October 2008

October 31, 2008

中本マリさん・前編


12月1日(月)に、
興味深い、
ジョイント・コンサートがあります。

『中本マリ&jammin'Zeb
  クリスマス・コンサート』
(@中野ZERO小ホール)


このお話を、
イベンターの方からいただいた時、

私の中には、
ある特別な感情が、
なんとも言えない感情が、

沸き起こっていました。


中本マリさん。

35年以上もの長きに渡って、
日本のジャズ・ヴォーカル界をリード。

その魅力を、一般にまで浸透させ、
今日(こんにち)の、
ジャズ・ヴォーカル・ブームを作ってきた、
牽引者です。


そして私は、

彼女が無名の頃から、
彼女を、よく知っています。

彼女もまた、
私が学生の頃から、
私を、よーく知っています。


私は、彼女を姉のように慕い、
彼女も私を、
実の弟のように可愛がってくれる、

そんな関係だったのですが、
そんな私たちに間にも、

35年以上という月日が流れました。


今では、
「中本マリ」という名前や存在すら知らない、
若いジャズ・ヴォーカリストも、
たくさんいることでしょう。

そんな彼女と、

今私が、渾身の力をこめて、
プロデュースしている、
ジャミン・ゼブが競演する…。

私にとっては、

なんとも感慨深い企画です。


これは、ぜひ実現したい…。

私は、二つ返事でお受けしたのですが、

ならばこの機会に、

私と彼女の、
素晴らしい思い出を語るのも、
一興ではないかと、
思うに至りました。


彼女を知らない人たちにも、

ぜひ、その魅力を、


知ってもらいたいし…。



『中本マリさん』


かつて、
『ジャズまくり時代』
というエッセイを、

長々と書いたことがあります。


ジャズ・ピアノに憧れ、
「K大ライト・ミュージック・ソサエティ」
という名門ジャズ・オーケストラに、
入部したものの、

あまりのレベルの高さと、
下級生ゆえの雑用の多さに、
まったく練習することができない不満から、
ついには、
1年生の夏に退部。


今度は、
夜の六本木や銀座で、
プロのピアニストの人たちの演奏を聞き、
教えを請い、

ついには自分も、
ジャズ・クラブや酒場で演奏三昧。

そんな、
いけな〜い大学生活を送っていた頃のお話を、
延々と綴ったものでした。

(まだの方、興味のお有りの方は、
 どうぞお読み下さい。)


きょうは、再びその頃のお話です。


あれは、私が、
大学3年生の時でしたか。

少しはジャズが解りかけ、
演奏もマシになってきたかなと思える、
そんなある日、

私が勝手に弟子入りしてしまった、
ピアニストの大沢保郎さんが、
赤坂にある高級クラブ、
『VIPA ROOM』
というところに、
連れて行ってくれました。


そのクラブのハウス・バンドは、
大沢さんとも親交の深い、
横内章次さんという、
有名なギタリストのカルテット。

その演奏も、
若き日の私には、
大いに刺激的なものでしたが、

インストが何曲か終わって、
ひとりの若い女性シンガーが登場。

そして、その彼女が歌いだした、
その瞬間、
私の体に電流が走りました。

まさに、
「鳥肌が立つような感動」
とは、このことです。

「いったい、この人は、何者だ…?」


それが、

中本マリさんでした。


今は、
ジャズ・ヴォーカルが全盛ですね。

プロ、アマ問わず、
ジャズ・ヴォーカルを唄う人は、
女性を中心に、
本当に多い。

どんなジャズ・クラブでも、
ジャズ・ヴォーカルを入れないと、
営業が成り立たないくらい。

アマチュアも入れると、
日本には、一体どのくらいの、
ジャズ・ヴォーカリストがいるのか…?

おそらく、その数、
世界一ではないか…?

私は、そう思います。


しかし、当時は、

そうではありませんでした。

というか、
インストの方が主流で、
しかも名のある巨匠たちが、
でーんと居座って、
なかなかヴォーカルの入る余地がない。

菅野邦彦さん、菅野光亮さん、大野雄二さん、
山本剛さん、杉野喜知郎さん、大沢保郎さん,
などなど。


こうした、
名ピアニストたちは、
それこそ厳しくて、
彼らに伴奏をしてもらうには、

相当の実力がないと、
かなわぬ時代。

ヘボな唄を唄うと、
こっぱみじんにやっつけられる。

いじわるされる。

ののしられる。

ま、プロの洗礼ですな。


そんな時代ですから、
ヴォーカリストは本当に少なかったですね。

しかも、
見よう見まねで歌ってるもんだから、
英語も、ピッチも、
怪しげな人が多かった。

そんな時代です。

昔日の感がありますね。


そんな時代に、

中本マリさんという、
若きヴォーカリストは、
25、6才にして、

堂々たる唄いっぷりでしたね。


アニタ・オデイを思わせる、
ハスキーな声。

ぐいぐいバンドを引っ張る、
強烈なグルーヴ。

そして何よりも、
彼女の唄には、
感動がありました。

彼女が、ロング・ノートで張り上げると、
思わず切なくなってしまう、

そんな感動がありました。

器用に、小手先だけで唄う、
その辺りのジャズ・シンガーとは、
まったく一線を画する、

そんな風格を、
デビューの頃から持っていましたね、

彼女は。


私は、すっかり、
彼女のファンになってしまいました。

そして、
大沢先生にお願いして、
このナイト・クラブに、
自由に出入りすることを、
許可してもらったのです。

ピアノの修行のかたわら、
私は時間を見つけては、
この、赤坂『VIPA ROOM』に、
足繁く通い、

彼女のヴォーカルに、
酔いしれていたのです。


そうこうするうちに、
私も大学4年生になろうとしていました。

学業そっちのけで、
ジャズ・クラブや酒場で、
ピアノ弾きをやってる、
いけな〜い学生生活は、
ますますエスカレートしていきました。


そんなある日、

可愛がっていただいてた、
これも素晴らしいギタリストの、
ウエス飯田という人から、
あるお誘いを受けたのです。

「シュン、今度六本木に、
 新しいナイト・クラブが出来るんだが、
 どうだ、一緒にやらんか。
 月曜から金曜まで毎晩。
 夜中の1時から5時までと、
 ちょっときついが、
 勉強になるぞー。」

(このお話は、
 『ジャズまくり時代』にも書きましたね。)


「毎晩、朝までか…。」

私は、一瞬ためらいましたが、
一緒に演奏するメンバーを聞いて、
信じられない気持ちで、
即答したのです。

「やります!」


なぜならば、

そのメンバーの中には、

あの、


中本マリさんが、


いたからです…。



(つづく)



先週、

このコンサートの打ち合わせのため、
10年ぶりくらいに、
彼女に会いました。

そして、ジャミンを紹介。

和気あいあいの雰囲気のなか、
数曲、共演することになりました。

しかも一曲は、
私が書き下ろすことに。

というか、
悪のりした私が、
自分から言い出した…。

「せっかくだから、新曲もやろうよー。
 俺、書くからさあ。」


きのう、おとといと、
そのアレンジをやっていたら、

再び、腰痛が、
ぶりかえしてしまいました。

トホホ…。


おまけに今宵は、
「学芸大ミッドナイト・セッション」

朝まで、スポーツ・ピアノ。

そして明日は、朝も早よから、
「銀座ジャズ」で、
ジャミンのリハーサル。


いいのかな…。

この、出たとこ勝負人生…。

計画性のない人生…。


ま、昔からずっと、

こんな感じですけど。


ね、マリさん。



SHUN MIYAZUMI

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2008 エッセイ 

October 25, 2008

プロとは…


先日、

ついに買っちゃいました。

ウフフ。


なにを…?


i-pod。

……。



メカ音痴の私ですが、

スタッフのショーちゃんに教わりながら、

なんとか使いこなせるようになりましたよ。


楽しいですね、これ。

CDが、
1,000枚くらい、
入るんだそうです。

時間を見つけては、
せっせと、
ライブラリーを作っております。

ジャズ、クラシック、ポップス…。


雑食性の私には、

ピッタリの品です。


早く、『GIFT』を加えたいな。

ジャケット付きで。


ね…。


……。




2004年08月18日 No.84
「プロとは…」


私は「プロ(プロフェッショナル)」
という言葉が大好きです。

ただし、
私の中での「プロ」とは、
「その道のエキスパート」
のことを言います。


例えばプロ野球の世界。

厳しい見方かもしれませんが、
2軍に甘んじてる選手は、
私から見れば、
「プロ」とは言えません。

単に、職業が、「野球」であるだけ。

高い入場料を払って、
球場に足を運んだ観客を魅了するプレイを見せ、
そして‘ここぞ’というときに、
結果を残せる選手。

これが「プロ」です。


そして、その定義は、
なにも、
スポーツや芸術の世界だけにとどまりません。

企業の営業マンや経理のエキスパート。
難事件を解決する刑事、民芸品を作る人。

とにかく、
「これをやらせたら一流。」
と評価される人達。

これが「プロ」だと思うのです。


『ゴルゴ13』の中にも、

(また、ゴルゴかよ…。)

「これはプロがプロに対しての依頼である。」
という謎めいた依頼者の、
言葉の意味を理解して、
見事、悪徳刑務所長たちをやっつける、
というお話がありますが、
(『60日間空白への再会』)

それほどまでに「プロ」という響きは、
私にとってのこだわりであり、

憧れなのです。

……。



さて、話は、うんと飛躍しますが、


かつて、六本木に、

『大八(だいはち)ラーメン』
という、

最高のラーメン屋がありました。


六本木交差点から、
乃木坂の方へ向かって歩き、
二本目の路地を左に曲がってすぐ。

6、7年前に、
突如営業をやめてしまいましたが、
その残骸、
掘っ立て小屋のような、
キタナイ建物は、
なぜか、まだ、そのままです。


私が学生の頃からあったのですが、
ここの「ラーメン」と「餃子」は、

絶品でしたね。


さっぱり醤油味、こしのある細麺。

餃子もニラが豊富で、
とにかく、美味(うま)い。

本当に、うま〜い。

毎日、深夜までやってるのですが、
いつも行列ができるほどの人気でした。


ある日のこと。

順番を待って、
ようやくカウンターに座ることができた私は、
ルンルン気分で、
「ラーメン」と「餃子」を注文。


ところで…、

ここのラーメンは、
いささか薄味です。

というか、趣味がいい。
繊細な醤油味。


したがって、
餃子の、濃いめの醤油味とからめると、
抜群の効果を発揮します。

しかし、
餃子の焼き上がるのが遅く、
ラーメンだけが、すぐに出てくる。

いつもそうです。


したがって、私たちお客は、

ラーメンを半分残して餃子を待つか、

ゆっくりゆっくり、
ラーメンを食べながら待つか、

それなりに、
工夫をしなくてはなりません。


そして、繁盛してる店らしく、
壁には高飛車に、ご丁寧に、
「餃子、時間がかかります。」
と書いてある。


しかし、ある日、

若かりし頃の私は、

ついに、たまらず、
勇気をふりしぼって、
こう、聞いてみました。


「あのう…、餃子…、
 もうすこし早く、できませんかね…?」

すると店主、ぶっきらぼうに、
「餃子時間がかかる、って書いてあるでしょ。」

「……。」


しかし私は、食い下がる。
「でもね、
 ラーメンと餃子を一緒に食べるのが、
 最高だと思うんですけど…。」

店主、ますます不機嫌になって、
「だって時間がかかるものは、かかるんだよ。
 しょうがないだろ?」

「……。」


こう出られると、
私も、引き下がるわけにはいかない。

「じゃ、なんですか(怒)、
 先に餃子だけ頼んで、時間をはかって、
 それからラーメンを注文しろ、
 こういうことですか…?」

店主、ますます、ぶっきらぼうに、
「ま、一緒に食べたければ、
 そうすればいいんじゃない。」

「……。」



「くそ〜、なんだあの態度。
 残念だけど、
 もう二度と行くもんか。」
 
私は、この店との訣別を、
決意しました。



それから半年後…。


久しぶりに、
「大八ラーメン」の行列を見た私は、
あの素晴らしい、
「ラーメン」と「餃子」を思い出し、

「ええい、かまうものか。」
とばかりに、意を決して、

暖簾(のれん)をくぐったのです。


もちろん、
私の亊など覚えてもいないはずの店主、

「いらっしゃい、何にします…?」

あいかわらず、
ぶっきらぼうで、
ど態度、この上ない。

こっちも知らんぷりで、
時間差など考えず、
ぶっきらぼうに、

「ラーメンと餃子。」



それから10分が経過。


すると…、


なんと…、


ラーメンと餃子が…、


一緒に出てきたのです!


そして、店主は、
私にニコっと微笑みかけ、

「今日はタイミング、バッチリでしょ?」

と言ったのです。


……。



私はしみじみ思いましたね。


「プロだ…。」



冒頭でも言いましたが、

残念ながら、

この店はもうありません。


でも、この店の残骸を見ると、
いつもこの話を思い出します。

黄色い看板に大きく書かれた、
「大八」の名前を見ると…。



たかが食い物の話、

と思うなかれ。


このお話は、

私の人生のなかでも、

最も痛快な出来事の一つ、


なのですから…。



(おしまい)



最近、東京でも、

「博多ラーメン」が大流行りですね。

とんこつ味の細麺。

ゴマ、紅ショウガ、替え玉あり。


でも、私は、

やっぱり、

サッパリ醤油味の、

関東風ラーメンが好きです。

古い人間ですから。


具は、

のり、支那チク、ナルト、チャーシュー。



そんな、

関東風ラーメンの美味い店が、

めっきり減りましたね。


寂しいです。


ああ、

恋しいぞ。


大八…。



SHUN MIYAZUMI



woodymiyazumi at 21:20コメント(10)トラックバック(0) 
〜2005 エッセイ 3  

October 19, 2008

小さな恋のメロディ


10月17日。

おかげさまで、
ジャミン・ゼブは、

デビュー1周年を迎えました。


その記念すべき日は、

大阪『リーガロイヤルホテル大阪』
でのライブでした。

財界、政界のお歴々、
数多くのご婦人方をお迎えしての、
チャリティ・コンサート。


暖かい声援と拍手に支えられて、

素晴らしいコンサートになりました。

そして終了後は、いつものように、
CDへのサイン、握手、
そして記念撮影ラッシュ。


ジャミンの連中も、
とても嬉しそうでしたね。

そして、とても、
思い出深い記念日になったようです。


みなさん、ありがとうございました。

またぜひ、お会いしましょう。



というわけで、今日も、

旧作のなかから、

こんなお話。


いんちきなレコードを作ったおかげで、
こんな目に合うことになった、
トンチンカンな頃の、

アルファのお話です。



2005年06月26日 No.113
『小さな恋のメロディ』


これも、

1975年か76年。

私が、社会人になった頃、
アルファに入社した頃の、
お話です。


当時のアルファは、
2枚看板の『ガロ』と『赤い鳥』が、
ピークを過ぎ、

期待をこめてデビューさせた、
ユーミン(荒井由実)が、
なかなか売れてこない。

そんな、苦しい時期でしたね。


そこで、
飢えをしのぐために、

『クロード・デュラン楽団』
などという、
怪しげなオーケストラをでっちあげたり、

『コマネチのテーマ』
などという、
当のご本人とは、
なんの関係もない曲を出したり、

ま、あの手この手と、
悪戦苦闘しておったわけです。

(「クロード・デュラン楽団」)



そんなある日、

またしても、あの、
渋谷森久さんがやってきた。


渋谷森久さん…。


このブログにも、
何度となく登場しましたね。

(「渋谷森久さんという人のお話」
 「タモリ戦後日本歌謡史」
 「演歌と私」etc.)

当時、東芝を代表する名プロデューサー。

というか、
日本を代表する、

‘名物’プロデューサー。


例によって、
意気揚々とアルファにやってきた渋谷さん。

我々に、
一本のデモ・テープを聴かせました。

そして、得意満面の笑顔で、
口角泡を飛ばしながら、
こう言ったのです。

「おい、これって誰が唄ってると思う…?
 あのマーク・レスターよ。
 けっこう、いけてるだろ。
 どうだ、アルファで制作して、
 東芝で出さんか?」


マーク・レスターと言えば、

その数年前に、
『小さな恋のメロディ』
という映画が大ヒット。

日本中を感動の渦に巻き込んだ、
イギリスの少年俳優。



そう、

『小さな恋のメロディ』

……。


いい映画でしたね。

あどけない少年と少女の、
甘酸っぱい初恋物語。

少年役がマーク・レスター。
少女役がトレイシー・ハイド。

どちらも可愛くて初々しかった。


バックに流れる、
ビージーズのヒット曲の数々も、
本当に素敵で、
映画にピッタリでした。

『メロディー・フェア♪』『ラブ・サムバディ♪』
『若葉のころ♪』『イン・ザ・モーニング♪』etc.


また、二人がトロッコに乗って,
去ってゆくラスト・シーンでは、

クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの、
『ティーチ・ユア・チルドレン♪』
が、流れていましたね。

これがまた、感動的でした。


映画のヒットから、
数年が経ってるとはいえ、

まだまだ日本では、
少女を中心に人気のある、
マーク・レスター君。

そんな彼のレコードを作らないか、
というお話だったんですねえ。

しかも、
唄もそこそこいけてるし。


「うん、これは…。」

社長の村井さんはじめ、
ほとんどのスタッフは、
すぐさまこの話に、飛びつきました。

ただし、私だけは、
「ディスコ演歌」の失敗から、
そう時間も経っていないゆえ、

ひたすら沈黙…。

(「演歌と私」)



そんなわけで、

さっそく、
向こう(イギリス)のエージェントと、
契約を交わし、
アルバム相当分の曲とオケを作って、
ロンドンで唄のレコーディング、

ということになりました。


アルファのスタッフはみな多忙ゆえ、
東芝のY君というディレクターが、
ロンドンに行くことに。

ちなみに彼は私の後輩で、
学生時代は、
「カルア」という音楽サークルで、
ヴォーカルをやっておりました。


その数日後、

Y君から緊急国際電話が、

かかってきました。


なんでも、

このマーク・レスター君。


すご〜い音痴で、

とても歌なんか唄えない、

というのです。


ガ〜ン…。



さては、いっぱい食わされたかと、
わが首脳陣はあせりまくり。

むこうのエージェントに、
抗議の電話をしたそうなのですが、
敵もさるもの。

「間違いなく、あのテープは、
 本人が唄っている。
 ちゃんとディレクションすれば、
 ああなる。」

と、一歩もゆずらないんだそうです。


すぐさまレコーディングは中止。

Y君には、
即刻、帰国指令が出されました。

そして、
Y君が持ち帰ったテープを、
みんなで聴いてみたのですが、

やはり…。


それは、それは、

ひどい代物(しろもの)でした。

Y君の言ったとおりです。


いつの時代も、所変われど、
芸能界というところは、

魑魅魍魎(ちみもうりょう)ですね。



さあ大変!

大金をかけて作ったマルチ・テープが、
ごっそり残っています。

声紋を調べて訴訟だ、
という声もあったそうですが、
これまたお金がかかる話。


そして困ったのが、
紹介者の渋谷さん。

「ええい、こうなりゃ、
 そこそこ唄えるY君に唄わせ、
 声のピッチをちょい上げて、
 それらしい少年の声にして、
 作っちまおう、発売しちまおう。」

などという、
乱暴なアイディアを出してきましたが、

いくらなんでも、
それはないですよね。

却下。


それにしても、

あ〜あ。

インチキなレコードを作って、
儲けたりした、
バチが当たったのだ。


因果応報とはこのこと。

やはり音楽は正々堂々といきましょう。


ということで、

若き日のアルファ軍団にとって、
苦い思い出の出来事になったことは、
確かなのですが、

いったい真実は、

どうだったんでしょうね。


ま、マーク・レスター君には、
なんの落ち度もないことだけは、
確かなようですが…。



ところで、後日、

とある映画関係者と飲んだとき、

この話が持ちあがりました。


その会社は、
なんとあの『小さな恋のメロディ』を、
日本で封切りした会社。

あの時期、
この映画のキャンペーンのために、
マーク・レスター君を呼んで、
日本のあちこちを回ったそうです。


で、夜は毎晩宴会。

その宴会の余興で、
スタッフはみなマイクを持って唄うのですが、
当のマーク君だけは、
絶対に唄いたがらなかったそうです。

ところがキャンペーンも終盤にきて、
みんなの、あまりに執拗なリクエストに、
根負けしたマーク君。

しかたなく一度だけ、
マイクを持って唄ったそうなのですが、

その唄が始まるや、

「……。」


その場にいた人たちはみな、

絶句してしまったそうです。


その映画関係者の人は、
哀れみをもって、
私に、こう言いました。

「もう少し早くお会いしていれば、
 絶対にやめなさい、
 て、反対できたのにねえ。」

「……。」



ま、これも、
30年以上も前のお話。

今はどんなおじさんになってるんでしょうね、
マーク・レスター君。


でも、どちらかというと私は、

少女役のトレイシー・ハイドのその後が、

気になります。


どなたか知ってる人がいたら、

教えてくれませんか。


……。



(おわり)



大阪のつづき。


仕事を終えると、
私とショーちゃんとジャミンの4人は、
外に出て、

庶民的な、
‘いかにも大阪’といった感じの、
「串カツ1本100円」
という看板の居酒屋に入り、

今日のライブの成功と、
デビュー一周年を祝って、
乾杯をしたのです。


それを見ていた、
人の良さそうなおカミさんが、

「ぜひ、色紙にサインを。」

と言ってきたので、
メンバーは喜んでサイン。


そのサイン色紙は、
『DREAM』のフライヤーとともに、
今、そのお店に、
飾られております。

阪神タイガース一色の、

その居酒屋に…。


おばちゃん、ありがとう。


また、行くでえ。



SHUN MIYAZUMI



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〜2005 エッセイ 3  

October 13, 2008

クロード・デュラン楽団


いやあ、出来ました。

なんとか間に合いました。

ジャミン・ゼブのクリスマス・ミニ・アルバム。


まったく、薄氷を踏む思いでしたが、
でも、愛にあふれた、
とても美しい作品になったと思います。


11/19(水)発売。

アルバム・タイトルは『GIFT(ギフト』

どうぞ、お楽しみにお待ちください。


というわけで、
今日も旧作のリ・ニューアル。


ちょっと、いけない、

ヒット曲作りのお話です。



2005年06月05日 No.112
「クロード・デュラン楽団」


『クロード・デュラン楽団(オーケストラ)』

こんな名前のオーケストラ、ご存知ですか?


え…?

知らない…?


知らなくて当然です。

そんなもん、無いんですから。

……。



何度も言うようですが、

大学を卒業すると私は、
アルファ&アソシエイツという原盤会社、
(後のアルファ・レコード)
に、制作ディレクターとして入社しました。

1974年のことです。


これは、

そのアルファの創設期に、
まだ私が入社する前に、

実際にあったお話。



さて、当時は、

ポピュラー音楽のオーケストラが奏でる、
イージー・リスニング的な、
ムード・ミュージックが、
大流行していました。


ヒットの口火を切ったのは、
ポール・モーリア楽団の『恋は水色』。

たしか私が、
中学3年生の時のことでした。

アメリカのヒット・チャートの1位に、
突然、この甘い旋律が、
飛び込んできたのを、
今でもハッキり覚えています。


ビートルズやシュープリムスやモンキーズ、
といった、チャートの常連を押しのけて、
なんと6週間くらい、1位だったでしょうか。

でも、初めてラジオで聴いたとき、
正直「なんでこの曲が1位…?」
と、私は思いましたね。

今でも、アメリカでの、この大ヒットは、
私の中では謎ですが、

当然のように、その後、
日本でも大ブレイクしました。


そして、後を追うように、
こんな感じの物が、
続々とヒット・チャートに登場します。


レイモン・ルフェーブル楽団『サバの女王』
パーシー・フェイス楽団『夏の日の思い出』
ベルト・ケンプフェルト楽団、
ビリー・ヴォーン楽団、マントヴァーニ楽団 etc.


甘く切ないメロディー・ライン。

美しいストリングスの調べ。

とにかく女性を中心に、
日本でも大ブーム。
(なんとなく、今の韓流メロドラマ・ブームに、
 近いものがありますかね。)


それを見て、

そんなことなら我がアルファも、
「この手の物をなにかやろう。」
ということになったそうです。

そこで出た結論が、
「こんなもん、それらしく作っちまおうぜ。」

……。


まず作曲家に頼んで、
それらしき曲をパパッと作ってもらう。

それを、
いかにもそれっぽくアレンジをする。

そして、
スタジオ・ミュージシャンの
リズム隊、弦や木管奏者を集め、
とりあえず2曲ほど、

お手軽に、
作ってしまった。


さて、お次は、
楽団名を考えなければならない。

ああでもない、
こうでもない、

と、さんざん議論したあげく、
決まったのが、

『クロード・デュラン楽団(オーケストラ)』


いかにもそれっぽい名前ですよね。

いかにもありそうな名前だ…。


さらには、曲名も、

『落葉のコンチェルト』とか、
『枯葉のノクターン』といった、

いかにもそれっぽいタイトルを付けて、
本当に、コロムビアから、
発売してしまった。


ところが、

これが、

売れた。

20万枚も…。


当時のアルファ・スタッフの高笑いが
聞こえてきそうですね。


じゃあ、ついでに、
アルバムまで作ってしまおう、
と、エスカレートしたそうなのですが、

そこに、

「キョードー東京」がやって来た。


「キョードー東京」といえば、
外国人アーティスト招聘業務の最大手。

なんでも、
この『クロード・デュラン楽団』を日本に呼んで、
コンサート・ツアーをやりたいと言ってきた。


あせったでしょうね。

アハハハ。

だって世界中、
どこを探したって、
そんな楽団なんて、

ありゃしないんですから。


結局その場はなんとかごまかして、後日、
「あの楽団、解散しちゃったらしいよ。」
と、逃げ切ったそうですが、

今思えば、
アルバムなんか、
作らなくて良かったですね。

あぶないぞ、アルファ。



しかし、
こんなことでは懲(こ)りない、
クリエイティブ(?)なアルファ軍団。

1976年には『コマネチのテーマ』
なんてのも、作ってしまいました。

これには、
いささか私も関与しています…。


モントリオール・オリンピックで、
世界中を魅了した、
ルーマニアの体操の妖精「コマネチ」。

覚えてらっしゃる方も、
多いと思いますが、

この、「コマネチ」、
という名前をいただいただけの、
なんの変哲もない、
イージー・リスニング・ミュージック。

体操のコマネチとは、
なんの関係もありません。


したがって、
本人の写真なんか、
一切使っていません。

ジャケットは、
美しいヨーロッパの森の風景写真。
その湖のほとりにたたずむ、
長い髪の一人の少女。

そう言われてみると、
本人のようにも見えますが、

でも、断じて、
コマネチなどではありません。

一種の、イメージ戦略でしょうか。

ある種の錯覚です。


これがまた、かなり売れました。
(もう昔の話なので、
 記憶があいまいですが…。)

ま、「コマネチ」なんて名前は、
東欧にいけば、
いくらでもありそうですものね。

逃げ道は、いくらでもある。



それにしても、

ヒット曲を作るのが大変なのはわかりますが、
まったく褒められた作戦ではありませんね、
これは。

きたないぞ、アルファ。


ま、これも、

ガロや赤い鳥がピークを過ぎ、
ユーミンがブレイクする前の、

苦しい時代のアルファの、
産物だったのでしょうか。


もしかして、これって、

詐欺…?


でも、30年以上も前の話ですからね。

もう時効でしょう。


もし、これを読んでるみなさんの中に、
不幸にして、
これらの商品を買われた方がいらしたら、

当時のスタッフを代表して、

お詫びを申し上げます。



ま、こんなことをやってしまったために、

今度はアルファが、

とんでもない目にあうのですが…。


次回は、そんなお話でも。


因果応報…。



(おわり)



さて、今日(10/13)は、

ジャミン・ゼブお台場ライブ。


ちょっと普段とは違った環境ですが、

レインボー・ブリッジをバックに、
なかなか景観の良いライブを、
お楽しみいただけるかと思います。

お近くの方、
お散歩がてら、いかがですか。


私も、きのうから、

お散歩再開です。
  

これ以上のメタボ化は、


なんとか防がないと…。



SHUN MIYAZUMI



woodymiyazumi at 02:46コメント(15)トラックバック(0) 
〜2005 エッセイ 3  

October 06, 2008

カツオくんと私


いやあ、ご無沙汰してすみません。

なんとも忙しくて…。


何をやってるかと言いますと…、

ジャミン・ゼブの…、

レコーディング、

……。


「えっ、
 この間『DREAM』が出たばかりじゃないか…?」


そう、
そうなんですけどね。

急遽、
『クリスマス・ミニ・アルバム』
を作ることになって、

忙しいライブの合間をぬって、
せっせとやっておったわけです。


しかし、私は、
内緒で、極秘裏にやっていました。

なぜか…?


間に合わないかもしれなかったから。



ジャミン・ファンのみなさんなら、
ご存知でしょうが、
この1ヶ月は、
すさまじいスケジュールでした。

激移動、激ライブ・ウィーク。


私も、
名古屋に飛び、大阪に行き、
やれ南大沢だ、丸の内だ、ミッド・タウンだ、
京都だ、また名古屋だ、大阪だ、
ほれ、赤坂ブリッツだ…。


彼らのコンディションも心配だし、

なにより、
この私の体力が持つのか…。

そんな激スケジュールの合間の、
レコーディングですから、
正直、不安でしたね。

(はたして、間に合うのか…?)


しかし、みなさん、
情報キャッチが鋭い。

昨日「ZEBLOG」を見たら、
“11/19「GIFT(ギフト)」発売キャ〜ッチ!”
というコメントが出ておりました。

すでに、大型CDショップでは、
案内が始まってるようですね。


はい、もう逃げられません。

やるしかありません。

そして、
レコーディングは、
あと2日を残すのみ、

10/9(木)には、
マスタリングです。

一日の猶予もありません。

しかも、作業は、
まだいっぱい残っています。

……。


今朝も、帰宅したのは、
朝の6時半でした。

きっと、明日も、あさっても、
朝日を見ることになるでしょう。

『DREAM』同様、
徹夜のまま、
ビクターのマスタリング・ルームに、
マスターを持って駆け込む、

そんなシーンの再現になりそうです。

ふう〜…。



でも、制作者冥利につきますね。

きっと、たくさんの方が、
楽しみに待っていて下さるのでしょうから、
やりがいがあります。


ええ、やりますよー。

期待してて下さい。


がんばれ、みやずみ!

がんばれ、メタボ・ライダー!


というわけで、きょうは、
旧作のリ・ニューアルで、
いきたいと思います。


ちょっと、

スタジオに絡んだお話でもあるし…。




2005年08月16日 No.117
「カツオくんと私」


東急新玉川線、
「桜新町」の商店街を抜けて、
国道246を渡ったところに、
『STUDIO JIVE(スタジオ・ジャイブ)』という
レコーディング・スタジオがあります。

(今もあるのかな…?)

かつては、
カシオペアのホーム・グラウンドでした。


したがって、
私もずいぶんここで、
彼らと一緒に、
レコーディングをしました。

いやいや、
カシオペアのみならず、

宮沢りえ、TOKIO(トキオ)、西村由紀江、
松原みき、伊東ゆかりさん、
などなど、

ここで作ったレコード(CD)は、
数限りなくあります。

言わば、かつては、
私にとっても、

ホーム・グラウンドのスタジオ。


でも、なんで、
こんな都心から離れた住宅街に、
こんな立派なレコーディング・スタジオが、
あったのでしょう。


1980年代の半ば頃でした。

ちょうど、
カシオペアが絶頂を極めているときに、

キーボードの向谷実君が、
実は、ここに住んでいたんですね。


そして音楽好き大家さん、
野村さんというおじさんと
すっかり意気投合したそうです。

で、向谷君の住んでる、
そこのマンションの、
駐車場の奥の敷地にスタジオを作って、

いろいろ新しい音楽を創造しようと、
いうことになったらしい。


したがって、当然スタッフとして、
私も担ぎ出されました。

この『JIVE(ジャイブ)』という名前も、
私が付けました。

(なんのことはない。
 たまたま、その直前に発売された
 カシオペアのアルバム・タイトルが,
『JIVE JIVE』だった。
 単に、それだけのことです。)


さて、
この野村社長。

そこいら一帯の敷地をごっそり持っている
昔からの大地主。

大金持ち。


その風貌は、

小太りで丸顔。

50才そこそこにして頭髪はほとんどなく、
わずかにてっぺんに2、3本逆立ってるだけ。
丸いメガネをかけ、
お酒が大好きだから、
昼間でもいつも赤ら顔。


そう、そう言われてみると、

誰かに似てませんか…?


そうなんです!

漫画『サザエさん』のお父さん、

磯野波平(いその・なみへい)さんに、

ソックリなのです!!


お会いして何度目かに、
その、向谷君の住んでる、
彼がオーナーをやってるマンションの、
1階にあるバーで、
一緒に飲んだとき、

酔ったついでに、
私は失礼ながら、
こう訊いてみました。


「野村社長って、
 波平さんに似てませんか…?」


すると野村さん。

酔った赤ら顔の上に、
さらに顔を真っ赤にして、
恥ずかしそうに、
こう告白したのです。

「じ、じ、じつは、わ、わたし、
 カ、カツオちゃんのモデルなんですよ。
 サザエさんってのは、
 私の姉なんです。」

「……。」



そういえば…、

この「桜新町」という街。

近くに、作者の、
長谷川町子さんが住んでいました。
(今は「長谷川町子博物館」
 なるものがありますね。)

駅からの商店街も、
「サザエさん通り」と言います。


そして何でも、
「長谷川家」と「野村家」というのは、
昔から、
大の仲良しだったらしいのです。

近くには、
「こんちは〜、三河屋で〜す。」
の、あの、
「三河屋」という酒屋まで、
ちゃんとあるのです。


びっくりしましたが、

納得です。

カツオちゃんが大人になれば、
波平さんに似るのは、
当たり前ですからね。


スタジオで一緒に仕事をするミュージシャンや、
レコード会社のスタッフたちに、
この話をすると、
当然ながら、みな会いたがりました。

そんなとき、
野村さんがなにげにスタジオに現れます。

みな一様に、
その風貌をみてビックリするやら、
クスッと笑うやら。

いや本当に、

そっくりなんですから…。



そんな野村さん。

性格は、きわめて温厚な方。

そして、お酒が大好き。

飲むのは、決まって、
さっきも話した、
ご自分が経営するマンションのバー。


でも、すこぶる弱い。

すぐに酔っぱらってデレデレになってしまう。

あ〜っというまにベロベロ。


そして、
店のバーテンやら私に担がれて、
駐車場を横切ってご自宅の奥様のところに
フラフラになってご帰還。

その距離たったの20メートル。

「社長、ほらしっかりして。
 もうすぐお家ですよ。」

「ウイ〜イ、○△×●、デレデレ、ベロベロ〜。」


これが、毎晩です。

毎晩…。


でも、飲みだしてわずか30分くらいで
こうなるので、
楽といえば楽ですね。

誰も嫌じゃない。

別に迷惑でもない。

自分で勝手に、
あっというまに、
出来上がってくれるのですから、
こんな楽な人はいません。

ハシゴなんか絶対しないし(というかできない)、
なんとも、微笑ましい。


ちなみに、
ご自宅の横には、
すごい蔵があるのですが、

「あの中には何があるのだろう。」
というのがもっぱらの噂でしたね。


ごく平凡な一家庭の磯野家と、
大地主の野村家。

ここに多少の違和感はあるものの、

おっちょこちょいで、
でも、それでいて人なつっこく、
すぐに酔っぱらって、だらしなくなりながらも、
みんなに愛されるキャラクター。


これは、まさに、

「サザエさん世界」そのものでありました。


ところで、この野村さん。

実は東大を卒業。
そのあとコロンビア大学に留学したというのですから、

これまたビックリ。


宿題もしないで、
やんちゃで怒られてばかりいる、
あのカツオくん。

実はあのあと、
東大に入ったのでした。

これまたビックリですね。

がんばったんですね、カツオくん。



そんな野村さんも、

10年以上前に、
突然の病で、
お亡くなりになりました。

残念です。


また、あの、
デタラメな酒席に、
つきあってみたかった…。

あっというまに終る酒席に…。


毎年、秋になると、

寂寥感とともに、

ときどき、そんなことを思い出します。


カツオくん…。



(おわり)



さ、久しぶりに、

『御代鶴』のトンカツも食ったし、

がんばりますよー。


あと2日です。


あ…、

と…、


ふ・つ・か…、


……。



SHUN MIYAZUMI



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〜2005 エッセイ 3