June 2008
June 27, 2008
山田投手と私 その4
このブログは、
不思議なことに、
よく現実とリンクします。
2006年の夏。
『松山商業』というタイトルで、
「松山商-三沢」の歴史的な決勝戦
のお話を書いていたら、
なんと、
それ以来37年ぶりとなる、
決勝戦の引き分け再試合。
(早稲田実-駒大苫小牧)
『ジェフ・バクスターと牛丼』
というお話を書いていたら、
「吉野家の牛丼」が解禁になる。
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
を書いていたら、
タモリの旧作3枚がCD化されて再発売。
これ、みんな偶然なのです。
そして今日、
もうひとつ発見してしまいました。
かつて、
別のホーム・ページに、
この「山田投手と私 シリーズ」
を書いていた頃。
(カテゴリー別アーカイブ欄にある、
『〜2005 エッセイ 1、2、3』というのは、
その当時書いていた物のリニューアルです。)
2006年1月のある日の新聞を見て、
私はこんな記述をしておりました。
2006年01月18日 No.127
「山田投手と私 その4」
本当になんというタイミングなのでしょうか。
私がこのページで、
山田投手のことを書いてるのを知ってのことか、
(もちろん知らない)
先週のことです。
『山田久志投手 野球殿堂入り』
というニュースが、
朝日新聞にでかでかと出ていました。
オリックス時代一番慕っていたという、
イチローからも、
祝福のメッセージが寄せられていました。
山田さん、本当におめでとうございます!
ま、当然ですけどね。
(原文のまま)
ね、我ながらビックリ…。
というわけで、
きょうも、
そんなお話です。
さて、
この時代(1970年代)の、
私の‘阪急狂い’は異常なほどで、
関東に遠征してくると、
「後楽園球場」はもとより、
(当時はまだ東京ドームはなかった。)
「神宮球場」「川崎球場」
(ロッテがジプシー時代だったので、
こうした球場でも、
パ・リーグの試合があったのです。)
まで、せっせと足を運んだり、
休みを利用して、
阪急の本拠地「西宮球場」まで、
試合を見に行く熱の入れようでした。
そして、
試合が終わると、
私は大急ぎで、
選手たちが乗る、
バスのところに行くのです。
バスに乗り込む選手たちを、
真近に見ながら、
「加藤!」「福本!」「足立!」「蓑田!」
などと、声をかけてねぎらう。
もちろん選手たちは無視しながら、
黙々とバスに乗り込んで行く。
そして最後に、
上田監督が乗り込んでバスは発車。
そのバスに向かって手を振りながら、
「明日もがんばれよー。」
と激励のエール。
何人かの選手は、
こっちを向いて手を振ってくれるのですが、
これがまた、たまらない。
完全にミーハーだ…。
ところが、
山田投手と仲良くなってからは、
いささか様子が違ってきます。
その日は、
エース山田の完投で見事な勝利。
私は、いつものように、
数十人の阪急ファンと一緒に、
バスの前で待機。
(はい、ここは東京ですからね。
たいした人数ではありません。)
そして、
ほとんどの選手が乗り込んだあと、
最後に、
バスタオルを首にかけた山田さんが、
さっそうとバスに乗ろうとする。
ファンはもう拍手、大喝采。
完投勝ちの大エースをたたえる。
「山田!」「いいぞ!」「さすがエース!」「日本一!」
その間隙をぬって私は、
「山(やま)さーん!」
と声をかける。
すると山田さん、
気づいてくれたようで、
こっちを振り向き、
「おおっ!」
とニッコリ。
すかさず私は、
「一杯飲みませんかー。」
という、仕草をする。
すると山田さん、
「おお、後で行く行く。先に行ってて。」
という仕草。
……。
どうですか、これ。
なんという優越感でしょうか。
私は大声で、
「庶民の諸君、今の光景を見たかねー!」
と叫びたい気分。
「今、私が飲みに誘ったのはだ〜れ?」
だ〜れでしたか〜?」
と言いたい気分。
そして意気揚々と、
意地の悪い笑みを浮かべながら、
六本木に繰り出していく気分の良さったら…。
芸能人を連れ歩くのとは全く違う感覚。
ほんと、
幸せな日々でした。
しかし、
依然として、
『阪急ブレーブス』は人気がない。
勝てども勝てども、
人気がない。
こんなこともありました。
その日は、
山田さん、キャッチャーの河村さん、
トレーナーの山下さん、私、家内、
の5人で飲んでおりました。
すると突然山田さんが、
「おい宮住君、ディスコでも行こうか。」
と、言い出した。
(当時は、六本木に相次いで登場した、
‘ファンション・ディスコ’なるものが、
若者の間で大流行りでした。
今で言うところの、クラブ?)
そこで私は、
当時、坂本龍一なんかとよく行っていた、
『G』というディスコに、
みなさんをお連れした。
ところが、
そこの入り口で、
一人の黒人男性が店の従業員と、
もめている。
それを見た山さん、突然、
「なんだ、テリーじゃないか!
どうしたんだ…?」
このテリーというのは…、
本名「テリー・ホイットフィールド」といい、
米大リーグ『ロサンゼルス・ドジャース』から、
西武ライオンズに助っ人として来ていた、
俊足好打の、
バリバリの大リーガー。
このお店は、
「ナンパ防止」のためでしょうか、
男性一人あるいは、
男性どうしでは入れません。
それに憤慨した我らが山田さん。
「そんなバカな規則があるか。
支配人を呼べ、支配人を。
俺は阪急の山田だ。」
従業員も負けてはいません。
「と申されても、
規則は規則ですから。」
山田さん、ますます憤慨して、
「お前じゃ話にならん。
支配人を呼べ。
俺は阪急の山田だ、そう言え。」
しばらくして、
従業員から連絡を受けた、
支配人らしき人物がやってきました。
そして彼は、こう言ったのです。
「はい、阪急電鉄の方が、
どういったご用向きでしょうか?」
「……。」
私は、
唖然としている山田さんの肩を叩きながら、
耳もとで、
こう囁きました。
「山さん、
やっぱ阪急って、
東京じゃ人気ないね。
気分悪いから、他の店に行きましょうよ…。」
(つづく)
その後、
別のディスコに行った私たちでしたが、
もちろんテリーも一緒についてきました。
そして勘定は全部、
山田さん持ち。
他球団の選手にまでご馳走しちゃう、
山さんの気っぷの良さ。
カッコよかったですよー。
この時私は、
おもに通訳でしたが、
この翌年、
ドジャースに復帰したテリーから、
年賀状をもらいました。
そこには、
この時の‘感謝’と‘お礼’が、
いっぱい書かれてありました。
もちろんこれも、
私の宝物のひとつです。
野球に興味の無い方や、
女性たちからみれば、
理解し難いお話の連続でしょうかね。
「78’藤井寺決戦」か…。
なつかしいなあ…。
燃えたなあ…。
……。
さ、ジャズやりに行こうっと。
SHUN MIYAZUMI
June 22, 2008
山田投手と私 その3
6/17、18日。
2日間にわたる
「代々木ナル」怒濤のライブも、
つつがなく終了。
いやあ、燃え尽きました。
ここんとこずっと、
レコーディング・スタジオという、
密閉された空間に
閉じこもっていた反動でしょうか。
久しぶりに、
一ピアニストに戻って、
大いに開放感を味わうことができました。
みなさん、
ありがとうございました。
やはり、
たまには弾かないといけませんね。
というわけで、
8/27(水)に、
私と岸徹至(ベース)は、
再び「代ナル」で競演することになりました。
彼のベースは、
ほんと素晴らしいです。
ヴォーカルは若手の須田晶子。
彼女とは1年ぶりかな。
これも楽しいライブになりそうです。
ぜひ、いらして下さい。
さあ、これで、
さあ、これで、
本当に一段落。
いつもの生活が戻ってきました。
エッセイの更新でもしましょう。
これから、こっちも、
更新頻度をあげていかなくては、
いけません。
なにせ、
書きたいことが、
たまってるもんで…。
2006年01月10日 No.126
「山田投手と私 その3」
『フィールド・オブ・ドリームズ』
という映画をご存知でしょうか?
アイオワの農園を手に入れて、
家族3人で平和に暮らす、
主人公(ケビン・コスナー)は、
ある日、
「それを作れば、彼はやって来る…。」
という謎めいた声を聴いてしまう。
そして彼は、
何かに取り憑かれたかのように、
その声に魅入られ、
なんと、
生活の糧(かて)である、
大切なとうもろこし畑をつぶして、
野球場を作ってしまうのです。
やがてそこには、
伝説のプレイヤー、
‘シューレス・ジョー・ジャクソン’
をはじめとする、
1919年に八百長疑惑で追放された、
「シカゴ・ホワイトソックス」
の8人のゴーストが現れ、
野球の試合が始まる。
……。
夢と現実が交錯しながら物語は進み、
感動のラスト・シーンをむかえるという、
野球をテーマにしたファンタジー。
そして…、
「それを作れば、彼はやって来る。」
の、‘彼’とは…?
私などは、1988年の公開時、
不覚にも、
映画館でボロボロ泣いてしまいましたが、
ま、そのくらい、
プロ野球選手というのは、
男子にとって憧れの存在。
ですから、
1978〜79年当時。
私が熱狂的に応援していた、
『阪急ブレーブス』のエース、
山田投手との出会いが、
私にとって、
どれほど大きな出来事だったか、
どれほど私が狂喜したか、
お分かりいただけると思います。
さて、その後も、
阪急が東京に遠征して来るたびに、
時には球場にでかけ、
試合後は何度も、
六本木『N』のママに電話。
「ねえ、山田さん来てる?」
「山田さん、電話あった?」
時には家や、友人の家で待機しながら、
『N』のママからの電話待ち。
そして、
「山田さん、来てるわよー。」
の電話があると、
「それ、行け〜。」
とばかり、
すかさず飛んでいく私。
携帯電話のない時代ですからね。
今だったら、
どんなに便利だったことでしょう…。
ある日のこと。
日本ハムとの試合(後楽園球場)
に先発したはずの山田投手が、
『N』に来ていたので、
電話を代わってもらう。
M「山さん、今日は日本ハム戦ですよね。
勝ったんですか〜?」
Y「負けた、負けた。ガハハハ。
永淵のサヨナラ・ホームランよ。
完投したんだけどなー。アハハハ。
惜しいけど、この次だ、この次。
さ、飲もう、飲もう。 早くおいで。」
豪快に飲んで、
嫌な‘負け’なんぞ、
カラリと忘れてしまう。
なんという、切り換えの早さ。
(さすがだ…。)
さらにこの人、
シーズン中は、
煙草もパカパカ吸うし、
お酒もガンガン飲む。
なんでも、
「ストレスを溜めないため」
だとか。
逆に、シーズン・オフは、
禁酒、禁煙で、
しっかり体を作るんだそうです。
なんという、意志の強さ。
(すごい…。)
やはり、凡百の選手とは違いますね。
さすがの選手です。
大いに勉強になりました。
そんなことに感心しながらも、
私は相変わらず、
子供のように質問攻め。
M「ところで、川上監督時代、
日本シリーズで、
5回も巨人に挑戦して勝てなかったのに、
長嶋監督になってからは2連勝でしょ。
なんで…?」
Y「そりゃ、そうよ。
だって阪急の選手って、
みんな長嶋さんのファンなのよ。
ていうか、
プロ野球選手全員といっていいかな。
彼の守備練習での華麗なグラブさばきや
スローイングを見て、
「カッコいいなあ〜。」って、
ため息ついてんだから。
彼がヒット打った時、
拍手したやつもいたんだぜ。
これじゃあ勝てるわけないじゃん。
だけど、
長嶋監督の巨人には、
‘選手の’長嶋さんはいないわけ。
だから平常心で戦える。
とまあ、こういうわけだな。」
なるほど、そういうことだったのか。
やはり長嶋って凄いんだなあ、
などと感心しながら次の質問。
M「ピッチャーがピンチの時、
一塁と三塁の選手がマウンドに行くでしょ。
あれって、
どんな会話をしてるんですかー?」
Y「面白い話があってね。
高志(山口。豪速球投手として知られた。)
がピンチのとき、
一塁から加藤秀、
三塁からは島谷さんが行くのね。
で、島谷さんは
‘高志、球走ってるぞー。落ち着いて。’
と励ましてくれる。
ところが加藤さんは、
‘高志、きのう、エッチなことしただろ。
腰がふらついてるぞ。ハハハ。’
‘山さん、うちの一塁と三塁は、
なんでああも、
正反対のことを言いに来るんでしょうね。’
とまあ、そんな程度のことよ。
アハハハ。」
いやあ楽しい、楽しい。
そうそう、
こんなこともありました。
これがまた、
ケッサクなお話…。
(つづく)
なんだか、
ひとりで楽しんでるようで、
ごめんなさい。
ま、これが、
個人ブログのいいところでして…。
と言い訳したところで、
今日は2ヶ月ぶりに、
映画でも観て、
休日を楽しみたいと思います。
(映画も久しく観てないのです。)
まずは、リフレッシュして、
普通の生活に戻る。
そう、大切ですね。
‘普通の生活’
SHUN MIYAZUMI
June 14, 2008
山田投手と私 その2
いやあ、終りましたよ。
出来ましたよ。
『ジャミン・ゼブ』
セカンド・アルバムのレコーディングは、
すべて終了です。
パチパチ。
それしても我ながら、
よく頑張ったなあ…。
6月5日から、
「MIX DOWN」(ミックス・ダウン)
という、
いわゆる編集作業
を開始したのですが、
毎日、昼の1時に始めて、
5、6日は夜中の3時半まで。
7日〜10日までは、
毎日終了が朝の6時頃。
それでも時間が足りなくて、
予備日に取ってあった12日は、
朝の10時から始めて、
なんと終ったのが、
翌13日の朝の10時。
つまり、
24時間一睡もしないで、
作業していたことになります。
やれやれ。
そしてそのまま、
ビクター・スタジオの中にある、
マスタリング・ルームに持ち込んで、
「マスタリング」という作業。
これで、いわゆる、
「マスター原盤」というものが、
出来上がりました。
あとは、
工場でプレスをするだけ。
はい、これで完成です。
みなさん、
本当に、
お疲れさまでした。
コピーを待つ間、
ビクターJ氏、スタッフのショーちゃんと、
近所の蕎麦屋で乾杯。
(久しぶりの酒だ…。)
そして、
学芸大の某ジャズ・バーで、
さらにショーちゃんと乾杯。
さすがに、
この頃には、
もうフラフラなので、
早々に切り上げて、
12時に帰宅。
そのまま、
気絶…。
なんと私は、
40時間近くも、
起きていたことになりますね。
ふ〜…。
そして今日は、
久しぶりにたっぷりと寝て、
さわやかな初夏の風のもと、
近所の駒沢公園で、
完成した音を、
ヘッド・フォンで楽しむ…。
でもね、
がんばった甲斐がありました。
大満足です。
とても美しいアルバムが出来ました。
ジャミン・ファンの方、
お楽しみにしていて下さい。
そうではない方も、
ぜひ聴いてみて下さい。
日本にも、
世界の舞台で活躍できそうな、
こんなグループがあるんだよと、
知ってもらいたいので…。
発売日は、
8月20日予定です。
というわけで、
2週間ぶりですね。
いつもの生活に戻って、
エッセイの更新でもしようと思います。
2005年12月30日 No.125
「山田投手と私 その2」
あれは、
1978年か79年頃の、
ある秋の日のこと。
当時入り浸っていた、
六本木のジャズ・バー「N」のママの、
一本の電話で、
目がさめた私。
「シュンちゃーん、
山田投手が来てるわよ。
来ないかーって言ってるけど、
どうする?」
この頃のプロ野球界は、
9年にも渡って君臨してきた、
巨人の黄金時代が終って、
『阪急ブレーブス』という、
人気のないパ・リーグの、
その中でも人気のない、
関西のあるチームが、
全盛時代を迎えていました。
1975〜1978年には、
パ・リーグ4連覇、日本シリーズ3連覇、
という偉業を達成。
そして私は、
この『阪急ブレーブス』の、
大ファンでした。
その阪急の大エース投手、
山田久志さんが、
来ている…。
六本木の、
私の馴染みのバーに…。
時計をみると、
夜中の1時。
折しも外は、
近づいてる台風の影響で、
激しい雨、風。
しかし、
私は躊躇することなく、
タクシーを拾って六本木へ。
ドキドキしながら、
そおっと店に入ると、
「やあ、いらっしゃい。
はじめまして。」
と、にこやかな笑顔で、
あの山田投手が、
あの…山田久志選手…が、
立って迎えてくれました。
台風の影響でしょうか、
お客は他には、
誰もいません。
前にも書きましたが、
私は、
音楽芸能界に生息しているため、
芸能人を見ても、
特に何に感慨も起きません。
しかし、
野球選手だけは別です。
とたんに野球少年に逆戻り。
「あ、あの、こんばんは。
わ、私、
は、阪急ファンなんです。
よ、よろしくお願いします。」
と、紅潮した顔で、
握手をしてもらう。
しかも相手は、
天下にとどろく大投手。
今思い出しても、
夢のような瞬間でした。
さらに私は、
持参した、
『勇者たち』
という本にサインをしてもらいました。
これは、
『阪急ブレーブス』が、
1977年の日本シリーズで、
宿敵巨人を4勝1敗で破り、
「3年連続日本一」
になったのを記念して作られた本。
表紙には、
山田さんを中心に、
阪急の名選手たちの写真。
そして本を開くと、
その1977年の優勝の瞬間の、
歓喜の胴上げシーンが、
見開きカラーで掲載されています。
私が、
宝物のように大切にしていた本です。
このことは逆に、
山田さんを感動させたようです。
「いやあ、これを持ってる人を
東京で見たのは、
初めてだなあ。」
当時パ・リーグは、
本当に人気がなく、
ましてや東京に、
こんな熱心な阪急ファンがいることに、
彼は大いに驚き、
喜んでくれたのでした。
それから明け方近くまで、
私たちは大いに語り、大いに飲み、
私にとっては、
この上もなく、
至福の時間を過ごしたのでした。
私が次から次に繰り出す、
子供のような質問にも、
嫌な顔ひとつせず、
ニコニコと笑顔で、
答えてくれます。
特に私が聞きたかったのは、
1971年の日本シリーズ。
巨人のV7がかかったこの年。
しかし、
王、長嶋に、
年齢的な衰えが見られはじめたこの年は、
山田、福本、加藤秀といった、
若手の台頭で、
めきめき力をつけた
阪急が勝つのではないか、
というのが、
大方の予想でした。
一勝一敗で迎えた第3戦。
場所は「後楽園球場」
9回表を終って、
1-0で阪急がリード。
そう、
ここまで阪急の若きエース山田久志は、
まったく危なげない投球で、
王者巨人を翻弄していました。
そして9回裏。
巨人の攻撃も、
あっさり2アウト。
あと一人押さえれば、
阪急はこのシリーズ、
絶対有利の状況になります。
迎えるバッターは、
長嶋茂雄。
「打ちました。
内野ゴロだ。
ショート阪本追いつくか…。
おっとセンター前に抜けた。
さすが長嶋。
粘りのセンター前ヒットだ。
巨人、かろうじて王に繋ぎました。」
これは、
うまいショートだったら、
取れていた。
そして、
あっさり阪急が勝っていた…。
この時の守備を悔やんだ西本監督は、
翌年「東映フライヤーズ」から、
(「日本ハムファイターズ」の前身)
守備の名手、
大橋を獲得します。
これは、
後の阪急黄金期に、
大いなる戦力となる、
素晴らしいトレードでした。
話を戻しましょうね。
さあ、迎えるバッターは王貞治。
しかし、ここまで山田は、
王をも完璧に押さえています。
「ま、今日の山田の出来なら、
まず大丈夫だろう。」
と思ったその瞬間、
「カキーン!」
という快音を残して、
打球は無情にも、
巨人ファンで埋め尽くされた、
ライト・スタンドに一直線。
今や伝説となった、
王の‘サヨナラ逆転ホームラン’です。
大騒ぎの巨人ベンチ。
ほとんどが巨人ファンの観客席も、
狂喜乱舞。
一方、
うなだれて自軍ベンチに戻る、
阪急の若きエース、
山田久志…。
私が聞きたかったのは、
あのときの山田さんの心境。
「いやあ、あのときは若かったのね。
長嶋さんに、いい球(タマ)打たれて、
カーッとしちゃってね。
王さんにも、
ええい、打てるもんなら打ってみろ、
てな感じで、
ど真ん中に放ってしまったのね。
歩かすくらいの気持ちで良かったのにね。
アハハハ。」
山田さんは続けます。
「でね、
よくTVで、
‘プロ野球名場面特集’
なんて番組やってるでしょ。
すると、
必ず‘あのシーン’が出てくるのね。
俺は、王さんも、
結構押さえてるのよ。
しかし出てくるのは、
‘あのシーン’ばっかり。
やんなっちゃうよなー、まったく。
アハハハ。」
そう、
この「アハハハ」がいいんだなあ、
山さん。
そして、
この頃には、
いつもの馴れ馴れしさが復活して、
いつしか、
「山(ヤマ)さん」
と、呼んでいる私。
……。
その後も私の、
子供のような、
質問攻めは続く。
私「山さん、
加藤秀司さんて、
どんな人?」
山さん「そうねえ、カトちゃんは○△×○…かな。」
私「ねえ山さん、
福本さんは?」
山さん「福ちゃんはねえ、○△×○○△…。
私「ところで山さん、
江川は? 山口高志は? 長嶋さんは?
○△は? ×○は…?」
山さん「うん、江川はね、○△×○…。
高志はね○△×○…、
長嶋さんはね○△×○○△×○……。」
TV画面で見る山田投手は、
常に沈着冷静。
クールで、クレバーな、
とっつきにくい、
芸術家タイプの、
‘孤高のエース’
といったイメージでしたが、
これが大違い。
気さくで、
スターぶらない、
お酒とおしゃべりが大好きで、
いつも明るい笑顔の、
素敵な野球選手でした。
着ているものもセンスがよく、
(当時のプロ野球選手の私服姿といえば、
みな野暮ったく、
センスが悪く、
中には、
「そっち方面の方ですかー?」
と思わせるような人も、
たくさんいましたね。)
高級ブランデーを飲みながら話すその姿は、
実にカッコいい…。
こうして、
この至福の時間は、
朝の4時頃まで続いたのでした。
「いやあ、楽しかった。
宮住くん、ありがとう。
また遠征で東京に来たときは、
ぜひ飲みましょう。」
(や、山田さんが、
「宮住くん」と言ってくれた…。)
その言葉どおり、
この後も私は、
この稀代の‘大エース投手’と、
一緒に飲み、
一緒に遊ぶ機会に、
数多く恵まれることになるのです。
そして私の‘阪急びいき’は、
ますますエスカレート、
していくのでした。
野球少年ぶりも…。
(つづく)
そういえば、
カレンダーを見たら、
来週の17、18日は、
「代々木ナル」
と書いてありました。
ジャミン・ゼブ相手に、
久しぶりのピアニストです。
今年に入ってから、
ほとんどピアノを弾いていないので、
ちと心配…。
正直に言いますと、
今回のレコーディングでも、
ピアノの部分だけは、
悪戦苦闘でした。
やっぱり、
たまには弾いてないと、
ダメですね。
そんなわけで、
夏以降、
少しだけ、
ピアノ・ライブを、
復活させようかな、
とも思ってますので、
その折はまた、
よろしくお願いします。
というわけで、
明日は、
ピアノの練習でもしようかな。
と、今、
思ってるだけですが…。
SHUN MIYAZUMI
June 01, 2008
山田投手と私
やれやれ。
先週も激動の一週間でした。
でも、
こうして生きてるところをみると、
なんとか無事に、
乗り切ったようですね。
なにしろ、
月曜から金曜まで、
毎日、終電近くまでレコーディング。
おまけに金曜日は、
そのまま、
月末恒例ミッドナイト・セッション。
「学芸大 A'TRAIN」にて、
朝の3時半までスポーツ・ピアノ。
少しだけ寝て、
千葉県白井市文化センターでの、
「ジャミン・ゼブ/チャリティー・コンサート」
に行く。
ふ〜…。
でも、このコンサートは、
素敵でした。
体に障害を持つ子供たち、
そのご家族、関係者のみなさん、
集まって下さった多くのお客さんのために、
いろんな企画を考えたのですが、
まずは喜んでいただけたようで、
ほっとしました。
最後に、
子供たちがステージに上がり、
ジャミンに花束を渡すシーンでは、
思わず胸が熱くなりましたね。
日頃のみなさんのご努力に、
改めて敬意を表したいと思います。
というわけで、
今日は久しぶりのお休み。
(いいお天気でしたねえ。)
今や週一になってしまっている、
エッセイの更新です。
今日は、
前回の「将棋と私」
のときにも触れましたが、
かつて私が、
こよなく愛していた、
とあるプロ野球チームのお話です。
そこには私の尊敬する、
素晴らしいエース投手が、
おりました。
過去に一度書いたものなのですが、
懐かしく思い出しながら、
リニューアルしてみようと思います。
2005年11月05日 No.123
「山田投手と私」
阪急ブレーブス。
かつて私が、
熱狂的な応援をしていた、
プロ野球チームです。
その後、
オリックスに身売りしたため、
その存在は、年々、
歴史の彼方に遠ざかる一方ですが、
1970年代の半ば頃には、
圧倒的な強さを誇っていました。
ああ、思い出すだけでも、
胸がときめく…。
でも、
関西人でもない私が何故…?
事のいきさつはこうです。
私も、小さい頃は、
みんなと同じように、
‘普通に’巨人ファン。
王のホームランに酔いしれ、
長嶋の華麗なプレイに拍手喝采。
毎晩のようにTVの前で声援を送る、
普通の‘野球大好き少年’でした。
一方、
その頃のパ・リーグといえば、
今と違って、
客は入らない…。
TVでも、
もちろんやらない…。
私たちが、
パ・リーグの選手を見ることができるのは、
『オールスター戦』か『日本シリーズ』
に限られる。
しかも、ほとんどが、
巨人の敵(かたき)役としての存在。
ま、当時のプロ野球は、
巨人だけが圧倒的な人気で、
マスコミも、
巨人だけを取りあげていればいい時代。
残りの11球団は、
その引き立て役というか、
お供え物というか、
ま、そんな感じでしたかね。
その中でも、
『阪急ブレーブス』というチームは、
『近鉄バファローズ』と並んで、
‘灰色の球団’
と言われるほど、
特に人気のないチーム。
スター選手もいないし、
毎年最下位争いをするくらい弱いし…。
私も、
中学生くらいまでは、
まるで眼中にありませんでした。
それが、
昭和40年代に入り、
名将、西本幸雄監督
を迎えると、
あっと言う間に、
不思議なくらい、
強いチームに変身です。
ところが運悪く、
折しも時代は、
巨人の黄金時代。
いわゆる巨人が、
「V9」を達成した時代ですから、
強くなった阪急が、
いくらパ・リーグを制し、
日本シリーズで巨人に挑んでも、
そのつど、
はね返される。
可哀想なくらい、
勝てない。
一方その頃、
高校、大学と進んでいった私は、
休みになると、
よく、関西に行っておりました。
このエッセイにも、
たびたび登場しましたが、
中学時代の2年間を、
四日市というところで共に過ごした、
親友のO氏。
(「学園紛争」「忠臣蔵と私」etc.)
そんな彼の両親が、
故郷の神戸に戻っていたため、
私は、
夏休みや冬休みになると、
たまたま実家に帰省していた、
O氏を訪ねるべく関西旅行。
毎日ふたりで、
梅田や難波や三宮に出かけ、
華やかな大阪、神戸の繁華街を探索する。
これは、
私の青春時代の、
楽しみのひとつでもありました。
そんなふたりが、
利用する電車といえば、
必ず阪急電車。
デパートも阪急。
阪急3番街。
阪急、阪急、阪急…。
そう、
とにかく大阪は、
‘阪急の街’なんですね。
野球は、
『阪神タイガース』が断然人気だけど、
市民生活は、
阪急なしでは語れない。
しかもO氏の両親の住むマンションが、
「西宮北口」という駅から1分足らず。
『阪急ブレーブス』の本拠地、
『西宮球場』
の、すぐそばにある。
楽しい夏休みを関西で過ごした私が、
秋の「日本シリーズ」で、
毎年、毎年、
巨人に痛めつけられる阪急を見て、
いつしか熱心な
‘阪急ブレーブス・ファン’
になったのも、
至極当然のことではありますまいか。
しかし、
結局、
西本阪急は、
「日本シリーズ」では、
5回挑戦して1度も勝てず、
巨人の「V9」に華を添える、
脇役でしかありませんでした。
ところが、
長嶋が引退し、
巨人の「V9」が終り、
上田利治監督を迎えた昭和50年(1975年)から、
この『阪急ブレーブス』は、
パ・リーグ4連覇。
そして、
「日本シリーズ」3連覇。
という偉業を成し遂げるのです。
(あれから、
30年以上も経つのか。
つい、この間のことのように思える…。)
そうです。
ファンにとっては、
待ちに待った、
たまらない時代が、
やってきたのです。
相変わらず人気は無かったけど、
実に通好みの名選手が、
ズラリと顔を揃えていました。
「盗塁王」福本豊外野手
「好打」加藤秀司内野手
「いぶし銀」足立光宏投手
「剛速球」山口高志投手
「代打ホームラン王」高井保弘選手
そしてエースは、
通算284勝のサブマリン(下手投げ)、
山田久志投手。
私のなかでの、
超スーパー・スター。
その山田投手と、
運命的な出会いの日が、
訪れようとは、
思ってもいませんでした。
……。
1978年か79年頃の、
ある日のことです。
六本木の「N」
というジャズ・バーに立ち寄った私は、
ちょうど勘定を払って出ていった、
長身でスタイルがよく、
ガッチリとした体型の、
ひとりのお客と、
すれ違いました。
その時です…。
私の体のなかを、
強烈な電流が走りました。
(まさか…。)
その「N」というバーも、
このブログには、
何度も登場しましたね。
(「エロール・ガーナーの思い出」
「ジャズまくり時代」etc.)
私が敬愛する、
名ピアニスト菅野邦彦さんの
かつてのホームグラウンドで、
あのエロール・ガーナーが、
生涯で1日だけ訪れた日本で、
朝までピアノを弾いたという、
(しかも私は偶然それを観た。)
伝説の、
あのお店です。
私はママに、
興奮気味に、
こう尋ねました。
「ママ、さっきの人、
もしかして、
阪急の山田投手じゃない…?」
するとママ、
「あら、そうなの?
私、野球のことはよく知らないけど、
そう言えば、
確かに野球選手みたいなこと、
言ってたわね。
最近よく来るわよ。」
ますます興奮した私は、
「あ、あの、もし今度来たらさ、
絶対連絡して欲しいんだけど…。」
「いいわよ。」
その数日後の、
夜中の1時頃。
私は一本の電話で目がさめました。
「シュンちゃーん。
山田投手が来てるわよ。
来ないかーって言ってるけど、
どうする?」
「……。」
(つづく)
5月29日で、
私は57才になりました。
そして、
数多くのみなさんから、
お祝いのメッセージやプレゼントを
いただきました。
この場をお借りして、
厚くお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
私は幸せものです…。
(ぐしゅん…。)
さあ、
いよいよ明日から10日までは、
ノン・ストップで、
「ジャミン・ゼブ/セカンド・アルバム」
の仕上げです。
がんばりますよー。
精神の若さだけは、
誰にも負けません、
と、勝手に思っておりますからね(笑)。
期待していて下さい。
というわけで、
今週もいい一週間でありますように。
おやすみなさーい。
zzz…。
SHUN MIYAZUMI