August 2009

August 25, 2009

夏の6週間 その3


いやあ、すごかったですねえ。

甲子園の決勝戦。

忘れられない一戦になりました。


あの、9回の、日本文理(新潟)の攻撃は、
なんでしょう!

あの神がかり的な粘りは…。


「人間あきらめちゃダメだ。」

「あきらめなければ、
 あんな素晴らしい感動を与えられるんだ。」

ということを、
あらためて教えられる思いでしたね。


これだから、

高校野球はやめられない…。


というわけで、

今年も全国の球児たちに、

熱い拍手を送りたいと思います。


パチパチパチ。

また来年も、

待ってるよー。




『夏の6週間 その3』


1983年の春。

アルファを退社して、
まだ将来のプランなど、
なにも考えてない私は、

とりあえず、こんな感じで、
伊東ゆかりさんのアルバムの制作に、
携(たずさ)わる事になりました。


その最初のアルバムは、
『Fado』
というタイトルでしたね。

「ふぁど(Fado)」
(阿久悠:作詞 三木たかし:作曲)
というシングル楽曲を中心に据え、

当時の、
ニューミュージック・シーンで活躍する、
作家やミュージシャンを大胆に起用して、
私なりに、
渾身の力をこめて作ったアルバムでしたが、

残念ながら、
往年のようなヒットには至りませんでした。


しかし…、

当のゆかりさんからは、
「とっても気に入ったわー。」
と、お誉めにあずかったのです。

これは、嬉しかった…。


ま、スタート時こそ、
お互いの手のうちがわからないゆえ、

かなり緊迫した、
張りつめた空気の中での、
レコーディングでしたがね。

でも、それも、しだいに、
和気あいあい。

♡♡♡


そして、結局は、

1999年頃までの長きにわたって、
7、8枚のアルバムを、
プロデュースすることになるのですから、

人生というのは、
わからないもんですねえ。


のみならず、

CMや、
テレビ番組のテーマや、
果てはFMのジングルに至るまで、

こと「録音」が絡(から)む仕事は、
いつも私が呼ばれてディレクションをする、
といった関係にまで、
発展するのですから、

いやいや、
人の出会いというものは、
世の中というものは、

本当に不思議…。

(他人事?)



そんな、ゆかりさんから、私は、

仕事を始めるにあたって、
2つの注文を受けました。


ひとつは、

詞は、最低でも録音の3日前に渡すこと。


当時は、
ニューミュージックとやらの、
隆盛時でした。

で、このニューミュージック・シーンの、
アーティストや作家たちは、
とても自由奔放に、
言い換えれば、
とても“わがままに”仕事をする。

録音の直前まで、
詞が出来てこない、
なんてのは日常茶飯事。


でも、ゆかりさんは、
いわゆる歌謡芸能界で育った、
昔気質(かたぎ)の人ですからね。

これが、たまらなく許せないらしい。

実際、そういうことだけで、
唄う興味を失ったプロジェクトも、
多々あったらしいのです。


ま、そりゃそうだ。

これは彼女のほうが正しいです。


だから私は、

忠実にこれを守りました。



もうひとつは、

録音時は、
一切「禁煙」にして欲しい、

ということ。


当時は、
今のような「禁煙」「禁煙」
という時代ではありません。

(ああ、いい時代だった…。)


レコーディング・スタジオもご多分にもれず、

ブースにも、スタジオ内にも、ロビーにも、
どこにでも灰皿が置いてあって、

プロデューサーも、
エンジニアも、アシスタントも、
アレンジャーも、作家も、ミュージシャンも、
レコード会社の人も、事務所のマネージャーも、

もうもう、みんな、
スパスパ、モクモク、
プハ〜ッ、ブホ〜ッ。


で、ゆかりさんは、

これも大嫌い。

煙どころか臭いも大嫌い。


(これ、今では当たり前のことですが、
 当時ここまで主張する人は、
 少なかったですよ。)


でもね、

私は、

これも忠実に守りました。


録音当日は、
朝からスタジオでの喫煙を禁止。
灰皿もすべて撤去。

クリーンな環境で、
彼女の到着を待つ。

スモーカーの私には、
大変キツ〜い注文でしたが…。



ま、そんなこともあって、

その後も頻繁(ひんぱん)に、

お呼びがかかるようになったのでしょうか。


こうして、

伊東ゆかりさんの仕事は、

カシオペアと並んで、
当時の私には、
「レギュラー」とも言うべきものに、
なっていったのです。

実に光栄なことです。



さらには、

伊東ゆかりさんを心から愛する、
O社長の情熱とバックアップも、

フリーになりたての私には、
とてもありがたいものでした。



そう、あのO社長。

忘れてはいけませんね。


あの、一見豪快にしてジェントルマンの、

しかし、実はとっても“無責任な”O社長を。



そういえば、


あんなこともあったなあ…。



(つづく)




ああ、またしても、

もったいぶった終わり方に、
なってしまいましたね。

ご容赦のほどを…。


なんだか最近、
自分で予定しているよりも、
どんどん長くなってしまうのです。

書いてるうちに、
いろんなことを思い出してしまうから、

ですかね。

……。



さ、夏もそろそろ終わり。

「ジャミン・ゼブ 秋の陣」にむけて、

ガンガンいきましょうね。


高校野球終了後に、

さっそく一曲書きましたよ。


で、次はアレで、

その次はアレやって、

そして、アレと、アレは、

どうするかな…。


……。


zzz……。



SHUN MIYAZUMI

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2009 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

August 18, 2009

夏の6週間 その2


さて、

そんなわけで、

アルファを退社して間もなく、
伊東ゆかりさんのプロデュースを、
やることになった私。


そんな私に、
O音楽事務所のO社長は、
何編かの詞を見せてくれました。

そして、こう言った。


O「これさあ、
  シングル候補になるように、
  頼んで作ってもらった詞なんだけどさあ、
  宮住くん、どう思うかなあ?」


それは…、

当時の歌謡芸能界にあって、
大ヒットを連発していた、
名声を欲しいままにしていた、

2人の偉大な「巨匠」の書き下ろし。

阿久悠さんと、なかにし礼さん、
の詞でした。


私「どう思うかって、
  こんな大先生たちの詞に、
  なんだかんだ言うことなんて、
  出来ませんよ。
  私のようなヒヨコが。」


すると、この社長、

O「いや、そう言わずに。
  君の率直な意見を聞かせてよ。
  これは、ヒットする詞かどうか、
  誰に曲を発注すればいいのか、
  ま、何でもいいんだなあ。
  いろいろ意見を聞きたいなあ。
  どう、宮住くん? ね、ね?」

と引き下がらない。


私は、仕方なく、
そのお二人の詞を、
じっくりと読ませていただきました。

……。



いやあ、さすがだと思いました。

私のようなヒヨコが見ても、
決して手抜きではない、
力強い作品だとわかる、
素晴らしいものでした。


私がそれを伝えると、
O社長、すごくご満悦。

O「そうか、そうか。
  やっぱりね。
  2人とも、ゆかりには乗ってるからね。
  ガハハハ。」

( ……。)



とは言いつつも、私的には、

どの詞も数カ所だけ、

抵抗のあるフレーズがある…。


しかし、当時の、こんな巨匠たちに、
「書き直して下さい。」
などとは、
とうてい言えません。

ええ、言えませんとも。


ましてや私は、
アルファというアメリカ・ナイズされた会社で、
ニュー・ミュージックとか、
フュージョンといった、
新しい音楽ばかりを、制作してきた男。

いわゆる、歌謡曲の世界では、
門外漢に等しい。
  

ま、お二人とも、
一回や二回は、
それとなくお仕事をさせていただいたことは、
ありましたが、

とても、何かを注文するという雰囲気では、
ありませんでしたね。

それほど、
威厳とプライドをお持ちでしたから。

そのうえ私は、
まだ20代の青二才だったし…。


でも私は、
お言葉に甘えてこう言いました。

私「そうおっしゃるのなら…。
  思うに、このフレーズと、
  このフレーズは、どうでしょうか…。
  私には、ちょっと抵抗があります。
  書き直してもらいたいところですが、
  でも、無理でしょうねえ。
  とても私からは言えませんし…。」


すると、O社長、ますます意気揚々と、

「そんなの、遠慮することはないよ。
 直してもらって良くなるんだったら、
 直してもらおうよ。
 なんなら俺から言ってやろうか。」


「そうですか。それだったら…。
 じゃ、社長にお願いしましょうかねえ。」
と私。


「わかった!」
とばかりに、この社長。

隣室にいる秘書の女性に大声で、
「お〜い、◯◯、
 阿久先生に電話してくれるー。」


しばらくすると、
阿久悠さんから電話が…。

O社長、元気よく受話器を取る。


O「やあ、阿久先生、
  素晴らしい詞をありがとうございました。
  でね、今回、宮住くんに、
  プロデュースをしてもらうんですがね、
  そうそう、あのアルファにいた宮住くんね。
  で、彼が、ちょっと直してもらいたい所が、
  あるらしいんですよ。
  今、私の隣にいますのでね、
  ちょっと代わりますから。」

(;;…。)


そして、ニコニコしながら、

「はい、阿久先生。」
と、私に受話器を渡した。

(なにが「はい、阿久先生」だ。
 話が違うじゃないの。
 もう、無責任だなあ…。)



でも、仕方ないですね。

私は、恐る恐る、

「あ、あの、み、宮住です。
 ご、ごぶさたしております。
 い、いや、いやいや、“気に入らない”なんて、
 め、滅相もない。
 あの、あそこの、あの部分だけ、
 ち、ちょっと、こんな感じで、 
 あわわわわわわわわ……。」

とまあ、
しどろもどろになりながらも、
がんばるしかない。


そして…、

先生の気分を害することなく、
なんとか話を終えると、 

汗びっしょりになった受話器を、
O社長に返しました。


すると、このO社長、
なにごともなかったように、
ぬけしゃーしゃーと、

O「直してくれるって?
  そうだろう、そうだろう。
  だから、俺が言えば、
  大丈夫って言ったんだよ。
  ガハハハ。」

(あのう、お言葉ですが、
 言ったのは私なんですけど。)


でも、なんとか事無きを得ました。



で、私が、
やれやれとばかりに、
額の汗をふいていると、

この社長、

間髪を入れずに、
こんどは、
なかにし礼さんを呼び出した。


しばらくすると、
なかにしさん電話に登場。


O「やあ、礼ちゃん、
  素晴らしい詞をありがとう。
  でね、今回、宮住くんにやってもらうのね。
  そうそう、あのアルファにいた宮住くん。
  で、彼が、ちょっと直してもらいたい所が、
  あるらしいんだ。
  今、隣にいるから、ちょっと代わるね。」

そして、
「はい、礼ちゃん。」
と、受話器を私に。


(ちょっと、あーた、
 またですかー。
 自分で言うんじゃなかったの〜。
 まいったなあ。
 ホント、無責任だなあ…。)


私は、このときも、仕方なく、

「あ、あの、ご、ご無沙汰しています。
 い、いや、“気に入らない”なんて、
 と、とんでもない。
 あの、あそこの、あの部分だけ、
 ち、ちょっと、
 あわわわわわわわわ……。」


そして…、

なんとか話を終えると、 

汗びっしょりになった受話器を、
再び、O社長に返す。


O社長、今回も悪びれもせず、

O「どう、直してくれるって?
  あ、そう。そりゃよかった。
  だから、俺が言えば、
  大丈夫なのよ。
  ガハハハハ。」

(言ってないから…)



でもね、

私はこのとき、

「この仕事は絶対うまく行く。」

と、確信を持ったのです。


なぜならば、

この、O社長の、

“無責任ぶり”はどうでしょう。


私が、幼い頃から敬愛してきた、
“心の師匠”と仰いで来た、
あの『日本一の無責任男』

植木等さんもビックリの、

強烈な、
“無責任ぶり”ではありませんか。


こりゃ、どう考えても、

私との相性は、

いいに決まっている。



「これは、いい仕事になりそうだ…。」



そしてこの感は、


見事に当たっていたのです。


……。



(つづく)




ああ、寝不足だ。

毎晩遅くまで、
(というより朝早くまで)
「世界陸上」を観ているからなのですが…。


そして、昼間は、
「高校野球」と「アレンジ」。

(順序が逆だろ)



それにしても、

ボルト(ジャマイカ)選手。


観ましたか?


100メートルを、

9秒58ですよ。

9秒58!


北京五輪のときも、
仰天しましたが、
いったい、この人は、
何者なんでしょうね。

年始の、
「私の10大ニュース 2008」
にも書きましたが、

この人の祖先には、
「豹」か「チータ」が、
いたんじゃないですかね。


そんなわけで、

200メートルも、リレーも、
見逃すわけには、
いかなくなりました。


ああ、どうしてくれるんだ、

ボルトちゃん。


(ええと、きょうの種目は、
 っと…。)



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 23:04コメント(22)トラックバック(0) 
2009 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

August 12, 2009

夏の6週間


きょうは、

伊東ゆかりさんの話でも、

書こうかな。


許可は貰(もら)ってませんがね。

……。




私が、
10年務めた「アルファ・レコード」
を退社したのが、

1983年の春のこと。


でね…、

今でこそ、
「日本のフリー・プロデューサーの草分け」
なんて言われているようですが、

「フリーになりたくて辞めた」
などという、
カッコいい退社ではありません。

これは…。


レコード会社とはいえ、
好きな音楽の仕事とはいえ、

なんとなく、
“宮仕え”が窮屈になり、
「もっと自由に生きたいなあ」とも思い、

わがままを言って、
辞めさせてもらっただけなのです。


そのときは、

「フリーでやっていこう」なんて、
あるいは、“いける”なんて、
これっぽっちも考えたりは、
しませんでした。

そんな甘い世界ではないことは、
わかっていましたから。


だが、幸いにも、

人気絶頂期にあった、
『カシオペア』の仕事は、
“フリー”の立場で継続できそうだし、

10年務めた退職金も頂いたし、

しばらくは、
なんとか食っていける。


いずれ、どこかに再就職するにせよ、

しばらくは、
のんびりと、
この退職金を食いつぶしながら、
ゆっくり次のプランを考えようかな…。


ま、そんな程度の、

お気楽な発想だったわけです。


子供もいる身でありながら、
なんとも無謀で、
“無責任”な発想ですが、

“無責任”は、
私が心の師と仰ぐ、
植木等さんの教えですからね。

(息子は1982年生まれだから、
 当時まだ1才の赤ん坊。
 そうそう、スティーブと同い年です。)


こればかりは仕方がない。

アハハ。

(アハハじゃない)



こうして、
退社後1ヶ月くらいは、
プ〜ラプラの毎日。

学生時代以来の、
自由な生活を満喫。

そして、
夜は毎晩、六本木のジャズ・クラブで、
酒ばかり飲んでおりました。

アハハハ。

(だから〜、
 アハハハじゃないってば。)



ところが、そんな時、

思いもかけず、
プロデュースの仕事が、
2本も入ってきた。


そのうちの1本が、

あの、

伊東ゆかりさんの仕事だったのです。



伊東ゆかりさん…。


私の少年時代のアイドル…。


ナベプロ(渡辺プロダクション)全盛期、
中尾ミエさん、園まりさんと並んで、
「ナベプロ3人娘」として、
華々しい活躍。

絶大な人気を誇っておりました。


甘く切ない声で歌う、
「コニー・フランシス」や、
カンツォーネの女王、
「ジリオラ・チンクェッティ」
のカヴァー曲は、

まだ小学生だった私の胸を、
それこそ鷲掴み。

『渚のデイト』(Follow The Boys)
『ボーイハント』(Where The Boys Are)
『愛は限りなく』(Dio Come Ti Amo)


(く〜〜! 可愛い〜〜!)

毎日、テレビのブラウン管の前で、
胸をときめかせながら、
観ていたものです。


私の高校、大学時代は、
一転してムード歌謡に変身。

ここでも、

『小指の思い出』
『恋のしずく』
といった、大ヒットを飛ばす。


そして、
80年代に入ると、
「リタ・クーリッジ」のカバー、
AOR系のバラード曲、

『あなたしか見えない』が、
またまた大ヒット。


一人の歌手人生で、

3種類の異なったコンセプトを、
すべてヒットさせてしまうなんて、
そう簡単に出来ることではありませんね。

やはり、
偉大なシンガーと言う他ありません。



そんな憧れの大スター、

伊東ゆかりさんのプロデュースを、

こんな若輩の私が…。

(できるのか…)



私は、

不安と期待が入り交じった気持ちのまま、
彼女の所属事務所である、
大手プロダクション、

「O音楽事務所」の、
O社長を訪ねました。


社長室のソファーで待っていると、
やがて、大柄なO社長が、
満面の笑みで現れた。

そして、
迫力のある低音で、

「やあ、Oです。はじめまして。
 アルファを辞めて、
 フリーになったんだって?
 だったら、ぜひ、
 伊東ゆかりの次のアルバムを、
 プロデュースしてくれませんかねえ。」

「フ、フリーになった…?」



さらに、

「ま、いずれプロデュース印税の、
 契約はするとして、
 これ、とりあえずの報酬ね。」

と言って、ぶ厚い封筒を私に渡す。


それは、

今まで見た事もない、
“キャッシュ”の札束。

(こ、こんなに…。)


アルファ時代の私の給料の、
2ヶ月分でした。


ま、後から冷静に考えたら、
もっと貰ってもよかったのですが、

なにせ、
プ〜ラプラの毎日でしたからね。


私は間髪を入れず、

「や、やります!」
と即答。


そして、

O社長の気が変わらないうちに、
その封筒を、

そそくさと、しまいこんだ。


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \



問答無用の交渉劇だ…。

……。



「フリー・プロデューサーの草分け」
と言ってもね、

とどのつまり、

始まりは、
ま、こんな感じだったわけです。


しかし、これが、結局は、

“フリー・ランス”として、
その後の人生を送ってしまう、
きっかけになったわけですから、

いやはや、人生とは、
わからないもんですねえ。

……。



さて、

交渉が成立(?)すると、

O社長は、
何編かの詞を、

私に見せてくれました。


それはね…、


……。



(つづく)




「ふるさと」「帰省」

か…。


そういえば、

そんな季節なんですねえ。


厳密な意味での、
「ふるさと」を持たない私には、
ちょっぴり羨(うらや)ましい、
季節でもあります。

でも、みなさん、

存分に、
楽しい夏休みを、
お過ごし下さいませ。


私も週末には、
親父の墓参りくらいは、
してこようと思っておりますが…。


というわけで私は、

ソーメン食って、

今日も、

「アレンジ」と「高校野球」。



毎年、毎年、


ワン・パターンの夏。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 16:09コメント(29)トラックバック(0) 
2009 エッセイ | マイ・ディスコグラフィー

August 04, 2009

競馬はロマンだ! 最終回


ジャミン・ゼブ

『品川教会 グローリア・チャペル』

無事終了しました。


おかげさまで、

私の予想をはるかに超えた、
熱い、素晴らしい、意義のある、
“2days”になりました。


熱い声援を送ってくださったみなさん、
声高らかに、
ジャミンと一緒に歌ってくださったみなさん、

本当に、ありがとうございました!


この場をお借りして、

厚く御礼申し上げます。



さあ、私の頭の中は、

早くも10月の『STB139 3days』です。


「あれもやりたい」

「これもやりたい」

「あーんなことも、
 こーんなことも、
 やりたい、やりたい、やりたい。」

「……。」



というわけで、

今日一日は、ゆっくり休んで、

明日からまた、

創作に励みたいと思っております。



そういえば、

去年も8月は、

クリスマス・ソングを書きまくってたなあ…。


汗だくで…。




『競馬はロマンだ! その最終回』


忘れもしません。

1990年の暮れのこと。


私と、
スタッフのY浅ショーちゃんと、
友人のI嬢(あの奇跡の犬、チビ太の飼い主です)
の3人は、

「中山競馬場」にいました。



その日は、

『有馬記念』という、

年度代表馬を決める、
一年の総決算とも言うべき、
大レースがあったからなのですが、


もう一つの目的は、

名馬『オグリキャップ』の、

最後の勇姿を見るためでした。



そう、

『オグリキャップ』


それはそれは、

すごい人気でしたね。

……。



競馬の世界では、

府中、中山とかで開催される
いわゆる「中央競馬」が、
最高の舞台です。


ここに集まってくる馬は、
いわば血統書付きの馬ばかり。

億単位で取引された馬もざら。

族議員の政治家のように、
名門一族の血をひくものなどなど、

ま、エリートが競い合う場所、
といってもいいかと思います。


血統が二流、三流だったり、
とてもレベルに達していないと思われる馬は、
最初から、陽の当たらない、
地方ローカルの競馬場で走るか、

荷役馬、あるいは馬肉としての、
道をたどるのです。


お馬ちゃんの世界も厳しいんですね。



このオグリキャップという馬も、

そうでした。


誰からも注目されず、
ほとんど、タダ同然の値段で取引され、
岐阜の競馬場で、

ひっそりとデビューをしたのです。


芦毛の、
さして美しくもない馬ですし、
血統も大したことはないし、

無理からぬ話ではあります。



ところが…、


いざ走らせてみると…、

これが…、


強い!


どのレースも圧勝につぐ圧勝!!


こうなると、
マスコミも放ってはおきません。

ついには、
鳴り物入りで、
中央競馬界にデビューです。


そして、
エリート揃いの「中央競馬」に来ても、
オグリは連戦連勝!

次第にその人気は、
不動のものとなります。



これと同じような話が、

かつて、
私の学生時代にもありましたね。


そう、

あの、

『ハイセイコー』です。


女性から子供にいたるまで、
絶大な人気を誇り、
ついには『さらばハイセイコー♪』
なる唄まで大ヒット。

あのハイセイコーが、
実はこれと全く同じ、
シチュエーションでした。


そんなオグリを、

マスコミは揃って、
「ハイセイコーの再来」とはやしたて、

判官びいきの日本人は、
雑草がエリートを打ち負かしていく、
その、さっそうとした姿に、

熱狂的な声援を送り続けたのです。


かく言う私も…。


♡♡♡



そのオグリも人の子。

いや、馬の子。(???)


寄る年波には勝てません。


6歳になってからは、
めっきり力が衰える。

秋の『天皇賞』では6着。

前走の『ジャパン・カップ』では、
まったくいいところ無しの、
11着と惨敗。

(このレースも、
 私は「東京競馬場」で、
 しかと見届けております。)


そして、

ついに、

この『有馬記念』を最後に、
引退することになりました。



そんなオグリを応援するために、

最後の勇姿を見るために、

私たちは、
「中山競馬場」まで行ったのですが、


が…、


が……、


その日の私たちは、

絶不調。


特に、私の不調ぶりは、
目を覆うばかり。

どんな馬券を買っても、
すべてが裏目、裏目に出ます。

(やっぱり俺は、
 日曜競馬は不向きなのかなあ…。)



このままでは、

帰りのメシ代もありません。


そんな中、

いよいよ、

メイン・レースの『有馬記念』です。



ここで私はある決断をします。


私は2人に、

「心情的には、
 もちろんオグリに勝たせたいが、
 残念ながらオグリは来ない。
 ここは勝負だ。
 オグリをはずして、
 各々5点ずつ馬連を買おう。
 それならば、どれかは来るし、
 1番人気のオグリをはずせば、
 みな、それなりの高配当だ。
 美味いメシにありつけるぞー。」

と提案しました。


当然ながら、2人とも猛反対です。

特に、Y浅ショーちゃんは、

「何を言ってるんですか!
 日頃から『競馬はロマンだ』
 などと、ほざいてるじゃないですか。
 僕たちは、オグリの応援に来たんじゃ、
 ないんですか〜〜?」

と、喰ってかかる。


しかし私は負けない。

「いや、勝負の世界は厳しいのだ。
 人生とはそういうものなのだ。
 ここは情に流されずに、
 勝負に徹するべきだ。
 2人とも、俺の競馬運は知ってるだろ?
 ま、終わってみれば俺に感謝するさ。
 アハハハ。」



こうして私は、

抵抗する2人を、
なんとか説得して、
“オグリはずし”の馬券を買わせ、

いざ本馬場へ。

(大丈夫だ。俺を信じろ。)



大観衆で、立すいの余地もないスタンド。

そして、場内は早くも、

「オグリ!オグリ!」の大合唱。


でも私は、

心のなかでつぶやきます。


(残念だけど、オグリは来ないさ。
 前走の『ジャパン・カップ』
 を見なかったのか?
 もう全盛期の足はないんだよ。フン。)




さあ、レースが始まった!

となりの人の声すら聞こえないほどの大声援。


そして、


レースは、

思いのほかスロー・ペース。


(ん?
 これならオグリの足でも、
 届くんじゃないの?)

と、イヤな予感が走る。

……。



さあ、最後の直線だ!


おっと、

ここで満を持して、

オグリが追い上げてくる。

(なにっ!?)


騎乗するは名手、武豊!

場内の興奮は、もうもう最高潮。

鼓膜が破れるほどの大声援。


アナウンサーの声も、

もはや絶叫に近い。


「オグリ来た!オグリ来た!
 オグリだ!オグリだ!
 オグリが来た!オグリが来た!
 オグリ!オグリ!オグリ!オグリ!
 オグリキャップの優勝で〜〜〜す!!!」


………。



レースが終わったあとも、
場内では大観衆が、
「オグリ!オグリ!」の大合唱。

愛と感謝をこめて、

「オグリ!オグリ!オグリ!」


♡♡♡



そんな大合唱を背に私は、
うつむき加減で、

足早に場外へ去る…。


2人の、
冷た〜い視線を、
背中に、
痛〜いほど感じながら、

逃げるように、


競馬場を後にする。


……。



(そうだよ。
 競馬はロマンだよ。
 お前は、いつも言ってたじゃないか。)



1990年12月23日。

日曜日。


忘れることのできない一日です。



(おわり)




ああ、やっと終わった…。


長い連載でしたね。

お付き合いいただき、
ありがとうございました。

たくさんのコメントも、
ありがとうございました。


さ、今度は、

何書こうかな…?


なんだか、これも、

アレンジのようになってきましたね。(笑)



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 19:10コメント(26)トラックバック(0) 
2009 エッセイ