July 04, 2006

村井邦彦さんのお話

2002年7月17日(水) No.16
村井邦彦さんのお話

Mr.Murai

前回の渋谷森久さんの時にもちらっと登場した、
私の師匠、村井邦彦さんのお話です。

大学も卒業間近(1974年)の私、
プロのジャズ・ピアニストになるのを断念して、
「さてこれから、何をやって食っていこうかな」
とのんびり構えていたわけですが、
ある人の紹介でアルファ(当時はまだ原盤制作会社)
という会社に突然就職することになりました。

で、そこの社長が村井邦彦さん。

私が学生時代在籍していたサークル、
「慶応ライト・ミュージック・ソサエティー」の先輩であり、
同じくピアノを担当していたということもあり、
すごいスタジオを持っているということもあり、
「音楽に関係ある会社みたいだから、
 ま、俺でも何とかやっていけるだろう」
今思えば、そのくらい軽い気持ちでの就職でした。

まさかこれが、
その後の自分の人生を決めてしまうとは、
その時はこれっぽっちも考えなかった。

村井邦彦さんといえば、
社長としてプロデューサーとして、
すごい手腕を発揮して、
音楽界の革命児的存在のアルファを作り上げた人ですが、
一方で大変に優れた作曲家でもあります。

今日は作曲家としての彼に、
スポットを当ててみようと思います。

村井さんの曲はとにかくお洒落!
従来の日本の歌謡曲にはなかった洋楽センスに溢れた作風で、
その後のニュー・ミュージックや、
今で言うところのJポップの先駆けになった、
といっても過言ではない。

代表作は何と言っても「赤い鳥」の『翼をください』

学生バンドとして名を馳せてたこのグループを、
直々に関西まで出向いてプロとしてスカウトしただけあって、
村井ミュージックを表現するにふさわしい堂々としたグループ、
そして歴史に残る名曲中の名曲でした。

「赤い鳥」では他にも
『忘れていた朝』や『窓に明かりがともる時』
などの名作があります。

「トワ・エ・モア」も
村井作品の表現者としては最高のグループ。

大学生の頃の私は、
日本の歌謡曲をどこかバカにしていたものですが、
『ある日突然』を巷で聞いたとき、
「へえー、日本にもお洒落な曲が出てきたなあ」
と妙に感心したものです。
(村井さん、生意気言ってごめんなさい。)

『虹と雪のバラード』(札幌冬季五輪のテーマ・ソング)
もフランシス・レイの『白い恋人たち』
(グルノーブル冬季五輪のテーマ)と並ぶ大傑作でしょう。

他にも、
森山良子『美しい星』、テンプターズ『エメラルドの伝説』、
辺見まり『経験』、北原ミレイ『懺悔の値打ちもない』、
ビッキー『待ちくたびれた日曜日』、
ハイファイセット『スカイ・レストラン』などなど
たくさんの美しいヒット曲をお持ちです。

いわば、洗練された村井さんの作風が、
そのままアルファのカラーとなり、
ユーミンに代表されるニュー・ミュージックの
旋風につながっていったのです。

余談ですが、ユーミンも村井さんが発掘。
そしてこの‘ニュー・ミュージック’という言葉は、
ユーミンを売り出すために、
アルファの会議室でみんなで考え出したのです。
これはホントの話。

村井さんという存在がなかったら、
ユーミンがあれほど早く世に出たかどうか分かりません。

そんな村井さんの数々の名曲のなかで、
私が最も好きな曲。

それは、ピーターの『夜と朝のあいだに』という曲。

(つづく)


(感想 2006/7/4)

現在『レコード・コレクターズ』という雑誌で、
4月号から、このアルファの特集をやってます。
私も先日取材を受けました。
たぶん来月号あたりに登場するのでは…。

それにしてもフランスのブラジル戦での戦いは、
本当に見事でしたね。
さすがジダン!

そろそろこの寝不足の毎日から解放。
ホっとする、と同時に、
なんだか寂しい気もしますが…。

SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 15:15コメント(1)トラックバック(0) 
〜2005 エッセイ 1  

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コメント一覧

1. Posted by さいとー   July 06, 2006 01:26
来月号ではなくて今月号つまり15日発売みたいですからもうちょっと。
おもしろそー

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