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December 24, 2011

ルネ・シマール その3(最終回)


1974年の「第三回東京音楽祭」において、

その美しいボーイ・ソプラノで熱唱し、
見事にグランプリを獲得、
一夜にしてアイドル・スターになってしまった、

カナダの美少年ルネ・シマール君。


さあ、この年の後半から、
翌75年にかけてのルネ旋風は、
それはそれは凄いものでしたね。

デビュー曲の『ミドリ色の屋根』を皮切りに、
リリースするシングルやアルバムはみな、
オリコン・チャートの上位にランク。


そして、そのプロモーションのために来日すると、

どこで嗅ぎつけたのか、
宿泊先のホテルや、はたまたアルファのビルの前までも、
小さな女の子たちが大勢待ち受けていて、

さながらビートルズやベイ・シティ・ローラーズの如く、
キャーキャーと大騒ぎ。

「ルネ〜〜」「ルネ〜〜」「ルネ〜〜〜〜」

「……。」



ところが…、

1975年の後半になると、

早くも、その人気に翳(かげ)りが出て来ました。


無理もありません。

常に日本にいるアイドルたちと違って、
彼はカナダに住んでいるのですから。


アイドルというのは、
一度売れたら、テレビやラジオ、
あるいは芸能雑誌や新聞など、
とにかくメディアに出続けなければなりません。

(そう、出続けること)

でないと、すぐに忘れられたり、
次々と現れる他のアイドルに、
その人気を奪われてしまいます。


でも、ルネの場合には、それが不可能です。

日本人アイドルと比べたら絶対的に不利です。


「このままルネは終わってしまうのか…」

アルファ上層部は頭を抱える。

……。


と、そんな時、

素晴らしい企画が舞い込んで来たのです!

♡♡♡



翌1976年には、

カナダのモントリオールで、
オリンピックが開催されます。

その主題歌を、
ルネが歌うことが決まったというのです。


これはナイスな企画ですね。

打つ手がなくなっていたCBSソニーも、
これには大乗り。


で、これは私が担当することになりました。

曲は村井さん自らが書く。


いい曲でしたよ。

「Welcome to Montreal ♪
 Welcome to Montreal ♪ 〜〜」


今でもこの部分だけは口ずさむことができます。

スポーツの祭典にふさわしい、
明るく、力強い感動をもった曲でした。

それにふさわしい荘厳なオケも出来上がりました。


タイトルは『モントリオール賛歌』!!

(だったかな…?)


ま、いずれにしろ、この曲をルネが、
あの張りのある美しい声で歌ったら、
大ヒット間違いなし!

誰もがそう信じて疑いませんでした。



歌入れ録音はカナダで。

そしてこれには、
CBSソニーの金塚さんという女性ディレクターに、
立ち会ってもらいました。


その数日後、彼女は帰国。

そして、アルファのスタジオで、
「みんなで出来上がった音を聴きましょう。」
ということになりました。

わくわくですねえ。

ワクワクワクワク。

♪♪♪



ところが…、


「ん…? なにこれ…?」

「こ、これ、ルネなの…?」

「これは誰…?」



そうなんです。

スピーカーから流れて来る声は、
およそルネの美声とはかけ離れた、
ダミ声の、しかも全く “少年の声” ではない。

「……???」


すると、金塚さんが、

うつむき加減で、
元気のない声で、
こう言ったのです。


「変声期なんですよ…。」

「……。」



ああ、これでは発売中止もやむをえませんね。

そして、日本における「ルネ・プロジェクト」も、
もはやここまでということになってしまいました。

残念ながら…。

……。


そう、少年にはこれがあったんですね。

私はこの時、
ウィーン少年合唱団を描いた映画、
「青きドナウ」というのを思い出しました。

あそこも、変声期を迎えた少年は、
退団しなければならないんですね。

非情だ…。

ううむ…。

……。



それから7、8年が経ちました。

私がアルファを辞めたのが1984年ですから、
その少し前のことです。


あのルネに、
ナタリーという妹がいて、
これが、風貌といい、声といい、歌唱力といい、

当時のルネにソックリだというのです。


そしてアルファは、

再び『東京音楽祭』を舞台にして、
「夢よもう一度作戦」を展開することになりました。

これも私が担当することに…。


これが、そのときに作ったシングル盤です。

ね、そっくりでしょ、ルネに。

声もそっくりだし、歌もうまかったんですよ。

スキャン 6


しかし残念ながら、

今回はなにも起こりませんでした。

世の中、そんなに甘くはないということでしょうか…。

……。



最後に、そのときのエピソードをひとつ。


ナタリーが来日するとすぐ、
私は彼女をアルファの会議室に呼んで、
ミーティングを持つことにしました。


出席したのは、

村井社長の秘書でフランス語の堪能なE女史、
そして現場でフランス語の通訳をお願いする女性、

それに、ナタリーのマネージャーらしき青年、
そして、ナタリーと私の5人。


ここで私は、

明日からのスケジュール、
レコーディング楽曲、
東京音楽祭での段取りなど、
細部にわたって丁寧に説明をしていきます。

それを、通訳の女性が、
マネージャーらしき青年に伝え、
さらにその青年が、子供のナタリーに、
もっとわかりやすいように説明していく。

とまあ、こんな感じで進められていきました。


そして1時間あまり。

ミーティングもつつがなく終わり、
「さあ、明日からがんばりましょう。」
ということで散会。


そして私は、
そのマネージャーらしき青年と初めて握手。

青いジャンパーを着た、
どちらかというと目立たない地味な感じの青年です。


私は彼に、こう尋ねました。

「ところで、あなた、お名前は…?」


すると彼は、ニコッと笑ってこう答えたのです。


「ルネです。お忘れですか…?」


「……。」



(おわり)




12/22、23「@恵比寿ガーデン・ホール」における、

ジャミン・ゼブ『X'mas Fantasy 2011』
も、つつがなく終えることができました。


メンバーの思い、スタッフの思い、
そして、みなさんの思いがひとつになった、
心暖まる素晴らしいライブだったように思います。

本当にありがとうございました。


さ、明日は、山形の「あつみ温泉」で、
今年最後のライブです。

なんだか今年も大雪みたいですね。

でも、どんな手段を使っても行きますよー。

みなさん待ってて下さいね。


それが終わると、

27日(火)は「A'TRAIN」で、
今年最後の私のピアノ・ライブ。

今月は変則開催ですので、
くれぐれもお間違えのなきように。


気がついたら…、


今年も、あとわずか…、


か…。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 16:52|この記事のURLComments(18)TrackBack(0)

December 17, 2011

ルネ・シマール その2


「東京音楽祭」か…。

なつかしいですねえ。


その年の国内外のトップ・アーティストたちが、
東京は『日本武道館』に一堂に集まり、
最も優れた楽曲とパフォーマンスを競うという、

なんとも絢爛豪華で贅沢なイベントでした。


その当時、

「テレビ音楽業界のドン」と畏(おそ)れられていた、
TBSの大プロデューサー渡辺正文さんが提唱し、
1972年に始まった音楽祭で、
その第一回のグランプリは、
雪村いづみさんの歌った「私は泣かない」という曲。

聞くところによると、
これもアルファが絡んでいたそうです。


私がアルファに入社した1974年の第三回からは、
急激にその規模も巨大になり、
世の注目を浴びるようになったようです。


しかも、この年は、
スリー・ディグリーズという大物が、
「天使のささやき」という楽曲でエントリー。

また、特別ゲストに、
フランク・シナトラが参加するということもあって、
外国の音楽メディアもどっちゃり来日。

そして日本からは、
布施明、五木ひろし、ザ・ピーナッツ、
といった人気歌手たちが本戦出場。

いやあ、まさにお祭りムード一色です。


「ドン渡辺の春、ここに来たれり」という感じですかね。

(ここだけの話ですが…、
 この渡辺プロデューサーという人ね…、
 怒るとね…、
 ギョロ〜っと凄い目をひんむいて、
 あたりかまわず大声で恫喝するんです。

 恰幅もよく、
 まるで映画『ゴッド・ファーザー』の、
 ドン・コルレオーネみたい。

 だからアダ名は “ギョロなべ” と裏では囁かれている。
 いやあホント、恐かったですよ、怒らせるとね。

 だけど…、頭は…、ヅラ…。)


わ〜っ、言っちゃった。

どうしよう、どうしよう…。

……。。。


ま、いいか。

どうせ天国までは聞こえまい。

それに私、けっこう可愛がられてたし。

あははは。



というわけで、

この年のグランプリの本命は、
なんといってもスリー・ディグリーズです。

ま、今の言葉でいうところのガチ。

ガチもガチ。
ガチガチの大本命。


だから…、

各レコード会社は、
グランプリは早々にあきらめ、
それに続く金賞、銀賞狙いで、
様々なプロモーションや審査員対策に奔走。

とまあ、そんな感じだったようです。

……。



ところが…、

わがアルファがエントリーした、
カナダの無名の少年ルネ君が、
予想を大幅に覆(くつがえ)して、

なんと、グランプリを獲得してしまった!


そして表彰式で、

フランク・シナトラさんから、
グランプリのトロフィーを渡されると、
その愛らしいお目目からは大粒の涙がポロリ。。。


「わ〜〜〜〜〜〜〜っ。」

またまた場内、割れんばかりの大拍手。


でも、なにはともあれ、
これから私がお世話になる会社にとっては、
最高の結果になったわけですから、

よかった、よかったです。

めでたし、めでたしです。

うんうん。

♡♡♡



というわけで翌朝、

鼻歌なんぞ歌いながらお気楽気分で出社してみると…、


と……、


これが大変なことになっていました。

……。



とにかく、会社中の電話という電話が、

鳴りっぱなしなのです。


そして私より早く出社していた先輩たちが、

汗だくになって電話を取って応対しています。

(何ごとなの…?)


すると総務のS課長が大声で、

「宮住くん、何をモタモタしてるんだ!
 早く君も電話を取ってくれよ。
 もう朝から大変なんだから。」

「……???」



で、仕方なく私も1本の電話を取る。

「はい、アルファ&アソシエイツです。」


すると電話の向こうから、
小学生か、はたまた幼稚園かと思(おぼ)しき、
可愛らしい女の子の声で、

「ルネいますか〜。」

「……。」


私は、仕方なくこう答える。

「ル、ルネはここにはいないんですよ〜。」


すると、その女の子も負けてはいない。

「じゃあ、ルネはどこにいますか〜。」

「……。」


そんな間にも、
デスクの上の電話という電話は鳴りっぱなし。

リ〜ン、リ〜〜ン、リ〜〜〜〜ン、リ〜〜〜〜〜〜ン。

リ〜ン、リ〜〜ン、リ〜〜〜〜ン、リ〜〜〜〜〜〜ン。

リ〜ン、リ〜〜ン、リ〜〜〜〜ン、リ〜〜〜〜〜〜ン。


「あのお、ちょっと待っててね、
 別の電話も鳴りっぱなしだからね。
 はい、アルファ&アソシエイツです。」

と、また別の電話を取ってみると、
これまた女の子の声で、

「あの〜、ルネは今何してますか〜。」

「あのねえ、ルネはここにはいないんですよ。」

「じゃあ、どこにいるんですかあ?」

「……。」



そして、どの社員もみな、

同じような受け答えで苦闘しているのでした。


総務のS課長も、Mさんも、T女史も、
社長秘書のE女史も、
制作のA課長も、N君も、S君も、
ディレクターのAさんも、Kさんも、
録音課のY課長も、Sさんも、K君も、

みんなみんな、

「ルネは、今ここにはいませんよ〜。」
の応対に大わらわ。



そうなんです!

これはもう「パニック」といって差し支えありません!!


なにしろ取る電話、取る電話、みな、

「ルネ」「ルネ」「ルネ」「ルネ」「ルネ」……。


キャ〜〜ッ、助けてくれ〜〜〜。

(だめ)



で、学校が昼休み時間になると、
そのパニックはさらに凄いものになりました。

今のように携帯電話の無い時代ですから、
みんな学校の近くの、
公衆電話からかけてくるんでしょうか…。

「ルネは何が好きですか〜。」

「ルネは今、何食べてますか〜。」

「ルネは今日何時に起きましたか〜。」

「ルネの好きな食べ物はなんですか〜。」

「ルネの好きな番組はなんですか〜。」



あのね!

いい加減にしなさい!


と言いたいところですが、、、

彼女たちに情けは無い。

……。


次から次へと情け容赦なく襲って来る電話の嵐。

(す、すごい…。)



ひどいのになると、

「あの〜、ルネと代わってください。」

「…‥…。」


あのね、

あーた、フランス語しゃべれんの?


そう、カナダといっても、
ルネの住むケベック州はフランス語圏なのです。

もう、この大胆さといったら…。

……。



そんな中、
またしても電話を取ると、

「バカヤロー、お前の会社はどうなってんだー!
 朝から全然電話が繋がらないじゃないか!
 いいかげんにしろ!!!」

「あー、やっと繋がった。
 いったいアルファはどうなってんのよ。
 例の件はどうなってんのよ。えっ。
 ちょっと村井社長に代わりなさい。
 えっ?いない?
 バカヤローーーー!!!!」


たまに、繋がった仕事の相手先からは、

こんなお叱りを受けるありさま。

なにしろ携帯の無い時代ですからねえ。

……。



こうして、

この日のアルファ・スタッフは夜遅くまで、

誰一人まともに仕事をさせてもらえず、

食事にも行けず、


ヘロヘロになるまで、一日中、

少女たちのお相手をさせられたのでした。


あ〜あ…。

……。



もしも、これを読んでる女史のなかで、

あの時、アルファに電話した覚えのある方は、

大いに反省しましょうね。


私たちは、

まるで仕事にならなかったのですからね…。

(ブツブツ…)

……。



というわけで、

大学を卒業して音楽業界に入ったばかりの私は、

このとき…、


“一夜にして生まれるアイドル・スター” の凄まじさを、


嫌(いや)というほど思い知らされたのでした。


ふ〜…。


……。



(つづく)




ああ、やっと更新できました。

事故もあったし…。


でも、おかげさまでこの2週間、
最高に充実した日々を送らせていただきました。

名古屋地区では、
たくさんの新しいお客さんとの出会い。

久しぶりの手羽先ちゃんとの出会い。
(また30本食ったぞ〜。わははは。)


さらに、一昨日、昨日は、
これまた本当に久しぶりに、
関東圏のジャミン・ファンのみなさんに、
お目にかかることが出来ました。

至福のひとときでした。


感謝…。

……。



そして、

いよいよ、

12/22、23日「@恵比寿ガーデン・ホール」

『X'mas Fantasy 2011』が迫ってきましたね。


いろんなことがあった、
いろんなことが “ありすぎた” 2011年を、
最高の形で締めくくりたいと思っています。

ジャミンと私たちスタッフの今年の総決算です。


みなさん、来て下さいね。

感動の一夜(二夜?)をご一緒しましょう!


というわけで今宵は、

久しぶりに吠えたいと思います。

月に向かって…。


ガオ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!


(お前はオオカミか…)


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 20:58|この記事のURLComments(6)TrackBack(0)

December 04, 2011

ルネ・シマール


あれは、1974年の3月だったでしょうか…。


卒業も決まり、
4月からは「アルファ&アソシエイツ」という、
レコード制作会社に就職の決まっていた私は、

これといって刺激的なこともなく、
昼寝をしたり、鼻毛を抜いたりと、

まあ、なんとも退屈な日々を送っておりました。


そんな時、

そのアルファの社長でもあり、

「翼をください」(赤い鳥)や、
「ある日突然」(トワ・エ・モア)など、
数々のヒット曲でも有名な作曲家の村井邦彦さんから、

「ちょっとしたデモ・テープを作るから、
 ピアノを弾いてくんない?」
という電話をもらいました。



呼ばれたのは、

ちょうど卒業コンサートを終えたばかりの、
私が所属していたサークル、
「K大ライト・ミュージック・ソサエティ」の、
レギュラー・リズム・セクションの面々。

ドラムがS君(4年)
ギターがA野君(2年)
(かつて「犬猿の仲」というエッセイにも登場)
ベースは今も私の相棒、エディ河野(4年)
そしてピアノが私(4年)

というメンバーでした。


場所は、芝浦にあった「STUDIO ’A’」

真新しい、とても立派なレコーディング・スタジオで、
新進気鋭のアルファの「ホーム・グラウンド」
とも言うべきスタジオなんだそうです。


ということで、

「ま、他にやることもないし、
 暇つぶしに行ってみるか〜。」

とまあ、お気楽な気分で出かけて行った私。


もちろん、

この後(のち)、このスタジオで、
数々のレコード制作をやることになろうとは、

この時の私は知る由もありません。

……。



さて、スタジオに入った私たちは、
1枚の譜面を渡される。

そこには、こう書いてありました。

『ミドリ色の屋根』
(詞:さいとう大三 曲:村井邦彦)


そして、そこには私たちの他に、
この曲を歌う一人の女性シンガーもいました。

そして、レコーディングが始まる。

♪♪



いやあ、いい曲ですねえ〜。

両親の別離に胸を痛めた、いたいけな少年が、
一生懸命ママを励ますという歌のようです。

「泣かないで〜、僕がそばにいるから〜♪」


私は心をこめて弾く。

なんともいい気分で弾かせてもらう。

ルンルン。


何故ならば、

その時、ヘッドフォンを通して聞こえて来る、
その女性シンガーの声と歌唱力が、
なんとも素晴らしいから。

♪♪♪



で、あとからわかったことですが、

その女性シンガーは、
「赤い鳥」のメンバーで、
後の「ハイ・ファイ・セット」のリード・ヴォーカル、

山本潤子さんでした。

(そりゃうまいわけだ)



さて、レコーディングも順調に終わり、
コントロール・ルームに戻ると、
社長の村井さんが何人かのスタッフに、
きめ細かく指示を与えておりました。

「○○君、すぐにこの音を音楽祭事務局に届けるように。」

「△△さんは、譜面と一緒にカナダに送ってね。」

「□□君は、CBSソニーに連絡するように、頼むよ。」



と、どうやらこれはあくまでデモ・テープで、
実際に歌うのは、

ルネ・シマールという、
10才にも満たないカナダの少年なんだそう…。

そして、6月に行われる、
TBS「東京音楽祭」というビッグ・イベントに、
エントリーするんだそうです。


それにしても…、

デモ・テープごときに、
天下の「赤い鳥」の山本潤子さんを使うなんて、
なんとも凄いファミリーなんだなあ、
アルファって…。


私は、ちょっと身震いがするような思いでした。


(へ〜、俺、こんな会社に入るんだ…?)

……。




その翌月の4月に、私はアルファに入るわけですが、

そのときはまだ小さな原盤制作会社。


ユーミンのデビュー・アルバム「ひこうき雲」も、

まだ全然陽の目を浴びず、
サンプル盤がどっちゃりと、
オフィスに山積みされていましたね。


その後ヒットが繋がって、
「アルファ・レコード」
というレコード会社に昇格するものの、

このときのアルファは、
まさに手作り、手探りで、
新しい音楽作りに励んでおりました。


6月の「東京音楽祭」をめざして作られた、
このルネ(ルネ・シマール)のシングル盤も、

当時アイドルを売るのに絶対的な力を持っていた、
CBSソニー(現ソニー・ミュージック)で、
販売してもらうことになっていました。


スキャン 5

(左上にCBS SONYのロゴ、右下にALFAのロゴ。
 なつかしい…。)


そして、

いよいよ「東京音楽祭」(@日本武道館)が始まります。


駆け出しの私は、
現場には連れて行ってもらえず、
自宅のテレビで応援です。

TBSの放送を食い入るように見ていた私は、
その出演者の顔ぶれの凄さに仰天!


そしてグランプリの大本命は、
スリー・ディグリーズ「天使のささやき」。

カナダの無名の少年ルネなんて、
無印もいいところです。

(こりゃ、小さな敢闘賞あたりが関の山だな…)



が…、


が……、、


が〜〜〜〜〜〜〜〜、、、


(ん?)


このルネ君、

小さい頃から聖歌隊で鍛えた美しいボーイ・ソプラノで、
日本語の歌詞もなんら問題なく、
実に堂々と歌いきったではありませんか。

場内、もう割れんばかりの拍手です。


そして…、

なんと…、

大番狂わせもいいところの…、


グランプリまで取ってしまったのです!!


(へ〜、やったじゃないか〜…)



でもまあ、入社して早々、

これはめでたい出来事ではありませんか。


しかも、そのデモ・テープ制作に、

この私もひと役買っているのだ。

私の将来も明るいかもしれない。

うんうん…。


(ん…?)



そして翌朝、


いつものようにお気楽気分で会社に行った私ですが、



なんと…、


これが…、


大変なことになっていたのです。


……。



(つづく)




テレビといえば、

12/2の生放送、
NHK「〜震災に負けない〜お元気ですか日本列島」
に出演した、わがジャミン・ゼブ。

震災からうまれたオリジナル曲『Rise』を、
これまた見事に歌ってくれましたね。


私は別のスタジオで、
編集の仕事をしていたのですが、
この時だけは作業を中断して、
ワンセグ携帯で見させてもらいました。

NHKスタッフのみなさんの中には、
徹夜であのセットを作って下さったり、
CGの制作をして下さったり、
大変なご苦労があったと聞きました。


「少しでも、被災地のみなさんに、
 喜んでもらいたい。」

そんな、心のこもった、
素晴らしい番組でしたね。

みなさん、ありがとうございました。

……。



それにしても…、

見てる方も緊張しましたわ〜い。


でも、無事に大役がはたせてよかったです…。


だから今日は、

ホッとひと息の休日でした。


昼寝をしたり、鼻毛を抜いたり、

のんびり過ごさせていただきました。

(何年経っても、変わらんのぉ〜)


あ〜あ、

でも、もう終わりか、お休み…。


(何を言うか、これからが佳境だろ12月は!)


おっと、そうか…。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 17:12|この記事のURLComments(26)TrackBack(0)

February 05, 2011

深町純さんの思い出 その3 最終回


『私と映画音楽 火の鳥』(2006年エッセイ)
というお話を覚えてらっしゃいますか。


市川崑監督の実写による映画(手塚治虫・原作)に、
アルファが莫大な投資をし、
あまりのひどい出来栄えに映画は大コケしてしまった…。

そんな顛末のお話でしたね。


でも、音楽は素晴らしかったのです。

深町純さん作曲、
新日本フィル・ハーモニー管弦楽団演奏による、
50分にも及ぶ音楽は、

まさに、
ショスタコーヴィッチのシンフォニーを彷彿とさせる、
雄大な渾身の力作。

改めて彼の才能を見せてもらった感じがしました。


なのに…、

映像の編集に時間がかかりすぎて、
その素晴らしい音楽は、
ほとんど適正に使われることなく、
付け焼き刃程度の扱いでしかなかった…。

怒り狂った深町さんは、
試写会の途中で憤然と席を立つ。

……。


ま、そんな苦々しい思い出話だったのですが、

興味のある方は、
ぜひ今一度読んでみてください。



そのレコーディング時に、
こんな、面白い(?)、エピソードがありましたよ。


快調に進んでいた録音が、
ある場面までやってきたときに、
突然深町さんが、

「ちょっと止めて。今、変な音がしたよ。
 ちょっとチェックしてくれる?」

と、不機嫌な様子でストップをかけた。


「すみません、今のところ、
 もう一度演奏してみて下さい。」

と私が、仕方なく指揮者に要請をする。

もう一度演奏が始まる。


すると…、

やはり同じところで深町さんが、

「ほら、そこだよ。やっぱり変な音がしたよ。
 シュン坊も、聞こえただろ。
 ね、ね、おかしいよ、その音は。
 僕はそんな音書いてないよ。」

と、私にスコア(総譜)を見せて、
どうしても引き下がろうとしない。



時間も迫ってるし、

ま、確かにそこだけは、
ちょっと違和感のあるハーモニーではあるものの、
たった1音だし、一瞬にして通り過ぎるし…、

「別にいいじゃないの、先に行きましょうよ。」
と私は深町さんに妥協を促すのですが…、

やはり芸術家なんですね、彼。


そういう時だけは、

絶対に譲ろうとしません。


あたりまえか…。



で、仕方なくその部分を、
何度も演奏してもらうのですが、
やはり同じ事の繰り返し。

(ううむ…。困った。一体なにが起きてるのだ…?)


そのうち、新日フィルの面々や指揮者も、
しだいに不機嫌になってきてるのが、
手に取るようにわかる。

ううむ…。



そして、

深町さんのご機嫌ナナメは最高潮に達し、

スタジオ中が、いや~な空気に包まれる。


私も、ダダっ子のような “先生” が面倒くさくなって、

ついに、こんなセリフを吐いてしまいました。

「いいじゃないか、書いたと思えば。」



すると…、

深町さん…、


怒ったのなんの。


顔を真っ赤にして、

「き、きみ、な、なんてことを…。
 ぼ、ぼくの芸術に対して、
 し、し、失礼じゃないか。ぶつぶつ…。」



あははは。

自分こそ、普段から、
人に向かって失礼なことを、
ぬけしゃあしゃあと言いまくってるくせに…。

と、可笑しくなって、
もっとからかってやろうかと思ったのですが、

可哀想なのでやめました。



で、仕方なく私は、

その部分のスコアを彼から借りて、
スタジオの中に入り、
各パートの譜面と見比べる作業を始めました。

怒った深町さんは、
プイッと、どこかに消えてしまったので…。

(もう、子供みたいなんだから…。)



おそらく、

第二ヴァイオリンかヴィオラあたりに、
その変な音がありそうだ、
と睨(にら)んだ私は、

入念な検証の結果、
ついに、その謎を発見しました。



なんと…、

ヴィオラの、ある小節で、

確かに、

スコアにはない音が書かれてあったのです。


しかし…、

よ~く見てみると…、

それは…、


書かれたのではなく…、


写譜屋さんがこぼしたインクが、

見事に五線紙の上に、

さも、音のようにポトリと落ちて、

音符のオタマジャクシのような形になっていたのです。


あはは。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

(これ、久しぶりだな)



こんなこともあるんですねえ。


なつかしい思い出です。

……。


♪♪♪




さて、私がアルファを辞めてフリーになったのが、

1983年のこと。


このときの詳しいいきさつは、

『夏の6週間』(2009年エッセイ)
というお話の冒頭で書きました。


それから20年という月日が流れました。


深町さんとのお仕事も、
フリーになってからは、
まったく縁が無くなってしまいました。


とある音楽大学の教授になった、

という噂は聞いておりましたが…。

……。



そんな深町さんと、

7、8年前のこと。


中目黒のトンカツ屋でバッタリ再会しました。


素敵な女性とご一緒でしたね。

うふふ。


そのときの会話。


ふ「おや、シュン坊、お久しぶり。
  ずいぶん老けたねえ。」

(しまった、先に言われたか…)


み「あんただって、髪の毛真っ白になっちゃって…。
  人のこと言えないでしょ。」

ふ「ガハハハハ。」

(相変わらず、余裕だなあ…)


み「そうだ! 今、大学の先生やってんだって?」

ふ「あっ、君は情報が遅いねえ。
  そんなの、もう、とっくにクビになったよ。
  ガハハハハ。」

(何えばってんだろ…?)


み「なんでさ?」

ふ「まいったなあ。
  君は何にも知らないんだなあ。
  ほら、あれで、あれやってて、あれ吸ってて、バレて、
  逮捕されたのさ。
  ガハハハハハ。」

(いつかはそうなると思ってたけど…)


み「また~?」

ふ「「また~?」って、失礼だなあ、相変わらず君は、
  僕は初犯だよ、初犯。
  ガハハハハ。」

(笑ってる場合か…)


み「じゃ、今何やってんの?」

ふ「なあ~んにも…。
  仕事なんか何にもないさ。
  ガハハハハハハ。」

(なんだなんだ、この開き直りは…)


私は思わず、隣の女性に言ってやりました。

み「ねえ、こんな男の、どこがいいんですか…?」


すると深町さん。

ふ「ガハハハハハハ。
  君のような凡人には、わからないんだよ。
  僕という人間の底知れぬ魅力がね。
  ガハハハハハハハハハハハハ。」

み「……。」



とまあ、相変わらずの怪気炎でした。

後ろめたさなんか、

これっぽっちも感じさせませんでした。


良い子のみなさんは、
絶対に真似してはいけないところも、
いっぱいありましたが、

この自信、強気こそが、

良くも悪くも彼の魅力…。


私は、そんな彼が、けっこう好きでしたね。


♫♫♫




そして2年前のこと。


この頃は、

祐天寺で、

ライブ・ハウスのオーナーをやってると聞きました。


そんな深町さんが、

月に一回の学芸大「A'TRAIN」の私のライブに、

突然乱入してきました。


せっかくなので1曲演奏してもらったのですが、

相変わらずの深町タッチでしたね。


決してジャズでもなく、

アドリブをするでもなく、

強烈な打楽器のようなリズムを、

ガンガン弾いてただけの演奏でしたが、


これが、あの深町さんなんですから。


「相変わらずの迫力だなあ…。」

と、懐かしく聴いておりましたね…。

……。




そうこうするうちに、

ふ「さ、そろそろ店に戻ろう。
  シュン坊、楽しかったよ。」

と席を立つ深町さん。


私は、表まで送って行きました。


ふ「シュン坊、ぜひ今度、僕の店にも、
  遊びにおいでよ。」

み「うん。一度行かなくちゃと思ってたんだ。
  近いうちに絶対行くね。」

ふ「ああ、待ってるよ。
  じゃあね。」


そして、握手をして、

サヨナラしたのですが、

いい笑顔をしておりましたね。


そして…、


それが…、


最後になってしまいました…。


……。




湿(しめ)っぽい哀悼の表現を、

彼は嫌うでしょうから、

こんな形で回想してみましたが、


やはり、

寂しいですね…。

……。



もっとも、

当のご本人はあの世で、

先に逝ったギターの大村憲司君らと、

楽しくセッションでもやっているのでしょうか…。


きっと、そうなんだろうな…。


ね、深町さん。

……。



バイバイ…。

Scan

合掌。



(おわり)





ノロ・ウィルスのお次は、

左膝の関節痛で苦しんでおります、私…。


病院で診てもらったら、

年齢からくる、

軟骨の状態の変化がもたらすんだそうです。


病院でもらった「痛み止め」の薬と、

薬局で買った「コンドロイチン」とかいう薬と、

「これも効きますよ」という漢方の薬と、

毎日飲んでるのですが、


一向に良くなりません。


トイレに行くのも一苦労の哀れさです。



あ~あ…。


還暦を前にこの試練…。


……。



そんなのイヤ~~ン。



トホホ…。


しゅん…。


がぉ…。



明日こそ…、


書こ…。


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 20:23|この記事のURLComments(20)TrackBack(0)

January 30, 2011

深町純さんの思い出 その2


1978年という年は、

よくよくアルファにとって意味のある年だったようです。


昨年末、このブログで6回にわたって連載した、
「トミー・リピューマ」というシリーズでは、

この年、新宿紀伊国屋ホールで行われた、
『アルファ・フュージョン・フェスティバル』で、
「フュージョン」という音楽を売り出しにかかる。

その中から、
「YMO」というバンドが世界進出の足がかりを作る。


そんなことを延々とお話しました。

(うんうん…)


「カシオペア」という若いバンドも、
デビューに向けて、
毎日レコーディングに明け暮れておりました。

(そうだった、そうだった…)


そういえば、私が結婚したのもこの年でした。

(関係ないだろ)



ま、ある意味、

アルファが最も輝き始めていたのが、


この1978年だったのかもしれませんね。


♪♪♪




そんな1978年の春、深町純さんは、

アルファから大変な名盤を世に送り出しました。


『On The Move』

4109070516


2009年に、ようやくCDで再発され、
伝説の名盤として、フュージョン・ファンの間では、
大いに話題になっているようですが、

CD化が遅すぎましたね。

でもまあ、けっこうなこと…。

……。



いやあ、

ニューヨークから帰って来たばかりの深町さんから、
このアルバムのラフ・ミックスを聞かされたときは、
本当に驚きました。

スティーヴ・ガッド(ドラム)
ウィル・リー、アンソニー・ジャクソン(ベース)
リチャード・ティー(ピアノ)
ランディ・ブレッカー(トランペット)
マイケル・ブレッカー(テナー・サックス)
デヴィッド・サンボーン(アルト・サックス)
etc.etc.



キラ星のごときスター・プレイヤーたちの、
素晴らしい演奏にも目を見張らされましたが、

何よりも、
そこに収められた楽曲とアレンジには、
本当に感心してしまいました。


私も当時、ニューヨークには、
毎年のように行っておりましたが、

そんなニューヨークという街の雰囲気を、
これほどまで見事に表現したアルバムを、

私はそれまで知りませんでしたから…。



ケネディ空港に降り立ったときのワクワクするような気分、
マンハッタンの雑踏、おびただしい人種の群れ、
世界最先端のファッション、高級ブランド店、
有名レストラン、バー、ディスコ、車のクラクション、
忙しく街を闊歩するサラリーマンやOL、
夕暮れどきの美しいセントラル・パークetc.

いやあ、実に見事に描ききっています。



決して才能を見くびっていたわけではありませんが、

どちらかというと「過激でエキセントリックな音楽家」
というイメージでしたから、
こんなメロディアスな一面も持っていたのかと、
私は彼を見直してしまいました。


「深町さんて、意外とロマンチックな人だったんですね。
 アハハハ。」

「やっと分かったか、遅いよ君。
 ガハハハハハハ。」

(それを言わなきゃいいのに…)



もっとも最終的には、
硬質で過激なマスタリングをやっちゃったため、
(当時はカッティングと言いましたが…)

高音ばかりが耳につく、Hi(ハイ)上がりの、
ちょっと薄っぺらい仕上がりになってしまった…。

ラフの方が、中低音がふくよかで、
ずっといい音していたと、
私はちょっぴり残念な思いでした…。


だから私は文句を言う。

「なんで、あんなペチャペチャな音にすんのさ。
 せっかくいい音で録れてるのに、もったいない。
 ぶつぶつ…。」


すると深町さん、
それがどうしたとばかりに胸を張って、

「俺の音楽なんだから、
 俺が好きなようにやったっていいだろ。ふん。」

と居直る。

(本当は後悔してるくせに…)



ま、でも、それが深町さんなんですよ。

やっぱり過激派なんですね。


ガハハハ。


♪♪♪




さて、そんな名盤が出来たんだから、

じゃあ、これを日本でもお披露目しようじゃないか、

ということで企画されたのが、


『深町純&ニューヨーク・オールスターズ・ライブ』

_SL500_AA300_


はい。この2枚組も今や伝説となっております。


いやあ、すごいライブでした。

前述したスター・プレイヤーたちが、
4日間にわたって毎夜毎夜繰り広げる、
世界最高レベルの演奏の数々は、

今思い出しても、
鳥肌もんの凄(すさ)まじさでしたね。


このライブ・レコーディングから仕上げまでは、
私が担当しました。



で…、

このライブが行われた会場というのが、

今考えるとケッサクもケッサクなんですよ。


なんと…、

プロレスやボクシングの “メッカ”

『後楽園ホール』だったのです。


ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!

(最終日だけは「郵便貯金ホール」)


楽屋は、
普段はプロレスラーやボクサーたちの控え室…。

あちこちの壁には、
戦いの後の血がべっとり…。

……。



そんな中でのライブ・レコーディング。


ま、この話をはじめたら、
1年中書いてなきゃいけなくなるので、
興味のある方はCDを聞いていただくとして、

その中から一つだけ、
印象的なお話をしておきましょう。


最後の「Love Play」(だったかな…)と言う曲で、

世界最高のドラマー、
スティーヴ・ガッド氏が、
延々と10分以上にも及ぶドラム・ソロを聞かせます。


で、最後の方で、
ものすごいテクニカルな部分が延々と続く。

スネアもハイ・ハットもタムタムもシンバルも、
神業のような音数とスピードで圧倒する。

もうもう十手観音のごとき神業…。


だから当然のように、
客席は興奮につつまれて大拍手、大歓声。

わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?!?



でもね…、

じつはドラマーでもある、
Y浅ショージくんは、
こんな質問をしてきました。

「宮住さん、確かにあのガッドのドラムはすごいけど、
 拍手が起こるほどですかねえ…?
 山木(秀夫)さんや、神保(彰)さんでも、
 あのくらいは楽に叩けると思うんですけど…。」



でしょうね。

あの場にいなくて、
レコードの音だけを聴いていたら、
そうした疑問が起きても不思議ではありません。


でも、私は見たのです。


あのとき、

スティーブ・ガッドは、

右手を高々と上にあげ、


左手だけで、あのソロを叩いていたのです。


……。




そんな、キラ星のようなプレイヤーたちが輝いてた時代。


アルファがますます輝きを増していた時代。



深町純さんにとっても、


一番輝いてた時代かもしれません…。


……。




(つづく)





えっ、もう1月も終わりなんですか…?


ついこの間、

お正月を迎えたばかりだというのに…。

時間が過ぎるの早すぎませんか…?


今、自分が一番言いたいことです。

(これ流行りそうだな…)



いずれにせよ、

社長業や雑務に追われて、

まだ1曲も書いてませんよ…。


年が明けてから。



ううむ…。

いかん…。

あせって来た…。


明日から隠(こも)らないと…。


2月が勝負だな…。


でも、飲みたいしな…。


……。



SHUN MIYAZUMI

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January 23, 2011

深町純さんの思い出


年末のこと。


「ピアノに生きピアノに死す
   ~深町純メモリアル~」(TOKYO FM)

という1時間番組がオン・エアーされました。


昨年末、64才という若さでお亡くなりになった、
作・編曲家でキーボード奏者の、
深町純さんを偲ぶ特集番組でした。

お聞きになった方、いらっしゃいますかね…。


井上陽水、小柳ゆき、森雪之丞、和田アキラといった、
生前彼と親しかった人たちの思い出話を交えながら、
彼の残した数々の作品を聴く、

といった内容の番組だったのですが、

この私にもお声がかかり、
少しだけですが参加して、お話させてもらいました。


なにしろこの私、

年末は、ものすごい忙しさで、
残念ながら、
お葬式に参列することもできませんでしたから…。


「シュン坊、冷たいなあ。ガハハハ。」

と、例によって明るい笑い声と共に、
あの世から、
声が聞こえてくるような気はしていましたが…。

……。



なので今日は、

私なりに、ゆっくり故人を偲んでみようかなと思います。

ラジオではしゃべれないことを中心に。

(ガハハハ)


♪♪♪




さて、そんな深町純さんは、

東京芸術大学作曲科の出身。

(待てよ、中退だったかな…。)



いずれにせよ、

当時、クラシック至上主義の「芸大」から、
こっちの世界(ポップスやジャズ)に来る人は、
本当に珍しく、

よっぽどの変わり者じゃないか、
いや、ひょっとすると落ちこぼれかも、
というのが世間一般の評価でしたかね。


その後、坂本(龍一)君が続き、
今では珍しくも何ともなくなりましたが、

当時では、本当に珍しいことでした。



でも、これが、
新し物好き、変わり者大好きのアルファの目にとまり、

私が入社した1974年あたりには、
新進気鋭の編曲家、キーボード奏者として、
「ガロ」をはじめとする、
いろんなアルファのセッションに参加していました。



で、ケッサクだったのが、

私が入社してまもなくの、
NHKホール「北島三郎コンサート」。


これ、なんと、
アルファ主催だったのです。

そしてアレンジが、
深町純さん。

(なんじゃ、それ…???)



片やニュー・ミュージックの若き旗頭として、
業界に旋風を巻き起こしはじめていたアルファ。

片や泣く子も黙る演歌の大御所。


誰が見ても「水と油」のコンサート。

誰ですか、こんな変てこな企画考えたの…?



で、案の定、

リハーサルはモメにモメる。


そりゃあそうです。

シンセサイザーかなんか持ち込んで、
「函館の女」のバックで、
プニュ~~~ッと変なサウンドをかき鳴らすんだから。


「あのお、その音、耳ざわりで嫌なんですけど。」
と北島さんがクレーム。

「そうだっ!」とばかりに、
怖そうなお兄さんたちが
ドヤドヤっとステージに駆け上がって深町さんを取り囲む。

(あわわわ。。。)



しかし、深町さんは動じない。

「わかりました、わかりました。」
と、すぐに、北島さんが気に入るように軌道修正。


「やれやれ…。」

と、胸をなでおろしたのもつかの間、
次の「加賀の女」では、

バルトークのピアノ・ソナタかなと思わせるような、
難解なピアノ・ソロを奏でた後、
「さあ、これで歌い始めて下さい。」
とばかりに、北島さんに目で合図。


「あのね。そんなイントロじゃ、入れませんよ。
 これは演歌ですよ、演歌。」
と、又しても困った表情の北島さん。

「おい、深町!」
と、すかさず強面(こわもて)のおにいさんたちが、
又しても、ドヤドヤっとステージに。


私はまだ、
何も業界のことなんか知らない青二才でしたが、
プッと吹き出しそうになりました。

「面白い会社だなあ、アルファって…。」



そして、

頼む方も頼む方なら、
受ける方も受ける方です。


演歌なんて聞いたこともないくせに、
よく受けますよね、そんな仕事。

私なら絶対断ります。


私は、心の中では、
もちろん北島さんに同情しておりましたね。


でも、深町さんは超然としている。

「それがどうした…」とばかりに涼しい顔をしている。


「面白そうな人だなあ、深町さんって…。」


これが、

私の深町さんに対しての第一印象…。


♪♪♪




さて、

かつて、
「タモリ戦後日本歌謡史」というお話でも触れましたが、

アルファという会社は、
新しいことにはどん欲で、
とにかく怖いもの知らずの無鉄砲さがありました。


この深町さんも、
言ってしまえば「怖いもの知らず」の典型。

自分に絶対の自信を持っておりましたね。


だから波長が合ったんでしょうね。

アルファと深町さん。


翌1975年にはアーチスト契約までして、
「六喩」というタイトルの、
おっそろしくマニアックなアルバムを作ることになります。



ま、今にして思えば、

これが日本における、最初の、
本格的なフュージョン・アルバムかもしれませんね。


で、その担当ディレクターには私が選ばれました。
新入社員も同然のペーペーの私が…。


ポンタ(村上)、憲司(大村)、小原(礼)、
モツ(浜口茂外也)、村岡健(タケル)さん、

といった、
強者(つわもの)のサムライたちを集めて、

ものすごい過激で、
テクニックの頂上決戦とも言えるようなアルバムを、
平然と作って、
涼しい顔をしておりました。



私は、おそるおそる彼にこう聞いたのを覚えております。

「あのお、深町さん…。
 すごい音楽だとは思いますが…、
 こんな過激でマニアックなアルバム…、
 いったい誰が買うんでしょうねえ…?
 大丈夫ですかねえ…?」



すると彼、タバコを吹かしながら、

平然とこう言ってのけました。


「ガハハハ。
 1枚も売れないかもね。
 ま、俺の音楽を理解出来るやつが、
 そういるとは思えないからね。
 ガハハハハハハハハハハ。」


良くも悪くも、

そんな人でした。



自分に自信があるから、
辛辣なこと、嫌みなことなど、
ズケズケ言ってのける。

(そういえば、顔もどこか「イヤミ」に似てたなあ…。)


でも、私が同じように辛辣なことを言っても、
「ガハハハ」と笑い飛ばして、
全然怒ったりはしないんですね。


やっぱり自信があったんでしょうね。


自信過剰とも言えなくはありませんが…。


その頃の写真です。


恥ずかしいから拡大しないで~~。


Scan 1


……。



(つづく)





いやあ、先週はご心配をかけました。

やはり、
ノロ・ウィルスかロタ・ウィルスに感染したようです。

回復が早かったからロタの方かな…。


お見舞いのコメントも頂戴し、
恐縮でございます。

私もシマムもすっかり元気になって、
仕事を始めておりますので、
どうそご安心を。

(ん? シマムは昨晩帰ってないな…。
 回復早すぎだぞ。)


残念ながらママには感染しませんでした。

(ん??)



そんなわけで、

少し予定が狂いましたが、

明日あたりからモリモリ仕事をしないと…。


おかげさまで3月の「STB 139」4Daysの、
ファン・クラブ先行予約も、
かつてない数のお申し込みをいただきましたし…。

新曲、たくさん書かないとね。


ガオ~~~~~~~~~~ッ。


(新春初吠え)


……。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 15:38|この記事のURLComments(17)TrackBack(0)

October 18, 2009

夏の6週間 フィナーレ


1991年8月10日

レコーディング最終日。


この日も、

カリフォルニアの太陽が燦々と降り注ぐ、
リッツ・カールトン・ホテルの、
豪華なダイニング・ルームで、
優雅な朝食をいただいた私たちは、

そのままスタジオに移動して、

最後の3曲の唄入れを完了。


♪♪♪



こうして、

この伊東ゆかりさんの、
ロス・レコーディングは、

予定していたタイム・スケジュールを、
見事なまでにクリア。

なんのトラブルもなく、
無事に終えることができました。


しかもそれは、

私の予想をはるかに超える、
美しい仕上がり。


(完璧だ…。)



そのアルバムは、

『LOVE AFFAIR』

というタイトルのもと、

この年の冬に発売になりました。


Love Affair



さて…、


最後の唄入れを終えた私は、

「やれやれ」
といった安堵の気分で、
スタジオの裏の倉庫に行き、

待望のタバコを一服。


プカ〜〜〜〜ッ。

(うま〜〜〜〜〜い!!)



やはりスモーカーで、

日頃、タバコ嫌いのゆかりさんのために、
不自由な思いをしている、
マネージャーのY田くんも一緒に、

プホ〜〜〜〜ッ。

………。



と、そこへ…、


なんと、

ゆかりさんが入って来た。


(???)



煙がもうもうと立ちこめる、
雑然とした、うす汚い倉庫、
というか物置に、

あの、


ゆかりさんが…。

……。



私たちは、

慌ててタバコの火を消そうとする。


すると、ゆかりさん、

悠然と左手を振って、

「いいのよ、そのまま吸ってて。」

ときた。


(ん? なんだか今日は変だぞ…?)



そして…、

私のナナメ右の席に座ると、

ニコッと私に微笑みかけ、
静かな口調で、

「終わったわね…。」
と、ポツリ。


その穏(おだ)やかな表情には、

やはり同じように、

ひと仕事終えた満足感が、
漂っていました。


(よかった、よかった。)


♡♡♡



ところがです。


そのあと…、

彼女が発したひと言に、

私は仰天しました!!


いやあ、

私の人生のなかでも、

これほどビックリしたことは、

そんなには、ありませんね。


彼女は、こう言ったのです。


ゆ「宮住さん。  
  タバコ1本ちょうだい?」


 (え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)



マネージャーのY田くんも、
あまりの驚きに、
椅子から飛び上がる。


ところが、ゆかりさん、平然と、


ゆ「あら、どうしたの?
  そんなに驚いて。

  こう見えてもあたし、
  昔は、一日一箱くらい吸ってたのよ。
  自分で買ってね。

  さ、早く、モタモタしてないで、
  1本ちょうだい!」


  「……。」



私は、

驚きを隠せぬまま、
言われたとおりにタバコを1本差し出し、
ライターで火をつけてあげました。


すると、ゆかりさん…、

熟練のスモーカーよろしく、
人差し指と中指で器用にタバコを挟むと、

深々と吸い込んで、

「ふ〜〜っ」
と、白い煙を吐き出した。


そしてひと言、

「美味(おい)しい…。」


……。



その姿が、

実にサマになっているんですね。


(カッコいいなあ…。)



さあ、狂喜したのは、
Y田くんです。

大急ぎでスタジオから、
ビデオ・カメラを取って来ると、
その、ゆかりさんがタバコを吸う姿を、
必死に撮(と)りまくる。

「日本に帰って、
 事務所のみんなを驚かせるんだー。」



しかし、当のゆかりさんは、

そんなことおかまいなしに、

悠然と吸い続けている。



そんなゆかりさんに、

私はこう聞きました。


み「でも、ゆかりさん。
  タバコの煙や臭い、
  大嫌いなんでしょ?」



すると、ゆかりさん、


ゆ「そうねえ、
  人の吸う煙や臭いは、
  イヤね。

  でも、たまに、
  人からもらって吸うタバコって、
  美味しいのよねえ。
  ウフフ。」

ときた。



(おや? あなたも、
 「無責任党」の仲間入りですか?)


と、言いたい気分の私でしたが、

よくよく考えてみると、

これは納得ですね。



なぜならば…、

その昔、

私が小学生の時、
夢中になって観ていた、
超人気バラエティーTV番組、

『シャボン玉ホリデイ』

のなかで、


私が心の師と仰ぐ植木等さんや、
クレージー・キャッツの面々と、

毎週のように、
“無責任な”コントを演じていたのは、

他ならぬ、この、

「伊東ゆかり」さん、

だったからです。



そして…、

彼女は…、

さらに驚くべきことを、

さらりと言ってのけた。


ああ、忘れもしません、

あのひと言…。


これぞ、

まさに、


“笑撃の(?)クライマックス”



ゆ「ところで、
  宮住さんも物好きねえ。
  あんな曲が好きだなんて…。」

み「ん…? なんの話?」



ゆ「『夏の6週間』よ。
  好きなんでしょ?」

み「だからあ、なんの話をしてんのよ…?」



ゆ「あら、O社長、言ってたわよ。

  “宮住くんが、
  「『夏の6週間』を、どうしてもやりたい。
   絶対このアルバムに入れるべきだ。
   社長、なんとかゆかりさんを、
   説得してくれませんかねえ。」
  て、言うんだよ。
  ゆかり、なんとか彼のために、
  あの曲やってあげてくれないかなあ。”

  てね。


  まあ、別に嫌いな曲じゃないから、
  「いいわよ。」
  って、言ったんだけど、

  でも、宮住さんが、
  あんな曲を好きだなんて、
  ちょっと意外だったわ…。」



  (そ、そういうことだったのか…。)



……。


…………。。




いやあ、O社長。

あなたは偉大です。


あなたの無責任に比べたら、

私なんぞ、

まだまだヒヨコの未熟者です。


いい勉強になりました。



あはは…、


アハハハハ…、


あはははははは…、



( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \




(『夏の6週間』 おわり)





いやあ、

本当に長いシリーズでしたね。


でも、

この、最後の、
“強烈なオチ”を、
より、リアルに感じていただくためには、

O社長やゆかりさんの人物像を、
事細かに書いておく必要があったのです。


そのため、
出会いまでさかのぼった。

とまあ、
こういう訳でした。


ちなみに私はこの時、

事の真相を、
ゆかりさんには知らせず、

O社長の仕組んだ可愛い(?)罠を、
黙って享受することにしました。


なぜか?

そのほうが、
お洒落(しゃれ)だからです。



ま、なにはともあれ、

お疲れさまでした。

……。



さ、今週はライブ・ウィーク。

とくに、
10/19ー21『STB139』は、
最高の盛り上がりになるといいなあ…。

なんといっても、
ジャミン・ゼブの、
2才の誕生日記念ですからね。


なんとか初日にこぎつけた、

演出家の心境。



どきどき…。


ドキドキドキ……。


……………。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 01:28|この記事のURLComments(24)TrackBack(0)

October 10, 2009

夏の6週間 その10


いやあ、今週は慌(あわ)ただしかった。

いろんなことがありました。


さらには、

パニック寸前の仕事量…。



「誰だ、俺をこんなに働かせるヤツは!」

と、言いたいところですが、

その仕掛人は、

私自身なのだから、


こればっかりは、仕方ありませんね。


アハハハ。

(自虐的笑い)



でもね、

忙しいということは、
いいこと。

それだけジャミン・ゼブ号のスピードが、
加速してるってことですから。



ああ、それにしても…、

思い出すのは、


あの、


優雅な、


ロス・アンジェルスの日々…。


……。




『夏の6週間 その10』


「じゃあ、みんなで食事に行こうじゃないか。
 ゆかり、何が食べたい?
 何でもいいぞ。
 和食でも何でもいいぞ。

 宮住くんも、
 好きなもの言ってくれよ。
 和食でも何でもいいからな。

 みんなも、遠慮しないで、
 何でも好きなもの言ってくれよ。

 和食でも何でもいいから。

 和食でも、何でも。」


……。



やっぱり来ましたね、

O社長。


私たちの、イヤ〜な予感は、
見事に的中しました。

これじゃあ、

「和食って言え。」
と、誘導してるようなもんです。



で、ここで、ゆかりさんが、

私たちの気持ちを代弁して、

ピシッと釘をさす。


ゆ「ええ〜〜っ? 和食〜〜??
  社長、ここはロスよ。 

  どうせだったら、
  和食じゃないほうがいいなあ、
  あたし。」


(いいぞ、いいぞ。)



ところが、O社長。

まったく動じる気配もなく、
こう言う。


O「おお、そうか。
  じゃ、和食がダメなら、

  しゃぶしゃぶでも寿司でも、
  何でもいいぞ、俺は。」
 


さあ今度は、私が助け舟。

み「あの〜、社長、
  お言葉ですが…、

  しゃぶしゃぶも寿司も、
  ジャンル的には、
  和食だと思うんですが…。」



しかし、O社長は、
ひるまない。

O「おお、そうか。

  じゃ、しゃぶしゃぶや寿司がダメなら、
  てんぷらはどうだ。
  スキヤキでもいいぞ、俺は。
  鍋でもいいぞ、俺は。

  みんなも、
  何でも好きなもの言ってくれよ。
  ガハハハ。」


……。



もうダメですね。

この人には勝てません。


私たちは、一様に、

あきらめムード。


しかたなく、
ゆかりさんが代表して、


ゆ「もう、何でもよくなっちゃった。

  じゃいい。

  社長におまかせするわ。」



すると、O社長、
ますます上機嫌で、


O「おお、そうか。

  じゃ、みんなが、
  そんなに言うんだったら、

  和食にしよう!」


(言ってないから)




こうして、

私たちが案内されたのは、

「リトル・トーキョー」という地区にある、

とある日本料理屋。



暖簾(のれん)をくぐるやいなや、
O社長。

持ち前の、ドスの効(き)いた大声で、


「女将(おかみ)ーっ。
 約束どおり、
 ゆかりを連れてきたぞー。」

「あら、嬉し〜〜い!」


(なんだ、決めてたんじゃないか…。)



さて、そこは、

わりと大きめなお店で、
あちこちのテーブルにいるのは、

みな、

当たり前だけど、

日本人…。


(あ〜あ、これじゃまるで、
 六本木の居酒屋だ…。)



さっきまでの、
夢のような世界から、

とたんに現実に、
引き戻されたような気分です。


だからイヤだったんです。

和食は。


でも、仕方ありませんね。

この素晴らしい企画の発案者は、
他ならぬ、このO社長ですからね。


ま、一晩くらいは、

おつきあいしましょう。


♡♡♡



さて、ビールがやって来て、

「とりあえず、かんぱ〜い!」


そして、料理が、

次々と運ばれてくる。


もう、この頃になると、
みんなも、
久しぶりの日本の雰囲気を、
満喫しているるようです。


ゆかりさんも、

「あ、これ美味しい。
 すみませ〜ん、
 これ、もうひとつくださ〜い。」


てな具合で、

ニコニコしながら、
いろんな料理に箸をのばしたり、
壁に貼られている“お品書き”を見たり、
会話を楽しんだり。



と、そんなとき、

私の前に座っているO社長が、

そっと私に、耳打ちをした。


「宮住くん、
 『夏の6週間』を、
 聴かせてくれないか。」


そう来るだろうと思い、
私は、用意していたウォークマンを、

社長に渡しました。


社長、
腕を組み、
目を閉じて、

ヘッドフォンから流れて来る、
今日の午後、唄入れを終えたばかりの、

『夏の6週間』に、

じっと耳を傾ける。


♪♪♪



すると…、


社長の目から、


大粒の涙が、


ポロリ、


ポロリ。



そのうち、


鼻まですすりだす…。


…。




いやあ、

本当に、感動してるんですね。


あの豪快な、
とてつもなく大男のO社長が、

人目をはばからず、
感動のあまり、

泣いている…。


それは、ちょっぴり、

異様な光景。



でも…、


「前田憲男さんの素晴らしいアレンジ♪」

「アメリカの一流ミュージシャンの、
 優雅で美しい演奏♪」

「ゆかりさんの、見事な熱唱♪」



そんな、

『夏の6週間』


O社長が、

あれほどまでに、こだわった、

『夏の6週間』



O社長は、

これを、

こんな演奏の『夏の6週間』を、

待っていたんですね。


(よかった、よかった)




ところが…、

その隣で、


そんなことになっている
O社長には目もくれず、

まったくの無視で、


ひたすら、
次から次にやってくる料理に、
舌鼓をうち、

楽しそうに、
スタッフと談笑している、
ゆかりさん。


そんな、二人の、

あまりに対照的な姿が、

滑稽(こっけい)でもあり、

微笑ましくもあり…。



でも、なんか、

ほんわかするような、

素敵な光景でした。



そして、

少女のように、

無邪気に、はしゃぎながら、
食事や会話を、
楽しんでいるゆかりさんを見ながら、


私は心の中で、


そっと、


こう、囁(ささやい)たのです。



「ゆかりさん。

 いいこと、

 してあげましたね。」




(つづく)





ちなみに、

私がO社長におつきあいしたのは、

この一晩だけ。



あとの二日間は、

ロスに住んでいる、
ミュージシャンのシム・インガーを呼び出し、

(過去ログ「シム・インガーとロックン・ロール」
 参照。)

今流行りのレストランを案内させたり、
人気のクラブをハシゴしたり。


夜遅くまで、
「ジス・イズ・アメ〜リカ」
を満喫したのでした。

散財はしましたが、
せっかくの機会ですからね。


夢の世界は、

少しでも長く、

楽しまなくちゃ。


アハハハ。


(その後も、O社長におつきあいした、
 ゆかりさんには、
 本当にお気の毒ですが…。)



さて、

そんな、ロス・レコーディングも、

いよいよ最終日を迎えます。


そして、

この長い長いお話も、

いよいよフィナーレ♪♪



というわけで、


次回は、


衝撃の(???)最終回です。



お見逃しなく…。


……。




(さ、仕事に戻ろう)



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 13:54|この記事のURLComments(20)TrackBack(0)

October 03, 2009

夏の6週間 その9


10月に入って、

めっきり涼しくなってきましたね。


なんとなく寂寥感ただよう、
この季節は、
本来、あまり好きではないのですが、

今年はちょっと違います。


10/19-21の、「STB139」ライブにむけて、
ジャミン・ゼブ共々、
燃えに燃えております。


聞くところによると、

残されたチケットは、
19、20日合わせて、
あと10数枚とか。

(あ、まだの方、お急ぎください。)


そして、ようやく最終選曲リストも、

決まりました!


これでもか、これでもかといった、
盛りだくさんの内容です。

期待していて下さい。


♪♪♪



では、きょうも、

しばし現実を離れて、


あの、

眩(まぶ)しい、

カリフォルニアの青空のもとへ、


想いを馳(は)せることにしましょう。




『夏の6週間 その9』


1991年8月8日。

ロス・アンジェルス。


いよいよ、今日から、
ゆかりさんの唄入れです。

私たちは、
ホテル1Fにある、
大きなダイニング・ルームで朝食。


ガラス張りの、
この、ゴージャスなダイニング・ルームからは、
美しいヨット・ハーバーと太平洋が一望でき、

小さな階段を降りると、
プールやジャグージーにも、
行けるようになっている。


行ったことはありませんが、

ニースやリヴィエラの高級リゾート・ホテルも、

こんな感じなんでしょうかねえ。

……。



そんな、

カリフォルニアの太陽が、
燦々(さんさん)と降り注ぐ、
ゴージャスなレストランで、

“華麗な”朝食をいただいた私たちは、

「いざ、出陣。」
とばかり、
スタジオに向かいます。


余談ですが、

スタジオの関係者には、
ゆかりさんの“タバコ嫌い”は、
すでに伝えてありましたので、

ここでも、
スタジオの灰皿はすべて撤去してありました。


そして、喫煙者のためには、
スタジオの奥にある、
倉庫(物置)の中に、

小さなテーブルと椅子を二つ、
用意してくれました。


やはり喫煙者である、
エンジニア氏も、アシスタント君も、
快(こころよ)く協力。

みんな大人ですねえ。



まあ、今や、

どこへ行ってもタバコなど吸うことのできない、
この“禁煙ブーム”の火付け役とも言うべき、

「ロス・アンジェルス」ですが、

この当時は、日本とおなじように、
パカパカ、モクモク、プホ〜、
だったんですね。


昔日の感があります…。


さあ、そんな中、

バッキング・トラックが流れ始める。

いよいよ、唄入れが始まる。


♪♪♪



といってもね、

あっという間に終わっちゃうんです。

ゆかりさんの場合。

抜群の歌唱力ですからね。


一曲につき、3回も唄えば、

もうおしまい。

もう、完璧。


(ちなみに、今回、
 彼女が一番乗り気ではなかった、
 最後の最後にすべりこんだ、
 『夏の6週間』は、
 この初日に、
 さっさと、やってしまいました。)



というわけで、

この日も、

3、4曲を唄い終えて時計を見たら、
まだ、午後の3時。


これじゃあ、夕食までは、
時間がありすぎますわねえ〜、

ということで、
私たちはホテルに戻って、

今度はテニス。


私、テニスの経験は、
そんなにはありませんが、
ま、簡単なラリーくらいは出来るので、

その程度で勘弁してもらって、
ゆかりさまのお相手。

パコーン、パコーん、パコーン、パコーん。

(この、平仮名の“ん”のほうが、私…。)



一時間ばかり、
テニスに興じたあとは、
今度は、大きなスイミング・プールに、
ドボ〜ン。

そして、日光浴。


気をきかせたホテル・マンが、
「ジン・トニック」かなんかを、
運んでくれる。


「Thank You!」

「You're Welcome, Sir!」


(Sirですってよ、Sir…。)


時計を見ると、

まだ夕方の4時半。


この時期の、
カリフォルニアの日没は、
夜の9時くらいですからね。

日本でいえば、
まだ、真昼です。

(くう〜、こりゃ天国だぜ…。)


☀☀☀



「こらっ!
 
 これじゃあ、
 仕事に来てるんだか、
 遊びに来てるんだか、
 
 わからないじゃないかー!!」


と、お叱りを受けそうですが、

ま、こんなことは、

そうそう、あるもんじゃありませんからね。


かたい話は、抜きでいきましょう。

かたい話はね。

アハハ。

(植木等さん流に…。)




さて、そうこうするうちに、

いいぐあいに、
お腹も減ってきたので、

部屋へ戻ってシャワーをし、
支度をして、

ロビーに集合。



と、そこに、

いた…。


到着していた…。

あの男が…。


じゃなかった、あのお方が。



いつものように、

満面の笑みで、
私たちのところに近寄って来た、
O社長。

開口一番、


「やあ、みんな元気そうだなあ。
 どう、ゆかり、調子は?
 どう、宮住くん、順調にいってる?
 そうか、そりゃ良かった。
 ガハハハ。」


そして、意気揚々と、


「じゃあ、みんなで食事に行こうじゃないか。
 ゆかり、何が食べたい?
 何でもいいぞ。
 和食でも何でもいいぞ。

 宮住くんも、
 好きなもの言ってくれよ。
 和食でも何でもいいからな。

 みんなも、遠慮しないで、
 何でも好きなもの言ってくれよ。

 和食でも何でもいいから。
 
 和食でも、何でも。」


 (やっぱり来たな…。)




(つづく)




ところで、

ベーシスト岸くんのブログが、
にぎわってますねえ。

http://yaplog.jp/bass-hitori/archive/427#ct



「彼、エライなあ」
と、感心してしまいました。

みなさんのコメントに、
丁寧にお返事をかくマメさもさることながら、

その内容がしっかりしてるんですよね。


若いのに大したもんだ…。



それに比べると、私なんて…、

行き当たりばったりの、

出たとこ勝負ですからね。


「人生これ、インプロヴィゼーション(即興)」

な〜んて、うそぶきながらね。

アハハハ。



でも、まあ、


それはそれで、いいか。


……。



SHUN MIYAZUMI


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September 27, 2009

夏の6週間 その8


1991年8月3日。

ロス・アンジェルスに到着した私を、
待っていたのは、

それはそれは、
ゴージャスなホテル!


その名も、

『リッツ・カールトン
    /マリーナ・デル・レイ』



ロスで、5ツ星ホテルというと、

『ビヴァリー・ヒルズ・ホテル』
 (イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」
  のモデルになったところ)

『ビヴァリー・ウィルシャー・ホテル』
 (映画「プリティー・ウーマン」
  の舞台になったホテル)


そして、市の中心部、
パサディナにある、
 
『リッツ・カールトン』

あたりが有名なのですが、


その『リッツ・カールトン・ホテル』の、
2番目のホテルとして、

海沿いのヨット・ハーバー
「マリーナ・デル・レイ」に、

つい最近、出来たんだそうです。



とりあえず、
部屋に荷物を置きに行くと、

そこは、広々とした、
贅沢(ぜいたく)なツインの一人使用。


そして、バスルームだけで、
ちょっとしたビジネス・ホテルの、
一部屋分くらいある。

床はもちろん大理石。

(うわあ、ゴージャスだなあ…。)



ベランダに出てみると、

右手には、
太平洋の碧碧とした海が広がり、
おびただしい数のヨットやクルーザーが、
停泊している。

そして真下には、
大きなスイミング・プールに、
ジャグージー。

その向こうには、
何面かのテニス・コートまである。


私にとって、
ロスでのレコーディングは、
これが6回目になるのですが、

こんな豪華なホテルに、
泊めてもらったことは、
一度もありません。


(こりゃ、予算は大丈夫なんだろうか…?)


今回、
ツアー・コーディネーターを頼んだのは、

元カシオペアの事務所にいて、
海外レコーディングの経験が豊富な、
A井くん。


で、私は、ちょっぴり心配になり、

彼の部屋に電話をしてみました。


すると彼曰(いわ)く、

「いや、ちょっとしたコネがありましてね。
 一泊450ドルの部屋が、
 200ドルで借りられたんですよ。
 伊東さんクラスの方を、
 安っぽいホテルにはお泊めできませんからね。
 気に入っていただけましたか?」


私はひとこと、

「でかした!」



夜、ベランダに出て、
爽(さわ)やかな夜風を浴びながら、
美しい月明かりに照らされた、
白いヨットの群れや、

ホテルの照明に、
鮮やかに映し出された、
プールやジャグージーを眺めていると、

寝るのがもったいなくなるような、

そんな感じです。


(こりゃ、ゆかりさんも、
 満足してくれるだろう…。)


そんな、素晴らしい環境のなかで、

いよいよレコーディングの始まりです。


♡♡♡



翌8月4日と5日は、
リズム録(ど)り。

スタジオに行ってみると、
私の予想を上回る、
そうそうたる顔ぶれのミュージシャンが、
勢揃いです。


Grant Geissman:ギター
Larry Steelman:キーボード
Kenny Wild:ベース
Bernie Dresel:ドラムス


有名なフュージョン・バンド
「シー・ウインド(Sea Wind)」
のベーシスト、
ケニー・ワイルドを筆頭に、

いずれも名の知れた、
名手ばかり。


思った通りの素晴らしい演奏でしたね。


2日間で、
難なく10曲を録(と)り終えると、

翌日は待望の、

ストリングス(弦楽器)のダビング。


♪♪♪



それまでの、
私のロス・レコーディングといえば、

ほとんどが、“バンド物”。


渡辺香津美&リー・リトナー・バンド
(『ベナード・アイグナーの思い出』参照)

吉田美奈子&モータウンの強者(つわもの)達
(『犬猿の仲 その2』参照)

三好鉄生&ジェフ・バクスター・バンド
(『ジム・インガーとロックン・ロール』
       &
 『ジェフ・バクスターと牛丼』参照)


そして、

カシオペア。

etc.etc.



したがって、

本場アメリカの、
ストリングスのスタジオ・ミュージシャンが、
どんな演奏をしてくれるのか…。


これは今回、

私が最も期待かつ注目していたところです。

……。



いやあ、やっぱり素晴らしかった♪♪

なんで、こんなに違うんだろう…?


ま、この話をし始めると、

長くなるので、

今回はやめておきますが、


いずれにせよ、

指揮者のスージー片山さんの、
見事な棒さばきのもと、

優雅で、美しいことこの上ない、
ストリングスのサウンドが、

昨日までに録り終えた、
リズム・セクションに、
彩(いろど)りを添えて行く。

(スージーさんは、
 日系アメリカ人の女性チェリスト。
 あの、ジョン・ウィリアムスのもとで、
 スピルバーグの映画音楽にも、
 携わっているんだそうです。)



さらに、翌日は、

シンセサイザーや、
生(なま)のホーン・セクション、
女性コーラスなどで、
サウンドの足りないところを補充すると、

このアルバムのバッキング・トラックは、
たったの4日間で、

私の描いていたイメージを遥かに超える、

素晴らしく美しいものに、
仕上がったのです。

(満足、満足、大満足…。)



こうした、
素晴らしいミュージシャンを集めてくれたのは、

ロス在住の日本人和楽器奏者、
松居和(まつい・かず)さん。
(キーボード奏者、松居慶子さんの旦那さん。)


A井くんといい、
和さんといい、

本当にいい仕事をしてくれましたね。

感謝、感謝です。


ま、うまくいく時というのは、

得てして、こうしたもの。


♡♡♡



さて、

レコーディングは、
毎日、午前中から始めて、
夕方の6時には終了します。


レコーディングを終え、
ホテルにいったん戻った、
私とA井くんは、

ゆかりさんやマネージャーのY田くん、

それに、

今回ジャケット撮影のために同行していた、
スタイリストのS木さん、
ヘア&メイクのA本さんらと合流し、

食事に出かけます。



で…、

私は、

海外に出かけると、


和食はあまり好みません。


なぜか?

もったいないからです。



せっかく海外に来たのだから、

その土地で評判の、
あるいは人気のある、
いろんな物が食べてみたい。


日本に帰れば、
いつでも食べられる和食は、
なるべく避けて通りたい。

これは、

ゆかりさんも同じ意見でした。



さあ、ここでも、
A井くんは大活躍。

松居慶子さんのプロジェクトも手伝っている、
A井くんは、
最近のロス事情に詳しい、詳しい。


「今日は、あそこのイタリアンに行きましょう。」
とか、

「ここの、シーフードは、
 最近評判ですよ。」

てな具合で、

美味(おい)しそうなレストランを、
ちゃんと調べぬいてありました。


そして、それらはみな、

ズバズバ当たっていたのです。


というわけで、

ここでも私たちは毎晩、

美味しい料理に舌鼓をうちながら、

楽しいひとときを過ごすことができました。

(A井くん、またしても、でかした!)



ところが、


ところが…、


明日からは、

あの方が合流することになっている。


そう、

あの、

O社長が…。



不安なものがありませんか…?


「ぜったい、和食しか嫌(いや)だ。」

と言うような予感がしませんか…?



私たちはみな、

イヤ〜な予感を抱いていたのですが…、


その予感は、


やはり、


当たっていました…。


……。



(つづく)




最近の「ソフト・バンク」のCMで、

「スマップ」が携帯電話を耳に当てる仕草で、
踊りながら唄うというのがありますが、
ご存知ですか?


「木村拓哉って、
 やっぱりすごいタレントだなあ…。」

と、感心しながら、
いつも見ているのですが、

あの曲は、
『ロコモーション』という曲なんですね。


あのCMで使われているのは、

1960年代の終わりから、
70年代の初めにかけて大活躍した、
アメリカのハード・ロック・バンド、

「Grand Funk Railroad」
のバージョン。


アメリカで、60年代に、
最初に大ヒットしたのは、
「リトル・エヴァ」
という女の子が唄ったバージョン。


作曲は、あの、大巨匠、
「キャロル・キング」



で、日本でも大ヒットしたのですが…、


と、このときのロスで、私は、

とんだ記憶違いから、

とんでもないことを、

ゆかりさんに言ってしまいました。


 「ゆかりさん、
  『ロコモーション』て曲あったでしょ。
  ♪さあさあダンスのニューモード〜♪
   
  あれ、僕、好きだったなあ、
  子供のときね。
  弘田三枝子さんの…。」


すると、ゆかりさん、

軽蔑したような眼差(まなざ)しで、
バカにしたようなような表情で、
私を見つめながら、

 「失礼ねえ。
  あれ、あたしよ。
  ヒット賞もらったのよー。」


  (……。)



あははは。


口は災いのもと…。


……。



SHUN MIYAZUMI
  

woodymiyazumi at 19:51|この記事のURLComments(16)TrackBack(0)

September 21, 2009

夏の6週間 その7


『夏の6週間』

いったい、どんな曲なのでしょう。


1960〜70年代に大活躍した、
アメリカの女性ポピュラー・シンガー、
「ヴィッキー・カー(Vikki Carr)」が、

泣きながら熱唱して、
話題を呼んだというバラード曲、

なんだそうです。



「ヴィッキー・カー」といえば、

日本では、
『It Must Be Him』という曲が有名で、
私が中学生のときには、
ラジオでよく聴きましたね。

ハスキーで、パンチのある、
歌唱力抜群の美人シンガーです。


そんな彼女の、
“実話にもとづく歌”とも言われているのが、
この、

『夏の6週間』
(原題:Six Weeks Every Summer)



離婚によって裁判所から、
一人娘の親権を奪われた、
ひとりの「女性シンガー」が、

「夏の6週間」と「クリスマス」だけは、
娘に会うことを許される。


そんな哀しい、
母親の心情を歌った曲なのですが、

中間部には、
こんなセリフまであります。


 「あの子と別れて、私はまた向き合うの
  …まぶしいライトと拍手に
  顔はほほえんでも 心は死んでるの
  夏とクリスマスのお休みまでは…
  耳を離れない あの子の呼び声ー
  “ママ ただいま!”
  夏の6週間とクリスマスだけの母親」


そして、歌はこう結びます。

  ♪あの子がこっそり 残していった
   手紙をみつけて 夢中で読むの
   “会えなくてもあたしは ママが大好き”
   幼い言葉が 涙でにじむ

   なんにもいらないわ 毎朝あの子が
   “おはよう ママ!”って
   笑ってくれたら♪

   (日本語詞:山川啓介)



この曲の存在を知ったO社長は、

ゆかりさんに、
この曲をステージで歌わせ、

人知れず、涙ながらに、
感動していたらしいのです。


 (私もなんどかステージで拝見しましたが、
  さすがに、
  ゆかりさんくらいの実力と経験がないと、
  表現できないだろうなあ、
  と思わせるような高いレベルの楽曲ですね。
  それは、熱唱というより、“熱演”…。)



そんな『夏の6週間』を愛してやまない、
O社長は、

今回のアルバムに、
この曲を、
どうしても入れるべきだ、

と強く主張。



まあね、

「一人娘を持つ女性シンガー」
という共通点だけで、

自分勝手に感動してしまうあたりが、

実は、一見豪快にして、
本当はロマンティストの、
O社長たるところなのですが、


でも…、


当のゆかりさんは、

クールなゆかりさんは、

そんな“情”に流されたりはしない。


ゆ「あら社長、
  あの曲はステージで映(は)える曲よ。
  今さらCDで聴く曲じゃないわね。
  はい、却下。」

と、いとも簡単に一蹴してしまった。

……。


しかし、O社長も食い下がる。

O「そうかなあ。
  あれ、お客さんにも評判いいんだよー。
  しかも、ゆかりの『夏の6週間』は、
  まだ一度もレコード化されてないじゃないか。
  今回が、いいチャンスだと思うけどなあ。」


でもゆかりさん、

まったく相手にしない。


ゆ「今回はポップスの曲で行くんでしょ。
  他の曲とのバランスも悪くなるし、
  これはダメね。」

と、一向に受けつけない。


仕方なくO社長、

O「そうかあ、ダメかあ…。」

と、あきらめて退場。


その後ろ姿は、

ちょっぴり寂しそうではありましたが…。

……。



ま、私にしてみれば、

どっちでもいい曲でしたがね。

やっても、やらなくても。


確かにO社長の言うとおり、

この曲を唄う、
ステージでの、
ゆかりさんのパフォーマンスは、

なるほど素晴らしいものではありますが、


他の曲とのバランスを見る限り、

「なんでこの曲がこのアルバムに…?」
という違和感がないとも言えない。


で、私は、この場合は、

ゆかりさんの意思を尊重しようと、

あえて自分の意見は言いませんでした。


♡♡♡



さて、

10曲が出揃いました。


私は、その10曲のリストを眺めながら、

「これは、○○にアレンジ頼もうかなあ…。」
とか、

「これは、あんな感じでやろうかなあ…。」
とか、

サウンドの方針を、
あれこれ考えていました。



と、そんなとき…、


またしても、

O社長から電話が…。


O「宮住くん、お願いがあるんだけど。」

M「なんでしょう。」


O「『夏の6週間』をやるように、
  ゆかりを説得してくれないかなあ。
  俺、ゆかりのアレ聴くと、
  涙が出てくるんだよ。
  ゆかりが唄うあの曲、大好きなんだよ。
  宮住くんが説得してくれたら、
  ゆかりはOKすると思うんだけどなあ…。」


しかし、こればかりは、

「ハイ、わかりました。」
とは、言えません。

私は、丁重にお断りをしました。


M「いや、社長、それはダメですよ。
  今回は彼女の意思も尊重して、
  選曲したんです。

  その彼女が乗り気じゃない曲を、
  やらせることによって、
  せっかくの、
  いい雰囲気が壊れる恐れもありますよ。

  いい曲だとは思いますが、
  強烈なシングル候補という曲ではないし、
  その役目は、
  ちょっと僕には酷ですねえ。」


O「でもさあ、今回はロス・レコーディングだろ。
  アメリカの素晴らしいミュージシャンの演奏で、
  『夏の6週間』を録音するのが、
  俺の夢だったんだよ。
  ねえ、なんとかゆかりを説得してよ。
  ね、お願い。お願い。お願い。」


とまあ、

まるで駄々(だだ)っ子。

……。


しかし、やはり私は、

丁重にお断り。


M「お気持ちはわかりますが、
  やっぱりその役目はどうも…。

  この場合は、
  やはり社長自らおやりになるのが、
  一番だと思いますがね。

  いや、なに、
  社長の情熱をお伝えすれば、
  ゆかりさんも、
  きっとわかってくれると思いますよ。」


O「そうかあ、ダメかあ…。」


と彼は、またしても、

寂しそうに電話を切る。


ま、仕方ありませんね。


……。



ところが、数日後、

O音楽事務所から送られてきた、
最終選曲リストを見て、

ビックリ!


なんと、あの、

『夏の6週間』が、

入っているではありませんか!!



O社長、やりましたね。

ゆかりさんの説得に、
見事成功したんですね。

パチパチパチ。


しかし、一抹の不安もあったので、

私はO社長に電話。


M「社長、やりましたね!
  ゆかりさん、
  “うん”って、言ったんですね。」

O「まあな…。
  大変だったけどな…。」


M「でも、大丈夫でしょうねえ。
  現場で、“やっぱり嫌だ”
  なんて言わないでしょうねえ。」

O「いや、それはないよ。
  ゆかりもプロだからねえ。
  “やる”と言ったら、しっかりやるさ。
  じゃ、しっかり頼むよ。
  いいもの、作ってくれよ。
  俺もあとから行くからさあ。」


「えっ、来んの?」

と、言いかけたが、

これは思いとどまる私。


♡♡♡



さあ、そんなわけで、

その10曲を私は、

私が選んだアレンジャーに振り分ける。


特に今回、

ストリングス(弦楽器)は、
極めて重要だと考えていましたから、

私が、
「弦を書かせたら、日本ではこの人…。」
と、日頃から敬愛していた、
前田憲男さんと倉田信雄くんを中心に、

若手のアレンジャーも、
大胆に起用して、
方針を事細かに説明して、

アレンジを発注。


こうして出来上がったスコア(総譜)を、
細かに検証して、
問題がないことを確認した後、
写譜にまわす。


やがて出来上がったパート譜を、
念のため一部ずつコピー。

その譜面は、

膨大なものになりました。


その膨大な譜面を、
衣服や身の回りの物と一緒に、
ボストン・バッグに詰め込んだ私は、

「よし!」とばかりに、

意気揚々と、


ロス・アンジェルスに向かって、


飛び立ったのでありました。


 
1991年8月3日のことでした。


……。



(つづく)




みなさん、

「シルヴァー・ウィーク」は、
いかがお過ごしですか。

(誰がつけたの、このネーミング…?)


仕事が山積みで、
どこへも行くあてのない私の、
唯一の息抜きは、

このエッセイを書くこと。


きっと、
同じような方もいらっしゃると思い、

きょうは、思いっきり、
長編でいってみました。

まあ、
お茶でも召し上がりながら、
ゆっくり楽しんで下さい。


さあ、このあと舞台は、

ロス・アンジェルスです。


(いっぱし、小説家気取りか、おまえは)



SHUN MIYAZUMI


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September 14, 2009

夏の6週間 その6


イチロー、やりましたね!

9年連続200本安打の、

メジャー新記録!!


これまた、

100年以上にわたって、
誰も達成したことのない、
大記録です。

パチパチパチ。


いったい彼は、
どこまで行くのでしょうか。

どれだけの記録を、
残すのでしょうか。


何度も言うように、
彼の最終安打数を見届けるまでは、
絶対死ねませんね。

ええ、長生きしなくては…。



そんなイチロー選手が、

私が応援していた、
「オリックス・ブルーウェイブ」に、
(前身はあの、阪急ブレーブス)
さほど注目されることもなく、
入団したのが、

1991年のことでした。


きょうは、


まさに、


その頃のお話です。




『夏の6週間 その6』


あれは、

1991年の初夏でしたか…。


ある日、

O社長から、
1本の電話をもらいました。

もちろん、
伊東ゆかりさんの新作に関する話です。


それは…、

「1980年代を中心とした、
 アメリカン・ポップスのヒット曲に、
 日本語の詞をつけて、

 本場ロス・アンジェルスで、
 あちらの一流ミュージシャンを使って、
 レコーディングをする。

 そんなアルバムを、
 『アルファ・レコード』(私の古巣)から、
 発売することになったので、
 よろしくね。」

とまあ、そんな内容でした。



「ロスか…。
 確かに、本場アメリカの、
 素晴らしいミュージシャンのサウンドと、
 彼女のヴォーカルがうまくブレンドしたら、
 エレガントな、
 素敵なアルバムになるだろうな…。」


「うん、これは面白そうだ!」

ということで、

「やりましょう、やりましょう。」
と、私は二つ返事。


特にストリングスのサウンドは、
日本とアメリカでは、
全然レベルが違いますからね。

ま、それだけでも、
私にとっては、
大いに楽しみな企画です。


♪♪♪



そんなわけで、

私たちはさっそく選曲に入りました。


とくに今回、
いつになく積極的だったのが、

ゆかりさんのマネージャーのY田氏。


彼は、
80年代のAOR系のバラードが大好きらしく、

デヴィッド・フォスターやら、
ボズ・スキャグスやら、
バリー・マニロウやら、
カーリー・サイモンやら、

自分のご自慢のライブラリーの中から、
ゆかりさんに合いそうな曲を、
100曲近くもカセットに編集して、
持って来るほどの熱の入れよう。


さらに、私がビックリしたのが、

当のゆかりさん。


普段こうした選曲に関しては、

「おまかせするわ〜。」
てな感じで、

淡々と、飄々(ひょうひょう)と、
クールに、人まかせの方なのですが、

今回ばかりは、
「私も選曲に参加したいなあ。」
ときた。

(珍しいこともあるもんだ…。)



ということで、

ゆかりさんと、Y田氏と、私は、
O音楽事務所の会議室で、
何度も何度もミーティングを重ねる。


Y田「シカゴの○○なんてどうですかねえ。」

ゆ「あれは、絶唱型の歌でしょ。
  あたしには合わないと思うけど。」


み「○○を軽いボサかなんかでやったら、
  面白いかも。」

ゆ「だったら、△△のほうが、
  いいんじゃない?」


Y田「バーバラ(ストレイザンド)なんて、
   どうでしょうねえ。」

ゆ「やーだー。あんなに上手く唄えないわよ。
  それに今回は日本語でしょ。
  ダメ。却下。」


み「一曲くらい、スタンダードもありじゃない?」
  ガーシュインとか。」

ゆ「ガーシュインだったら、○○が好きだわ。」


とまあ、

こんな会話をしながら、
オリジナルの音源を聴きながら、

楽しい選曲会は続く。



それにしても…、

1983年の初仕事から、ここまで、
4、5枚の彼女のアルバムを、
プロデュースしてきた私でしたが、

こんなふうに、
楽しそうに選曲の話をしたり、
音楽の話をするゆかりさんを見たのは、

初めてです。


ま、それだけ彼女も、

この企画を楽しみにしている、

ということでしょうね。



こうして、

何度目かのミーティングで、
ようやく最終的な10曲が決まりそうな、


そんな時、


そんな時…、


またしても現れた…、


あの、O社長が。


……。



いつものように、

カンラカンラと明るい笑顔で、
会議室に入って来た、O社長。

「やあ、みんなやってるねえ。
 ゆかり元気?
 宮住くん、ご苦労さん。
 どうY田、決まった?」


そして、
いつものように、
“軽〜い感じ”で席に着くと、

「どれどれ、選曲リスト見せてよ。」


私は、ほぼ決まった選曲リストを、

社長に渡す。


すると…、

一瞬にして、

O社長の顔が曇った。


そして、

「納得いかない」といった感じで、

こう言ったのです。



「なんだ…?

 『夏の6週間』が、

 入ってないじゃないか。」


……。



(つづく)




ようやく登場しましたね。


『夏の6週間』

……。


そうなんです。

これ、曲のタイトルだったんです♪


というわけで、

この長いシリーズも、

いよいよ第二部に突入です。


それにしても、
どなたかがおっしゃってたように、

確かに最近の私は、
長編小説家にでも、
なったかのような気分…。

アレンジも、
次から次へと大作ばかりだし…。


でもね、

楽しいし、なによりも、

達成感は格別ですからね。


はい、がんばって書きますよ。


ジャミン君たちにも、

がんばってもらいましょう。



ん?


そういえば…、


あっちは、



なにやってんだろう…?



SHUN MIYAZUMI


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September 09, 2009

夏の6週間 その5


ああ、やっと更新できた…。


いや、本当に忙しいのです。


でも、近い将来、
この忙しさは、
ジャミン・ファンのみなさんには、
大いに喜んでもらえる忙しさではないかと、

確信しておるのですが…。

……♪



というわけで、

明日もがんばろうっと。


おっと、その前に、

お待ちかね、


O社長のつづきでしたね…。




『夏の6週間 その5』


伊東ゆかりさんが所属する、
O音楽事務所の社長室には、

ここから生まれた、
いろんなヒット曲のトロフィーの他に、

私の目を引くものがありました。



それは…、


……、


巨人軍(読売ジャイアンツ)に関する、

さまざまな物。


王選手のサイン・ボールや、
長嶋選手のサイン入り色紙。

巨人の優勝ペナントやら、
マスコット人形やら、
V9ナインが勢揃いしたパネル写真やら、

もうもう、
ありとあらゆる「ジャイアンツ・グッズ」が、
飾られているのです。


聞くところによると、
この社長。

1965年〜73年にかけて達成した、
巨人の日本シリーズ9連覇、
(いわゆるV9)

その立役者の一人で、
川上監督の名参謀と言われた、
牧野茂ヘッド・コーチとも、

親交があったらしいのです。


そのせいか、

巨人の応援歌やら、
選手個々のテーマ・ソングなど、

こと巨人の音楽に関する物は、
すべて、このO事務所が制作。


そして、

そのカセット・テープは、
毎年、何十万本も売れて、
けっこうな収益があったそうなのです。


つまり、

巨人こと「読売ジャイアンツ」は、

O事務所の大事なお得意先だったわけです。


そして、この部屋は、

言ってしまえば、

「巨人の巣」

「巨人の巣窟」



しかし私は、

かつて『山田投手と私』でも書いたように、
熱烈な阪急ファン。


阪急にとっての巨人は、

リーグは違えど、
V9時代に、日本シリーズで、
何度も煮え湯を飲まされてきた、

いわば憎(に)っくき好敵手。


ですから私は、
当初からこの事務所では、
「野球の話は一切すまい。」

と、心に決めておりました。


♡♡♡



そんな、1985年のこと。


1985年というと、
真っ先に思い出すのが、
あの、
「御巣鷹山 日航機墜落事故」

本当に痛ましい、
悲しい出来事でしたね。

……。



そして、

もう一つビッグ・ニュースがありました。


それは、

あの、

「阪神タイガース」の優勝!



「巨人のライバル」
「伝統の一戦」
な〜んて言われても、

勝つのはいつも巨人で、

弱〜い阪神は、
なんと21年間も優勝していない…。


その阪神が、

なんと、

優勝したのです!!



もう、大阪は大騒ぎでした。

嬉しさのあまり、
道頓堀から飛び込んで、
一命を落とす若者まで現れる始末。


そして、
私の周りでも、

これまで虐(しいた)げられてきた、
阪神ファンたちは、
一挙に大爆発。


優勝の瞬間、

ちょうど私は、
レコーディング中だったのですが、

周りにいるトラキチたちのために、
そのレコーディングも中断して、
その優勝シーンを、

何度も何度も、
スタジオのロビーのTVで、
見せられることに…。



さて、その翌日。

ちょっと意地悪な私は、
O社長をからかってやろうと、
たいした用もないのに、
事務所を訪れました。

こんなチャンスは、
滅多にありませんからね。


そして、
O社長が現れると、
ちょっぴり皮肉をこめて、
こう言いました。

「社長、阪神が優勝しましたねえ。
 巨人は惜しかったですねえ。
 むふふふ…。」



すると、この社長。

とんでもないことを言ったのです…。


「そうなんだよ、宮住くん。
 阪神が優勝したんだよ。
 いやあ、きのうは嬉しくてね。
 俺は思わず泣いたよ。」

(……?)


私はすぐに反論。

そして、
デスクの後ろに飾られてある、
おびただしい数の巨人グッズを指差して、

「あ、あの、社長、
 なにを言ってるのかわからないんですが…。
 社長は巨人じゃないんですか?」


するとO社長。
悪びれもせず、
ぬけしゃーしゃーと、
こう言った。

「ああ、あれね。
 あれは商売よ。
 なんてったって巨人は人気あるからね。
 ビジネス、ビジネス。
 
 でもね、本当は俺ね、
 大の阪神ファンなの。
 子供の頃から、
 熱烈なトラキチなのよ。

 ああ嬉しいなあ。
 優勝だ、優勝だ。
 アハハハハハ。」

(……。)



私は、このときも、

大きな声で、

こう言いたい衝動に駆られました。


「社長。
 
 やっぱりあんたは、

 相当な“無責任男”ですよ。」


てね…。



(つづく)




はい、きょうのお話も、

内緒です。

アハハハ。


ただし、

一部のゆかりさんファンには、

バレてるという噂も…。


……。



SHUN MIYAZUMI



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September 01, 2009

夏の6週間 その4


昨夜は私も、遅くまで、

総選挙の開票速報を見てました。

ああ、眠い…。


でも、
予想どおりとはいえ、
すごい結果になりましたね。

ま、いずれにせよ、
一日も早く、
景気が回復することを祈りましょう。


民主党のみなさんには、
「責任ある政治活動」
を、頑張ってもらいたいと、
思います。


そう、責任ね。

無責任はいけませんよ。

無責任は…。


“無責任”は…。


……。




『夏の6週間 その4』


さて、

伊東ゆかりさんが所属する、
O音楽事務所の、
O社長とは、

いったい、
如何(いか)なる人物なのでしょうか。


今日は、それを、
徹底解明してみようと思います。

(もちろん、ご本人の許可など、
 いただいておりませんが、
 どうせインターネットなんぞ
 無縁の人でしょうから、
 ま、大丈夫でしょう…。)



まず、おそろしく大男。

シモンくらいあるのではないか。

恰幅(かっぷく)もよく、
まさに、社長の貫禄十分。

私より、10〜15才くらい年上でしょうから、
食べ盛りの少年時代に、
あの、食糧難の「戦争」を体験しているはず。

なのに、
この育ちっぷりは、
大いに謎…。


それから、

芸能プロダクションの社長というのは、
一般に、強面(こわもて)の、
ヤクザまがいの人が多いのですが、

この社長は、
いたって優しいジェントルマンで、
いつもニコニコ。

物腰も柔らかく、
あまり人に対して、
“怒る”という光景を見たことがない。


ただし、声はデカい。

ちょっと歪(ひず)んだ音色の、
大きな声で部下を呼ぶさまは、
「鐘が割れる」といった表現がピッタリ。

まさに迫力満点。


髪の毛は当時から薄く、
しかもオールバックにして、
ポマードで固めてあるので、
年齢よりも、ずっと老(ふ)けて見える。

しかし、これが一方では、
貫禄につながっているとも言える。


部下の面倒見もよく、
結婚式の仲人(なこうど)を引き受けた回数が、
当時にして、早くも8組。

うち、4組が早々と離婚したそうですが、
本人は、いたってあっけらかんと、
「勝率5割!」
と、高らかに自慢。


小さなことは一切気にしない。
もっと気にしていいことでも、
全然気にしない。

言い換えれば“大物”。

だから血液型は、
絶対O型だろうと、
私はみています。


車も、
「リンカーン」「キャデラック」といった、
バカでかいアメ車が好み。

(ああ、何から何まで大(O)だ…。)



ただし…、

こんな豪快なキャラのくせに、

音楽の趣味は、
いたってデリケート。

甘く切ない調(しら)べの、
「洋楽系ムード・ミュージック」がお好き。

とくに、カントリー、タンゴ、
そして、シャンソンあたりを語らせたら、
結構うるさい。


「ディナー・ショー」というジャンルを、
日本で確立したとも言える、
立志伝中の人物。

当時は、この事務所を通さないと、
ディナー・ショーが成立しないほどでした。


菅原洋一『知りたくないの』
スサーナ『アドロ』
ロス・インディオス『別れても好きな人』

あたりが、

この事務所から生まれた、
この社長の“趣味”を見事に反映した、
代表的ヒット曲でしょうか。

(敬称略)



ちょっぴりお人好しで、
ちょっぴりおっちょこちょいで、
ちょっぴりトンチンカンなところもあって、

それが、たまらない人間臭さを、
かもしだしている。

じつに愛すべきキャラを持った人です。

(でも…、ちょっぴりエッチでもあるので、
 そこは要注意。)



そう、それで思い出しました!

かつて、昭和30〜40年代に大ヒットした、
東宝映画の『社長シリーズ』

あの、最高のコメディー映画の中で、
森繁久彌さんが演じる、
あの「社長」さん。

あんなイメージが、
ぴったりかもしれません。


モーニング娘の、
「ニッポンのシャチョーさんも、
 イェイ、イェイ、イェイ♪」
という唄を初めて耳にしたとき、

私が、真っ先に思い浮かべたのが、
この、O社長のことでした。


人情味があって、
涙もろいところもある。

でも、それでいて、
何度も言うように、

と〜っても“無責任”。


とまあ、こんな人物です。
 

(いいのかな、ここまで書いちゃって。
 ちょっと心配になってきたぞ…。
 ……。
 ま、いいか。アハハ。)


♡♡♡



さて、そんなわけで、

1983年以来、私は、
この事務所の社長室に、
頻繁(ひんぱん)に出入りすることに、
なるのですが、

そこには、

音楽業界の、
どこの会社の社長室にも飾られてあるような、
数々の「ヒット賞」のトロフィーの他に、

もうひとつ、


私の目を引くものがありました。


それは……?



(つづく)




あははは。

駄目ですよ、
O社長に言いつけちゃ。

この後も、
ケッサクなお話が満載なんですから。


そっとみんなで、
楽しみましょうね。

無責任、無責任っと。

……。



さあ、今日から9月。

この夏、
「高校野球」と「世界陸上」で、
多大な時間を使ってしまった私ですが、

そのツケが廻ってきて、

いよいよもって、
大忙しとなりそうです。


でも、これから、
楽しいライブやイベントが、
目白押しですからね。
(追ってインフォメーション)


頑張りがいがあります。

ええ、ありますとも。


めざせ、

責任ある音楽活動!


(やれよ)



SHUN MIYAZUMI



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August 25, 2009

夏の6週間 その3


いやあ、すごかったですねえ。

甲子園の決勝戦。

忘れられない一戦になりました。


あの、9回の、日本文理(新潟)の攻撃は、
なんでしょう!

あの神がかり的な粘りは…。


「人間あきらめちゃダメだ。」

「あきらめなければ、
 あんな素晴らしい感動を与えられるんだ。」

ということを、
あらためて教えられる思いでしたね。


これだから、

高校野球はやめられない…。


というわけで、

今年も全国の球児たちに、

熱い拍手を送りたいと思います。


パチパチパチ。

また来年も、

待ってるよー。




『夏の6週間 その3』


1983年の春。

アルファを退社して、
まだ将来のプランなど、
なにも考えてない私は、

とりあえず、こんな感じで、
伊東ゆかりさんのアルバムの制作に、
携(たずさ)わる事になりました。


その最初のアルバムは、
『Fado』
というタイトルでしたね。

「ふぁど(Fado)」
(阿久悠:作詞 三木たかし:作曲)
というシングル楽曲を中心に据え、

当時の、
ニューミュージック・シーンで活躍する、
作家やミュージシャンを大胆に起用して、
私なりに、
渾身の力をこめて作ったアルバムでしたが、

残念ながら、
往年のようなヒットには至りませんでした。


しかし…、

当のゆかりさんからは、
「とっても気に入ったわー。」
と、お誉めにあずかったのです。

これは、嬉しかった…。


ま、スタート時こそ、
お互いの手のうちがわからないゆえ、

かなり緊迫した、
張りつめた空気の中での、
レコーディングでしたがね。

でも、それも、しだいに、
和気あいあい。

♡♡♡


そして、結局は、

1999年頃までの長きにわたって、
7、8枚のアルバムを、
プロデュースすることになるのですから、

人生というのは、
わからないもんですねえ。


のみならず、

CMや、
テレビ番組のテーマや、
果てはFMのジングルに至るまで、

こと「録音」が絡(から)む仕事は、
いつも私が呼ばれてディレクションをする、
といった関係にまで、
発展するのですから、

いやいや、
人の出会いというものは、
世の中というものは、

本当に不思議…。

(他人事?)



そんな、ゆかりさんから、私は、

仕事を始めるにあたって、
2つの注文を受けました。


ひとつは、

詞は、最低でも録音の3日前に渡すこと。


当時は、
ニューミュージックとやらの、
隆盛時でした。

で、このニューミュージック・シーンの、
アーティストや作家たちは、
とても自由奔放に、
言い換えれば、
とても“わがままに”仕事をする。

録音の直前まで、
詞が出来てこない、
なんてのは日常茶飯事。


でも、ゆかりさんは、
いわゆる歌謡芸能界で育った、
昔気質(かたぎ)の人ですからね。

これが、たまらなく許せないらしい。

実際、そういうことだけで、
唄う興味を失ったプロジェクトも、
多々あったらしいのです。


ま、そりゃそうだ。

これは彼女のほうが正しいです。


だから私は、

忠実にこれを守りました。



もうひとつは、

録音時は、
一切「禁煙」にして欲しい、

ということ。


当時は、
今のような「禁煙」「禁煙」
という時代ではありません。

(ああ、いい時代だった…。)


レコーディング・スタジオもご多分にもれず、

ブースにも、スタジオ内にも、ロビーにも、
どこにでも灰皿が置いてあって、

プロデューサーも、
エンジニアも、アシスタントも、
アレンジャーも、作家も、ミュージシャンも、
レコード会社の人も、事務所のマネージャーも、

もうもう、みんな、
スパスパ、モクモク、
プハ〜ッ、ブホ〜ッ。


で、ゆかりさんは、

これも大嫌い。

煙どころか臭いも大嫌い。


(これ、今では当たり前のことですが、
 当時ここまで主張する人は、
 少なかったですよ。)


でもね、

私は、

これも忠実に守りました。


録音当日は、
朝からスタジオでの喫煙を禁止。
灰皿もすべて撤去。

クリーンな環境で、
彼女の到着を待つ。

スモーカーの私には、
大変キツ〜い注文でしたが…。



ま、そんなこともあって、

その後も頻繁(ひんぱん)に、

お呼びがかかるようになったのでしょうか。


こうして、

伊東ゆかりさんの仕事は、

カシオペアと並んで、
当時の私には、
「レギュラー」とも言うべきものに、
なっていったのです。

実に光栄なことです。



さらには、

伊東ゆかりさんを心から愛する、
O社長の情熱とバックアップも、

フリーになりたての私には、
とてもありがたいものでした。



そう、あのO社長。

忘れてはいけませんね。


あの、一見豪快にしてジェントルマンの、

しかし、実はとっても“無責任な”O社長を。



そういえば、


あんなこともあったなあ…。



(つづく)




ああ、またしても、

もったいぶった終わり方に、
なってしまいましたね。

ご容赦のほどを…。


なんだか最近、
自分で予定しているよりも、
どんどん長くなってしまうのです。

書いてるうちに、
いろんなことを思い出してしまうから、

ですかね。

……。



さ、夏もそろそろ終わり。

「ジャミン・ゼブ 秋の陣」にむけて、

ガンガンいきましょうね。


高校野球終了後に、

さっそく一曲書きましたよ。


で、次はアレで、

その次はアレやって、

そして、アレと、アレは、

どうするかな…。


……。


zzz……。



SHUN MIYAZUMI

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August 18, 2009

夏の6週間 その2


さて、

そんなわけで、

アルファを退社して間もなく、
伊東ゆかりさんのプロデュースを、
やることになった私。


そんな私に、
O音楽事務所のO社長は、
何編かの詞を見せてくれました。

そして、こう言った。


O「これさあ、
  シングル候補になるように、
  頼んで作ってもらった詞なんだけどさあ、
  宮住くん、どう思うかなあ?」


それは…、

当時の歌謡芸能界にあって、
大ヒットを連発していた、
名声を欲しいままにしていた、

2人の偉大な「巨匠」の書き下ろし。

阿久悠さんと、なかにし礼さん、
の詞でした。


私「どう思うかって、
  こんな大先生たちの詞に、
  なんだかんだ言うことなんて、
  出来ませんよ。
  私のようなヒヨコが。」


すると、この社長、

O「いや、そう言わずに。
  君の率直な意見を聞かせてよ。
  これは、ヒットする詞かどうか、
  誰に曲を発注すればいいのか、
  ま、何でもいいんだなあ。
  いろいろ意見を聞きたいなあ。
  どう、宮住くん? ね、ね?」

と引き下がらない。


私は、仕方なく、
そのお二人の詞を、
じっくりと読ませていただきました。

……。



いやあ、さすがだと思いました。

私のようなヒヨコが見ても、
決して手抜きではない、
力強い作品だとわかる、
素晴らしいものでした。


私がそれを伝えると、
O社長、すごくご満悦。

O「そうか、そうか。
  やっぱりね。
  2人とも、ゆかりには乗ってるからね。
  ガハハハ。」

( ……。)



とは言いつつも、私的には、

どの詞も数カ所だけ、

抵抗のあるフレーズがある…。


しかし、当時の、こんな巨匠たちに、
「書き直して下さい。」
などとは、
とうてい言えません。

ええ、言えませんとも。


ましてや私は、
アルファというアメリカ・ナイズされた会社で、
ニュー・ミュージックとか、
フュージョンといった、
新しい音楽ばかりを、制作してきた男。

いわゆる、歌謡曲の世界では、
門外漢に等しい。
  

ま、お二人とも、
一回や二回は、
それとなくお仕事をさせていただいたことは、
ありましたが、

とても、何かを注文するという雰囲気では、
ありませんでしたね。

それほど、
威厳とプライドをお持ちでしたから。

そのうえ私は、
まだ20代の青二才だったし…。


でも私は、
お言葉に甘えてこう言いました。

私「そうおっしゃるのなら…。
  思うに、このフレーズと、
  このフレーズは、どうでしょうか…。
  私には、ちょっと抵抗があります。
  書き直してもらいたいところですが、
  でも、無理でしょうねえ。
  とても私からは言えませんし…。」


すると、O社長、ますます意気揚々と、

「そんなの、遠慮することはないよ。
 直してもらって良くなるんだったら、
 直してもらおうよ。
 なんなら俺から言ってやろうか。」


「そうですか。それだったら…。
 じゃ、社長にお願いしましょうかねえ。」
と私。


「わかった!」
とばかりに、この社長。

隣室にいる秘書の女性に大声で、
「お〜い、◯◯、
 阿久先生に電話してくれるー。」


しばらくすると、
阿久悠さんから電話が…。

O社長、元気よく受話器を取る。


O「やあ、阿久先生、
  素晴らしい詞をありがとうございました。
  でね、今回、宮住くんに、
  プロデュースをしてもらうんですがね、
  そうそう、あのアルファにいた宮住くんね。
  で、彼が、ちょっと直してもらいたい所が、
  あるらしいんですよ。
  今、私の隣にいますのでね、
  ちょっと代わりますから。」

(;;…。)


そして、ニコニコしながら、

「はい、阿久先生。」
と、私に受話器を渡した。

(なにが「はい、阿久先生」だ。
 話が違うじゃないの。
 もう、無責任だなあ…。)



でも、仕方ないですね。

私は、恐る恐る、

「あ、あの、み、宮住です。
 ご、ごぶさたしております。
 い、いや、いやいや、“気に入らない”なんて、
 め、滅相もない。
 あの、あそこの、あの部分だけ、
 ち、ちょっと、こんな感じで、 
 あわわわわわわわわ……。」

とまあ、
しどろもどろになりながらも、
がんばるしかない。


そして…、

先生の気分を害することなく、
なんとか話を終えると、 

汗びっしょりになった受話器を、
O社長に返しました。


すると、このO社長、
なにごともなかったように、
ぬけしゃーしゃーと、

O「直してくれるって?
  そうだろう、そうだろう。
  だから、俺が言えば、
  大丈夫って言ったんだよ。
  ガハハハ。」

(あのう、お言葉ですが、
 言ったのは私なんですけど。)


でも、なんとか事無きを得ました。



で、私が、
やれやれとばかりに、
額の汗をふいていると、

この社長、

間髪を入れずに、
こんどは、
なかにし礼さんを呼び出した。


しばらくすると、
なかにしさん電話に登場。


O「やあ、礼ちゃん、
  素晴らしい詞をありがとう。
  でね、今回、宮住くんにやってもらうのね。
  そうそう、あのアルファにいた宮住くん。
  で、彼が、ちょっと直してもらいたい所が、
  あるらしいんだ。
  今、隣にいるから、ちょっと代わるね。」

そして、
「はい、礼ちゃん。」
と、受話器を私に。


(ちょっと、あーた、
 またですかー。
 自分で言うんじゃなかったの〜。
 まいったなあ。
 ホント、無責任だなあ…。)


私は、このときも、仕方なく、

「あ、あの、ご、ご無沙汰しています。
 い、いや、“気に入らない”なんて、
 と、とんでもない。
 あの、あそこの、あの部分だけ、
 ち、ちょっと、
 あわわわわわわわわ……。」


そして…、

なんとか話を終えると、 

汗びっしょりになった受話器を、
再び、O社長に返す。


O社長、今回も悪びれもせず、

O「どう、直してくれるって?
  あ、そう。そりゃよかった。
  だから、俺が言えば、
  大丈夫なのよ。
  ガハハハハ。」

(言ってないから…)



でもね、

私はこのとき、

「この仕事は絶対うまく行く。」

と、確信を持ったのです。


なぜならば、

この、O社長の、

“無責任ぶり”はどうでしょう。


私が、幼い頃から敬愛してきた、
“心の師匠”と仰いで来た、
あの『日本一の無責任男』

植木等さんもビックリの、

強烈な、
“無責任ぶり”ではありませんか。


こりゃ、どう考えても、

私との相性は、

いいに決まっている。



「これは、いい仕事になりそうだ…。」



そしてこの感は、


見事に当たっていたのです。


……。



(つづく)




ああ、寝不足だ。

毎晩遅くまで、
(というより朝早くまで)
「世界陸上」を観ているからなのですが…。


そして、昼間は、
「高校野球」と「アレンジ」。

(順序が逆だろ)



それにしても、

ボルト(ジャマイカ)選手。


観ましたか?


100メートルを、

9秒58ですよ。

9秒58!


北京五輪のときも、
仰天しましたが、
いったい、この人は、
何者なんでしょうね。

年始の、
「私の10大ニュース 2008」
にも書きましたが、

この人の祖先には、
「豹」か「チータ」が、
いたんじゃないですかね。


そんなわけで、

200メートルも、リレーも、
見逃すわけには、
いかなくなりました。


ああ、どうしてくれるんだ、

ボルトちゃん。


(ええと、きょうの種目は、
 っと…。)



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 23:04|この記事のURLComments(22)TrackBack(0)

August 12, 2009

夏の6週間


きょうは、

伊東ゆかりさんの話でも、

書こうかな。


許可は貰(もら)ってませんがね。

……。




私が、
10年務めた「アルファ・レコード」
を退社したのが、

1983年の春のこと。


でね…、

今でこそ、
「日本のフリー・プロデューサーの草分け」
なんて言われているようですが、

「フリーになりたくて辞めた」
などという、
カッコいい退社ではありません。

これは…。


レコード会社とはいえ、
好きな音楽の仕事とはいえ、

なんとなく、
“宮仕え”が窮屈になり、
「もっと自由に生きたいなあ」とも思い、

わがままを言って、
辞めさせてもらっただけなのです。


そのときは、

「フリーでやっていこう」なんて、
あるいは、“いける”なんて、
これっぽっちも考えたりは、
しませんでした。

そんな甘い世界ではないことは、
わかっていましたから。


だが、幸いにも、

人気絶頂期にあった、
『カシオペア』の仕事は、
“フリー”の立場で継続できそうだし、

10年務めた退職金も頂いたし、

しばらくは、
なんとか食っていける。


いずれ、どこかに再就職するにせよ、

しばらくは、
のんびりと、
この退職金を食いつぶしながら、
ゆっくり次のプランを考えようかな…。


ま、そんな程度の、

お気楽な発想だったわけです。


子供もいる身でありながら、
なんとも無謀で、
“無責任”な発想ですが、

“無責任”は、
私が心の師と仰ぐ、
植木等さんの教えですからね。

(息子は1982年生まれだから、
 当時まだ1才の赤ん坊。
 そうそう、スティーブと同い年です。)


こればかりは仕方がない。

アハハ。

(アハハじゃない)



こうして、
退社後1ヶ月くらいは、
プ〜ラプラの毎日。

学生時代以来の、
自由な生活を満喫。

そして、
夜は毎晩、六本木のジャズ・クラブで、
酒ばかり飲んでおりました。

アハハハ。

(だから〜、
 アハハハじゃないってば。)



ところが、そんな時、

思いもかけず、
プロデュースの仕事が、
2本も入ってきた。


そのうちの1本が、

あの、

伊東ゆかりさんの仕事だったのです。



伊東ゆかりさん…。


私の少年時代のアイドル…。


ナベプロ(渡辺プロダクション)全盛期、
中尾ミエさん、園まりさんと並んで、
「ナベプロ3人娘」として、
華々しい活躍。

絶大な人気を誇っておりました。


甘く切ない声で歌う、
「コニー・フランシス」や、
カンツォーネの女王、
「ジリオラ・チンクェッティ」
のカヴァー曲は、

まだ小学生だった私の胸を、
それこそ鷲掴み。

『渚のデイト』(Follow The Boys)
『ボーイハント』(Where The Boys Are)
『愛は限りなく』(Dio Come Ti Amo)


(く〜〜! 可愛い〜〜!)

毎日、テレビのブラウン管の前で、
胸をときめかせながら、
観ていたものです。


私の高校、大学時代は、
一転してムード歌謡に変身。

ここでも、

『小指の思い出』
『恋のしずく』
といった、大ヒットを飛ばす。


そして、
80年代に入ると、
「リタ・クーリッジ」のカバー、
AOR系のバラード曲、

『あなたしか見えない』が、
またまた大ヒット。


一人の歌手人生で、

3種類の異なったコンセプトを、
すべてヒットさせてしまうなんて、
そう簡単に出来ることではありませんね。

やはり、
偉大なシンガーと言う他ありません。



そんな憧れの大スター、

伊東ゆかりさんのプロデュースを、

こんな若輩の私が…。

(できるのか…)



私は、

不安と期待が入り交じった気持ちのまま、
彼女の所属事務所である、
大手プロダクション、

「O音楽事務所」の、
O社長を訪ねました。


社長室のソファーで待っていると、
やがて、大柄なO社長が、
満面の笑みで現れた。

そして、
迫力のある低音で、

「やあ、Oです。はじめまして。
 アルファを辞めて、
 フリーになったんだって?
 だったら、ぜひ、
 伊東ゆかりの次のアルバムを、
 プロデュースしてくれませんかねえ。」

「フ、フリーになった…?」



さらに、

「ま、いずれプロデュース印税の、
 契約はするとして、
 これ、とりあえずの報酬ね。」

と言って、ぶ厚い封筒を私に渡す。


それは、

今まで見た事もない、
“キャッシュ”の札束。

(こ、こんなに…。)


アルファ時代の私の給料の、
2ヶ月分でした。


ま、後から冷静に考えたら、
もっと貰ってもよかったのですが、

なにせ、
プ〜ラプラの毎日でしたからね。


私は間髪を入れず、

「や、やります!」
と即答。


そして、

O社長の気が変わらないうちに、
その封筒を、

そそくさと、しまいこんだ。


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \



問答無用の交渉劇だ…。

……。



「フリー・プロデューサーの草分け」
と言ってもね、

とどのつまり、

始まりは、
ま、こんな感じだったわけです。


しかし、これが、結局は、

“フリー・ランス”として、
その後の人生を送ってしまう、
きっかけになったわけですから、

いやはや、人生とは、
わからないもんですねえ。

……。



さて、

交渉が成立(?)すると、

O社長は、
何編かの詞を、

私に見せてくれました。


それはね…、


……。



(つづく)




「ふるさと」「帰省」

か…。


そういえば、

そんな季節なんですねえ。


厳密な意味での、
「ふるさと」を持たない私には、
ちょっぴり羨(うらや)ましい、
季節でもあります。

でも、みなさん、

存分に、
楽しい夏休みを、
お過ごし下さいませ。


私も週末には、
親父の墓参りくらいは、
してこようと思っておりますが…。


というわけで私は、

ソーメン食って、

今日も、

「アレンジ」と「高校野球」。



毎年、毎年、


ワン・パターンの夏。


……。



SHUN MIYAZUMI

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April 05, 2009

恋するセゾン


さくら〜♪ さくら〜♪

みなさん、
もう花見は行かれましたか…?


桜の開花とともに、
春の訪れを歓ぶ。

毎年この季節になると、
「日本人に生まれて良かったなあ。」
と、しみじみ思いますね。


とくに今年は、
開花したあと「寒の戻り」があって、
その分、例年より長持ちしてくれたとか。

おそらく、
この週末が、
満開のピークでしょう。

さ、まだの方、
花見に出かけましょう。

ワッショイ、ワッショイ。



しかし…、

その一方で、

満開の桜を見ると、

私には、
ある苦(にが)い想い出が、
よみがえってしまいます。


毎年、

この季節になると、


決まって…。




『恋するセゾン』


今、私の目の前にある、
一枚のシングル盤。

アナログ・プレイヤーの無い、
今の私にとって、
それを聴くことは叶いませんが、

私がプロデュースした中でも、
生涯忘れることのできない、
作品の一つです。

いろんな意味で…。



その曲とは、

松原みき
『恋するセゾン〜色恋来い〜』


090405 Season


松原みきちゃんといえば、
真っ先に浮かぶのが、

『真夜中のドア』
という曲。

70年代の終わりに、
当時流行(はや)り始めていた、
「フュージョン・サウンド」を、
いち早く歌謡曲(J-POP)に取り入れて成功した、
画期的な作品でしたね。


また、

『GU-GU ガンモ』

というアニメの主題歌も、
子供たちから、
圧倒的な支持を得ました。

覚えてらっしゃる方も、
多いのではないでしょうか。



あれは、1985年の年初め。
(だったと思います)

私は、ポニー・キャニオンから、

この、松原みきちゃんの、
プロデュースの依頼を受けました。


85年というと、
私は33才。

アルファを辞めて、
フリーになって間もなくの頃です。

自由奔放に、
のびのびと制作に励んでいた時代です。

しかも、彼女の、
ややハスキーな声と、
パンチのある歌い方は、
とても好きでしたから、

喜んでお引き受けしました。


さらに、この依頼には、
もうひとつ条件がありました。

当時、アルファ・レコードの専属で、
絶頂期を迎えていた、
「カシオペア」のようなサウンドを、
うまく取り入れて欲しい、

ということでした。


それも、おやすいご用です。

さすがに、
カシオペア・サウンドの中核である、
リーダー、野呂一生(ギター)君の器用は、
勘弁してもらいましたが、

キーボードの向谷実君を、
サウンド・プロデューサーに仕立て、
ドラムの神保彰君、
ベースの桜井哲夫君、
らにも参加してもらいながら、

録音は快調に進行。


フレンチ・ポップスの香りを漂わせ、
ヨーロピアン・ムードを狙った、
お洒落で、エレガントなサウンドは、

まさに、私の描いていた、
みきちゃんのイメージにピッタリ。


レコード会社の中には、

「ちょっと、お洒落すぎないか…?」

「サウンドにばかりこだわりすぎて、
 楽曲が難しすぎないか…?」

「今流行りのポップスのサウンドから、
 逸脱していないか…?」


といった、不安の声もあったようですが、
私は一向に気にしない。
初志貫徹。

私には自信がありました。

(なあに、このコンセプトは、
 絶対受けるさ。)


アルバム・タイトルは、
『Lady Bounce』

私の大好きなジャズ・ピアニスト、
エロール・ガーナーが、
フランスの曲ばかりを集めたアルバム、
『パリの印象』の中にあった、

「Paris Bounce」
という曲名を文字る。

こんなとこまで、
フランスかぶれ。


さらに、私の自信をかきたてるもの。

それは…、

強力なシングル・カット曲の存在。


作詞:康珍化
作曲:亀井登志夫

両君の手による、
素晴らしい曲が、
出来つつあったからなのです。


とくに、作詞の康(かん)君とは、
その数年前に、
三好鉄生『涙をふいて』という曲を、
一緒に作った仲でもあり、

しかも、その当時、

『桃色吐息』(高橋真梨子)
『悲しい色やね』(上田正樹)
『君だけに』(少年隊)

といった、ヒット曲を連発。

冴えに冴えていたので、
大いに期待していましたが、

やはり、
狙った通りの、
素晴らしい詞が来ました。



「来い(こい) 来い(こい)
 色恋(いろこい) 来い(こい)
 花が咲く この心に
 来い(こい) 来い(こい)
 色恋(いろこい) 来い(こい)
 ときめき待つ この胸に ♪」

どうです。

鮮やかでしょ。


2コーラス目のサビはこうです。

「来い 来い 色恋来い
 花がまだ 咲いてるまに
 セゾン セゾン 愛しても
 すぐにあせる夢の色 ♪」



曲もポップで、弾(はじ)けてて、
スケールが大きくて、感動があって、
もう、文句無く素晴らしい。

まさに、春にピッタリの唄です。


折しも、
レコーディングは、
桜が満開の頃。

スタジオは、
かつて「カツオくんと私」にも登場した、
桜新町にある、
『スタジオ・ジャイヴ』


桜新町といえば、
その名のとおり、
桜の名所。

スタジオの周りも、
公園も、道という道も、
もうもう、
気も狂わんばかりの桜、桜、桜。


そんな桜をいっぱいに浴びて、
スタジオに入ると、

みきちゃんの、
天真爛漫な歌声が響きわたっている。


M Matsubara 1


洗練された、都会的な、
カシオペアのようなサウンドに乗って。

♪♪♪


そしてアルバムは完成。


M Matsubara 2
     (楽しい打ち上げの写真)


私は、ヒットを確信しました。

満開の桜をバックに、
溌剌(はつらつ)と歌ってる彼女の、
プロモーション・ビデオ、
かなんかを想像しながら、

「これ、化粧品のCMにピッタリだな。
 アハハハ。」

「いや、エアー・フランス航空もいいなあ。
 ウシシシ。」



しかし…、

私は…、

プロデューサーとしてはあるまじき、

致命的なミスを犯していたのです。


通常、作品が完成してから、
発売になるまでは、
約3ヶ月の時間を必要とします。

したがって、
桜が満開のときに完成した、
この曲(アルバム)が発売されたのは、

6月…。


6月といえば梅雨の季節。

毎日、毎日、
鬱陶しい雨、雨、雨。
湿気ムンムン。


こんな曲をかけてくれる、
ラジオ局は、
どこにもありません。

ドラマの主題歌も、
CMも、
季節感が違うとハネられる。

……。



結果は…、

芳(かんば)しくありませんでした。


申し訳ないことをしました…。



数年後に、
このアルバムを、
もう一度聴いたことがあります。

たしかに、

コンセプトやサウンドにこだわりすぎて、
「唄(うた)」
というものを、
おろそかにした感じは受けました。

若気の至りとでもいいましょうか。


あのとき、
周りの何人かから受けた批判も、
今となっては、

甘んじて受けましょう。


しかし、

あの唄だけは、

どうしても、

当てたかった。


『恋するセゾン〜色恋来い〜』

だけは…。

……。



時は流れて、

2004年のある日のこと。


「そういえば、松原みきちゃん。
 ずいぶん会ってないけど、
 元気かなあ。」

と、突然思い出し、
ポニー・キャニオンの友人に、
電話を入れてみたところ、

信じられないような答えが、
帰ってきました。


「彼女、死んだよ。」

「……。」


気丈な彼女は、

誰にも悟られないように、
最後まで明るく振る舞っていたそうですが、
病名は、

「子宮頸癌」


44才という若さでした。


かわいそうに…。



私は、

毎年、
この季節になると、

東横線の中目黒駅を降りて、
目黒川の桜を見にいくのですが、

美しい桜並木を見るたびに、
どうしても、
彼女と、
あの唄を、

思い出してしまいます。


そして、天国のみきちゃんに、

そっと手を合わせ、

心の中で、こう呟(つぶや)くのです。


「みきちゃん、ゴメン。
 ヒット曲を、
 はずしてしまった…。」



もう、許してくれてるかな…。



SHUN MIYAZUMI


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February 16, 2008

演歌と私 その6 最終回


いやあ、

怒濤の一週間でした。


2/12(火)「六本木 スイート・ベイジル」
2/13(水)「パシフィコ横浜」
2/14(木)「名古屋 ブルーノート」

そして昨日は、
ニューアルバムのプリ・プロ開始と、

完全にジャミン漬けの一週間。


でも、おかげさまで、
どのライブも、
超満員のお客様の熱気に後押しされ、

素晴らしいものになったと思います。

若いジャミン・ゼブにとっても、
収穫の多い、
ライブ・ウィークになったのでは、
ないでしょうか。


みなさん、

お疲れさまでした。


というわけで、

私も今日は完全休養。


今を去ること、
30数年前の若かりし日を、

回想してみたいと思います。



2005年04月24日 No.108
演歌と私 その6 最終回


せっかく有線でベスト10してるのに、

肝心の発売後のスケジュールが真っ白。

……。


もっとも蒼ざめたのは東芝です。

これからTVの歌番組やラジオ・ゲストに、
華々しく出ていくことを、
想定していたわけですからね。

でも、
自分で連れてきた事務所だから、
あからさまに文句をいうわけにもいかない。

村井社長の反対を押しきって、
アルバムまで作っちゃった私も、
実は大慌て…。


「仕方ない、
 みんなでスケジュールを取りに行こう。」
と、元気なく団結したものの、

世の中、そんなに甘くない…。


誰も見てないような深夜番組で、
ちょこっと唄うのが決まったそうですが、
3ヶ月後のお話。

朝の天気予報のバックでちらっと出てくる。
これは4ヶ月後。


そうこうするうちに発売日。

……。


やはり有線だけではダメですね。

まったくゼロというわけではありませんが、
期待していた数字には、
ほど遠い。

予算も、
全国キャンペーンで,
あらかた使い果たしたらしく、
もはや何の手も打つことができない。

そのうちに、
有線チャートも下がりはじめ、

3ヶ月後には、

すっかり消えてしまいました。


惨敗…。


シングルが売れないのだから、
当然アルバムも発売中止です。

「ほら、俺の言ったとおりだろ。」
という村井社長の冷ややかなお言葉。

あんなに乗ってたA課長も、
なぜか私と目を合わせるのを避けるように…。


「いや、ヒットを作るのは難しい…。」

思いつきだけの企画じゃだめなんですね。


その後、
もう一枚だけシングルを出しましたが、

その頃には東芝も、
別の新人歌手の売り出しに必死で、
こっちには目もくれない。
したがって、
当然売れない。

「チッ、みんなあんなに乗ってたくせに、
冷たいなあ…。」


こうして、
残念ながらこのディスコ演歌は、

幻のヒット企画と相成った訳です。


それでも、

作詞の鳥井実、
作曲の猪俣公章
といった先生方はやさしく、

「なあに、
 そんなに最初からうまくいく訳ないよ。」

と、はげましてくださったり、
頼んでもいないのに、
新しい曲をどんどん書いてきたりします。


でも、
その作品をつらつら見ているうちに、
私の中に、

ある疑問がわいてきました。


冷静になってみると、
詞も曲も、
どれもみな同じに感じてしまうのです。

というより、
その中に秘められた、

人生、恋愛、友情、旅情、
といった、
さまざまな「演歌の世界」の持つ深みが、
全く理解出来ていない自分に、

気づいたのです。


思えば、

クラシックに始まって、
ビートルズやモータウン・サウンドで、
少年期を過ごし、
ついこの前までは、
ジャズ・ピアノに夢中になってた私。

でもその先生方は、
生きざまから、
なにもかもが、

‘演歌そのもの’なんですね。


そんな彼らが、
丹精込めて作った大事な作品を、
‘ディスコ演歌’とか言っちゃって、
面白可笑しく、
遊び半分でやってしまった私。


売れるわけありませんね。

人生も、
エンターテインメントの世界も、

そんな甘いものじゃない…。


「俺はまだまだ若い…。」


苦い思い出だけが残った、


私が24才の春のことでした…。



(おわり)



(感想 2008/2/16)


これ以降、

フリーになってから一、二度
中村泰士さんの依頼で、
お手伝いはしましたが、

自分から、
手をつけることはやめました。

演歌。

これはこれで、
おっかない世界ですから。


‘餅は餅屋’

‘生兵法は怪我のもと’


やはり人間、
得意の分野で腕を振るうのが、
一番ですね。


アルファだってそうです。

誰も、
好んで演歌を聴いてる人なんて、
いなかったんですから。


A課長をのぞいて…。


(アハハ、お元気ですか?)



SHUN MIYAZUMI



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February 09, 2008

演歌と私 その5


また、やっちゃいました。

なにを?


昨夜、
大阪プロモーションに出かける、
ジャミン・ゼブを見送ったあと、
学芸大の某ジャズ・バーに行ったのですが、

また来ちゃったんですよ。


誰が?


CHIHARU(チハル)。


私の大好きなジャズ・シンガー。


そして、その直後に、
ご丁寧に、
ベースのエディ河野まで。


かつて、
「わかっちゃいるけどやめられねえ」
というエッセイにも書きましたが、

この3人が揃ったら、
もうダメです。

朝まで狂ったように、

セッション。

……。


おかげできょうはボロボロ。

アレンジ仕事があったのに。


いけませんなあ…。

(めちゃめちゃ楽しかったけど…)


というわけで、
アレンジは明日頑張ることにして、
きょうも、
30数年前に、


タイム・スリップ。



2005年04月02日 No.107
演歌と私 その5


意気揚々と名古屋に行ったものの、
新幹線のストライキに巻き込まれ、
あやうく餓死しそうになった、
私たち。

A課長は上司から、
「大人がついていて、なんたるザマだ!」
と、お叱りを受けておりましたね。

アハハハ。


さて、そんな中、

たかしな真『涙の海峡』の、
有線チャートは相変わらず好調。
全国ベスト10をキープしております。

そして、
発売日も、もうすぐ。


「こりゃ売れるな。」
と確信した私。

それならば今度は、
「アルバムを作ろう」
と思い立ちました。


さっそく企画書を書いたところ、
もちろんA課長は大乗り。

ところが、
社長の村井(邦彦)さんは、
意外にも渋〜い顔。


以下、私と村井社長(M)のやりとり。

M「シュン、俺はまだアルバムは早いと思うよ。」
私「でも、有線でベスト10に入ってるんですよ。」

M「あのね、有線ってのはね、
  ボクシングで言えば‘ジャブ’のようなものなの。
  今はなんとなくイメージができつつある段階。
  これだけで即売れると思ったら、
  大間違いなのよ。」
私「でも、それだけ反応があるってのは、
  売れる可能性大ってことじゃないですか。」

M「あのね、本当に大事なのはこれから。
  TVやラジオで、きちんと流れてね、
  ああ、あの曲はこれだったんだ、
  と認識されたときに、
  初めて売れるのよ。」
私「でもその時にアルバムを準備してないと、
  それから作ったんじゃ、
  遅いんじゃないですか。」

M「全然遅くないと思うよ。」
私「お言葉ですが、
  これは企画が面白いんですよ。
  ディスコと演歌の融合。
  売れたらきっとみんな真似しますよ。
  ですから、
  早め早めに準備したほうがいいですよ。」

M「お前が言うほど、
  そんなに面白い企画かなあ?」
私「……。」

M「まあいい、じゃやってみろよ。
  そのかわり、
  まだ売れたわけじゃないんだから、
  安く作れよ。」


「はいーっ!」
てなもんで、
さっそく選曲。

企画の面白さ(あくまで個人的見解)
を全面に押しだすべく、
『涙の海峡』とカップリングをのぞいた
残りの8曲は、
すべてカバーでいくことにしました。


『よこはまたそがれ』『北の宿から』なんかは、
シルヴァー・コンベンションばりに、
当時流行りの、
サンフランシスコ・ディスコのサウンドで。
ドンツクドンツクのリズムに、
ワウ・ギターがワカチュク、ワカチュク。

『弟よ』では、
コーラス・グループ「イブ」を呼んで、
大ゴスペル・コーラスの嵐。

東芝によいしょの意味もあって、
『霧にむせぶ夜』(黒木憲)
なんかもやった。


とりあえず私が知ってるレベルの
演歌のヒット曲を、
アレンジャーの川口真さんをけしかけて、

これでもか、これでもかと、

面白可笑しく、
どハデなサウンドで、
やりまくっちゃいました。

いやあ、面白かった。

大いなる自己満足。


A課長はもとより、
東芝の宣伝も「おもしろい、おもしろい」
と手放しで誉めてくれましたよ。


よし、これで準備万全!

早く発売しろ。
早くヒット・チャートを駆け上がれ。


そんな思いの、
発売日直前のある日。

東芝、アルファ、そして事務所、
関係者が集まって、
最後の宣伝ミーティングが開かれました。

場所は東芝の大会議室。


はじめに、東芝の宣伝課長から、
有線はじめ、
全国キャンペーンの成果についての報告。

そして、
お次は事務所から、

発売日以降の、
TV、ラジオ、イベント等のスケジュール報告が
なされるはずでした。


当時は今と違って、
TVやラジオや新聞の取材等は、
“事務所”がブッキング。

レコード会社はあくまで、
有線やラジオ・スポットなど、
お金を使ってサポートするという、
役割分担だったのです。

したがって、
渡辺プロダクションのような、
‘TVに強い’大手プロダクションと組むことが、
ヒット・アーティストを生む近道。


さすがにこのプロジェクトは、
大手プロダクションは、
名乗りをあげませんでしたが、

それでも東芝が意気揚々と連れてきた、
この事務所。
(仮に○○企画としておきます。)

今はそれほど力はないにせよ、
かつて、昭和30年代には、
御三家といわれた大スターや、
有名歌手などを抱え、
業界にさっそうと君臨していた事務所とか。


したがって、
東芝の先行プロモーションで、
有線を中心に全国キャンペーンで
村井さんが言うところの
‘ジャブ’を効かせてきた今、

いよいよ今度は事務所の出番。

さあ、
どんなTV番組が入ってるのだろう、
と、みな楽しみに報告を待ったわけです。


ところが、

ところが…、

と、ところが……、


スケジュール帳を見てみな仰天。


今月も、

来月も、

その次の月も、

そのまたその次も、


何にも、

入ってない。


TVはおろか、

ラジオも、
新聞の取材も、
雑誌の取材も、
イベントも、

とにかく、


な〜〜んにも、

入ってない。


真っ白。

……。


私たちは、

思わず顔を見合わせて、


がく然としたのでした。


(つづく)



(感想 2008/2/9)


きょうの大阪は、
すごい雪だったようですね。

ジャミン初の大阪ミニ・ライブ。
人が集まったのかなあ。

ちと心配なところですが…。


そして来週は、
「六本木スイート・ベイジル」(2/12)
「名古屋ブルーノート」(2/14)

と、大きなライブがありますね。

六本木に続いて、
名古屋も‘完売近し’のようです。

メンバーのテンションもうなぎ上り。


中京圏のかた、

ぜひお早めにご予約を。


(朝までピアノ弾いて、
 遊んでる場合じゃないだろ…。)



SHUN MIYAZUMI



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February 03, 2008

演歌と私 その4


ああ、面白かった。

なにが…?


デンゼル・ワシントン主演の映画、

『デジャヴ(Deja Vu)』


通信衛星を使って、
4日前の映像をモニターしながら、
特定の犯人、犯行場所をわりだしていく、
というサスペンスものなのですが、

今ならこんなこと、
朝メシ前かもしれませんね。

ちょっと空恐ろしい気がしました。

最後の‘タイム・マシーン’的展開は、
やりすぎの感もありましたが(笑)。


いずれにしても、

ここ10年あまりの、
テクノロジーの進歩は、

目を見張るものがあります。



そこへいくと、

たった30年とちょっと前、
のことなのに、


世の中、

こんなだったんですかぁ、


という感じですかね…。



2005年03月20日 No.105
演歌と私 その4


新幹線が停まってる…。

私たち、
名古屋で足止め…?


しかも、

前日のドンチャン騒ぎで、
仮払いの金を、
ほとんど一日で使い果たしてしまった…。


今を去ること、

約30年前のお話。


当時はね、
キャッシュ・カードなんて、
ありませんでしたよ。

したがってお金は、
登録してある銀行でしか、
おろせなかった。

今なら、
会社に電話して、
すぐに入金してもらえば済む。

あるいは、
クレジット・カードのキャシングなどなど、
旅先で金に困っても、
全然平気。
日本中どこでもおろせる。

でも当時は、

まったくダメ。


30年前…。

つい、この間のことのようですが、
思えばこの間に、
文明って一気に発達したんですねえ。

キャッシュ・カードもキャッシュ・ローンも、
携帯電話も、パソコンも、
カラオケ・ボックスも、コンビニも、
CDも、MDも、

な〜んにも無かった。


若い人には信じられないでしょうが…。


というわけで私たち、
3人合わせて1万円にも満たない所持金で、

今日一日を過ごすハメになりました。


しかたなく、

その辺で軽くメシを食って、
東芝のNさんに電話して事情を話したところ、

さすがにハートのあるNさん、

「いやあ、それは災難でしたな。
 よろしい、
 今日も私がお付き合いしましょう。」

と言って下さった。


早速東芝に赴き、
きのうと同じように、
有線やら、ラジオ局やら、
新聞社などを廻ってプロモーション。

これで何とか昼間の退屈からは、
逃れられた。


そしてまた夜が来ました。

Nさん、

「きのうはA課長にさんざんお世話になったので、
 今日は私がおごる番。
 さ、何が食べたいですか?
 遠慮なく言って下さいよ。」

と、涙が出るようなありがたいお言葉。


遠慮なくご馳走になったあとは、

きのうと同じように、
またまたNさんの行きつけのスナックへ。

そしてきのうと同じように
ドンチャカ、ドンチャカ♫

みんなで交代で演歌を唄いまくり、
口角泡を飛ばしながら、

「いやあ、この曲はいい。
 いやあ演歌の未来は明るい。
 日本の未来は明るい。」

と、まるで,
きのうのビデオを見てるかのようなワル乗り。


さらに!

「もう一軒行きましょう、もう一軒。」

と、Nさんの口車に乗せられて、
またまたお姉ちゃんのいる店へ。

ここでもドンチャカ、ドンチャカ♫

ただし、
今日はすべて東芝持ち。

……。


こうして、
夜もとっぷりと更け、

我々そろそろ、
おいとますることにしました。

A課長
「いやあ、すっかりお世話になりました。
 みんな、
 このご恩は一生忘れちゃいかんぞ。」

私「(よく言うよ)……。」

Nさん
「ま、明日は電車も動くでしょう。
 私達も頑張りますから。
 絶対ヒットさせましょうぞ。」

と有り難いお言葉まで頂いて、
タクシーでホテルまで帰り、
すぐさまバタン・キュー。

zzz……。



朝が来ました。

きのう同様、
すさまじく酒臭い私たちは、
おそるおそる名古屋駅に向かう…。


しかし、


まだ、


動いていない。


……。


この時点で、
私たち3人の合計所持金は、

約5,000円ぽっきり…。


さすがに今日は、
東芝に電話するわけにもいかず、
さりとて、
まわりに知人もいない。

途方に暮れた私たちは、
仕方なく、
その辺の「立ち食いソバ」をかきこみ、
ホテルの部屋で、
じっとしてることにしました。


退屈極まりない午後を過ごしたあと、
晩飯は、
駅前の立ち食いラーメン。

それでも、
あまりに空しいので、
酒屋で安酒と安いツマミを買って、
A課長の部屋で細々と宴会。

深夜、腹が減ると、
またまた駅前の立ち食いラーメン。


なんとも、
さえない出張になってしまいました。


そして運命の朝が……。


今日も停まってたら、

私たち、餓死するかもしれない。


……。



よかった…。

新幹線、動いてました。

ホッ。


ホテル代は請求書扱いにしてもらい、
一番安い駅弁を3個買って、
前もって買っておいた切符で、

ようやく帰ることができました。


東京駅に着いたときの所持金といえば、

A課長1,000円、

たかしな君500円、

私に至っちゃ、
100円玉が2,3個という、
ありさまでしたね。


みなさん、

旅先での、
金の使いすぎには、
くれぐれもご注意を。


それでも、

その2週間後には、
名古屋有線でもベスト10入りしたのですから、

この珍道中もムダではなかった。

と、自分に言い聞かせましたがね…。


(ああ、思い出すだけでも、
 おぞましい…。)



(つづく)



(感想 2008/2/3)


彼らのブログによると、

ジャミン・ゼブ初の、
名古屋プロモーションは、

なかなか優雅なもの、
だったようですね。

よかった、よかった。

(私とは、えらい違いだ…。)


それにしても、
そんな時期に、
またまた私が、

こんな名古屋の珍道中を書いている。


現在と過去が、
奇妙にリンクする、
このブログの特性は、

今年も健在、

というべきか…?


ううむ……。



SHUN MIYAZUMI



woodymiyazumi at 21:57|この記事のURLComments(12)TrackBack(0)

January 29, 2008

演歌と私 その3


いやあ、寒いですねえ。

めったに風邪などひかない私も、

さすがにこの週末は、
寝込んでしまいました。


おかげで、
仕事の予定が、
大幅に狂ってしまうハメに。

今日から、
巻き返さないとヤバい。

……。


といいつつ、

すぐに仕事する気にもなれないので、

エッセイの更新。


今を去ること、

約30年以上も前のお話です。



2005年03月14日 No.104
演歌と私 その3


有線全国チャートで見事ベスト10入りした、

快調、たかしな真君。

そして、

『涙の海峡』


お次は、
名古屋を重点的に攻めよう
ということになりました。

なぜなら名古屋には、
東芝では演歌を売らせたら‘天下一品’
Nさんという、
名物プロモーターがいたからです。


東芝というレコード会社は、
どちらかというとポップス系が得意。

演歌の得意なビクターやコロムビアと違って、
どちらかというと、
演歌にはあまり力を入れない。

それでも、

城卓也『骨まで愛して』
克美しげる『さすらい』
黒木憲『霧にむせぶ夜』

などなど、
ときおりヒット曲は出しておりました。

それらのヒットに、
大きく貢献したと言われるのが、
ベテラン・プロモーターの、
この、Nさん。


ならばこれは、
たかしな君と合流して、
ぜひご挨拶をせねば、
と思い、

すぐに出張申請。

すると上司のA課長が、
「いやそんなことだったら自分も行く。」
と言うのです。


当時のアルファはまだ、
「アルファ・アンド・アソシエイツ」
という名の原盤会社。

後にレコード会社に出世するのですが、
当時は制作のみ。

宣伝、販売は、
大きなレコード会社と契約して売ってもらう、
という規模の会社。

それでも、
ガロ、赤い鳥、ユーミン、吉田美奈子など、
後のニュー・ミュージック界を
リードするアーティストが多数在籍。

時代の先端を行く、
おシャレな作品が話題の会社でした。


ところが、
このA課長だけは、
実は大の演歌好き。
酔うといつも、
ぴんから兄弟の「おんなの道」を唄いまくる。

当然のように彼は大乗りです。

「シュン、偉い!!
 俺はアルファに入って、
 初めて興奮する曲に出会ったぞ。」

「……。」


そんなわけで、
A課長と名古屋へ珍道中、
と相成りました。

駅に着くと、
さっそく、たかしな君と合流して、
まずは東芝の名古屋営業所へ。

そして噂のNさんにご挨拶。

ニコニコ顔のNさん、
開口一番、
「いやあ、この曲は売れますぞ。
 さっそく有線回りをしましょう。」

と、市内あちこちの有線放送所へ。
そして、
有線嬢のみなさんにご挨拶。


有線というところは、
歌手が挨拶に行けば、
かならず一回はかけてくれます。

その後はリスナーのリクエスト、
ということになるのですが、
有線嬢が気に入れば、
リクエストがなくても、
かけてくれるんだそうです。

さては、
イケメンで物腰の柔らかい、
たかしな君。

あちこちのベスト10入りは、
彼の功績によるものも多いのでは、
と、思いましたね。


その後も、Nさんに連れられて、
ラジオ局、テレビ局、新聞社、
などを精力的に回り、
この日のキャンペーンは終了。

「さあ、夜も更けた。
仕事はこのくらいにして、
パーッと飲みに行きましょう。」
とNさん。


まずメシを食い、
Nさんの行きつけのスナックへ。

ここでNさん、
得意の「骨まで愛して」を熱唱。
(ちなみに当時のカラオケは、
8パックのカセット)

たかしな君はもちろん「涙の海峡」。
A課長はおハコの「おんなの道」。
私もヘタな唄を一曲。(何だか忘れました。)

みんなで飲んで唄って
ドンチャカドンチャカ♫


Nさん、ますます上機嫌になり、
「いやあ、気分がいい。
もう一軒行きましょう、もう一軒。
ママお勘定。」

するとA課長、
「いやここは私共におまかせを。」

Nさん、
「悪いですなあ、じゃ次は私が。」
と、こんどはおネエちゃんのいるクラブへ。

ここでも唄って、騒いで、
ドンチャカドンチャカ♪♪♫


以下、私とNさんの会話。

N「しかし、君は若いのにいいもの作るねえ。
  さすがアルファだ。
 実にアイディアがいい。」

私「いや、そのぉ…、
  ちょっと面白がって作っただけでして…、
  ええと、はい…。」

N「ご謙遜、ご謙遜。
  うちの演歌のディレクターなんて、
  最近ロクなもの作りゃしない。
  あなたの爪のアカでも飲ましたいものですよ。
  ガハハハハ〜。」

私「いや、あのぉ…、実は私、
  演歌というのはそんなに詳しくなくて…。
  ちょっと興味本位で作っただけの…。
  あのぉ…。」

N「いや、サウンドがいい。
  演歌もこうした、
  新しいチャレンジをして行かなくちゃ。
  ガハハハハハ〜〜。」

私「いや、その、私元来、
  ジャズとか、ポップスとかの方が、
  あの、なんというか、ま、得意というか…。」

N「いや、そういう人が演歌を作ってくれる。
  A課長!
演歌の未来は明るいですな。
  ガハハハハハハハハ〜〜〜。」


ここで、
調子にのったA課長が割り込んでくる。

A課長
「そうですとも!
 この宮住は、当社のホープでして。
 これからもどんどん、
 演歌を作らせますから。」

私「(よけいなことを……)」

N「いやあ、痛快、痛快!!
  さ、あしたも早いんでしょ。
  ママ、お勘定。」

すると、またしてもA課長
「いや、ここも私が。」

「課長大丈夫ですか?
 ここ高そうですよ…。」
と私。

A課長
「大丈夫、大丈夫。
 いっぱい仮払いしてきたし、
 どうせあした一番で帰るんだから。」


ちなみに、当時我々庶民は、
「キャッシュ・カード」というものを、
持ってはいませんでした。

支払いはすべてキャッシュの時代。
キャッシュ・ローンもサラ金も無い時代。


でも、
Nさんの悪乗りをみて、
すっかり嬉しくなったA課長。

仮払いの金を、
惜しげもなく、ほぼ使い果たし、

「さ、あしたは早い。帰って寝るぞー。」

と、3人ともフラフラの千鳥足で、
宿泊先の名古屋ステーション・ホテルへ、
戻ったのでした。

おやすみなさーい。

zzz…。


朝が来ました。


すっかり二日酔いの3人は、
隣接している名古屋駅へ。

すると…、

駅の構内に入るやいなや、
こんな看板が、

大きく貼りだされていたのです。


「本日ストライキのため、
 すべての運行は、
 ストップしています。
 運転再開のメドは立っていません。」


「ん?。
 
 新幹線が動いていない…?。

 ……。」



(つづく)



(感想 2007/1/29)


そういえば、

この週末。

我がジャミン・ゼブも、
名古屋、大阪で、
プロモーション・キャンペーンです。

テレビやFMの出演。
新聞の取材etc.
盛りだくさんのスケジュールが、
組まれてるようです。

がんばってきてくださいよー。


私はお留守番。

しっかり、アレンジしますからねー。


(の、つもり…。)



SHUN MIYAZUMI



woodymiyazumi at 13:34|この記事のURLComments(13)TrackBack(0)

January 22, 2008

演歌と私 その2


テレビの力はすごいですねえ。

フジテレビ『 FNNスピーク 』(1/17)
テレビ朝日『 題名のない音楽会 21 』(1/20)

のオンエア後、

ジャミン・ゼブ・ブログの訪問者数は、
大爆発です。

さらに、
「初めて見た」という多くの方からも、
たくさんの“応援メッセージ”、“出演依頼”
を頂きました。

ありがたいことです。

ますます、
頑張らねば…。


と言いながら今日も、

私の若かりし頃のお話です。


これは、

ちょっぴり苦い思い出…。



2005年03月05日 No.103
演歌と私 その2


海峡越えてくあ〜なた〜♪
私を捨ててくあ〜なた〜♪


私の、
初の演歌プロデュース作品、
『涙の海峡』をひっさげて、
たかしな真(しん)君は、

元気に全国キャンペーン
に出かけました。


 Namida No Kaikyo


すると何週間か経って、
東芝から嬉しいニュースが、
飛び込んで来たのです。

なんと、
あちこちの有線で、
‘ベスト10’入りしてるというのです。
しかも神戸や宇部では、
1位にランクされてるというではありませんか!!


こりゃひょっとするとひょっとするぞ…?。


東芝もアルファも、
急に色めき立ってきました。

もしかすると、
新米ディレクターの私にとって、
初の大ヒットになるかもしれない…。

こうなると、

私も何か応援しなくては……。


さて、ここでひとつ質問です。

今、ヒットを作るための宣伝施策のひとつに、
「カラオケ」がありますね。

でも、まだ「カラオケ」が、
そんなに普及していない当時。
それに類する媒体、
(と呼べるかどうかは別にして)
があったのですが、

さて、それは何でしょう?

……。


答えは…?



そう、「流し」。


当時、新宿あたりの酒場街に行くと、
ギターをかついだお兄さんがいっぱいいました。

これが「流し」。

スナックや焼き鳥屋にすーっと入ってきて、
「お客さん、一曲いかがです?」

すると酔ったお客が、
何かリクエスト。

それをギターを弾きながら、
唄ってあげるのです。

時にはお客の好きな唄を伴奏してあげる。
一曲100円か200円で。


この「流し」を、

うまく活用できないだろうか…。


そこで、またしても、
東芝の大プロデューサー、
渋谷森久さんに、
相談を持ちかけました。

すると、
そっ歯をむき出しにして、
つばきを飛ばしながら、

彼はこう言ったのです。

「そりゃ、宮住なあ、
新宿の大久保徳次郎のところに行きな。
奴は「流し」の総元締めよ。
 奴が乗ったら、
新宿界隈の「流し」が唄いまくってくれるぜ。
ただし気難しい奴だから丁重にな。」


さっそく私は、
会社に稟議をきって、
いくらばかりかの謝礼と、
レコードと、譜面を持って、

歌舞伎町にある,
彼の定宿に出かけました。


そこは大きな、
古びた焼鳥屋。

手前にカウンターとテーブル。
そして奥が畳座敷になってます。

その座敷の一番奥に、
たった一人で、
ドカーンとあぐらを組んで、

いましたよ、いましたよ!

大久保徳次郎さん。
(徳二郎さんだったかな?ごめんなさい)


おそるおそる私は、
座敷にあがって、
深々とお辞儀をし、
冷や汗たらたらで、

こう切り出しました。

「あのお、私、
 ディレクターになってまだ駆け出しの、
 若輩者の、ふつつか者でございますが…、
 こ、このたび、
 生意気にも演歌を作りまして、
 ええ、まあ、お気に召しましたら、
 な、何とぞご支援を賜りたく……。」


なにせ、

曲はコテコテの演歌には違いないが、

サウンドといえば、
当時流行りの、
シルヴァー・コンベンションもどきの、
‘サンフランシスコ・ディスコサウンド’
のパロディ。

ドラムは、ドンツクドンツク。
ワウのかかったエレキ・ギターが‘ワカチュク’。
黒人のお姉さんばりのコーラスぎんぎん。

若気のいたりで、
面白可笑しく作っちゃった、

極めて‘無責任’な問題作。


ひとことで言えば、
和菓子の上に、
生クリームをかけたような異種混合物。

「バカヤロー!これのどこが演歌だ!
出直してこい!」

と言われても仕方ないような代物。


それでも大久保老人、
目を閉じて、
蓄音機から流れる音をじっと聞いている。
(そう「蓄音機」という表現がぴったり。
  とてもオーディオ・セットという感じではない。)

ハラハラ、ドキドキしながらじっと座ってる私。

もじもじ…。


すると聞き終えた大久保さん。
こう切り出しました。

「いやあ、なかなかいい曲ですなあ。
 あなた、お若いのに、
 こうした演歌に挑まれるとは見上げた根性だ。
 よろしい! 協力しましょう。」

と言って、
店の若いのを呼びつける。

「オイ、◯◯をすぐに呼べ!」

ホッと胸をなでおろす私…。


すると10分足らずで来ましたよ、

◯◯さん。

「◯◯、この曲の譜面を600部刷って、
 みんなに配って、覚えるように言え。」
と大久保老人。

「ヘイ!」
と立ち去る◯◯さん。


当時、新宿界隈だけで、
5、600人もの「流し」のお兄さんがいたそうです。

「カラオケ」の普及で、
真っ先に職を失ったのは、
この人達でしょうか…。

余談ですが、
あの北島三郎さんも、
「流し」の出身。

たまたま業界の人に酒場で出くわして、
その素晴らしいノドをスカウトされたそうですね。


さて、こんなことをやってる間も、
「涙の海峡」は、

全国の有線でガンガン上昇!!

一ヶ月後には、なんと、
全国チャートで、
‘ベスト10’に入ったのです。


発売日を目前にして、


我々の興奮は、


ますますエスカレートしたのでした…。



(つづく)



(感想 2008/1/22)


それにしても、

寒い…。

ぶるぶる。


いよいよ、
冬本番ですかねえ…。


でも、
寒い冬には、

なぜか演歌が、

よく似合うんですねえ。

北国、雪、熱燗のお酒、鍋、おでん、焼き鳥、
カラオケ・スナック、港町、悲しい女…。


えっ?、

わかったようなこと言うな、

ですって?


はい、すみません…。



SHUN MIYAZUMI



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January 16, 2008

演歌と私


あっと驚くタメゴロ〜〜!


またかよ〜。

今度は何…?


いやね、

今日もまた私のブログの訪問者数が、
凄いことになってるんです。

現在、夜の11時で、
早くも230!?

ジャミン・ゼブの間違いではないのか…?


で、調べてみたら、

またまた『タモリ』

でした。


「日経トレンディネット」というサイトに、

『タモリ3 戦後日本歌謡史』
のお話とともに、

私のブログが紹介されてるんですね。


それによると、

『タモリ』『タモリ2』
『ラジカル・ヒストリー・ツアー』
という3枚のアルバムが、
先月、CDで再発されたそうなのです。

そのうち、
最初の2枚は私のディレクター作品。

1977年、78年の発売と、
書いてありましたね。

どっちも現在、
オリコン50位以内にランクされてるそうです。


しかし、
『タモリ3 戦後日本歌謡史』

この発売だけは、

やっぱり、

だめ!


なぜダメかは、
「このブログをお読み下さい。」
というわけなのですね。


奇遇ですなあ…。

去年の9月に、
この『タモリ3 戦後日本歌謡史』
を書いたときには、
こんな騒ぎになるとは、
想像もできませんでした。

まったくの偶然です。


私のブログは、
えてしてこういう偶然が起こる。

……。


今年は、
なにが起きますことやら…。


こうなると、
『タモリ』『タモリ2』のお話も、
いずれ書かなくてはいけませんね。


その前に、

今年は、
こんなお話からいきましょう。


やはり同じ頃、
私がプロデュースした、

『演歌』

のお話です。


冬には演歌が、

よく似合う…?



2005年02月27日 No.102
演歌と私


プロフィールには載せませんでしたが、
実は私、
過去に一度だけ、

‘演歌’をプロデュースしたことがあります。


今を去ること約30年前。
アルファのディレクター時代。

まだ24才の、
青二才の頃でした。


当時アルファの取引銀行だった、
「第一勧業銀行」
(今、なんていうの?)

そこの一社員が、
仙台に転勤になった。

望郷の念にかられた彼は、
ある一曲の演歌に心うたれ、
毎夜毎夜、
近所の居酒屋で、
その曲を歌っていたそうなのです。


まったくヒットはしておらず、
おそらくは誰も知らないであろう、
とあるコロムビアの女性演歌歌手が、
歌っていたその曲のタイトルは…、


『涙の海峡』!!
(作詞:鳥井実、作曲:猪俣公章)


海峡越えてくあなた〜♪
私を捨ててくあなた〜♪


ところが…!

その唄は、
静かなブームを呼び、
有線にリクエストが殺到しはじめ、

仙台では、
ひそかなヒットになりつつあった。


そんなエピソードが、
銀行のお偉いさんから、
アルファ社長、村井邦彦さんに、
伝えられました。

好奇心旺盛な村井さん、
そしてアルファが、
これをほっておくわけありませんね。

「おいシュン、これやれ。
 ただし、ちゃんと、
 アルファらしさ、新しさは残すんだぞ。
 普通には、やるなよ。」


またです…。

でも、面白そうだったので、
やることにしました。

ま、「普通にやるな」
と言ってくれてるわけだから、
どうやっても、
大目にみてくれるだろう、

と、考えたあげく、
東芝の大プロデューサー、
「クレージー・キャッツ」のヒットを連発した、
渋谷森久さんにも相談した結果、

私の選んだ作戦は…、


‘ディスコ演歌’!!!

(何とも‘色物’っぽいコピーですなあ。
 今にして思えば…。)


これぞ‘演歌’のなかの‘演歌’
という古くさい曲を、
当時流行りの、
ディスコ・サウンドにのっけてやっちゃえー、

という、

これぞ‘無責任’企画。

唄ってもらったのは、
それまで関西フォークを唄ってた、
‘たかしな真(しん)’という、
カッコいいお兄ちゃん。


ポンタ(村上)だの、
岡沢章(ベース)だの、
バリバリのスタジオ・ミュージシャンを集めて、
アレンジの川口真さんと、
ワル乗りしながら、

作ってしまいました。


そしたら、意外にも、
アルファの販売元の東芝が、

大乗り!

これまた悪乗り…!


事務所までつかまえてきて、

全国的に大キャンペーンをやるというのです。


そんなわけで、
この「たかしな」君。

黒のタキシードにスニーカー。
胸に赤いバラを刺した、
斬新なコスチュームに身を包み、

2ヶ月にも及ぶ、
全国キャンペーンに出かけたのでした。


当時はまだカラオケが無い時代。

各地の有線の放送所に押しかけ、
むりやりかけてもらったり、
レコード店での店頭演奏。
夜はスナックやバーを廻っての売り込み。

私も1、2度付きあいましたが、
無名の歌手ゆえ、
たいていは冷たい反応。

本当に大変な努力がいるわけです。

ヒットを出すということは…。


でも事務所のマネージャー、
地元の東芝の宣伝マン、

みんな、がんばってましたね。

ディレクターとか、
プロデューサーとか呼ばれると、
つい自分が偉くなったような気がしてた、
生意気盛りの私でしたが、

この体験は、
いろんな意味で、
本当に勉強になりました。


さて、
書いてくうちに、

どんどん記憶が蘇ってきましたよー。

次回をお楽しみに…。


(つづく)



(感想 2008/1/16)


かつて、
「ジャズまくり時代」
でも書いたように、

私が学生時代の六本木は、
静かな街でした。

そして、
お洒落なジャズ・クラブが、
あちこちに…。


それから、2、3年後。

六本木は、
まるで別世界に、
なってしまいましたね。

あちこちに、
ディスコ、ナイト・クラブ、
そしていかがわしい風俗店が、
見る見るうちに増えていく…。


これは、

そんな頃のお話です。


懐かしみながら、


更新しちゃいます…。



SHUN MIYAZUMI


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September 22, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その5 (最終回)


19日(水)は、
jammin' Zeb を引き連れて、
前橋に行ってきました。

ジャミン・ゼブ初遠征です。


「音羽倶楽部」という、
小高い丘の上にある、軽井沢を思わせるような、
美しい景観に囲まれた、
素晴らしいクラブ・ハウス。

その建物の奥にある、
円形の、美しいダイニング・ルームが、
コンサート会場。


音羽倶楽部 ‘ソサエティ’
約100人の会員のみなさんの暖かい拍手と、
スタッフのみなさんの、
至れり尽くせりのサポートのおかげで、
本当に素晴らしいライブとなりました。

ピアノは私で、
競演が、はたけやま裕(PER)と岸徹至(B)。


コンサート終了後は、
スタッフのみなさんと、楽しい打ち上げ。
そして、クラブハウス内のホテルで、
みんなでそのまま一泊。


お天気にも恵まれ、
楽しい遠征となりました。

みなさん、
ありがとうございました。

また行きますよー。



さて、長々と続いたタモリ話も、

いよいよ最終回。


タモリ3 「戦後日本歌謡史」その5(最終回)


販売元のビクターに断られ、

レコード会社数社からの
猛烈な抗議が続くものの、

アルファはへこたれない。


いろんな試行錯誤を繰り返したのち、

ついに、
大手レコード店チェーン「新星堂」が、
販売をしてくれるところまで、
こぎつけてしまいました。

そして、
発売後1ヶ月あまりで、
3万枚近く売ったといいますから、

全国規模、全レコード店で売ったら、
すさまじい数字になったのでは、
ないでしょうか。


さあこれで事態は、

いよいよ泥沼に…。


レコード会社数社は、
ついに訴訟の準備を始めるとともに、

「日本著作権協会(JASRAC)」と、
「日本レコード協会」に、
抗議文を提出。

これに同意した両協会は、
アルファに対し、
発売中止を求める要望書を提出。


これに対してアルファは、

「当初の予定通り、
 法廷闘争も辞さず。」

「パロディという新しい文化を認めさせる、
 絶好のチャンス!」

と、あくまで徹底抗戦の構え。


「レコード・コレクターズ 9月号」には、
社長の村井邦彦さんの、
こんなコメントも掲載されています。

「レコード発売は文化事業であり、
 時代を映す鏡でありたいと思う」

「‘パロディや川柳は読み人知らずで、
 宴会などで歌うべきもの’
 という意見もあるが、
 現代は川柳を作りたくなるような
 時代なんだよね」

(ともに、『朝日新聞』81年11月21日付夕刊)


村井さんが、
そんな事を言ったのは、
ついぞ知りませんでしたが、

その村井さんのもとには、

実際パロディされながらも、
好意的なご友人の作家の方たちから、
激励の電話があった、
と聞きますし、

私のもとにも、
数多くのミュージシャンから、
同様の電話がありました。

とりわけ、

曲の改変を担当した、
鈴木宏昌(コルゲン)さんなどは、

「裁判になったら、俺も戦うぞー。」
と、やけに張り切ってましたし、

大瀧詠一氏も、

「俺もずいぶんパロディをやったけど、
 こんなスゴイことをやられたら、
 もうお手上げだよ。(笑)
 これを世に出せないなんておかしい。
 いざとなったら俺も一緒に戦うから。」

といった内容の電話を、
私にくれました。

これも「レココレ」にありましたね。


さあ、面白くなってきた。

ワクワク…。


アルファの中には、
「もうやめたほうがいいのでは…。」
という消極的な意見も出始めてましたが、

若い私は、

「イケイケ〜〜。」

て感じでしたね。


困ったやつ…。



ところが事態は、
思いがけず、

あっというまに終焉を迎えることに…。


「唯一の取り扱いルートである新星堂が、
 レコード会社数社からの申し入れを受けて、
 ギブアップしてしまったため、
『タモリ3』は事実上廃盤となってしまう。」

 (レコード・コレクターズ 9月号)


そうか、
今度は「新星堂」に圧力がかかったのか…。

さらに、
こんな話も聞きました。

ビクターに対し、
他のレコード店から、
猛烈なクレームが来たらしいのです。

その理由が、
けっこう笑えるのですが、

「そんなに面白くて、
 かつ売れてる商品だったら、
 なぜ新星堂だけに売らせる。
 うちにも売らせろ。
 じゃないと、今後ビクターの商品は、
 扱わないよ。」


「……。」



もうダメですね。

パロディ論争とはなんの関係もない、
ビクターの販売部や新星堂まで、
巻き添えになってしまったようです。


こうして、
この稀代の問題作は、

「幻のレコード」として、

市場から消え去ってしまいました。



あれから25年か…。


「レコード・コレクターズ」の、
『アルファの宴』という特集は、
私の若かりし日の記憶を、
鮮明に呼び起こしてくれました。


今にして思えば、

村井さんとしては、
この論争を法廷まで持ち込んで、
パロディ文化の存在と、その意義を、
もっともっと、
世に問いたかったのではないか。

仮に敗訴するにしても、
多額の違約金を払うにしても、

そこまではやりたかったんじゃないかな。


私はそう思います。



今、あの騒ぎを思い出してみて、


あのときのアルファの主張は、
本当に正しかったのか、

このアルバムは名盤だったのか、
はたまた愚作だったのか、

実のところ、
私には未だにわかりません。

(‘迷盤’であったことは確かですが;…)


ただ言えることは、

私には、
とてつもなく面白かったということ。

今もって「ありゃ最高だよ」
と言ってくれる人がたくさんいること。

これより数年後に、
嘉門達夫さんが、
「替え歌」を花開かせたこと。


これらを考えると、

一応の存在意義は、
あったのでしょうね。


そして、はっきり言えることは、

あれは、
「アルファ」でしか作れなかった、

ということです。


アルファというのは、

そういう新進気鋭の会社であり、
レコード業界の革命児であり、
常に新しいものにどん欲で、
冒険を恐れない。


つまりは、
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
が問題児だったのではなく、

アルファそのものが、

問題児であったわけです。


新しいものは、
つねに敵をつくる。

トラブルもいっぱい起きる。

事実ほかにもいろいろありました。

(いずれ折りをみてお話しますが)


しかし、
それに立ち向かう、
若さとエネルギーがありましたね。

面白い会社でした…。



連載『アルファの宴』も、
そろそろ終わりが近づいてる、
と聞きました。

この取材を受けた、
あるいは、この特集を読んだ、
かつての幹部や社員は、
みな一様に、

あの面白かった時代を、
感慨深く思い出していることでしょう。


「レコード・コレクターズ」誌と、
ライター田山さんに深く感謝して、

ひとまずこの稿を、

閉じたいと思います。


謝謝…。



(おわり)



現代。

パソコンの普及と、
インターネット時代になって、

著作権なんて、
完全に無法地帯になってますよね。


それに比べると、

『タモリ3 戦後日本歌謡史』
をめぐる攻防なんて、

可愛いもの。

そう思いませんか?


ということは、

そろそろ復活が許されてもいいのでは…。


どうでしょう?


だめ?



(誰に向かって言ってる…?)



SHUN MIYAZUMI


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September 16, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その4


いやあ、きのう今日と、
久しぶりの青空。

気持ちがいいですねえ。


そんななか、

きのう(土曜日)の、
「 ケンウッドスクエア・丸の内 」
『 jammin' Zeb ミニ・ライブ 』
にお越しのみなさま、

ありがとうございました。


さわやかな午後のひとときでした。

アカペラが中心だけど、
あんなライブもいいなあ、
と実感しましたね。


また、折りをみて、

やりたいと思います。



さて、まだまだ続く、

タモリ話。



タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その4


せっかく苦心して作り上げたものの、
販売元ビクターの拒絶にあって、
またしても‘お蔵入り’となってしまった、

『 タモリ3 』


しかし、今度は、
タモリが黙っていませんでした。

ラジオやテレビの自身の番組で、
かけまくったり、
実演したりして、
このアルバムの存在を、

世にアピールしたのです。


そして、

その存在と面白さは、
次第に口コミで広がっていき、

近田春夫さんが
「タモリのレコードを発売せよ市民連合」
を名乗ったり、
ファンの間に発売を求める署名運動が起きたり、
といった事態に発展していったのです。

(レコード・コレクターズ 9月号)


そうした‘世論’の後押しのおかげもあって、

「新星堂チェーン」のみ、
という変則的な形ではありましたが、

このアルバムは、
ついに‘日の目を見る’
こととなりました。


やったあー!


TAMORI 3


しかしね、

この問題は、

そんなに簡単にはいかなかったようですよ。


実は、
ここから先は、

制作の当事者ではあるものの、
当時30才の私など出る幕も無いほどの、
大人どうし、トップどうしの熾烈な戦いが、

展開されていったようなのです。


無責任なようですが、

私は高みの見物。



まずは、

「作家はレコード会社の専属」
であった時代の、
古い楽曲を管理する、

コロンビア、ビクター、キング、テイチク

といった老舗レコード会社からの、
猛烈な抗議。

「これは、あきらかに著作権侵害である。
 かつ、許可も無く、
 偉大な先生方の偉大な楽曲を、
 このような無礼な扱いをするなど、
 もってのほか。
 これは重大な名誉毀損にあたる。」

として、

即刻発売中止と、
しかるべき著作権の使用料を求めて来た。


それに対してアルファは、

「これは欧米でも認められている、
 パロディという新しい文化。
 よく知られた作品を‘ひきおろす’
 ことによって生じる面白さが、
 パロディの良さであり、
 むしろ問題にする事自体、時代から遅れている。」

と、真っ向から対立。


私はひそかに、

「いいぞぉ、やれやれー。」


さらに、

「レコード・コレクターズ 9月号」には、
こんな記述もあります。

『この作品の被害?に遭った作家の反応も、
 一様ではなかった。
 騒ぎを報じた『週間読売』(81年11月29日号)に、
 自作詞をパロディにされた作家たちのコメントが、
 掲載されている。

 「売れればいいということで、
  何でもメチャクチャなことをやるレコード会社
  の姿勢も間違ってますよ」
  (石本美由起。「憧れのハワイ航路」の作詞者)

 「とにかく最高に面白かった。(中略)
  僕はちっとも不快じゃないし、
  最高にいいんじゃないかと思ってます」
  (橋本淳。「ブルー・シャトー」「君だけに愛を」
   の作詞者)

 また、「東京ナイトクラブ」を「東京ホストクラブ」に
 パロディ改変されたフランク永井のように、
 ステージにタモリを上げて一緒に歌ってしまう
 実演家まで出ていた。
 要するにパロディされた側の反応も、
 怒る者、楽しむ者に別れたのである。』


そうでした、そうでした。


そして、
今にして思えば、
販売を拒否した肝心のビクター内部も、

決して一枚岩ではありませんでしたね。


吉田正さん(作曲)、
佐伯孝夫さん(作詞)、
といった、黄金期を支えた偉大な作家、
を抱えるビクターとしては、

その先生方の名誉を守るとして、
法務部を中心に猛反発。


ところが、
当の実演家のフランク永井さんは、
最初聴いたとき、
椅子からころげ落ちるほど大笑いしたそうです。

そして「レココレ」にもあるように、
タモリをステージにあげて一緒に歌う、
といったことまでやってのけた。


さらに販売部は、
「他のレコード会社を敵に回すだけでなく、
 ‘新星堂’だけで売らせるということは、
 他のレコード店、チェーンから、
 総スカンを食らう。
 今後ビクターの商品を扱ってもらえない。」
と、変なところで消極的。


ところが、制作・宣伝部はどうか。

この騒ぎの最中に、
ビクターの制作部に、
遊びに行ったときのこと…。


ある人に、
「ところで(新米)ディレクターの、
 K君はどこにいる?」
と聞いたところ、

「ああ、あいつならコピー室にいるよ。」
と教えてくれた。


当時はまだカセットの時代。

正規のサンプル盤が出来るまでの間、
宣伝用のサンプル音源として、
せっせとカセット・コピーをする、

そんな時代だったんですね。


コピー室に行くと、
K君が、
数十台のカセット・デッキを同時に回して、
何かを大量コピーしている。


なんとそれが、

『 タモリ3 』


しかも、
コピーの大元になってる一本が、
すでにコピーのコピーの孫みたいなヤツだから、
音質が劣化していて、
「シャーーー」
というノイズがあからさまで、

なんとも聴きにくい。


私はK君に、

「なんでこんな音の悪いのしか無いの?」


するとK君、

「いやあ、これ今、
 なかなか‘上物’が手に入らないんですよ。
 これでも状態がいい方でね。
 
 そうだ!
 これ宮住さんが作ったんでしょ。
   
 もっと音質のいいの下さいよ。
 もう社内の注文が多くて、
 自社の他の物そっちのけで、
 コピーしてるんだけど、
 間に合わないんすよー。」


「……。」



ま、どこのレコード会社へ行っても、
こんな感じでしたね。

(なにが著作権侵害だ。)


こうして、

業界も世論も、

まっぷたつ。


そして、事態は、

ますます悪化の様相を、


呈していったのです…。



(つづく)



先日、

森進一さんが、
「おふくろさん」
を勝手に改変させたとして、
当の作家の川内康範さんが大激怒。

そして世論は、

どうやら川内さんに同情的なようですね。


してみると、

この『 タモリ3 』などは、

今出しても、

まだまだ大変だということでしょうか。



ううむ…。



SHUN MIYAZUMI


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September 12, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その3


猛暑から開放されたかと思うと、

今度は、じめじめとした秋雨前線が、
どかっと居座る日本列島。

なんかこう、
スッキリしませんね。


そんななか、

この人たちのコーラスは、
スカッと爽やか。

今週の土曜日に、
こんなミニ・ライブがありますよ。
場所は「ケンウッドスクエア・丸の内」


日時:
9月15日(土) 14:00〜15:00 (開場13:45)
出演:
『 Jammin' Zeb 』
内容:
国際フォーラムで開催される
「 東京ジャズ 」( 9 / 20 〜 23 ) の関連イベントです。

予約:
TEL:03-3213-8775
(ケンウッド スクエア・丸の内まで) (要予約)


場所の概要はこちらをご覧ください


お近くの方、
散歩がてら、いかがですか?

(無料ですが、要予約)



というわけで今日も、
「タモリ3」のつづき。


タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その3


さて、

そんな紆余曲折を経て、

我らスタッフとタモリは、
再びこの、「稀代の問題作」
のレコーディングに突入しました。


不思議なもので、

2年のブランクと、
一度味わった挫折(発売不可という)、
が、かえって、
みんなの力をみなぎらせる結果となり、

次から次へと、
傑作(???)が生まれていきました。


『ビキニ・スタイルのお嬢さん』
(ダニー飯田とパラダイス・キング)
       ↓
『テキ屋スタイルのお兄さん』

初めて‘テキ屋’の格好をした、
チンピラのおにいちゃんが、
恥ずかしくて海辺に出られない、
という唄。


『高校三年生』(舟木一夫)→『放浪三年生』

♪僕ら、草とワラしか食べないが、
 暮らす仲間は、椅子まで〜も〜♪

腹が減って仕方なく、
椅子まで食べちゃう、
という貧乏学生の唄。

キタナイですよ、コレ。


『バラが咲いた』(マイク真木)→『ハラをさいた』

「この唄に感化されて、
 作家木島由紀夫(三島由紀夫)は、
 ハラをさいたのです。」

などという注釈付き。
あぶない;…。


『UFO』(ピンク・レディー)→『USO』

♪USO(ウッソー!)♪

おなじみピンク・レディーの大ヒット曲が、
ここでは、

♪USO(ウソ)というより、
 ‘つわり’なのね
 もしかしたら、もしかしたら、
 そうなのかしら〜♪

手当たり次第やりまくったおねえちゃんが、
「もしかして、妊娠しちゃったのかしら」
という唄になってしまう。

これを、ピンクになりきって歌うタモリは、

本当に気持ち悪かった…。



ほかにも、


『ブルー・シャトー』→『ブルー・エンペラー』

『勝手にシンドバッド』→『勝手にダイドコロ』

『長崎は今日も雨だった』→『長嶋は今日もダメだった』

そう、このときは長嶋新監督の時代。
毎日、毎日、負けてばかりでしたね、
巨人。


『くつひもカミソリ』
     ↑
『よこはまたそがれ』(五木ひろし)

なんてのもケッサク。

♪ゴムひも〜は、売って売ってしまった
 ゴムひも〜は、売って売ってしまった〜
 もう、おしまいね〜♪

という、田舎の雑貨屋のお話。


『モッキンバード街道』
     ↑
『ロックンロール・ウィドウ』(山口百恵)

これも名作(?)ですねえ。
ぜんぶ鳥の名前で作られてる。

そして、

♪カッコカッコカッコばかり口走る〜
 モッキンバード街道 ホホケキョ♪

と締める。

うまい!?


詞を担当した高平さんも、
もう手がつけられないほど、
ノリノリでした。


こうしたレコーディングの模様も、
「レコード・コレクターズ 9月号」に、
私の話が掲載されているので、

ちょっとそれを、
そのまま借用。

『(前略……)
 自分はパロディにした元歌の音質、音色まで、
 そっくりに作ることが役割でしたね。
 あのLPは戦後の復興から現代までの、
 日本の社会情勢と流行歌がシンクロしている
 という作りでしょう?
 ということは、レコード制作技術の発展史でも
 あるわけです。
 だから戦後間もない頃の「サンゴの唄」
 (「リンゴの唄」のパロディ)
 だったらくすんだモノラルの音色で、
 それがだんだんステレオの時代になって、
 音質が良くなってくるところまで
 グラデーションをかけて再現しなきゃ
 感じが出ないわけです。

 あとは唄のディレクションですね。
 パロディは原曲が匂わなくてはならないんですが、
 タモリは声色上手だから
 同じメロディだったらそっくりに歌えるんですけど、
 パロディだからメロを数カ所で、
 変えなくてはならないでしょう?
 そうすると歌のプロじゃないから
 どこか似なくなってしまう。
 そこで僕が発声、歌唱指導をしたんです。
 何というか…成り切ってもらうためにね。
 例えば最後の山口百恵ちゃんの歌真似をするときは、
 ‘マイクのコード挟んで女になったつもりで
 やったらいいんじゃない’なんて言って(笑)。
 タモリも本当に脚の間に挟んで、
 ‘あ、きたきた!’って(笑)。
 だから歌唱というより、
 一曲ずつに対する芸の指導というか、
 成り切り誘導だね。

 あれ、歌入れ30数曲を二日間でやったんですよ。
 誰か管理の人が入ってきたらヤバイと思って
 スタジオ‘A’に鍵をかけて、
 酒をがんがん持ち込んで(笑)。
 アルファの女子社員ふたりに接待係をお願いして、
 一曲終わるたんびに
 ‘タモリさん、すてきよー’
 なんてお酌してもらったりしてね。
 スタジオ‘A’で宴会しながら、
 それはもう楽しくやったんです。
 あのレコードにはその雰囲気が詰まってるよね。』
 (宮住)

それに対して、
インタビュアーのライター田山さんが、
こう受ける。

『「タモリ3」の狂躁的なまでのテンションの高さは、
 二日間の‘宴会レコーディング’
 でもたらされたものだった!
 何という無茶をするのだろうか。
 このエピソードを聞いた時は、
 あまりに破天荒なアルファ魂に呆れ、感心し、
 笑ってしまった。』


私も、この記事を読んだ時、
思わず笑ってしまった。

アハハハ。


しかしまあ、

これは、あたりまえのこと。


こんなバカバカしい物を、
シラフで、
真面目くさって、

やれるわけがありません。


さらに後日、

再びタモリに来てもらって、
こうした楽曲のつなぎ役をつとめる、
いくつかの挿話を録音。

これがまた即興性に満ちた傑作ぞろいで、
改めて、
タモリの‘天才’を見る思いでしたが、

きりがないので、
もうやめておきます。


そして、前述したように、
一曲ずつを、
オリジナルと同じような感じに、
緻密にトラック・ダウン。

さらに、効果音を加えたり、
いろいろな加工をほどこしたりして、

とにもかくにも、

この‘大作’は完成しました。


ところが、ここに、

またしても大きな壁が……。


今度は、
新生「アルファ・レコード」の販売元、
ビクターが、

「やっぱりこれは、
 お引き受けできない」

と言ってきたのです。

(ビクターよ、おまえもか…)



さあ、今度は、


タモリが怒った。


ラジオやテレビにおける自分の番組で、
これらの音をかけたり、
実演したりして、
このレコードの存在を、

世に知らしめたのです。


そしてこれが、

さらなる波紋を、


大きな波紋を、


呼ぶことになりました…。



(つづく)



最近、会う人ごとに、
この「タモリ3」の話になります。

レココレか、はたまたこのブログか。

でも、
意外とみなさん、
読んで下さってるみたいで…。

ありがたいことです。


きのうは、
某有名広告代理店の社長から、
「俺の持ってるのはカセットで、
 もう伸びきっちゃったよ。
 シュンちゃん、コピーしてよー。」

と言われました。


ううむ…。


これはいいのか…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 16:28|この記事のURLComments(7)TrackBack(0)

September 07, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」その2


9 / 5(水)& 6(木)の「代々木ナル」
『 jammin'Zeb 2days 』
にお越しのみなさん、

ありがとうございました。


両日とも満員の大盛況。

特にきのう(6日)は、
台風直撃のなか、
ほとんどキャンセルもなく、
最後まですごい盛り上がり。

みなさん、
無事に帰宅されましたでしょうか…。

でも本当に、

ありがたいことです。

グシュン;。


そのジャミンの情報は、
このブログでも
随時インフォメーションしていきますので、

ときどきチェックして下さいませ。



さて、きょうも、

タモリの話。



タモリ3 「戦後日本歌謡史」 その2


現在市販されている音楽専門誌
「レコード・コレクターズ 9月号」に、

『アルファ最大の問題作とは?』
といった形で紹介されている、

このアルバム。


いったい、
いかなる物だったのでしょうか…。


1978年頃。

私がまだ、
アルファにいたときの話です。


タモリを我々に紹介し、
今や‘お笑いの世界’では、
重鎮のプロデューサー、
高平哲郎さんから、

一本の電話がありました。


「宮住、面白い企画があるんだけど、
 乗らない?」


なんでも、

戦後最初のヒット曲「リンゴの唄」に始まり、
78年当時の最大の人気歌手、
山口百恵までの歌謡曲のヒット30数曲を、
全部‘パロディー’にしてタモリに歌わせ、

その曲間を、
大橋巨泉やら、竹村健一やら、
東北から集団就職でやって来た名もない一青年、
などに扮したタモリが、

もっともらしく、
そのヒット当時の世相を語る、

という壮大な構想。


お調子者の私は、
一発で乗った。

新しくて面白いものが大好きな社長、
村井邦彦さんも、

乗った。


かくして、
私と高平さんは、
すぐさま選曲に入る。

詞は高平さんが担当。

「リンゴの唄」→「サンゴの唄」
「野球小僧」→「お灸小僧」
「憧れのハワイ航路」→「たそがれのオワイ航路」
「東京ナイトクラブ」→「東京ホストクラブ」


「夕焼けトンビ」(三橋美智也)なんて、
こうでした。

「夕焼けトンビ」

夕焼けぞらが真っ赤っかあ〜
トンビがくるりと輪をかいた
ホ〜イのホイ
そこか〜らこっちが
見える〜かあ〜〜い♪

     ↓

「ぐらぐらコンブ」

ぐらぐら釜が真っ赤っかあ〜
コンブがくるりと輪をかいた
ホ〜イのホイ
底か〜らこっちが
見える〜かあ〜〜い♪


次々と出来上がっていく、
こうしたバカバカしい詞に、

今度は、
今は亡き鈴木宏昌(コルゲン)さんと一緒に、

原曲がにおいながらも、
ちょっと、なんか、違うぞ、

といったメロディーを付けていく。


そして今度はスタジオで、
原曲とそっくりなアレンジを、
スタジオ・ミュージシャンに
演奏してもらい、

タモリには、

灰田勝彦やら、岡晴夫やら、三橋美智也やら、
フランク永井やら、松尾和子などなどの、
オリジナル歌手になりきってもらって、

唄入れをする。


こうして私は、
数曲が出来上がった時点で、
社長の村井さんに聴いてもらいました。


いやあ、もう大受け。

社内の会議でもバカ受け。


こうして、

前年の77年に、
『タモリ』というアルバムで、
レコード・デビューし、

(そう、タモリは最初、
 レコード・デビューだったのです。
 今の彼からは想像もつかないでしょうが…。)

その後またたく間に茶の間の人気者となった、
タモリの、
セカンド・アルバムとして企画した、
このレコーディングは、

どんどん進んで行きました。

楽しかったなあ、コレ。



ところが…、

ここで大問題が起こってしまいました。


当時のアルファは、
「アルファ・アンド・アソシエイツ」という、
小さな原盤制作会社。

したがって、
その販売、宣伝は、
「東芝EMI」に委託しておりました。

その東芝から、
クレームが来たのです。


「これを発売するのは、無理です。」


理由は、

「全レコード会社を敵にまわす。」

というもの。
  


今は、
作詞家、作曲家はフリーですが、

昭和30年代までは、
レコード会社の専属でした。

ビクターの吉田正さん、
コロンビアの古賀政男さん、

といったように。


その先生方のお作りになった名曲を、
面白可笑しく変えてしまい、

ある意味茶化し、
ある意味バカにしながら、
やっちゃうわけですから、

重大な「名誉毀損」にあたる。


なおかつ、
現著作権は各レコード会社にあるのだから、
きちんとした許可をもらわなくてなならない。

おそらく許可すまい。


このへんの事情も、
「レココレ」には詳しく書いてありましたね。


当時東芝を代表するプロデューサーで、
アルファの作品をこよなく愛してくれていた、

あの渋谷森久さん

かつてブログにも書きましたが、
「ハナ肇とクレージー・キャッツ」の、
一連のコメディ・ソングを、
世に送り出した、

あの破天荒な、ハチャメチャな、
渋谷さんまでもが、

「クニ(村井さん)、シュン(私)、
 こりゃ危険だ。
 わるい事は言わない。
 これはヤメたほうがいい。」

と、止めに入ったくらいですから、

この企画の強烈さが、
わかろうというものです。


やむなく、この企画をあきらめ、
より安全な企画で、
『タモリ2』を発売した私たちでしたが、

その「アルファ・アンド・アソシエイツ」は、
その直後、
「アルファ・レコード」というレコード会社に、

出世しました。


販売こそ、
ビクターに変わりましたが、

制作に加え、
宣伝の機能も持ち、
以前よりはずっと、
「発売」に関する発言権を持ちました。


そんなある日、

社長の村井さんが、

「シュン、
 あれ面白いから作っちゃおう。
 続きをやりなさい。
 責任は俺が取るから。」

と、言って来たのです。


心配よりも何よりも、

私は狂喜しましたね。


あんな面白い仕事が、


再開できるわけですから…。



(つづく)



ところで、

この7日間で、

私は4回もライブをやりました。


私のスポーツ・ピアノ・スタイルでは、
これは自殺行為ですね。

きのうも、
演奏の途中から、
血圧が急上昇するのが、
わかりましたよ。

年かな。

自重しなくては…。

トホホ。


というわけで、


しばし休養…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 21:04|この記事のURLComments(4)TrackBack(0)

September 02, 2007

タモリ3「戦後日本歌謡史」


ああ、楽しかった…。

8/31(金)の、
「 学芸大 A'TRAIN 」ライブ。


なにせ、
一ヶ月ぶりのライブですからね。

ちゃんとピアノが弾けるのか、
いささか心配でしたが、

常連のみなさんの、
暖かい拍手と声援に支えられ、
いつも通り、
楽しく盛り上がることができました。

感謝…。


さて、
ご存知のかたも多いと思われますが、

この夏は、
休み返上で、
ほとんどスタジオにこもり、

『 jammin' Zeb 』
のレコーディングに追われていた私。


そんな彼らのデビュー・アルバムも、

ようやく完成致しました。

パチパチ。


詳しい事は、
このブログで、
随時インフォメーションさせていただきますが、

なにはともあれ一段落。

ふ〜…。


というわけで、
スタジオから開放されるやいなや、

今週はいきなり3本のライブです。


9 / 3(月) SUITE VOICE 「六本木 ALL OF ME CLUB」

         

9 / 5(水)& 6(木) jammin' Zeb 「代々木 N A R U」

         
(詳しくはこのブログ、
「 最新ライブのご案内 」をご覧下さい。)


それにしても、

みごとに ‘コーラス・ウィーク’ だこと…。


がんばりますよー。


みなさん、

どうぞいらして下さい。



さてさて、

先日、私のもとへ、
こんな雑誌が送られてきました。

「 レコード・コレクターズ 9月号 」

RecordCollectors0709


以前、
「 インフォメーション 」のカテゴリーでも、
ご紹介しましたが、

この雑誌では、
昨年の4月から、

私がかつて在籍した、
「 アルファ・レコード 」
の特集を連載しております。


題して『 アルファの宴 』


私も何度か取材を受けましたが、
今回のテーマは、

「『 タモリ3 』発売の紆余曲折 」


そう、

かつてレコード業界を騒然とさせた、
空前の問題作、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』

というレコードに、
スポットが当てられています。


冒頭から、
こんな書き出しです。

「タモリLPにクレーム
 パロディーは著作権侵害 」

「81年11月10日、こんな記事が
 『 毎日新聞 』に大きく掲載された。
 問題となったのは
 同年9月20日に発売された
 『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』
 という企画もののLPである。」


この担当ディレクターは、
何をかくそう、この私でしたから、
私の話も、
あちこちに掲載されております。


例えばこうです。

「まずは、このアルバムの成り立ちから、
 順を追って説明しよう。
 『 タモリ3 』は、
 『 タモリ 』(77年)、『 タモリ2 』(78年)
 に続くアルバムだが、
 2枚目から3年間のブランクを置いた
 81年に発表された。
 その経緯について現場担当ディレクターだった、
 元アルファの宮住俊介が次のように語ってくれた。」

「『 戦後日本歌謡史 』は、
 もともと東芝で出ていた1枚目(『 タモリ 』)
 の続編として作りかけてたんだよね。
 でも東芝側が‘全レコード会社を敵に回すから
 お受けできませんって(笑)、
 断ってきたんですよ。
 それで急遽、その次の企画だった
 ‘音楽の変遷 その1’
 というネタを中心としたものを、
 『 タモリ2 』として繰り上げ制作したんです。」


なるほど、

そうだった、そうだった。


しかし、

アルファは作ってしまった…。


「でも村井さんがある時、
 ‘あれ面白いから作っちゃおう。
 責任は俺がとるから’って。
 それでプロデューサーの高平哲郎さんと
 セッティングして、
 発売の目処も立ってない時点で、
 数日間でレコーディングしました 」(宮住)


こうして、

この問題作の制作過程や、
レコード業界を騒然とさせたいきさつ、
その社会的反響、

そして、
ついには裁判沙汰にまで発展した経緯が、

こと細かに書かれていきます。


なかには、
私の知らなかったことまで、
詳しく書かれてあり、

ライター田山さんの、
並々ならぬ取材力がうかがえるのですが、

まずは、
書店にて、
一度手に取ってご覧になって下さい。


というわけで、
せっかくのタイミングですから、

次回はこの、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』

について、

当事者たる私が、
もっと詳しくお話してみようと思います。


さらに、
これを機に、

「 マイ・ディスコグラフィー 」

というカテゴリーを設けてみました。


私のプロデュースした作品のなかから、
面白いエピソードのものを抜き出して、
随時ご紹介してみよう、

というものです。


その一回目が、

この、

『 タモリ3 戦後日本歌謡史 』


では、この、

アルファ最大の問題作とは、



いかなるものだったのでしょうか…?



(つづく)



そういえば、
この「 レコード・コレクターズ 9月号 」には、

『 ドアーズ(doors)』
の特集も組まれています。


ドアーズといえば、

かつて「 レコード買いまくり時代 その1〜4
でも書いたように、

私にジャズを目覚めさせてくれた、
衝撃のロック・バンド。

この特集も見事でした。


お早めに書店に…。



SHUN MIYAZUMI


woodymiyazumi at 01:36|この記事のURLComments(8)TrackBack(0)

February 26, 2007

MINT JAMS その2


金曜日の「学芸大 A'TRAIN」ライブ。

いやあ、
‘狂乱の夜’とは、
まさにこのこと。

お店がパンクするんじゃないかと、
心配になりました。

でも、ありがたいことです。

感謝…。

また、来月も、
盛り上がりましょうね。


それにしても、

どんどんヒート・アップする、この夜。

……。



さて、

カシオペア『MINT JAMS』
のお話のつづきです。


2日間にわたって行なわれた、
築地「中央会館」でのライブ録音。

熱狂的なお客さんの後押しもあって、
素晴らしい演奏が収録できました。

その中から、
7曲ほど選び出し、
さらに、演奏の出来のいい方を選び、
(2日間、同じメニューでしたから)

今度はスタジオで、
仕上げ(MIX DOWN)作業。


ここからは、
さも「スタジオ録音」のような、
クオリティーの高い、音作りを目指します。

というか、
これこそが、

この企画の重要なところ。

単純な「ライブ・ミックス」ではない。

私も、
かつて経験したことがない作業。


まずは、
ホールの残響、拍手、歓声、
これらをすべてカット。

しかし、それだけでは、
せっかくのライブ演奏の迫力、
臨場感が出ないので、

これ以上レベルを上げると、
拍手、歓声が再び聞こえてしまう、
ギリギリのところまで、
ホールの残響を戻していく。

しかも、
個々の楽器の音質は落とさずに。


このあたりの、
エンジニア吉沢さんのお手並みは、
それは見事なものでした。

吉沢さんといえば、
「赤い鳥」「ガロ」「ユーミン」「Y・M・O」
などなど、

アルファの歴史の根幹をなす、
重要な作品、アーティストにすべて関わった、
天才エンジニア。


そして、彼が
「300人くらいのホールが一番いい。」
と言ったのも、
ここへきて納得。

大きなホール、大観衆では、
ドラムにかぶった残響を消すことが、
困難になるんですね。

ステージの高さ、
ステージと客席の距離、
ホールそのものの残響、

いろんな条件を考えての、
会場選びだったのです。

やはり、天才は違う!


余談ですが、
ライブ初日、MCの向谷実(キーボード)が、

「きょうのライブはレコーディングされます。
 みんなの歓声がレコードになります。
 みんな盛り上がっていこうぜー!!」

と言ったのは、

大ウソです。


さあ、今度は、
ひとつひとつの楽器の音を、
入念に作っていく。

ライブの迫力を残しつつも、
スタジオ録音に負けないような、
高度で良質なサウンドを目指して。

スタジオにある、
高価なリバーブ装置、エフェクター、
などなど、
ありとあらゆる機材を使っての音作り。

ドラムのサウンド作りだけで、
3日くらいかかったんじゃないかな。


こうして、
スタジオに缶詰になること、
丸一週間。

「これだ、これこれ。
 これがカシオペアだ!」

と思える作品が出来上がりました。

大満足。


さあ、今度は、
「価格をいくらにするか」
で、アルファの会議は大モメ。

「これだけ立派なものが出来たんだから、
 堂々と、通常価格の
 ¥3,000でいいではないか。」
という意見と、

「いくら演奏がいいとはいえ、
 すでに既発売の楽曲ばかりだし、
 アレンジも、
 そう変わってるわけではないのだから、
 ¥3,000は高い。

 今までのファンの皆さんには感謝の意味で、
 また、これからのファン拡大のためには、
 買いやすい¥2,000でいくべき。」

という意見に、

まっぷたつ。

(実際「ASAYAKE」なんて曲は、
 早くも3度目の登場ですからね。)

結果は、
「AD-LIB」編集長などの助言もあって、
¥2,000というお買い得価格に決定。


となると、
レコード会社(アルファ)としては、
そんなに利益をあげられない。

したがって、
ジャケットにもあまりお金をかけられない。

「¥3,000でいこう」
を強く主張していた、
社長の村井(邦彦)さんなどは、
ちょっとスネた感じで、

「その辺のひとに、
 パパっとイラストでも画いてもらったら、
 いいんじゃないのぉ。」


私も、¥2,000支持派でしたから、
「ま、このくらいは譲歩するか。」

と、ほんとにその辺の誰かに
画いてもらった。

安く。

で、誰だったんだろう?

忘れてしまいました。


前にも言いましたが、
私はレコード、CDの類いの管理が、
きわめて悪く、

自分の作ったものですら、
持っていないものが数多い。

この『MINT JAMS』も、
見つけることが出来ませんでした。

ひょっとすると、
リーダーの野呂一生かなあ。

彼は画もうまかったから。

誰か覚えてるひとがいたら、
教えて下さい。

(ジャケットは前回のエッセイに
 掲載してあります。)


そんなわけで、

だまてらさんが、コメントで指摘した、
「手抜きっぽいジャケット」というのは、

ある意味、正解なわけです。


さあ、とにもかくにも、
こんな感じで、
めでたく発売と相成りました。

そして、

本当によく売れました。


さらに、このアルバムは、
イギリスでも発売され、

この後の「ロンドン公演」や、
「ヨーロッパ各地のジャズ・フェスティバル」
などでの、
記録的な大成功につながっていくのでした。

めでたし、めでたし。


さて最後に、
(あともう少しのご辛抱)

この『MINT JAMS』という
アルバム・タイトルについてひとこと。


これを考えたのは、
当時アルファの「海外担当」として勤務していた、
エドワード・リーマン君というイギリス人。

MINT:ハッカ
JAMS:(ジャズ)即興的なライブ演奏をする

‘ジャム・セッション’なんて、
ジャズの世界ではよく言いますよね。

まさに、このアルバムの内容にピッタリの、
素晴らしいタイトルだと、

海外スタッフの間でも大受けでした。


しかも、これ、
メンバー4人のイニシャルで、
構成されているのです。

Issei Noro:野呂一生(ギター)
Minoru Mukaiya:向谷実(キーボード)
Tetsuo Sakurai:桜井哲夫(ベース)
Akira Jimbo:神保彰(ドラムス)


リーマン君、
お手柄でしたね。


ああ、長くなった。

だまてらさん、
こんなところです。


しかし、この話。

カシオペアを知らないひとや、
興味のないひとには、

つまらなかったかもしれませんね。


ま、

私だって、
  
たまにはちゃんと仕事をするんだぞ。

というところも、


見せないと…。



SHUN MIYAZUMI


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February 23, 2007

MINT JAMS


きのうの「 代々木ナル 」

なんだか、
またまた、

盛り上がっただなあ〜。


みなさん、
ありがとうございました。

佐藤有介(ベース)
イェ〜イ!

お前はやっぱりいいぞ!


ちゅうまけいこ(ヴォーカル)
可愛〜〜〜い!


ということで、
このセッション、


5 / 8(火)に再演でございます。

今回、お見逃した方、

ぜひ!!



さて、今日は、

「 カシオペア・デビューよもやま話 」
の番外編として、

彼らの数多くのアルバムの中で、
最も人気の高いもののひとつ、

『 MINT JAMS 』


このアルバムについて、
お話をしたいと思います。


Mint Jams


これは、彼らにとって、
7枚目か8枚目のアルバム
だったと記憶しているので、
1982、3年頃の作品でしょうか。

ちょうど彼らの人気が絶頂に達しようかと、
いう時期ですね。

そして、この作品は、

「 ライブ盤 」といえば「 ライブ盤 」だし、
そうではないといえば、
そうではない、

という、

妙チクリンなもの。


この頃の彼らは、

年に2枚のペースで、
オリジナル・アルバムを作り、
そのニュー・アルバムをひっさげて、
全国4、50ヶ所のライブ・ツアーを、
年2回行なう、

という、
驚異的なスケジュールを
繰り返していたのですが、

そのうちに私は、
ある種の‘もどかしさ’を覚えるように
なっていました。


どういうことかと言いますと、


カシオペアというのは、
圧倒的なライブ・バンドでしたから、

コンサートを繰り返すうちに、
演奏がどんどん良くなっていくんですね。

当たり前といえば当たり前ですが…、

彼らの場合は特に‘そう’。


毎回、
ツアーの最後のほうになると、

「 ああ、今のこの演奏で、
 もう一度全部録り直したいなあ。」

という欲求がつきまとう。

この‘もどかしさ’の連続であったわけです。


そのうち、

「 この、熱気溢れるライブ演奏と、
  スタジオ録音の緻密さが一緒になったもの、
  そんなアルバムが出来ないかなあ…。」

「 でも単純なライブ盤だと、
  音が悪くて売れないし…。」


そんな漠然とした思いが、

次第に現実のものとしてどんどん膨らみ、

ついに、

このアルバムの企画が生まれた、

と、こういうわけです。


さて、

この企画を、
社内の会議で通すと、
私はまず、
ライブ会場を探すことから始めました。


いつも私とコンビを組んでいただいてた、
エンジニアの吉沢(典夫)さんの助言によると、

300人くらいのホールが、
音響的には、
いちばん録音に向いている、らしい。


そこで私は、
都内及び東京近郊にある、
その規模のコンサート・ホール情報を、
たくさん取り寄せ、

その中から、
良さそうな数カ所を選び、
吉沢さんと一緒に下見。

その結果、

残響その他、
いろんな条件にピッタリということで、

築地にある、
「 中央会館 」という古びたホールで
2日間興行をやることにしました。


さあ、今度は集客の問題。

当時の彼らは、

東京だと、
「 NHKホール 」(4,000人収容)2日間が、
あっという間に完売、

という人気でしたから、

通常のインフォメーションだと、
大混乱になるおそれがある。


そこで、

ファン・クラブ会員だけを対象に、

「 ハガキによる応募。
  抽選により、600人(2日間で)を無料招待。」

という形でいくことに。


そして、
コンサート内容は、
まったく通常のライブと同じやり方。

人気のある楽曲を中心に、
1時間40分のプログラムを組み、
MCもいつものような感じで、
2日間同じライブをやる。

それをそのまま録音。


お客さんは熱狂しましたねえ。


降って湧いたような企画。


彼らもいつも通り、
熱い、素晴らしい演奏を
繰り広げました。


さあ、今度は、

その中から、
ベストな楽曲、演奏を
7曲(だったかな?)選んで、
スタジオに持ち込み、

手直し、オーバー・ダビング一切無し。

拍手や歓声は全部消して!

一日一曲のペースで、
スタジオ録音のような緻密さで、

『 MIX DOWN(ミックス・ダウン)』

(この‘MIX DOWN’の説明は、
 過去ログ、「 ベナード・アイグナーの思い出 」
 を参照してください。)

をするのですが…。


やっぱり長くなってきましたねえ。

2回に分けましょう。

ということで、

次回をお楽しみに!


(まだ、だまてらさんの質問に、

 全然答えてないし。)



(つづく)



さあ、きょうは、

学芸大「 A'TRAIN 」

ライブ。


連ちゃんだ。


盛り上がりまっせえー。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 12:10|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)

February 17, 2007

カシオペア・デビューよもやま話  その2


くしゅん。

ぐしゅぐしゅ。


一昨年あたりから、
私もどうやら花粉症の仲間入り。

まだ2月だというのに…。

これも暖冬、
地球温暖化の影響でしょうか。


さてそんな中、

2/22(木)
「 代々木ナル 」にて、

とても興味深いライブをやります。


まずは、

最近知りあった、
素晴らしい若手ベーシスト、
佐藤有介君。

初めて見たとき、
「 ひょっとして、こいつは天才? 」
と思えたほどの逸材。

どうしても一度一緒にやってみたくて、
ママに頼んで、
めでたく競演と相成りました。


そしてヴォーカルは、

私の古くからの飲み仲間で、
美人の誉れ高き、
素敵なジャズ・シンガー、

ちゅうまけいこさんにお願い。

これまた公式の場では初競演。


これは、いったい
どんなライブになるんでしょうか?

大いに楽しみ。

興味津々。

わくわく…。


好奇心旺盛のかた、
ぜひいらして下さい。

ま、こんなことが出来るのも、

ジャズという音楽のなせるわざ!?



2004年04月11日 No.73
カシオペア・デビューよもやま話 その2


レコーディング半ばで職場放棄。

スキーによる骨折、入院という、
おバカなプロデューサー
の存在にもめげず、

カシオペアはなんとか1979年、
デビューを果たしました。


とはいえ、このデビュー盤。

彼らのライブの熱気に比べると、
なにか釈然としないものがある。

そこで私は急いで
もう一枚アルバムを作ることにしました。


そこへ、

JAL(日本航空)
『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
キャンペーンCM

の話が舞い込んできました。


チャンス!

私は、
リーダーの野呂一生(ギター)に、
一日でアレンジをするように言い、

本来日曜日で休みのはずの、
「 アルファ・スタジオ 」を
無理やり空けてもらって、

大慌てでレコーディング。


この速攻作戦が功を奏したのか、


めでたく採用と相成りました。


I Love NY
(シングル「 I LOVE NY 」のジャケット。レアもの?)


こうして、

この『 アイ・ラブ・ニューヨーク 』
が収められた、

『 SUPER FLIGHT 』

というセカンド・アルバムは、

当時のフュージョン物では破格の、
5万枚を突破するという、
セールスを記録したのです。

よかった、よかった。


Super Flight
(アルバム「 SUPER FLIGHT 」のジャケット)


ま、なんとかこれで、
無責任なデビュー時の失態は、
免れたのではないでしょうか。


その直後、
ドラマーが神保彰に代わり、

即座に出した『 サンダー・ライブ 』
というライブ・アルバムが、
「 AD-LIB 」その他の音楽専門誌で、
海外ミュージシャンの絶賛を浴びるようになり、

続く『 MAKE UP CITY 』というアルバムが、
アメリカのジャズ・チャートで、
7位にランク・イン。

名ドラマー、ハービー・メイソン
(かつて過去ログ、
 「 ベナード・アイグナーの思い出 」でもご紹介)
とのジョイント・ツアーで、
さらに実力をつけ、

次第に、
コンサート・チケットは、
いつも、あっという間に完売。

そして、どの会場でも、
熱狂的なファンが、
どんどん増えていく。


こうして、カシオペアは、
またたく間に、
押しも押されぬ人気バンドとして、
活躍していくことになるのですが、

この話を続けていくと、

これだけで楽に一年くらいは
かかってしまいそう。


ということで、

カシオペアには、

また時折ご登場を願うことにして、


スキーから始まった、
この長〜いお話にも、

ひとまずピリオドを打つことに

したいと思います。


そうそう、

そういえば、

先だってソニーから、

カシオペアの全アルバムが、
“オリジナル・ジャケット”で
CD発売になりました。
(くどいようですが、
 デビュー・アルバムだけは違います。)


その中で、

シングル盤ばかりを集めた

『 カシオペア・シングル・コレクション 』

なる物が、
新たに作られました。


その解説(ライナー・ノート)を、
不肖、この私が、
書いておりますので、

興味のお有りの方は、

ご覧下さいませ。


ちょっと恥ずかしい気もしますが…。




(感想 2007/2/17)


なにぶん昔のことですから、

その、
『 カシオペア・シングル・コレクション 』
の解説を書くにあたって、

当時の音を、
引っ張り出して聴いたり、
いろんなことを、
必死で思い出したりして、

これはこれで、

なかなか大変な作業でした。


足掛け10年にわたり、

20枚近いアルバムや、
おびただしい数のコンサートで、
一緒に仕事をしたカシオペア。


やはり、私のなかでは、
特別に感慨深い存在ですね。


そんなカシオペアの、
数多くのアルバムのなかで、
最も人気の高いもののひとつに、

『 MINT JAMS 』

というのがあります。


先日、
このブログのコメント欄に、

友人の「 だまてら 」氏から、
このアルバムに関する質問が、
寄せられておりました。


というわけで、次回は
「 番外編 」として、

この『 MINT JAMS 』制作秘話。

これを、
いってみたいと思います。


は、

はっ、


はっくしょ〜〜〜〜ん!


…….



SHUN MIYAZUMI

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February 13, 2007

カシオペア・デビューよもやま話


きのうの「 六本木 ALL OF ME CLUB 」
ピアノ・トリオ・ライブにお越しのみなさん、
歌手のみなさん、
演奏してくれたみなさん、

ありがとうございました。


休日なのに、
すご〜いお客さんの数でしたね。

びっくりしました。

みなさん、
ひとあし先に、
花見ですか?

ま、おかげさまで、
ノリノリで演奏することができました。

きょうは、指が痛いです…。


次回、このセッションは、
3/12(月)です。

3ヶ月ぶりに平日。



2004年03月16日 No.72
カシオペア・デビューよもやま話


1979年の正月スキーで、
ものの見事に骨折。

長い長い入院生活とリハビリを終え、
春爛漫の4月、

ようやく社会復帰を果たした私。


そんな私の帰りを、

とある新人バンドが、
心待ちにしてくれていたのです。


そのバンドの名は、


「 カシオペア 」


当時、
私が在籍していたアルファ・レコードでは、
「 フュージョン・ミュージック 」に、
やたら力を入れていました。


かつて、
このブログのエッセイでもご紹介した、

「 深町純&ニューヨーク・オールスターズ 」
「 渡辺香津美&ジェントル・ソウツ 」

の他にも、

ニューヨーク在住の才人「 横倉 豊 」
今は亡き名ギタリスト「 大村憲司 」

などなど、

ずいぶんいろんなアーティストがいましたね。


ま、とにかくこの会社は、
本当に新しもの好き。

そして、
私がこの手の音楽を、
好きだと思われていたのか、

アルファにおける
フュージョン・プロジェクトは、
ことごとく私が担当しておりました。


そんなアルファに、
ある日、
「 カシオペア 」というバンドのデモ・テープが
持ちこまれてきました。

いくつものレコード会社から断られて、
やってきたそうです。

アルファなら、
「 フュージョン・ミュージック 」に力を入れてるし、
商業的にも成功をおさめているし、
なんとか認めてもらえるのではないか。

ま、そんな期待をこめて、
来たのではないでしょうか。


ところが、
アルファの評価も、
それほど高いものではありませんでした。


なにぶん、若い。

オリジナリティーはありそうだが、
演奏が荒い。

でも、フュージョン物の流れのなかでは、
こういうのも一つくらいあってもいいのでは、
という程度の契約でなんとか成立。

プロ野球の世界でいうと、
「 ドラフト外入団 」「 契約金ゼロ 」
みたいな感じでしょうか。


ところが、

ライブを見て仰天!


ほとばしるエネルギー、
粗削りながらもハイ・テクニックの嵐。

そしてなによりも、

明るい!

しゃべりも面白く、
お客さんを楽しませるパフォーマンスは、
なかなかに大したもの。


そうそう、今思えば、

デビュー前の彼らは偉かったですよ。

ライブの前に渋谷駅前で、
自分たちで作ったチラシを配ったりしてました。

「 僕たちカシオペアというバンドです。
 今日ライブをやります。
 来て下さ〜い! 」

そのかいもなく、
渋谷の「Y」という、
安キャバレーの2階にある、
みすぼらしいライブ・ハウスに集まったお客は、

たったの5人…。


それでも頑張って演奏して、
自分たちで楽器を片付け、
3階の控室に戻ると、

泥棒が入って、
全員財布を盗まれている、

なんてこともありました。


そんな彼らに、
いつしか私は、
「 何とかこのバンドを応援してやりたい。」
という気持ちが芽ばえていったのです。


そんなカシオペアも、
無事デビューが決まり、

折しも来日していた名エンジニア、
アル・シュミットのサポートで、
とりあえず年内にリズム・トラックを録音、
残りは年が明けてから。

「 じゃあ、みんなよいお年を! 」
と別れて、

例の骨折騒動と相成ったわけです。


なんとも無責任なプロデューサー
がいたもんです。


この時の話は、

後に有名になった彼らが、
取材のたびに話すものですから、
その度に記事になり、
こちらはただ苦笑するのみ。

ははは。

仕方ありませんね。


それから、

ジャケットがまたひどかった。

ボンヤりした4人の写真の上に、
おびただしい数の錠剤(ピル)が。

「これでは、
 さわやかで溌剌とした彼らのイメージとは、
 ほど遠いではないですか。
 なんとか再販から、
 ジャケットを作り直して下さい。」

この直訴から、

私の仕事は再開です。


その直訴はめでたく取り上げられ、
その初版のレコードは姿を消し、

今市場にあるのは、
とりあえずこんな感じのもの。


Casiopea 1


作品も、
(私が言えた義理ではありませんが)
「 もっとポップに作れたはずだ 」

とここでも後悔の念。


ならば、
「 すぐに次を作ろう 」

と、

リーダーの野呂一生君をけしかけ、

次なるアルバム(スーパー・フライト)
の制作準備にとりかかったわけです。


というと、
聞こえはいいのですが、

今にして思えば、

さんざん迷惑をかけ、
失いかけた信用をとり戻そうと、


単に、


入れ込んでただけの話かも…。


(つづく)




(感想 2007/2/13)


その初版のカシオペアの
デビュー・アルバム。

「 薬漬けジャケット 」のカシオペア。

5000枚くらい市場に出たそうですが、
今やファンの人のなかでは、
ひょっとして、
貴重なものかもしれませんねえ。


うちには、あるのかなあ…?


さらに、
このアルバムには、

先日お亡くなりになった、
マイケル・ブレッカー(TS)氏や、
お兄さんのランディ・ブレッカー(TP)
それに、
デヴィッド・サンボーン(AS)

といった、

ニューヨークのスーパー・プレイヤーたちも、
参加されている。
(あとでダビングしたのでしょうが。)

こんなことも、

ちっとも知らなかった。


ほんと、

無責任だわ…。



SHUN MIYAZUMI

woodymiyazumi at 15:42|この記事のURLComments(5)TrackBack(0)