October 2013
October 20, 2013
オリンピックと私 その4(最終回)
1964年10月。
開会式の興奮冷めやらぬまま、
いよいよ「東京オリンピック」の競技が始まりました。
中学一年生の私が、
初めて体験する国際スポーツ・イベントです。
もちろんテレビを通してですが。
というより、
このあたりから一般家庭にも、
大幅にテレビが普及したわけですから、
大人の日本人にも、
初めての「オリンピック体験」だったのでは…。
まず度胆を抜かれたのが、
水泳競技のアメリカ選手の強さでしたね。
ショランダー、スタウダー、ファーガソン…。
まあ、男子も女子も、
表彰台の真ん中に立つのは、
アメリカの選手ばかり。
そしてあのアメリカ国歌が流れる。
♪♪♪
この曲も、
私には生まれて初めて聞く音楽でしたが、
毎日、毎日聞かされていると、
自然にスラスラと歌えるようになってしまいましたね。
くやしいけど。
クラスの仲間には、
「オリンピックの曲、カッコいいよなあ。」
などと言うヤツまで現れる始末。
アメリカ国歌をオリンピックの曲と、
勘違いしてたんですね。
なんか、悲しいな…。
水泳が終わると陸上競技。
男子100mのボブ・ヘイズ、200mのヘンリー・カー。
ああ、ここでもアメリカの曲ばかりだ。
それにしても…、
オリンピックで活躍した選手の名前が、
今でもこうしてスラスラ出てくるのは、
あの「東京オリンピック」だけです。
もちろん、その後、
一人で何個も金メダルを取った、
水泳のスピッツ、フェルプス、
陸上のマイケル・ジョンソン、カール・ルイス、
体操のコマネチなど、
特別の選手は鮮烈に覚えてますが、
それ以外は、ほとんど忘れてしまいました。
でも、あの大会だけは、
たくさんの選手、たくさんの名勝負が、
今でも脳裏に焼き付いています。
それだけ、
強烈なインパクトがあったんでしょうね。
13才の宮ちゃんに。
かわいいな。
(……。)
でも、最近は政治色が強くなりすぎて、
かつてのような感動が薄れてきました。
象徴的なのが、
1984年の「ロサンゼルス・オリンピック」です。
その前の「モスクワ・オリンピック」(1980年)を、
ソ連軍によるアフガン侵攻に抗議して、
西側諸国がごっそりボイコットしたため、
今度は報復として、
ソ連、東欧諸国など共産圏の強豪国が、
そろって参加しませんでした。
この頃が選手としてピークだった選手の無念は、
いかばかりだったでしょうか。
仮にモスクワ大会が開催されていたら、
おそらくマラソンの瀬古選手は金を取っていたのでは…。
で、84年の「ロス五輪」に話を戻して…。
私はこのとき、
カシオペアのレコーディングのため、
ニューヨークにいて、
その開会式をスタジオのロビーで見たのですが、
これがもうケッサクでしたね。
各国選手の入場の際、
下になんだか変なコメントが出るんですよね。
「シンガポールは○○州の約半分」
「日本は○○州の三分の一」
(ん…?)
「○○はオレゴン州の四分の一」
「○○はカリフォルニア州とほぼ同じ」
……。
つまり、
アメリカの国土は、こんなに大きいんだぞ〜、
ということを全国民にアピールしているわけです。
そしてそれを一緒に見ている、
スタジオのお兄ちゃんやらミュージシャンたちが、
「イエ〜イ!
アメリカ、ストロング〜!
アメリカ、No.1 !!」
と本気で喜んでいる。
(……???)
アメリカ人も案外単純な国民なんだなあ、
と可笑しくなってしまいましたが、
でも、こうした形の国威発揚は、
いかがなもんでしょうかね。
私は今でも疑問です。
仮にソ連が出場していたら、
こんなアイディアは浮かばなかったでしょうから。
当然のことながら、金メダルは、
アメリカがごっそり持っていったわけですが、
テレビ中継ももちろんアメリカの強い種目ばかり。
毎日、毎日、ニューヨークで、
アメリカの強さと国民の「イエ〜イ!」を、
嫌が央でも見せつけられたのを覚えています。
でも、この時以来、
なんかオリンピックが、
政治色の強い大会になってしまった気がして、
最近では昔ほど感銘を受けなくなってしまいました。
オリンピックは選手のもの。
そして「平和の祭典」。
ギリシャの古代オリンピックが、
この間だけは戦争を中断しても開催したという、
素晴らしい理念のもとに、
もう一度シンプルな形に戻したほうが、
もっともっと多くの人に、
感動を与えられると思うのですが…。
少なくとも、
2020年の「東京オリンピック」は、
そうして欲しいなあ…。
そして、私たちの世代が受けた感動を、
そのときの小、中学生たちにも、
味わってもらいたいと思うわけです。
最後は真面目に締めくくってみました。
2020年か…。
私はそのとき何才なんだろう…。
ええと、今62才だから、7を足してと…、、、
69才か…。
ううむ…。
……。。。
(おわり)
ようやく一日休みが取れました。
と思ったらあいにくの雨。
あ〜あ…。
そして、
めっきり寒くなってきましたね。
みなさん、体調にはくれぐれもお気をつけ下さいね。
さ、明日はフォト・セッション。
あさってからは、またレコーディング。
働きおじさん今日も行く。
(ん…?)
そして、金曜日(25日)は、
学芸大「A'TRAIN」のピア〜ノ・ライブ。
3ヶ月ぶりに最終金曜日の通常開催です。
お待ちしてますよ〜。
月に一度の「スポーツ・ピアノ」。
そう、この日だけは、私はスポーツ・マン。
わはははははは。
(違うだろ)
ん…?
SHUN MIYAZUMI
October 08, 2013
オリンピックと私 その3
私が「校内陸上競技大会」で、
信じられないような活躍をしたその数ヶ月後。
当時私が住んでいた、
三重県四日市というところにも、
オリンピックの聖火リレーがやって来る、
というニュースが飛び込んできました。
その当日、
中学1年の私は友達を誘って見に行きました。
さあ、沿道を大勢の市民が見守る中、
遠くから鮮やかな聖火がやってきましたよ。
「いったい誰が運んでいるんだろう?」
ワクワクしながら、
次第に近づいてくる聖火ランナーを見つめる私。
そして、
真ん中に五輪のマークが描かれた鉢巻きをした選手が、
(だったように思うのですが…)
聖火を掲げながら私の前を颯爽と通り過ぎたのですが、
それは、なんと、
先日の「陸上競技大会」の、
男子200m 3年生の部で優勝した、
同じ中学校の陸上部の先輩だったのです。
(すごいなあ…。あの人、こんな大役に選ばれたんだ…。)
オリンピックがぐっと身近に感じた一瞬でしたね。
こんなこともありました。
いよいよ東京オリンピックが間近に迫ったある日、
Y川という英語の先生が、
鮮やかなライト・ブルーのジャケットを来て、
教室に入って来たのです。
金ピカのボタンも五輪のマーク。
胸には東京五輪のシールだったか日の丸だったか…。
ま、この辺は記憶があいまいなのですが、
いずれにせよこの先生、
陸上競技の審判として、
オリンピックに参加するんだそうです。
私たち生徒はみな、感激のあまり大拍手。
地方都市の一中学校でこれですからね。
もうもう、日本中が、
オリンピック一色に染まろうとしていたわけです。
そして10月10日。
いよいよ開会式の日がやって来ました。
私は当時ブラスバンド部に所属していて、
翌日に岐阜でコンクールがあったため、
やむなく休日登校したのですが、
ブラスバンド部の先生の計らいで、
みんなで視聴覚室のカラーTVで、
この開会式だけは観ることが出来ました。
これはむしろラッキーでしたね。
家のテレビは白黒でしたから。
真っ青な空をつんざくようなファンファーレ。
そして、
古関裕而さんが作曲した「オリンピック行進曲」が、
高らかに演奏される中、
ギリシャを先頭に各国選手団の入場。
さらには、
おごそかな「オリンピック讃歌」が流れる中、
自衛隊の隊員たち8人がオリンピック旗を、
ゆっくりと、ゆっくりと運んで行きポールに掲揚。
原爆投下の日に広島で生まれたという、
坂井義則さんという最終ランナーによる、
聖火台への灯火。
その感動の一場面、一場面は、
今でも昨日のことにように思い出せます。
「こ、これが、オリンピックなのか‥。」
今まで見たこともないスケールの開会式に、
13才になっていた私は、
目をキラキラさせながら、
ずっと鳥肌状態でテレビの前に釘付けでした。
かわいいな。
(もういいから)
なかでも、もっとも私が感動したのが、
「オリンピック讃歌」。
ヴェルディの「アイーダ」の凱旋行進曲や、
ワーグナーの「タンホイザー」大行進曲を思わせる、
感動的な曲。
ちょうど音楽に魅せられ、
音楽家になることになんとなく憧れを抱き始めていた、
多感な中学生でしたからね。
この曲も、
私の人生に大きな影響を与えたといっても、
過言ではないかもしれませんね。
というわけで、
私は今でも、オリンピックの開会式では、
この曲が流れ、オリンピック旗が掲揚されるシーンが、
1番好きです。
オーケストラによる、
おごそかなインストが延々と続いたあと、
混声合唱団が高らかに歌い出すと、
私はいつも涙があふれてくるのを押さえきれません。
(じわ〜〜〜っ…。。。)
なのに、
なのに、、、
昨年の「ロンドン・オリンピック」では、
なんとも簡略化された扱いで、
合唱部分も割愛されてしまっており、
がっかりしました。
ロンドン五輪組織委員会のバカ、バカ、バカ〜〜〜!!!
私はテレビに向かってそう叫ぶと、
テレビのスイッチを切って、
ふて寝してやりました。
ポール・マッカートニーやジミー・ペイジもいいけど、
素晴らしい伝統は守って欲しいなあ…。
……。
ちなみに、
この東京オリンピック時代に、
小、中学生だった我らの世代は、
あの「ファンファーレ」や「オリンピック行進曲」は、
今でもソラでスラスラ歌えるはずです。
それほどのインパクトだったんですね。
7年後ははたしてどうなるのでしょうか。
その頃の中学生は、
我々の時のような感動を、
オリンピックから貰えるのでしょうかね。
私は少々疑わしく思っています。
残念ながら…。
……。
(つづく)
いやあ、
なかなか更新出来なくてすみません。
なにせ、いろんなライブとレコーディングが、
交互にやってきて、
本当に酒を飲むヒマもないくらい。
(ん…?)
ま、喜ばしいことではありますが。
ところで、その当時、
私たちはこんなバカな話で盛り上がっていました。
もしも平安時代にオリンピックが開催されていたら…、
「八艘飛び」の源義経は「走り幅跳び」で、
那須与一は「アーチェリー」で、
木曾義仲は「馬術」で、
金メダルは堅かったんじゃないの?
あはははは。
戦争が終わってまだ20年経ってないのに、
な〜んか平和ですよね。
平和って素晴らしいな。
しみじみ…。
……。
SHUN MIYAZUMI