人と指すのは、
やめました。

‘ヘボ’のくせして、
負けると真っ赤な顔になって、

悔しがるし…。


そんなとき、

親戚のおじさんの中に、
すさまじい強豪がいることを、
知ったのです。

なるほど遊びに行くと、
いつも本を片手に、
難しい顔をしながら、
立派な将棋盤の上の駒を、
動かしている。

アマチュア5段とも6段とも言われ、
近所では‘敵なし’
の実力者だったそうです。


「よし、あのおじさんに、
 一手ご指南を受けよう。」

ある日、幼い私は、
いそいそと出かけて行きました。

「おじさーん、
 一局やろうよー。」

すると、おじさん、
嬉しそうに、

「おう、シュン坊か。
 なになに将棋を覚えたのか。
 感心、感心。
 よしよし相手してやろう。」


が…。

ほんの5分くらいで、

イチコロに負けた。


おじさん、困った顔になり、

「うーん…、
 シュン坊だと、
 これだけでいいかな。」

と、

あろうことか、
このおじさんが選んだ駒は、

歩(ふ)が3枚だけ。

そして王。

……。


歩(ふ)というのは、
前にひと駒しか動けない、
一番弱い駒。

この3枚の下に、
王様を置いて、
ちょこちょこ進んでくる。

私は当然、フル装備。


そのうち、
盤面上で戦いが始まる。

たちどころに、
私の駒はどんどん取られる。

取られた駒を、
矢継ぎ早に使ってくるおじさん。


こうして、
ものの10分もすると、

形勢は大逆転。

今度は、
おじさんの駒ばかりが増えて、
私はしだいに丸裸。


これまた、

あっと言う間に、

負けました。


父親を負かしてばかりで、
「なんだ、
 将棋なんてチョロいもんだな。」
と、思い上がっていた私には、

ショックでしたねえ。


そして、
あまりのレベルの違いに、

逆に将棋に対する興味が失せ、

以来、
同じ程度のやつをつかまえては、
適当に‘ヘボ将棋’を楽しむ。

そんな、
少年時代を送ったのでした。


時は流れて、

私も大学生。


かつて、
「ジャズまくり時代」
というお話にも書いたように、

ジャズ・ピアノがやりたくて、
「ライト・ミュージック・ソサエティ」
という名門サークルに入った私。


実は、
このとき一緒に入部した新入生のなかに、

とんでもない、


「将棋の強豪」が、


いたのです…。



(つづく)



ところで、

これって、
将棋を知らないひとには、
面白くない話でしょうかね…?

ま、いいや。

せっかく始めたので、
行くところまで行っちゃいましょう。


なにせ、
何手も先が読めないのは、
将棋に限ったことではない私。

「人生これ、インプロビゼーション」
をモットーとしておりますからね。


よろしかったら、


おつきあい下さいませ。



(さ、今度こそアレンジ…。)



SHUN MIYAZUMI



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2008 エッセイ 

February 16, 2008

演歌と私 その6 最終回


いやあ、

怒濤の一週間でした。


2/12(火)「六本木 スイート・ベイジル」
2/13(水)「パシフィコ横浜」
2/14(木)「名古屋 ブルーノート」

そして昨日は、
ニューアルバムのプリ・プロ開始と、

完全にジャミン漬けの一週間。


でも、おかげさまで、
どのライブも、
超満員のお客様の熱気に後押しされ、

素晴らしいものになったと思います。

若いジャミン・ゼブにとっても、
収穫の多い、
ライブ・ウィークになったのでは、
ないでしょうか。


みなさん、

お疲れさまでした。


というわけで、

私も今日は完全休養。


今を去ること、
30数年前の若かりし日を、

回想してみたいと思います。



2005年04月24日 No.108
演歌と私 その6 最終回


せっかく有線でベスト10してるのに、

肝心の発売後のスケジュールが真っ白。

……。


もっとも蒼ざめたのは東芝です。

これからTVの歌番組やラジオ・ゲストに、
華々しく出ていくことを、
想定していたわけですからね。

でも、
自分で連れてきた事務所だから、
あからさまに文句をいうわけにもいかない。

村井社長の反対を押しきって、
アルバムまで作っちゃった私も、
実は大慌て…。


「仕方ない、
 みんなでスケジュールを取りに行こう。」
と、元気なく団結したものの、

世の中、そんなに甘くない…。


誰も見てないような深夜番組で、
ちょこっと唄うのが決まったそうですが、
3ヶ月後のお話。

朝の天気予報のバックでちらっと出てくる。
これは4ヶ月後。


そうこうするうちに発売日。

……。


やはり有線だけではダメですね。

まったくゼロというわけではありませんが、
期待していた数字には、
ほど遠い。

予算も、
全国キャンペーンで,
あらかた使い果たしたらしく、
もはや何の手も打つことができない。

そのうちに、
有線チャートも下がりはじめ、

3ヶ月後には、

すっかり消えてしまいました。


惨敗…。


シングルが売れないのだから、
当然アルバムも発売中止です。

「ほら、俺の言ったとおりだろ。」
という村井社長の冷ややかなお言葉。

あんなに乗ってたA課長も、
なぜか私と目を合わせるのを避けるように…。


「いや、ヒットを作るのは難しい…。」

思いつきだけの企画じゃだめなんですね。


その後、
もう一枚だけシングルを出しましたが、

その頃には東芝も、
別の新人歌手の売り出しに必死で、
こっちには目もくれない。
したがって、
当然売れない。

「チッ、みんなあんなに乗ってたくせに、
冷たいなあ…。」


こうして、
残念ながらこのディスコ演歌は、

幻のヒット企画と相成った訳です。


それでも、

作詞の鳥井実、
作曲の猪俣公章
といった先生方はやさしく、

「なあに、
 そんなに最初からうまくいく訳ないよ。」

と、はげましてくださったり、
頼んでもいないのに、
新しい曲をどんどん書いてきたりします。


でも、
その作品をつらつら見ているうちに、
私の中に、

ある疑問がわいてきました。


冷静になってみると、
詞も曲も、
どれもみな同じに感じてしまうのです。

というより、
その中に秘められた、

人生、恋愛、友情、旅情、
といった、
さまざまな「演歌の世界」の持つ深みが、
全く理解出来ていない自分に、

気づいたのです。


思えば、

クラシックに始まって、
ビートルズやモータウン・サウンドで、
少年期を過ごし、
ついこの前までは、
ジャズ・ピアノに夢中になってた私。

でもその先生方は、
生きざまから、
なにもかもが、

‘演歌そのもの’なんですね。


そんな彼らが、
丹精込めて作った大事な作品を、
‘ディスコ演歌’とか言っちゃって、
面白可笑しく、
遊び半分でやってしまった私。


売れるわけありませんね。

人生も、
エンターテインメントの世界も、

そんな甘いものじゃない…。


「俺はまだまだ若い…。」


苦い思い出だけが残った、


私が24才の春のことでした…。



(おわり)



(感想 2008/2/16)


これ以降、

フリーになってから一、二度
中村泰士さんの依頼で、
お手伝いはしましたが、

自分から、
手をつけることはやめました。

演歌。

これはこれで、
おっかない世界ですから。


‘餅は餅屋’

‘生兵法は怪我のもと’


やはり人間、
得意の分野で腕を振るうのが、
一番ですね。


アルファだってそうです。

誰も、
好んで演歌を聴いてる人なんて、
いなかったんですから。


A課長をのぞいて…。


(アハハ、お元気ですか?)



SHUN MIYAZUMI



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〜2005 エッセイ 3  | マイ・ディスコグラフィー

February 09, 2008

演歌と私 その5


また、やっちゃいました。

なにを?


昨夜、
大阪プロモーションに出かける、
ジャミン・ゼブを見送ったあと、
学芸大の某ジャズ・バーに行ったのですが、

また来ちゃったんですよ。


誰が?


CHIHARU(チハル)。


私の大好きなジャズ・シンガー。


そして、その直後に、
ご丁寧に、
ベースのエディ河野まで。


かつて、
「わかっちゃいるけどやめられねえ」
というエッセイにも書きましたが、

この3人が揃ったら、
もうダメです。

朝まで狂ったように、

セッション。

……。


おかげできょうはボロボロ。

アレンジ仕事があったのに。


いけませんなあ…。

(めちゃめちゃ楽しかったけど…)


というわけで、
アレンジは明日頑張ることにして、
きょうも、
30数年前に、


タイム・スリップ。



2005年04月02日 No.107
演歌と私 その5


意気揚々と名古屋に行ったものの、
新幹線のストライキに巻き込まれ、
あやうく餓死しそうになった、
私たち。

A課長は上司から、
「大人がついていて、なんたるザマだ!」
と、お叱りを受けておりましたね。

アハハハ。


さて、そんな中、

たかしな真『涙の海峡』の、
有線チャートは相変わらず好調。
全国ベスト10をキープしております。

そして、
発売日も、もうすぐ。


「こりゃ売れるな。」
と確信した私。

それならば今度は、
「アルバムを作ろう」
と思い立ちました。


さっそく企画書を書いたところ、
もちろんA課長は大乗り。

ところが、
社長の村井(邦彦)さんは、
意外にも渋〜い顔。


以下、私と村井社長(M)のやりとり。

M「シュン、俺はまだアルバムは早いと思うよ。」
私「でも、有線でベスト10に入ってるんですよ。」

M「あのね、有線ってのはね、
  ボクシングで言えば‘ジャブ’のようなものなの。
  今はなんとなくイメージができつつある段階。
  これだけで即売れると思ったら、
  大間違いなのよ。」
私「でも、それだけ反応があるってのは、
  売れる可能性大ってことじゃないですか。」

M「あのね、本当に大事なのはこれから。
  TVやラジオで、きちんと流れてね、
  ああ、あの曲はこれだったんだ、
  と認識されたときに、
  初めて売れるのよ。」
私「でもその時にアルバムを準備してないと、
  それから作ったんじゃ、
  遅いんじゃないですか。」

M「全然遅くないと思うよ。」
私「お言葉ですが、
  これは企画が面白いんですよ。
  ディスコと演歌の融合。
  売れたらきっとみんな真似しますよ。
  ですから、
  早め早めに準備したほうがいいですよ。」

M「お前が言うほど、
  そんなに面白い企画かなあ?」
私「……。」

M「まあいい、じゃやってみろよ。
  そのかわり、
  まだ売れたわけじゃないんだから、
  安く作れよ。」


「はいーっ!」
てなもんで、
さっそく選曲。

企画の面白さ(あくまで個人的見解)
を全面に押しだすべく、
『涙の海峡』とカップリングをのぞいた
残りの8曲は、
すべてカバーでいくことにしました。


『よこはまたそがれ』『北の宿から』なんかは、
シルヴァー・コンベンションばりに、
当時流行りの、
サンフランシスコ・ディスコのサウンドで。
ドンツクドンツクのリズムに、
ワウ・ギターがワカチュク、ワカチュク。

『弟よ』では、
コーラス・グループ「イブ」を呼んで、
大ゴスペル・コーラスの嵐。

東芝によいしょの意味もあって、
『霧にむせぶ夜』(黒木憲)
なんかもやった。


とりあえず私が知ってるレベルの
演歌のヒット曲を、
アレンジャーの川口真さんをけしかけて、

これでもか、これでもかと、

面白可笑しく、
どハデなサウンドで、
やりまくっちゃいました。

いやあ、面白かった。

大いなる自己満足。


A課長はもとより、
東芝の宣伝も「おもしろい、おもしろい」
と手放しで誉めてくれましたよ。


よし、これで準備万全!

早く発売しろ。
早くヒット・チャートを駆け上がれ。


そんな思いの、
発売日直前のある日。

東芝、アルファ、そして事務所、
関係者が集まって、
最後の宣伝ミーティングが開かれました。

場所は東芝の大会議室。


はじめに、東芝の宣伝課長から、
有線はじめ、
全国キャンペーンの成果についての報告。

そして、
お次は事務所から、

発売日以降の、
TV、ラジオ、イベント等のスケジュール報告が
なされるはずでした。


当時は今と違って、
TVやラジオや新聞の取材等は、
“事務所”がブッキング。

レコード会社はあくまで、
有線やラジオ・スポットなど、
お金を使ってサポートするという、
役割分担だったのです。

したがって、
渡辺プロダクションのような、
‘TVに強い’大手プロダクションと組むことが、
ヒット・アーティストを生む近道。


さすがにこのプロジェクトは、
大手プロダクションは、
名乗りをあげませんでしたが、

それでも東芝が意気揚々と連れてきた、
この事務所。
(仮に○○企画としておきます。)

今はそれほど力はないにせよ、
かつて、昭和30年代には、
御三家といわれた大スターや、
有名歌手などを抱え、
業界にさっそうと君臨していた事務所とか。


したがって、
東芝の先行プロモーションで、
有線を中心に全国キャンペーンで
村井さんが言うところの
‘ジャブ’を効かせてきた今、

いよいよ今度は事務所の出番。

さあ、
どんなTV番組が入ってるのだろう、
と、みな楽しみに報告を待ったわけです。


ところが、

ところが…、

と、ところが……、


スケジュール帳を見てみな仰天。


今月も、

来月も、

その次の月も、

そのまたその次も、


何にも、

入ってない。


TVはおろか、

ラジオも、
新聞の取材も、
雑誌の取材も、
イベントも、

とにかく、


な〜〜んにも、

入ってない。


真っ白。

……。


私たちは、

思わず顔を見合わせて、


がく然としたのでした。


(つづく)



(感想 2008/2/9)


きょうの大阪は、
すごい雪だったようですね。

ジャミン初の大阪ミニ・ライブ。
人が集まったのかなあ。

ちと心配なところですが…。


そして来週は、
「六本木スイート・ベイジル」(2/12)
「名古屋ブルーノート」(2/14)

と、大きなライブがありますね。

六本木に続いて、
名古屋も‘完売近し’のようです。

メンバーのテンションもうなぎ上り。


中京圏のかた、

ぜひお早めにご予約を。


(朝までピアノ弾いて、
 遊んでる場合じゃないだろ…。)



SHUN MIYAZUMI



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〜2005 エッセイ 3  | マイ・ディスコグラフィー

February 03, 2008

演歌と私 その4


ああ、面白かった。

なにが…?


デンゼル・ワシントン主演の映画、

『デジャヴ(Deja Vu)』


通信衛星を使って、
4日前の映像をモニターしながら、
特定の犯人、犯行場所をわりだしていく、
というサスペンスものなのですが、

今ならこんなこと、
朝メシ前かもしれませんね。

ちょっと空恐ろしい気がしました。

最後の‘タイム・マシーン’的展開は、
やりすぎの感もありましたが(笑)。


いずれにしても、

ここ10年あまりの、
テクノロジーの進歩は、

目を見張るものがあります。



そこへいくと、

たった30年とちょっと前、
のことなのに、


世の中、

こんなだったんですかぁ、


という感じですかね…。



2005年03月20日 No.105
演歌と私 その4


新幹線が停まってる…。

私たち、
名古屋で足止め…?


しかも、

前日のドンチャン騒ぎで、
仮払いの金を、
ほとんど一日で使い果たしてしまった…。


今を去ること、

約30年前のお話。


当時はね、
キャッシュ・カードなんて、
ありませんでしたよ。

したがってお金は、
登録してある銀行でしか、
おろせなかった。

今なら、
会社に電話して、
すぐに入金してもらえば済む。

あるいは、
クレジット・カードのキャシングなどなど、
旅先で金に困っても、
全然平気。
日本中どこでもおろせる。

でも当時は、

まったくダメ。


30年前…。

つい、この間のことのようですが、
思えばこの間に、
文明って一気に発達したんですねえ。

キャッシュ・カードもキャッシュ・ローンも、
携帯電話も、パソコンも、
カラオケ・ボックスも、コンビニも、
CDも、MDも、

な〜んにも無かった。


若い人には信じられないでしょうが…。


というわけで私たち、
3人合わせて1万円にも満たない所持金で、

今日一日を過ごすハメになりました。


しかたなく、

その辺で軽くメシを食って、
東芝のNさんに電話して事情を話したところ、

さすがにハートのあるNさん、

「いやあ、それは災難でしたな。
 よろしい、
 今日も私がお付き合いしましょう。」

と言って下さった。


早速東芝に赴き、
きのうと同じように、
有線やら、ラジオ局やら、
新聞社などを廻ってプロモーション。

これで何とか昼間の退屈からは、
逃れられた。


そしてまた夜が来ました。

Nさん、

「きのうはA課長にさんざんお世話になったので、
 今日は私がおごる番。
 さ、何が食べたいですか?
 遠慮なく言って下さいよ。」

と、涙が出るようなありがたいお言葉。


遠慮なくご馳走になったあとは、

きのうと同じように、
またまたNさんの行きつけのスナックへ。

そしてきのうと同じように
ドンチャカ、ドンチャカ♫

みんなで交代で演歌を唄いまくり、
口角泡を飛ばしながら、

「いやあ、この曲はいい。
 いやあ演歌の未来は明るい。
 日本の未来は明るい。」

と、まるで,
きのうのビデオを見てるかのようなワル乗り。


さらに!

「もう一軒行きましょう、もう一軒。」

と、Nさんの口車に乗せられて、
またまたお姉ちゃんのいる店へ。

ここでもドンチャカ、ドンチャカ♫

ただし、
今日はすべて東芝持ち。

……。


こうして、
夜もとっぷりと更け、

我々そろそろ、
おいとますることにしました。

A課長
「いやあ、すっかりお世話になりました。
 みんな、
 このご恩は一生忘れちゃいかんぞ。」

私「(よく言うよ)……。」

Nさん
「ま、明日は電車も動くでしょう。
 私達も頑張りますから。
 絶対ヒットさせましょうぞ。」

と有り難いお言葉まで頂いて、
タクシーでホテルまで帰り、
すぐさまバタン・キュー。

zzz……。



朝が来ました。

きのう同様、
すさまじく酒臭い私たちは、
おそるおそる名古屋駅に向かう…。


しかし、


まだ、


動いていない。


……。


この時点で、
私たち3人の合計所持金は、

約5,000円ぽっきり…。


さすがに今日は、
東芝に電話するわけにもいかず、
さりとて、
まわりに知人もいない。

途方に暮れた私たちは、
仕方なく、
その辺の「立ち食いソバ」をかきこみ、
ホテルの部屋で、
じっとしてることにしました。


退屈極まりない午後を過ごしたあと、
晩飯は、
駅前の立ち食いラーメン。

それでも、
あまりに空しいので、
酒屋で安酒と安いツマミを買って、
A課長の部屋で細々と宴会。

深夜、腹が減ると、
またまた駅前の立ち食いラーメン。


なんとも、
さえない出張になってしまいました。


そして運命の朝が……。


今日も停まってたら、

私たち、餓死するかもしれない。


……。



よかった…。

新幹線、動いてました。

ホッ。


ホテル代は請求書扱いにしてもらい、
一番安い駅弁を3個買って、
前もって買っておいた切符で、

ようやく帰ることができました。


東京駅に着いたときの所持金といえば、

A課長1,000円、

たかしな君500円、

私に至っちゃ、
100円玉が2,3個という、
ありさまでしたね。


みなさん、

旅先での、
金の使いすぎには、
くれぐれもご注意を。


それでも、

その2週間後には、
名古屋有線でもベスト10入りしたのですから、

この珍道中もムダではなかった。

と、自分に言い聞かせましたがね…。


(ああ、思い出すだけでも、
 おぞましい…。)



(つづく)



(感想 2008/2/3)


彼らのブログによると、

ジャミン・ゼブ初の、
名古屋プロモーションは、

なかなか優雅なもの、
だったようですね。

よかった、よかった。

(私とは、えらい違いだ…。)


それにしても、
そんな時期に、
またまた私が、

こんな名古屋の珍道中を書いている。


現在と過去が、
奇妙にリンクする、
このブログの特性は、

今年も健在、

というべきか…?


ううむ……。



SHUN MIYAZUMI



woodymiyazumi at 21:57コメント(12)トラックバック(0) 
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