September 2010

September 25, 2010

無責任流芸術論 その3


さて、

「近代美術館」が美術の殿堂なら、
そこから歩いてほど近い「カーネギー・ホール」は、
ニューヨークを代表する音楽の殿堂でしょうか。


私が、『Black』(黒)という、
およそ理解に苦しむ絵画(?)を見せられた、
ちょうどその頃、

こんな演奏会が「カーネギー・ホール」であったと、
当時の新聞に書いてありました。


それは、
当時(70年代後半〜80年代)を代表する、
現代音楽作曲家の新作の初演でした。


そして、その日のコンサートのチケットは、
早々と完売。

耳の肥えたニューヨークの音楽ファンは、
この作曲家の新作を聞き逃すまいと、
続々と「カーネギー・ホール」に集まっていました。


やがて、オーケストラの団員がステージに勢揃い。
指揮者が熱狂的な拍手の中、登場します。


そして、おもむろに、
指揮者がタクトを振り始める。

オーケストラが演奏を始める。

♪♪♪



と…、

ところが…、


音がまったく聴こえてこない…。

……。



初めは、おそろしくピアニシモで始まったのだと、

みんな思っていたのでしょうが、


5分たっても、

10分たっても、


な〜んにも聴こえてこない…?



しかし、指揮者は一生懸命タクトを振る。

オーケストラも必死に演奏をする。


というか、

しているように見える。


……???



そして、こんな異様な状態が30分経ち、

こんな不思議な状態が1時間にも及んで、


ようやく指揮者はタクトを降ろし、

演奏(?)は終わる。



この曲のタイトルは、

『Silence』(沈黙、静寂)

……。



ねえ、これも芸術なんでしょうか…?


こんなのまで、有りなんですか〜?



この後、会場がどうなったのかまでは、
新聞には書かれてありませんでした。


ストラヴィンスキー『春の祭典』が、
1913年にパリで初演されたときは、
(5月29日だったそうですよ)

それはそれは、
ケガ人まで出る大変な騒動になったそうですね。


それまでの常識を覆す、
すさまじい不協和音と強烈なリズム。
前衛的なバレエの演出。


もうもう怒号の嵐。

ステージには物が投げ込まれ、
ついには警官隊が出動するという、
前代未聞の騒ぎになったそうですが、


この『Silence』の場合はどうだったのでしょうか。


とても興味のあるところですが…。


いずれにせよ、拍手、喝采の嵐で、
カーテン・コールがいつまでも続いた、

とは、とても思えませんがね…。


ましてや演奏会の後で、

もしも、

「いやあ、素晴らしい曲だったねえ。」
「ほんと、演奏も素晴らしかったわ。」
という御仁がいらっしゃったら、

私は即座に、
病院に行くことをおすすめしたでしょうね。

……。




それにしても、

ますますわからなくなってきましたよ。



『Black』といい『Silence』といい、


いったい「芸術」とはなにか?

「芸術」と「そうでないもの」の境界線はどこか?

それを決めるのは誰か?


……???




私は、

当時よく一緒に仕事をしていた、
作・編曲家の深町純さんに、
思い切って聞いてみることにしました。


なぜならば彼は、
ポップスの世界では珍しく、
「東京芸術大学」なんていう、
いかめしい名前の大学を卒業していたからです。

(ん? 中退だったかな?)



すると彼、

平然と、こう言ってのけました。


「なあに、宮住くん、
 そんなの簡単だよ。

 何でも最初にやったものは、
 “芸術”として評価されるんだよ。

 『Black』にしろ『Silence』にしろ、
 今まで誰もやったことがないアプローチだから、
 認められたんだよ。

 だから、君が真似して、
 『Yellow』(黄)だの『Red』(赤)
 なんて絵を描いたところで、
 誰からも相手にされないってわけさ。

 アハハハ。」



わかりません…?


ぜ〜んぜん、わかりません…??


……???




でも、こんなこと言われると、
私は、俄然燃えるのです。


よーし、ならば私も、

誰もやったことがない、
“芸術”と認められるようなものを、
考えてやろうじゃないか…。

……。



しばらく考えていた私は、

ふと妙案を思いつきました。


(うん、こりゃいけそうだ。ウシシシ。)



「ねえ、ねえ、深町ちゃん。
 こんなのどう?

 曲のあたまから演奏しても、
 終わりから逆にあたまに向かって演奏しても、
 まったくおんなじ曲ってのはどう?

 つまり「たけやぶやけた」とか、
 「わたしまけましたわ」
 みたいな曲よ。

 どうよ、これ。

 誰もやってないんじゃないの。

 アハハハハハ。」



すると彼、

またしても平然と、冷たく、

こう言い放ちました。


「ふん。

 そんなのモーツァルトが、

 とっくにやってるよ。」


(……。)



ああ、わからん?



「芸術」って、


いったい…?



………???




(つづく)





ニューヨーク、美術館といえば、

こんな写真を見つけたので、
お恥ずかしながら掲載しますね。


もっともこれは、
「近代美術館」ではなく、
「メトロポリタン美術館」。


ね、ここでも、
ロープなんか張られてはおりません。

触ろうと思えば触れるような感じで、
この、ルノワールの有名な絵画が、
無造作に展示されておりますよ。

しかも、こんな撮影をしているのに、
警備員もおかまいなしです。

(もっとも、今はどうだかわかりませんが…)


84年というと、
この人、33才ですか…。

DSC00297



もう1枚。

やはり80年代のニューヨーク。

カシオペアのレコーディングをやってたスタジオがある、
ダウンタウンの、
とあるビルの屋上で撮ったものです。


これ、すごいですよ。

私も久しぶりに見て、
ビックリしました。


右遠方に見えるのは、

もしかして…、

今は無き…、

DSC00296

(写真はいずれもクリックで拡大)



それにしてもこの人、


ずいぶん若いなあ…。



あ〜あ…。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 19:02コメント(16)トラックバック(0) 
2010 エッセイ 

September 21, 2010

無責任流芸術論 その2


そもそも「芸術」とはなにか?

「芸術」と「そうでないもの」の境界線はどこなのか?

それを決めるのは誰か?

……。



おや?

私にしては珍しく、
難(むずか)しそうなことをしゃべっておりますね。


ま、「芸術の秋」って言いますからね。

たまには真面目に、
そんなことを考えても、
バチは当たらないのではないでしょうか。

……。



というわけで、


これからしばらくは、

“無責任”を承知の上で、

私なりの「芸術論」を、

かましてみようと思います。

(パチパチパチ…)



いいですかぁ、無責任ですよ〜〜。

(パチパチパチパチパチパチパチ…)




さて、私は、

1970年代の終わりから80年代にかけて、
毎年のように、
ニューヨークに行っておりました。


とは言っても、
メインはレコーディングなので、
スタジオに籠(こも)りっきりで、
ほとんど観光などはしておりません。


でも、毎回、
2週間〜1ヶ月という長期滞在ですから、
たまにはオフもある。


そんなオフを利用して、
よく出かけたのが、

「近代美術館」(The Museum Of Modern Art)


そして、1978年。

その「近代美術館」に初めて行ったときの衝撃は、

忘れることができません。



大して高くはない入場料を払って、
(確か10ドルぐらいだったように記憶しています)
さっそく中に入った私の目に、
いきなり飛び込んできた1枚の大きな絵。


ガビョ〜〜〜ン!!!

うそだろ…???


なんと、

それは、

ピカソの『ゲルニカ』でした。

……。



いやあ驚きましたね。


この絵はスペインにあるものとばかり思っていましたから。


しかし、もっと驚いたのは、

そんな世界的に有名な絵が、
さして物々しい警備もなく、
無造作に飾られているという点です。


「これ以上近づいてはいけません」
といった警告があるわけでもなく、
縄が張ってあるわけでもなく、

触ろうと思えば、
容易に触ることができる距離にある。


もちろん触ったりはしませんが。


しかも平日だったため、
人もまばら。


普段から、
トップクラスの芸術に慣れ親しんでいる、
ニューヨークの人たちは、

「ふ〜ん、これが『ゲルニカ』か。」

てな具合に、
別段大騒ぎすることもなく、
さっと眺めて通り過ぎてしまいます。



これ、日本だったら、
大騒ぎでしょうね。

おそらく、朝から美術館の前は、
長蛇の列。

物々しい警備のお兄さんたちで、
溢れかえっていることでしょう。


そして、

高い入場料を払って、
何時間も待って、
ようやく自分の番が来ても、

「どうか立ち止まらないでください」
な、アナウンスにせかされて、
後ろの人にどんどん押されて、
もみくちゃになって、

ま、ほんの30秒くらい見れるのが関の山でしょうね。


しかし、さすがニューヨークは違いました。


私は、かれこれ30分も、

『ゲルニカ』の前に立っていたでしょうか。


ああ、幸せ…。



さらに奥に進むと、

スーラだの、
ゴーギャンだの、
ゴッホだの、
ダリだの、

かつて本で見たことのある名画が、
ズラリと展示してありました。


3Fには、

モネの『睡蓮』までありましたよ。

感動しましたね。



しかも、みな、

「触りたければどうぞ」
「なんなら、持って帰ってもいいですよ」
てな感じで、

(そんなわけないだろ)

なんとも無防備に展示されてるわけです。


警備のお兄さんもほとんどいない。

……。



いやあ、まいりました。


当時のニューヨークは、
世界でも有数の「犯罪都市」と言われておりました。

実際私も、
怖い思いをしたことが何度かあります。


でも、

ここへ鑑賞に来る人のなかに、
そんなことをするような奴は一人もいないことを、

この街は、ちゃんと知ってるんですね。


こと「芸術」に関しては、
日本よりもずっと「大人」だと思いました。


恐るべしニューヨーク。

……。




さて、前置きが長くなりましたが、

これからがメインのお話です。


そんな名画に混じって、
私は、こんな絵(?)を発見しました。


それは…、

ただ真っ黒に塗りつぶされただけの絵。


タイトルは『Black』(黒)


ん…?

なんでしょうね、これ…?


???…。



いいんでしょうか。

こんな、人をバカにしたようなものが、
シャガールやセザンヌの隣に飾られても…。


当然、私のような凡人には、
この絵の価値など、
これっぽっちもわかりません。


1978年というと、
私はまだ27才の青二才です。

私は、憤懣やるかたない思いでいっぱいでした。


(芸術というのは、
 人の心を癒すものではないのか。
 人生に潤いと感動をもたらすべきものではないのか。

 しかるにこの真っ黒いだけの絵はなんだ。
 この絵に、なんの感動がある。
 どう癒されよというのだ。
 これの、どこが芸術なのだ。

 こんな絵を飾るくらいだったら、
 黒鉄ヒロシさんの『乙子園』でも展示しろ。
 そのほうが、よっぽど、
 人生にとってプラスになるというもんだ。

 そうだそうだ。

 ブツブツブツ…。)




私が、


「そもそも「芸術」とはなにか?

 「芸術」と「そうでないもの」の境界線はどこなのか?

 それを決めるのは誰か?」


という疑問を持ったのは、


じつは、



このときが初めてだったのかもしれません。


……。




(つづく)





いやあ、すさまじい1週間でした。


シュン・コーポレーションのみなさん、

よく働きました。


先週末の仙台遠征から帰ると、
休む間もなく、
ライブDVDの編集。

画と音を別々の場所で編集しながら、
最後はドッキング。


その間に「青山ブルーノート・チャリティ・ライブ」


16、17日は、
音の最後の仕上げ(トラック・ダウン)。

そして私は、
朝の5時までスタジオをやって、
急いでタクシーを拾って帰り、
シャワーをして、荷造りをして、
一睡もしないで7時半の新幹線で金沢へ。(18日)

一方Y浅ショージくんは、
18日はその音のマスタリング。

私はジャミンの金沢コンサート。


19日に帰ると、
そのまま新橋の映像スタジオに直行、
Y浅くんと合流して、

画と音を最後に調整していく、
「MA」という作業に立ち会い。


きのう(20日)も同じ。


そして、きょう、

ようやく「オーサリング」という、
最後の作業にこぎつけることができました。


ふ〜。


私、この1週間は、

ろくに睡眠を取っておりませんね。

(よく持ったもんだ…)



でも、

なんとか、

完成にこぎつけることができましたよ。


ジャミン・ゼブ待望の、

初ライブDVD『Sweet Sweet Live』!!


なにしろ、

なにかトラブったら、
1日でもダメになったら、
発売延期という、
ギリギリのところでの作業でしたからね。


すごいプレッシャーでした。

はい…。



というわけで、みなさん、

10/27の発売日を、

楽しみにお待ち下さいませ。


「ボーナス映像」を含む、

大変楽しいものになっておりますので。


♪♪♪




で、気がついたら、

もう、今週の金曜日(24日)は、

学芸大「A'TRAIN」ではありませんか。



そうか、もう最終金曜日なのか…。

……。



あっというまの9月でしたね。


でも、「STB 139」にはじまり、

この9月は、

大変実りのある月でした。



というわけで、

ようやく一段落です。


金曜日は、燃えますよー。


あ、今回から時間が繰り上がってるので、

くれぐれもお間違えなきよう。


7時半開店

8時半スタート

ですからね。



さ、寝るぞ〜。


起きるまで寝るぞ〜。



ん…?



……???




SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 13:41コメント(15)トラックバック(0) 
2010 エッセイ 

September 12, 2010

無責任流芸術論


ああ、また一人逝ってしまった。

偉大な『ハナ肇とクレージー・キャッツ』
のメンバーが…。


谷啓さん。

……。


あなたの「ガチョ〜ン」は、
最高でしたよ。

数年前、一緒に仕事をした、
韓国の歌姫『WAX』(ワックス)嬢にも、
この「ガチョ〜ン」は、
しっかり伝授しておきましたよ。


私の命ある限り、
この「ガチョ〜ン」は、
決して消え去ることのないよう、
若者に伝授していきます。

海の向こうの韓国でも、
WAXが、しっかり伝授していくことでしょう。


どうぞ、安らかにお休み下さい。


合掌…。

……。




さて、何度も言うように、

私は熱烈な、
「クレージー信奉者」です。

「無責任崇拝者」です。


昨年書いた、
『無責任教育講座』でも、

“無責任”の持つ素晴らしい効用について、
熱っぽく語らせていただきました。


「“無責任”とは、

 粋な遊び心であり、
 人生のチャーム・ポイントであり、
 豊かな発想の源であり、
 人生を楽しくする知的ゲームであり、
 苦境や困難から脱出する『武器』でもあるのです。」



覚えてらっしゃる方も多いと思います。


そして不遜にも、

ベートーヴェンやセロニアス・モンク、
あるいはピカソを例に出して、

偉大な「芸術」には、
“無責任”は不可欠な要素であると、

はっきりと言いきったわけです。



しかし、その一方で、

こうも書きましたね。


「ただし、
 3つの原則を守ることが絶対条件です。

 1)人を傷つけない
 2)人に迷惑を与えない
 3)人に損害を与えない


 この3原則を守らないと、
 今度は、みなさんが、
 世間から非難を浴びることになりますからね。
 
 “無責任”は、
 時に『凶器』にも早変わりするので、
 くれぐれもご注意下さい。」




さあそこで、問題になってくるのが、

芸術に対する「批評」「評論」

といった類いの分野です。



私は、

自分が物を作る人間の端(はし)くれゆえに、
人の作品を「批判」「批評」するのを、
好みません。


なぜならば、

人、あるいは人の作品を批評、批判するには、
“無責任”であってはならないと、
かたく戒めているからです。


さらには、

私が「論争」ということを、
極めて嫌う体質であることも、
関係するかもしれませんね。


「自分が良ければ、いいんじゃな〜い。」

「人にはそれぞれ好みというものがあるからね〜。」


これで片付けてしまって、
それ以上その話題に踏みとどまらない、

そんな体質だからでしょう。


(つらぬけ無責任道)




ところが、

『徒然草』ではないけれど、
新しい分野、未知の分野に興味を持ったときは、
やはりその道の「先達」といったものは必要なわけで、

そこで重要になってくるのが、

「芸術評論家」
といった類(たぐ)いの先生なんですね。


クラシックが好きになったら、
何から聴けばいいのか。

ジャズに興味を持ったら、
どのように楽しめばいいのか。


絵画は?

彫刻は?

文学は?



そして、その「道標(みちしるべ)」たるべき、
この先生たちだけは、

絶対に“無責任”であってはならないと、
ずっと思ってきました。


つまり先生たちは、私たちに、

その「作品」や「作家」の、
真の素晴らしさや深さを、

正しく、丁寧(ていねいに)に、わかりやすく、
導いていただかなくては困ると、

ずっと思ってきたのです。



が、しかし…、


実際はどうなのでしょうか…。


……。




一例をあげましょう。


ここに、
クラシックの世界では有名な、
とある音楽評論家の先生がいます。


この先生は、
とにかく好みがはっきりしていて、
いつも一刀両断。

「ベートーベンの『第九』は、
 ○○に尽きる。
 これ以上の名演を未だ私は知らない。」

とか、

「モーツァルトの△△は、
 この演奏が歴代ナンバー・ワンだ。
 この曲は、これ1枚あれば事足りる。」


といった具合に、
胸のすくような評論が人気なんだそうです。



でもね…、

私、この先生の推薦したものを、
ずいぶん購入してみましたが…、


全部ハズレでした。


私の感性には、

まったく合いませんでした。


むしろ、
この先生が酷評した物のほうに、
心打たれる作品が多かったように思います。

私にはね。


だから今では、
反面教師的に利用させてもらっています。

この先生が、
お好みでなさそうなものは、
「チャンス!」とばかり聴いてみるわけです。


つまり、ここでも、

『逆転の発想』です。


あははは。



あっ、誤解しないでくださいよ。


私は、この先生を“批判”しているのでは、
ありませんから。


さっきも言ったように、
私は「批評」「批判」を好みません。

「人にはそれぞれ好みというものがあるからね〜。」
で納得してますから、別にいいのです。


もちろん、この先生と、
「芸術論」を交わそうなどという考えも、
毛頭ありません。

そんな面倒くさいこと。


「自分がいいと思えば、それでいいじゃ〜ん。」

ただそれだけのことです。



ただし、

私にとって、
価値のわからないレコードを、
ずいぶん買わされたことだけは事実ですから、

これは、


「無責任の3大原則

 3)人に損害を与えない」

には、立派に該当することになりますね。


少なくとも私にとっては。

……。



それから、

こんなものも発見しました。


これまた、
クラシックの大評論家と言われてる(らしい)、
とある有名な先生の書いた、

「ハイドン」に関する評論です。



余談になりますが、

先日ジャミン・ゼブは、
「STB 139」において、
『ドイツ国歌』を歌いました。


あれ、実は、
ハイドンの作曲なんですね。

弦楽四重奏曲『皇帝』の一部なんです。

(どおりで、いい曲だ)


それをジャミン用にアレンジした手前、
ちょっと「ハイドン」を研究しようと思いましてね、

家捜しして、
こんな文献を見つけたというわけなのです。



ご承知のように、
ハイドンといえば、
『交響曲の父』と言われております。


ということは、すなわち、
「ソナタ形式」なるものを生み出し、
それを完成させた、

偉大なるパイオニアとも言うことが、
できるわけです。


そんな、ハイドンの偉業について、
この先生は、
こう解説しております。


危険を顧(かえり)みず、
原文のまま、
ここに引用しますね。


「前略…(ハイドンは)
 これまで徐々に積み重ねた実験、
 即ちソナタ形式における主題とその展開の方法とを、
 完全に実現することが出来たのである。」

 (ふむふむ)

「ソナタ形式における諸問題ー
 即ち1楽曲内での2主題性、
 各主題を連結する経過部の有機的な進行、
 小結尾部の確立、」

 (ん? ま、わかるような気もするが…)

「主題の楽想展開的即ち
 有機的な分解と再結合による立体的な展開部、
 再現部における省略と演釈の方法」

 (???)

「2主題の葛藤に対する統一的な意味を持つ結尾部
 (しかも結尾部は展開部の膨張と共に、
  主調確立という調的な意味においても、
  亦その重要さを増すべき性質のものであった)。」

 (???????)



これ、

私のような凡人には、

なんのことだか、


さっぱりわからないんですけど…??



どなたか、


教えてくださいませんかぁ…。



……。




(つづく)





はい、

仙台に行ってきました。


いやあ、美しい街ですねえ。


綺麗に区画された街並。

広い道路。

美しい緑の街路樹。



そんな中で繰り広げられる、

『定禅寺ジャズ・ストリート』


20年前に始まったときは、

わずか25バンドの参加だったそうです。


それが今年は、750バンド!


プロ、アマ入り乱れて、

街中に音楽があふれる2日間。


本当に素晴らしいイベントです。


久しぶりに会った、仙台在住の、

学生時代の音楽仲間に連れられて行った、

小さな「ジャズ・クラブ」でも、

楽しいセッションが繰り広げられていました。


だから、私も飛び入りで、

2曲ほどピアノを演奏してきました。


ああ、楽しかった…。



「牛タン」も最高に美味しかったし、

また行きたいな。


仙台のみなさん、

ありがとうございました!



さ、今週末は金沢だ。


今年の夏は、

本当に旅ざんまいですね。



でも、


体力的には、


そろそろ限界かな…。



年だから…。



ううむ……。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 16:52コメント(17)トラックバック(0) 
2010 エッセイ