〜2005 エッセイ 2
- 日記と私
- クラシックのおすすめ その2
- クラシックのおすすめ
- 第九
- 坂東英二さん
- 阿波踊りはジャズだ その4(最終回)
- 阿波踊りはジャズだ その3
- 阿波踊りはジャズだ その2
- 阿波踊りはジャズだ
- ジャズまくり時代 その10(最終回)
- ジャズまくり時代 その9
- ジャズまくり時代 その8
- ジャズまくり時代 その7
- ジャズまくり時代 その6
- ジャズまくり時代 その5
- ジャズまくり時代 その4
- ジャズまくり時代 その3
- ジャズまくり時代 その2
- ジャズまくり時代
- レコード買いまくり時代 その4
- レコード買いまくり時代 その3
- レコード買いまくり時代 その2
- レコード買いまくり時代
- みんな野球少年だった その2
- みんな野球少年だった
- カシオペア・デビューよもやま話 その2
- カシオペア・デビューよもやま話
- 私をスキーに連れてかないで その7
- 私をスキーに連れてかないで その6
- 私をスキーに連れてかないで その5
- 私をスキーに連れてかないで その4
- 私をスキーに連れてかないで その3
- 私をスキーに連れてかないで その2
- 私をスキーに連れてかないで
December 30, 2007
日記と私
今年もあとわずかですね。
いやあ、
いろんなことがありました。
特に10/17、
ジャミン・ゼブのデビュー以降は、
おかげさまで、
本当にあわただしく、
充実の日々を過ごさせていただきました。
来年に向けて、
素晴らしいスタートが切れたと思います。
来年もがんばらねば…。
さて、
そんな2007年の締めくくりは、
こんなお話を、
リニューアル。
2004年12月29日 No.94
「日記と私」
‘意外’と思われるでしょうが、
私は日記を書いております。
誰も信じてくれませんが…。
年をとると、
一年経つのが、
どんどん早く感じていくんですね。
若いころの半分くらいにしか感じない。
「いかん、
このままでは、
人生があっという間に終ってしまう。
何かいい案はないものか…。」
と、あせりはじめていた、
5、6年前のある日のこと。
私は、
ユニークな文体で知られる、
ジャズ、映画評論家、植草甚一氏の
「植草甚一読本」という本を
たまたま読んでいました。
その中に、
「1970年の日記」というのがあります。
1970年というと、
ちょうど私が高三から大学入学の頃です。
最初は、
その頃を懐かしく思い出しながら
読んでいたのですが、
そのうち、
ある亊に気づきました…。
氏の日記は、
その日の‘出来事’が書いてあるだけで、
心情、感情などはほとんど記されていない。
例えば、1月2日はこうです。
「三時に起きて、キングスレイ・エイミスの
『グリーン・マン』を読みだし、それから
ヒゲを剃って五時にサンケイへ出かける電車の中で
読み続ける。
日野と大塚のジョイント・コンサート
なかなかよく、来てよかったと思った。
朝、五木寛之さんから年賀の佃煮。
『暮らしの手帖』から台所の道具をもらった。
コンサートの帰りオザワの末村君と新宿で
カツをたべたが、むこうで出した。
帰宅後くたびれたので一時間ほど横になり、
十二時すぎに起きて『グリーン・マン』
を読みつづける。」
1月6日は、どうかというと、
「十時すぎに起き『ジャーナル』の原稿にかかる。
けれどオシルコのむと眠くなった。三時まで寝る。
オリオン・プレスからコミックスのことで電話。
『報知』『ユリイカ』に電話する。
朝、栗田さんから原稿の催促。」
とまあ、いつもこんな調子。
でも、私には感じるものがありましたね。
例えば、
毎日ゲーテにでもなったつもりで、
心情などドロドロと書いてみたとする。
私が死んだあとで、
家族や友人がそれを読んだら、
「あいつ年のわりに幼かったんだなあ。」
とか、
「けっこうウジウジ女々しい奴だったんだなあ。」
とか、
何を言われるかわからない。
しかし、出来事だけなら平気。
それに自分があとで読みかえしても平気。
むしろ「ああ、そんなこともあったなあ。」
と楽しくなります。
ところが心情、感情を書きつづっていると、
あとから読むと赤面。
きっと破り捨てたくなること必至でしょう。
ということで、
1999年の元旦から、この
「出来事日記」を続けてるわけです。
私が使ってるのは、
「能率手帳メモリー・ポケット2」という、
黒表紙の中っくらいの日記帳で、
ちょうど一日一ページが書けるようになっている。
これを何があっても埋めるようにしています。
すると、
何もしないと書くことがなくなるので、
何か行動しなくてはならなくなる。
怠惰な私には、
自分を奮い立たせる原動力にもなるわけです。
おかげで感覚上一年が、
‘普通の長さ’に戻りましたよ。
先日、来年のを買ってきたので、
早くもこれが7冊目ということになりますね。
今、今年の分を読み返してるところですが、
今年もなかなかに、
波乱万丈な年ではありましたね。
さあ来年は、
どんな一年になるのでしょうか?
(感想 2007/12/30)
これを書いたのが3年前。
で、私にしては珍しく、
まだ続いております、日記。
そして先日、
2008年の分も手にしました。
この日記が、
毎日書ききれないくらいの、
素敵な出来事で、
いっぱいになるといいのですがね。
というわけで、
今年も本当にお世話になりました。
来年がみなさんにとって、
素晴らしい年でありますように!
よいお年をお迎えください。
感謝をこめて…。
SHUN MIYAZUMI
December 21, 2007
クラシックのおすすめ その2
ほんとに。
ZEBLOG(jammin' Zeb ブログ)
が、凄いことになってますね。
特に、「JVC JAZZ FESTIVAL」
が決まってからの、
ファンの方の「おめでとう」コメントの数々。
感激しました。
それにしても、
ほんとに早いペースで走ってますねえ、
ジャミン号。
舵をとる私も、
「おっとっと」
の早さです。
しっかり進路を間違えないようにしなくては…。
さて、今日もクラシックのお話。
ちょっと真面目です。
「クラシックは苦手だなあ。」
という方も、
一度は目を通していただけると、
嬉しいのですがねえ…。
2004年12月09日 No.93
クラシックのおすすめ その2

ピエール・ブーレーズ!
まぎれもなく史上最高の指揮者だと思います。
特に現代音楽を中心にした大オーケストラ物では、
他の追従を許しません。
そして前回も書きましたが、
近年『ドイツ・グラモフォン』と契約してからは、
CDの持つダイナミクス(強弱)の利点を、
最大に活かして、
驚くべき作品を連発しています。
きょうはその中から、
私のお薦めのアルバムをいくつかご紹介します。
もちろん独断と偏見に満ちていますが…。
まずは、バルトーク。
『管弦楽のための協奏曲』
(シカゴ交響楽団)
見事な曲ですねえ。
そして見事な演奏!
現代音楽なので、
とっつきの悪い厳しいハーモニーも多いのですが、
その中にも、優しくて愛に溢れた旋律が
見え隠れするのがたまらない。
特に終楽章の超アップテンポのフーガは圧巻!
こんな演奏をされたら、
他の指揮者はこの曲を、
やりたくなくなるのではないでしょうか?
『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』
(シカゴ交響楽団)
これも‘素晴らしい’のひと言に尽きます。
子供のころ、初めてこの曲を聞いたときの感想。
「うわ、お化けが出そう、気持ち悪〜い…。」
しかし演奏がいいと、
つい入り込んでしまうんですね。
今では、この一楽章の弦の怪しげなフレーズが、
逆に快感になってしまいました。
そして終楽章では、
この怪しげなフレーズに、
この世のものとも思えない美しいハーモニーが…。
いつもその場面では、目頭が熱くなります。
『中国の不思議な役人』
(シカゴ交響楽団)
『弦、打、チェレ』のカプリングに入ってる、
パントマイムのための音楽。
あまりの過激な内容に、
幾度となく妨害、中止が相次ぎ、
バルトークの生前中には初演できなかったそうです。
この演奏も凄いですよー。
曲のまん中あたり、
「中国人の役人」がいよいよ現れるあたりの、
強烈なリズム、怪しげな中国メロディーの炸裂。
いつも「イエーイ!」と叫んでしまいます。
『ヴァイオリン協奏曲 第2番』
(ギル・シャハム(vn)、シカゴ交響楽団)
これも美しいなあ。
でも最初は、やっぱりとっつき悪いです。
「なんで、もっと素直に行かんかなあ。」
と、不満に思うことしばしばなのですが、
次第に、これが快感に変わっていく。
このあたりが、
バルトークのおっかないところ。
そして、いつしか、
「バルトーク中毒患者」になってしまってる私…。
そう、
ブーレーズのおかげで、
私はすっかり「バルトーク中毒」
にかかってしまいました。
とにかくこの人の和声(ハーモニー)は、
ジャズのコード理論では解明できません。
真の天才だと思います。
そして、このブーレーズとバルトーク。
相性はピッタリのように思われます。
とにかく何を聞いても面白い。
ブーレーズは、こう言っています。
「現代音楽に人気がないのは、
演奏が悪いからだ。」
まさに、これを自ら証明してくれましたね。
凄いです。
次に好きなのが、マーラーの巨大交響曲。
特に、5、6、7番が素晴らしい。
なかでも6番は圧倒的です!
(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)
特に終楽章。
30分にも及ぶ劇的な音楽で、
「悲劇的」というニックネームもうなずけます。
19世紀末のヨーロッパ。
来るべきナチの台頭や、
その後のヨーロッパの悲劇を、
予言してるかのように思えるのは私だけでしょうか。
7番は、終楽章がワーグナーの
『ニュルンベルグのマイスタージンガー前奏曲』
を意識しており、
これでもかこれでもかとクライマックスが訪れます。
1〜4楽章は面白い打楽器を多用しており、
ジャズ的な匂いも感じられ、
いつも一気に聴いてしまいます。
貫禄の演奏ですな。
(クリーヴランド管弦楽団)
5番は逆に1〜3楽章が、
「さすがブーレーズ」を思わせます。
今までこの曲は映画『ヴェニスに死す』
で一躍有名になった4、5楽章しか聴かず、
1〜3楽章はどちらかというと退屈だったのですが、
ブーレーズの手にかかると、
こんなにも面白くなるという典型。
(ウィーン・フルハーモニー管弦楽団)
ブーレーズの指揮は、とにかくテンポが揺るがず、
がっちりと構成されており、聴いていて爽快。
ダイナミクスが凄く、
‘爆音’で聴くことをお薦めします。
さもなくばヘッドフォンで‘爆音’でどうぞ。
超ピアニシモから突然の超フォルテシモ!!
心臓の弱い方はご注意。
BGMには不適です。
それから彼をスターダムにのしあげた
ストラヴィンスキー、
『春の祭典』『火の鳥』『ペトルーシュカ』
の3大バレエ音楽。
(クリーヴランド管弦楽団)
このあたりは、まさに独壇場ですね。
特に金管楽器が炸裂してくると、
もう一発でノックアウトですわ。
『ラヴェル管弦楽曲集』の2枚も、
おすすめです。
(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)
『ボレロ』『マ・メール・ロワ』『スペイン狂詩曲』
などが入ってるものと、
『ダフニスとクロエ』全曲に、
『ラ・ヴァルス』がカプリングになったもの、
があります。
圧巻は、その『ラ・ヴァルス』!!
これはラヴェルがウィンナ・ワルツを想定して書いた曲。
ジャズ的なハーモニーもふんだんに。
ヴィスコンティの、
退廃的な貴族映画を想わせるような、
絢爛豪華な中にも官能的な美しさに溢れた、
圧倒的な名演です。
ところで、
ブーレーズは特定のオーケストラを持たず、
曲によってオケを選びます。
私の勝手な解釈ですが、
例えば、バルトークやストラヴィンスキーでは、
ジャズ的な匂い、
あるいはリズム感を求めてでしょうか、
シカゴ交響楽団かクリーヴランド管弦楽団、
といった、
アメリカのオーケストラを使う。
マーラーでも7番は前述したように、
多少ジャズ的な要素があるので(特に1〜4楽章)
やはりアメリカのクリーヴランド。
ところが5番、6番は、
なんといってもウィーン・フィル。
ウイーンという街がなければ、
これらの曲は生まれてないのでは?
じゃラヴェルはフランスのオーケストラと思いきや、
これはベルリン・フィル。
ラヴェルの曲は
特に管楽器がめくるめき音数で色彩感を出します。
したがって‘個人技’が必要になる。
‘個人技’といえば、
やはり世界ではベルリン・フィルが一番、
という理由だろうと私は思うのです。
何年か前に、
最初の一ヶ月はシカゴ交響楽団。
次の一ヶ月はロンドン交響楽団を呼んで、
ブーレーズは日本に居ずっぱりという
コンサート・ツアーがありました。
なんとぜいたくな…。
こんなことが出来るのは、
世界でもこの人だけでしょう。
その時にやったストラヴィンスキー『火の鳥』
をTVで見たのですが、
演奏が終るとものすごい拍手と歓声。
そしてオーケストラ・メンバーに、
立ってお客への挨拶をうながしたところ、
オケは誰も立ち上がらず、
皆ブーレーズに笑顔で拍手を送っている。
一人狼狽したブーレーズが苦笑いをして、
観客席とオケの両方にペコペコしてる様が、
可笑しくもあり感動的でした。
もちろん演奏は終始鳥肌もんでしたよ。
年末、年始
部屋を暖かくして、
優雅な気分でこれらを聴くのも
一興かもしれませんね。
それにしても、
70才を越して、
ますますエネルギッシュなブーレーズちゃん。
負けてられまへんでー。
(感想 2007/12/21)
前回のコメントのなかで、
「指揮者ってなにするの?
巨匠と普通の指揮者の違いは?」
というご質問がありました。
ま、私は、
クラシックに関しては、
専門家ではありませんが、
それなりの一家言は、
持っております。
次回は、
そんなお話をしてみましょうかね。
ちょっと時間的にも、
余裕ができてきたことだし。
ああ、早く忘年会がしたい…。
SHUN MIYAZUMI
December 17, 2007
クラシックのおすすめ
師走だなあ…。
おっと、
これは去年も使ったギャグですね。
失礼、失礼。
でも、本当に一年が経つのは早いもの。
おかげさまで、
快進撃ジャミン・ゼブのおかげで、
今年の冬は、
いつになく充実しております。
まだ年内、
たくさん仕事が残ってますからね。
もうひとふんばりだ…。
さて前回、
「第九」の話を書いたら、
これが思わぬ反響でした。
というわけで、
今回もクラシックのお話です。
2004年11月29日 No.92
「クラシックのおすすめ」
職業柄、よく人に、
アナログ盤とCDの違いについて聞かれます。
もっとも25才までの若者には、
アナログ盤といってもピンと来ないかもしれません。
クラブのDJが、キュッキュッと回す‘道具’
くらいの認識しかないかもしれませんね。
しかしほんの20年くらい前までは、
レコードといえば、
このアナログ盤のこと。
そして、
どちらが好きかと聞かれれば、
私は今でも、
「アナログのほうが好き」と答えます。
例えばレコーディング・スタジオで、
録音のスタンバイが出来たとします。
いろんな楽器にマイクが立てられました。
そして、まだ音が出ない状態で、
スピーカーのボリュームをフルに上げたとします。
すると‘シャーーー’というノイズが聞こえます。
実はこれ「空気の音」なんですね。
つまり自然界に実際に存在する音なのです。
アナログでは、
マイクで拾った音がそのまま録音されるので、
当然この「空気の音」も一緒に録音されます。
しかし、これこそが自然のなりゆきなのです。
ところが、デジタルすなわちCDは、
信号(パルス)によって録音されるので、
この空気音は録音されません。
これがCDの音をして「クリアな」と呼ばれるゆえん。
しかし実は自然の法則に反してる。
実はどこか歪められた、
不自然なサウンドなのです。
確かにCDの利点はたくさんありますね。
前述したように、
音がクリア。
それから収録時間が長い。
ポップス物だと15曲も、いや20曲だって可能。
アナログだと傷がついたらそれまでだけど、
CDは何回聴いても同じ状態。
アナログのように、ゆがんだりすることも無い。
小さいから、収納スペースが楽。
軽い。
などなど…。
でもね。
一枚のアルバムに、
そんなにたくさん曲が必要ですか?
アナログ時代では、
10曲かせいぜい12曲。
でもそのぶん曲が厳選されてて、
何度でも聴きたくなる作品が多かった。
制作者側から言わせてもらえば、
曲順を考えるのも、
アナログ時代のほうが楽しかった。
例えば私の場合、
一曲目は導入として最も派手な曲。
A面の最後は中締め的な曲。
そして盤をひっくり返して、
B面のトップはシングル曲。
そして最後は劇的なフィナーレになる曲、
と、コンサートのプログラムを組むような、
楽しみがありました。
(ああ、このA面、B面という響きも素敵だ。)
しかし今は…、
CDショップの試聴コーナーで、
ユーザーが気を引くように、
押し物の曲をずらずらアタマのほうに並べるだけで、
なんの策もないものがほとんど。
それから、
傷がつかなくていいと言いますが、
はたしてそうでしょうか。
作詞家の松本隆さんも、
「レコードを擦り切れるまで聴いた、
という表現が無くなるのは寂しい。」
と言ってましたが、
私も同感。
何度も聴いて、
そのうちブチブチとノイズが入り、
ついには擦り切れてしまい、
また買い直す。
このアナログ時代にこそ存在した、
‘愛聴盤への思い’が、
人生にどれほどの潤いをもたらしたことか。
さらに、
小さくて収納が便利と言いますが、
ジャケットの素晴らしさ、芸術性は、
あのLPサイズの大きさがあってこそのもの。
セロニアス・モンクなんて、
まさにジャケットが‘アートそのもの’です。
マイルスもエヴァンスも○○も△△も…。
ジャズでは、
「ジャケットを見ての衝動買い」
なんてのもよくやりました。
今は無い。
……。
ところが、
CDの出現によって、
私の中で、
再びクローズ・アップされた、
音楽ジャンルがあります。
それが、
クラシック。
しかも大オーケストラ物。
マーラーやブルックナーの巨大交響曲。
ストラヴィンスキーやバルトークなどの現代音楽。
ラヴェルやドビュッシーなどの色彩感溢れる印象派。
これらに共通するオーケストレーションの妙味。
アレンジの面白さ。
長尺ものだって、
なんのその。
そして何よりも、
強弱のダイナミクス!!
たとえば、アナログ時代だったら、
pp(ピアニシモ)からff(フォルテシモ)
くらいまでの幅で、
それ以上の強弱を求めると‘針飛び’が起きる。
したがって、
レベルを下げて収録せざるを得ない。
すると音が痩せて、
かつ迫力に欠ける。
しかしCDならどんと来い!
pppppからfffffまでだってOK。
そして、
そのCDの持つ利点を最大に活かして、
70才を過ぎても精力的な録音を続ける、
史上最高にして最大の指揮者がいます。
私がもっとも敬愛する、
その人の名は、
ピエール・ブーレーズ!
中学生の頃、
このブーレーズがさっそうと楽壇に登場した時の、
ストラヴィンスキーの『春の祭典』
をラジオで聴いたときの驚愕は、
忘れられません。
それまでクラシックといえば、
ベートーベンやモーツアルトといった古典を好み、
現代音楽は難解だから、
と敬遠してた私でしたが、
(子供だからあたりまえか)
これを聴いて、
ジャズにも似た強烈なリズム感と
劇的なハーモニーに魅せられました。
今思うと、
後のジャズ狂いは、
この時芽ばえたのかもしれませんね。
そのブーレーズが近年、
クラシックの最高レーベル
『ドイツ・グラモフォン』
と契約してからの仕事ぶりは、
まさに驚愕の連続です。
私もこのサイトのプロフィールに、
好きなミュージシャンの一人として
彼の名を挙げてますが、
次回はそんなブーレーズの魅力と、
私の熱い思いを語ってみましょう。
待ってろ、
ブーレーズ…。
(つづく)
(感想 2007/12/17)
なぜか、
クラシックの指揮者って、
長生きが多いですよね。
一説には、
60才で新鋭。
70才で中堅。
80才でベテラン。
90才で長老。
……。
ジャズメンは早死にが多いのに。
日頃の節制が違うのかなあ…。
今度、
「大指揮者と喫煙、飲酒、夜更かし」
に触れた本があったら、
誰か教えてください。
無いか、
そんなもん…。
SHUN MIYAZUMI
December 13, 2007
第九
いやあ、きのうの丸の内。
やはり大爆発でしたね。
昼も夜も、
本当に大勢の方が、
つめかけて下さいました。
素晴らしいライブでした。
ジャミン・ゼブになりかわり、
あつく御礼申し上げます。
さて年内、彼らのフリー・ライブも、
12/23(日)の「丸の内 オアゾ」
を残すのみとなりました。
今年最後の、
大盛り上がりといきましょう。
さらに、
2/12(火)には、
六本木「スイート・ベイジル」
アルバム『Smile』でも、
素晴らしい演奏をしてくれている、
吉川昭仁(ドラム)や、
かわ島崇文(サックス)も、
満を持しての登場です。
どうぞお早めにご予約を!
(詳しくは、
jammin'Zebブログの、
「Informatiom」コーナーを。)
さて今日は、
季節柄、
こんなお話を引っ張り出してきました。
2004年11月22日 No.91
「第九」
「第九」(だいく)と言えば、
ベートーベンの「第九交響曲(合唱)」
今年もそんな季節になりましたね。
12月になると、
やたらめったら「第九」が演奏される。
これって、おそらく、
日本だけでしょうね。
一説によると、
この曲の日本初演が12月だった、
というのが理由とか。
単純な発想ですなあ…。
でも、確かにこれは、
素晴らしい曲。
人類が生んだ最高の楽曲といっても、
過言ではありません。
この私ですら、
この曲(特に4楽章)は死ぬほど聴きました。
すみからすみまで全部ソラで唄えるほど。
そして、
いつ聴いても、
ジーンとして涙がでるほど感動する。
どんな人が演奏しても感動する。
山本直純「10,000人の第九」だってジーンと来た。
そんな名曲は、
そうザラにあるもんじゃない。
だから、
いつだって演奏したり聴いたりすればいいのに、
なぜか日本では12月だけ!?
「おーい、間違ってるぞニッポン!」
……。
ところが、かく言う私も、
12月にならないと聴きません。
なぜかそういう体質に、
させられてしまってるようです。
かつて、
アメリカ建国200年記念でお祭り騒ぎの、
しかも7月4日(独立記念日)。
私はたまたまニューヨークにいました。
そして、
セントラル・パークに50万人もの人が押し寄せ、
ニューヨーク・フィルが演奏する「第九」を、
TVで観ました。
しかし、なんかピンと来ないんですね。
暑い暑い、真夏に聴く「第九」なんて。
慣れ、風習というのはおそろしいもんです。
毎年、年末になると
「第九」を聴き、感動し、
今年一年の自堕落な生活を反省し、
ベートーベンのように崇高に生きたいと思い、
そのままNHK「ゆく年くる年」を観て、
さらにおごそかな気持ちになり、
「来年こそはしっかりやるぞ!」
と決意する。
しかし年が明けると…、
そんなことはさっさと忘れて、
民放のバカなバラエティーや、
「欽ちゃんの仮装大賞」を観て、
大口をあけて笑いこけ、
正月休みが終ると、
待ちかねたように地元のジャズ・バーに出かけ、
いつもの飲み仲間やマスターと、
バカな話で盛り上がりながら、
大いに酒を飲む。
こうして、相も変わらず、
何の変哲もない自堕落な一年が始まるのです。
そのころには、
頭のなかには、
「第九」のカケラもない。
こういう人って、
以外と多いのではないでしょうか。
そして残念ながら私も、
そんなときふと、
典型的な日本人であることを、
自覚するのです。
……。
きょうは、そんな「独り言」でした。
さて、最後に、
音楽家のはしくれである私が、
ひとつだけいいことを教えちゃいましょう。
何故この曲はこんなにも、
万人に愛されるのか?
それはですね、
例のあの‘メロディー’にあるのではないか、
と思うのです。
小学校の音楽の教科書にある‘あれ’
「喜びの歌」と言われてる‘あれ’
「晴れたる青空〜」ではじまる‘あれ’です。
あのメロディーをC調(ハ長調)にして、
ピアノの鍵盤を叩いてみて下さい。
ミミファソソファミレ ドドレミミーレレ♪
ミミファソソファミレ ドドレミレードド♪
レレミドレーミファミド♪
レーミファミレドレソ♪
ミーミファソソファミレ ドドレミレードド♪
使ってる音は、
「ド、レ、ミ、ファ、ソ」
の5つだけ。
黒鍵もなんにも使わずに、
たった1オクターブのなかに、
スッポリ収まってる。
これ以上シンプルには出来ない、
と言っても過言ではない、
単純なメロディーが、
見事なアレンジ展開で、
おそろしい感動を生みだしていく。
このあたりが、
ベートーベンの凄さなのでしょうね。
偉大です…。
ということで、
そろそろ私の部屋にも、
あの、
「オオ、フロ〜〜〜〜〜〜〜〜イデ♪」
なんてのが、
流れはじめるのです。
ちょうど、
「ボージョレ・ヌーヴォ」解禁日のように。
すまん、
ベートーベン…。
(感想 2007/12/13)
そういえば、
おととい(11日)の「代々木ナル」
のお礼を忘れていました。
大勢の、
暖かいお客さんの拍手に乗せられ、
本当に楽しく演奏できました。
これまた、
ありがとうございました。
乗りすぎたせいか、
まだ指が痛いです。
アハハ。
そしてきのうは、
‘もぬけの殻’状態の私。
ジャミンは、
何事もなかったかのように、
ケロッと歌ってるのに。
年の差か…。
SHUN MIYAZUMI
August 25, 2007
坂東英二さん
佐賀北高校。
お見事でした!
下馬評どころか、
誰も注目しなかった、
県立の進学校が、
次々と‘野球強豪校’を破る姿は、
本当に感動的でした。
まさに、
「高校野球の原点」
を見る思い。
そして、
あの決勝戦の、
劇画を見るかのような、
ドラマチックな満塁ホームラン。
永遠に語り継がれるチーム、
そして決勝戦でしょうね。
さて、
今を去る事、約50年前。
甲子園には、
こんなヒーローもいたのです。
2003年5月20日(火) No.48
坂東英二さん
ここんとこ、
阿波踊りのお話で、
かってに盛り上がってしまいましたが、
阿波踊りといえば、
徳島。
そのときにも書きましたが、
私は父親の転勤のため、
小学校の2、3年生を、
徳島で過ごしました。
この徳島という街。
駅を出ると、
中央にずーっと芝生を敷き詰めた、
ロータリーが続いています。
左右に道路。
そして正面に小高い山が見えるのですが、
これは眉山(びざん)といいます。
かつては蜂須賀の殿様の
居城があったのでしょうね。
今はロープウエイがあったりして、
市民の憩いの場所です。
その眉山のふもとに、
父の勤めていた、
「日本電建」の社屋と社宅があり、
私はそこで暮らしておりました。
そんな昭和34年の秋のこと。
その会社の前の、
芝生のロータリーに、
二人の徳島出身のプロ野球選手が、
シーズン・オフのトレーニングに来ていました。
ひとりは、
阪急ブレーブス(今のオリックス)の、
広野選手。
(のちに中日、巨人で活躍した広野選手のお兄さん)
そして、
もうひとりは…、
前年(昭和33年)の夏の甲子園で、
徳島商業のエースとして大活躍。
準々決勝では、
歴史に残る「魚津商業」との熱戦で、
延長18回を投げ再試合。
疲労のため惜しくも準優勝に終わりましたが、
そのオフ、
鳴り物入りで中日ドラゴンズに入団。
一年目からすばらしい活躍をした、
郷土の英雄。
その人とは…?
そうです。
今やタレントとして大活躍の
坂東英二さん。
さあ、
坂東選手を見つけた私ら子供たちは、
もう大騒ぎ。
「うわあ、坂東さんだ!」
さっそく駆け寄って、
腕にしがみつくわ、
背中に飛び乗るわ。
でも当の坂東さんたち、
いやな顔ひとつせず、
ドッジボールやらバレーボールやら、
眉山のふもとでの鬼ごっこやら、
毎日、毎日遊んでくれたのです。
子供好きな、
いい人たちだったんでしょうね。
彼らも本当に楽しそうでした。
ある日私は、
またまた坂東選手を発見。
その日は、
彼ひとりで、
黙々と、真剣なまなざしで、
トレーニングをしていました。
私もひとりでしたが、
おそるおそる、
「こんにちは。」
と歩み寄ると、
「やあ、君か。」
とニコニコ。
さらに、
何を思ったか坂東さん、
「ボク、
家に連れてってやろうか。」
と言ってくれたのです。
そして、
うちの両親のところへ来て、
了承を得ると、
彼は私をタクシーに乗せ、
彼の実家へ、
連れて行ってくれました。
サインボールをもらい、
いろんな野球の話をしてもらい、
お母さんの作ってくれたソバまで、
ごちそうになり、
それはそれは至福の時をすごし、
帰りもちゃんと家まで、
送り届けてくれたのでした。
夢のようなひとときでしたが、
一体全体、
なぜあれほどまでにやさしくしてくれたのか、
私にとっては今だに、
大きな謎です…。
ご存知のように、
今や彼は、
押しも押されもしない、
芸能界の大物。
私も同じような業界にいるので、
いつかはお会いして、
このときの話でもしたいなあ、
と思っているのですが、
叶うことなく、
こんなに長い年月が
経ってしまいました。
……。
そんなわけで、
阿波踊り…。
坂東英二さん…。
たった2年の在住でしたが、
徳島という街は、
本当に忘れることのできない街です。
さらにこの2年間は、
あらゆる意味で、
私にとっては、
革命的な2年間だったようです。
私のプロフィールにもあるように、
学校の「持ち物調査」によって、
期せずしてオルガンを手にし、
‘音楽’の勉強をはじめたのがこの頃。
我が家に「レコード・プレイヤー」が来たのも、
この頃。
それから、
かつても書きましたが、
「東映時代劇」にしびれ、
タダで映画館通いをしていたのもこの頃。
我が家にテレビが入り、
それまでラジオでしか知らなかった
栃錦や若乃花や大鵬の勇姿を、
目の当たりにしたのも、
この頃。
これまた過去ログにある、
アメリカの「TVアクション・シリーズ」に
夢中になったのもこの頃。
プロ野球では、
新人長嶋茂雄の華麗なプレーや、
王貞治のホームランに酔いしれ、
坂東さんとの出会いで、
「野球大好き少年」になったのも、
みな、
この頃。
こりゃまさに、
私の人生における、
文化大革命の時期だったんですね…。
それはそれは、
夜寝るのがもったいないくらい、
毎日、毎日が新鮮な、
そんな日々でした。
ということで、
来年あたりは、
これまた30年ぶりに、
行きたくなってきました、
徳島…。
なんたって私にとっての、
「文化の聖地」
のようですから…。
(おわり)
(感想 2007/8/25)
その佐賀北高校の、
決勝戦の相手、
広陵の監督が、
試合後に語った「判定への不服」が、
大きな問題になってるようですね。
2チャンネルでも、
すごいコメントの嵐。
昨夜、あまりに面白くて、
ずっと読んでたら、
朝になってしまいました。
いかん…。
ま、8-2で、
この監督が不利のようですね。
ただし中には、
匿名をいいことに、
とんでもないことを書いてるヤツもいましたが…。
私は、あえてコメントしませんが、
素直に勝者を讃えることのできない
指導者を見て、
あの学校の子供たちが、
どう育っていくのか。
そこだけが心配…。
野球にも、人生にも、
‘ればたら’は無いのに。
……。
SHUN MIYAZUMI
August 15, 2007
阿波踊りはジャズだ その4(最終回)
ほんと暑いですねえ。
みなさん大事ありませんか。
それにしても、
今年も高校球児諸君、
やってくれてますよ、
こんな炎天下で毎日、
野球。
ま、仕事の関係で、
去年ほどは見られないものの、
それなりに今年も、
楽しませてもらってます。
なにせ野球オタクですからね。
さて、
一通り全校が姿を見せたところで、
ちょっと早いですが、
そんな野球オタクの、
大胆優勝予想!
私、そろそろ、今年あたり、
東北に初の優勝旗が、
行くんじゃないかと、
思うんですよ。
ズバリ、
「仙台育英」か「青森山田」
西に強豪が少ない今年は、
絶好のチャンス。
立ちはだかるは、
「帝京」と、
春の覇者「常葉菊川」
ダーク・ホースに、
「神村学園」と「大垣日大」
どうでしょう?
はずれたらごめんなさい。
そういえば、
「常葉菊川」のユニフォームって、
「ニューヨーク・ヤンキース」
にそっくりですね。
そのせいか、
やけに強そうに見える。
ま、ここに勝ったところが、
優勝でしょうね。
さて今日は、
「阿波踊り」の最終回。
きのうもニュースでやってましたね。
ただ今、真っ最中のようです。
行きたい……。
2003年5月6日(火) No.47
阿波踊りはジャズだ その4(最終回)
さて、この4日間というもの、
徳島という街は朝早くから夜遅くまで、
例のお囃子が鳴り止むときはありません。
どの連も、お囃子組がいるわけですから、
街中がこのサウンド‘一色’
といっても過言ではない。
そう、今にして思えば、
徳島の人は、
お囃子やら三味線やら笛やら、
演奏できる人が、
ほんとにたくさんいるわけですね。
これだけでも凄いことですよ。
立派に、
文化を継承してらっしゃる。
そして、
駅の近くの大きな商店街の一角には、
観光客用に桟敷スタンドが設けられています。
何人くらい収容できるのでしょうか、
左右に階段状に設けられた、
このメインスタンド。
実はどの連も、
一日に一度は、
ここを通ることになってるのです。

街中で一緒に踊るのも良し。
ここから見物するも良し。
「踊るあほうに見るあほう」
とはよく言ったもの。
このスタンドから、
次々にやって来るいろんな連の踊りを見るのが、
これまた楽しい。
中には本当のプロの集団(連)まであるのです。
海外にまで遠征してるグループまである。
「のんき連」「阿呆連」「蜂須賀連」といった、
プロの踊りもまた、
均整がとれた、
それはそれは見事なものです。
そして、
一見代わり映えのしない踊りが、
プロアマ入り乱れてやってきても、
まったく飽きることがない。
不思議です。
その昔、
私の敬愛するジャズ・ピアニスト
菅野邦彦さんが、
一曲4時間、
という「ブルース」を演奏した場面に、
遭遇したことがあります。
もうノリノリで、
手がつけられなかった。
ご機嫌にスイングしながら、
アドリブも尽きることがない。
何かが乗り移ったかのような、
ある種狂気の世界に、
鳥肌が立つような感動を覚えました。
阿波踊りの狂躁も、
それに近いものがある、
と私は思います。
強烈なリズムと、
不思議なサウンドに魅せられて、
取り憑かれたように踊り狂う人、人、人。
狂乱の一大絵巻。
これは、
ジャズの魔力に近いものがある、
のではないでしょうか。
秩序と混沌。
静寂と狂躁。
相反するものが見事に混ざった、
素晴らしい世界ですね。
一度社会人になって、
アルファ・レコードの先輩、後輩3人を引き連れて、
「阿波踊り」見学に徳島を訪れたことがあります。
「どういう反応するかなあ?」
と心配だったのですが、
みな、
「鳥肌!」「感動!」「目頭が熱くなった!」
というものでした。
みなさんも、
ぜひ一度行ってみて下さい。
そしてじかに、
体感して下さい。
絶対お薦めです。
世界遺産にすべきだ…。
(おわり)
(感想 2007/8/14)
もうひとつ、
私が‘ジャズ’を感じる日本の伝統芸。
それは、
津軽三味線。
あのグルーヴ感も強烈ですね。
独特の3連の乗り。
そして、
ペンタトニック・スケールを駆使した、
インプロビゼーションの嵐。
(ちょっと専門的ですみません。)
私がピアノ以外で、
演奏したいなあと思うのは、
あれですね。
もう無理かな…。
SHUN MIYAZUMI
August 10, 2007
阿波踊りはジャズだ その3
夏まっ盛り。
高校野球も始まったし、
街中が開放感にひたってる。
暑いのは、こたえますが、
私には大好きなシーズンです。
しかし、
今年の私の夏は、
仕事、仕事の毎日。
夏休みやお盆休みの話をしている人が、
ちょっぴりうらやましくもありますが、
ま、そんな年があってもいい。
やりがいのある仕事だし。
そう自分に言い聞かせて、
元気に乗り切りましょう。
そういえば、
これを書いてた2003年の夏も、
忙しかったなあ…。
出来たばかりのレコード会社、
「プラティア」に友軍として参加し、
女子十二楽坊の来日、デビューに合わせて、
毎日あわただしい日々を送っておりました。
4年前か…。
2003年4月28日(月) No.46
阿波踊りはジャズだ その3
ちょっと専門的になりますが、
ジャズには、
「ペダル奏法」というのがあります。
低音をずっと同じ音にして、
上のほうを、自由なコードやメロディー、
で奏でていくというものなのですが、
うまくいくと、
何とも不思議な世界を作る亊が出来ます。
オリエンタル・ムード、大陸的なムード、
自由自在です。
阿波踊りの音楽には、
その手法が存在してると言えなくもありません。
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
というノー天気な、
それでいて強烈にグルーヴする、
リズム隊と三味線隊の通奏低音の上に、
ピーヒャララ ピーヒャララ ♪〜♪
の笛が、
まったく違う調性で奏でられる。
さらに、
またまたそれとは違う調性で、
テンポも無視したゆったりした歌が、
その上に重なっていく。
しかし、
そうしたまったく違った音楽の要素が、
見事に調和し、
なんとも不思議かつ、
独特の世界を作っている。
その独特のサウンドに合わせて、
取り憑かれたように皆が踊りまくる…。
このような、
決め事と、
フリーな感覚の組み合わせの妙は、
ジャズの最も面白いところなのですが、
阿波踊りには、
ちゃんと、
それがあるのです。
さて、
かつて「私と映画音楽」のときにも書きましたが、
その昔、
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』という映画がありました。
(マーロン・ブランド主演)
大胆な性描写で話題にもなった、
『ラスト・エンペラー』で有名な、
ベルトルッチの作品ですが、
私に言わせれば、
年を取ることに恐れを抱く中年男が、
若い女を追いかけるというだけのもので、
あまり感動はしませんでした。
ただし、
クライマックスで、
男が、逃げる女を追いかけて
「タンゴ・ダンスのコンテスト」
をやってるお店に迷いこむシーン。
あれだけは、すごかった。
鳥肌が立ちました。
何組ものカップルが、
大まじめな顔をしてタンゴを踊ってる。
そして、
ジャッジャッジャッジャッ!
という規則的なタンゴ・リズムの上に、
ガトー・バルビエリという、
アルゼンチンのジャズ・サックス奏者の、
官能的な咆哮するテナーが、
まったく関連性もなく朗々と鳴り響く。
その不思議な組み合わせの、
音楽が流れる中、
逃げ惑う女と追いかける男。
しかし、そんなことは無関心に
踊りまる多くのカップル。
女たちの官能的な衣装や動きや表情。
この相反するいくつもの要素が、
奇妙に重なり合っての、
ある意味‘狂気’の世界。
すごいものでした。
ま、このシーンだけでも
ベルトルッチの天才を証明できるなあ、
と、思ったのですが、
阿波踊りにも、
そんな全く相反するものが同居していて、
それが、あの不思議な感動を、
呼び起こすのではないでしょうか。
そんな気がします…。
一日中踊っていても、
あるいは他の人達が踊ってるのを見ていても、
飽きることがないんですね。
すごい…。
(つづく)
(感想 2007/8/10)
話は、女子十二…に戻りますが、
その「プラティア」というレコード会社。
(後に、ミューチャー・コミュニケーションズ
と社名変更)
ご存知の方も多いと思いますが、
先日、
3億4000万の負債を背負って、
破産宣告しました。
4年前に、
彗星のように現れ、
あっという間に隆盛を極めた会社が、
こんなにも早く崩壊するとは。
……。
なんか、
やるせない気持ちですねえ…。
あの狂騒は、
いったい何だったんでしょう…?
落ち着いたら、
ゆっくり酒でも飲みながら、
話でもしましょうよ。
ね、
T本さん…。
SHUN MIYAZUMI
August 05, 2007
阿波踊りはジャズだ その2
暑中お見舞い申し上げます。
と言いながら、
私は早くも夏バテ気味…。
しかも、
あまりの忙しさで、
ここんとこブログの更新も、
週一回がやっとこさ。
(あいすみませぬ。)
さらに、
改めてスケジュールを見てみると、
私、この夏は、
「お盆休み」どころか、
休みもほとんどありません。
……。
というわけで、
「阿波踊り」の話を書きながら、
せめて夏休みの、
‘気分’にだけでも、
浸ってみることにします。
2003年4月22日(火) No.45
阿波踊りはジャズだ その2
昭和34年の夏。
徳島市。
小学校2年生の私にとって、
初めて体験する「阿波踊り」
ついにその日がやってきました。
父の勤める会社「日本電建連」
に参加させてもらった私も、
笑顔の母親たちに見送られて、
颯爽と街に繰り出しました。
いやあ、
やってるやってる。
あっちでもこっちでも。
この4日間、
交通はすべて遮断されますから、
道路でも、ロータリーでも、商店街でも、
それこそありとあらゆるところで、
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
ピーヒャララ ピーヒャララ♪〜♪
「○○銀行連」「○○同好会連」「○○大学連」
「○○デパート連」「○○商事連」
「○○商店街組合連」etc.etc.
それこそ何十、何百という連が、
あっちでもこっちでも、
踊り狂っています。
さながら、
町中が
「リオのカーニバル」
どのグループも、
「○○連」と書かれた提灯を掲げ、
めいめいがお揃いのゆかたを着て、
お囃子組を先頭に、
女たちは、
編み笠を目深にかぶって、
手と足を細かくリズムを取りながら、
きちんと整列したまま踊り、
その後を男たちが、
うちわを片手に、
ちょっと腰をかがめて、
大股でゆっくりリズムを取りながら、
勝手気ままに踊る。
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
ピーヒャララ ピーヒャララ♪〜♪
幼少の私も、
今まで味わったことのない楽しさ、
不思議な感動に包まれながら、
大人たちに交じって、
見様見まねで、
その輪のなかに、
自然に溶け込んでいました。
そう、不思議な感動…。
たった2年間の体験とはいえ、
この不思議な感動は、
幼い私の心に、
強烈に残ることになりました。
その感動が忘れられず、
社会人になってからも、
もういちど見に行ったのですが、
やはり、
鳥肌ものでしたね。
なんども目頭が熱くなったのを、
覚えています。
以来、
「なぜだろう?」
「いったいこの不思議な感動は、
どこから来るのだろうか?」
というのは、
私にとって、
大きな謎だったのですが、
最近になって、
実はあの、
「お囃子組が奏でている音楽」
あの音楽こそが、
「阿波踊り」特有の感動を、
呼び起こしてるのではないか、
と考えるようになりました。
まず、
チンドン屋のごとき、
太鼓、鐘、鳴り物軍団が、
あの、
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
というリズムをきざむ。
このリズムは、
かなり強烈です。
そのリズムに合わせて、
三味線のお姉さん達が、
(もちろんこれも編み笠、鳥追い女スタイル。
むむ、色っぽい…。)
3つの音(例えばG-A♭-G-F)という、
シンプルな音階を、
リズミックに奏でます。
ジャズ用語に例えると、
もうこれだけで、
充分に‘スイング’してる。
その上に、今度は笛です。
(E♭-D-C E♭-D-C E♭-D-C-D-C-A♭)
といった、
ちょっとせつないマイナーの日本音階を、
ピーヒャララ ピーヒャララ ♪〜♪
この、
一見不可思議な調性とリズムとメロディが、
妙にマッチングして、
あの、
自然に体が動いてしまう魔力を生む、
のではないでしょうか。
さらには、この
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
ピーヒャララ ピーヒャララ♪〜♪
の一定リズムの上には、
ご丁寧に、
歌まであるのです。
高い女性の声で、
ゆったりと、
しかも別の調性から入る。
「阿波の〜 とのさま〜 蜂須賀公が〜
今に〜 残せし〜阿波〜おどり〜 ♪」
そのゆったりとした歌にもおかまいなく、
バックは、相も変わらず、
チャンチャチャッチャ チャンチャチャッチャ
ピーヒャララ ピーヒャララ♪〜♪
そして最後に、
やっとこのリズムに合わせて、
「踊るあほうに見るあほう
同じあほうなら 踊らにゃそんそん♪」
と来る。
凄いです。
強烈です。
なんとも不思議なムードです。
一度聞いたら頭から離れません。
そして、なんだか、
じわーっとした感動につつまれます。
ある種の麻薬にも似た、
「反復性」の魔力。
あたかも、
ジャマイカの黒人が、
単純なリズムとコードの、
「レゲエ音楽」に狂喜するような、
ジャズにも似た、
そんな響き…。
……。
(つづく)
(感想 2007/8/5)
そういえば先日、
偉大な作詞家、
阿久悠さんが、
お亡くなりになりました。
私も、
若い頃に何度か、
一緒にお仕事をさせていただきましたが、
あの鋭い眼で、
ギョロっとにらまれると、
思わず縮み上がったものです。
我々の業界では、
詞の一行目を、
「つかみ」
と言います。
一行目で、
いかに大衆の耳を掴めるか、
という意味なのでしょうが、
この「つかみ」という点では、
この人の右に出るひとは、
いないでしょうね。
「上野発の夜行列車 降りた時から」
(津軽海峡冬景色)
「お酒はぬるめの燗がいい」
(舟歌)
「あなた変わりはないですか」
(北の宿から)
うまいですねえ。
70才か、
まだお若いのに…。
謹んで、
ご冥福をお祈り致します。
SHUN MIYAZUMI
July 29, 2007
阿波踊りはジャズだ
いやあ、
ライブはいいもんですねえ。
改めて実感しました。
7月の私は、
ほとんどレコーディングの毎日。
レコーディング・スタジオという、
密閉された空間で、
わずかばかりのスタッフと、
緻密な音作りに明け暮れる毎日。
そうした中での、
久々のライブ2連発ですから、
いや、楽しいのなんのって。
何とも言えぬ‘開放感’を満喫しました。
まずは、
7/26(金)の「代々木ナル」
CHIHARUとのコラボ。
例によって、
「途夢♪待人」さんが、
熱く感想記を書いてくださってますが、
まさに「筋書きのないドラマ」とは、
このこと。
最後は譜面すら来なかった。
アハハ。
「何でも好きにやって下さい」の、
CHIHARUの自由奔放さも、
いいですねえ。
お客さんもみな素晴らしく、
心から盛り上げていただき、
本当に楽しいひとときでした。
ありがとうございました。
次回このセッションは、
10/30(火)です。
そしてきのうは、
月末恒例「学芸大 A'TRAIN」
ミッドナイト・セッション。
これまた大盛り上がり。
プロ、アマ入り乱れての、
大競演。
最後は、
なつかしい「深町純」さんまで、
乱入してきたりして…。
そして、
「お願いだから、もう帰って〜〜。」
のマスターの悲鳴に促されて、
店を出たのが、
またまた朝の5時すぎでした。
ふう〜…。
みなさん、
お疲れさまでした。
また来月、
お目にかかりましょう。
さてさて、
‘開放感’と言えば、
これにまさるイベントは、
ありませんなあ…。
「踊るあほうに見るあほう。
同じあほうなら、
踊らにゃそんそん♪」
というわけで、
きょうからは、
日本の夏の偉大な風物詩、
「阿波踊り」のお話です。
2003年4月15日(火) No.44
阿波踊りはジャズだ
私が物心ついた頃、
私の父は、
「日本電建」
という会社に勤めていました。
いわゆる「月賦でマイ・ホームを」
というシステムを先駆け、
戦後急成長した建築会社、
だったようです。
昭和33年の秋。
私が小学校1年の時、
父はこの会社の徳島支店長に赴任。
当然幼い私も、
くっついて行ったわけですが、
この徳島というところ。
まず思い浮かぶのが、
‘すだち’
‘ゆず’でも‘ポンカン’でもなく、
日本料理に欠かせない、
絶妙の味の柑橘類。
これ、
徳島でしか出来ない物だそうですね。
それから、
‘鳴門のうずしお’
さらに、
「さわやかイレブン」
「山びこ打線」
で全国的な人気チームとなった、
‘池田高校’の野球。
でも、
なんと言っても徳島といえば
‘阿波踊り’!
この、
「リオのカーニバル」
とも比較される夏祭りは、
毎年8月、
お盆時期の4日間に開催。
昼夜を問わず、
それこそ市民が狂ったように踊り、
全国から毎年100万人以上が訪れるという、
「日本最大のお祭り」
とも言えるビッグ・イベント!
父の転勤のおかげで、
私も2年間、
実際に体験することができました。
いやあ、この凄さ、素晴らしさは、
じかに体験した人じゃないと、
わからないでしょうね。
この期間、
徳島の市民は、
自分の関連するいずれかの団体に、
もれなく参加。
そして各々の団体は、
その団体名の下に、
「連」という文字をつけて参加します。
「徳島大学連」
「○○商店街連」
といったように。
父の所属する「日本電建」
ももちろん参加。
したがって、その名前は、
「日本電建連」
好奇心旺盛、
おっちょこちょいの、
幼い私も、
参加させてもらいました。

(下のほうにいる‘あほうなガキ’が私です)
さて、
ひとつの団体は、
大きく3つに分けられます。
まず、お囃子組。
チンドン屋みたいな、
太鼓、鳴り物、三味線、笛。
それから女性群。
身内に女性が足りない時は、
近所の八百屋のおばさんやら、
社員の人の娘さんやらをかき集める。
まあみなさん踊りたいから、
どんな『連』も2、30人なら
あっという間に集まります。
女性は編み笠を深々とかぶり、
手を前のほうで動かしながら、
足を小刻みに刻んで踊ります。
どんな不細工なひとでも、
(失礼)
編み笠に顔が隠れてるので、
みんな可愛く、色っぽく見える。
ホントです。
そして男どもは、
共通の浴衣で、
片手にうちわを持って、
ちょっと腰を引きぎみに、
大胆にリズムを取って踊りながら、
ゆっくりゆっくり行進していくのです。
市内には、
こうした「連」だけで、
何百もあるのでしょうね。
本番の一週間くらい前から、
仕事や授業が終わると、
みんなで浴衣や着物
(もちろん女性も共通のユニフォームです)
に着替えて練習。
というより、
地元の人達、
この頃から、
もう仕事なんて、
手に付かない様子でしたね。
そして、
「日本電建連」の提灯を、
高々とかかげた人を先頭に、
当日の朝、
我らは隊列を組み、
さっそうと街に繰り出して行くのでした。
(つづく)
(感想 2007/7/29)
そういえば、
去年の今頃このブログは、
「高校野球・松山商業」の話で、
勝手に盛り上がってましたねえ。
あれから早や1年か…。
月日の経つのは、
早いものだ…。
さ、きょうは選挙だ。
今回は棄権しないで行くぞー。
みなさんも、
「誰がやっても一緒だよ。」
なんて言わずに、
行きましょうね。
SHUN MIYAZUMI
May 29, 2007
ジャズまくり時代 その10(最終回)
やりましたね、
白鵬。
先日、旭鷲山関にお会いしたとき、
「白鵬は俺が連れて来たんだよ。」
と、誇らしげに言ってましたから、
さぞやお喜びのことと思います。
その、モンゴル出身力士のパイオニア、
「旭鷲山」の引退セレモニー
(6/2 両国国技館)
のために、
私は「 君が代 」を、
男声4部コーラスにアレンジしました。
歌うは『 jammin' Zeb 』
日本代表。
がんばれよジャミン!
さて、
長々と続いた、
私の大学時代回想記も、
きょうが最終回です。
2003年11月24日 No.60(後半)
ジャズまくり時代 最終回
とにかく、
私の大学4年間は、
ジャズ・オンリー!
ジャズ・ピアノが上手くなることしか、
頭に無かった。
そして、
ぎりぎりのところで、
学業との両立が出来た背景には、
多くの友情の支えもありましたね。
朝、私を起こすために留年するハメになったり、
私が単位を落とさないよう、
せっせと情報を運んでくれたり、
よけいな出席カードまで出してくれたり…。
「持つべき物は友」
とは、よく言ったもの。
こうして、
試験週間もなんとか乗り切りながら、
私の‘酒場ピアニスト’の生活は、
続いていきます。
しかし、
前々回も書きましたが、
その一方で、
なにかやるせないものが、
どんどん私の中に芽ばえていったのも事実。
銀座では、
相変わらず酔った客が、
「アレやれ」「コレ伴奏しろ」と言ってきます。
私は自分に問いかける。
「バカヤロー!
俺はジャズをやるんじゃなかったのか?
なんでこんなところにいるんだ…?」
ある夜、
昭和の映画界を代表するスーパー・スター、
石原○次郎という人が来ました。
「小僧、
『思い出のサンフランシスコ』出来るか?」
なまいき盛りのガキの私は、
「ふん、どうせ歌謡曲みたいに歌うんだろうよ。」
と言わんばかりに、
仏頂面で、不機嫌そうに、
「ええ…。」
と答える。
ところがです。
いやいやながらも、
その伴奏が終わったとき、
彼は、なんと、
10万円のチップをくれたのです。
「小僧、ご苦労だったな。」
前にも書きましたが、
タクシー初乗りが、100円の時代にです。
思いだすのも嫌なのですが、
私は彼に向かって、
思わずこうつぶやいていました。
「あのう、
もう1曲いかがですか?」
「……。」
思い悩んだあげく、
友人の熱心な勧めもあって、
結局私は、
「ライト・ミュージック・ソサエティ」
に戻ることにしました。
そして、
芝『郵便貯金ホール』
での、卒業コンサートを最後に、
‘普通の大学生’
として学生生活を終え、
アルファというレコード制作会社に就職。
今度は主に、
ポップスを中心とした、
レコードの‘プロデュース’という仕事に、
就くことになりました。

(一番左のキーボードを弾いてるのが私。【拡大版】)

(いや、若いなあ…。)
以来、ジャズ・ピアノは、
私の‘趣味の世界’に落ち着くことに。
時々、仲間たちとセッションしたり、
ジャズ・クラブの「ジャム・セッション」などで、
数曲弾かせてもらったりする以外は、
ジャズ及びジャズ・ピアノは、
私の趣味の部分に、
25年以上も
封印されることになるのです。
2000年の春に、
「ジャズ・コーラスでもやってみようかな。」
と、思い立ち、
女声コーラス・グループ
『STARLIGHT JUNCTION』を結成。
再び演奏活動をはじめるまでの
長きにわたって…。
(おわり)
(感想 2007/5/29)
そういえば、
きょう、5月29日は、
私の誕生日。
ま、この年にもなると、
単純に「誕生日おめでとう」
という気分でもありませんが、
この私の学生時代を回顧してみて、
つくづく思い出されるのは、
父のことですね。
私の父は、
幼い頃、家業が没落したために、
尋常小学校しか行けず、
意を決して19才で満州に渡り、
かなりの成功をおさめていたものの、
突然のソ連軍侵攻のため、
すべての財産を没収され、
あげく、極寒のシベリアに捕虜として3年も抑留。
奇跡的に裸一貫で生還したあと、
こつこつと真面目に働いて、
私を育ててくれました。
安月給をはたいて、
ピアノを買ってくれたり、
レッスンに行かせてくれたり。
私が、好きな音楽の道で、
こうしてやってこれたのも、
やはり、
父のおかげと言うべきでしょう。
もっとも父は、
私がまっとうな道を歩むのを望んでおり、
そのために、
高い月謝の大学に入れてくれたのですが、
なかなか、
人生思うようにはいかないようです。
ま、元気でやってんだから、
いいじゃないか。
なあ、とうさん!
というわけで、
この長い長いシリーズは、
1999年に80才でこの世を去った、
わが最愛の父、
宮住清繁に捧げたいと思います。
たまには真面目に、
締めくくってみました…。
SHUN MIYAZUMI
白鵬。
先日、旭鷲山関にお会いしたとき、
「白鵬は俺が連れて来たんだよ。」
と、誇らしげに言ってましたから、
さぞやお喜びのことと思います。
その、モンゴル出身力士のパイオニア、
「旭鷲山」の引退セレモニー
(6/2 両国国技館)
のために、
私は「 君が代 」を、
男声4部コーラスにアレンジしました。
歌うは『 jammin' Zeb 』
日本代表。
がんばれよジャミン!
さて、
長々と続いた、
私の大学時代回想記も、
きょうが最終回です。
2003年11月24日 No.60(後半)
ジャズまくり時代 最終回
とにかく、
私の大学4年間は、
ジャズ・オンリー!
ジャズ・ピアノが上手くなることしか、
頭に無かった。
そして、
ぎりぎりのところで、
学業との両立が出来た背景には、
多くの友情の支えもありましたね。
朝、私を起こすために留年するハメになったり、
私が単位を落とさないよう、
せっせと情報を運んでくれたり、
よけいな出席カードまで出してくれたり…。
「持つべき物は友」
とは、よく言ったもの。
こうして、
試験週間もなんとか乗り切りながら、
私の‘酒場ピアニスト’の生活は、
続いていきます。
しかし、
前々回も書きましたが、
その一方で、
なにかやるせないものが、
どんどん私の中に芽ばえていったのも事実。
銀座では、
相変わらず酔った客が、
「アレやれ」「コレ伴奏しろ」と言ってきます。
私は自分に問いかける。
「バカヤロー!
俺はジャズをやるんじゃなかったのか?
なんでこんなところにいるんだ…?」
ある夜、
昭和の映画界を代表するスーパー・スター、
石原○次郎という人が来ました。
「小僧、
『思い出のサンフランシスコ』出来るか?」
なまいき盛りのガキの私は、
「ふん、どうせ歌謡曲みたいに歌うんだろうよ。」
と言わんばかりに、
仏頂面で、不機嫌そうに、
「ええ…。」
と答える。
ところがです。
いやいやながらも、
その伴奏が終わったとき、
彼は、なんと、
10万円のチップをくれたのです。
「小僧、ご苦労だったな。」
前にも書きましたが、
タクシー初乗りが、100円の時代にです。
思いだすのも嫌なのですが、
私は彼に向かって、
思わずこうつぶやいていました。
「あのう、
もう1曲いかがですか?」
「……。」
思い悩んだあげく、
友人の熱心な勧めもあって、
結局私は、
「ライト・ミュージック・ソサエティ」
に戻ることにしました。
そして、
芝『郵便貯金ホール』
での、卒業コンサートを最後に、
‘普通の大学生’
として学生生活を終え、
アルファというレコード制作会社に就職。
今度は主に、
ポップスを中心とした、
レコードの‘プロデュース’という仕事に、
就くことになりました。

(一番左のキーボードを弾いてるのが私。【拡大版】)

(いや、若いなあ…。)
以来、ジャズ・ピアノは、
私の‘趣味の世界’に落ち着くことに。
時々、仲間たちとセッションしたり、
ジャズ・クラブの「ジャム・セッション」などで、
数曲弾かせてもらったりする以外は、
ジャズ及びジャズ・ピアノは、
私の趣味の部分に、
25年以上も
封印されることになるのです。
2000年の春に、
「ジャズ・コーラスでもやってみようかな。」
と、思い立ち、
女声コーラス・グループ
『STARLIGHT JUNCTION』を結成。
再び演奏活動をはじめるまでの
長きにわたって…。
(おわり)
(感想 2007/5/29)
そういえば、
きょう、5月29日は、
私の誕生日。
ま、この年にもなると、
単純に「誕生日おめでとう」
という気分でもありませんが、
この私の学生時代を回顧してみて、
つくづく思い出されるのは、
父のことですね。
私の父は、
幼い頃、家業が没落したために、
尋常小学校しか行けず、
意を決して19才で満州に渡り、
かなりの成功をおさめていたものの、
突然のソ連軍侵攻のため、
すべての財産を没収され、
あげく、極寒のシベリアに捕虜として3年も抑留。
奇跡的に裸一貫で生還したあと、
こつこつと真面目に働いて、
私を育ててくれました。
安月給をはたいて、
ピアノを買ってくれたり、
レッスンに行かせてくれたり。
私が、好きな音楽の道で、
こうしてやってこれたのも、
やはり、
父のおかげと言うべきでしょう。
もっとも父は、
私がまっとうな道を歩むのを望んでおり、
そのために、
高い月謝の大学に入れてくれたのですが、
なかなか、
人生思うようにはいかないようです。
ま、元気でやってんだから、
いいじゃないか。
なあ、とうさん!
というわけで、
この長い長いシリーズは、
1999年に80才でこの世を去った、
わが最愛の父、
宮住清繁に捧げたいと思います。
たまには真面目に、
締めくくってみました…。
SHUN MIYAZUMI
May 23, 2007
ジャズまくり時代 その9
きのう(5/22)の「代々木ナル」
『 jammin' Zeb 』ライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの大盛況。
いやあ完全燃焼です。
きょうは‘もぬけの殻’。
それにしても、
このグループとの演奏は、
いつもにも増して体力がいる。
そろそろ、
他のピアニストにも手伝ってもらわなくては…。
ということで、
6/6(水)の同セッションは、
若手の遠藤(征志)くんに、
やってもらうことにしました。
こちらは、
まだ少しお席があるようです。
どうぞお早めにご予約下さい。
さて私の、
大学時代回顧シリーズも、
そろそろ終盤。
2003年11月24日 No.60
ジャズまくり時代 その9
大学4年生にもなると、
仲間たちはみな就職活動を開始。
しかし、私ときたら、
相変わらず銀座と六本木を掛け持ちの
バンド生活。
「就職」なんて、
これっぽっちも頭の中に無い。
試験週間の勉強も、
ステージの合間に、
その辺の喫茶店に飛び込んでちょこっと。
そんな感じでしたね。
でもね、
仲間というのはいいもので、
私が授業などサッパリ出ないで、
酒場でピアノばかり弾いてるのを、
よく知ってるもんですから、
困らないように、
ちゃんと情報を与えてくれるのです。
たとえば、
「おい、あしたの○○(科目の名前)は、
出席取るらしいぞ。」
などと、
親切に教えてくれるのです。
しかたなく寝ないで大学へ行くと、
ふだんは2、30人くらいしか集まらない講義に、
そういう日だけは、
何百人も集まってる。
(もちろん私もその一人)
配られた出席カードに名前を書いて、
あとは居眠りして講義を終えると、
数日後にその科目の教授から、
呼びだしを受けました。
「君の出席カードが2枚出てるんだが、
どうしたことだね?」
てっきり私が知らないで、
欠席してるものと思ったある友人が、
うまく出席カードを2枚入手して、
私の分も書いててくれたらしいのです。
おかげでこの単位は、
落とすハメになりましたが、
どうしてその友人を責めることができましょう?
こんなこともありました。
毎晩朝の5時までピアノを弾いてるわけですから、
当然試験週間などは、ヘロヘロ。
でも翌朝10時から、
絶対に落とせない科目の試験が控えてる。
朝方家に帰ると、
やはりライトの、
ある友人から電話がありました。
「シュン、少し寝ろよ。
俺も同じ試験受けるし、
こうなったら俺は徹夜のつもりだから、
起こしてやるからさ。」
「いやあ、悪いなあ。
じゃ、お言葉に甘えて少し寝るよ。」
数時間後、約束どおり、
「時間だぞ、起きろよ」のコール。
おかげで、なんとかその試験をクリア。
しかし、私を起こしてくれたその友人が、
いくら探しても見当たりません。
なんと私を起こしたあと、
安心したのか自分が寝てしまい、
なんと彼はこの単位を落としたがために、
もう1年大学に残るハメになったのです。
お気の毒…。
もうひとつ試験にまつわるエピソード。
ある試験で、
問題を見た瞬間、
完全にヤマがはずれており、
にっちもさっちも行かなくなったことがあります。
大教室のうしろではまだ問題を配っているのに、
「ええい、時間の無駄だ。」とばかり、
私は早々と名前だけ書いて、
提出に行きました。
するとその教授、
「君は随分あきらめが早いんだね?」
とニヤニヤ。
「はい、完全にヤマがはずれました。完敗です。」
と、いの一番に答案用紙を置いて、
立ち去る私。
喫茶店でお茶を飲んだり、
芝生の上でタバコを一服したりして時間を潰すうち、
同じ試験を受けた仲間たちが出てきたのですが、
みな一様に惨敗模様。
しかし答案用紙だけは、
うそ八百、
きっちり埋め尽くしてきたそうです。
ところがこの科目、
白紙で出した私だけが単位を取り、
1時間悪戦苦闘した仲間の多くは、
落としていたんですねえ。
まったく大学というところは、
摩訶不思議?
それにしても、
つくづく、
親不孝だな俺は…。
(つづく)
(感想 2007/5/23)
大学生当時、
私は父親から、
「もし一年でも留年したら、
月謝は払わないから、
自分でなんとかしろよ。」
と、きつく言われておりました。
なにせ、鬼のような、
親父でしたからね。
私が通ってたのは、
私立大学ですから、
月謝も高いんですね。
とても自分の力ではムリ。
しかも、留年すると、
仲間がいなくなるわけですから、
こうした、
「出席取るぞ情報」や、
「抜き打ち試験やるぞ情報」などが、
入らなくなる。
だから、
毎日講義に出なくてはならない。
すると音楽活動が出来ない。
だから絶対留年なんか出来ない。
けっこう、
ヒヤヒヤもんで卒業したんですよ、
これでも。
そのせいか、
社会人になってからも、
「ヤバイ、こりゃ留年だ。」
と、いう夢を見て、
汗びっしょりで目が覚める。
そんなことが、
なんどもありました。
みなさんは、
どうなんでしょうね…?
SHUN MIYAZUMI
『 jammin' Zeb 』ライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの大盛況。
いやあ完全燃焼です。
きょうは‘もぬけの殻’。
それにしても、
このグループとの演奏は、
いつもにも増して体力がいる。
そろそろ、
他のピアニストにも手伝ってもらわなくては…。
ということで、
6/6(水)の同セッションは、
若手の遠藤(征志)くんに、
やってもらうことにしました。
こちらは、
まだ少しお席があるようです。
どうぞお早めにご予約下さい。
さて私の、
大学時代回顧シリーズも、
そろそろ終盤。
2003年11月24日 No.60
ジャズまくり時代 その9
大学4年生にもなると、
仲間たちはみな就職活動を開始。
しかし、私ときたら、
相変わらず銀座と六本木を掛け持ちの
バンド生活。
「就職」なんて、
これっぽっちも頭の中に無い。
試験週間の勉強も、
ステージの合間に、
その辺の喫茶店に飛び込んでちょこっと。
そんな感じでしたね。
でもね、
仲間というのはいいもので、
私が授業などサッパリ出ないで、
酒場でピアノばかり弾いてるのを、
よく知ってるもんですから、
困らないように、
ちゃんと情報を与えてくれるのです。
たとえば、
「おい、あしたの○○(科目の名前)は、
出席取るらしいぞ。」
などと、
親切に教えてくれるのです。
しかたなく寝ないで大学へ行くと、
ふだんは2、30人くらいしか集まらない講義に、
そういう日だけは、
何百人も集まってる。
(もちろん私もその一人)
配られた出席カードに名前を書いて、
あとは居眠りして講義を終えると、
数日後にその科目の教授から、
呼びだしを受けました。
「君の出席カードが2枚出てるんだが、
どうしたことだね?」
てっきり私が知らないで、
欠席してるものと思ったある友人が、
うまく出席カードを2枚入手して、
私の分も書いててくれたらしいのです。
おかげでこの単位は、
落とすハメになりましたが、
どうしてその友人を責めることができましょう?
こんなこともありました。
毎晩朝の5時までピアノを弾いてるわけですから、
当然試験週間などは、ヘロヘロ。
でも翌朝10時から、
絶対に落とせない科目の試験が控えてる。
朝方家に帰ると、
やはりライトの、
ある友人から電話がありました。
「シュン、少し寝ろよ。
俺も同じ試験受けるし、
こうなったら俺は徹夜のつもりだから、
起こしてやるからさ。」
「いやあ、悪いなあ。
じゃ、お言葉に甘えて少し寝るよ。」
数時間後、約束どおり、
「時間だぞ、起きろよ」のコール。
おかげで、なんとかその試験をクリア。
しかし、私を起こしてくれたその友人が、
いくら探しても見当たりません。
なんと私を起こしたあと、
安心したのか自分が寝てしまい、
なんと彼はこの単位を落としたがために、
もう1年大学に残るハメになったのです。
お気の毒…。
もうひとつ試験にまつわるエピソード。
ある試験で、
問題を見た瞬間、
完全にヤマがはずれており、
にっちもさっちも行かなくなったことがあります。
大教室のうしろではまだ問題を配っているのに、
「ええい、時間の無駄だ。」とばかり、
私は早々と名前だけ書いて、
提出に行きました。
するとその教授、
「君は随分あきらめが早いんだね?」
とニヤニヤ。
「はい、完全にヤマがはずれました。完敗です。」
と、いの一番に答案用紙を置いて、
立ち去る私。
喫茶店でお茶を飲んだり、
芝生の上でタバコを一服したりして時間を潰すうち、
同じ試験を受けた仲間たちが出てきたのですが、
みな一様に惨敗模様。
しかし答案用紙だけは、
うそ八百、
きっちり埋め尽くしてきたそうです。
ところがこの科目、
白紙で出した私だけが単位を取り、
1時間悪戦苦闘した仲間の多くは、
落としていたんですねえ。
まったく大学というところは、
摩訶不思議?
それにしても、
つくづく、
親不孝だな俺は…。
(つづく)
(感想 2007/5/23)
大学生当時、
私は父親から、
「もし一年でも留年したら、
月謝は払わないから、
自分でなんとかしろよ。」
と、きつく言われておりました。
なにせ、鬼のような、
親父でしたからね。
私が通ってたのは、
私立大学ですから、
月謝も高いんですね。
とても自分の力ではムリ。
しかも、留年すると、
仲間がいなくなるわけですから、
こうした、
「出席取るぞ情報」や、
「抜き打ち試験やるぞ情報」などが、
入らなくなる。
だから、
毎日講義に出なくてはならない。
すると音楽活動が出来ない。
だから絶対留年なんか出来ない。
けっこう、
ヒヤヒヤもんで卒業したんですよ、
これでも。
そのせいか、
社会人になってからも、
「ヤバイ、こりゃ留年だ。」
と、いう夢を見て、
汗びっしょりで目が覚める。
そんなことが、
なんどもありました。
みなさんは、
どうなんでしょうね…?
SHUN MIYAZUMI
May 17, 2007
ジャズまくり時代 その8
先日、
私がプロデュースしている男性コーラス・グループ
『jammin'Zeb』を連れて、
旭鷲山関に会いに行ってきました。
6/2「両国国技館」で行なわれる、
彼の「断髪式セレモニー」で、
ジャミンが歌うことになっているので、
その前に、
「一度コミュニケーションをとっておきましょう」
というイベント・プロデューサーの計らい。
いやあ、気さくな、
いい人でしたね。
旭鷲山といえば、
日本に初めてやってきた
モンゴル出身のお相撲さん。
ご苦労も多かったでしょうが、
今ではお国の英雄です。
そして彼の、
「僕の生まれたモンゴルは貧しい国でね、
家に帰っても食べ物なんかなかった。
だから相撲の世界に入って、
いっぱいメシが食えるのが嬉しかったね。
家の冷蔵庫を開けるとなんでもある、
そんな君たちは、
幸せなんだよ。」
というひと言に、
若いジャミンは、
とても心動かされたようでした。
よかった、よかった。
そんな幸せな『jammin'Zeb』の次のライブは、
5/22(火)の「代々木ナル」
どうぞお早めに、
お店のほうにご予約下さい。
(詳細は「最新ライブ案内」のコーナーに)
さて、今度は、
私の若かりし頃のお話。
2003年11月16日 No.59
ジャズまくり時代 その8
いささかインチキな手段ではありますが、
北條さんというピアニストに後を譲り、
シャンソンのお店『V』からの脱出に、
無事成功した私は、
単発でのセッションに呼ばれて弾いたり、
夜な夜な六本木ジャズ・クラブでの修業の旅に、
再び明け暮れておりました。
そうこうするうち、
またまたギターのウエス飯田氏から、
電話がありました。
W「シュン!
いい‘ハコ’の仕事があるんだけど、
また一緒にやらないか?」
私「もうシャンソンは嫌ですよ。」
W「いや今度はジャズだ。しかも毎日だぞ。
銀座と六本木だ。」
私「えっ?掛け持ちですか。」
W「そうだ、稼げるぞー。」
最後の一言にグラっときた私は、
またしても、
よく吟味もしないで二つ返事。
そして、言われるがままに、
その銀座の店に行ってみました。
「スーツ着用」てのが、
ひっかかってはいましたがね。
案の定、そこは‘ジャズ・クラブ’
ではなく、
正真正銘の‘銀座のクラブ’。
美しいおねえさんがいっぱいの…。
そして当時は、
カラオケというものがなく、
お客が「何か唄を」ということになると、
我々‘バンドメン’が伴奏するんですね。
一応ジャズ・コンボという体裁は整ってるものの、
メインは酔っぱらった客の伴奏。
ホステスと客の『銀座の恋の物語』
なんてしょちゅうやらされた。
そして、誰も唄わない時だけ、
勝手にスタンダード・ジャズをやる。
もちろん誰も聴いちゃいませんが。
でもウエス飯田氏は上手いし、
ドラムもベースもちゃんとしたプロですから、
「ま、勉強、勉強!」と自分を叱咤激励して、
やっておりました。
この銀座の仕事が夜の7時から11時半まで。
それから大急ぎで地下鉄に乗って、
六本木のもう一つのお店に移動。
ただしこっちは、
銀座よりはもう少しジャズっぽい雰囲気。
‘ジャズ・クラブ’ではないが、
ホステスのいるクラブではない。
「高級なジャズ・バー」って感じのお店。
銀座からホステスを同伴して飲みにくる、
お金持ちが多かったですね。
ま、大差ないか。
ただし、
このお店の専属歌手が素晴らしかった!
その人の名は、
中本マリ。
まだ売れる前のマリさん。
しぶい声、
持って生まれたジャズ・センス。
はじめて聴いた日から、
「この人は大物になるなあ。」
と子供ながらに実感しましたね。
人柄も温厚で、
私を本当の弟のように可愛がってくれました。
この店でのウエス氏の演奏は素晴らしく、
マリさんの唄の伴奏やインストなどでは、
銀座の店とは一転して、
ご機嫌な演奏を、
毎日毎日繰り広げていました。
かけだしの私など、
ついていくのが精いっぱい。
このお店の演奏時間が夜中の1時半〜5時まで。
そして始発電車で疲れ切って帰る私。
こんな生活が半年も続き、
いつしか私も、
大学4年生になっていました。
一緒にプロを目指していた仲間も、
一人抜け二人抜け。
みんな髪の毛を切って就職活動。
しかし、
その時の私の収入は、
2店の掛け持ちで、
なんと月30万!
タクシー初乗りが100円。
電車賃といえば、
新宿から当時住んでいた上北沢まで、
たった30円。
そんな時代に、
月30万の荒稼ぎですから、
これは魅力です。
でもね、
なんか空しくなってきました。
毎日ジャズが上手くなっていくのは、
自分でもよく分かる。
しかし、
演奏する場所は、
言ってしまえば「飲み屋」。
客の目当てはジャズよりも酒と女。
たまたまそんな場所しか無かったのでしょうが、
マイルスやビル・エヴァンスのような、
演奏活動を夢見てた私には、
あまりにも大きなギャップ。
プロは厳しいですね。
これで食ってく精神的タフさが
俺にはあるのか…。
次第に重〜くなってきました。
そんなある日、
最上級生になったライトの仲間が、
「戻ってこないか?」
と誘いにきたのです。
なんでも後輩のピアノでは、
まだまだ未熟で心もとない、
「最後の卒業コンサートはお前とやりたい」
と言ってくれたんですね。
ちょっと心が揺らいだのも、
確かです。
(つづく)
(感想 2007/5/17)
いつも不思議に思うのですが、
今の物価は、
当時の6倍〜7倍。
でも、
ミュージシャンのギャラは、
当時も今も一緒なんですね。
そういえば、
CD(レコード)の値段も、
あまり変わっていない。
音楽の世界は、
物価の上昇とは関係ないところに、
存在しているのでしょうか?
他に、物価と関係ないものといえば、
卵。
わからん…?
SHUN MIYAZUMI
May 13, 2007
ジャズまくり時代 その7
ああ楽しかった。
5/11(金)の、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
私が日頃お世話になってる、
地元ジャズ・バーのみなさんに、
ぜひCHIHARUをお聴かせしようと、
企画したのですが、
まずは大成功だったようです。
CHIHARUも楽しそうでしたね。
また機会をみつけて、
やりたいと思います。
みなさん、
ありがとうございました。
さてさて、
なにやら長〜いシリーズになってきた、
私の大学時代のお話も、
きょうで早や7回目。
2003年10月28日 No.58(後半)
ジャズまくり時代 その7
ようやくプロとして、
毎日演奏活動ができると、
喜んだのもつかの間、
なんとそこは、
「シャンソン」のお店。
ジャズをやりたい一心の私には、
当然フラストレーションが溜まります。
2週間ほどたったある日、
私はついに、
バンマスの飯田さんに直訴。
(「バンマス」とは「バンド・マスター」
つまりリーダーの亊。)
「シャンソンもいいけど、
僕はジャズがやりたい。
このお店は僕にはむきません。
辞めさせてくれませんかー。」
すると飯田さん、あきれ顔で、
「お前ねえ、
‘ハコ’で仕事がもらえるなんて、
ラッキーなんだぞ。
お前みたいに、
コレはいい、コレは嫌、
なんてワガママ言ってるようじゃ、
プロのミュージシャンなんかにゃ、
なれないんだぞー!」
「……」
しかし、
プロの‘ジャズメン’に憧れてる当時の私は、
ひるみません。
「いいです。食えなくったって。
僕はジャズしかやりません!!」
「分かった。
そのかわり、
次のピアノはお前が見つけて来い。
それまではお前がやれ。
いいな!!」
「やった〜!」とばかり、
翌日からはピアニスト探しです。
でもそのお店がシャンソンのお店であることは、
入る前の私を除いては、
みんな知っていたし、
私の回りはみんなジャズ・ピアニストか、
それを目指す若手ばかりだったので、
誰も相手にしてくれません。
こうして、1ヶ月が過ぎ、
まる2ヶ月にもなろうかといったある日、
救いの主が現れました。
今もバリバりの現役で、
ビル・エヴァンスのような知的なピアノで有名な、
北條直彦さんというピアニストが、
「そうかあ、俺今ヒマだから、
やってみようかな。」
と言ってくれたのです。
ややもすると、
絶望的になりかけていただけに、
狂喜しましたねえ。
ウヒョヒョ。
ただし私は、
この先輩には、
「ばっちりジャズができますよ〜。」
としか言ってません。
今も、この北條さんとは、
時々お会いするのですが、
この話になったことがないところをみると、
忘れちゃったんでしょうかね。
ま、怒ってないことだけは確かです。
それとも、
さすがの名手の北條さんだけに、
それはそれで、
毎日楽しみながら弾いてたんでしょうか。
いずれにしても、
35年以上も前の話。
もう時効だ、時効。
アハハハ。
でも今思えば、
わたしゃ本当にガキでしたね。
ギターでバンマスの飯田さんといえば、
‘ウエス飯田’という異名を持つ、
ウエス・モンゴメリーにそっくりなスタイルの、
名プレイヤーでしたし、
ほかのプレイヤーも、
素晴らしい名手ばかり。
特にサックスでは、
現在もスタジオや
山下達郎のバックなどでも活躍中の、
淵野繁雄さんや、
有名な大友義雄さん、
といった名手もいました。
シャンソン歌手では、
仲代圭吾、村上寛、磯部僥太郎といった、
その世界では有名な人達も数多く、
そして素晴らしい歌手ぞろい。
あとから思えば、
実に有意義で、
貴重な勉強が出来た、
2ヶ月だったわけです。
そして、なにより、
私は、
譜面に強くなりました。
(つづく)
(感想 2007/5/13)
今、この頃を思い出して、
つくづく言えることは、
どんな音楽も、
どんな体験も、
絶対にプラスになる、
ということです。
私のところへ勉強に来る、
若いシンガーやプレイヤーには、
私はいつも、
「ジャズだけじゃなく、
いろんな音楽を聴きなさい。
それが演奏の幅をぐっと拡げるから。」
などと、
偉そうなことを言っておりますが、
でも本当にそう思います。
特にシャンソンなんて、
色気がなきゃ、
絶対いい演奏できませんからね。
してみると、
あれは本当いい時期だったのかも。
(しみじみ回想…)
さて、
5/14(月)は「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
ピアノ・トリオ・ライブ。
若手のみんな、
どんどんセッションしに、
来て下さいよー。
なんだか、
アズナブールが、
聴きたくなってきた…。
SHUN MIYAZUMI
May 09, 2007
ジャズまくり時代 その6
みなさん、
ゴールデン・ウィークは、
いかがお過ごしでしたか。
私は、と言えば、
前回も書いたように、
5/8(火)の「DANKS ヘアー・ショー」に、
(渋谷CCレモン・ホール:旧渋谷公会堂)
私がプロデュースする、
男性ヴォーカル・グループの
『jammin'Zeb』がゲスト出演。
この大きなイベントのため、
けっこうあわただしい、
GWを送っておりました。
でもそれも、
昨日無事終了。
関係者のみなさん、
モデルのみなさん、
本当にお疲れさまでした。
素晴らしいヘアー・ショーでした。
またお目にかかれるのを、
楽しみにしています。
さらにその後、
「代々木ナル」でライブ、
という変則ダブル・ヘッダーの私。
久々、
ちゅうまけいこ&佐藤有介と競演。
セクシーな、ちゅうまのヴォーカルと、
パワフルな有介のベース。
北海道からいらしたお客さまもいて、
なかなかに盛り上がりましたね。
ありがとうございました。
楽しませていただきました。
次回この素敵な競演は、
7/4(水)です。
というわけで、
ちょっと間が空いてしまいましたね。
私の大学時代回顧シリーズ
のつづきです。
2003年10月28日 No.58
ジャズまくり時代 その6
昼は家で猛練習。
夜は銀座や六本木で、
プロの洗礼を受ける毎日。
まったく、
親が知ったら嘆き悲しむであろう、
デタラメな大学生活を送っていた、
私ですが、
大学も3年になりますとね、
そんな私のピアノも、
ちっとはマシになってきたようで、
最初の師匠の大沢保郎さんや、
ほかのプロの人たちから、
「シュン坊!
明日ちょっとワンステージだけ、
‘トラ’やっててくんない?」
といった電話が、
少しずつ入ってくるようになりました。
(‘トラ’というのはエキストラの略で、
‘代わり’と言う意味です。)
嬉しかったですねえ。
プロのベースやドラムの人たちと、
何曲か一緒に演奏が出来る。
この日を待っていた!
そんなある日、
大沢保郎トリオにいた、
飯田さんというギタリストの人から、
「レギュラーで、
銀座の『V』というお店に出ないか?」
という話を持ちかけられました。
前回もお話したように、
当時は‘ハコ’といって、
毎日同じお店に出演するのが普通。
‘ハウス・ピアニスト’
という言葉にも憧れてたし、
これでいよいよ僕もプロの仲間入りかと、
二つ返事。
ところがです。
そこは、なんと
『シャンソン』のお店。
しかも喫茶店…。
「ジャズが出来るぞー。」と言われて、
喜んで入ったものの、
ジャズ・スタンダードは、
各ステージの1曲目のインストだけで、
あとは全部シャンソンの伴奏。
しかも毎日、
日替わりで歌手が来る。
そしてリハーサルなどは無く、
いつもブッつけ本番。
なかには、
‘コード・ネーム’が書いてない、
いわゆる‘おたまじゃくし’の譜面、
だけを持ってくる歌手までいる。
それを、
初見で弾かなくてはいけない。
……。
さらに、
シャンソンというのは、
テンポが、
リットしたり、アッチェルしたり、
(遅くなったり、速くなったり)
と、曲の中で、
めまぐるしく変化する。
歌手のみなさんの自由奔放な歌い方にも、
上手に合わせなきゃいけない。
……。
それまでの私といえば、
シャンソンも別に嫌いではなく、
時々は聴いておりました。
イブ・モンタンとか、
シャルル・アズナブールとか、
はたまたピアフとかベコーとか。
アズナブールなんか、
ほんと、いいですよね。
(今でも大好きなシンガーです。)
ただし、
この大学2年間というもの、
ジャズ一色できた私ですし、
‘ジャズ・ピアニスト’を夢見て、
毎日がんばってきたわけですから、
いきなりシャンソンを弾けって言われても、
「そりゃあんた、
話が違うじゃありませんか」
ということですよ。
「誰がシャンソン弾きたい、
と言いましたか」
という話ですよ。
まいりましたね。
それはもう、
大変な毎日でした。
30分の休憩中、
ほかのプレーヤーは、
お茶かなんか飲みに行くのですが、
私一人、
楽屋(といっても更衣室)で、
おたまじゃくしをタテに読んで、
なにげにコード・ネームをつける作業。
コードさえ書いておけば、
なんとかごまかせるから。
さらには曲の下調べ。
しかし、
無情にも、
本番はすぐやって来る。
毎回あぶら汗、冷や汗タラタラの、
ステージでしたね。
しかも日曜日も祭日も、
一日も休みが無い。
「プロはつらいなあ…。」
を早くも実感。
こうして、
思ってもみなかった、
「シャンソンの伴奏」から、
私の演奏活動は、
始まったのでした。
(つづく)
(感想 2007/5/9)
そういえば、
きのうも「代ナル」で、
何人かの人に、
「ブログ読んでますよー。」
と言われました。
「ブログで調べてライブ来ました。」
というお客さんもいました。
嬉しいですねえ。
「頑張って更新しなくちゃ。」
という気になりますねえ。
更新します。
それにしても、まさに、
「インターネット時代」
ですね。
見知らぬ人どうしが、
実は近い距離にいるわけです。
さあ、5/11(金)は、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
これも、
凄いことになるんだろうなあ。
きょう一日は、
再び体力温存DAYか…。
SHUN MIYAZUMI
ゴールデン・ウィークは、
いかがお過ごしでしたか。
私は、と言えば、
前回も書いたように、
5/8(火)の「DANKS ヘアー・ショー」に、
(渋谷CCレモン・ホール:旧渋谷公会堂)
私がプロデュースする、
男性ヴォーカル・グループの
『jammin'Zeb』がゲスト出演。
この大きなイベントのため、
けっこうあわただしい、
GWを送っておりました。
でもそれも、
昨日無事終了。
関係者のみなさん、
モデルのみなさん、
本当にお疲れさまでした。
素晴らしいヘアー・ショーでした。
またお目にかかれるのを、
楽しみにしています。
さらにその後、
「代々木ナル」でライブ、
という変則ダブル・ヘッダーの私。
久々、
ちゅうまけいこ&佐藤有介と競演。
セクシーな、ちゅうまのヴォーカルと、
パワフルな有介のベース。
北海道からいらしたお客さまもいて、
なかなかに盛り上がりましたね。
ありがとうございました。
楽しませていただきました。
次回この素敵な競演は、
7/4(水)です。
というわけで、
ちょっと間が空いてしまいましたね。
私の大学時代回顧シリーズ
のつづきです。
2003年10月28日 No.58
ジャズまくり時代 その6
昼は家で猛練習。
夜は銀座や六本木で、
プロの洗礼を受ける毎日。
まったく、
親が知ったら嘆き悲しむであろう、
デタラメな大学生活を送っていた、
私ですが、
大学も3年になりますとね、
そんな私のピアノも、
ちっとはマシになってきたようで、
最初の師匠の大沢保郎さんや、
ほかのプロの人たちから、
「シュン坊!
明日ちょっとワンステージだけ、
‘トラ’やっててくんない?」
といった電話が、
少しずつ入ってくるようになりました。
(‘トラ’というのはエキストラの略で、
‘代わり’と言う意味です。)
嬉しかったですねえ。
プロのベースやドラムの人たちと、
何曲か一緒に演奏が出来る。
この日を待っていた!
そんなある日、
大沢保郎トリオにいた、
飯田さんというギタリストの人から、
「レギュラーで、
銀座の『V』というお店に出ないか?」
という話を持ちかけられました。
前回もお話したように、
当時は‘ハコ’といって、
毎日同じお店に出演するのが普通。
‘ハウス・ピアニスト’
という言葉にも憧れてたし、
これでいよいよ僕もプロの仲間入りかと、
二つ返事。
ところがです。
そこは、なんと
『シャンソン』のお店。
しかも喫茶店…。
「ジャズが出来るぞー。」と言われて、
喜んで入ったものの、
ジャズ・スタンダードは、
各ステージの1曲目のインストだけで、
あとは全部シャンソンの伴奏。
しかも毎日、
日替わりで歌手が来る。
そしてリハーサルなどは無く、
いつもブッつけ本番。
なかには、
‘コード・ネーム’が書いてない、
いわゆる‘おたまじゃくし’の譜面、
だけを持ってくる歌手までいる。
それを、
初見で弾かなくてはいけない。
……。
さらに、
シャンソンというのは、
テンポが、
リットしたり、アッチェルしたり、
(遅くなったり、速くなったり)
と、曲の中で、
めまぐるしく変化する。
歌手のみなさんの自由奔放な歌い方にも、
上手に合わせなきゃいけない。
……。
それまでの私といえば、
シャンソンも別に嫌いではなく、
時々は聴いておりました。
イブ・モンタンとか、
シャルル・アズナブールとか、
はたまたピアフとかベコーとか。
アズナブールなんか、
ほんと、いいですよね。
(今でも大好きなシンガーです。)
ただし、
この大学2年間というもの、
ジャズ一色できた私ですし、
‘ジャズ・ピアニスト’を夢見て、
毎日がんばってきたわけですから、
いきなりシャンソンを弾けって言われても、
「そりゃあんた、
話が違うじゃありませんか」
ということですよ。
「誰がシャンソン弾きたい、
と言いましたか」
という話ですよ。
まいりましたね。
それはもう、
大変な毎日でした。
30分の休憩中、
ほかのプレーヤーは、
お茶かなんか飲みに行くのですが、
私一人、
楽屋(といっても更衣室)で、
おたまじゃくしをタテに読んで、
なにげにコード・ネームをつける作業。
コードさえ書いておけば、
なんとかごまかせるから。
さらには曲の下調べ。
しかし、
無情にも、
本番はすぐやって来る。
毎回あぶら汗、冷や汗タラタラの、
ステージでしたね。
しかも日曜日も祭日も、
一日も休みが無い。
「プロはつらいなあ…。」
を早くも実感。
こうして、
思ってもみなかった、
「シャンソンの伴奏」から、
私の演奏活動は、
始まったのでした。
(つづく)
(感想 2007/5/9)
そういえば、
きのうも「代ナル」で、
何人かの人に、
「ブログ読んでますよー。」
と言われました。
「ブログで調べてライブ来ました。」
というお客さんもいました。
嬉しいですねえ。
「頑張って更新しなくちゃ。」
という気になりますねえ。
更新します。
それにしても、まさに、
「インターネット時代」
ですね。
見知らぬ人どうしが、
実は近い距離にいるわけです。
さあ、5/11(金)は、
「CHIHARU・A'TRAINスペシャル」
これも、
凄いことになるんだろうなあ。
きょう一日は、
再び体力温存DAYか…。
SHUN MIYAZUMI
April 29, 2007
ジャズまくり時代 その5
いい天気ですね。
本当に爽やか。
しかも、
待ちに待ったゴールデン・ウィーク!
私が一年で、
最も好きな季節。
快適に過ごしたいものですね。
さて先週は、
2本のライブをやりましたよ。
4/24(火)「代々木ナル」
CHIHARU (VO) とのコラボ。
4/27(金)「学芸大 A’TRAIN」
恒例ミッドナイト・セッション。
どちらも、
大勢のお客さんに、
熱心に耳を傾けていただき、
本当にありがとうございました。
このライブの模様も、
またまた友人の「途夢♪待人」さんが、
ご自身のサイトで、
詳しく書いておられますので、
どうぞお読みになって下さい。
(WJJというコーナーです。)
それにしても途夢さん、
いったい月に何本、
ワインを飲むんだろう?
でもジャズとワイン。
いい趣味ですよね。
私は、
演奏のときは、
もっぱらスコッチ・ウィスキーの水割り。
ふだんは焼酎の麦茶割り。
関係ないか…。
2003年10月22日 No.57
ジャズまくり時代 その5
「K大ライト・ミュージック・ソサエティ」
の先輩たちが、
演奏旅行に行ってる間に、
私は二人の偉大なジャズ・ピアニストを、
知ることができました。
ひとりは大沢保郎さん。
そしてもうひとりは、
菅野邦彦さん。
今から35年以上も前のことです。
特に、
六本木「N」というお店で初めて聞いた、
菅野さんのプレイは、
本当に衝撃的でしたね。
自分が最もやりたかったスタイル。
ご機嫌にスイングするし、
タッチは綺麗だし、
言うことなし!
さて、
かつて、
『エロール・ガーナーの思い出』
でも書きましたが、
当時の六本木には、
たくさんのジャズ・クラブがあり、
そこには必ず、
‘ハウス・ピアニスト’がいたのです。
今のように、演奏家が、
「きょうはこの店、明日はあの店」
という感じで、
移動するのではありません。
さらには、この「N」のように、
夜中に演奏が始まり、朝まで、
といったお店も、
少なくありませんでした。
そして、この菅野さんは、
ミュージシャンの間でも
カリスマ的な存在でしたから、
深夜になると、
早い時間の仕事を終えて、
彼のピアノを聞きに、
あるいは一緒にセッションをしに来る、
ジャズメンの溜まり場、
と化していました。
これも刺激的でしたねえ。
昼間は、
家で練習したり、
レコードのコピーをしたり。
夜遅くなってから、
いそいそと六本木に繰り出し、
菅野さんや、
その仲間の素晴らしいプレイヤー達、
の演奏を生で聞き、
始発電車で帰って、
少し寝てまた練習。
夜はまた六本木へ。
この時期の私は、
ずーッとこんな生活を送ってました。
親父に、
「毎日毎日、
夜になると出かけて、朝帰り。
お前は泥棒か!」
と言われていたのは、
この頃のことです。
ところで、
今はジャズといえば、
唄が主流。
でも当時は、
あまりジャズ・シンガーはいないし、
素人でジャズ・ヴォーカルをたしなむ人も、
ほとんどいなかった。
演奏の主流は、
「ピアノ・トリオ」でしたね。
思えば、
これも有り難かった。
特に六本木には、
菅野さんの他にも、
名手と呼ばれるピアニスト達が
あちこちの店で、
‘ハウス・ピアニスト’として弾いている。
世良譲、山本剛、杉野喜知郎、大野三平、
といった人たち。
こういった人達のお店にも、
しょっちゅう行って、
修業させてもらってました。
これも、
『エロール・ガーナーの思い出』
のときに書きましたね。
こうして、
こんな生活に、
ドップリつかってしまうと、
とてもライトなど続けられるわけもなく、
また戻る気もなくなり、
一年生の途中で早々とリタイヤした私は、
夜の六本木のジャズ・シーンに
‘謎の大学生’として、
存在していくことに、
なるのでした。
(つづく)
(感想 2007/4/29)
ところで、
CHIHARUも、
着々とファンを増やしているようですね。
「もっともっと知られていい」
と思っていたシンガーだけに、
嬉しい気がします。
うんうん。
いいことだ。
そんなCHIHARUファンに、
耳よりなニュース!
5/11(金)
私のホーム・グラウンド
学芸大「A'TRAIN」で、
『CHIHARU / A'TRAIN スペシャル』
なるライブが実現します。
バック・メンバーは、
私のピアノと河野秀夫氏のベース。
9時半からXステージ。
ミュージック・チャージ¥1,500
(TEL:5721-8833)
これはお得だ。
白熱の夜、必至!
さらにさかのぼって、
GW明けの5/8(火)には、
「代々木ナル」で、
私の好きなもうひとりのシンガー、
美しい美しい、
ちゅうまけいこ
とのコラボがあります。
ベースが、これまた、
佐藤有介という、
素晴らしい若手。
これも楽しみです。
さらに、この日の午後は、
新鋭男性ヴォーカル・グループ
『 jammin' Zeb 』が、
「渋谷CCレモン・ホール(旧渋谷公会堂)」
で行なわれる、
「DANKS ヘアー・ショー」にゲスト出演。
私がこのためにアレンジした、
『オペラ座の怪人メドレー』
を唱うことになっています。
うわあ、
なんだか忙しそう。
このGWは、
体力温存だな…。
SHUN MIYAZUMI
本当に爽やか。
しかも、
待ちに待ったゴールデン・ウィーク!
私が一年で、
最も好きな季節。
快適に過ごしたいものですね。
さて先週は、
2本のライブをやりましたよ。
4/24(火)「代々木ナル」
CHIHARU (VO) とのコラボ。
4/27(金)「学芸大 A’TRAIN」
恒例ミッドナイト・セッション。
どちらも、
大勢のお客さんに、
熱心に耳を傾けていただき、
本当にありがとうございました。
このライブの模様も、
またまた友人の「途夢♪待人」さんが、
ご自身のサイトで、
詳しく書いておられますので、
どうぞお読みになって下さい。
(WJJというコーナーです。)
それにしても途夢さん、
いったい月に何本、
ワインを飲むんだろう?
でもジャズとワイン。
いい趣味ですよね。
私は、
演奏のときは、
もっぱらスコッチ・ウィスキーの水割り。
ふだんは焼酎の麦茶割り。
関係ないか…。
2003年10月22日 No.57
ジャズまくり時代 その5
「K大ライト・ミュージック・ソサエティ」
の先輩たちが、
演奏旅行に行ってる間に、
私は二人の偉大なジャズ・ピアニストを、
知ることができました。
ひとりは大沢保郎さん。
そしてもうひとりは、
菅野邦彦さん。
今から35年以上も前のことです。
特に、
六本木「N」というお店で初めて聞いた、
菅野さんのプレイは、
本当に衝撃的でしたね。
自分が最もやりたかったスタイル。
ご機嫌にスイングするし、
タッチは綺麗だし、
言うことなし!
さて、
かつて、
『エロール・ガーナーの思い出』
でも書きましたが、
当時の六本木には、
たくさんのジャズ・クラブがあり、
そこには必ず、
‘ハウス・ピアニスト’がいたのです。
今のように、演奏家が、
「きょうはこの店、明日はあの店」
という感じで、
移動するのではありません。
さらには、この「N」のように、
夜中に演奏が始まり、朝まで、
といったお店も、
少なくありませんでした。
そして、この菅野さんは、
ミュージシャンの間でも
カリスマ的な存在でしたから、
深夜になると、
早い時間の仕事を終えて、
彼のピアノを聞きに、
あるいは一緒にセッションをしに来る、
ジャズメンの溜まり場、
と化していました。
これも刺激的でしたねえ。
昼間は、
家で練習したり、
レコードのコピーをしたり。
夜遅くなってから、
いそいそと六本木に繰り出し、
菅野さんや、
その仲間の素晴らしいプレイヤー達、
の演奏を生で聞き、
始発電車で帰って、
少し寝てまた練習。
夜はまた六本木へ。
この時期の私は、
ずーッとこんな生活を送ってました。
親父に、
「毎日毎日、
夜になると出かけて、朝帰り。
お前は泥棒か!」
と言われていたのは、
この頃のことです。
ところで、
今はジャズといえば、
唄が主流。
でも当時は、
あまりジャズ・シンガーはいないし、
素人でジャズ・ヴォーカルをたしなむ人も、
ほとんどいなかった。
演奏の主流は、
「ピアノ・トリオ」でしたね。
思えば、
これも有り難かった。
特に六本木には、
菅野さんの他にも、
名手と呼ばれるピアニスト達が
あちこちの店で、
‘ハウス・ピアニスト’として弾いている。
世良譲、山本剛、杉野喜知郎、大野三平、
といった人たち。
こういった人達のお店にも、
しょっちゅう行って、
修業させてもらってました。
これも、
『エロール・ガーナーの思い出』
のときに書きましたね。
こうして、
こんな生活に、
ドップリつかってしまうと、
とてもライトなど続けられるわけもなく、
また戻る気もなくなり、
一年生の途中で早々とリタイヤした私は、
夜の六本木のジャズ・シーンに
‘謎の大学生’として、
存在していくことに、
なるのでした。
(つづく)
(感想 2007/4/29)
ところで、
CHIHARUも、
着々とファンを増やしているようですね。
「もっともっと知られていい」
と思っていたシンガーだけに、
嬉しい気がします。
うんうん。
いいことだ。
そんなCHIHARUファンに、
耳よりなニュース!
5/11(金)
私のホーム・グラウンド
学芸大「A'TRAIN」で、
『CHIHARU / A'TRAIN スペシャル』
なるライブが実現します。
バック・メンバーは、
私のピアノと河野秀夫氏のベース。
9時半からXステージ。
ミュージック・チャージ¥1,500
(TEL:5721-8833)
これはお得だ。
白熱の夜、必至!
さらにさかのぼって、
GW明けの5/8(火)には、
「代々木ナル」で、
私の好きなもうひとりのシンガー、
美しい美しい、
ちゅうまけいこ
とのコラボがあります。
ベースが、これまた、
佐藤有介という、
素晴らしい若手。
これも楽しみです。
さらに、この日の午後は、
新鋭男性ヴォーカル・グループ
『 jammin' Zeb 』が、
「渋谷CCレモン・ホール(旧渋谷公会堂)」
で行なわれる、
「DANKS ヘアー・ショー」にゲスト出演。
私がこのためにアレンジした、
『オペラ座の怪人メドレー』
を唱うことになっています。
うわあ、
なんだか忙しそう。
このGWは、
体力温存だな…。
SHUN MIYAZUMI
April 22, 2007
ジャズまくり時代 その4
皮肉なもので、
この「ジャズまくり時代」
を書きはじめてからの2週間というもの、
私はほとんど、
ピアノにさわっていません。
ま、本業が忙しくなってる、
という結構な状況ではあるのですが、
それにしても今週、
4/24(火)は「代ナル」で、
楽しみなCHIHARUとのコラボがある。
ちょっと心配になってきましたねえ。
というわけで、
きょうは久しぶりに、
ピアノの練習でもしようかな。
まさか、
忘れてないだろうなぁ、
ピアノ…?
2003年7月10日(木) No.53(後半)
ジャズまくり時代 その4
私の大学1年の夏。
合宿を終えると、
先輩たちはそのまま、
演奏旅行に出かけました。
当時は地方遠征も多く、
こんなことも、
こうした有名音楽サークルの、
人気の理由のひとつだったのですが、
今はほとんど無いようですね。
今の現役は、
かわいそうだな。
その遠征には、
将来を嘱望されている1年生も、
何人か同行したのですが、
いまだに、
ジャズらしきものを何も弾けない私は、
まったく相手にされず、
お家でお留守番。
しかし、
これがラッキーでした。
この1ヶ月は、
奴隷生活から解放され、
ようやく、
思う存分練習が出来る!
「さあ、やるぞ〜!」
先輩の高尾さんから写させてもらった、
菊池雅章さんのジャズ理論書を研究し、
トミー・フラナガン、
ソニー・クラーク、
ウイントン・ケリー、
レッド・ガーランド、
といった、
オーソドックスなピアニストのレコードを、
次から次へとコピー。
そして、
レコードに合わせて、
一緒に演奏してみる。
こんな毎日が始まりました。
でもね、
ジャズって、
ほんと難しい。
いくら練習しても、
我ながらすごい‘イモ’で、
全然サマになっていないのが解る。
自己嫌悪の毎日。
乗り方もハーモニーも、
何かが違う?
特にジャズでは、
8分音符の跳ね方が、
本当に難しいんです。
そしてこれが、
ジャズ特有の‘スイング’
というやつ。
黒人は生まれつき持ってるものですが、
我々日本人には無い独特の‘乗り方’。
これが一番やっかいでしたね。
ちっともできなくて、
毎日泣きながら練習しました。
一日8時間くらい練習したでしょうか、
あの頃は。
でも、自分では、
全く納得いかなかった。
早くも壁にブチ当たった、
そんなある日、
ある友人が、
一人のピアニストを紹介してくれました。
大沢保郎さんという、
ビーバップ・スタイルの名手で、
その筋では有名な人です。
その時は、
銀座の、とあるクラブで、
ピアノ・トリオで演奏していました。
小粋にスイングする、
趣味のいい彼のピアノに魅せられた私は、
勝手に弟子入り宣言。
でも、その大沢先生、
親切に教えてくれたりはしない。
ただし、毎日見学することだけは、
許してくれました。
で、昼間は家で練習して、
夜は銀座のクラブのカウンターに座って、
彼のトリオの演奏を聴く。
彼の指使いを間近で見る。
‘百聞は一見にしかず’
とは良く言ったもの。
それまでの謎が、
少しずつほぐれていきます。
そうこうするうち、
仲良くなったベースの人が、
銀座での仕事を終えたあと、
今度は六本木の「N」というジャズ・クラブに、
連れて行ってくれました。
(おや、なにやらこの店、聴いたことが?)
そうです。
このエッセイの過去ログ
「エロール・ガーナーの思い出」
にも登場した、
あのお店です。
そして、
そこで弾いていたピアニストが、
菅野邦彦さん。
私が今でも「心の師匠」と仰ぐ、
名ピアニスト。
彼のピアノは、
その後の私のジャズ・ライフに、
本当に影響を与えましたね。
まあ、いろんな意味で。
(つづく)
(感想 2007/4/22)
これをお読み下さってる、
若い人たちに申し上げます。
ここで言う「銀座のクラブ」とは、
正真正銘、
ホステスのおネエさんがいっぱいいる、
あの‘クラブ’のことです。
クから右下がりに‘クラブ’と発音する。
みなさんがよく踊りに行くであろう
‘クラブ’は、
一直線に、
アクセントをつけずに発音しますね。
お間違えなきよう。
それにしても、
未成年の分際で、
こんなところに出入りしていた私は、
やはり不良…?
良い子のみなさんは、
絶対、
真似をしないように。
SHUN MIYAZUMI
この「ジャズまくり時代」
を書きはじめてからの2週間というもの、
私はほとんど、
ピアノにさわっていません。
ま、本業が忙しくなってる、
という結構な状況ではあるのですが、
それにしても今週、
4/24(火)は「代ナル」で、
楽しみなCHIHARUとのコラボがある。
ちょっと心配になってきましたねえ。
というわけで、
きょうは久しぶりに、
ピアノの練習でもしようかな。
まさか、
忘れてないだろうなぁ、
ピアノ…?
2003年7月10日(木) No.53(後半)
ジャズまくり時代 その4
私の大学1年の夏。
合宿を終えると、
先輩たちはそのまま、
演奏旅行に出かけました。
当時は地方遠征も多く、
こんなことも、
こうした有名音楽サークルの、
人気の理由のひとつだったのですが、
今はほとんど無いようですね。
今の現役は、
かわいそうだな。
その遠征には、
将来を嘱望されている1年生も、
何人か同行したのですが、
いまだに、
ジャズらしきものを何も弾けない私は、
まったく相手にされず、
お家でお留守番。
しかし、
これがラッキーでした。
この1ヶ月は、
奴隷生活から解放され、
ようやく、
思う存分練習が出来る!
「さあ、やるぞ〜!」
先輩の高尾さんから写させてもらった、
菊池雅章さんのジャズ理論書を研究し、
トミー・フラナガン、
ソニー・クラーク、
ウイントン・ケリー、
レッド・ガーランド、
といった、
オーソドックスなピアニストのレコードを、
次から次へとコピー。
そして、
レコードに合わせて、
一緒に演奏してみる。
こんな毎日が始まりました。
でもね、
ジャズって、
ほんと難しい。
いくら練習しても、
我ながらすごい‘イモ’で、
全然サマになっていないのが解る。
自己嫌悪の毎日。
乗り方もハーモニーも、
何かが違う?
特にジャズでは、
8分音符の跳ね方が、
本当に難しいんです。
そしてこれが、
ジャズ特有の‘スイング’
というやつ。
黒人は生まれつき持ってるものですが、
我々日本人には無い独特の‘乗り方’。
これが一番やっかいでしたね。
ちっともできなくて、
毎日泣きながら練習しました。
一日8時間くらい練習したでしょうか、
あの頃は。
でも、自分では、
全く納得いかなかった。
早くも壁にブチ当たった、
そんなある日、
ある友人が、
一人のピアニストを紹介してくれました。
大沢保郎さんという、
ビーバップ・スタイルの名手で、
その筋では有名な人です。
その時は、
銀座の、とあるクラブで、
ピアノ・トリオで演奏していました。
小粋にスイングする、
趣味のいい彼のピアノに魅せられた私は、
勝手に弟子入り宣言。
でも、その大沢先生、
親切に教えてくれたりはしない。
ただし、毎日見学することだけは、
許してくれました。
で、昼間は家で練習して、
夜は銀座のクラブのカウンターに座って、
彼のトリオの演奏を聴く。
彼の指使いを間近で見る。
‘百聞は一見にしかず’
とは良く言ったもの。
それまでの謎が、
少しずつほぐれていきます。
そうこうするうち、
仲良くなったベースの人が、
銀座での仕事を終えたあと、
今度は六本木の「N」というジャズ・クラブに、
連れて行ってくれました。
(おや、なにやらこの店、聴いたことが?)
そうです。
このエッセイの過去ログ
「エロール・ガーナーの思い出」
にも登場した、
あのお店です。
そして、
そこで弾いていたピアニストが、
菅野邦彦さん。
私が今でも「心の師匠」と仰ぐ、
名ピアニスト。
彼のピアノは、
その後の私のジャズ・ライフに、
本当に影響を与えましたね。
まあ、いろんな意味で。
(つづく)
(感想 2007/4/22)
これをお読み下さってる、
若い人たちに申し上げます。
ここで言う「銀座のクラブ」とは、
正真正銘、
ホステスのおネエさんがいっぱいいる、
あの‘クラブ’のことです。
クから右下がりに‘クラブ’と発音する。
みなさんがよく踊りに行くであろう
‘クラブ’は、
一直線に、
アクセントをつけずに発音しますね。
お間違えなきよう。
それにしても、
未成年の分際で、
こんなところに出入りしていた私は、
やはり不良…?
良い子のみなさんは、
絶対、
真似をしないように。
SHUN MIYAZUMI
April 18, 2007
ジャズまくり時代 その3
毎日鬱陶しいですね。
雨ばかり。
しかも肌寒い。
しかし、私は浮き浮き。
なぜか?
電器屋さんのおかげで、
BSが復活したから。
さすがプロですね。
ここぞ、という場所を、
あっと言う間に探し出し、
あっと言う間に工事してしまいました。
というわけで、
9ヶ月ぶりに、
我が家に大リーグが戻ってきました。
ウシシ。
さて今日も、
私の大学時代のお話。
2003年7月10日(木) No.53
ジャズまくり時代 その3
ま、そんなわけで、
憧れの「ライトミュージック・ソサエティ」に、
入ることは入りました。
それにしても、
当時のライトのスケジュールは、
半端じゃない。
週3回(月、水、金)の練習の他に、
コンサートやダンス・パーティーの仕事が、
月に20本近くもある。
その度に、我ら1年生は、
必修科目があろうが、
試験があろうが、
情け容赦なく担ぎ出される。
そんな環境ですから、
先輩たちの中には、
留年を余儀なくされている人も、
いっぱいいましたね。
この辺が、
名門クラブのつらいところか。
しかし、
まったくもって、
本末転倒もいいところの集団だ…。
さてこの、
「ダンス・パーティー」とは何かというと、
学内のいろんなサークルが、
金稼ぎのために、
ダンス・パーティーを主催し、
パーティー券を売り、
そこに、いっぱい男女が集まって、
交際の場を拡げるというもの。
今で言うところの、
「合コン」
てやつですか。
これが、
けっこう大きなホールで、
頻繁に行なわれていた。
しかも優雅に。
そして、そのバックの演奏に、
我らライトのような、
ジャズのビッグ・バンドが呼ばれるわけです。
演奏するのはもっぱら、
「グレン・ミラー楽団」のようなダンス・ナンバー。
それが、
ライトの資金源になる。
しかも、学生の分際で、
かなりの荒稼ぎ。
今はこんなのありませんね。
というか、
親のスネかじりのくせに、
当時の学生は、
なまいきでしたね。
でも、いい時代でした。
で、こういう仕事があると、
楽器運びは、
もちろん1年生の仕事。
これ「トランポ」(Transportationの略)
って言うんですが、
これが、もう、もう、大変だ。
今は楽器車があるそうなのですが、
当時はタクシー3台で運ぶ。
3人一組になって「部室」から、
楽器や譜面、
(レパートリーが千曲くらいありますから、
これがまた重い!)
を外へ運び出し、
タクシーを拾う。
しかし、ほとんどのタクシーは、
楽器の山を見て乗車拒否。
なんとか止まってくれたタクシーも、
行き先が近いと、また拒否。
ニューヨークならさしずめ、
「Fuck You!」
とののしられ、
相手にもされない、
って感じ…。
そのうち集合時間は迫ってくる。
あせります。
万一遅刻などしようものなら、
先輩からこっぴどく爆弾が落ちる。
ま、先輩のみなさんも、
1年の時はやってきてるのだから、
言い訳もできませんしね。
この「トランポ」が嫌で、
当初40人くらいいた新入生も、
一人やめ、二人やめ。
一か月も経つと12、3人に減っていました。
すると、
この「トランポ」の順番が、
あっという間に廻ってくる。
これ本当に、
きつかったですね。
(現役諸君!
専用楽器車で運べるなんて、
君らは恵まれてるのよ。)
さらに、
先輩たちの練習の時は、
「新曲の写譜」という仕事が待ってる。
スコアからパート譜に書き写す仕事。
でも、
しだいに不安と不満がつのる私。
「これじゃあ、
練習する時間なんて、
ぜんぜん無いじゃないか…。」
「いったい何時になったら、
練習できるんだろう…?」
そして、
そんな毎日ですから、
ピアノもいっこうに、
上手くなりません。
そんなわけで、
夏合宿のころには、
新入生は10人前後に減っていました。
7人もいた‘ピアノ志望’も、
私一人になっていました。
「しめた!
これで3年後のレギュラーは俺のものだ。」
ところが、ある先輩から、
「一人しかいなくても、
イモだったら、
他から連れてくるから。」
と言われ、
これまたガーン!
夏合宿のあとの演奏旅行でも、
まったく期待されていない私は、
どこへも連れて行ってくれません。
しかし、
今思えば、
これが幸運でしたね。
先輩たちが演奏旅行に行ってる1ヶ月間は、
晴れて解放。
私が待ちこがれてた練習時間が、
ついに、
やってきたわけです。
(つづく)
(感想 2007/4/18)
こうして、
当時のライトを振り返ってみると、
まるで「体育会」のようでしたね。
4年生は国王。
1年生は奴隷。
ま、こんな感じでした。
私の「スポーツ・ピアノ」は、
こんな体育会的環境から生まれた?
どうでしょう。
関係ないかな?
そういえば、
4/24(火)は「代々木ナル」
大好きなシンガー、
CHIHARU(チハル)とのコラボです。
「スポーツ・ジャズ」満開だぜ!
SHUN MIYAZUMI
雨ばかり。
しかも肌寒い。
しかし、私は浮き浮き。
なぜか?
電器屋さんのおかげで、
BSが復活したから。
さすがプロですね。
ここぞ、という場所を、
あっと言う間に探し出し、
あっと言う間に工事してしまいました。
というわけで、
9ヶ月ぶりに、
我が家に大リーグが戻ってきました。
ウシシ。
さて今日も、
私の大学時代のお話。
2003年7月10日(木) No.53
ジャズまくり時代 その3
ま、そんなわけで、
憧れの「ライトミュージック・ソサエティ」に、
入ることは入りました。
それにしても、
当時のライトのスケジュールは、
半端じゃない。
週3回(月、水、金)の練習の他に、
コンサートやダンス・パーティーの仕事が、
月に20本近くもある。
その度に、我ら1年生は、
必修科目があろうが、
試験があろうが、
情け容赦なく担ぎ出される。
そんな環境ですから、
先輩たちの中には、
留年を余儀なくされている人も、
いっぱいいましたね。
この辺が、
名門クラブのつらいところか。
しかし、
まったくもって、
本末転倒もいいところの集団だ…。
さてこの、
「ダンス・パーティー」とは何かというと、
学内のいろんなサークルが、
金稼ぎのために、
ダンス・パーティーを主催し、
パーティー券を売り、
そこに、いっぱい男女が集まって、
交際の場を拡げるというもの。
今で言うところの、
「合コン」
てやつですか。
これが、
けっこう大きなホールで、
頻繁に行なわれていた。
しかも優雅に。
そして、そのバックの演奏に、
我らライトのような、
ジャズのビッグ・バンドが呼ばれるわけです。
演奏するのはもっぱら、
「グレン・ミラー楽団」のようなダンス・ナンバー。
それが、
ライトの資金源になる。
しかも、学生の分際で、
かなりの荒稼ぎ。
今はこんなのありませんね。
というか、
親のスネかじりのくせに、
当時の学生は、
なまいきでしたね。
でも、いい時代でした。
で、こういう仕事があると、
楽器運びは、
もちろん1年生の仕事。
これ「トランポ」(Transportationの略)
って言うんですが、
これが、もう、もう、大変だ。
今は楽器車があるそうなのですが、
当時はタクシー3台で運ぶ。
3人一組になって「部室」から、
楽器や譜面、
(レパートリーが千曲くらいありますから、
これがまた重い!)
を外へ運び出し、
タクシーを拾う。
しかし、ほとんどのタクシーは、
楽器の山を見て乗車拒否。
なんとか止まってくれたタクシーも、
行き先が近いと、また拒否。
ニューヨークならさしずめ、
「Fuck You!」
とののしられ、
相手にもされない、
って感じ…。
そのうち集合時間は迫ってくる。
あせります。
万一遅刻などしようものなら、
先輩からこっぴどく爆弾が落ちる。
ま、先輩のみなさんも、
1年の時はやってきてるのだから、
言い訳もできませんしね。
この「トランポ」が嫌で、
当初40人くらいいた新入生も、
一人やめ、二人やめ。
一か月も経つと12、3人に減っていました。
すると、
この「トランポ」の順番が、
あっという間に廻ってくる。
これ本当に、
きつかったですね。
(現役諸君!
専用楽器車で運べるなんて、
君らは恵まれてるのよ。)
さらに、
先輩たちの練習の時は、
「新曲の写譜」という仕事が待ってる。
スコアからパート譜に書き写す仕事。
でも、
しだいに不安と不満がつのる私。
「これじゃあ、
練習する時間なんて、
ぜんぜん無いじゃないか…。」
「いったい何時になったら、
練習できるんだろう…?」
そして、
そんな毎日ですから、
ピアノもいっこうに、
上手くなりません。
そんなわけで、
夏合宿のころには、
新入生は10人前後に減っていました。
7人もいた‘ピアノ志望’も、
私一人になっていました。
「しめた!
これで3年後のレギュラーは俺のものだ。」
ところが、ある先輩から、
「一人しかいなくても、
イモだったら、
他から連れてくるから。」
と言われ、
これまたガーン!
夏合宿のあとの演奏旅行でも、
まったく期待されていない私は、
どこへも連れて行ってくれません。
しかし、
今思えば、
これが幸運でしたね。
先輩たちが演奏旅行に行ってる1ヶ月間は、
晴れて解放。
私が待ちこがれてた練習時間が、
ついに、
やってきたわけです。
(つづく)
(感想 2007/4/18)
こうして、
当時のライトを振り返ってみると、
まるで「体育会」のようでしたね。
4年生は国王。
1年生は奴隷。
ま、こんな感じでした。
私の「スポーツ・ピアノ」は、
こんな体育会的環境から生まれた?
どうでしょう。
関係ないかな?
そういえば、
4/24(火)は「代々木ナル」
大好きなシンガー、
CHIHARU(チハル)とのコラボです。
「スポーツ・ジャズ」満開だぜ!
SHUN MIYAZUMI
April 14, 2007
ジャズまくり時代 その2
大リーグが、
面白そうですねえ。
でも私は、
観ることができない。
ぐしゅん。
今年のお正月にも書きましたが、
となりの駐車場に、
突如現れた大きな木が、
私の家の‘BS電波’をさえぎってるから。
そろそろ、
ダメもとで、
電器屋さんにでも、
相談してみようかな…。
2003年7月4日(金) No.52(後半)
ジャズまくり時代 その2
とりあえずK大に合格し、
憧れの『ライト・ミュージック・ソサエティ』に入部し、
言われるがままに、
渋谷の『銀亭』という小料理屋に行ってみると、
大勢の現役の先輩たちに交じって、
ものすごい数の新入生が、
緊張の面持ちでいました。
そして、
いきなり先輩たちから、
ものすごい量の‘酒の洗礼’を受けました。
断ろうものなら、
「お前、あいつの酒は受けて、
俺のは受けないってぇの?」
と、情け容赦なく酒が注がれる。
言っておきますが、
私はこの時まだ、
18才。
さあ、帰りが大変でした。
電車に乗ってもすぐに気持ち悪くなり、
降りて吐いて、
次の電車を待って乗るものの、
でもまた気持ち悪くなって、
次の駅で降りて吐く。
一駅ずつ、この繰り返し。
ヘロヘロになって家にたどり着いたのを、
きのうのことのように、
覚えています。
私は思いました。
「えらいところへ入ったもんだ…。」
さてこの、
『ライト・ミュージック・ソサエティ』
‘日本最古の学生バンド’を誇る、
名門中の名門クラブだけあって、
牧田清志教授
(「牧義雄」というペンネームで、
ジャズ評論家としても有名な人。
もうお亡くなりになりましたが。)
を名誉会長に、
北村英治(クラリネット)
いそのてるヲ(ジャズ評論家)
本田俊夫(ジャズ評論家)
さんらをはじめ、
そうそうたるOBが名を連ねています。
特にピアノがすごい。
三保敬太郎
鈴木邦彦
村井邦彦
鈴木宏昌
大野雄二
(敬称略)
作曲家やピアニストとして、
当時の音楽界を席巻していた、
ビッグ・ネームがずらり。
さらに他の楽器でも、
神保彰(「カシオペア」のドラム)など、
プロになった逸材も豊富。
長野オリンピック「ジャンプ団体」の放送で、
「原田立て立て、立ってくれー!」
の名アナウンスで一躍名をあげた、
NHKスポーツ・アナの大御所、
工藤三郎も、
私の2年後輩で、
トロンボーンを吹いてました。
ま、これは余談ですが。
さあ翌日は、
初めて先輩たちの練習を見学。
きのうのドンチャン騒ぎとは、
打って変わって、
真剣きわまりない練習。
前年度の、
「TBS大学対抗バンド合戦」
でも全国優勝し、
いろんな学生バンドのコンクールでも、
常に優勝を争う、
というだけのことはあって、
それはそれは、
素晴らしい演奏を繰り広げていました。
さらに驚いたのは、
レギュラーのメンバー以外にも、
大勢の先輩がいて、
廊下や中庭で、
サックスやトランペットやトロンボーンの練習を、
真剣な面持ちで、やっている。
聞くところによると、
このなかには、
4年生もいっぱいいるらしい。
例えば、
トランペット、トロンボーンは、
各々4人までがレギュラー。
でも、
翌年のレベルが下がる、
ということで、
4年生は二人までがレギュラーで、
あとは3年生が一人と2年生が一人。
もちろん、
ピアノ、ギター、ベース、ドラム、
といったリズム・セクションは、
レギュラーは常に一人。
厳しいですね。
いきなり現実を、
思い知らされました。
「俺で大丈夫かな…?」
その後、
「パート別に1年生集合」
のコール。
もちろん私は、
‘ピアノ志望のコーナー’へ。
すると、レギュラーで4年生の、
高尾さんという人が、
「ジャズは、こうやって弾くんだよー。」
とばかりに、
いきなり、
レコードでも聴いてるかのような、
すごいプレイをやってのけた。
感動とともに、
ますます不安になりましたねえ。
「俺、大丈夫かなあ…?」
さらに不安になったのは、
1年生のピアノ志望だけで7人もいたこと。
で、高尾さんに、
「みんな一曲ずつ何か弾いてみな。」
と言われたのですが、
私だけはまだ、
なんにも弾けませんでした。
上手い方から6番目くらいのヤツでも、
『イパネマの娘』くらいは弾けたのに。
私だけが、
ジャズらしきものを、
な〜んにも、
弾けない。
「この7人で、
たった一つのレギュラーの椅子を争うのか…。」
さらに聞くところによると、
仮にレギュラーになれても、
後輩に、もっと上手いのが入ってきたら、
すぐにチェンジらしい。
ま、このへんが「名門」と言われるゆえんか。
「……。」
本当に、
えらいところへ入ったもんだ……。
(つづく)
(感想 2007/4/14)
当時は、
この「ライト」のような‘ビッグ・バンド’が花形で、
大学で音楽をやる連中の憧れの存在、
だったのですが、
今は、なかなか人が集まらない、
ようですね。
しかたなく、
他の大学の上手いプレイヤーを、
いわゆる「友軍」として連れて来て、
なんとか運営しているようです。
そういえば、
私の「A'TRAIN」セッションにも、
現役の「ライト」の連中が、
よく来ますが、
そのなかには、
東大のサックス奏者がいたりする。
厳しくはあったものの、
いい時代だった、
と言うべきか…?。
SHUN MIYAZUMI
April 09, 2007
ジャズまくり時代
4/6(金)「六本木 ALL OF ME CLUB」
スイート・ボイスとのライブに、
お越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員御礼の盛り上がり。
大変楽しゅうございました。
ところで、
3/30「東京ミッドタウン」
がオープンして、
あの辺は一変してしまいましたね。
とにかく、
人の多さにビックリ。
大学生の頃から、
六本木は私にとって、
「ジャズの原点。
第二のふるさと。」
みたいな存在なのですが、
夜はにぎやかでも、
昼間なんて閑散としていた。
それが、
昼飯時なんて、
どこもいっぱい。
並んで待ってる。
あの辺で長い間、
頑張ってきた飲食店のみなさんには、
さぞや「我が世の春」
でしょうかね。
さて、
「レコード買いまくり時代」
の続編シリーズです。
今度は、
私の大学時代を、
回顧したいと思います。
2003年7月4日(金) No.52
ジャズまくり時代
私の大学4年間は、
まさに、
‘ジャズ一色’
ジャズ…。
JAZZ…。
いい響きですねえ。
‘あの音楽’をひと言で表すのに、
これほど適切な言葉は、
他に見つかりません。
最初に考えた人は、
ノーベル賞もんです。
「レコード買いまくり時代」
でも書きましたが、
子供の頃から、
音楽大好きで、
しかも雑食で、
ありとあらゆる音楽に手を出してきた私は、
高2の冬には、
ついに「ジャズ」にまで、
たどり着いてしまいました。
ビル・エヴァンス・トリオの華麗な演奏にしびれ、
インプロビゼーション(即興演奏)の世界に驚き、
‘ジャズ’&‘ジャズ・ピアニスト’
という言葉に、
完全に魅せられてしまった私は、
それまでの、
芸大進学希望をさっさと取りやめ、
「特にジャズが盛んだ」という大学、
‘K大’と‘W大’をターゲットに絞り、
とりあえず猛勉強開始。
幸いにも‘K大’に合格した私は、
あらゆる学生ジャズ・バンドの中でも、
特に「名門」と言われている、
『ライト・ミュージック・ソサエティ』
というジャズ・オーケストラに憧れ、
何があっても、
ここに入部しようと思いました。
入学式が終わるやいなや私は、
キャンパスいっぱいに繰り広げられている、
いろんなサークルの勧誘を、
次から次へと断り、
「LIGHT MUSUC SOCIETY」
「ライト」
「LIGHT」
の文字を探しては、
ウロウロ、キョロキョロ。
あっち行き、こっち行き。
「ライト、ライトはどこだ、ライトは…。」
と口走りながら、
懸命に探しました。
でも、これが、
なかなか、
見つからない。
その間も、
いろんなサークルの勧誘は、
ひっきりなしに続きます。
「来たれ、テニス部へ!」
「どうだ、山岳同好会に入らんかね。」
「俳句同好会に入りませんか〜。」
「君、軟式野球部なんかどうかね。」
しかし私は、
そのつど、こう聞き返します。
「あのお…、
ライト・ミュージックはどこでしょうか…?」
ところが、
「ライト」
のひと言を出すたびに、、
どのサークルの人も一様に、
急にあきれた表情になり、
不機嫌になり、
「ライト?ふん。」
とか、
「知らんねえ。」
という冷たい反応。
そして、
さっさと私は無視され、
他の学生の勧誘に切り替わる。
ちょっぴり不安になりましたねえ。
「なるほど、確かにライトは有名なようだ。
でも、あんまり良く思われていないみたいだな。
ひょっとしてジャズって、
不良がやる音楽、だなんて、
思われてるのかも…。」
でも、そんなことにもめげず、
ひたすら「ライト」の文字を探す私。
すると、
向こうの方から、
へんな看板を掲げた2、3人の集団が、
腰をふりふり、
やって来ます。
近づいてきたので、
その看板をよーく見ると、
横たわった裸体の女性が、
ウインクをしながら、
こうつぶやいてる、
ヘタクソな漫画が描かれてました。
「ライトよ〜ん!
来てね〜ん!
ウッフン!」
「……。
やっぱ不良だ…。」
しかし、なぜか、
私のフィーリングには、
ピッタンコでしたね。
感動すら覚えました。
「すごい…。
さすがライトだ。
ジャズだ。
とんでる!」
私はさっそく、
「あのお、入部したいのですが…。」
すると、その先輩、
「あ、そう。
君入りたいの。
じゃ、あそこで名前書いてってね。」
と、遠くの、ある場所を指さす。
その指定された場所へ行って、
ノートに記帳すると、
「来週、渋谷『銀亭』という料亭で、
新入生歓迎会をやるから来なさい。」
と言われました。
「アハハハ。
いきなり酒席かよ。」
やっぱ、不良だ…。
(つづく)
(感想 2007/4/9)
そういえば、
今日(4/9・月)も、私は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」
で演奏です。
毎月、第二月曜日恒例の、
「ピアノ・トリオ・ライブ」。
どうぞ、いらして下さい。
そしてここは、本当に、
「東京ミッドタウン」
のすぐ近くにあるんです。
「東京ミッドタウン」から、
いちばん近い‘ジャズ・クラブ’。
これからまた、
新しい出会いが増えそうな、
そんな予感がしますね。
ワクワク…。
ところで、
この「東京ミッドタウン」
のオープンに合わせて、
それまで400円だったカレー・ライスを、
800円に値上げしたお店がありました。
あーた、
そりゃちょっと、
やり過ぎじゃありませんかね。
SHUN MIYAZUMI
スイート・ボイスとのライブに、
お越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員御礼の盛り上がり。
大変楽しゅうございました。
ところで、
3/30「東京ミッドタウン」
がオープンして、
あの辺は一変してしまいましたね。
とにかく、
人の多さにビックリ。
大学生の頃から、
六本木は私にとって、
「ジャズの原点。
第二のふるさと。」
みたいな存在なのですが、
夜はにぎやかでも、
昼間なんて閑散としていた。
それが、
昼飯時なんて、
どこもいっぱい。
並んで待ってる。
あの辺で長い間、
頑張ってきた飲食店のみなさんには、
さぞや「我が世の春」
でしょうかね。
さて、
「レコード買いまくり時代」
の続編シリーズです。
今度は、
私の大学時代を、
回顧したいと思います。
2003年7月4日(金) No.52
ジャズまくり時代
私の大学4年間は、
まさに、
‘ジャズ一色’
ジャズ…。
JAZZ…。
いい響きですねえ。
‘あの音楽’をひと言で表すのに、
これほど適切な言葉は、
他に見つかりません。
最初に考えた人は、
ノーベル賞もんです。
「レコード買いまくり時代」
でも書きましたが、
子供の頃から、
音楽大好きで、
しかも雑食で、
ありとあらゆる音楽に手を出してきた私は、
高2の冬には、
ついに「ジャズ」にまで、
たどり着いてしまいました。
ビル・エヴァンス・トリオの華麗な演奏にしびれ、
インプロビゼーション(即興演奏)の世界に驚き、
‘ジャズ’&‘ジャズ・ピアニスト’
という言葉に、
完全に魅せられてしまった私は、
それまでの、
芸大進学希望をさっさと取りやめ、
「特にジャズが盛んだ」という大学、
‘K大’と‘W大’をターゲットに絞り、
とりあえず猛勉強開始。
幸いにも‘K大’に合格した私は、
あらゆる学生ジャズ・バンドの中でも、
特に「名門」と言われている、
『ライト・ミュージック・ソサエティ』
というジャズ・オーケストラに憧れ、
何があっても、
ここに入部しようと思いました。
入学式が終わるやいなや私は、
キャンパスいっぱいに繰り広げられている、
いろんなサークルの勧誘を、
次から次へと断り、
「LIGHT MUSUC SOCIETY」
「ライト」
「LIGHT」
の文字を探しては、
ウロウロ、キョロキョロ。
あっち行き、こっち行き。
「ライト、ライトはどこだ、ライトは…。」
と口走りながら、
懸命に探しました。
でも、これが、
なかなか、
見つからない。
その間も、
いろんなサークルの勧誘は、
ひっきりなしに続きます。
「来たれ、テニス部へ!」
「どうだ、山岳同好会に入らんかね。」
「俳句同好会に入りませんか〜。」
「君、軟式野球部なんかどうかね。」
しかし私は、
そのつど、こう聞き返します。
「あのお…、
ライト・ミュージックはどこでしょうか…?」
ところが、
「ライト」
のひと言を出すたびに、、
どのサークルの人も一様に、
急にあきれた表情になり、
不機嫌になり、
「ライト?ふん。」
とか、
「知らんねえ。」
という冷たい反応。
そして、
さっさと私は無視され、
他の学生の勧誘に切り替わる。
ちょっぴり不安になりましたねえ。
「なるほど、確かにライトは有名なようだ。
でも、あんまり良く思われていないみたいだな。
ひょっとしてジャズって、
不良がやる音楽、だなんて、
思われてるのかも…。」
でも、そんなことにもめげず、
ひたすら「ライト」の文字を探す私。
すると、
向こうの方から、
へんな看板を掲げた2、3人の集団が、
腰をふりふり、
やって来ます。
近づいてきたので、
その看板をよーく見ると、
横たわった裸体の女性が、
ウインクをしながら、
こうつぶやいてる、
ヘタクソな漫画が描かれてました。
「ライトよ〜ん!
来てね〜ん!
ウッフン!」
「……。
やっぱ不良だ…。」
しかし、なぜか、
私のフィーリングには、
ピッタンコでしたね。
感動すら覚えました。
「すごい…。
さすがライトだ。
ジャズだ。
とんでる!」
私はさっそく、
「あのお、入部したいのですが…。」
すると、その先輩、
「あ、そう。
君入りたいの。
じゃ、あそこで名前書いてってね。」
と、遠くの、ある場所を指さす。
その指定された場所へ行って、
ノートに記帳すると、
「来週、渋谷『銀亭』という料亭で、
新入生歓迎会をやるから来なさい。」
と言われました。
「アハハハ。
いきなり酒席かよ。」
やっぱ、不良だ…。
(つづく)
(感想 2007/4/9)
そういえば、
今日(4/9・月)も、私は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」
で演奏です。
毎月、第二月曜日恒例の、
「ピアノ・トリオ・ライブ」。
どうぞ、いらして下さい。
そしてここは、本当に、
「東京ミッドタウン」
のすぐ近くにあるんです。
「東京ミッドタウン」から、
いちばん近い‘ジャズ・クラブ’。
これからまた、
新しい出会いが増えそうな、
そんな予感がしますね。
ワクワク…。
ところで、
この「東京ミッドタウン」
のオープンに合わせて、
それまで400円だったカレー・ライスを、
800円に値上げしたお店がありました。
あーた、
そりゃちょっと、
やり過ぎじゃありませんかね。
SHUN MIYAZUMI
March 30, 2007
レコード買いまくり時代 その4
春だ、春だ。
花見だ、花見だ。
わあい、わあい。
というわけで、
行ってまいりました。
目黒川に花見に。
しかも二晩続けて。
おかげで、
きょうの私は、
いまだほろ酔い気分。
いい気分のまま、
きょうは「学芸大 A'TRAIN」
のミッドナイト・セッション。
休養充分!
はじけますよ〜。
2003年6月12日(木) No.51(後半)
レコード買いまくり時代 その4
あれは、
高校2年の冬だったでしょうか。
次々に登場する、
アメリカやイギリスの、
ロック&ポップスの新星たち。
まさにニュー・ウェイブ、
音楽の新しい波。
クラシックそっちのけで、
すっかりとりこになってしまった私ですが、
とりわけ、
私の心をガッチリつかんでしまったのが、
「ドアーズ」
というバンド。
ジム・モリソンの官能的な歌唱。
オリジナリティーに溢れた作品。
オルガンとギターの、
新鮮なコンビネーションのサウンド。
そのデビュー・アルバムを
初めて聴いたときの衝撃は、
今も忘れられません。

なかでも一番惹かれたのが、
レイ・マンザレクのオルガン・プレイ。
大ヒット曲
『LIGHT MY FIRE』(ハートに火をつけて)
で、延々と繰り広げられるオルガン・ソロ。
従来のポップス&ロックにおける、
‘間奏’の常識を打ち破る長さ、
そしてソロの中身の完成度の高さ。
新鮮な驚きと不思議な感覚。
この不思議な感覚はどこから来るのか…?。
ある日私は、
こうした音楽に詳しい同級生のひとり
H君に、
おそるおそる、
こう聞いてみました。
私「あのね、
ドアーズのオルガン・ソロなんだけど、
あれって全部レイ・マンザレクが‘作曲’したの?」
H「ばかだな、ありゃアドリブだよ。」
私「ア、ア、アドリブってなに?」
H「即興演奏のことだよ。」
私「そ、そっきょう?」
H「おまえ、そんなことも知らなかったのかよ。」
私「……。
ほかにも、こんな風に、
即興でやってるものがあったら、
教えて欲しいなあ。」
H「じゃ、ジャズ聴けば。」
私「ジ、ジャズ…?」
それに追い打ちをかけるように、
さらに私に衝撃を与えた、
バンドがありました。
「BLOOD, SWEAT & TEARS」
(ブラッド・スウェット&ティアーズ)

通常のロック・バンドの編成に、
トランペットやサックスといった、
ホーン・セクションが加わったサウンドは、
今まで聴いた事もない新鮮なもの。
さらに、
『SPINNING WHEEL』(スピニング・ホイール)
という曲の間奏は、
なんとジャズの4(フォー)・ビートで演奏される。
時折聞こえる不協和音も、
見事にサウンドにマッチしている。
聞くところによると、
これも、
‘ジャズ・ハーモニー’
というやつらしい。
「またしても、ジャズか…。」
「ジャズ…。」
「JAZZ…。」
「これは、‘ジャズ’というものも、
真剣に聞いてみねばなるまい。」
そう思った私は、
さっそくレコード店に行き、
H君が推薦する、
知的ピアニスト、
「ビル・エヴァンス」のベスト盤と、
「ウエス・モンゴメリー(ギター)」
と「ジミー・スミス(オルガン)」
が共演してるレコードを購入。
そして、
これが、
私の運命を決めてしまうことになろうとは。
ビル・エヴァンスのアルバムの一曲目
『Beautiful Love』(ビューティフル・ラヴ)
に針をおろしたその瞬間、
私の体に電流が走りました。
「これだ。俺が求めていたのはこれだ!
俺はこれをやる〜〜!!」
芸大を目指して毎週鎌倉まで、
ピアノのレッスンに通っていた私でしたが、
翌日さっさとこれを辞め、
‘ジャズ’にひた走っていくことに、
なるのです。
(このシリーズおわり)
(感想 2007/3/30)
桜満開で、
浮かれ気分の私ですが、
その一方で、
今週は悲しい出来事もありました。
私のプロフィールを見た方は
ご存知でしょうが、
私が「こころの師匠」と仰ぐ、
植木等さんが、
3月27日 お亡くなりになりました。
享年80才。
そういえば先日、
「わかっちゃいるけどやめられねえ」
というタイトルで、
エッセイを書いたばかり。
またしても予言しちまったか…。
それにしても、植木さん
あなたは偉大でした。
あなたから教わった、
「無責任」「C調」「ゴマすり」「ホラふき」
「わかっちゃいるけどやめられねえ」
「およびでない」
こうした教えを胸に、
少しでもあなたに近づけるよう、
これからも頑張ります。
どうぞ天国で、
見守っていてください。
ん…?
なにはともあれ、
合掌…。
ところで、
私の最愛の父が亡くなったのが、
1999年の3月27日
そして、やはり80才だった。
これも何かの縁か…。
SHUN MIYAZUMI
March 27, 2007
レコード買いまくり時代 その3
桜はまだか。
早く花見がしたいのに…。
ところで、
とある事により、
先週の金曜日から閉店していた、
学芸大「A'TRAIN」ですが、
3/29(木)から営業再開だそうです。
よって、
翌30日(金)の、
私と河野秀夫(ベース)による、
恒例「ミッドナイト・セッション」は、
予定通り開催です。
常連、ご近所にしか通じない、
「ライブ・インフォメーション」
でした。
桜も、そのあたりが満開…?。
2003年6月12日(木) No.51
レコード買いまくり時代 その3
中学のとき、
クラシックにハマってしまった私。
今の私の、
スポーツ・ジャズ・ピアノしか知らない方は、
意外に思われるでしょうが、
そうなんです。
なかでも、
オーケストラ、大編成のもの、
が好みでしたね。
ま、これは今も同じか。
交響曲、協奏曲、管弦楽曲、宗教曲。
大編成でしか味わえない、
ダイナミック・レンジの広さ。
音圧、迫力。
アレンジの妙。
リズムの面白さ。
スコア(総譜)を手に入れて、
毎日、夢中になって聞いていました。
それが高校に入ると一転、
洋楽ポップスにハマっていきます。
もちろん‘雑食’ですから、
中学のときも、
ちゃんとヒット曲は押さえていましたよ。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、
に代表されるグループ・サウンドの数々。
(グループ・サウンド!
いいですねぇ、このレトロな響き)
また、アメリカのビルボード・チャートは
常にチェック。
FMをエア・チェックして、
テープに録音して、
自分なりのチャートを作って、
楽しんでいました。
しかし、買うのは
もっぱらクラシック。
ポップスは、友達から借りるか、
FMのエア・チェックで事足りると思ってた。
それが、
高校になると、
クラシックそっちのけで、
洋楽ポップスに夢中になってしまいます。
なぜでしょう?
それはですね、
この頃から、ロック&ポップスが、
飛躍的に、
音楽的になっていったから。
思えば私の青春時代は、
まさに1960年代。
シクスティーズ!
ビートルズ出現以来、
彼らを中心に、
ポップスが一番輝いてた時代。
でも私の中学時代のビートルズは、
まだ‘アイドル’というイメージが強かった。
他の洋物もそんな感じ。
ま、私からみれば、
アメリカやイギリスの‘歌謡曲’
くらいにしか思わなかった。
でも、ビートルズが、
『リヴォルヴァー』や『サージェント・ペッパー』
といった完成度の高いアルバムを
発表したあたりからは、
ちょっと、これは、
恐るべしだなあ、
てな感じに思えてきたわけです。
さらに、この頃から、
素晴らしいアーティストや楽曲が、
次から次へと登場。
特に、1968年くらいからの、
‘アート・ロック’と呼ばれる
ムーブメントには驚かされましたね。
(私が高校2年生の頃)
まさに、
ロックが‘アート’(芸術性)を帯びて来た。
それにあわせて、
演奏力の飛躍的進歩。
それまでの私は、
エレキ・ギターといえば、
寺内タケシが一番うまいと思ってました。
ほんとです。
♪テケテケテケテケ♪
イエ〜イ!
それが、
「クリーム」のエリック・クラプトン
「ジミ・ヘンドリックス」
「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ
などを最初に聞いた時は、
ほんとビックリ!
フレーズはカッコいいし、
みな凄いテクニック!
ほかにも、
「ジョン・メイオール」のブルース・ギター
「アイアン・バタフライ」
「バニラ・ファッジ」
「ヤードバーズ」
といった、
‘ニュー・ロック’(アート・ロック)なバンド。
「ボブ・ディラン」
「サイモン&ガーファンクル」
「ジョニ・ミッチェル」
らの斬新なフォーク・ソング。
「フィフス・ディメンション」
「アソシエイション」
らの洗練されたコーラス。
「アレサ・フランクリン」
「オーティス・レディング」
といったR&B。
「バート・バカラック」
「セルジオ・メンデス & ブラジル 66」
らのお洒落な世界。
てな具合に、
素晴らしい音楽が、
続々と登場してくる。
「ええい、
クラシックなんて、
年をとっても聴けるじゃないか。
今はこれを追いかけよう!」
今思えば、
大正解の選択でしたかね。
それにしても、
いい青春時代だった。
いい時代に生まれた。
……。
そんなわけで、
私の定期購読誌も、
当然のように、
『レコード芸術』から『ミュージック・ライフ』
に変わりました。
さあ、
そんな中、
とりわけ私が、
いちばんハマってしまったバンド。
それは、
「ドアーズ」
というわけで、次回は、
この「ドアーズ」の話をしたいなあ…。
(つづく)
(感想 2007/3/27)
「ニッポン放送 / オールナイト・ニッポン」
毎晩、
深夜の1:00〜3:00(時には5:00)
パーソナリティーの素敵なおしゃべりと、
最新のポップス情報。
高校時代の私の良き友であり、
音楽の先生。
特に、
糸居五郎さんがパーソナリティーの月曜日は、
かかさず聴いてましたね。
眠い眼こすりながら。
「夜更けの音楽ファン、こんばんは。
GO! GO! GO〜〜〜!!」
そして、
ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス
『Bitter Sweet Samba』
が軽快に流れる♪
洋物ポップスやロックが、
一番輝いてた時代。
「深夜放送」が、
高校生にとって、
一番の‘癒し’だった時代。
懐かしい!
今、あんな番組、
あるのかなあ。
というか、
今の子供って、
ラジオなんて聴いてるんか…?
SHUN MIYAZUMI
早く花見がしたいのに…。
ところで、
とある事により、
先週の金曜日から閉店していた、
学芸大「A'TRAIN」ですが、
3/29(木)から営業再開だそうです。
よって、
翌30日(金)の、
私と河野秀夫(ベース)による、
恒例「ミッドナイト・セッション」は、
予定通り開催です。
常連、ご近所にしか通じない、
「ライブ・インフォメーション」
でした。
桜も、そのあたりが満開…?。
2003年6月12日(木) No.51
レコード買いまくり時代 その3
中学のとき、
クラシックにハマってしまった私。
今の私の、
スポーツ・ジャズ・ピアノしか知らない方は、
意外に思われるでしょうが、
そうなんです。
なかでも、
オーケストラ、大編成のもの、
が好みでしたね。
ま、これは今も同じか。
交響曲、協奏曲、管弦楽曲、宗教曲。
大編成でしか味わえない、
ダイナミック・レンジの広さ。
音圧、迫力。
アレンジの妙。
リズムの面白さ。
スコア(総譜)を手に入れて、
毎日、夢中になって聞いていました。
それが高校に入ると一転、
洋楽ポップスにハマっていきます。
もちろん‘雑食’ですから、
中学のときも、
ちゃんとヒット曲は押さえていましたよ。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、
に代表されるグループ・サウンドの数々。
(グループ・サウンド!
いいですねぇ、このレトロな響き)
また、アメリカのビルボード・チャートは
常にチェック。
FMをエア・チェックして、
テープに録音して、
自分なりのチャートを作って、
楽しんでいました。
しかし、買うのは
もっぱらクラシック。
ポップスは、友達から借りるか、
FMのエア・チェックで事足りると思ってた。
それが、
高校になると、
クラシックそっちのけで、
洋楽ポップスに夢中になってしまいます。
なぜでしょう?
それはですね、
この頃から、ロック&ポップスが、
飛躍的に、
音楽的になっていったから。
思えば私の青春時代は、
まさに1960年代。
シクスティーズ!
ビートルズ出現以来、
彼らを中心に、
ポップスが一番輝いてた時代。
でも私の中学時代のビートルズは、
まだ‘アイドル’というイメージが強かった。
他の洋物もそんな感じ。
ま、私からみれば、
アメリカやイギリスの‘歌謡曲’
くらいにしか思わなかった。
でも、ビートルズが、
『リヴォルヴァー』や『サージェント・ペッパー』
といった完成度の高いアルバムを
発表したあたりからは、
ちょっと、これは、
恐るべしだなあ、
てな感じに思えてきたわけです。
さらに、この頃から、
素晴らしいアーティストや楽曲が、
次から次へと登場。
特に、1968年くらいからの、
‘アート・ロック’と呼ばれる
ムーブメントには驚かされましたね。
(私が高校2年生の頃)
まさに、
ロックが‘アート’(芸術性)を帯びて来た。
それにあわせて、
演奏力の飛躍的進歩。
それまでの私は、
エレキ・ギターといえば、
寺内タケシが一番うまいと思ってました。
ほんとです。
♪テケテケテケテケ♪
イエ〜イ!
それが、
「クリーム」のエリック・クラプトン
「ジミ・ヘンドリックス」
「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ
などを最初に聞いた時は、
ほんとビックリ!
フレーズはカッコいいし、
みな凄いテクニック!
ほかにも、
「ジョン・メイオール」のブルース・ギター
「アイアン・バタフライ」
「バニラ・ファッジ」
「ヤードバーズ」
といった、
‘ニュー・ロック’(アート・ロック)なバンド。
「ボブ・ディラン」
「サイモン&ガーファンクル」
「ジョニ・ミッチェル」
らの斬新なフォーク・ソング。
「フィフス・ディメンション」
「アソシエイション」
らの洗練されたコーラス。
「アレサ・フランクリン」
「オーティス・レディング」
といったR&B。
「バート・バカラック」
「セルジオ・メンデス & ブラジル 66」
らのお洒落な世界。
てな具合に、
素晴らしい音楽が、
続々と登場してくる。
「ええい、
クラシックなんて、
年をとっても聴けるじゃないか。
今はこれを追いかけよう!」
今思えば、
大正解の選択でしたかね。
それにしても、
いい青春時代だった。
いい時代に生まれた。
……。
そんなわけで、
私の定期購読誌も、
当然のように、
『レコード芸術』から『ミュージック・ライフ』
に変わりました。
さあ、
そんな中、
とりわけ私が、
いちばんハマってしまったバンド。
それは、
「ドアーズ」
というわけで、次回は、
この「ドアーズ」の話をしたいなあ…。
(つづく)
(感想 2007/3/27)
「ニッポン放送 / オールナイト・ニッポン」
毎晩、
深夜の1:00〜3:00(時には5:00)
パーソナリティーの素敵なおしゃべりと、
最新のポップス情報。
高校時代の私の良き友であり、
音楽の先生。
特に、
糸居五郎さんがパーソナリティーの月曜日は、
かかさず聴いてましたね。
眠い眼こすりながら。
「夜更けの音楽ファン、こんばんは。
GO! GO! GO〜〜〜!!」
そして、
ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス
『Bitter Sweet Samba』
が軽快に流れる♪
洋物ポップスやロックが、
一番輝いてた時代。
「深夜放送」が、
高校生にとって、
一番の‘癒し’だった時代。
懐かしい!
今、あんな番組、
あるのかなあ。
というか、
今の子供って、
ラジオなんて聴いてるんか…?
SHUN MIYAZUMI
March 22, 2007
レコード買いまくり時代 その2
春ですね。
卒業式、入学式、入社式。
桜の開花とともに、
期待に胸ふくらませる初々しい若者たち。
そうした光景を眼にするのは楽しい。
私にもそんな時代がありました。
あたりまえだ。
そんな私が、
このレコード音楽業界に生息し始めて、
今年で早や34年になります。
で、この業界に入ってからは、
CD、レコードというのは、
あまり買わなくなってしまいました。
なぜか?
もらえるからです。
いわゆるサンプル盤ってやつですね。
宣伝用の。
いろんなレコード会社に、
友達を持つようになると、
「これ、ちょうだい。
あれ、ちょうだい。」
てな具合に、もらえちゃう。
ところが、不思議なもんで、
もらった物というのは、
あまり聴かないんですね。
いくら良くても。
自分の財布をはたいて買ったものは、
それが、たいして良くなくても、
「なんとかいいところを探そう。」
なんとか元を取ろう。」
と思って、
一生懸命聴くんですね。
やっぱ、タダはいけませんね、
タダは。
ということで、
私が少ないお小遣いをためて、
一生懸命レコードを買っていた、
少年時代のお話。
の、つづきです。
2003年6月5日(木) No.50
レコード買いまくり時代 その2
幸か不幸か私は、
どんなジャンルの音楽でも、
スンナリ受け入れてしまう。
そんな私の雑食性は、
レコード・ファンとしては甚だ迷惑な特性。
それでも、その時々で、
メインとなるジャンルはありました。
たとえば、
小学生のときは、
歌謡曲&日本のポップスが中心。
(今でいうところの‘J-POP’)
中学ではクラシック。
高校では洋物ポップス&ロック。
大学ではジャズ。
これらを軸にしながら、
日々、種々雑多な音楽を聴き、
レコード蒐集に、
明け暮れていたのです。
そう、中学のときは、
クラシックだったな…。
以前、『学園紛争』
というエッセイのときにも書きましたが、
中学の1、2年は、
三重県の四日市というところにいました。
父親の転勤のせいで。
そしてそこでは、
ブラスバンドに入部、
クラリネットを吹いていました。
意外にも。
そのブラスバンドのレパートリーに、
ドヴォルザーク「新世界から」
という曲の抜粋があったのですが、
(第4楽章だけですが)
「けっこうカッコイイなあ」
と思った私は、
この曲の全曲版を購入。
そして、これが、
そもそもの始まりでした。
「ケルテス指揮
ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団」
の、このアルバムには、
ご親切に、
全曲のスコアもついていたのです。
初めて見た、
オーケストレーションというものの実態。
「へえ、これがシンフォニーってやつか…。」
鬼のように書き込まれた、
音譜の数に、
なんとも新鮮な驚きを覚えた私は、
その日から、
ガキのくせに、
なまいきにも、
『レコード芸術』などという専門誌にはまり、
NHKのクラシック番組を聴き、
自分でリストを作って、
次々と新しいレコード購入に、
夢中になっていったのです。
さて、この四日市という街。
私が行く数年前に
あの「伊勢湾台風」が上陸。
大きな被害を受けました。
で、レコード店に行くと、
そのときに水につかったレコードが、
おそろしいほど安い値段で置いてあった。
アルバムが200円とか100円とか。
これは、子供の私には大助かり。
なにせ曲をいっぱい知りたい時期なので、
演奏の出来不出来は二の次。
こうしたラッキーな廉価盤を、
せっせせっせとためこんでいったのです。
ラッキー!
不謹慎だけど。
でもあとから思えば、
なかなかの名盤もありましたね。
ホロヴィッツの「熱情ソナタ」やら
リヒテルの「ブラームス・ピアノ協奏曲」
などなど。
それでも、
欲しいものは次から次へと出てくる。
お小遣いとのバランスは、
なかなか追い付かない。
そこで私は、
クラスの中で仲の良かった二人を、
猛烈にクラシック・ファンに洗脳。
たとえばその月、
カラヤンの「ブラームス・交響曲1番」と
シェリング(Vn)の
「ベートーベン・ヴァイオリン協奏曲」と、
ワルターの「田園」
が欲しい場合、
そのふたりに、
しつこくその素晴らしさを説き、
(聴いてもいないのに)、
一枚ずつ買わせてから、残りを自分が買う、
という作戦に出ました。
そしてまわし聴き。
でもたいてい、
自分の買ったものが一番不作
でしたが…。
それでもクラスでは、
「音楽博士」という異名を持っていましたから、
私が熱心に勧めるものは、
不安ながらも信用したんでしょうね、
このふたり。
ポップス物は、
たいていクラスの誰かが持ってるので、
借りて、テープに録音させていただく。
このように、
他人をちゃっかり利用しながら、
自分の欲求を満たしていくという、
このあつかましい、
私のトム・ソーヤー的思考法は、
どうやらこの時期に目覚めた、
のかもしれません。
(つづく)
(感想 2007/3/22)
前回私は、
「家ではクラシックしか聴かない」
と書きました。
クラシックというのは、
業界全体からみれば、
小さなマーケットですから、
サンプル盤というのを、
ほとんど作らないんですね。
だから買うしかない。
買ったものは、元を取ろうと、
一生懸命聴く。
ま、こういうことでしょうな。
ん?
なんか、
けちくさい話になってきたので、
きょうは、このへんで…。
SHUN MIYAZUMI
March 13, 2007
レコード買いまくり時代
ライブ三昧とは、
まさにこのこと。
スポーツ・ピアノの連続で、
指や腰が痛いっす。
しかし、
我ながら、
よくやったものだ。
2/22「代ナル」の ちゅうまけいこ & 佐藤有介
2/23「A'TRAIN」の デュオ
2/28「ALL OF ME CLUB」の jammin' Zeb
3/6 「代ナル」の jammin' Zeb
3/8 「代ナル」の 新人女性ヴォーカル・ナイト
3/12「ALL OF ME CLUB」の ピアノ・トリオ
そして、
3/7〜9「新宿スペース・ゼロ」
日本美容専門学校 卒業イベントでの、
jammin' Zeb ステージ・プロデュース
ふ〜ッ…。
しかし、
どのライブも、
本当にたくさんの方にいらしていただき、
盛り上がっていただき、
私は幸せものです。
ぐしゅん…。
というわけで、
月末までライブは、
ちょっと休憩。
みなさん、
おつかれさまでした。
私は今日から、
通常営業に戻ります。
で、今日は、
こんな過去ログの
リニューアル。
2003年5月26日(月) No.49
「レコード買いまくり時代」
小学校2年のとき、
我が家に出現した画期的なもの。
『レコード・プレーヤー!』
でもそれは、
「オーディオ」
などという立派なものではなく、
ただのターン・テーブルから音が出てくる、
‘低音’などちっとも出ない代物。
でも、
この装置の出現によって私は、
急速にレコード・ファンとしての道を、
歩み始めるのです。
まず、親にねだって、
最初に買ってもらったレコードが、
ハイドンの「おもちゃの交響曲」と、
三橋美智也の「古城」
(変な組み合わせだ…)
そしてその次が、
トスカニーニの「ベートーベン・運命」と、
森山加代子の「月影のナポリ」と、
三波春夫の「一本刀土俵入り」
(なんだ、この組み合わせは…?)
私のプロフィールでどなたかが、
‘雑食性’という表現をしておられますが、
確かにこんなデタラメな買い方をみると、
こんなガキの時代から、
早くも私の‘雑食性’は、
芽生えていたようです。
ジャンルに関係なく、
どんな音楽でも
スンナリ受け入れてしまう私の特性は、
プロデューサーになってからは
大いに効果を発揮するのですが、
レコード・コレクターの立場では、
甚だ迷惑な特性と言えます。
私たちの子供時代は、
今ほど娯楽が多くなく、
したがって、
音楽好きの子のお小遣いは、
すべてレコード購入に消えてしまいます。
しかもほとんどの子は、
ある一定ジャンルしか聴きませんから、
購入にあたっての選択肢も、
シンプルなのです。
たとえば、
歌謡曲しか聴かないA君。
次は加山雄三「旅人よ」にしようか、
水原弘「君こそわが命」にしようか、
迷ってる。
洋物ポップスの好きなB君は、
モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」か、
ローリング・ストーンズ「サティスファクション」
にしようか、
迷うわけです。
私たちがお小遣いで購入できる枚数は、
せいぜい月にシングルが1、2枚。
お年玉を回したりして、
時々アルバムが一枚も買えればいいほう。
ところが私の場合、
中学時代を例にとると、
「今度は、ベームの「田園」にしようかな。
待てよ、ママス&パパスのアルバムもいいな。
ジャッキー吉川&ブルー・コメッツのベスト
も捨てがたいし…。
でもここは、
セルジオ・メンデス&ブラジル66だ。
いや、やっぱりナット・キング・コールだろ。」
てな具合で、
たった一枚しか買えないアルバムに、
こんなに選択肢がある。
これが高校時代になると、
「さあ試験も終わった!ドアーズ買うぞー。
待てよ早まるな、
もうすぐビートルズの新譜が出るぞ。
オーティス・レディングのアルバムはよさそう。
カラヤンの「ブラームス」は必聴だろ。
「マイルス・イン・トウキョウ」は絶対聴きたい。
でも、アズナブールのシャンソンもいいなあ。
森進一「冬の旅」の入ったライブも良さそうだ。」
……。
大学に入ってからも、
ジャズしか聴かないK君や、
クラシック一辺倒のSさんが、
うらやましくてなりませんでした。
しかしこればかりは、
どうあがいても仕方がない。
親からもらった特性、
音楽の「雑食性」を呪いながら、
私のレコード・ファンとしての道は、
果てしなく続いていくのでした。
(つづく)
(感想 2007/3/13)
現在も、
私の「雑食」は健在(?)です。
私の本業は、
音楽プロデューサーですから、
CDをプロデュースするにあたっては、
やはりマーケットの大きい、
ポップな物を追い求める。
しかし家では、
クラシックしか聴きません。
そして演奏するのは、
もっぱらジャズ。
そういえば、
食い物だって、
何だって食う。
いろんな物に、
好奇心、やたら旺盛。
やはり私は、
雑食性生き物。
か…。
SHUN MIYAZUMI
March 08, 2007
みんな野球少年だった その2
3/6(火)「代々木ナル」
『jammin'Zeb』
のライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
早々と予約でいっぱいになり、
ご覧になれなかった方もかなりいた、
と聞きました。
これから、
ひとりでもたくさんの方に
観ていただきたいので、
いろんなライブ・プランを考えなくては、
と思っているところ。
どうぞ今後とも、
よろしくお願い致します。
さあ、今日(8日)も「代ナル」
今度は若い娘シンガー3人がお相手。
久しぶりに、
はたけやま裕お姉さん(PER)とも競演。
そして、3/12(月)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」
恒例のピアノ・トリオ・ライブ
ベースはいずれも、
話題の(?)河野秀夫さん。
どうぞ、いらして下さい。
(詳細は、このブログの
「最新ライブのご案内」を
ご覧下さい。)
それにしても、
最近、
ピアノばかり弾いてる気がする。
いいのかな…。
2005年10月29日 No.122
「みんな野球少年だった」その2
前回、
私が生涯に、
たった一度だけ輝いた、
夢のような、
野球の試合のことを書きました。
そう、
今思いだしても、
身震いがするような活躍。
きょうはその続き。
中学3年の夏休み。
いよいよ地区別対抗の
野球大会が始まりました。
何度も言いますが、
前日の練習試合で、
獅子奮迅の活躍をした私、
なんとこの試合では、
5番ファーストに格上げ!
5番つうたら、あんた、
クリーン・アップでっせ。
強打者が座る打順ですよ、
強打者が。
しかも、
試合前のキャッチ・ボールでも、
軽快に相手の構えるミットに、
スポスポとストライクを投げる私。
「こりゃ、
今まで隠れていた野球の才能が、
ついに開花したかな」
と、本気で思いましたね。
さあ、試合開始。
「今日もヒーローはいただきだ、
フフフ…。」
と、ほくそ笑みながら、
最初の打席が回ってきました。
相手ピッチャーは下手投げ。
ロッテの渡辺俊介のようなタイプ。
下からスーッと球が浮き上がってきます。
1球目 空振り
2球目 空振り
3球目……
空振り。
あえなく3球三振。
そして、
次の打席も、
その次の打席も、
3球三振…。
バットにかすりもしない。
一方、投手陣といえば、
我がチームのエースは、
1回から火だるま。
ボカスカに打たれて、
あっという間に7点を献上。
次のピッチャーもストライクが入らず、
たまに入ったやつをカキーンと打たれる。
見るも無惨な、
ワン・サイド・ゲーム。
ここで、
何を思ったのか我がチームの監督、
「ピッチャー交代、宮住!」
と私の名を呼びました。
さすがにこの時だけは、
「このオッサン、ついに血迷ったかな。」
と思いましたね。
そりゃ、
試合前のキャッチ・ボールでは、
コントロール良く投げてましたよ。
でも、ピッチャーなんてやったことないし、
「大丈夫かな」
と不安な気持ちでマウンドに向かう私。
やっぱり、
です。
コントロール良く、
手頃なスピードで投げ込まれる私の球は、
まるでバッティング投手のように、
カキン、カキンとはね返されます。
相手のチームの連中からは、
「おい、もっとヘボが出てきたぞ。」
とか、
「お前の球なんか、
目つぶっても打てるぞぉ。」
とか、
情け容赦のないヤジの嵐。
きのうきょう、中学生になったような、
チビの1年生にもボコボコに打たれ、
さらにまた、
えげつないヤジの連発。
結局、一死も取れず、
スゴスゴと降板。
チーム・メートや監督は、
きのうとうってかわって、
冷ややかな目で私を見る。
結局この試合、
16-0でコールド負け。
しかも我がチームは、
相手のサブマリン投手に、
‘完全試合’を喫する完敗。
うつむきかげんで、
元気なく帰宅した私に、
母はこう言いました。
「あんた、どこか具合でも悪いの?
きのうはあんなにはしゃいでたのに。」
それからの数年、
何回かは、野球の試合に出ましたが、
およそ活躍らしい活躍は皆無。
いったい、
あの日は何だったのでしょう?
こうして、
野球が好きで好きでたまらない、
この哀れな少年は、
「野球はやるものじゃなくて観るもの。」
とうそぶく、
熱心な、
‘野球観戦オタク’の道を歩むのです。
「ああ、
なんでそんな球が打てねえんだよ、アホ。」
とか、
「下手投げってのは、
ボールを上から叩くんだよ、ボケ。」
とか、
「早くピっチャー代えろよ、
このヘボ監督。」
といった、
罵声をあげながら、
時には球場で、
時には飲み屋で、
夢中になって、見続ける。
でも、これが一番平和なのかも
しれませんね。
(おしまい)
(感想 2007/3/8)
話はまた『jammin'Zeb』
に戻って、
きのう、今日、明日の3日間。
彼らは、
「日本美容専門学校」
の卒業イベントに、
ゲスト出演。
大きなホールで聴く、
彼らの美しいハーモニーは、
また格別。
というわけで、
今日はダブル・ヘッダーですわ。
ふうー…。
SHUN MIYAZUMI
『jammin'Zeb』
のライブにお越しのみなさん、
ありがとうございました。
早々と予約でいっぱいになり、
ご覧になれなかった方もかなりいた、
と聞きました。
これから、
ひとりでもたくさんの方に
観ていただきたいので、
いろんなライブ・プランを考えなくては、
と思っているところ。
どうぞ今後とも、
よろしくお願い致します。
さあ、今日(8日)も「代ナル」
今度は若い娘シンガー3人がお相手。
久しぶりに、
はたけやま裕お姉さん(PER)とも競演。
そして、3/12(月)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」
恒例のピアノ・トリオ・ライブ
ベースはいずれも、
話題の(?)河野秀夫さん。
どうぞ、いらして下さい。
(詳細は、このブログの
「最新ライブのご案内」を
ご覧下さい。)
それにしても、
最近、
ピアノばかり弾いてる気がする。
いいのかな…。
2005年10月29日 No.122
「みんな野球少年だった」その2
前回、
私が生涯に、
たった一度だけ輝いた、
夢のような、
野球の試合のことを書きました。
そう、
今思いだしても、
身震いがするような活躍。
きょうはその続き。
中学3年の夏休み。
いよいよ地区別対抗の
野球大会が始まりました。
何度も言いますが、
前日の練習試合で、
獅子奮迅の活躍をした私、
なんとこの試合では、
5番ファーストに格上げ!
5番つうたら、あんた、
クリーン・アップでっせ。
強打者が座る打順ですよ、
強打者が。
しかも、
試合前のキャッチ・ボールでも、
軽快に相手の構えるミットに、
スポスポとストライクを投げる私。
「こりゃ、
今まで隠れていた野球の才能が、
ついに開花したかな」
と、本気で思いましたね。
さあ、試合開始。
「今日もヒーローはいただきだ、
フフフ…。」
と、ほくそ笑みながら、
最初の打席が回ってきました。
相手ピッチャーは下手投げ。
ロッテの渡辺俊介のようなタイプ。
下からスーッと球が浮き上がってきます。
1球目 空振り
2球目 空振り
3球目……
空振り。
あえなく3球三振。
そして、
次の打席も、
その次の打席も、
3球三振…。
バットにかすりもしない。
一方、投手陣といえば、
我がチームのエースは、
1回から火だるま。
ボカスカに打たれて、
あっという間に7点を献上。
次のピッチャーもストライクが入らず、
たまに入ったやつをカキーンと打たれる。
見るも無惨な、
ワン・サイド・ゲーム。
ここで、
何を思ったのか我がチームの監督、
「ピッチャー交代、宮住!」
と私の名を呼びました。
さすがにこの時だけは、
「このオッサン、ついに血迷ったかな。」
と思いましたね。
そりゃ、
試合前のキャッチ・ボールでは、
コントロール良く投げてましたよ。
でも、ピッチャーなんてやったことないし、
「大丈夫かな」
と不安な気持ちでマウンドに向かう私。
やっぱり、
です。
コントロール良く、
手頃なスピードで投げ込まれる私の球は、
まるでバッティング投手のように、
カキン、カキンとはね返されます。
相手のチームの連中からは、
「おい、もっとヘボが出てきたぞ。」
とか、
「お前の球なんか、
目つぶっても打てるぞぉ。」
とか、
情け容赦のないヤジの嵐。
きのうきょう、中学生になったような、
チビの1年生にもボコボコに打たれ、
さらにまた、
えげつないヤジの連発。
結局、一死も取れず、
スゴスゴと降板。
チーム・メートや監督は、
きのうとうってかわって、
冷ややかな目で私を見る。
結局この試合、
16-0でコールド負け。
しかも我がチームは、
相手のサブマリン投手に、
‘完全試合’を喫する完敗。
うつむきかげんで、
元気なく帰宅した私に、
母はこう言いました。
「あんた、どこか具合でも悪いの?
きのうはあんなにはしゃいでたのに。」
それからの数年、
何回かは、野球の試合に出ましたが、
およそ活躍らしい活躍は皆無。
いったい、
あの日は何だったのでしょう?
こうして、
野球が好きで好きでたまらない、
この哀れな少年は、
「野球はやるものじゃなくて観るもの。」
とうそぶく、
熱心な、
‘野球観戦オタク’の道を歩むのです。
「ああ、
なんでそんな球が打てねえんだよ、アホ。」
とか、
「下手投げってのは、
ボールを上から叩くんだよ、ボケ。」
とか、
「早くピっチャー代えろよ、
このヘボ監督。」
といった、
罵声をあげながら、
時には球場で、
時には飲み屋で、
夢中になって、見続ける。
でも、これが一番平和なのかも
しれませんね。
(おしまい)
(感想 2007/3/8)
話はまた『jammin'Zeb』
に戻って、
きのう、今日、明日の3日間。
彼らは、
「日本美容専門学校」
の卒業イベントに、
ゲスト出演。
大きなホールで聴く、
彼らの美しいハーモニーは、
また格別。
というわけで、
今日はダブル・ヘッダーですわ。
ふうー…。
SHUN MIYAZUMI
March 02, 2007
みんな野球少年だった
2/28(水)「 ALL OF ME CLUB 」
「 jammin' Zeb 」の初ライブに、
お越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの中、
最後まで盛り上げていただき、
おかげさまで、
上々のスタートが切れたのではないか、
と思っております。
これからが本当に楽しみな、
若い若いグループです。
どうぞ今後とも、
よろしくお願い致しまする〜〜。
さて、いよいよ3月。
そろそろ各地で、
オープン戦も始まりますねえ。
「 野球観戦狂 」の私には、
たまらない季節がやってきます。
というわけで今日は、
こんな話題を、
引っ張り出してみました。
2005年09月22日 No.119
「 みんな野球少年だった 」
私が幼い頃、
男の子は、
みんな野球が大好き。
学校の放課後、
グラウンドで、
その辺の空き地で、
公園で、
川っぺりで、
ちょっとした路地で、
とにかくスぺースがあって、
数人の男の子が集まると、
すぐに野球が始まる。
学校や公園など広い敷地では、
軟式ボール。
狭い場所では、
フニャフニャのゴムボールで、
いわゆる、
「 三角ベース 」というのを楽しむ。
おお、三角ベース!
なんというレトロな響き。
若い人は知らないですかね?
ベースは一塁と三塁しかなく、
ピッチャーが投げたボールを、
手で打って、
猛然と一塁に向かって走る。
毎晩、暗くなってから、
泥まみれで帰るもんですから、
母親からは、
毎日のように、
叱られてました。
しかし私、
野球は、
へたくそです。
スキーのお話のときにも言いましたが、
こう見えても、
私は実は、
なかなかの運動神経の持ち主。
特に中学以降、
短距離を走らせたら、
まず学年でもトップ・クラス。
このことは、
このエッセイにもたびたび登場する、
中学1、2年の時同じクラスだった小原氏が、
証言してくれるはず。
球技も、
バレー・ボール、ドッジ・ボール、
バスケットなんぞは得意。
でも野球は下手…。
取ったり、投げたり、走ったり、
は、いいとしても、
打つ方がからっきしダメ。
どんなチームでも、
7番とか8番といった
下位しか打たせてもらえないし、
人数が多いときはたいてい補欠。
でも大好き。
好きなものは好き。
そんな私が、
生涯で、たった一度だけ、
輝いた試合がありました。
中学3年の夏休み。
地区別対抗野球大会に
出場したときのことです。
来るべき大会を前にして、
私の所属するチームは、
大会前の練習をしていました。
バッティング練習で、
空振りばかりをしてる私のところに、
「 コーチ 」と称する
ひとりのおっさんがやってきました。
「おまえねえ、そんなプロみたいに
大上段に振りかざしたって、
打てるわけねえよ。
バットを寝かして、当てにいってみろよ。
軟式だから、当たりゃ飛ぶんだから。」
と、アドバイスしてくれました。
そして翌日は、
グラウンドを借りていた、
聾学校の生徒達と練習試合。
大して期待もされてない私は、
7番ファーストで先発。
その第1打席。
私は、
おっさんコーチのアドバイス通り、
バットを横に寝かして、
とにかく当てにいくつもりで振りました。
ところが!
打球はライトのはるか頭上を越え、
体育館の上を越える大ホームラン。
夢見心地でホームインの私。
でも監督もチーム・メイトも、
「 ふん、どうせまぐれ当たりよ。」
といった冷たい反応。
そして迎えた第2打席。
またしても!
「 カキーン!」
という快音を残して、
打球はセンターに向かって伸びる、伸びる。
「バッター宮住、打ちました。
おっと、これまた大きい。
センター、バック、バック!
しかし打球はぐんぐん伸びる。
入りました!ホームラン!
宮住、2打席連続ホームランです。」
とにかく私の打った球は、
センターの遥か向こうの、
校舎の2階の窓ガラスを突き破る、
大ホームラン。
監督も、コーチのおっさんも、
チーム・メートも、
みな口あんぐり。
というか、
当の本人が、
一番ビックリだわさ。
その後も絶好調の私は、
ヒットは打つわ、
盗塁はするわ、
キャッチャーが球を後逸する間に
すかさずホームに駆け込むわ。
獅子奮迅の活躍とはこのこと。
こうしてこの試合、
私の活躍によって、
この、私の、活躍によって、
大勝利を収めたのです。
さあ、家に帰ってからも、
興奮は冷めやりません。
思い出すたびに、
口元がニンヤリ。
風呂に入っても、
明日の本大会に備えて、
手首のマッサージをしたりしながら、
何度も何度も、
余韻を楽しんでいました。
いやあ、まさに、
私の人生最良の日。
夢のような一日…。
そして、翌日の本大会初日。
スッキリさわやかな朝を迎えた私。
「さ、きょうも、
ガツンとやってやるかな、
ガツンと。」
こんな感じで、
意気揚々と、
試合のあるグラウンドに、
向かったのでした。
(つづく)
(感想 2007/3/2)
話は全然変わりますが、
一昨日の、
このブログの訪問者が、
260という、
凄い数字になっていました。
何事かと思ったら、
こんなニュースを発見。
自分が開いている
ダンス教室の生徒の女性 (20)
に性的暴行をしたとして、
モダンダンスのダンサーとして知られる
河野秀夫容疑者 (60) が、
警視庁杉並署に強姦容疑で
逮捕されていたことが分かった。
(2007年2月27日13時43分 読売新聞)
私がいつも一緒に演奏している、
ベーシストと、
まったく同姓同名の、
エロダンサーが逮捕。
というお話。
「 河野秀夫 ダンサー 」
という検索で大量にひっかかった、
というわけです。
すごい時代ですね。
インターネット時代…。
それにしても、
我が友、河野秀夫君。
さぞや、
迷惑だったでしょうな。
同情しますよー。
アハハハ。
SHUN MIYAZUMI
「 jammin' Zeb 」の初ライブに、
お越しのみなさん、
ありがとうございました。
満員札止めの中、
最後まで盛り上げていただき、
おかげさまで、
上々のスタートが切れたのではないか、
と思っております。
これからが本当に楽しみな、
若い若いグループです。
どうぞ今後とも、
よろしくお願い致しまする〜〜。
さて、いよいよ3月。
そろそろ各地で、
オープン戦も始まりますねえ。
「 野球観戦狂 」の私には、
たまらない季節がやってきます。
というわけで今日は、
こんな話題を、
引っ張り出してみました。
2005年09月22日 No.119
「 みんな野球少年だった 」
私が幼い頃、
男の子は、
みんな野球が大好き。
学校の放課後、
グラウンドで、
その辺の空き地で、
公園で、
川っぺりで、
ちょっとした路地で、
とにかくスぺースがあって、
数人の男の子が集まると、
すぐに野球が始まる。
学校や公園など広い敷地では、
軟式ボール。
狭い場所では、
フニャフニャのゴムボールで、
いわゆる、
「 三角ベース 」というのを楽しむ。
おお、三角ベース!
なんというレトロな響き。
若い人は知らないですかね?
ベースは一塁と三塁しかなく、
ピッチャーが投げたボールを、
手で打って、
猛然と一塁に向かって走る。
毎晩、暗くなってから、
泥まみれで帰るもんですから、
母親からは、
毎日のように、
叱られてました。
しかし私、
野球は、
へたくそです。
スキーのお話のときにも言いましたが、
こう見えても、
私は実は、
なかなかの運動神経の持ち主。
特に中学以降、
短距離を走らせたら、
まず学年でもトップ・クラス。
このことは、
このエッセイにもたびたび登場する、
中学1、2年の時同じクラスだった小原氏が、
証言してくれるはず。
球技も、
バレー・ボール、ドッジ・ボール、
バスケットなんぞは得意。
でも野球は下手…。
取ったり、投げたり、走ったり、
は、いいとしても、
打つ方がからっきしダメ。
どんなチームでも、
7番とか8番といった
下位しか打たせてもらえないし、
人数が多いときはたいてい補欠。
でも大好き。
好きなものは好き。
そんな私が、
生涯で、たった一度だけ、
輝いた試合がありました。
中学3年の夏休み。
地区別対抗野球大会に
出場したときのことです。
来るべき大会を前にして、
私の所属するチームは、
大会前の練習をしていました。
バッティング練習で、
空振りばかりをしてる私のところに、
「 コーチ 」と称する
ひとりのおっさんがやってきました。
「おまえねえ、そんなプロみたいに
大上段に振りかざしたって、
打てるわけねえよ。
バットを寝かして、当てにいってみろよ。
軟式だから、当たりゃ飛ぶんだから。」
と、アドバイスしてくれました。
そして翌日は、
グラウンドを借りていた、
聾学校の生徒達と練習試合。
大して期待もされてない私は、
7番ファーストで先発。
その第1打席。
私は、
おっさんコーチのアドバイス通り、
バットを横に寝かして、
とにかく当てにいくつもりで振りました。
ところが!
打球はライトのはるか頭上を越え、
体育館の上を越える大ホームラン。
夢見心地でホームインの私。
でも監督もチーム・メイトも、
「 ふん、どうせまぐれ当たりよ。」
といった冷たい反応。
そして迎えた第2打席。
またしても!
「 カキーン!」
という快音を残して、
打球はセンターに向かって伸びる、伸びる。
「バッター宮住、打ちました。
おっと、これまた大きい。
センター、バック、バック!
しかし打球はぐんぐん伸びる。
入りました!ホームラン!
宮住、2打席連続ホームランです。」
とにかく私の打った球は、
センターの遥か向こうの、
校舎の2階の窓ガラスを突き破る、
大ホームラン。
監督も、コーチのおっさんも、
チーム・メートも、
みな口あんぐり。
というか、
当の本人が、
一番ビックリだわさ。
その後も絶好調の私は、
ヒットは打つわ、
盗塁はするわ、
キャッチャーが球を後逸する間に
すかさずホームに駆け込むわ。
獅子奮迅の活躍とはこのこと。
こうしてこの試合、
私の活躍によって、
この、私の、活躍によって、
大勝利を収めたのです。
さあ、家に帰ってからも、
興奮は冷めやりません。
思い出すたびに、
口元がニンヤリ。
風呂に入っても、
明日の本大会に備えて、
手首のマッサージをしたりしながら、
何度も何度も、
余韻を楽しんでいました。
いやあ、まさに、
私の人生最良の日。
夢のような一日…。
そして、翌日の本大会初日。
スッキリさわやかな朝を迎えた私。
「さ、きょうも、
ガツンとやってやるかな、
ガツンと。」
こんな感じで、
意気揚々と、
試合のあるグラウンドに、
向かったのでした。
(つづく)
(感想 2007/3/2)
話は全然変わりますが、
一昨日の、
このブログの訪問者が、
260という、
凄い数字になっていました。
何事かと思ったら、
こんなニュースを発見。
自分が開いている
ダンス教室の生徒の女性 (20)
に性的暴行をしたとして、
モダンダンスのダンサーとして知られる
河野秀夫容疑者 (60) が、
警視庁杉並署に強姦容疑で
逮捕されていたことが分かった。
(2007年2月27日13時43分 読売新聞)
私がいつも一緒に演奏している、
ベーシストと、
まったく同姓同名の、
エロダンサーが逮捕。
というお話。
「 河野秀夫 ダンサー 」
という検索で大量にひっかかった、
というわけです。
すごい時代ですね。
インターネット時代…。
それにしても、
我が友、河野秀夫君。
さぞや、
迷惑だったでしょうな。
同情しますよー。
アハハハ。
SHUN MIYAZUMI
February 17, 2007
カシオペア・デビューよもやま話 その2
くしゅん。
ぐしゅぐしゅ。
一昨年あたりから、
私もどうやら花粉症の仲間入り。
まだ2月だというのに…。
これも暖冬、
地球温暖化の影響でしょうか。
さてそんな中、
2/22(木)
「 代々木ナル 」にて、
とても興味深いライブをやります。
まずは、
最近知りあった、
素晴らしい若手ベーシスト、
佐藤有介君。
初めて見たとき、
「 ひょっとして、こいつは天才? 」
と思えたほどの逸材。
どうしても一度一緒にやってみたくて、
ママに頼んで、
めでたく競演と相成りました。
そしてヴォーカルは、
私の古くからの飲み仲間で、
美人の誉れ高き、
素敵なジャズ・シンガー、
ちゅうまけいこさんにお願い。
これまた公式の場では初競演。
これは、いったい
どんなライブになるんでしょうか?
大いに楽しみ。
興味津々。
わくわく…。
好奇心旺盛のかた、
ぜひいらして下さい。
ま、こんなことが出来るのも、
ジャズという音楽のなせるわざ!?
2004年04月11日 No.73
カシオペア・デビューよもやま話 その2
レコーディング半ばで職場放棄。
スキーによる骨折、入院という、
おバカなプロデューサー
の存在にもめげず、
カシオペアはなんとか1979年、
デビューを果たしました。
とはいえ、このデビュー盤。
彼らのライブの熱気に比べると、
なにか釈然としないものがある。
そこで私は急いで
もう一枚アルバムを作ることにしました。
そこへ、
JAL(日本航空)
『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
キャンペーンCM
の話が舞い込んできました。
チャンス!
私は、
リーダーの野呂一生(ギター)に、
一日でアレンジをするように言い、
本来日曜日で休みのはずの、
「 アルファ・スタジオ 」を
無理やり空けてもらって、
大慌てでレコーディング。
この速攻作戦が功を奏したのか、
めでたく採用と相成りました。

(シングル「 I LOVE NY 」のジャケット。レアもの?)
こうして、
この『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
が収められた、
『 SUPER FLIGHT 』
というセカンド・アルバムは、
当時のフュージョン物では破格の、
5万枚を突破するという、
セールスを記録したのです。
よかった、よかった。

(アルバム「 SUPER FLIGHT 」のジャケット)
ま、なんとかこれで、
無責任なデビュー時の失態は、
免れたのではないでしょうか。
その直後、
ドラマーが神保彰に代わり、
即座に出した『 サンダー・ライブ 』
というライブ・アルバムが、
「 AD-LIB 」その他の音楽専門誌で、
海外ミュージシャンの絶賛を浴びるようになり、
続く『 MAKE UP CITY 』というアルバムが、
アメリカのジャズ・チャートで、
7位にランク・イン。
名ドラマー、ハービー・メイソン
(かつて過去ログ、
「 ベナード・アイグナーの思い出 」でもご紹介)
とのジョイント・ツアーで、
さらに実力をつけ、
次第に、
コンサート・チケットは、
いつも、あっという間に完売。
そして、どの会場でも、
熱狂的なファンが、
どんどん増えていく。
こうして、カシオペアは、
またたく間に、
押しも押されぬ人気バンドとして、
活躍していくことになるのですが、
この話を続けていくと、
これだけで楽に一年くらいは
かかってしまいそう。
ということで、
カシオペアには、
また時折ご登場を願うことにして、
スキーから始まった、
この長〜いお話にも、
ひとまずピリオドを打つことに
したいと思います。
そうそう、
そういえば、
先だってソニーから、
カシオペアの全アルバムが、
“オリジナル・ジャケット”で
CD発売になりました。
(くどいようですが、
デビュー・アルバムだけは違います。)
その中で、
シングル盤ばかりを集めた
『 カシオペア・シングル・コレクション 』
なる物が、
新たに作られました。
その解説(ライナー・ノート)を、
不肖、この私が、
書いておりますので、
興味のお有りの方は、
ご覧下さいませ。
ちょっと恥ずかしい気もしますが…。
(感想 2007/2/17)
なにぶん昔のことですから、
その、
『 カシオペア・シングル・コレクション 』
の解説を書くにあたって、
当時の音を、
引っ張り出して聴いたり、
いろんなことを、
必死で思い出したりして、
これはこれで、
なかなか大変な作業でした。
足掛け10年にわたり、
20枚近いアルバムや、
おびただしい数のコンサートで、
一緒に仕事をしたカシオペア。
やはり、私のなかでは、
特別に感慨深い存在ですね。
そんなカシオペアの、
数多くのアルバムのなかで、
最も人気の高いもののひとつに、
『 MINT JAMS 』
というのがあります。
先日、
このブログのコメント欄に、
友人の「 だまてら 」氏から、
このアルバムに関する質問が、
寄せられておりました。
というわけで、次回は
「 番外編 」として、
この『 MINT JAMS 』制作秘話。
これを、
いってみたいと思います。
は、
はっ、
はっくしょ〜〜〜〜ん!
…….
SHUN MIYAZUMI
February 13, 2007
カシオペア・デビューよもやま話
きのうの「 六本木 ALL OF ME CLUB 」
ピアノ・トリオ・ライブにお越しのみなさん、
歌手のみなさん、
演奏してくれたみなさん、
ありがとうございました。
休日なのに、
すご〜いお客さんの数でしたね。
びっくりしました。
みなさん、
ひとあし先に、
花見ですか?
ま、おかげさまで、
ノリノリで演奏することができました。
きょうは、指が痛いです…。
次回、このセッションは、
3/12(月)です。
3ヶ月ぶりに平日。
2004年03月16日 No.72
カシオペア・デビューよもやま話
1979年の正月スキーで、
ものの見事に骨折。
長い長い入院生活とリハビリを終え、
春爛漫の4月、
ようやく社会復帰を果たした私。
そんな私の帰りを、
とある新人バンドが、
心待ちにしてくれていたのです。
そのバンドの名は、
「 カシオペア 」
当時、
私が在籍していたアルファ・レコードでは、
「 フュージョン・ミュージック 」に、
やたら力を入れていました。
かつて、
このブログのエッセイでもご紹介した、
「 深町純&ニューヨーク・オールスターズ 」
「 渡辺香津美&ジェントル・ソウツ 」
の他にも、
ニューヨーク在住の才人「 横倉 豊 」
今は亡き名ギタリスト「 大村憲司 」
などなど、
ずいぶんいろんなアーティストがいましたね。
ま、とにかくこの会社は、
本当に新しもの好き。
そして、
私がこの手の音楽を、
好きだと思われていたのか、
アルファにおける
フュージョン・プロジェクトは、
ことごとく私が担当しておりました。
そんなアルファに、
ある日、
「 カシオペア 」というバンドのデモ・テープが
持ちこまれてきました。
いくつものレコード会社から断られて、
やってきたそうです。
アルファなら、
「 フュージョン・ミュージック 」に力を入れてるし、
商業的にも成功をおさめているし、
なんとか認めてもらえるのではないか。
ま、そんな期待をこめて、
来たのではないでしょうか。
ところが、
アルファの評価も、
それほど高いものではありませんでした。
なにぶん、若い。
オリジナリティーはありそうだが、
演奏が荒い。
でも、フュージョン物の流れのなかでは、
こういうのも一つくらいあってもいいのでは、
という程度の契約でなんとか成立。
プロ野球の世界でいうと、
「 ドラフト外入団 」「 契約金ゼロ 」
みたいな感じでしょうか。
ところが、
ライブを見て仰天!
ほとばしるエネルギー、
粗削りながらもハイ・テクニックの嵐。
そしてなによりも、
明るい!
しゃべりも面白く、
お客さんを楽しませるパフォーマンスは、
なかなかに大したもの。
そうそう、今思えば、
デビュー前の彼らは偉かったですよ。
ライブの前に渋谷駅前で、
自分たちで作ったチラシを配ったりしてました。
「 僕たちカシオペアというバンドです。
今日ライブをやります。
来て下さ〜い! 」
そのかいもなく、
渋谷の「Y」という、
安キャバレーの2階にある、
みすぼらしいライブ・ハウスに集まったお客は、
たったの5人…。
それでも頑張って演奏して、
自分たちで楽器を片付け、
3階の控室に戻ると、
泥棒が入って、
全員財布を盗まれている、
なんてこともありました。
そんな彼らに、
いつしか私は、
「 何とかこのバンドを応援してやりたい。」
という気持ちが芽ばえていったのです。
そんなカシオペアも、
無事デビューが決まり、
折しも来日していた名エンジニア、
アル・シュミットのサポートで、
とりあえず年内にリズム・トラックを録音、
残りは年が明けてから。
「 じゃあ、みんなよいお年を! 」
と別れて、
例の骨折騒動と相成ったわけです。
なんとも無責任なプロデューサー
がいたもんです。
この時の話は、
後に有名になった彼らが、
取材のたびに話すものですから、
その度に記事になり、
こちらはただ苦笑するのみ。
ははは。
仕方ありませんね。
それから、
ジャケットがまたひどかった。
ボンヤりした4人の写真の上に、
おびただしい数の錠剤(ピル)が。
「これでは、
さわやかで溌剌とした彼らのイメージとは、
ほど遠いではないですか。
なんとか再販から、
ジャケットを作り直して下さい。」
この直訴から、
私の仕事は再開です。
その直訴はめでたく取り上げられ、
その初版のレコードは姿を消し、
今市場にあるのは、
とりあえずこんな感じのもの。

作品も、
(私が言えた義理ではありませんが)
「 もっとポップに作れたはずだ 」
とここでも後悔の念。
ならば、
「 すぐに次を作ろう 」
と、
リーダーの野呂一生君をけしかけ、
次なるアルバム(スーパー・フライト)
の制作準備にとりかかったわけです。
というと、
聞こえはいいのですが、
今にして思えば、
さんざん迷惑をかけ、
失いかけた信用をとり戻そうと、
単に、
入れ込んでただけの話かも…。
(つづく)
(感想 2007/2/13)
その初版のカシオペアの
デビュー・アルバム。
「 薬漬けジャケット 」のカシオペア。
5000枚くらい市場に出たそうですが、
今やファンの人のなかでは、
ひょっとして、
貴重なものかもしれませんねえ。
うちには、あるのかなあ…?
さらに、
このアルバムには、
先日お亡くなりになった、
マイケル・ブレッカー(TS)氏や、
お兄さんのランディ・ブレッカー(TP)
それに、
デヴィッド・サンボーン(AS)
といった、
ニューヨークのスーパー・プレイヤーたちも、
参加されている。
(あとでダビングしたのでしょうが。)
こんなことも、
ちっとも知らなかった。
ほんと、
無責任だわ…。
SHUN MIYAZUMI
February 07, 2007
私をスキーに連れてかないで その7
毎日暖かいですねえ。
地球温暖化…。
きのうなんか、
久しぶりに駒沢公園を歩いたら、
汗びっしょりになりましたよ。
桜が狂い咲きしちゃうんじゃないの?
こんな調子じゃ、
夏が思いやられる…。
というわけで、
長々と続いた「スキーと骨折のお話」も、
きょうが最終回です。
2004年03月04日 No.71
私をスキーに連れてかないで その7
1979年。
司馬先生と竜馬くんのおかげで、
退屈だったはずの入院生活も、
それなりに有意義なものとなり、
3月の初めには、
晴れて「仮退院」の許可が出ました。
久しぶりのシャバ。
久しぶりの外の空気。
ヨ〜ロレイホ〜〜♪
さっそく近くの寿司屋に行きましたよ。
久しぶりの寿司。
久しぶりの酒。
ヨ〜ロレイヒ〜〜〜〜〜〜〜♪
松葉づえで現れた私を見て、
寿司屋のオヤジは驚きましたねえ。
事情を話すと、
「そりゃ大変だったねえ。
今日は刺し盛サービスだ。
ゆっくりしてってよ。」
ありがたい!
山盛りの刺し身に舌鼓を打ちながら、
久しぶりの酒が進む進む。
健康であることの幸せ、
自由な身であることの喜び。
ところが、
あまりの喜びに浮かれすぎ、
飲みすぎ、
帰り道の階段のところで足がもつれ、
スッテンコロリ。
実はそのまま、
病院に逆戻りになってしまったのです。
トホホ…。
幸い今度は骨には異常なく、
軽い打撲ですんだものの、
「本退院」は、
さらに一週間ほど遅れてしまいました。
さあ、喜んだのは病室仲間。
「おかえり〜。」
「……。」
2ヶ月以上も一緒に暮らしていると、
仲間意識や連帯感は、
異常なまでに強くなるんですね。
こんな話もあります。
消灯後、誰かが、
「ああ、たばこ吸いてえ。」
と騒ぐ。
すると、
一人だけ、自由に動けるK君が、
「僕、斥候に行ってきます」
と、ナース・センターの前の応接セットの所で、
見張りをやってくれる。
その間、
窓側のNさん、Mさんのギプス・ベッド組が、
窓を大きく開け、
各々ベッドの上でプカプカ。
するとK君が、
「看護婦が来ます〜」
と、すっ飛んで帰ってくる。
みんなあわてて火を消して、
めいめいの明かりも消して、
たぬき寝入り。
スースー…。
それでも、若い看護婦なら、
「なんか、タバコのにおいがしますねえ。
だめですよ。ここは病院ですからね。」
と、やさしく微笑んで、
さっさと帰ってくれるのですが、
一度、
「大変です!婦長が来ます!!」
と、K君がすっ飛んで帰ってきたときは、
あせりました。
この婦長。
なかなかに厳しい鬼婦長で、
規律を破ると、
洗髪を一回飛ばされたり、
さながら刑務所なみの罰則を
しかけてくるのです。
「なんですか。タバコのにおいがしますよ。
みなさん、ここは病院ですよ。
火事にでもなったらどうするんですか。
誰ですか、吸ってたの?
正直に言いなさい!
ここをどこだと思ってるんですか!!」
とまあ、全然引き下がらない。
その間みんな、スースーと、
ひたすらたぬき寝入り。
そのみんなの、
‘すっとぼけ’ぶりが可笑しくて、
笑いをかみこらえるのも必死。
そう、
今となってはこんなのも、
いい思い出話。
そして、
みんな、とてもいい人たちでした。
そのうち、
症状の軽いK君が退院し、
Sさんが退院し、
また代わりの人が担ぎ込まれ、
この私も3月中旬には本退院。
残ったのは、
腰の悪い、寝たきりの、
Nさん、Mさん
だけと相成りました。
お二人が退院したのはそれから半年後。
そしてその年の暮れには、
晴れて退院した全員で、
同窓会までやったのです。
以来25年間、
会うこともないのですが、
みなさんお元気なのでしょうか。
退院して、一番嬉しかったのは、
風呂ですね。
まあ、こすってもこすっても、
出るわ出るわ
アカが。
そして、
ギプスを壊してビックリしたのは、
骨と皮だけになってる私の左足。
人間、使わないところって、
あっという間に退化するんですね。
さあ今度は、
2日に一回のリハビリに通う。
これがまた痛いのなんのって。
そうこうするうちに、
少しずつ肉も付いてきて、
松葉づえから普通の杖に変わり、
ゆっくりでも、
なんとか会社に行けるようになったのが、
4月の中旬。
あっという間の骨折を直すのに、
これほどの時間がかかるとは…。
壊れるのは一瞬。
作ったり、元へ戻したりするのは、
本当に時間がかかるもの。
これは人間関係も一緒ですかね。
さて、
こうしてアルファ・レコードに復帰した私。
実は年末に、
ある新人バンドの
デビュー・アルバムを作り初めており、
「じゃあ、残りは来年。
よいお年をー!」
と別れて、
この事態になり、
かじ取り、船長のいないまま、
なんとかレコーディングを完了し、
でも社内では、
あまり注目もされないまま、
デビューを迎えた哀れなバンドが、
私の復帰を待っていたのです。
そのバンドの名は、
「カシオペア」
ということで次回は、
「カシオペア・デビューよもやま話」
こんなの、
いってみようかなと思ってます。
(このシリーズおわり)
(感想 2007/2/7)
4ヶ月会社をリタイアしても、
お給料はちゃんと入ってた。
このときだけは、
「サラリーマンって、いいなあ。」
と実感しましたね。
ま、その5年後に、
結局はフリーになるわけですが、
スキーはもちろんやっておりません。
そればかりか、
ある時期のゴルフを除いては、
スポーツは私にとって、
全く無縁の存在になってしまいました。
今の私にとって、
スポーツとは、
ジャズ・ピアノだけ,
かな?
というわけで、
2/12(月・祝)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
ピアノ・トリオ・ライブです。
どうぞ唱いに、盛り上がりに、
来て下さい。
「スポーツ・ジャズ!」
どうやら私には、
これがいちばん、
お似合い!?
SHUN MIYAZUMI
地球温暖化…。
きのうなんか、
久しぶりに駒沢公園を歩いたら、
汗びっしょりになりましたよ。
桜が狂い咲きしちゃうんじゃないの?
こんな調子じゃ、
夏が思いやられる…。
というわけで、
長々と続いた「スキーと骨折のお話」も、
きょうが最終回です。
2004年03月04日 No.71
私をスキーに連れてかないで その7
1979年。
司馬先生と竜馬くんのおかげで、
退屈だったはずの入院生活も、
それなりに有意義なものとなり、
3月の初めには、
晴れて「仮退院」の許可が出ました。
久しぶりのシャバ。
久しぶりの外の空気。
ヨ〜ロレイホ〜〜♪
さっそく近くの寿司屋に行きましたよ。
久しぶりの寿司。
久しぶりの酒。
ヨ〜ロレイヒ〜〜〜〜〜〜〜♪
松葉づえで現れた私を見て、
寿司屋のオヤジは驚きましたねえ。
事情を話すと、
「そりゃ大変だったねえ。
今日は刺し盛サービスだ。
ゆっくりしてってよ。」
ありがたい!
山盛りの刺し身に舌鼓を打ちながら、
久しぶりの酒が進む進む。
健康であることの幸せ、
自由な身であることの喜び。
ところが、
あまりの喜びに浮かれすぎ、
飲みすぎ、
帰り道の階段のところで足がもつれ、
スッテンコロリ。
実はそのまま、
病院に逆戻りになってしまったのです。
トホホ…。
幸い今度は骨には異常なく、
軽い打撲ですんだものの、
「本退院」は、
さらに一週間ほど遅れてしまいました。
さあ、喜んだのは病室仲間。
「おかえり〜。」
「……。」
2ヶ月以上も一緒に暮らしていると、
仲間意識や連帯感は、
異常なまでに強くなるんですね。
こんな話もあります。
消灯後、誰かが、
「ああ、たばこ吸いてえ。」
と騒ぐ。
すると、
一人だけ、自由に動けるK君が、
「僕、斥候に行ってきます」
と、ナース・センターの前の応接セットの所で、
見張りをやってくれる。
その間、
窓側のNさん、Mさんのギプス・ベッド組が、
窓を大きく開け、
各々ベッドの上でプカプカ。
するとK君が、
「看護婦が来ます〜」
と、すっ飛んで帰ってくる。
みんなあわてて火を消して、
めいめいの明かりも消して、
たぬき寝入り。
スースー…。
それでも、若い看護婦なら、
「なんか、タバコのにおいがしますねえ。
だめですよ。ここは病院ですからね。」
と、やさしく微笑んで、
さっさと帰ってくれるのですが、
一度、
「大変です!婦長が来ます!!」
と、K君がすっ飛んで帰ってきたときは、
あせりました。
この婦長。
なかなかに厳しい鬼婦長で、
規律を破ると、
洗髪を一回飛ばされたり、
さながら刑務所なみの罰則を
しかけてくるのです。
「なんですか。タバコのにおいがしますよ。
みなさん、ここは病院ですよ。
火事にでもなったらどうするんですか。
誰ですか、吸ってたの?
正直に言いなさい!
ここをどこだと思ってるんですか!!」
とまあ、全然引き下がらない。
その間みんな、スースーと、
ひたすらたぬき寝入り。
そのみんなの、
‘すっとぼけ’ぶりが可笑しくて、
笑いをかみこらえるのも必死。
そう、
今となってはこんなのも、
いい思い出話。
そして、
みんな、とてもいい人たちでした。
そのうち、
症状の軽いK君が退院し、
Sさんが退院し、
また代わりの人が担ぎ込まれ、
この私も3月中旬には本退院。
残ったのは、
腰の悪い、寝たきりの、
Nさん、Mさん
だけと相成りました。
お二人が退院したのはそれから半年後。
そしてその年の暮れには、
晴れて退院した全員で、
同窓会までやったのです。
以来25年間、
会うこともないのですが、
みなさんお元気なのでしょうか。
退院して、一番嬉しかったのは、
風呂ですね。
まあ、こすってもこすっても、
出るわ出るわ
アカが。
そして、
ギプスを壊してビックリしたのは、
骨と皮だけになってる私の左足。
人間、使わないところって、
あっという間に退化するんですね。
さあ今度は、
2日に一回のリハビリに通う。
これがまた痛いのなんのって。
そうこうするうちに、
少しずつ肉も付いてきて、
松葉づえから普通の杖に変わり、
ゆっくりでも、
なんとか会社に行けるようになったのが、
4月の中旬。
あっという間の骨折を直すのに、
これほどの時間がかかるとは…。
壊れるのは一瞬。
作ったり、元へ戻したりするのは、
本当に時間がかかるもの。
これは人間関係も一緒ですかね。
さて、
こうしてアルファ・レコードに復帰した私。
実は年末に、
ある新人バンドの
デビュー・アルバムを作り初めており、
「じゃあ、残りは来年。
よいお年をー!」
と別れて、
この事態になり、
かじ取り、船長のいないまま、
なんとかレコーディングを完了し、
でも社内では、
あまり注目もされないまま、
デビューを迎えた哀れなバンドが、
私の復帰を待っていたのです。
そのバンドの名は、
「カシオペア」
ということで次回は、
「カシオペア・デビューよもやま話」
こんなの、
いってみようかなと思ってます。
(このシリーズおわり)
(感想 2007/2/7)
4ヶ月会社をリタイアしても、
お給料はちゃんと入ってた。
このときだけは、
「サラリーマンって、いいなあ。」
と実感しましたね。
ま、その5年後に、
結局はフリーになるわけですが、
スキーはもちろんやっておりません。
そればかりか、
ある時期のゴルフを除いては、
スポーツは私にとって、
全く無縁の存在になってしまいました。
今の私にとって、
スポーツとは、
ジャズ・ピアノだけ,
かな?
というわけで、
2/12(月・祝)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
ピアノ・トリオ・ライブです。
どうぞ唱いに、盛り上がりに、
来て下さい。
「スポーツ・ジャズ!」
どうやら私には、
これがいちばん、
お似合い!?
SHUN MIYAZUMI
February 01, 2007
私をスキーに連れてかないで その6
きのうの「代々木ナル」
すごい盛り上がりでしたね!
みなさん、ありがとうございました。
このライブの模様は、
このページのLINK(Friends)にある、
友人の「途夢♪待人」氏が、
詳しく書くでしょうから、
どうぞご覧になって下さい。
(WJJというコーナーです。)
彼のライブ評も、
面白いですよー。
それにしても、
CHIHARUは、
やはり最高だ!
次回、このセッションは、
4/24(火)です。
まだの方、
ぜひ!
2004年02月19日 No.70
私をスキーに連れてかないで その6
「竜馬がゆく」に大感動した私。
続けざまに、
「世に棲む日々」「燃えよ剣」「功名が辻」「空海」
などなど、
司馬作品を一日一冊のペースで読破。
おかげで、
この退屈な入院生活は一転、
大変有意義なものになりました。
それにしても「竜馬がゆく」は、
見事な作品。
竜馬の不撓不屈の生き方もさることながら、
いろんな逸話が、
網の目のように張り巡らされ、
読み直すたびに、
いつも新たな発見がある。
登場人物も個性豊かに描かれており、
「幕末の一大叙事詩」
で片付けるには惜しいくらいの人間ドラマが、
ふんだんにあるのです。
たとえば、
勝海舟の勧めもあって、
竜馬が、
西郷隆盛に初めて会いに行ったときの話。
「いやあ、お待たせしましたなあ。」
と西郷が現れると、
竜馬は何やら庭の方に向かって、
一匹の鈴虫とたわむれている。
「すまんけど、この鈴虫を籠に入れて、
エサでも与えてくださらんかのう。」
と竜馬。
「変なヤツが来たもんだ」と思いつつも、
家来に命じて‘虫かご’を用意させる西郷。
その数週間後、
再び西郷を訪ねる竜馬。
そしてあの時の鈴虫を見せる西郷。
「おお、元気だったか!」と喜ぶ竜馬。
しかし、それは、
一週間ほどで死んだ鈴虫に代えて、
いつ竜馬が来てもいいように、
常に新しい鈴虫と入れ替えさせていた
西郷の配慮だったのです。
後日勝海舟は竜馬に聞きます。
勝 「西郷ってのはどんな男だった?竜馬よ。」
竜馬「そうですな、ひとことで言って、
釣り鐘のような人ですな。」
勝 「それはまたどういう意味だ?」
竜馬「大きく叩けば大きく響く。
小さく叩けば小さく響く。」
勝は感心してこう記しています。
「評するも人。評さるるも人。」
(つまりどちらも大人物だということ。)
(うまい!
勝さん、あんたもなかなかやるねえ。)
竜馬が鹿児島の西郷の家に泊まったくだりも、
傑作です。
竜馬が蒲団に入ると、
となりの部屋で、
西郷と奥方が何やらもめている。
何でも、
家を空けて国事にばかり奔走してる西郷に、
家の雨漏りがひどいので、
何とかしてくれという話。
それに対する西郷の答え。
「今は日本中が雨漏りしておる。
自分の家の雨漏りだけを直せば
いいというものではない。」
さすがの西郷も、
奥方には苦しい弁明をするものだと
思わず苦笑いする竜馬。
その他にも、
おりょうと知りあった頃、
火事で焼け出されて、
路頭に迷ってるおりょう一家に、
有り金の50両をすべてくれてやる竜馬。
「あの、困ります。こんな亊してもらっては。」
と当惑するおりょうに対し、
「かまわん。女一人救えなくて、
どうして国が救えるか!」
(やってくれるじゃないの竜馬くん。
かっこいいねえ、男だねえ。)
「人は利でしか動かない。」
これも言い得て妙だな。
イディオロギーの違いから、
(例えば、尊王攘夷、佐幕、開国等の)
論争のあげく、
斬り合いばかりをやってる連中を横目に、
薩摩の余った武器と、
長州の余った米をトレードにし、
お互いから感謝をされ、
それが薩長同盟につながっていく、
てなことを、やってのける。
(若いくせに、
世の中の道理がわかった奴じゃのう。
わしなんか、この年になっても、
まだ失敗ばかりしとるちゅうのに…。)
「議論すべからず。実践あるのみ。」
議論で相手を打ち負かしても、
相手は絶対納得していない。
ただ恨みだけが残ってるだけだ。
(そのとおりじゃが、
なかなか実践するのは、
むずかしゅうござるよ、これは。)
ま、こんな話がいっぱいあって、
27才という
‘はな垂れ小僧’の私にとっては、
本当にためになる、
出会いだったのです。
「竜馬がゆく」は、
その後何回も読みました。
30代では30代なりに、
40代では40代なりに、
得るものがある。
特に、
困った時、
にっちもさっちも行かなくなった時、
全身バネのような、
竜馬の生き方や考え方は、
大いに勇気づけられたものです。
こうして、
「 スキー → 骨折 → 手術 → 入院 」
という、
波乱万丈のスタートとなった1979年は、
おかげで、ほんのちょっぴり、
私を成長させてくれた、
そんな年になったのかもしれません。
(つづく)
(感想 2007/2/1)
暮れにも書きましたが、
昨年の私は、
「種まきの年」
「充電の年」
でもありましたから、
有り余る時間を利用して、
今度は、
司馬遼太郎「戦国4部作」(全12巻)
に挑戦してみました。
これがまた、
素晴らしい!
一介の油商人から身を起こし、
美濃一国をぶんどる斎藤道三を描いた、
「国盗り物語 前編」
‘革命児’織田信長と、
古い‘室町体制復活’を願う明智光秀
を対比させながら展開していく、
「国盗り物語 後編」
「豊臣秀吉は‘偉大な商人’であった」
という、大胆な発想のもとに描かれる、
「新史太閤記」
なにゆえ徳川家康が勝ち、
石田三成は敗れたか、
を事細かに分析する、
「関ヶ原」
周到な準備と、
権謀術数のかぎりを尽くして、
ついに豊臣家を滅ぼしてしまう家康と、
‘義’という美名のもとに大阪方に殉じた、
真田幸村ら武将たちを描いた、
「城塞」
各々3回は読みましたかね。
現在4回目。
いやあ、勉強になります。
これらに共通するテーマは、
「人間とは何か」
ということ。
人間死ぬまで勉強やねえ。
司馬遼太郎さん、
あなたは偉大です。
日本で最初に、
『ノーベル文学賞』を取るべき人は、
絶対‘あなた’でした。
SHUN MIYAZUMI
すごい盛り上がりでしたね!
みなさん、ありがとうございました。
このライブの模様は、
このページのLINK(Friends)にある、
友人の「途夢♪待人」氏が、
詳しく書くでしょうから、
どうぞご覧になって下さい。
(WJJというコーナーです。)
彼のライブ評も、
面白いですよー。
それにしても、
CHIHARUは、
やはり最高だ!
次回、このセッションは、
4/24(火)です。
まだの方、
ぜひ!
2004年02月19日 No.70
私をスキーに連れてかないで その6
「竜馬がゆく」に大感動した私。
続けざまに、
「世に棲む日々」「燃えよ剣」「功名が辻」「空海」
などなど、
司馬作品を一日一冊のペースで読破。
おかげで、
この退屈な入院生活は一転、
大変有意義なものになりました。
それにしても「竜馬がゆく」は、
見事な作品。
竜馬の不撓不屈の生き方もさることながら、
いろんな逸話が、
網の目のように張り巡らされ、
読み直すたびに、
いつも新たな発見がある。
登場人物も個性豊かに描かれており、
「幕末の一大叙事詩」
で片付けるには惜しいくらいの人間ドラマが、
ふんだんにあるのです。
たとえば、
勝海舟の勧めもあって、
竜馬が、
西郷隆盛に初めて会いに行ったときの話。
「いやあ、お待たせしましたなあ。」
と西郷が現れると、
竜馬は何やら庭の方に向かって、
一匹の鈴虫とたわむれている。
「すまんけど、この鈴虫を籠に入れて、
エサでも与えてくださらんかのう。」
と竜馬。
「変なヤツが来たもんだ」と思いつつも、
家来に命じて‘虫かご’を用意させる西郷。
その数週間後、
再び西郷を訪ねる竜馬。
そしてあの時の鈴虫を見せる西郷。
「おお、元気だったか!」と喜ぶ竜馬。
しかし、それは、
一週間ほどで死んだ鈴虫に代えて、
いつ竜馬が来てもいいように、
常に新しい鈴虫と入れ替えさせていた
西郷の配慮だったのです。
後日勝海舟は竜馬に聞きます。
勝 「西郷ってのはどんな男だった?竜馬よ。」
竜馬「そうですな、ひとことで言って、
釣り鐘のような人ですな。」
勝 「それはまたどういう意味だ?」
竜馬「大きく叩けば大きく響く。
小さく叩けば小さく響く。」
勝は感心してこう記しています。
「評するも人。評さるるも人。」
(つまりどちらも大人物だということ。)
(うまい!
勝さん、あんたもなかなかやるねえ。)
竜馬が鹿児島の西郷の家に泊まったくだりも、
傑作です。
竜馬が蒲団に入ると、
となりの部屋で、
西郷と奥方が何やらもめている。
何でも、
家を空けて国事にばかり奔走してる西郷に、
家の雨漏りがひどいので、
何とかしてくれという話。
それに対する西郷の答え。
「今は日本中が雨漏りしておる。
自分の家の雨漏りだけを直せば
いいというものではない。」
さすがの西郷も、
奥方には苦しい弁明をするものだと
思わず苦笑いする竜馬。
その他にも、
おりょうと知りあった頃、
火事で焼け出されて、
路頭に迷ってるおりょう一家に、
有り金の50両をすべてくれてやる竜馬。
「あの、困ります。こんな亊してもらっては。」
と当惑するおりょうに対し、
「かまわん。女一人救えなくて、
どうして国が救えるか!」
(やってくれるじゃないの竜馬くん。
かっこいいねえ、男だねえ。)
「人は利でしか動かない。」
これも言い得て妙だな。
イディオロギーの違いから、
(例えば、尊王攘夷、佐幕、開国等の)
論争のあげく、
斬り合いばかりをやってる連中を横目に、
薩摩の余った武器と、
長州の余った米をトレードにし、
お互いから感謝をされ、
それが薩長同盟につながっていく、
てなことを、やってのける。
(若いくせに、
世の中の道理がわかった奴じゃのう。
わしなんか、この年になっても、
まだ失敗ばかりしとるちゅうのに…。)
「議論すべからず。実践あるのみ。」
議論で相手を打ち負かしても、
相手は絶対納得していない。
ただ恨みだけが残ってるだけだ。
(そのとおりじゃが、
なかなか実践するのは、
むずかしゅうござるよ、これは。)
ま、こんな話がいっぱいあって、
27才という
‘はな垂れ小僧’の私にとっては、
本当にためになる、
出会いだったのです。
「竜馬がゆく」は、
その後何回も読みました。
30代では30代なりに、
40代では40代なりに、
得るものがある。
特に、
困った時、
にっちもさっちも行かなくなった時、
全身バネのような、
竜馬の生き方や考え方は、
大いに勇気づけられたものです。
こうして、
「 スキー → 骨折 → 手術 → 入院 」
という、
波乱万丈のスタートとなった1979年は、
おかげで、ほんのちょっぴり、
私を成長させてくれた、
そんな年になったのかもしれません。
(つづく)
(感想 2007/2/1)
暮れにも書きましたが、
昨年の私は、
「種まきの年」
「充電の年」
でもありましたから、
有り余る時間を利用して、
今度は、
司馬遼太郎「戦国4部作」(全12巻)
に挑戦してみました。
これがまた、
素晴らしい!
一介の油商人から身を起こし、
美濃一国をぶんどる斎藤道三を描いた、
「国盗り物語 前編」
‘革命児’織田信長と、
古い‘室町体制復活’を願う明智光秀
を対比させながら展開していく、
「国盗り物語 後編」
「豊臣秀吉は‘偉大な商人’であった」
という、大胆な発想のもとに描かれる、
「新史太閤記」
なにゆえ徳川家康が勝ち、
石田三成は敗れたか、
を事細かに分析する、
「関ヶ原」
周到な準備と、
権謀術数のかぎりを尽くして、
ついに豊臣家を滅ぼしてしまう家康と、
‘義’という美名のもとに大阪方に殉じた、
真田幸村ら武将たちを描いた、
「城塞」
各々3回は読みましたかね。
現在4回目。
いやあ、勉強になります。
これらに共通するテーマは、
「人間とは何か」
ということ。
人間死ぬまで勉強やねえ。
司馬遼太郎さん、
あなたは偉大です。
日本で最初に、
『ノーベル文学賞』を取るべき人は、
絶対‘あなた’でした。
SHUN MIYAZUMI
January 29, 2007
私をスキーに連れてかないで その5
金曜日の「学芸大 A'TRAIN」も、
盛り上がりましたねえ。
みなさん遅くまで、
(というか、朝早くまで)
お疲れさまでした。
来月もお待ちしてますよー。
というわけで今日も、
「骨折ストーリー」のつづきです。
2004年02月11日 No.69
私をスキーに連れてかないで その5
1979年1月。
「大森日赤病院」の、
整形外科病棟にかつぎ込まれて、
早や2週間。
左足はギプスでしっかり固定され、
松葉杖を使って、
「用足し」や「タバコを一服」などに、
ひとりで行く亊ができるようになると、
もう誰も面会に来てくれなくなりました。
したがって、
3食のメシ以外、
なんにもやることがない。
退屈極まりない。
そこで、
これを機に、
本格的に読書でもしてみようかと、
思ったわけです。
初めのうちは、
週刊誌やら軽い推理小説、
なんかを読んでたのですが、
それも、なんかもったいない。
せっかくだから、なにか長〜い物、
普段ではあまり読めないような物を、
と思い、
まずは、
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
を買ってきてもらいました。
文庫本にして全8巻。
土佐の高知に生まれ、
大きくなってからも愚鈍で有名な、
郷士のせがれ坂本竜馬が、
たいして期待もかけられないまま、
剣術修業のため、
江戸に向かうところから、
この物語は始まります。
最初のうちは単なる時代小説かなと、
軽い読み物のつもりで、
鼻くそかなんかをほじくりながら読んでいた。
ところが、
黒船が来航し、
勝海舟を知り、
「これからは剣の時代ではない!」と悟り、
ついには脱藩して京に赴くあたりから、
が然私は、
この小説にハマってしまいました。
司馬氏の文章は実に巧みで読みやすい。
かつ、話のひとつひとつが、
生き生きとしていて、
感心させられたり、
うるっとさせられたり。
朝6時に看護婦に起こされ、
メシが来るまでペラペラ。
先生が回診に来るまでの時間もペラペラ。
昼飯までの数時間も、
午後も、
夕食後、消灯までの数時間も、
ただひたすらに、
ペラペラとページをめくる私。
ひとつの本がけっこうぶ厚いのですが、
一日一巻のペースで、
あっという間に読んでしまいました。
いやあ、感動しましたね。
坂本竜馬って、
こんなにスケールのでかい男だったんだ…。
当時の私は27才。
レコード・プロデューサーとして、
少しはサマになってきたのかな、
という時期。
しかし、
この坂本竜馬を、
プロデューサーと見たてるなら、
古今東西、
こんなにスケールのでかいプロデューサーは、
いませんね。
一介の脱藩浪人、
つまり「フリー」の身でありながら、
仲の悪い薩摩と長州を同盟させ(薩長同盟)、
幕府に、政権を朝廷に帰させる(大政奉還)、
などという大仕事を、
みごとに一人でやってのけた。
しかも、
大政奉還後の新政府の陣容を考えたり、
五箇条の御誓文の原案となる
「船中八策」を考案したり、
明治維新や日本の近代化は、
この男なくしてはありえなかったのです。
いわば、
日本という、
「国をプロデュース」したことになる。
そして自分は、
その権力側に座ることには、
なんの興味もない。
なによりも、ビックリしたのは、
その‘行動力’ですね。
この人、
わずか33年という短い生涯の間に、
江戸と京の間を、
いったい何度往復したんだろう?
ほとんどが‘歩き’なのに。
あるいは、
きょう長崎にいるかと思うと、
突如薩摩(鹿児島)に現れたり、
自在に船まで操り、
どこまでも行ってしまう。
出不精の私には、
考えられない…。
坂本竜馬くん、
あんたはえらい!
それまでの私といえば、
ここまで長い小説を読んだこともなければ、
「人生」とか「人間関係」とかいうものを、
そんなに真剣に、
考えたこともありませんでしたから、
感動、
と同時に、
大きな衝撃を受けましたねえ。
「これは、いいものに出会った!!」
退屈しのぎに始めた読書でしたが、
今後の入院生活に、
大きな楽しみが得られそうな、
そんな予感。
(つづく)
(感想 2007/1/29)
この時期、
私は‘チョビひげ’をはやしておりました。
理由はただひとつ。
おひげの手入れだけでも、
若干の「暇つぶし」にはなるからです。
『ショーシャンクの空に』という映画のなかで、
(この映画、好きだなあ。)
主役のティム・ロビンスが、
一生懸命「石の彫り物」を作るシーンがある。
そして、
渋い相方のモーガン・フリーマンがこう言う。
「囚人は暇つぶしのためなら、
何だってやる。」
病院も一緒ですね。
さあ、
1/31(水)は「代々木ナル」
でライブ。
私の大好きな女性ジャズ・シンガー
『CHIHARU(チハル)』
との競演です。
彼女のジャズは、まさに本物!
まだの方、
ぜひ一度体感してみて下さい。
SHUN MIYAZUMI
盛り上がりましたねえ。
みなさん遅くまで、
(というか、朝早くまで)
お疲れさまでした。
来月もお待ちしてますよー。
というわけで今日も、
「骨折ストーリー」のつづきです。
2004年02月11日 No.69
私をスキーに連れてかないで その5
1979年1月。
「大森日赤病院」の、
整形外科病棟にかつぎ込まれて、
早や2週間。
左足はギプスでしっかり固定され、
松葉杖を使って、
「用足し」や「タバコを一服」などに、
ひとりで行く亊ができるようになると、
もう誰も面会に来てくれなくなりました。
したがって、
3食のメシ以外、
なんにもやることがない。
退屈極まりない。
そこで、
これを機に、
本格的に読書でもしてみようかと、
思ったわけです。
初めのうちは、
週刊誌やら軽い推理小説、
なんかを読んでたのですが、
それも、なんかもったいない。
せっかくだから、なにか長〜い物、
普段ではあまり読めないような物を、
と思い、
まずは、
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
を買ってきてもらいました。
文庫本にして全8巻。
土佐の高知に生まれ、
大きくなってからも愚鈍で有名な、
郷士のせがれ坂本竜馬が、
たいして期待もかけられないまま、
剣術修業のため、
江戸に向かうところから、
この物語は始まります。
最初のうちは単なる時代小説かなと、
軽い読み物のつもりで、
鼻くそかなんかをほじくりながら読んでいた。
ところが、
黒船が来航し、
勝海舟を知り、
「これからは剣の時代ではない!」と悟り、
ついには脱藩して京に赴くあたりから、
が然私は、
この小説にハマってしまいました。
司馬氏の文章は実に巧みで読みやすい。
かつ、話のひとつひとつが、
生き生きとしていて、
感心させられたり、
うるっとさせられたり。
朝6時に看護婦に起こされ、
メシが来るまでペラペラ。
先生が回診に来るまでの時間もペラペラ。
昼飯までの数時間も、
午後も、
夕食後、消灯までの数時間も、
ただひたすらに、
ペラペラとページをめくる私。
ひとつの本がけっこうぶ厚いのですが、
一日一巻のペースで、
あっという間に読んでしまいました。
いやあ、感動しましたね。
坂本竜馬って、
こんなにスケールのでかい男だったんだ…。
当時の私は27才。
レコード・プロデューサーとして、
少しはサマになってきたのかな、
という時期。
しかし、
この坂本竜馬を、
プロデューサーと見たてるなら、
古今東西、
こんなにスケールのでかいプロデューサーは、
いませんね。
一介の脱藩浪人、
つまり「フリー」の身でありながら、
仲の悪い薩摩と長州を同盟させ(薩長同盟)、
幕府に、政権を朝廷に帰させる(大政奉還)、
などという大仕事を、
みごとに一人でやってのけた。
しかも、
大政奉還後の新政府の陣容を考えたり、
五箇条の御誓文の原案となる
「船中八策」を考案したり、
明治維新や日本の近代化は、
この男なくしてはありえなかったのです。
いわば、
日本という、
「国をプロデュース」したことになる。
そして自分は、
その権力側に座ることには、
なんの興味もない。
なによりも、ビックリしたのは、
その‘行動力’ですね。
この人、
わずか33年という短い生涯の間に、
江戸と京の間を、
いったい何度往復したんだろう?
ほとんどが‘歩き’なのに。
あるいは、
きょう長崎にいるかと思うと、
突如薩摩(鹿児島)に現れたり、
自在に船まで操り、
どこまでも行ってしまう。
出不精の私には、
考えられない…。
坂本竜馬くん、
あんたはえらい!
それまでの私といえば、
ここまで長い小説を読んだこともなければ、
「人生」とか「人間関係」とかいうものを、
そんなに真剣に、
考えたこともありませんでしたから、
感動、
と同時に、
大きな衝撃を受けましたねえ。
「これは、いいものに出会った!!」
退屈しのぎに始めた読書でしたが、
今後の入院生活に、
大きな楽しみが得られそうな、
そんな予感。
(つづく)
(感想 2007/1/29)
この時期、
私は‘チョビひげ’をはやしておりました。
理由はただひとつ。
おひげの手入れだけでも、
若干の「暇つぶし」にはなるからです。
『ショーシャンクの空に』という映画のなかで、
(この映画、好きだなあ。)
主役のティム・ロビンスが、
一生懸命「石の彫り物」を作るシーンがある。
そして、
渋い相方のモーガン・フリーマンがこう言う。
「囚人は暇つぶしのためなら、
何だってやる。」
病院も一緒ですね。
さあ、
1/31(水)は「代々木ナル」
でライブ。
私の大好きな女性ジャズ・シンガー
『CHIHARU(チハル)』
との競演です。
彼女のジャズは、まさに本物!
まだの方、
ぜひ一度体感してみて下さい。
SHUN MIYAZUMI
January 25, 2007
私をスキーに連れてかないで その4
いやあ、きのうの「ALL OF ME CLUB」は、
盛り上がったなあ。
みなさん、ありがとうございました。
ライブが終わってからも、
みんな帰らず、
スイート・ボイスやメンバー、
残ったお客さんたちと延々酒盛り。
さながら、
場所をそのまま借りて新年会、
といった感じでしたね。
結局帰ったの3時。
若いサラリーマン諸君も、
いっぱい残っていたけど、
きょうは眠いだろうなあ。
というわけで、
次回、このスイート・ボイス・セッションは
4/6(金)です。
それにしても、
思ったことは、
「健康とはありがたい」
ということ…。
2004年02月01日 No.68
私をスキーに連れてかないで その4
1979年の1月。
手術が終わり、
一週間で抜糸が終わり、
ひざから下をギプスで固定。
松葉杖を与えられ、
用足しも自分で行けるようになり、
タバコも、
ロビーまで行って吸えるようになりました。
しかし、
まだまだここから約2ヶ月の入院生活。
なんとか楽しみを見つけなくてはなりません。
「そんな私の日課」
朝の6時。
部屋の明かりがパーっとついて、
看護婦さんが、
「皆さん、朝ですよ〜!」と入ってきて、
「変わりありませんか?」と聞いてくる。
変わりありませんよ。
「整形外科」ってのは、
内臓は元気なのだから。
動くのが不自由なだけなのです。
そして、
7時に食事、
8時に検診が終わると、
もうなんにもやることが無い。
そこで、
まず下の売店で、
週刊誌、スポーツ紙をごっそり買い込む。
一週間ぶりに、
世間の様子を知り、
その後、
病室の人達とぺちゃくちゃ世間話。
そうこうするうちに、
12時の昼飯が運ばれてくる。
元気な整形外科病棟では、
この3度の食事だけが、
何よりの楽しみです。
なるべく時間をかけて、
ゆっくり食べる。
するとまた、
なにもやることが無い。
そこで、
ロビーにタバコを一服しに行くと、
「おっ、将棋をやってるな!」
そう、
初老のおっさんが二人で、
将棋をやってます。
で、
とりあえず、
これを見学することにしました。
ところが、
これが、
すご〜いヘボ将棋。
私も別に大したことはないし、
ちゃんと習ったことはないにせよ、
簡単な定石くらいは、
いくつか知っていたので、
そのお二人を見てると、
つい言いたくなってしまい、
よせばいいのに、
「あのお、そこは、
桂馬で受けたほうがいいのでは…」
などと、余計なアドバイス。
でも、
「だよね、君若いのになかなかやるね。」
とか言われると、
ちょっと嬉しい気分。
すると今度は、
相手方のおっさんが、
とんでもない手を指す。
「ああ、それだと飛車が死んじゃいますよ。
ここは、まず一回歩で受けて、
それからこうしてああして」
などと、
さらに調子に乗ってしまう私。
すると、
最初は機嫌よく指していたお二人の顔が、
次第に険しくなっていくのが分かります。
「これはまずい!」
と察し、
そーっと退散して、
部屋に戻る。
午後の3時になると「面会時間」。
最初のうちは、
会社(アルファ)の連中やら、
いろんな人が心配して、
見舞いに来てくれました。
おかげで、退屈がしのげる。
でも、それもほんの2週間だけで、
そのうち面会者も来なくなると、
またまた退屈極まりない午後が続きます。
そして夜になる。
6時の晩飯を食べ、
「そうだ!
きょうはボクシングの世界戦がある。
久しぶりにテレビでも見に行こう。」
と、
下(一階ロビー)のTVのある所ヘ行ってみると、
そこは、
爺さんばあさんの溜まり場。
みんなでなごやかに、
「水戸黄門」かなんか、
観ている。
「チッ」と舌打ちして、
仕方なく病室に帰る私。
こんな生活が続きました。
そして次第に、
「なんとかしなければ。
折角こんなに自由な時間があるのだから、
なんかしなければ…。」
と、あせりが芽生える。
そんなある日、
「そうだ。
こういう機会だから、
思いきって、
なが〜い小説でも読んでみよう。」
と、ひらめいた。
翌日、
司馬遼太郎「竜馬がゆく」
の文庫本(全8巻)を、
買ってきてもらいました。
これ、これ。
これが、
この入院生活を、
有意義なものにしてくれた、
始まりだったのです。
(つづく)
(感想 2007/1/25)
ヒッチコックの映画『裏窓』
というのをご存知ですか?
事故で足を骨折したカメラマンが、
退屈しのぎに、
自分のアパートの裏窓から見える、
人間模様を覗き見する楽しみを覚える。
そのうちに、
ある事件を目撃して…、
という、
コミカルなサスペンス物なのですが、
あの気持ちわかるなあ。
それほど、
動けないというのは、
退屈なものなのですよ。
さあ、
1/26(金)は、
学芸大「 A'TRAIN 」
でライブ。
動ける幸せを感じながら、
大いに盛り上がりたいと思います。
SHUN MIYAZUMI
January 22, 2007
私をスキーに連れてかないで その3
私には絶対無理と思われる職業(もの)
1.「高層ビルの建築現場で働く人」「パイロット」
(高所恐怖症だから)
2.「F-1レーサー」「新幹線の運転士」
(スピード恐怖症だから)
3.ウィンター・スポーツの選手
2004年01月21日 No.67
私をスキーに連れてかないで その3
新年早々、スキーで骨折。
なんとも情けないスタートとなった、
1979年のお正月。
そう、今となっては笑い話。
しかし、
その時は真っ青でありました。
当時は大森に住んでまして、
したがって担ぎ込まれた病院は、
「大森日赤病院」
というところ。
そして、すぐさま手術!
なんでも、
折れた骨が離れてしまってるので、
ボルトで固定、くっつくまでギプス、
約2ヶ月の入院、リハビリに2ヶ月、
社会復帰は春。
などという、
残酷な診断が下されたのです。
(手術をしなくても直るのですが、
それこそ新潟の医者が言ったとおり、
一年はかかるんだそうです。
「とんでもない!」
ということで、あっさり手術に同意。)
さて、
初めて体験する「手術」なるものも無事終了。
いやあ、その夜は地獄でしたね。
麻酔が切れると、
傷口が痛いの何のって。
一晩中唸っておりました。
でも翌日になると、
不思議と痛みも消え初め、
そうなると、
ようやく周りの景色も見えてきます。
私がいたのは、
「整形外科」6人部屋の廊下側。
奥の窓側には、
腰を悪くして入院している人が二人。
高知出身で、牢名主のような風格のNさんと、
畳職人のMさん。
お二人とも、
もう半年もギプス・ベッドで寝たきりだそうです。
それから、
Sさんという初老の方に若いのが二人。
(私もその時は27才でしたが、彼らはもっと若い。)
その若い方のK君は、
バイクで鎖骨を折っただけなので、
こいつが一番ふらふら病院中を歩き回れる。
面会時間は3時なので、
ちょっとした用達(雑誌や新聞を買ってくるとか)は、
みな彼に頼んでるようでした。
起床は6時、消灯は9時。
朝6時になると、
パーっと明かりがついて、
看護婦さんたちがにぎやかに動き回ります。
体調ほかの様子を聞き、
体温をはかり、
洗面の手伝いをしてくれ、
7時には食事。
そのあと、部長先生の検診。
私の場合、約一週間で抜糸、
その後にギプスで固定。
したがって一週間は、
ベッドから一歩も出られません。
さあ、困ったのが「用足し」です。
小便のほうは何とか一人でできますが、
大きいほうとなると、そうはいかない。
いやでも看護婦さんのお力を借りねばならない。
しかも私、
今も昔も快食快便体質ですから、
毎朝決まった時間に、
ちゃんとお迎えがくる。
しかし、
恥ずかしがっててもしょうがないので、
がんばって一週間を乗りきりました。
畳職人のMさんなどは、
これがいやでいやで、
つい我慢しちゃうもんですから、
10日に一度は「浣腸の刑」にあってましたねえ。
お気の毒に…。
そんなある日、
Mさんが、しみじみと聞いてきました。
「宮住さん、よく毎日毎日、ちゃんとできるねえ。
私なんか、
度胸がないというか、恥ずかしくて、
考えただけで、
出るものも出ないんですよ。」
それに対して、
私はこう答えました。
「こういうのを‘くそ度胸’って言うんでしょうか。」
「……。」
おっと、失礼!!
さあ、一週間がすぎました。
晴れて抜糸も終わり、
ギプスで固定、
松葉つえを与えられ、
ようやく自力で歩くことも、
用足しに行くことも、
できるようになりました。
こうなると、覚悟を決め、
与えられた入院生活を楽しむ方法を
見つけなければなりません。
なにせ、
歩くのが杖頼りで不自由なほかは、
いたって元気なのですから。
私の病室仲間も同じです。
動けないほかは、
いたって元気そのものですから、
いやあうるさいのなんの。
まあこれが「整形外科」のいいところ。
これが、内科病棟だったら、
病状が悪くなる人もいるわけですから、
こうはいきませんよね。
といったところで、次回は、
私のその後の「楽しい(?)入院生活」
のあれこれです。
(つづく)
(感想 2007/1/22)
かつて(2004年)、
これを書いた翌日が、
たまたま「代々木ナル」でライブ。
そそっかしいお客さんの一人が、
心配そうに、
こう聞いてきました。
「シュンちゃん、
足折ったんだって?
大丈夫?
ピアノ弾けんの?」
「……。」
わたしゃ、ちゃんと、
「1979年のお正月」
って書いてあるのに…。
というわけで、
今は2007年の1月22日です。
お間違えなきように。
私はピンピンしております。
1/24(水)は、
「六本木 ALL OF ME CLUB」で、
スイート・ボイスと元気にライブです。
彼女たちのために、
渾身の力をふり絞って書き下ろした、
「超大作」も、
初めてご披露致します。
どうぞ、いらして下さい!
SHUN MIYAZUMI
January 18, 2007
私をスキーに連れてかないで その2
きのうは寒かったですねえ。
でも…
今年は…
やはり暖冬!
こんなに寒い日は、
まだ数えるくらいしかない。
どう考えても、
地球はおかしい。
真冬のニューヨークが22°!?
真冬のフランスのスキー場で桜が咲く!?
世界の指導者のみなさん、
真剣に考えないと、
地球はやばいですよー…。
2004年01月11日 No.66
私をスキーに連れてかないで その2
1979年の元旦。
生まれてはじめて、
正月を自宅以外で過ごすことになった私。
いや、ほんとはね、
行きたくなかったんすよ。
前回も書いたとおり、
私は「滑るもの」が大の苦手。
それに、
寒いじゃないですか、
スキー場って。
(滑らないからか?)
夜の宴会だけは楽しいとしても、
昼間をどうやって過ごせばいいのか…。
けっこう憂鬱な気持ちのまま、
なんとなく、
新潟県は六日町のスキー場に、
到着してしまいました。
ま、その日の夜は、
みんなでトランプやったりして、
それなりに楽しく過ごす。
そして、
朝がやって来ました。
「あの、俺、
今日は部屋で寝ててもいいかなあ?
きのう飲みすぎちゃったし…。
みんな、楽しんできてよ。ダメ?」
「なに言ってんのよ。ほら、早く仕度仕度!」
と家内やみんなに促されて、
しぶしぶゲレンデへ。
仕方がない。
こうなったら覚悟を決めました。
男の子だ。
強がって、
「今回は足の一本も折るくらいのつもりでやるもん。」
と、みんなに宣言。
みんな、
「おお、その意気! その意気!」
そして、リフト券を大量に買い込み、
いざ出陣。
でも、
山頂につくやいなや、
みんな私を置いて、
さっそうと滑り出す。
「冷たいなあ…。」
ひとりつぶやく私。
「なあに、スキーなんて簡単、簡単。
みんなにできて、
俺にできないことはないさ。」
と開き直り、
自分をはげまし、
目の前を軽快に滑っていったスキーヤーを、
見様見まね、
ついに、
滑り出してしまった。
ところが、
これが、
思ってたよりも急な傾斜で、
ぐんぐんスピードが上がる。
その数秒後!
ちょっとした‘こぶ’にひっかかった私は、
ものの見事に転倒。
不幸にも、そのまま、
スキーの板がはずれることなく二転三転…。
そして、気がついたときには、
左足に強烈な痛みを覚えていました。
心配した、スキーヤーたちのひとりが、
レスキュー隊の人達を連れてきてくれました。
「あ、こりゃ完全に折れてるな。」
「ガ〜〜〜〜〜〜ン……。」
何度もいうように、
生まれてこの方、
正月に遠出をしたのは、
このときが初めて。
だから、言わんこっちゃない…。
私の嫌な予感はみごとに的中し、
さらに、診てもらった地元の医者は、
「こりゃ複雑骨折。
ま、社会復帰までに一年はかかるな。」
と、あまりに残酷なことを、
軽々と言ってのける。
青ざめましたねえ。
みなさんも、
普段と違うことをするときは、
くれぐれもお気をつけ下さい。
ましてや、
「足の一本も折るくらいのつもりでやる。」
などという不吉なことは、
絶対に言わないほうがよろしい。
こうしてこの年は、
「病院生活で幕を開ける」
という、
まことにおそまつなスタート、
と相成ったわけであります。
(つづく)
(感想 2007/1/18)
先日、
「スイート・ボイスと日光に行ったお話」
を書きましたが、
そのときご一緒した、
ベースの藤田わたるさんは、
大のスキー好き。
インストラクターもやってるほどの、
腕前だそうです。
たまたま日光で、
スキーの話題になったので、
私の、
このバカな顛末を話したところ、
大笑いで、
「そりゃ、災難でしたな。
スキーなんて、
めったに骨折するもんじゃないんですがねえ。」
その藤田さん、
このお正月に、
スキーで、
腕を骨折したそうです。
アハハハ。
おっと、笑っちゃいけない。
「猿も木から落ちる。」
か…。
みなさんも、
気をつけましょうね。
藤田さん、お大事に!
SHUN MIYAZUMI
でも…
今年は…
やはり暖冬!
こんなに寒い日は、
まだ数えるくらいしかない。
どう考えても、
地球はおかしい。
真冬のニューヨークが22°!?
真冬のフランスのスキー場で桜が咲く!?
世界の指導者のみなさん、
真剣に考えないと、
地球はやばいですよー…。
2004年01月11日 No.66
私をスキーに連れてかないで その2
1979年の元旦。
生まれてはじめて、
正月を自宅以外で過ごすことになった私。
いや、ほんとはね、
行きたくなかったんすよ。
前回も書いたとおり、
私は「滑るもの」が大の苦手。
それに、
寒いじゃないですか、
スキー場って。
(滑らないからか?)
夜の宴会だけは楽しいとしても、
昼間をどうやって過ごせばいいのか…。
けっこう憂鬱な気持ちのまま、
なんとなく、
新潟県は六日町のスキー場に、
到着してしまいました。
ま、その日の夜は、
みんなでトランプやったりして、
それなりに楽しく過ごす。
そして、
朝がやって来ました。
「あの、俺、
今日は部屋で寝ててもいいかなあ?
きのう飲みすぎちゃったし…。
みんな、楽しんできてよ。ダメ?」
「なに言ってんのよ。ほら、早く仕度仕度!」
と家内やみんなに促されて、
しぶしぶゲレンデへ。
仕方がない。
こうなったら覚悟を決めました。
男の子だ。
強がって、
「今回は足の一本も折るくらいのつもりでやるもん。」
と、みんなに宣言。
みんな、
「おお、その意気! その意気!」
そして、リフト券を大量に買い込み、
いざ出陣。
でも、
山頂につくやいなや、
みんな私を置いて、
さっそうと滑り出す。
「冷たいなあ…。」
ひとりつぶやく私。
「なあに、スキーなんて簡単、簡単。
みんなにできて、
俺にできないことはないさ。」
と開き直り、
自分をはげまし、
目の前を軽快に滑っていったスキーヤーを、
見様見まね、
ついに、
滑り出してしまった。
ところが、
これが、
思ってたよりも急な傾斜で、
ぐんぐんスピードが上がる。
その数秒後!
ちょっとした‘こぶ’にひっかかった私は、
ものの見事に転倒。
不幸にも、そのまま、
スキーの板がはずれることなく二転三転…。
そして、気がついたときには、
左足に強烈な痛みを覚えていました。
心配した、スキーヤーたちのひとりが、
レスキュー隊の人達を連れてきてくれました。
「あ、こりゃ完全に折れてるな。」
「ガ〜〜〜〜〜〜ン……。」
何度もいうように、
生まれてこの方、
正月に遠出をしたのは、
このときが初めて。
だから、言わんこっちゃない…。
私の嫌な予感はみごとに的中し、
さらに、診てもらった地元の医者は、
「こりゃ複雑骨折。
ま、社会復帰までに一年はかかるな。」
と、あまりに残酷なことを、
軽々と言ってのける。
青ざめましたねえ。
みなさんも、
普段と違うことをするときは、
くれぐれもお気をつけ下さい。
ましてや、
「足の一本も折るくらいのつもりでやる。」
などという不吉なことは、
絶対に言わないほうがよろしい。
こうしてこの年は、
「病院生活で幕を開ける」
という、
まことにおそまつなスタート、
と相成ったわけであります。
(つづく)
(感想 2007/1/18)
先日、
「スイート・ボイスと日光に行ったお話」
を書きましたが、
そのときご一緒した、
ベースの藤田わたるさんは、
大のスキー好き。
インストラクターもやってるほどの、
腕前だそうです。
たまたま日光で、
スキーの話題になったので、
私の、
このバカな顛末を話したところ、
大笑いで、
「そりゃ、災難でしたな。
スキーなんて、
めったに骨折するもんじゃないんですがねえ。」
その藤田さん、
このお正月に、
スキーで、
腕を骨折したそうです。
アハハハ。
おっと、笑っちゃいけない。
「猿も木から落ちる。」
か…。
みなさんも、
気をつけましょうね。
藤田さん、お大事に!
SHUN MIYAZUMI
January 11, 2007
私をスキーに連れてかないで
お正月気分も抜けて、
世の中、
ようやく動き出した感じですね。
私も新年早々、
なんだかバタバタ…。
というわけで、
今年最初のエッセイは、
3年前のお正月に書いたやつを、
リニューアル。
「スキーのお話」
です。
2004年01月04日 No.65
私をスキーに連れてかないで
スキーと私。
なんだか全然イメージが湧きませんね。
その通りで、
実は私、
ウインター・スポーツはからきしダメです。
「滑る」という種類のスポーツ・センスは、
まったく体内に持ちあわせていないみたい。
こう見えても、
けっこう運動神経はあるほうで、
子供の頃から、
「駆けっこ」は学年でもトップ・クラス、
球技も、「野球」を除けば、
バスケ、バレー、ドッジ・ボール、
‘なんでもござれ’なのですが、
「滑る」スポーツだけは、
ダメ!
子供のころ、
一度だけ友達のローラー・スケートを
借りて履いてみたところ、
1メートルも進まないうちにスッテンコロリン。
後頭部をしこたま打ちました。
かなりの脳細胞が破壊!?
その後遺症は、
今でも続いています。
したがって、
高校の時、
クラスメートの女の子に、
アイススケートに誘われたときは、
本当に困りました。
悩みに悩んだあげく、
行ってはみたものの、
やはりダメ。
スケート・リンクの塀に手をかけて、
友達が気持ちよさそうに滑ってるのを、
ぼう然と眺めているだけ。
そして、ほとんど動かないから、
寒いのなんの。
あげくの果てに、女の子からは、
「宮住くん、たまには滑ろうよー。
あたしが手を持っててあげるから大丈夫よ。
怖くないから。さあ、ほら!」
「……。」
これでは、
描いていたストーリーとまるで逆ではないか!?
スキーも同様です。
初めてスキー場に行ったのが中3の時。
すごく上手いおじさんが連れてってくれたのですが、
何をやっても転んでばかり。
ボーゲンすらまともにできない。
右からだとうまくターンできるのですが、
左からだとまったくダメ。
したがってS字形に進んでいかないのです。
初めは懇切丁寧に教えてくれてたおじさんも、
イライラしはじめ、
最後はバカにした笑みを浮かべて、
さっさと滑りに行ってしまいました。
社会人になってからも、何回か行きましたが、
やはりダメ。
ただし、あの「アフター・スキー」ってやつは、
楽しいですね。
それだけはわかる。
温泉にはいって、
酒を飲み、麻雀やゲームをし、
みんなでワイワイ騒ぐ。
これは完全に得意分野。
しかし、
朝になって、
みんながスキー仕度をはじめると、
もう憂鬱。
結局スキー場でも、
ほとんど木の下で座り込んでるから、
やはり寒いのなんの。
したがって、
結婚した最初のお正月(1979年)に、
友人や家内に、
「スキーに行こうよ」
と誘われたときも、
私は全然乗り気ではありませんでした。
「あのさあ、
俺、正月は家でダラダラってのが
一番好きなんだけど…。
コタツに入って、ミカンかなんか食べながら、
テレビでも見るってのが、
好きなんだけど…。」
と、めいっぱいの抵抗。
しかし、
許してもらえない。
仕方なく、
ウエアを買い込み、
靴を買い、
生まれて初めて、
お正月に出かけることになりました。
そしてあの、
運命的な日を迎えることになるのです。
(つづく)
(感想 2007/1/11)
先日の「ALL OF ME CLUB」
にお越しのみなさん、
ありがとうございました。
祝日にもかかわらず、
歌手のみんなもいっぱい来てくれて、
楽しゅうございました。
ま、ほとんどが身内で、
さながら‘新年会’のようでは、
ありましたが。
次回、このトリオ・ライブは、
2/12(月・祝)です。
ん?
また祝日か…。
「セカンド・マンデー」って、
よく祝日と重なりますねえ。
いつから、こうなったの?
SHUN MIYAZUMI
世の中、
ようやく動き出した感じですね。
私も新年早々、
なんだかバタバタ…。
というわけで、
今年最初のエッセイは、
3年前のお正月に書いたやつを、
リニューアル。
「スキーのお話」
です。
2004年01月04日 No.65
私をスキーに連れてかないで
スキーと私。
なんだか全然イメージが湧きませんね。
その通りで、
実は私、
ウインター・スポーツはからきしダメです。
「滑る」という種類のスポーツ・センスは、
まったく体内に持ちあわせていないみたい。
こう見えても、
けっこう運動神経はあるほうで、
子供の頃から、
「駆けっこ」は学年でもトップ・クラス、
球技も、「野球」を除けば、
バスケ、バレー、ドッジ・ボール、
‘なんでもござれ’なのですが、
「滑る」スポーツだけは、
ダメ!
子供のころ、
一度だけ友達のローラー・スケートを
借りて履いてみたところ、
1メートルも進まないうちにスッテンコロリン。
後頭部をしこたま打ちました。
かなりの脳細胞が破壊!?
その後遺症は、
今でも続いています。
したがって、
高校の時、
クラスメートの女の子に、
アイススケートに誘われたときは、
本当に困りました。
悩みに悩んだあげく、
行ってはみたものの、
やはりダメ。
スケート・リンクの塀に手をかけて、
友達が気持ちよさそうに滑ってるのを、
ぼう然と眺めているだけ。
そして、ほとんど動かないから、
寒いのなんの。
あげくの果てに、女の子からは、
「宮住くん、たまには滑ろうよー。
あたしが手を持っててあげるから大丈夫よ。
怖くないから。さあ、ほら!」
「……。」
これでは、
描いていたストーリーとまるで逆ではないか!?
スキーも同様です。
初めてスキー場に行ったのが中3の時。
すごく上手いおじさんが連れてってくれたのですが、
何をやっても転んでばかり。
ボーゲンすらまともにできない。
右からだとうまくターンできるのですが、
左からだとまったくダメ。
したがってS字形に進んでいかないのです。
初めは懇切丁寧に教えてくれてたおじさんも、
イライラしはじめ、
最後はバカにした笑みを浮かべて、
さっさと滑りに行ってしまいました。
社会人になってからも、何回か行きましたが、
やはりダメ。
ただし、あの「アフター・スキー」ってやつは、
楽しいですね。
それだけはわかる。
温泉にはいって、
酒を飲み、麻雀やゲームをし、
みんなでワイワイ騒ぐ。
これは完全に得意分野。
しかし、
朝になって、
みんながスキー仕度をはじめると、
もう憂鬱。
結局スキー場でも、
ほとんど木の下で座り込んでるから、
やはり寒いのなんの。
したがって、
結婚した最初のお正月(1979年)に、
友人や家内に、
「スキーに行こうよ」
と誘われたときも、
私は全然乗り気ではありませんでした。
「あのさあ、
俺、正月は家でダラダラってのが
一番好きなんだけど…。
コタツに入って、ミカンかなんか食べながら、
テレビでも見るってのが、
好きなんだけど…。」
と、めいっぱいの抵抗。
しかし、
許してもらえない。
仕方なく、
ウエアを買い込み、
靴を買い、
生まれて初めて、
お正月に出かけることになりました。
そしてあの、
運命的な日を迎えることになるのです。
(つづく)
(感想 2007/1/11)
先日の「ALL OF ME CLUB」
にお越しのみなさん、
ありがとうございました。
祝日にもかかわらず、
歌手のみんなもいっぱい来てくれて、
楽しゅうございました。
ま、ほとんどが身内で、
さながら‘新年会’のようでは、
ありましたが。
次回、このトリオ・ライブは、
2/12(月・祝)です。
ん?
また祝日か…。
「セカンド・マンデー」って、
よく祝日と重なりますねえ。
いつから、こうなったの?
SHUN MIYAZUMI