December 2010
December 30, 2010
トミー・リピューマ その6 最終回
トミー・リピューマというプロデューサーは、
ジャズやボサノヴァやフュージョン、
といった音楽を得意としていると言われております。
しかし…、
そんなに簡単に“くくれる”ほど甘いものではない、
と、私は思っています。
たしかに、
そうした音楽の要素を取り入れてはおりますが、
最終的に仕上がった作品は、
優雅で、ムーディーで、聴きやすく、耳ざわりが良く、
「BGM」としても充分成り立つように、
緻密に計算し尽くされているのです。
ゴリゴリのジャズ・ファンや、
熱狂的なラテン・ファンからすれば、
「商業主義に凝り固まった俗物」
と思われても仕方のないような一面も持ってはいますが、
その代わり…、
ジャズやボサノヴァといった音楽に馴染みのない人でも、
容易に楽しむことができる。
だから売れる。
もっと大きなマーケットを相手にできる。
つまり、
ひと言で言ってしまえば彼は、
“のようなもの”を作る達人なのです。
「ジャズ」と聞くと敬遠してしまう人も、
「ジャズのようなもの」と聞けば、
自分にも楽しめるのではないかと、
容易に入り込むことができる。
そのあたりを、
実に巧みに狙っている…。
……。
一例をあげると…、
天国にいるナット・キング・コールと、
最近のナタリー・コール(娘)が、
時空を超えて共演した『Unforgettable』というアルバム。
全世界に衝撃と感動を与えた超話題作。
「いったいどうやって作ったんだろう?」
と思った方も多いと思います。
私もそうでしたから。
しかし、私がもっと驚いたのは、
ミュージシャン・クレジットを見たときです。
なんと、
無名に近いミュージシャン(当時)ばかりが、
ずらりと参加しています。
しかし、音を聞いてみると、
これが、みな、上手い。
ピアノも、ベースも、ドラムも、ギターも、
みな上手い。
しかし、個性はない。
パッと聞いて、
「おっ、このピアノはハンク・ジョーンズだな。」
とか、
「おお、このベースはロン・カーターだ。」
といったことには、絶対ならない。
推察するに…、
そうした個性のある有名ミュージシャンの演奏では、
聴衆の耳がそっちに行ってしまう。
それでは困るのでしょう。
一部のマニアックなファンのために作ってるのではない。
もっと大衆に受けなければならない。
そのために、
聞いて欲しいのは主役の「歌」であって、
バックの個性が強すぎることは、
彼にとっては邪魔なのでしょう。
でも、下手でも困る。
だから一流のスタジオ・ミュージシャンの中から、
そうした人選を慎重にしたのでしょうね。
耳ざわりのいい、
良質なBGMこそ売りやすいと考える彼にとって、
偉大なジャズ・ミュージシャンのアドリブ合戦なんて、
まったく必要ないのです。
「ジャズのようなバッキング」
「ジャズのようなソロ」
つまり、
「ジャズのようなもの」こそ望ましい。
そう思っているのではないでしょうか。
何から何まで徹底していますね。
あくまで独断と偏見ですが…。
♪♪♪
そんなトミー・リピューマ氏は、
大変苦難に満ちた少年、青年時代を送ったそうです。
背が低く、小太りで、若くして頭髪もほとんど無く、
足が悪いのかいつもビッコをひいていました。
そしてユダヤ人。
だから「いじめられっ子」の要素は、
すべて備わっていました…。
音楽の道へ進みたかったが、
それもかなわなかった。
……。
しかし彼はあきらめない。
紆余曲折を経て、
(この辺は詳しくは書けませんが…)
彼はついに「A&M」というレコード会社に、
待望の職を得ることになりました。
それからあとの活躍は、
もはや言うまでもありませんね。
大変な苦労を積み重ねて得たポジションゆえ、
ヒットに対する執念、
商売に対するこだわりは、
人並み以上のものがあったのではないでしょうか。
「世に絶望という言葉はない」
か…。
1978年。
「アルファ・フュージョン・フェスティバル」が、
「紀伊国屋ホール」で開催された頃、
私は併行して、
「カシオペア」という新感覚フュージョン・バンドの、
デビュー・アルバムをレコーディングしていました。
エンジニアは、
トミー氏の作品には欠かせない、
アル・シュミット氏が担当してくれました。
だから、
時々トミー氏もスタジオに現れる。
足を引きずりながら…。
そして、
青二才の私のディレクションを見て、
いろいろアドバイスをしてくれたのですが、
緊張していたであろう私は、
その内容をほとんど覚えていません。
ただし、次のひと言だけは、
鮮明に覚えています。
「この間ね、
ビル・エヴァンスのアルバムをプロデュースしたんだよ。
それはそれは美しい演奏だったよ。
この世のものとは思えない美しさだったね。
来年あたり発売になると思うから、
ぜひ、聴いてくれたまえ。」
そして、
半ば彼が予言したかのように、
1980年、この稀代の名ピアニストは、
突如この世を去ります。
彼の死後、
1981年に発売された、そのアルバムは、
ビル・エヴァンスの遺作となってしまいました。

『You Must Believe In Spring』
と名付けられたこのアルバムは、
まさにビル・エヴァンスの「白鳥の歌」です。
トミー氏の言ったように、
この世のものとは思えない美しさです。
初めて聴いたとき、
私は涙がとまりませんでした…。
その4曲めのタイトルは…、
『We Will Meet Again』
ああ、なんというタイトルの曲を選ぶのだ…。
あなたも死を予感していたのか、
ビル・エヴァンスよ…。
……。
というわけで、
みなさんもぜひ聴いてみてください。
ただしCD化に際して加えられた、
3曲のボーナス・トラックは不要です。
だいたい、
曲をたくさん収録すればいいという最近の風潮には、
私は全く賛同できません。
オリジナル・アルバムに収められた、
珠玉の7曲こそが、
トミー・リピューマの選曲であり、
コンセプトだったはずなのですから。
……。
さあ、こんなことを書いているうちに、
今年もあとわずかになってしまいましたね。
今年も本当にお世話になりました。
2011年も、
楽しく有意義な1年になりますように。
ジャミン・ゼブも私も、
さらに上のハードルを越えるべく、
全力で駆け抜ける所存でございます。
では、では、
良いお年をお迎えください。
1年間のご愛読にも感謝して…。
……。
えっ?
来年は卯(うさぎ)年なんですか?
ということは、わたしって年男…?
ということは、5月には…、
か、か、かんれ…
き…、
ギャ~~~~~~ッ!
SHUN MIYAZUMI
December 22, 2010
トミー・リピューマ その5
今年もあとわずかですねえ。
と言いつつも、
ほとんど毎日のようにジャミン・ゼブに帯同して、
「町から町へ」のライブ行脚をやってるせいか、
例年のように、
「ああ、今年ももう終わりだなあ…。」
という感覚には、まだなれません。
毎日、毎日、
その日のライブを成功させることで精一杯です。
忘年会なんてやってる時間は、
まったくありません。
こんな忙しい年の瀬は何年ぶりでしょうかね…。
でも、ありがたいことですね…。
……。
さあ、残りもあとわずか。
幸せをかみしめながら、
全力投球で乗り切ってみせましょう。
頼むぞ、ゼブラ!
がんばれオヤジ!!
ん…?
『トミー・リピューマ その5』
さて、
アメリカに帰ったトミー・リピューマ氏は、
さっそくA&Mの首脳陣に、
『Y・M・O』の存在を熱く語ったそうです。
で、
「そんなにすごいのなら、
一度見てみようじゃないか。」
ということになって、
A&M社のVIP連中が、
ごっそりやって来ることになりました。
社長のジェリー・モスさん、
副社長のハーブ・アルパートさん、
弁護士のエイブ・ソマーさん、
そして再び、トミー・リピューマさん、
などなど、
アメリカ音楽界を代表するVIPたちが、
わざわざYMOを見に来ると言う。
ならばと…、
私たちはさっそく、
六本木にあるファッション・ディスコを借り切って、
このA&M社VIPたちのために、
YMOの特別ライブをセッティングしました。
結果は…、
大受け。
「うち(A&M)とアルファが半分ずつ出資して、
全世界でライブ・ツアーをやろう。
アルバムも全世界発売しようじゃないか。」
という、すごい話にまで発展してしまいました。
さあ大変。
アルファは一瞬のうちに大パニックになりました。
ペリーが黒船4隻を引き連れて浦賀に来航したときも、
こんな感じだったのでしょうか。
……。
あれほど無関心だった社長以下主要スタッフも、
急に手のひらを返したように、
「これからはYMOだよ、YMO。
これは売れるぞ。すごいことになるぞ。」
と、ドンチャン騒ぎ。
あれほど酷評していた某役員も、
「俺は最初からYMOはいいと思っていたよ。
やっぱり細野氏は天才だな、うんうん。」
(なにを今更言ってやがる)
最初は冷たかったマス・メディアも、
上へ下への大騒ぎ。
けっこうC調でしょ。
音楽業界って。
あははは。
ま、そんなもんです。
……。
というわけで、
みなさんご承知のとおり、
このあとYMOは大爆発するのでした。
でも…、
もしトミー・リピューマ氏が、
あのとき「紀伊国屋ホール」にいなかったら…。
あのグループは、
どういう歴史をたどっていたのでしょうか。
……。
さて、もう一人。
トミー・リピューマ氏によって運命を変えられた男。
それが、
あのジョージ・ベンソンです。
私が学生の頃、
ジョージ・ベンソンというのは、
おそろしく上手い黒人ジャズ・ギタリストであり、
ブラック・フィーリングがプンプンの、
ブルース・ギタリストでした。
かのB・Bキングですら、
「彼は自分だけのブルースを持っている。」
と絶賛したほどの名手でした。
ところが、
1976年、
トミー・リピューマ氏がプロデュースした、
『Breezin'』というアルバムで、
彼は大変身を遂げます。

爽やかなサンタ・モニカの風の如き、
都会的な洗練されたギター・サウンドが心地よく響き、
「This Masquerade(マスカレード)」
という曲では、
「おい、これはナット・キング・コールか?」
と思わせんばかりの見事な歌唱力で、
この甘い甘いメロディーを切々と歌いあげ、
またたく間に全米ポップ・チャートの1位に、
躍り出たのでした。
それに合わせて、
ルックスも大変身していきます。
……。
ん?
これが、あの、
いかついおっちゃんのジョージ・ベンソン…?
なによ、この、
モデルみたいにクールなお目目の、
鼻筋のピシッと決まったこのイカしたお兄さんは…?
これは、いったい、だ~れ…?
え~~~~~~~~~~~~~~~っ!?
うっそ~~~~~~~~~~~~~~!!??
そして、これ以降彼は、
“歌手として” 大活躍をするのでした。
♪♪♪
そうそう、
こんなこともありました。
やはり1978年でしたか。
私はこのジョージ・ベンソンのコンサートを見に、
カシオペアの連中と出かけました。
場所はロス・アンジェルスにある、
『グリーク・シアター(Greek Theater)』
という、その名のとおりの大きな野外劇場。
そのステージで、
あのジョージ・ベンソン氏は、
お洒落なスーツに身を包み、
白の長~いマフラーを首にかけ、
白人のリズム・セクションと、
美しい女性ばかりのストリングス・セクションをバックに、
ヒット曲の「マスカレード」を中心に、
コマーシャルなバラード・ソングを、
次から次へと歌い続けておりました。
でも、私たちは、
どちらかというと、
彼のギターを聞きたかった。
……。
しかし、彼はギターなんか弾いたりはしない。
ファン・サービスに旺盛な、
エンターテイナーを演じ続けておりました。
さらに驚くべきことは、
そこに集まった客層です。
ほとんどが、
若いトレンディな白人のカップルばかり。
(トレンディなカップル…。
むむ、これはもはや死語か…。)
かつて、
ジョージ・ベンソンといえば、
黒いフィーリングで、
黒人のジャズ・ファンを唸らせた、
偉大なブルース・ギタリストだったはずです。
しかし、もはやそれは過去の話。
そんなものは儲(もう)かりゃしない。
彼はもう、
あのジョージ・ベンソンではないのです。
第2の「ナット・キング・コール」なのです。
そして、そのままコンサートは終わり、
彼は熱狂的な拍手のなか、
アンコールで再び登場。
そして遂に、
間奏でギターを弾いてくれました。
簡単なメロディーだけでしたが。
そのとき、
私のとなりの席にいた若い女性が、
驚くべき言葉を口にしました。
「えっ? ジョージ・ベンソンって、
ギターも弾けるの?」
「……。」
これです。
これがトミー・リピューマのプロデュースなのです。
大きなマーケットを動かすには、
コンセプトを徹底することなんですね。
トミー氏にとって、
もはや偉大な歌手であるジョージ・ベンソンが、
マニアックなジャズ・ギターや、
黒人音楽のブルース・ギターを弾けるなどということは、
むしろ迷惑な話なのです。
邪魔なのです。
私はこのとき、
「商売に徹しきった」トミー・リピューマという人に、
戦慄すら覚えました。
すごいプロデューサーだ…。
……。
(つづく)
さあ、激動の12月も、
あと3日のライブを残すのみとなりました。
23、24日は「横浜」
25日は山形の「あつみ温泉」
チケットも、
すべてソールド・アウトと聞いております。
今年の最後を、
見事に盛り上げたいものです。
がお~~~~~っ!
そしたら、
来週は飲むぞ~!
ガオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!
(そっちの方が張り切ってどうする)
……。
SHUN MIYAZUMI
December 13, 2010
トミー・リピューマ その4
今年の総決算とも言うべき一大イベント
「ジャミン・ゼブ/X'mas Fantasy 2010」
(@日本橋三井ホール 2days)
おかげさまで、
大盛況のうちに終えることができました。
お越しいただいたみなさん、
ありがとうございました。
2時間をはるかに超える長丁場で、
メンバーにとっては、
大変な体力と精神力を要するコンサートではありましたが、
見事に乗り切ってくれましたね。
また一つ、
確かな成長を見せてくれたように思います。
ホッ…。
……。
とはいえ、
年内はまだまだ大きな仕事が、
たくさん残っております。
気をゆるめることなく、
万全の体調で臨んで欲しいものです。
たのむぞ、シマウマ!
♪♪♪
そんなわけで、このブログ、
気がついたら2週間も更新できずにいました。
大変失礼致しました。
このシリーズも年内に終わらせないと…。
ええと、
どこまで話しましたかね…?
……。
『トミー・リピューマ その4』
1975年から始まった、
アルファ主催による、
「新宿 紀伊国屋ホール 1週間興行」
75年「荒井由実&ハイ・ファイ・セット」
76年「吉田美奈子」
77年「タモリ&東京ヴォードヴィル・ショー」
これらは、みな大成功で、
「アルファ&アソシエイツ」という小さな原盤会社が、
「アルファ・レコード」というレコード会社に飛躍する、
大きな原動力となりました。
そして迎えた1978年。
晴れてレコード会社となった我がアルファは、
「3匹めのドジョウ」ならぬ、
「4匹めのドジョウ」を狙って、
『アルファ・フュージョン・フェスティバル』
という名の、
「紀伊国屋ホール 1週間興行」に打って出たのでした。
が、しかし…、
これは大苦戦でした。
調子こきまくっていたアルファが、
初めて味わう大苦戦。
なにしろ、
チケットが売れない。
……。
このときのアルファは、
「フュージョン」という音楽を流行らせようと、
そうしたアーチストをどんどん獲得して、
がんがんレコードを作っておりました。
渡辺香津美、深町純、横倉裕、
ベナード・アイグナー、大村憲司etc.
そんなアーチストたちを、
1日2公演に振り分けて、
1週間華々しく興行する予定だったのですが、
なかには、日本ではまったく無名の人もいたりで、
組み合わせによっては、
まったくチケットが売れない日もある。
記念すべき「アルファ・レコード」の第一弾は、
「渡辺香津美&リー・リトナー&ジェントル・ソウツ」
これは、10万枚の大ヒット。
第二弾は「ベナード・アイグナー/Little Dreamer」
これは、
素晴らしいアルバムだったのに、
まだあまり売れていない。
(どちらも制作は私)
ま、売れてないから、
ライブをやって、その素晴らしさを体感して欲しい、
という狙いもあって、
こうしたイベントを組んだわけですが、
知名度が無いんだからチケットが売れない、
とまあ、これも仕方のないことではあったわけです。
プロモーションの意味もあるイベントではありますが、
あまりにもチケットが売れないと、
大赤字になってしまう。
さあ、困った。
どうしよう…。
そこで白羽の矢が当たったのが、
『イエロー・マジック・オーケストラ』
という出来たばかりのバンド。
でね…、
今だから言えますが…、
当初このグループの評価は、
アルファのなかでは、
なんとも低かったのです。
というか、
誰も理解できなかった。
当時「最先端を行くサウンド」と、
自他共に認めるアルファのなかにあっても、
これを“売れる”と断言出来る人は、
社長からアルバイトの学生に至るまで、
皆無と言っていい状況でしたね。
担当はとりあえず私でしたが、
その私ですら、
「また細野さんが、
おかしなものを作ったなあ…。」
というのが正直な感想でした。
しかし、
背に腹は代えられない。
「フュージョン・ミュージック」とは、
まったく無縁のサウンドではありましたが、
この『Y・M・O』に、
2回くらい出てもらおうではないか、
という案が持ち上がりました。
プロデュースは、
かの細野晴臣さんですから、
知名度的には申し分ない。
350人くらいの小さなホールですから、
細野さんの信奉者だけでも、
なんとか2日くらいはいっぱいになるのではないか。
というわけで、
苦肉の策ではありますが、
ポリシーからまったく逸脱した、
ハチャメチャなアイディアではありますが、
細野さんの人気だけが頼りの、
じつにズルイ作戦ではありますが、
アルファ・レコードは、
この『Y・M・O』に、
出演依頼をすることになったわけです。
期待どおり(?)、
『Y・M・O』の出演する2日間は、
あっという間に完売しました。
しかしそれは、
あくまで細野さんのファンであって、
相変わらずアルファ全体の評価は、
冷ややかなものだったのです。
(いいのかな、ここまで書いて…)
「これは、なんなんだろう?
この奇妙な電子音楽は?
ピキピキ、テケテケ、ポコポコ?
???」
とある役員は、
「これは音楽ではない。
こんなまがい物、売れるわけがない。
細野氏は狂ってる。」
と酷評しました。
ところが…、
これを最大級の評価をもって絶賛した人物が、
その会場に一人だけいました。
それが、
ジャズ・フュージョン界では泣く子も黙る、
アメリカを代表する大プロデューサー、
トミー・リピューマ氏だったのです。
これは驚くべきことです。
なにしろ、
トミーさんの作るレコードといえば、
ジャズやボサノヴァのエッセンスを取り入れた、
アコースティックなサウンドであり、
都会的に洗練された大人の音楽であり、
イージー・リスニング的なAOR、
そんなイメージだったからです。
『Y・M・O』の音楽は、
このトミー氏の作ってきたサウンドとは、
まさに対極に位置します。
本来なら、
彼が“最も忌み嫌う”べき音楽のはずです。
誰もがそう思ったはずです。
しかし、彼は乗った。
「これは、絶対売れる!」と言いきった。
はい、
これがトミー・リピューマ氏の凄いところなのです。
私が、このシリーズの冒頭で、
偉大な「商売人」と言った所以(ゆえん)なのです。
結果は…?
彼の言ったとおりになりましたね。
というわけで次回は、
このトミー・リピューマ氏のプロデュース術を、
不肖、この私が、
徹底解明してみようと思います。
独断と偏見ではありますが…。
これから音楽プロデューサーをめざす人。
音楽業界で働いてみたいと思う人。
これは必読です。
だからもう、
余談をしているヒマはありませんね。
……。
な〜んちゃって。
わからないんだな〜。
これが。
あははは。
(つづく)
週末の好天とうってかわって、
きょうは冷たい雨。
しかも寒い。
ぶるぶるぶる。
もう「雨男グループ」は、
完全に返上ですね。
でも、こんなときが、
一番風邪をひきやすい。
引き締めてかからねば…。
……。
さあ、休む間もなく、
水曜、木曜は、
四日市、名古屋遠征です。
四日市。
なつかしいなあ。
少年時代住んでましたからね。
私の住んでた家は、
まだあるのでしょうか…?
私の通っていた学校は、
どんなふうになっているのでしょうか…?
隣の家の、可愛かった○○ちゃんは、
どんなおばさんになっているのでしょうか…?
(何しに行くんだ!)
……。
SHUN MIYAZUMI